500文字の心臓

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短さは蝶だ。短さは未来だ。

そこだけがちがう 作者:sleepdog

 あたしの完敗だった。三つ上の従兄弟は、この勝負ならいまの俺に敵はいないと豪語した、実際その通りだった。四隅はおろか四辺を見事に押さえられ、たった一ヵ所カラスの忘れ物みたいな黒い斑点を残し、盤上はすべて白く塗りつぶされた。あたしは賭けに負けてしまった。従兄弟は得意げな顔で冷たいミルクをたっぷりと盤に注ぎ、たちまち盤からあふれ出し、床にひろがり、壁もカーテンもどんどん白く変わっていく。
 そのうちあたしの服にもしみて、安っぽいスカートは純白のドレスになっていく。気恥ずかしさでうろたえながら、盤上の黒一点をあわてて握りしめた。もうすぐ全部、従兄弟が待ち望んだ世界になってしまう。いつの間にか天井の高い聖堂のまん中で、天窓から白い光が降り注ぎ、あたしはおしろいで顔を固めた友人たちから白ばらのブーケを手渡され、白馬のひく馬車が玄関まで迎えに来ている。
 白いタキシードに着替えた従兄弟は息を整え、微笑み、あたしの手から最後の一枚を取り上げる。プラチナのリング台をくっつけて、再びあたしの手に戻す。
「さあ、きみの手で裏返して」
 世界にたった一枚残された黒い色。裏返すその指の震えがいつまでも止まらなかった。



連れてゆく 作者:まつじ

 ほんの酒の勢い、冗談のつもりが、まいったね。
 どんどん増えている。
「私ね、すごく面白い所知っているんですよ、楽しくて、気持ち良くて、愉快な、いーい所」
 とたまたまいた屋台で話した相手が誰だったのか、全く知らない。ただ、やたら陰気に隣りで酒を飲んでいた男をからかいたくなった、のがいけなかった。
「そりゃあ本当ですか、本当の本当に本当ですか、ねえ、本当なんでしょう」
 必死な顔をするのでつい
「え、あー、まあ、ぼちぼち」
 と曖昧な返事、となるとたちまち、じゃあそこにワタシ案内して下さいという事になり、そこへ陰気な顔で店の主人が、
「本当なんですか」
 屋台を放ってまで行くと言うので、それは止した方がいいんじゃないかと諭すと、屋台ごと行く気だ。
 どこかで煙に巻こうと思っていたのだが、知らぬ間に陰気な男や女が連なり真剣な顔をして私の後を追って来る。さすがに謝ろうかと考えたが、しかし今さら。殴られるんじゃなかろうか。などと目先の心配をしているうちにますます謝りにくくなる。
 試しに欽ちゃん走りをしてみたら、大のおとな皆が皆真面目な顔をして欽ちゃん走りをするものだからワッハッハ、笑ってしまった。
 いやホント。
 泣きそうです。



隣りの隣り 作者:まつじ

 三人掛けのソファーの一番右でお茶を飲みながら一人でテレビを見ていると、そのうちに家の猫が、でっぷり、といった具合に横でくつろぎはじめる。ああ、また太ったかなこいつ、と見やるとその向こうに何かいた気がしたが、何もなかった。そりゃあ、そうだ。茶を啜った。
 翌週の金曜も、同じ時代劇を見ていた。のそのそっ、と猫が隣りに座る。すると、心なしソファーの一番向こうも沈んだ気がする。誰もいない。予告が終わって、やはり猫の向こうでソファーが浮いた感じがしたのも、たぶん気のせいだと思った。
 次回は大型の台風が直撃して放映中止。猫は来たが、何もなかった。
 次の週になるとまた、ソファーの左端が少し沈んだ。
 面白いので今度からテーブルに二人分のお茶を用意してみた。
 四週目くらいに一度湯呑みがカタンと鳴ったきりで、結局彼はなかなか口をつけなかった。
 最終回は実に面白かった。見ると、いつ飲んだのか、彼の湯呑みのお茶がなくなっていた。彼がどこかへ行く気配がした。
 次からは新番組が始まったが、彼は来なかった。お気に召さないんだろう。また番組が変わればもしかして、と席一つぶん離してテーブルに並べておいた温いお茶をぐい、と飲み干した。



生 作者:水池亘

 周りには知ってる人知らない人がずらりと並んでベッドに横たわる僕をじっと見つめている。みんなの瞳の奥に宿る闇の濃さで僕は自分がもうすぐ死んでしまうことを悟る。
 だから僕は最後に一つだけわがままを言うことにしたんだ。
「お魚……食べたい……」
 それを聞いた母さんは病室を飛び出していった。誰も何も言わない。時が静かにすぎる。
 その時。
 突然バーンと派手な音を立てて母さんがドアを蹴り破った。
「お魚持ってきたわよー」
 そう言う母さんの両手には抱えきれないほど巨大なマグロ! びちびちと波打つマグロ!
「さあお食べなさい」
 でーんと差し出されたまだ生きているマグロ!
 どうせ死ぬんだと僕は力を振り絞って思い切り噛みついた。中トロ大トロが溶けて僕の体を満たす。吹き出る血をごくりと飲み骨をバリバリと噛み砕いて僕は猛烈な勢いでマグロまるまる一匹を食べきり、勢いよく立ち上がると母さんに抱きついた。
 医者が「奇跡だ」と呟く。みんなみんな号泣している。
 そして僕たちは声を合わせて叫んだ。
 マグロ! マグロ! マグロ!



月面炎上 作者:雪雪

睡っているあいだに月は、文明に感染していた。
文明はきらめく網のような病巣を月面に広げる。月の大地から燃焼合成で取り出したシリコンで太陽電池をつくる。月の微小重力と低圧大気が、燃焼合成の繊細さを引き出すのだ。産物は金属の莢状の搬送体で地球に送られた。
虚空を、星よりもしげく瞬くものが、めまぐるしく行き交う。
龍と鼠の時間が違うように、星と文明の時間もちがっているので、それなりに存続した文明も星々にとっては一瞬である。じぶんが燃え上がっているように感じて月が目覚めたとき、もう炎なんてなかったし、文明もなかった。
月はまた睡り込む。星々が「もうすこし起きて待っていよう」と思うほど、宇宙が興味深いふるまいを始めるのはまだ先のことで。
二度と搬送体が打ち上がることもなく、月面にはただきらめく瘢痕だけが長く残った。月が気づかない程度に細々と、燃え続けていた。

あるとき太陽になってしまう夢をみて目覚めた月は、ひとつのおおきな太陽電池になっている。
でも月は泣いたりはしない。驚きもしない。今はまだ。



偏愛フラクタル 作者:雪雪

水平線に手をかけてよじ登ってきた朝の光たちは、海面を一気に駆け抜ける。三角波の山脈を踏み石のように蹴ってゆく。光は水より脆いので、すべての三角波のへりに当たって砕ける。光はもともと砕け切っているからぜんぜん壊れはしないのだが。
水も、もともと砕けることが大好きなので、光の徹底した砕け方には感嘆し羨望をおぼえる。そこで今日もおらおらおらと陸にぶつかっていき砕け方の鍛錬に余念がない。
陸は陸で、水の震え方に感心している。すみずみまで届く無数の指のように微細にいじるいじり方に、とろけ続けている。水によって画定される陸の体形は海岸線と呼ばれる。水はどこまでも入り込んでくるので、海岸線の長さは実質無限である。
暇なときに陸は、水のつもりになってむーんといきんでぶるぶるっとしてみる。いかんせん陸は陸、水のようにはいかないわけだが、ときおり局所的に液状化現象するので一瞬なにかを悟りそうになる。さだめし「陸も砕け切れば光」みたいなことを。



だめな人 作者:マンジュ

 海辺沿いをあなたと歩く。海が見たいとわたしが言うと、あなたは渋ることなく車を走らせてくれた。あなたはいつだって、優しい人。カーラジオの隣でしゅわしゅわと弾けていたサイダーは、車を降りる頃には造作のない甘ったるいだけの液体に変わっていた。
 一歩前を歩いていたあなたが立ち止まってわたしを見るから、思わず唇をすぼめたら、ほどけてるよと笑ってわたしの靴を指差す。
 僕が結び直してあげるから動かないで。すかさずしゃがみこんだまではよかったけれど、靴紐はなかなか上手に結ばれない。普段自分でやるのと勝手が違うからだよなんて、潮風に湿った耳を真っ赤に言い訳をする。
 あんまりあなたが一生懸命だから、わたしは息を吐くことさえ躊躇われて、波がすぐそこまで迫ってきていることにも口を噤んだままにした。
 しゃがみこんだあなたのズボンのお尻と、やっぱり靴紐のほどけたままのわたしの靴を瞬く間に波が呑む。
 わっと驚いて尻もちさえつくあなたに、不謹慎にもわたしは声を立てて笑ってしまう。



降るまで 作者:まつじ

「雨が降るまででいいから」と言って、唐突に訪ねてきた小さな何かは、ぼくの机の上に居座った。
「どうして雨なの」
聞いたけれど
「なんとなく」
と言ったきり教えてくれない。
 まあ、それでも特に困ることはなし、気にしないことにした。それから、他のいろいろな話をした。

 雨が降ってきたのは六日後の朝だった。目が覚めるともう降っていて、はっと机の上を見たけれど、まだ、ちゃんといた。
「行くの?」
聞くと
「うーん、やっぱり、星が降るまでにする」
と言う。
「どれくらい?」
「山盛り」
 答えるだけ答えると、そのまま、電気スタンドのわきにつくった小さなベッドでまた眠ってしまった。

 二週間後の夜、ごはんを食べてから窓を開けてぼくたちが話していると、ものすごくたくさんの星が降った。
「もう行くの?」
聞いたけれど
「うーん、やっぱり、」
少しだけ間があいて
「ゴニョゴニョが降るまでにする」
何て言ったのかよくわからなかった。
 まあいいや、聞かないことにした。
 山盛りの流れ星が、山盛りきれいだった。

 ぼくの机がにぎやかになって、もうすぐ一年経つ。
 ゴニョゴニョはまだ降らないみたい。



指先アクロバティック 作者:雪雪

「ケフェウス座デルタ星は脈動変光星です。いまは膨らんで暗くなっているから、視認できません。でも、あすこにあります」
少女はすらりと北天を差す。
およそ一千年前、その指先を目差してデルタケフェウスを旅立った光子がひとつ。
今、あやまたず着地した。



食 作者:雪雪

「傘に隠れて歩き食いしながら水溜りをひょいと越す仕草がまた良し」という象形文字が歩いている。