500文字の心臓

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短さは蝶だ。短さは未来だ。

1st Match / 桃色涙

赤コーナ : まつじ

 おう、生きてやがった。
 人の顔を見てそう言うなり、父は死んでしまった。父らしいといえば父らしい。
 最期なんだったら、お袋にもっと気の利いたこと言やあいいのに。と私が言うと、母は、そうねえ、と笑った。
 母は泣かなかった。
 ちょっと、寂しくなるねえ、と呟いて、庭の木を眺めていた。

 まもなく母の容態も悪くなり、私は放蕩するのを止めて家に居ついた。
 調子がいいと母は、庭に出ることが多かった。
 桃の木は、祖父の代よりもずっと以前から、この家にあるのだそうだ。
 今の時期、花は咲いていなかった。
 息を引き取った母の懐には、白い小さな布が二つ、しまわれていた。
 
 父が死に、母が死んでも私は泣かなかったが、やがて結婚し、出産の折、母子ともに危険な状態を乗り越え助かった、と妻と赤ん坊の顔を見た途端、涙がこぼれた。
 恥ずかしいから誰にも言うなよ、と言うと、妻が笑った。

 そのときの涙と、長男が生まれてはじめて流した涙を拭った、小さな布切れを二つ、妻は大事に持っている。
 どちらも、白い布地に薄桃色の染みがあるのだった。
 子どもが庭で遊んでいる。
 もう少ししたら今年も咲くだろうかと話しながら妻と二人、縁側に座りその様子を眺めている。

青コーナ : 春名トモコ

 部活から帰ってきたら誰もいなくて、ソファの上にカバンを投げ出し窓の近くに寝転がった。西の空。イチゴミルク色の雲。水色の空はソーダ水みたいで。部屋の中は刻々と暗くなっていく。いつも鼻歌まじりに夕食を作っている母がいない。
 たとえば。夜遅く塾から帰ってきたわたしが玄関を開けると、血まみれの父が倒れている。リビングには母と姉。何ヵ所も刺されて、なにもかも赤く染まっている。犯人はつかまらない。ショックでわたしは声が出なくなる。でも健気に生きていくのだ。やめられない想像ごっこ。
 夕明かりを吸い込んで、窓ガラスが水あめみたいにやわらかくなる。とうとう穴が空いて、極甘の夕焼けが部屋の中に入ってきた。あたたかくて優しい夕暮れと血まみれの妄想が混ざってリビングいっぱいに満ち、ぞわぞわ、わたしの中で蠢くもの。膨れあがって、息苦しくなるぐらい。甘い空気がのしかかる。暗いキッチン。メモひとつなく。赤い妄想に飲み込まれたわたしからこぼれ落ちたものは、化膿した傷のようなにおいがした。
 夕雲が黒く塗り潰されている。
 何も起こらない。何も起こらない。何も起こらない。



2nd Match / 指紋と薬

赤コーナ : 峯岸

 目的を告げると合言葉を訊かれる。「凍った案山子に頬張らせた鬼灯」ゆっくり答える。続いて両手を開いて見せるよう言われる。両手を差し出すなら塗れた氷の如く何ら模様の無い指だ。いつの間に指紋が剥がされたのだろう。面を喰らっているとその手に茶色い小瓶が載せられる。液体の入った、口のない小瓶。中の服み方は知る必要がないと言われる。
 帰り道で迷う。元々の瞑想癖で同じ場所ばかり回っているのだろうか、いつまでも街に行き着く気配がない。指紋が失くなればどうせ街では生きていかれないのだから街になど着かなくても良いのかも知れない。だが家には帰らねば。
 あれから今でもまだもう百年も歩き続けている。そもそも帰る場所があるのかもよく判らなくなっている。何を考えるという事もしなくなり久しい。静かに暮らすというのもなかなか難しい。小瓶はいつの間に中が空だ。「遠くの大きな氷の上を多くの狼十ずつ通った」何度も繰り返しながら歩きに歩き、辺りはもう冬である。

青コーナ : 松本楽志

 ザイン博士は著書でこう述べている。「二人は出逢ったのかどうかさえ、定かではないが、あらゆる二人の痕跡――こんにち犯罪という幻想を欠いた分野にばかり援用される指紋検出技術を、情緒的に行ったことによる副作用――により、この二人をある時点で、運命的に巡り逢ったと見なすことに成功した」
 そうやって、二人は運命的に巡り逢った。
 ところが、ザイン博士が友人に宛てた手紙にはやや悲観的な語り口が見られる。
「私の処方した未来想起のみを強いる薬は、誰にも効かないことを前提に作られている。しかしながら、間歇的な因果関係に従えば、二人が互いの夢に薬を混入、共に忘却の憂き目を見たことを否定できず、したがって、二人の愛を永遠と見なすほかなくなってしまった。実に残念なことであるが、私は事実を裏切るわけにはいかない」
 そんなわけで、二人は永遠に結ばれてしまった。
 その手紙の投函の後、ザイン博士は消息を絶っている。ただ、父母の名は空欄、「生まれた子」の欄にザインと書かれた出生届が研究室に残されていた。



3rd Match / ぴりちゃん

赤コーナ : はやみかつとし

 ココナツフレークをまぶしたライスケーキはほんのりレモンの味がする。まん丸い揚げドーナツは口の中でほこっと崩れて甘く香り立つ。
 質素なベランダでご馳走になるぴりちゃんの手作りおやつが楽しみだった。でも本当はビンさん。彼はその古い家を「ピーリンチャン」と名付けていて、その音が可愛らしいので私が勝手に縮めてあだ名にしていた。
 鍛えられた細い鋼のような体をしならせながら、ぴりちゃんは毎日自転車に荷を積んで走っていた。それが仕事だった。いい匂いがしそうな気がして、ある時ついて行ってみた。でもそこで見た彼の顔は厳しく、汗にまみれていた。違う人みたいだった。
 彼の家まで戻って、軒に五つばかり並んだ風鈴をぼんやり眺めた。シャラリと涼しげな音にしばし耳を預けた。家の名前の由来はこれなんだ、って言ってたっけ。そう思ったら急にまた探しに行きたくなった。
 市場だろうか。
 自転車の両脇の籠一杯に紅い薬味大根を積んで、ふらふらと、でも軽快にぴりちゃんは走っていた。時々人混みにぶつかりそうになるけれど、彼も行き交う人もみな風のように軽く、互いにふわりとかわし合う。あ、…あのふっくらとした大根餅の味だ。風の流れるあとを追って走った。

青コーナ : sleepdog

 ぴりちゃんはある日突然、グラニュー島の王宮に呼ばれた。
 王宮の使者が差しだす手には触れず、早速マジパンの馬車に乗りこめば、紅茶をいただく間にも、ゼリービーンズで彩られた王宮に辿り着く。謁見の間では、カスタードロールケーキを頭につけた王様が待っていた。
「よく来たぴりちゃん、姫を助けておくれ」
「姫様がどうかしましたか」
「甘い甘いものが好きで好きで食べて食べて太って太って……」
 この環境なら無理もない。困り果てた王様の脇で宰相がフォローする。
「姫様はいくら言っても王宮の外へ食べに出てしまう。どんな食べ物もぴりっとさせるお主なら姫の暴食を止められるはずだ。もちろん相当の褒美をつかわすぞ」
 これはまた予想外。
「ああ、どうやら勘違いなさっているようで。それはぼくと別のぴりちゃんです」
 王様はひっくり返る、宰相も苦い顔。
 しかし、せっかくの褒美を逃す手はない。
「ですが、王様ご安心を。ぼくは静電気のぴりちゃんです。姫様の部屋のドアノブにずっと静電気を流しましょう。これで外へは一歩も出られません」

 ――きゃっ、もう!
 すまない、君に悪気はないけれど、しばらく辛抱しておくれ。



4th Match / オールディーズ

赤コーナ : 雪雪

人達は物を壊れやすく造るがモニュメントとして篤実に造ったものは別。このクレーターの底にある奏楽柱もいまだに正常に動作する。マニュアル不要。コントローラウイルスに空気感染しすぐに操作法を発病できる。私は脳裏に浮かぶバッハのアイコンを眉間に廻し、三度瞬く。音楽が流れ出す。

人類は、おのが暁闇期に、打製石器と磨製石器が同時代に混在したことを謎と感じた。私は人類の音楽文化に相似の謎を感じる。末期人類音楽史において、バッハを頂点とする肉感的で生彩に富むウェル・テンペラメントの流れは、楽器に従属する不細工な平均律に駆逐された。云わば後発の打製石器が磨製石器を駆逐したのである。奇妙なことだ。

私は遠くに匂う夫に呼びかける。一閃の遠吠え。私達には発語のための小器用な咽頭はいらない。音楽のための楽器もいらない。知性と感性の限界を決めるのは、表現力ではなく弁別力だから。
夫の声がこだます。音楽であり文学であり哲学であるこの一声も、人には音楽とさえ聴こえないだろう。人達の鈍感な知覚はついに、世界と精神の豊饒な細部に届かなかった。空想以外では。
バッハの音律は人間業ではない。意地らしいほどだ。いにしえ、人が芸をする私達を見ていた気分はこんなだったろうか。

青コーナ : 青島さかな

 いま月兎の長い耳を揺らしているのは、ようやっと旅を終えた冥王星の歌声。