500文字の心臓

トップ > 自由題競作 > 作品一覧 > 第31回:たなかなつみ選


短さは蝶だ。短さは未来だ。

[優秀作品]水系 作者:はやみかつとし

 宵闇を抜け、黒光りする水面がたゆたうのを越えて懐かしい水田の村に戻ると、叔父たちの住んでいた家は床すれすれまで水に浸かっていた。十畳ばかりの寝室はほんの僅かに傾いで、四枚並べて敷いてある布団の一番向うはもう水没しかけていたが、その部屋に祖父が何事もないように床の間に背を向け、裸電球一つ点して座っていた。この慢性的な増水で水没するのが確実だったこの家に、叔父たちに代わって留まっているのだ。祖父は「区長」だったから、その責任感もあったのかもしれない。床の間の上には「区長」になりたての頃の祖父の、セピアがかった写真が額に入って飾られている。
 祖父が私のほうを見やるので、一番手前の布団だけは、端が少し水にかかってはいるものの、まだ大丈夫だとわかる。このくらいならあと数晩はしのげるだろう。横になり、枕に耳をつけると、ゆっくりと寄せて返す水の鼓動が伝わってくる。



ろくでなし 作者:山田

夢の中で、そのしなやかな手をつかみ損ねた僕は、一人淋しく朝を迎えた。

ほの暗い部屋の片隅には、何度も洗濯を重ねて色が褪せて擦り切れた晴れ着だけが、世界の秩序のように皺一つなく衣文賭けにぶら下がっている。目覚めて、最初に視界に飛び込んでくる位置にかけられたそれは、学生のころ、非常に感銘を受けた作家の影響で、世界の終わりに着るためになけなしの金を叩いて作ってもらったたゴシックな僕の一張羅である。誰もいなくなってからは、まるで普段着のようになってしまったのだけれど、それでも別に構わない。この世の最後を迎えるときには、せっかくならば、この服を着て、一服しながら終わりたいのだから。
父さん、母さん、世界の皆さん。黄色のキャスターマイルドの吸殻が世界を埋め尽くすのと、僕の肺が病むのとどちらが先になるのでしょうね。それじゃなくても、こんな世界の終わりは厭でしたよね。咽るような咳をしたら、少しだけ涙が出た。昨日、なんとなく手を出してみたセブンスターのせいじゃあない。
一日が始まったのだから、そろそろカーテンを開けなくては。太陽は既に昇っているはずなのだから。世界中から、人という人がある日突然姿を消してしまっても、僕はこうして機能している。さあ、今日の分のキャスターマイルドを買いに行こう。自分に言い聞かせるように、大きく大きく声を出す。
床の上には、タバコの空き箱が散乱していて、一歩踏み出すごとに透明なパッケージと空き箱が足の裏にまとわりつく。

カーテンの外では、時間の止まった灰色の景色が変わることなくそこにある。今日も空だけが嘘に塗りたくられていて、ひどく青くて目にしみるのだろう。



シラフ 作者:脳内亭

 いつの間にやら眠っていたらしい。ぐっしょりと寝汗を書いている。左手が痺れている。頭もぼーっとしている。ああ、飯食ってないや、そういえば。
 そう想いながら、起き抜けの習慣で煙草に火を点け、一服。と、煙草を挟むその左手を、よく見ると、妙だった。
 指が五本だ。
 ばっと勢い鏡を覗き込む。
 目が二つ。
 鼻が一つ。
 口が一つ。
 血の気が引いた。
 僕が僕になっている。



詠訣の靴 作者:脳内亭

 爪先と踵の共にトガった靴をである。華やかな鮮血を伴った彼の死因は、愛の全うを試みての偏食及び帝王切開であった。
 生前の彼の振舞い、彼の思慮、彼の美については、私が長々と述べずとも、彼自身の言を以て足りようと思われるので、ここに記す。

 「貴方よ。眩しき彩りの内に泥然なる餡を企む菓子の如くに、救い難く張り詰め、軋む甘美よ。誠に惜しむべきは其のふしだらな翳り。願わくば、甘を退け、苦の内に美を食み、孕み、産まん事を。つまりは、唯美たる貴方の化身を食し、唯美の化身たりし貴方を産まん事を」

 後に残された爪先と踵の共にトガった靴に(彼が決行の直前にそうした様に)私はくちづけをし、肅々と履くに及んだ。難点は片方しか無い事だが、敢えてその奇異な心地を気には留めずに、地を削りよたり歩いた。彼の行いは無念にも不本意だ。きずつく裸足にくちづけを施してくれる良き人を、見つけねばならない。
 つと振り返り、見ると、点々と続く靴跡は谷折りの様で、さながら地は壁となり立ち塞がる。添う様に並ぶ、でこぼこな足跡は誰が主であると問う。あわれ泥だらけの片端の化け物の、未練の名残であると云う。