500文字の心臓

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短さは蝶だ。短さは未来だ。

1st Match / 君の隣には

赤コーナ : 水池亘

「この人が私の彼氏だよ」
 そう言って彼女が訪れた時、僕は何を言っているのか良くわからなかった。

 すべてを悟るのに一時間かかった。

 今日も彼女は「彼氏」と一緒に僕の部屋へ現れる。
「ほら、あーんして」
 彼女はカップからアイスをすくうと木のスプーンを隣の虚空へ差し出す。溶けたアイスが滑り落ちてべちゃりと床を汚す。
 わかっている。これは罰だ。
 僕には絶対に見ることの出来ない、彼女だけの「彼氏」。僕なんかより遥かに彼女にふさわしいに違いない「彼氏」。その存在を僕は受け入れなければいけない。
 それでも。
「おいしいねー」
 本当に嬉しそうに隣の「彼氏」へ微笑む彼女を見て、僕は呻き声を漏らさずにはいられない。

青コーナ : 銭屋龍一

 窓を締め切っていても雨の匂いは部屋の中にまで忍び込んでくる。

 目を閉じる。僕は霧雨の中に立っている。赤いパラソルが揺れている。
 あの坂道でいつも君と待ち合わせをした。君は元気なときには必ず赤いパラソルをさして現れた。だから赤いパラソルはしあわせのメロディーを奏で続けている。
 坂から見下ろした海は水平線までの間に外国航路の貨物船を何隻も見ることができた。
 僕はまだ行ったこともない国の話をする。君は興味深げにその話を聞いてくれる。
 君の笑い声は僕の心の深いところを心地良く揺さぶってくる。

 愛を知った分だけ孤独は深くなった。
 幾つも幾つもの季節が過ぎ去った。
 君は誰よりもなつかしい人になった。

 僕を愛したように今君は他の誰かを同じように愛しているのだろう。
 そこにいる顔のない人物に僕は嫉妬と深い悲しみを抱いてしまう。
 そしてそれはたぶん死ぬまで変わらないだろう。

 雨の季節は少しだけあの頃に近い。



2nd Match / 絶対解

赤コーナ : マンジュ

 娘たちはみな裸で、左右どちらかの小陰唇に焼き鏝で数字を刻まれている。窓のない四角い部屋に何人もいっぺんに押しこめられ、体を堅く閉じ蹲っている。互いの呼吸は近く、触れ合った肌は汗ばむほどなのに震えはやまない。裸電球に飛びこんだ虫が落ちて死ぬ。
 その男には揺るぎない地位と財力があり、誰も知らない秘められた館で娘たちを代わる代わるいたぶることを享楽としていた。娘たちは男を満足させられればその日一日を無事にやり過ごし少ない飯にありつくことが出来たし、そうでなければその場で命を落とす。
 娘たちはかつてにぎやかな町で愛され、育った。親がありきょうだいがあり恋人があり、鮮やかな日々があった。今や娘たちには死のにおいの色濃い澱んだ日々しかない。
 一日の終わり、薄べったい毛布にくるまりながら娘たちは繰り返し同じ夢を見る。いつか、愛した男が自分を救いだしてくれること。顔立ちも年齢もさまざまだろう、故郷も生い立ちもさまざまだろう。ただひとつたしかなのは、どの男も、娘を守り抜くための逞しい腕を持っている。

青コーナ : 影山影司

  江戸城の中庭にて忍装束に身を包み、構える者二人あり。闇夜黒装束の中で、眼のみ灼け爛々と光る。
 短刀を構える上忍の名を角牛刀の絶と言い、それに対するは両腕に縄を巻いた糸色の解。
 両者、五体満足で生き残る算段は無い。最悪互い死、最善で手足の一本も失おうと覚悟を決めていた。
 その様子を眼鏡越しに眺める大名達が卑秘と笑う。そして始まる見せ物試合、絶対解。

 縮地にて接近。緊迫して構え、牽制、構え退き、牽制。錬磨と経験を繰り返した神経が、数十手後を予見し合う。

 実力は拮抗。

 否。読み合いを百幾らか繰り返した後、筋骨に一回りの利がある絶が、豪腕を振るうて刀をねじ込んだ。解の忍具「絡糸」が絶の腕、刀をギリリと握る。皮膚が裂け、肉が千切れても構わぬと、絶は力を込めた。刹那、三十六手後の死を感じ、解の顔から血の気が失せる。

「兄貴、死にとうない」

 不覚、絶の覚悟が淀んだ。
 反射、解の本能が躰を突き動かす。絡糸が牛角刀をペキリとへし折る。
 続行、絶は全身を絡み取られ、
「そうじゃの」
 とだけ言い残し、バラバラに解体されて息絶えた。 



 その後の解の行方は誰にも解らぬ。



3rd Match / 虹の歩幅

赤コーナ : 松本楽志

 ふらついた犬が村なかを歩く。よくよく見れば、右手左脚を出すとき、また、左手右脚を出すとき、その傍らを素早くよぎるものがある。その歩みを写し取ろうとするかのように寄り添う影がある。しかし、その影はただむやみに細長く、複写とも模写ともほど遠い様子であった。やがて犬は脚をもつれさせて斃れた。息絶えたのは村長有する広大な休耕地のただ中である。犬の死骸が土に還るにつれ、土地は陥没し、ついに巨大な穴が現れた。当面使う予定のない土地故、村長が穴を埋めかねているうちに穴を見るために旅人が数多く訪れるようになった。虹の根もとにあるなにかを求めて来たと言うが、その立ち振る舞いが悉く軽薄でまったく信用がならない者ばかりである。やがて礼を失した旅人が穴をさらに掘り進む始末。村人が集い、旅人を罰しようとするその最中、穴の中から無数の影が湧き出す。影は連なって長く長く伸び、その連続さを恥じるそぶりで消えた。それを見た村人は、その日から歩みがぎこちなくなってしまう。どうもどこかへ向かって調整されている気がしてならない。だが、その調整が終わるまえに、戦争が起きて村は消えてしまった。

青コーナ : はやみかつとし

 この円い遠浅の入江に棲む七色のアメフラシは、雨が上がるとその体内に光が点り、天空いっぱいにざらついたミラーボールのような虹を投射する。
 だからおまえは、水に足を踏み入れるときは気を付けなくてはならない。それを脅かさないように、ゆるやかに波打つ水面を透かして白い砂地に目を凝らしながら歩く。すると、不意にそれは足元で輝いたのだった。揺らめきながら体の前半分を撫でるように拡がる光におまえは一瞬、空に架かった虹をまるごと跨いだような気がして、誇らしくなる。だがそれきり入江には暫く晴れ間が覗かなくなった。燻るような弱い雨がいつまでも続き、おまえは青空を盗んでしまったのではないかと畏れて無口になってしまう。
 そんなことがあったのを、おまえはやがて忘れてしまう。遠い年月の先のある日、子供が浅瀬にしぶきを上げて虹を追うのを眺めながら、ふいに自分はあの虹のたもとまで行けたことがあったような気がするが、かぶりを振って心地よい眠気のなかに戻るともう別のことを考えている。



4th Match / 壊れたメトロノーム

赤コーナ : よもぎ

放課後の誰もいない音楽室が好きだった。
ピアノのふたを開けると、ホコリっぽい西日にカーテンが揺れた。ひとつ覚えのサテンドール。楽譜を見ながら弾いていると、ン・パン・ン・パンと手拍子の音がした。手を止めて振り向いた。見慣れない男子が微笑んで立っていた。「お上手ですね。どうぞ続けて」 優し気な瞳にそう言われて悪い気はしなかった。気のないふりをしながら、またピアノに向かう。彼は曲に合わせてオフ・ビートで手を叩いてくれた。弾むリズムにサテンドールが軽やかにスウィングする。ブルーノートが気持ちよくメロディを踊らせた。テーマを繰り返す手を止めることができず、いつまでもいつまでも私はピアノを弾き続け、弾き続け・・・。
気がつくと私は鍵盤に顔を伏せて気を失っていた。彼はいなかった。ピアノの端にそれがぽつんと置いてあるきりだった。手にとってゼンマイを巻く。針がゆっくり右から左に揺れて一度だけチンと鳴った。そしてもう二度と動かなかった。

青コーナ : 根多加良

 しゃべりたかった。だけどしゃべらなければよかった。いつも言葉は思いには届かなくて。気持ちを言葉に出せなくて。ふたりでいたのに、ひとりでしゃべっていた。しゃべることだけしかできなくて、話されることにはなれていなくて、探して選んで探っていたり。教えたり教わったりするおしゃべりのしかたをどうやればいいのか考えたり。考えているとそれまでのことを忘れたりして。
 なにをしゃべろう、あれをしゃべろう、いましゃべっているよ。
 日曜日の夜、ぽっこりとした満月の下で交わした楽しいおしゃべりは、口の端からこぼれて、土に落っこちてくぼみのなかで溜まっていく。やがてくぼみから溢れ出す、おしゃべりは流れを空に昇ることも許されずに遮られて、息苦しく喘いでいる。
 どれもひとつのおしゃべりにならずに、どれもこれもテンポだけの、断片ばかり。どのおしゃべりにも繋がっていないおしゃべり。まとまらずにぷりんと弾いた。あらら、脂?
 弾かれたおしゃべりが地面に吸われていく。だからすべてが帰って、やり直し。

 残されたものは月。
 消えていくものは太陽。
 あとはまっくら闇。
 ひそひそ声でそうぞうする。



5th Match / 赤い箱

赤コーナ : 脳内亭

 すべて、止まれ。に染まる世界を、カレーのにおい背に駆けていく。長い長いしっぽのような影ふむ道。
 見上げれば、平らな空に、一点、くぼんだ雲があるとわかる。急ごう。
 声を聞いたんだ。
 四つ角で図らず迷う。足も止まれば、耳元で風の甘いささやき。しっぽの先がトガる。なびくのか? 成長を恐れないと言えば嘘になる。だけどおれ、だけどおれは。
 正義の味方まっすぐに。
 辛くも着いた公園には、ジャングルジムの飛行機。さあ乗りこめ、鍵となって、あの空のイビツに突っこんで、回せ。
 声を聞いたんだ。
 夕暮れに閉じこめられた、夜が泣いている。
 泣かしてんじゃねえ。

青コーナ : キセン

 針金の上での直立に似た不安定な眠りのなか、あなたは何かが喉をせりあがってくるのを感じる。ん、と思うと次の瞬間にそれは猛烈な勢いで口のなかにあふれ出る。あなたは何がなんだかわからないまま必死で唇を閉じているが、途切れなく上ってくるそれに長く耐えられそうにない。それでも耐えていると鼻から噴き出る。吐瀉物は鼻から出ないだろう。あなたはそれが血であることを知る。そして自分が死ぬことをも。残された時間はほとんどない。とうとう閉じた唇の端から血がだらだらと流れ落ちる。あなたは失禁したかのような恥ずかしさを覚える。急に力が入らなくなり、ぼんやりと唇が開く。意外なほど長い時間血液が飛散する。あなたは吐血する自分をぼんやりと眺める。意識が痺れる。布団も枕も真っ赤に染まっていく。ふと、開いた掌の上に何かが落ちるのを感じ、視線を向ける。箱だ。もとは別の色だったのかもしれないが、すでに血の色に染まっている。あなたはそれを見て、そのなかには生が入っているのだという確信を得る。自分が吐き出したあの箱のなかには、わずかに残された生が入っているのだと。あなたはその箱を残された力を使って開ける。
 あなたは七秒後に死んだ。



6th Match / ひからびさん

赤コーナ : 雪雪

ピンクひからびさんのカップにお湯を注いで三分。自分で蓋を押し上げ「御用ですかー?」あどけなく尋ねるあつあつのひからびさんに、娘への伝言を頼む。真剣に聴き入る表情は、ごく小さいのに遠くはないので、奇妙にあざやか。
人肌くらいに冷めるのを待って、どっこいしょとテーブルに片足を乗せて、股ぐらを差し出す。「毛はまとめて掴んでね、痛いから」「あいよっ」ひからびさんは外陰部に取り付き陰唇を掻き分けて高窓から忍び入る忍者みたいにするりと潜り込む。産道を滑らかに遡行して子宮に到達したのがわかる。しばらくもぞもぞして反転。「ぷはー」と言って出てくるところを掌で受け止める。「あなたが最初のお友達よ」「てへへ、羊膜越しでもべっぴんさんでしたよー」ひからびさんは暗視が利くのだ。
翌朝、どぶ臭い水の染みがテーブルまで続いていて、ピンクひからびさんの姿がない。脱走ひからびさんの地下組織に誘拐されたにちがいない。
救助隊を編成せねばならない。
迷彩ひからびさんのカップを三個用意してお湯を注ぐ。注ぎ終わりの時間差そのまま、三分きっかりに迷彩ひからびさんはびしっと蓋を跳ね上げ敬礼する。敬礼する。敬礼する。

青コーナ : 赤井都

 投薬ミスで大変だったそうよ。そんなふうに呼んじゃ悪いわ。そう203号室のオカモリさんは言った。
 いいのよ。子どもが生まれたら、親は遺伝的にはもう用無しなんだから、ひどい話でもなんでもないわ。301号室のユウヨさんは、いつもながら理屈っぽい。
 あはは。私は笑ってごみを置いて、部屋へ戻った。
 ベランダで洗濯物を干していると、下の公園にひからびさんが出ていた。あんなにみっともなくなっちゃって、家に隠れてればいいのに。
 でもひからびさんは、朝の太陽の下、ベビーカーを押して、砂場の周りをゆっくりゆっくり歩いていた。
 ひからびさんの子どもは、すぐに大きくなった。ひからびさんはいっそう痩せしなび、とても私と同い年とは思えない。事情を知らない人が見たら、祖母、いや曾祖母かと思うだろう。
 毎日、洗濯物を干しながら、下の公園を見る。なぜか気になって、見てしまう。朝日を浴びて、ひからびさんはいっそう黒ずんで見える。子どもが走り回っている。あ、転んだ。ひからびさんはベンチに座ったまま笑っている。昨日も笑っていた。私はシーツを、ぱんぱん、と引っ張って干す。今日もひからびさん、笑っている。



7th Match / あふれる

赤コーナ :

どっくんどっくん、吹き出る沸き出す艶やかな色。幾筋もの流れをつくる。次から次から出るにつれ、床の上の小さな池がゆるゆる広がる。床と液面の境界曲線は、見る間に形を変えていく。
あたしも薄々そんな気がしてたのよ。こらえてこらえてこらえたものは、いつかやっぱりこらえきれずに出てきちゃうんだって。
知らなかったのは、超えてしまった後のこと。いつ来るか、いつそうなるかと怯えてた時に比べたら、そうなっちゃった後は穏やかなもの。掌に残る感触も、今は一仕事終えた清々しさだけ。うまいこと決まったよね、とか。スマッシュヒットってやつだよね、とか。
でもこれ、片付けないといけないよね。ほっておいたらたらきっとすぐ臭いはじめるし。
だけど、滅多にないことだし。折角だし。もうちょっとだけ。
見慣れた床が見慣れない色に染まる様を、あたしは無心に眺め続ける。

青コーナ : 砂場

容量を越えて満ち、こぼれること。「風呂はアヒルさんで──れていた」「遊び心に──れていればいいってものでもない」「二十八世紀、人類は次元・時空間移動技術を手に入れたが、同時に未知の敵《──れる》を発掘」「ヒッ」

「ばかっ、変な文字入れるなよ。見つかるだろ」
「悪かったけど……何言い出すんだよ、あんた。つか、なんでど真ん中な単語に逃げ込んでるんだよ、俺らは」
「灯台下暗し。ついでに前の人たちに警告しとこうかと思ってな」
「誰があの用例、本気にするかよ。ただもう怪し過ぎるってだけだって。つか、あんた、歴史に干渉するなよな」
「ふふん。誰が本気にするかよ」
「後で本部に削除されるのがオチだと思うけど。つか、いつ帰れるんだよ、俺らは。あいつどこまで行ったんだよ……」
「もう捕まってて、──れさせられてたりして」
「うるさいよ、おっさん」
ピィィィィィィィィ!
「うわっ、見つかった」
「読まれてたらしいな」
「つか、あんたのせいだな、あんたの変な用例」
「『ヒッ』の方が変だろ」
「くそ。──れるなんてごめんだっ。……あ? おい待て、おっさん、俺を置いてくなよっ。怖いだろ。ううわ、俺こんな訳わかんないのもうい(500文字)



8th Match / ナマコ式

赤コーナ : まつじ

 博士博士どこに行ったんですか、と探す彼はまもなく腰を抜かすことになるのだった。
 一個の生物を数式で完全に表現するのだという博士は自らの研究について、ちょっとした芸術みたいだワハハと笑いながら話した。
 それにしたって何故こんなものを、と思うけれど
「だって好きなんだもの。」
 と言われれば仕方がない。
「体のほとんどがね、水とコラーゲンで出来てるんだ。旨いし、肌にもいいよう。」
 食べながら語る姿も懐かしく、今となっては全身これコラーゲンと化した博士を水槽の外から眺めるばかり、何か惹かれるのだよなあ、ああいうふうに暮らしたいなあという願い叶って幸せなんだろうか。
 世間では研究室を飛び出した数式が町をゆっくりと這いずりニュースを騒がせている。触れたものは即感染、博士同様煮こごり状、軽度の場合でも生活がそれらしくなる等の症状を引き起こすという。
 すべての責任が助手である彼に押し付けられ疲れるが、研究自体にはほとんど関わっていなかったのでどうしたものか、なんとなく博士の世話をしていると、先日トゲに触れた指先が寒天のようになっている。
 あ。
「まいったなあ。」
 うるさいテレビの音が遠のく。
 博士と、黒い塊がのっぺり動いた。

青コーナ : 青島さかな

 七夕にナマコは月を目指す。
 空に一番近い浅瀬に集合した世界中のナマコたち。黒も青も赤もみんな夕焼け色に染まり、空に昇る準備をする。ひしひしと身を震わせる余白もない海岸で、けれどまだまだナマコたちはあちらこちらから集まってくる。ついにナマコたちはナマコたちを踏み台にし、自らの背を次のナマコたちへ譲りはじめる。そうして次のナマコたちはその次のナマコたちに背を譲り、うずたかく積み重なりながら、ゆっくりとゆっくりと月を目指す。
 柔らかいナマコでできた塔は安定からは程遠いところにあって、ゆらゆらと揺れている。大きく揺れるたびにぱらぱらとナマコたちが剥がれ墜ちて、ぱしゃんと音を立てて海に弾かれる。それは空に憧れた罰を受けているように海の上で溶けていくのだけれど、そんな姿になってもなお月を目指そうと塔に近付いていく。けれど溶けたままでは高くは登れない。硬いナマコたちは上を目指し、墜ちて、柔らかくなる。
 すべてのナマコがたゆんと溶けた頃には、夜空に天の川が鮮やかに棚引いている。



9th Match / 文鳥のこころ

赤コーナ : 春名トモコ

 五歳上の従兄は、縁側に置かれた籠の中の文鳥ばかり気にしている。何が楽しいのか、その鳥は一日じゅう歌い続けていた。高く転がる声は、姉の、小さいけれど涼やかに響いた笑い声を思い起こさせる。
 二週間前。いつも俯いてひっそりと微笑んでいた姉は、突然死んでしまった。「鳥籠の鳥には死者の魂が宿るそうよ」と、亡くなる数日前に言っていた。
「惣一にいさん」
 強く呼びかけて、ようやく従兄は私が問題を解き終わったことに気づいた。大学に通う為にうちに居候している従兄に時々勉強を見てもらっている。座卓の向かいで採点をしている従兄を見つめた。こちらの視線に少しも気づかない。この前まであんなに私の唇や首筋を意識していたのに。もう少しだったのだ。なのに何もかも台無しになってしまった。
 おとなしく、控えめで、誰よりも計算高かった姉が死を選んだ理由。すべて姉の思惑どおりになった。従兄は文鳥に姉を重ねて見ている。魂が宿るなんてそんな作り話、私は信じていない。けれど、従兄の肩で見せつけるように高らかに囀り、私の指には鋭く噛みつくこの鳥には、本当に姉が乗り移っているのではないかと思う時がある。
 忌々しいこの鳥を食い殺してやりたい。

青コーナ : 瀬川潮♭

 彼の脳裏に幸せだった日々が蘇る。
 屋根より高い空が見える窓を訪れたこと。赤が好きだった一人暮らしの女に飼われたこと。彼女の両手の中で水を浴び、眼鏡の上に乗ってじゃれたこと。たまに遊びに来る男どもを片っ端からくちばしでつついたこと。文さんと呼ばれ、たくさんの餌と笑顔、何より愛をくれたこと。赤い唇が良く動き、しゃべって、笑って、歌って。自らも精一杯真似して動いて、さえずって、歌って。そして、赤い目で泣いていた彼女を慰めようとした時、自身の体が人間の姿になったこと。
 彼女は、彼の涼しい顔が好きでよく撫でた。
 それなのに別の男たちを愛し続けた。
 もともと小さかった彼は、大きな体の大きな心の隙間を埋めるため自分で自分を慰めた。男が代わるたび、何度も何度も。彼女の視線を感じながら、何人もの自分で。
 やがて心に隙間が無くなった。仕方なく、彼は失ったくちばしの代わりに包丁で男をつついた。勢いで彼女もつついた。声にならない声を赤い唇から発していた。
 だから、屋根より高い空が見える窓を開けて叫ぶ。
 だが声にならない。静かな空に向かって、彼の口から白い文鳥がばさばさと飛び立っていった。
 何羽も、何羽も。



10th Match / バニシングモーテル

赤コーナ : sleepdog

 宵闇の二番星に牽かれ、沿道の標識に目もくれず、二人はただカーステレオに身をひたし、長い道のりを駈けていく。今夜のために彼女は新しい夏服をまとい、遥かな淵からやって来た。果てしなく天に横たわる河は、時を得てティアラのように輝いて、照り返す河面の銀が小さな車影を明るく染める。
 やがてすべてを置き去ると、河のほとりに黄色いネオンがぽつんと見えた。野暮ったい看板はいつまでも変わらない。車を停め、砂利を踏み、手を取って一室へと迷い込む。彼女のスカートは淡い光の尾を引いて、ぽろぽろとアステロイドの欠片をこぼす。言葉などない。覚悟はもう決まっていた。
 後ろ手にドアを閉ざす。
 星の子として生まれた二人には、侵してはならない絶対の誓約があった。けれど今、彼らのくちづけは唇から先へと伝い、指先は互いの秘密を赦し合う。これを導き入れたとき、一粒の雫さえも残らないだろう。全部わかっていながら、二人は鼻頭をすりあわせ、ほんの一瞬、あどけない笑みを取り戻す。
 周囲の六面はすべて失せ、際限のない紺碧に包まれる。
 彼女が二三歩退いて合図する。抱きとめようと手を伸ばせば、終焉の夜風が心地よく胸の奥まで沁みわたった。

青コーナ : 黒衣

 車もなかったのに、一度そういうところに泊まったことがある。
 ゼミ合宿の帰りだった。夕方からの大雨で、共同発表した友人と二人、山奥の小さな駅で足止めとなってしまった。
 半泣きの友人を励まし、県道沿いをめちゃくちゃに歩いて、やっと見つけたのがそのピンクとブルーのネオン看板だったというわけだ。フロントも何も分からずに、一室に転がり込んだ。
 他に客の気配はなく、部屋の赤絨毯は毛羽立ち、カーテンの白はベージュになっていた。風呂場はむやみに広くて、クレゾールの臭いがした。ほこりっぽくはなかった。
 風呂と屋根があるだけ幸いと一泊して、翌朝。雨もやみ、出発しようと玄関に行くと、ドア下の隙間に小さな紙が差し込まれていた。綺麗なカードに見事なペン字が書き付けられていた。
 「あなた方が最後のお客様です。ながい間、皆様の愛と欲望を喰べ、夢と憩いの時を差し上げてきた当館も、競争に敗れ、その役目を終える時を迎えました。お代は結構です。ありがとうございました。マヨヒガ・イン支配人」
 結婚した後に車でその辺りを通ったが、もうマヨヒガの跡形も無かった。
 手元に残ったのは、その時の泣き虫な友人が、今は我が夫だという珍現象だけだ。



11th Match / 泳ぐ空

赤コーナ : 峯岸

 天女が花を投げる。馥郁たる花散る午後、まだら雲の西へ流れるを見て諍う二人がある。曰く「雲は空を泳いでいるのである」、曰く「空の泳ぎに雲が押されているのである」。二人の体に触れたる花はぴたり吸い付き、いっかな手で振り落とそうとするもままならぬ。
 掛かる折り一人の僧が通りすがる。しかるにこの僧に於いて花はただ掠めるばかりにして花粉の一粒さえその体に喰らい付くを避ける。これは霊妙である。二人は道理を訊ねずばおられない。僧は「花を花と思い込むが故に花とした処で離れられぬのである」などと返す。今一つ判らぬまでも二人は甚く有り難がり、次いで件の問答をば僧に聞き糺す。
「互いに誤りである。互いの心が泳いでいるのみ」またもや合点がいかぬものの二人は感服しきり、大いに頷いて見せる。しかして花が舞い上がれば三人そっくり花みどろ。いよいよ打ち払おうとしたとて相叶わぬ。
 俄に陽が翳り夥しい鰯が降り注ぐ。鰯は地面にて爆ぜ、明にさやぎ耳を聾する。誰しも頭を抱え這々の体で逃げ散る。一頻り降り積もれば四囲は累々たる血肉で漲り、傷み掛けの生臭さに早くも蝿が集り出す。見上げれば一切が空。天女も雲も何処へか消え失せている。

青コーナ : 不狼児

 こんにちは。おまわりさん。駐車違反はしてないので、僕は悪びれず声をかける。返事がないのは、別に偉ぶっているわけじゃない。婦警さんの心配そうな眼差しを追って空を見上げると。
 あ、挽き肉。
 と思ったら雲だ。
 まだらに赤く隆起して、渦を巻いた雲だ。
 真ん中に開いた青空から、巨大な何かが落ちてくる。
 ぐんぐんと大きくなる。
 巨人だ。太古の戦争の犠牲者だろうか。途方もなくでかい。挽き肉の雲の数百倍はあるだろう。と見るとまた別のものが目に入った。
 何かいる。
 遠近法が狂ったように、落ちてくる巨人の手前に小さく。
 僕の三十メートルほど上空を、一心不乱に泳ぐ人がいる。海水パンツ一丁で、空気をつかみ、脚をバタつかせ、竜巻のように泳いでゆく。
 ぶつかる、と思った。
 避けられまい。どんなに速く泳いでも。落下物はあまりに大きい。泳ぐ人は物凄い圧力に煽られて雲散霧消。次の瞬間、大地はひび割れ、陥没し、衝撃波は地面を深くえぐって、樹木は倒れ、湖の底が抜け、すべての都市は崩壊するだろう。
 僕は蚤になって、婦警さんに跳びついた。布がはためく。衣更えしたばかりの制服は樟脳よりも強く、犯罪者たちの血と肉の匂いがする。
 僕は婦警さんの胸の上で巨大な地響きを聞いた。