このところ、ミステリの界隈ではある作品の「ジャンルとしての」評価を巡って、なにやら細波が立っています。とある作家が、ジャンル評論家に対して矛先を向けているので、よくある「ジャンル戦争」的な様相とは少し違うはずなのですが、「部外者」から見るとどうしても「ジャンル」を巡っての戦いに見えてくるようです。
ジャンル、というのは創作をされない読者にとって言えば、読書の入り口にはなれど、読書体験の良し悪しそのものにはあまり関係がない、というひとがほとんどではないでしょうか。簡単に言えば「面白ければいい」というやつです。ところが、創作者や我々のようにあるジャンルの隆盛を願う人間にとって「面白ければいい」で思考停止するわけにはいきません。ある独特の味を持った創作物があって、それを広めたり、真似して再生産するためには「それのどこが面白いのか」を抽出し、ジャンルとして具現化させ、別の形でプレゼンテーションしなおすことを考える必要があると思うわけです。
僕ら選者はどちらかというと超短編のことを考えることが多いと思いますが、こと僕がこのジャンルの境界について考え直すきっかけとなったのは以下のようなみっつの出来事のためです。みなさんの考えるヒントになればと思い、紹介しましょう。
ひとつは怪談と超短編の境界です。
過日、bk1怪談大賞というネット書店での創作怪談での公募が行われ、『五〇〇文字の心臓』でもおなじみの不狼児さんの作品が、佳作などに選ばれています。以前、この欄で「超短編は怪談とは少しすれ違う部分がある」といったようなことを書いたのですが、入賞した不狼児さんの作品を見てみますと、これがどうも超短編のように見えて仕方がない。はて、と『五〇〇文字の心臓』で行われた『ホラー超短編』や、僕が募集させていただいた『モノノケ超短編』などを眺め直してみると、確かに怪談に寄り添ったものもある。これは創作怪談の間口の広さを僕が誤解していたのか、あるいは、超短編の可能性をまだ見くびっていたのか、少し自分の知見を改めなければと思った次第であります。
もうひとつは、現代詩と超短編の境界です。
これはトーナメントの選評の中で、僕の作品に対してとある方が「松本さんの今回の作品は、ともすれば現代詩に変換できてしまいそうな気がした」というコメントを頂いたことから考えるようになりました。なるほど、まさにそのとおりで、あらためて見直すと僕の作品にはそういう匂いを自分でも感じます。超短編というジャンルは柔軟さにおいてはかなりのものを擁していると思っておりますが、方や、現代詩というジャンルも同じようなたおやかさを持っているようです。境界線争い、となるといささか狭量にすぎますが、自分なりにその境界線が見えてこなければいけないのではないか、と思い始めた次第です。とはいえ、定めるのが簡単ではないことに、僕は現代詩のことを知らなすぎます。少し勉強をしなくてはいけないようです。
さて、最後は、寓話と超短編の境界です。
七月ごろにアウグスト・モンテロッソの『黒い羊 他』という作品集が出版されました。アウグスト・モンテロッソといえば、『恐竜』という作品で超短編の世界では有名な作家で、この作品集も短いものばかりが収録されていると言うことでたいへん期待をして購入しました。ところが、そこに書かれていたのは少し期待とは違うもので、僕にとって超短編とは見なせないものばかりなのでした。この作品集は「寓話集」なのです。日本には寓話、というジャンルそのものが自立していないように思えます。そのせいか「寓話として良い/悪い」という軸が僕には立てられず、かといってそれを超短編に持ち込むことも出来ず、なんとも宙ぶらりんの気分を味わいました。違いを語ろうにも寓話のほうに明確な背骨が確立できてないせいで、比較論にさえなりません。「ジャンル」に寄りかかることがいかに作品評価をやりやすくしているかを感じた次第です。
――ただ、上記のようなきっかけがあったとしても、僕が出来ることと言えば、実作と作品紹介を地道に重ねていくことだけなのでした。参加している皆さんも、自分の既存の作品を「この作品は現代詩として書いてみるとどうなるか」「この超短編を怪談にするには何処を直すか」という眼で見直すなど、少しジャンルを意識してみると意外な作品が生まれるかも知れません。また、そういうものが見つかりましたら、ご紹介いただければ幸いです。
最後にお詫びを。こと、自由題を楽しみにしていただいている方もいらっしゃるというのに、今回もまたたいへん作業が遅れてしまって申し訳ありません。これは僕の作業の遅れが原因であり、とりまとめ人である峯岸くんに非はないことを書き添えておきます(しかも、ご紹介できる作品が少ないことも重ねてお詫び申し上げます……ただ、上記のようなことを考えれば考えるほど、作品を拾い上げることにどうも慎重になりすぎてしまうようです。他の選者の時に再チャレンジしてみると僕の見落とした方向からの光を当てられるかも知れません)
捩じれ細工の子供たち : wizard
> 僕たちは妊娠した。その膨れた腹を突き出した格好は屈みに映し出されて、歪み
語り自体に捻れが見られていて、綻びのようで居て味のようでもある不思議な作品です。 これ、めいっぱい推敲して、魅力が無くなってしまったものも読んでみたいな、と思いました。
森の舌 : 雪雪
> 蜜を隠す森は収穫を忌避して後退し、霧に没する。焦燥を唸るセスナが三機、さ
これはまずタイトルが良いですね。乾いた自分の舌に触ってみるとイメージは簡単に裏切られ、ざらざらと他人行儀で無機質な存在であることにふと気づかされたりしますが「森の舌」がいったい何をしでかすのか、それだけで不吉な楽しみがあります。過剰演出気味の文章をたどっていくと幻のような兄妹が立ち現れ、ため息のような言葉の狭間で「森の舌」がざらりと蠢く。不気味さと心地よさのあわいをうまく描いた作品だと思います。
チョコレート
優等生的な超短編と言う感じでしょうか。まんなかの段で登場人物があふれかえっている様子が少し窮屈そうです。
憂鬱
非喫煙者は知らないことは、非喫煙者に想像できないようなことであって欲しかったです。
蝸牛の砂
ふんわりとしていい雰囲気なのですが、三つの断章で語ろうとしている構造がそのやわらかさを殺いでしまっているような気がしました。
別な空
ナンセンスで面白いですが、会話文が多すぎて薄められてしまった気がします。
操寮のセヰレヱン
文体に力がありますが、文体をかき分けてその中心を眺めてみると、意外にもどこかで見たようなお話だったのが残念です。
ガダ
これは超短編としては窮屈そうな印象を受けました。作品の外に広がるイメージを書き落としていくと、よい短編になりそうです。
カーサ、夜の庭で踊ろうじゃないか
ラテンアメリカ文学のような熱っぽいニュアンスが面白いのですが、超短編としてみるともう少し動きが欲しいかなと思いました。