楠秋哭(くすのき・しゅうこく) 作者:不狼児
およそ文藝の唯一の美徳は短き事であると僕は考へてゐる。
楠秋哭は刀剣鑑定士の家に生まれ、修行のかたわら俳人・小説家として数少ない作品を残す。大正7年(1918年)。海水浴で溺れた時はなんとか一命をとりとめたものの、3ヵ月後肺浮腫で死亡。享年21。遺稿集「懐古神」が友人・家族の手によって大正10年に刊行された。その作品は自らの言葉に殉じてどれも非常に短く、芭蕉の俳文に倣った紀行であったり、日記とも、小説とも、タイトルとも本文ともつかないような、
身も心も清めやうとした潔癖な男が沸騰する湯の中に飛び込んだ。肉は骨と離れて死の舞踏を踊つた。其な時代のお話だ。
市場の屋臺では鴉片を喰はせた三葉蟲を燒いて賣つてゐる。
や、
一袋貰ふ。鴉片は腕を?(もぎ)取られても痛くない上物。
群青の悪口。
や、
孑孑のやうに移ひゆく目の下の隈を色彩分析すれば彼女が身を焦がしていた欲望と紙一重に佇めやう。
や、
邑。母の刀の刃のかなた。
や、
お父さん。お仕事の具合はいかがでせうか。
父の血の實の熟るる頃。
であったりする。
見ての通りの断片ばかりだ。
遺稿集に収められた友人諸氏の追悼文とは見事なまでにそぐわない印象を与えている。
春 作者:はやみかつとし
いとしい人と手をつないで世界の果ての岬まで駆けていき、砂浜におりてそのまま二人ちゃぽんとうつ伏せで海に倒れ込んだ。
「きもちいいね」「うん」
何十年間もほてりつづけた体を持つ者同士だもの、あたりまえ。
全身の力がふうっと抜け、海水がしみわたっていく。体は水を含んで緩み、色が落ち、だんだん薄く平たくなって、切り紙の人形のように二人手をつないだまま波に乗り沖へ出る。
葬る人 作者:春都
娘を抱いて山道を登る。切り株が目につく。
小屋に着くと男が昼食をとっていた。娘を一瞥すると椀を置き、無言で入り口を示した。外で待つと口を拭いながら男が出てきた。小屋の裏手に導かれる。空き地になっている。林に囲まれる中、そこだけ空が見えた。
男が台車で木材を運んでくる。空き地の中央に組んでいく。しばらくして小ぶりの櫓ができた。額に汗を浮かべた男が振り返る。私は娘を上に乗せた。髪と着衣の乱れを直した。
離れるように指示すると、男は櫓に火をつけた。そしてこちらに歩いてくる。初めて男と目を合わせた。男は背後に立ち、私を両腕で抱え込み、抑えつけた。痛いと言っても力は緩まなかった。
火は櫓を上昇し、娘に達した。
私は娘に駆け寄ろうとし、抱きしめようとし、取り戻そうとする。しかし全て男に止められた。炎が娘を撫でていった。
「あれでは温度が低すぎる。表面しか焼けていない」
喉をからし尽くした私の代わりに男がつぶやいたのは、幾度も繰り返してきたのだろう、淀みない清冽な言葉だった。男と交わした会話はこれだけだった。
まだ燻る娘を抱いて山を降りた。切り株が目についた。私の腕は焼け爛れ、娘が刻印されていく。
到着 作者:雪雪
思春期の列車が、壮年の線路の上を運行してゆく。次の駅に向かっているのだが、駅とはなにかまだよく知らない。「8時21分に着かなければならない」ことは、なぜか知っているので、列車は「8時21分」が駅の名だと思っている。
つつがなく8時21分に到着する。列車はひとつ身震いをし、内蔵されていた軟らかくて可動部分の多い知的生命たちが自律的に、体側の各開口部から離脱してゆくのを見守る。かれらは列車に似ていない。脱線したまま駆動する。だから、あらゆる方向に進行することができる。
「脱線したまま生きるのは、どういう気分なんだろう?」そんなことを考えると列車はくらくらしてくる。サスペンションで、ぎしりと呻く。怖いもの見たさでかれらを追尾してゆきたくもあるが、発車しなければならない。それは硬度の高い規則。
次の駅8時26分に向けて、ゆっくりとホームを這い出る。
誰もがちがう径路を運行する。ちがうしるべを見据え、てんでに散ってゆく。しかしやがて列車が、8時26分に到着するそのとき、8時21分から散開していった誰もが例外なく8時26分に到着する。
ということにはまだ気付かないくらいに、おさない列車だった。
今日も、時間という線路を運行するものたちが、おなじ場所を目差して飛散する。音もなく常に、到着している。無数の、現在発現在行き上り普通列車が。
川まで散歩 作者:KOU
この日は朝からよく晴れていた。空気はすこし冷たかったが、それぐらいのほうがかえって気持ちが良く、部屋の掃除を終えてから、散歩にでかけた。
歩いていくと川が流れていて、河川敷が広がっている。土手には柔らかい草が生え揃っている。昼を過ぎていて河川敷では子どもが遊んでいる。ダンボールで土手をすべっているのだけど、最初はおそるおそるすべっていたが、慣れてからは頭を下に滑ったり、うつ伏せになって滑ったりして、大きな声で笑っている。
そういうのをぼんやり眺めながら酒が飲みたいなあと思っていると、都合よく酒があらわれた。それをゆっくりと飲んでいると、いくらでも飲めるようで、気がつくとたくさん飲んでいて、太陽の光もたっぷりと浴びたので、体がずいぶんと温まっていて、気がつくと自分は知らない動物になり、川の中にもぐっていた。川は思ったよりもずっと深かかったが、底のほうまでいくのはたいして力はいらなかった。また息をためる必要もなかった。そうして柔らかい泥の上に寝そべってみると、そこにはやわらか光がそそぐことがわかり、魚達はずいぶんいいところで暮らしているのだと思った。