500文字の心臓

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短さは蝶だ。短さは未来だ。

場のポータビリティ

 今回は《場》について書いてみたいと思います。さて、『500文字の心臓』というサイトには現在4パターンの《場》(=作品公開・選評の機会)があります。『タイトル競作』『自由題』『トーナメント』それから『企画もの』。このうち『企画もの』は不定期で、それぞれテーマも違うので、その内部にたくさんの《場》を孕む特殊なパターンですので、ひとまず置いておきましょう。しかし、そのほかの3つというのは、作品を書く/読む上でずいぶん手触りの違う作品を楽しめる《場》になっています(参加されていることは身をもってご存じかと思います)。これらの《場》について少し、考察してみましょう。

 まずもっとも回数を重ねている『タイトル競作』ですが、この競作ではタイトルの占めるウエイトが大きくなっています。以前タイトルについては書いたことがありますが、タイトルというのは作品の中で得意な位置にあるものですから、本文と適度な距離感を持っていて欲しいと僕は思っています。タイトルにマッチしているかどうか、という評価軸とは別に、このタイトルにすると本文にどんな影響があるのだろう(一見遠いように見えるが、あえてそこに結びつきを探るとどんな世界が見えるだろう)ということを考えるのも一つの楽しみです。書く側からしても同じで、タイトルからどのようにお話をふくらますか。そしてタイトルを突き放し、引き寄せるか、が腕の見せ所ではないでしょうか。

 さて次の『自由題』という競作ではテーマがありません。みなさんの日常や世界のありかたそのものがインプットになります。締め切りはありますがそれは選者の切り替わりにすぎません。納得のいかないものは納得のいくまで直す機会が得られますが、締め切りがないと往々にしていつまでたっても完成されないということもあります(逆に締め切りがあれば、書き手の気持ちが異常な集中を見せたときにすごい傑作が生まれることもあったりしますね)

 そして『トーナメント』競作です。先日行われたトーナメントでは春名トモコさんが二連覇を果たし、王者に輝きました。初回から血しょうまですばらしい戦いがいくつも見られたと思います。他の作品公開と異なって、トーナメントでは作者名が公開されます。作者名が公開されると言うことは、その作品は単独で自立するのではなく、その作者の勝ち上がってきた作品群、その作者が他にも作品を公開しているならば過去の作品群たちという文脈が発生します。選評をする側がいくら作品単体で評価を試みようとしても、すでにあるイメージを完全にないものとして作品だけを評価するというのは難しいことでしょう。
 トーナメントでは、書き手としても「一対一で相手の作品と対置された場合の効果」という不思議な縛りを受けることになります。これは普通の文学作品ではあまりありえません。せいぜい雑誌掲載や書籍の同時発売時に似たようなカテゴリの作家が並ぶ、といった程度ではないでしょうか。そういった長い作品ならばいったん相手の作品はさておいて作品の中に入っていけるかも知れませんし、だいいち、それらを読者が比較する必要はないのです。ところが、超短編は500文字、画面で言えば同じ画面に入ってしまう上に、それらを対置して評価することを初めから求められています。読者は相手の作品の陰をどこかに引きずって読み、評価することになります。たとえば、第二回のトーナメント、僕はタカスギシンタロさんと対戦しました。ここで、僕はタカスギさんを、タカスギさんは僕を作中に閉じこめました。二つの作品は互いに循環するような作品となり、読む人にとっては不思議な気分だったのではないでしょうか。僕もタカスギさんも半ばこれは予想しており、創作行為そのものが特殊な共犯関係とも言うべき、状態にありました。これは大変貴重で面白い体験でした。

 このように、超短編というのは500文字であるが故に非常に作品を外から縛る《場》にとっても極めて高いポータビリティを発揮します。たとえば、我々の原点でもある今は無き『超短編広場』というサイトでは三題噺や俳句の再解釈なんて言うテーマもありました。タイトルではなくテーマを与えられて書くという試みのひとつですね。作品のポータビリティは、作品を包む場のポータビリティでもあるわけです。この『500文字の心臓』では『企画もの』という形でそういった変わった《場》を用意してきましたが、これからもいろんな形の縛りや選評形式で競作が行われることと思います。書籍化の話も進行中、Web『超短編マッチ箱』もリニューアルしました。同人誌版の『超短編マッチ箱』も続刊が出す予定。超短編作品だけでなく《場》の深耕についても、いろいろ試していきたいなあと思っておりますのでなにとぞよろしくお願いします。

 さて、次は魔都にすむよっぱらいたなかなつみさんです。

選者:松本楽志 



掲載作品への評

西へ : 白縫いさや

>  四季の折々に極彩色の花を咲き散らす樹の下で少女は生まれた。

 ばらまかれた様々な色を持つイメージが《地図》によってセピア色に染め上げられ、ついにはモノクロームの世界へと収束します。それぞれが持っているイメージを上手く使って、広がりのある作品になっています。ただイメージをばらまいただけでは弱いのですが、これは最後の1行へ向かって作品世界が滑り落ちていくような印象を受けます。



雨 : 不狼児

>  取り外し式のペニスを外すとふしぎと心が落ちついた。

 ペニスというものはあまりにも直截なシンボルなのですが、そんなくっきりとしたシンボルが、後半にはいるとにわかに曖昧なイメージでしかない「雨」に変容してしまうところにおもしろみがあります。物語の広がりという意味ではまだ修正の余地はあると思いますが、言葉の持つ強さと作品の中での扱いのギャップ、それがこの作品です。



仰臥 : 雪雪

> あれは雲ではない、蓮だ。

 短い作品は一つ一つの言葉のウェイトが重く、このお話にはまだ言葉の端々にぎこちなさを感じました。しかし、最後の「仲間のところに帰るのだなおまえは」が妙に心に残ります。ずっと次点にしていたのですが、どうも気になって選んでしまいました。



掲載されていない作品への評

天賦

 言葉の使い方が上手く、たいへん面白いのですが、それ故に作品全体から受けるイメージが拡散しすぎているように思いました。



秋の炎

 なんでしょうこの作品は。まったくもって脈絡を失った作品ですが、どこか看過できないものを感じますね。読者をただむやみに混乱させるだけでなくその混乱を心地よいと感じさせるために、もう少し手がかりが欲しいところです。



時空のトラブル八千円

 ユニークなアイデアですが、そのアイデアを語るための言葉が足りない気がします。見たこともない世界を語るためには、それ相応の言葉による欺瞞で読者を煙に巻く必要があるでしょう。



恐怖の溶解人間

 非常に短編的な作品。タイトルのもつB級な印象とは裏腹に、丁寧な描写が光る作品です。しかし、やはり、これは短編的ではないでしょうか。もう少し長いものが読みたくなりました。



癌待ち

 最後の一行などそれだけで何か物語が始まりそうな魅力的なフレーズが多用されていて、作者の才能を感じさせる作品です。しかし、タイトルのわざとらしさを含めて、少し焦点がぼけてしまったような気がします。超短編にストーリィは必ずしも必要ではありませんが、この作品にはそう言うものがあったほうが良かったのかも知れません。



盆の暮れ

 内田百閒(けん)を思わせる不条理な掌編で、描写も上手く面白い作品です。しかし、僕にとって方向性が好みのために、どうしても評価が厳しくなってしまいます。まず、この短い作品の中程に横たわる一行空きの効果が強すぎます。短い作品においてこれだけの空虚は、あまりにも印象が強く、その白い畝を渡った我々は少なからず空白に満たされることでしょう。それから、後半。描写もエピソードも実によいのですが、最終的に行き着く1行が途中で透けて見えてしまいます。途中の奇想を最後まで保って欲しかったです。