500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第33回:冷えた椅子


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 窓辺に座る彼女。
 彼女はいつも僕より先に店に来て、窓辺の明るい暖かい一等席を占領している。仕方ないので僕は少し暗めな奥の席に腰を下ろす。
 騒がしい雑踏を少し離れた裏路地の喫茶店。彼女はコーヒーをゆっくりと味わいながら本を読み、ときどき時計を気にしながら窓の外をちらちらと眺める。僕は奥の暗い電燈のオレンジ色の光の下で書類に目を通しながら今日もカフェオレを飲む。
 僕はあの席に座りたい。窓から射す暖かい穏やかな光り。ガラス越しに静寂を纏う人々。水槽から見上げたような青空。けれどいつだって僕が店に着く前に彼女がその席に腰を下ろしているのだ。いつだっていつだっていつだって。
 ある日、僕が店に着くと彼女の向いの席に、見た事のない男が座っていた。二人は僕には聞こえない魔法の言葉を話し、鮮やかな光の中で笑っていた。
 次の日から彼女の席は空いていた。
僕はその喫茶店中で一番明るく暖かい窓辺の席に腰を下ろす。彼女の居ない窓辺の椅子。いつもいつも眺めていた降り注ぐ光の中で輝く椅子。しかしその椅子は僕が座るとなぜかとても冷え冷えとしていたのだった。
 僕がその日飲んだカフェオレはいつもより少し苦かった。



 手袋をしないから、ドアノブが一番冷たい。
 入ったらすぐ玄関を閉めてカギをかける。外の冷気が入らないよう、コートのすそを挟まないよう。
 わずかに家の中の方が暖かいのは、外壁と内壁の間にたくさん詰め込まれた断熱材のおかげ。
 電気を点けて、靴を脱ぐ。フローリングがとても冷たい。
 ストーブまで歩いていってスウィッチを入れた。
 靴下をはいているのに、フローリングには白く足跡が残る。
 暖機運転がはじまり、少しずつ少しずつ、波のように伝わる熱が部屋を暖める。
 対角線上の隅には、木製の椅子。だから、熱はなかなかそこまで届かない。
 本運転に切り替わってからコートを脱ぐ。
 まだ椅子には座らない。
 最後の最後、空気がカラカラに乾くぐらい暖まってから、椅子に座るのだ。
 ほのかに冷えた椅子。
 冬だけの幸せ。



この世界は病んでる。そう思わない?
現実に耐え難い何かを背負った者が集まってくるから仕方ないよ。
一時現実から解放されることは悪いことじゃない。
こうやって自分を支えていくしか術が無いんだ。
でも時々分からなくなるの。貴方が本当に存在するかどうかさえ。
僕は今、君と話しているだろう?
そうね。でも幾らでも別人になりすませるわ。
今話している貴方と昨日話した貴方が同じ人かどうか分からないわ。
でも・・・それは私だって同じね。何度でもこの世界ならやり直せる。
違うハンドルネームをつけて、ハジメマシテって言えばいいだけだもの。
いつかこの世界から卒業しないといけないとは思っているの。
でも、この虚像の世界が今の私には心地良いの。
ゲームじゃないんだ。ネットの向こうに居る相手も人間なんだよ。

ぷちん。

彼女はパソコンの電源を落とすと椅子から立ち上がった。
静寂が訪れる。今夜もまた彼女は眠れない。



 一人暮らしをする時、親に椅子を買ってもらった。変わったデザインの赤いヤツ。
「でもこれかなり冷たいなあ」
 あたしは身を縮めながら呟いた。背もたれの部分までしっかり鉄製で、冬は居たたまれないぐらいに冷える設計。なんてこと。
 クリームスープの素をカップに入れて、ポットのお湯を注ぐ。スプーンで混ぜながら昨日めくっておいたカレンダーを見ると、十二月の写真は真っ白な雪景色だった。
「さむさむ」
 ぶるりと体を震わせて、暖かいカップを手の平で包む。ほっと温もってからスープに口をつけた。熱が体の奥底に浸透していく。うん、暖かい。
 そして今座っている椅子にちらりと目を向ける。今の季節でこれだと真冬はどうなるのだろうか。
「百円均一で何か売ってないかな」
 思いつきを口にしてそれから、さすがに無理か、と呟く。どうせなら気に入った布を買ってきて、この可愛らしいデザインを損なわないような機能的かつファッショナブルなカバーを自分で作ってみたらどうだろう。ああそれは我ながらいい考え、とにやにやしていたのだが。
「どうせならテーブルクロスも替えたほうがいいかしら」
 などとますますお金のかかることを言ってみたりするのである。



 バブルジェット運転中。保健所から家まで帰る130kmの道のり。ラジオから流れてくるリズムに合わせて首を出鱈目に振りながら、とりあえずなにも思うまいと努力してみた。しかしそれでも頭の中にはいちばん考えたくない想念が無理矢理にでも侵入してきて、嗚咽が漏れる。
 パピーを引き渡して「よろしくお願いします」と私は頭を下げた。超音波の浴びすぎで脳のあちこちに気泡が混ざってしまったパピー。へらへら笑ってた、保健所に入っていく時にもおじさんに引き渡した時にも。私が「じゃあね」と囁いて立ち去る時でさえ。
 運転中に危険とは判りつつ、私はさっきまでパピーが座っていた隣の座席に目をやった。ハンドルから片手を離し、改めて確かめるようにシートに手を伸ばした。合成樹脂製のそれからは、すでにパピーの体温は完全に飛んでいて、ヒヤリ、としたから思わず手を引っ込めた。
 結局私は脳内からパピーを振り払えない、当たり前だけど。仕方ないので泣いてみようとした。でもずいぶん前から覚悟だけは決めていたせいなのか、涙は湧いてくれないのだ。目尻は乾いたままで、寿命の尽きた空調機みたいな嗚咽を上げながら、運転を続ける。



ばれた。

まずい。

まずい。

秘密警察を名乗る男の太い指が、ダイニングテーブルの上でトントンと得意げにステップを踏む。

なぜだ。

なぜ?

「あなたの細君は私の上司なのだ」

男の一言に、グラリと膝から、くずおれてドサリ。

新婚当初彼女と選んだこの椅子は、あの時と違ってひどくよそよそしいものになっていた。



 大きなテーブルがおかれた小さな部屋だ。天窓から青くゆらめく薄明かりが射しこんでいる。テーブルを三つの背もたれの高い豪奢な椅子が囲んでいる。少女はこの部屋に来た時からその椅子に座って生きてきた。椅子は少女にはとても大きくて、ずっと居心地の悪い思いをしてきた。残り二つの椅子は父と兄の物なのだが、未だかつて誰も座ったことがなく、薄く埃を被って冷え込んでいる。
 テーブルの上には山間の町と、そこで暮らす人々をかたどった模型が置かれていた。少女は古い歌を歌いながら、模型の少女を彷徨わせる。いつか子供の頃に聞いた歌だった。物悲しい抑揚のついた歌だった。
 長い長い旅が終わろうとしていた。模型の少女は椅子に座る少女の中から生まれた。大きなテーブルの端から端まで旅をして、今ようやく家族の許へと帰りつこうとしていた。玄関の空色のドアは思い出より少し色褪せていた。部屋にゆらめく青い光が色を増していき、物の輪郭が曖昧になっていった。
 ドアを開けたら、そこに家族はいなかった。その部屋には、中央にテーブルが置かれてあった。その廻りを三つの椅子が囲んでいる。そして、古い少女の中から、新しい少女が生まれた。
 古い少女は肺の奥から絶叫した。存在を否定された者が上げる恐怖の叫びだった。痙攣的な動作でテーブルの模型を打ち壊し投げ捨てた。その時、ゆらめく青い光が水となった。青い水は部屋の全てを洗い流した。古い少女も新しい少女も水を浴び、水に溶け、排水溝から流れていった。少女の全ては水でできていたから。

 そうして部屋には3つの椅子だけが残り、座る者もいないまま、ただ冷えている。



寂しい。。寂しくて寂しくて・・
いつからこんな寂しさを覚えたのだろう。



 冷えた椅子には、背もたれのどこかに小さな穴が一つだけある。もし見つけたら覗いてみるとよい。底のない闇の中でひしめきあうものを捉えるはずだ。それは無数の光る眼。眼差しはとても冷たく、そして哀しげである。君は彼らの視線、見えない触手によって心臓を鷲づかみにされる。痛みに耐えられなくなり、瞳から涙を流す。その涙を覗き穴が奪い去る、一瞬にして。君の涙が全て穴に吸い込まれた後、もう一度そこを覗いてみるとよい。底のない闇の中で瞬きあうものを捉えるはずだ。それは無数の光る星。流れ、いずれ消えてゆくさだめの。



座布団は必需品



 あやふやな睡眠と覚醒。起きたと思えばもう既に眠っていた。私。気付けば座る椅子の背になけなしの余熱が奪われる。では、あの時に感じた胸騒ぐ一体感は何だったのか。超、蝶?
 「ただいま」で「おかえりなさい」と帰宅した彼は食卓に用意された鉄鍋に両手を入れ、ざぶざぶと手を洗う。糸蒟蒻を鷲掴んで指の股まで丁寧に洗う。彼が眉間に皺を寄せた。今日はチゲ鍋で薬指の逆剥けがしみたのかもね。「先、風呂にする」している間、うとうと待つ。昔、彼と騒いで悩んで一緒に選んだ椅子は、今では飲み込み難いイブツとなってしまった。氷、檻?
 いつもは湯加減を見てサッパリ満足して来る彼が、浮かない表情で「湯が溢れそうだったから、余分をバケツに汲んで置いた。明日の洗濯に使いなさい。洗顔用には、」視線はあわせない。「上澄みの所を掬っておいたから、綺麗な筈だ」食事の為に彼が椅子に座ったところで、ブーブークッションが長い響きをたてる。彼は温み泡の消えたビールに粗塩を入れ、僅かな隙で爛熟と笑う。蝶に嘲られた。蝶、笑。



十月二日、小雨。まだレインコートなんか羽織っては蒸すような気候だが仕方ない。思い立った以上、なるべく早く手続きは済ませなければ。保険の解約、預金の引き出し、それから、あてのない婚姻届の用紙も。
十月二十一日、晴れ。吹く風が爽やかであればあるほどかえって、自分は緩慢な死を生きてるだけじゃないかという焦りに囚われる。理由がない訳じゃない。この世界は目に見えない毒でゆっくりと汚染されている。空が果てしなく澄んで眩しいのは、単にそこが人間の棲む世界ではないからだ。神の領域。
十一月十七日、雨。この冷たい雨の中を出掛ける人はもうほとんどいない。ここ十一階の窓から見下ろす公園の広場の隅に、座る人のない鉄細工の椅子が数脚、雨露に鈍く光っている。ぼくは、そこに腰を下ろした幸せな日のことを思い出している。



 沖の小島に家を建てる。部屋の数は一つ。南と北に窓をつける。左右に開けば、大海原の風が通り抜ける。住人は十九歳の男女が三十一人。外出禁止を告げておく。クローゼットには好きなだけ洋服をそろえる。中央には椅子を一つ置いておく。誰も座ってはいけない。立ち疲れたときには、生涯に二度座ることができる。その際、十万の精霊の前で、六通りの舞を披露しなければいけない。死ぬときには、片手を壁に添えること。生人形のように美しい姿となるために。



薄暗いバーのカウンターの“いつもの席”に俺は腰を落とした。
ようやく一息をつく。思えば今日は、ここへ来る道中まで“ツイてない一日”だった。
建設現場の傍らを通り過ぎた際、目の前に鉄骨が転落。落ちて来ること自体、極めて稀なことだろうが、その直撃を間一髪で免れたのも珍しいと言えるかも知れない。
こういう「悲しい事故」ってドラマや小説では有りがちな展開だろうが。

先週、ここで俺はK子という女と意気投合した。
この年になると、ようやく「時間をかけて出会いの行く末を見届ける落ち着き」が芽生えると言おうか、若い頃のように「展開を急ぐ」ことにこだわらないゆとりが備わる。
そんな訳で俺はK子の名しか知らない。ただ「また逢えるなら、ひと月後の同じ時間にこの席で」と約束しただけだ。
だが、その刻限は既に過ぎつつあった。俺はグラスを舐めながらふふっと自嘲的に笑った。
「男女の出会いなんて、そんなに上手く行くもんじゃないさ」心の中で呟きつつ、ひと月前彼女が腰掛けていたシートに何気なく手を置くと、
・・・それは何故だかほんのり温かくて・・・

同じ頃、同じバーのカウンターで女は「彼」の到着を待っていた。「遅いな・・・」と思いつつ、ひと月前に「彼」が腰掛けていたシートにふと何気なく触れ ると、
・・・それはとても冷えきっていて・・・

やがて女は知った。すぐ先の建設現場で先ほど「悲しい事故」が起こったことを。



 触れた彼女の体に温度はない。ヒトじゃないからね。彼女はそう言って笑う。
 彼女の冴えた瞳がぼくを見上げる。ぼくは彼女の体を抱きしめ、口づけをする。冷たい。
 彼女はするりとぼくの手から逃れる。だめなのよ、と、彼女は言う。あなたは熱すぎるから、苦しいのよ。ぼくの温かい手では彼女をひきとめることができない。
 彼女の座っていた椅子。頬をつけると、ひんやりと、彼女の冷たい熱を感じる。そして端から温まっていく。少しずつ少しずつ。ぼくの体温が彼女の熱を駆逐していくのがわかる。
 ぼくは彼女の温もりさえ、追うことが許されない。ぼくの涙では、彼女には熱すぎるのだ。



手ごろな椅子がほしくて、町外れの古道具屋に入った。
「すいません」
声をかけたが、店内にはだあれもいない。
しかたなくいろいろと物色していると、店の奥に古びた椅子を見つけた。
猫足のなかなか素敵な椅子だ。
座り心地を確かめようと腰をおろしてみた。すると、

ドシン

私はしりもちをついてしまった。
「おかしいな」
振り返って見てみると、椅子はすました足取りで店を出て行くところだった。



 さあどうぞ、とにっこりする。でも腕はたらしたまま、ぼくに落ちつく場所を指ししめすことはない。
 あいつはもういないのに。
 気づかぬふりで立ち話をつづける。冷えきって、あたためてくれる体が欲しくなるまで、ぼくは立ったまま待つつもりでいる。



椅子イスが椅子が並んで並んで人が人が
銭亀がオルガン弾きが飛行鬼が三日月が
魔女が獏が百合が指がナイフが山椒魚が
スワってすわ座って座って並んで座って
音楽をオオンガクガクおんがくが音楽を
聴いたきいた来たイタい痛い痛キいた夜。
並んだ椅子イスは暗黒に雪降る渦を視た。



 誰も座っていない椅子ほど寂しく見えるものはないし、しかも壊れていたら尚更だ。天に祈りを捧げても、そこから何も見えてはこなかった。
 もうここには分け与えるものはなにもない。鉄板やオイルが食べれる体ならいいのにね。
 仕方がないから、冷たい『椅子』を食べる。味は思い出せない。ただ神父様が許してくださった味、優しい瞳で「大丈夫です」と。そして、その優しさは、いつか我が身にも降りかかる鎌になる。でも「怖れることはないのです」って。
 太陽も星も空も見えない穴倉の中で ゆっくりとまぶたを閉じる。そとにいるはずなのに……ぼくはねむる、きっとぼくのからだはだれもすわらないいすになる。むっつめの。てんにめされる。ぼくはただのぱんになる。



 晩年のじーちゃんが日がなテレビを見てた椅子。今じゃ主を失って、体温を欠いた背もたれから肘掛けから、ミシとも軋まず居間の隅っこで呆然としてる。
 僕は苛められっ子で、授業もつまんなくて先生もきらいで、登校拒否やってた。…今でもやってる。両親にも姉貴にも叱られ罵られ続けたよ。でもじーちゃんだけは違ったんだ。「ほんとに嫌ならしゃあない。そういう時あるわなあ」って。甘やかしっ、てみんな言ったけど。じーちゃんは最後まで僕の味方だった。つーか、たぶん今でもあの世から味方になってくれてる筈、僕はそう信じてる。
 内緒の話。この椅子に腰掛けてエロい深夜番組見ながら自慰することがあるんだけど、じーちゃんの残像が不意に蘇ってくるんだよ。僕は萎えちゃって、テレビ消して目を閉じて、思い出をリプレイする。まあ、少ししたら、自慰、再開するけどね。
 いつか恋人ができたら、一度この椅子の上で愛し合いたいと思ってる。で、その前にか後にかは分からないけど、話してあげたいんだ、じーちゃんのこと。僕らを見守ってくれてて、応援してくれてるって。薄気味悪がられちゃうのかな?、どうだろ?。じーちゃんが脳溢血で死ぬ時も座ってた椅子。



 ここに椅子がひとつある。僕はこの椅子に座っている。僕と椅子の前を人々が通り過ぎていく。そして口々にこう言うのだ。「やぁ素敵な椅子ですね」僕は軽く会釈して「それはどうも」とお礼をいう。でも悔しい。褒められるのは椅子ばかり。なんだい、こんな椅子なんか。だから椅子から立ち上がろうとした。なのに椅子のやつ、立ち上がって僕について来る。僕が歩くと椅子も歩く。人々がそれを見ていう。「おりこうちゃんな椅子ですねぇ」また椅子が褒められた。くそっ。僕は椅子に殺意を抱く。僕はナイフを手にとる。振り向きざまに椅子を切りつける。左上から右下へ、椅子の背が切り裂かれた。右上から左下へ、僕の胸が切り裂かれた。僕と椅子は分裂した。そしてあとには椅子がひとつ。



林の中で見つけた小さな木製の椅子を、その足で近所の年寄りに見せることにしたのはなぜなのか、自分でもよくわからない。
「あぁ、もうこの椅子は死にかかっているよ。」
「どうしてわかるのですか?」
「ほら、ここを触ってみなさい」
私は塗装がはげ、泥がこびり付き、苔まで生えかかった座面に手をあてた。
「痛い」
「そうだろう、冷えきっているから痛いんだ。おまえさん、なぜこれを拾ってきた。
どうせならもっと良い椅子を拾えばいいものを」
「なぜって… 」
「これが椅子だとよくわかったな」
そう言われてみると目の前にあるのは、椅子にはとても見えない朽ち果てた代物だった。
それでも拾わずにいられなかった。無我夢中で絡んだ雑草から引っ張りだし、積もった泥を落としてここへ持ってきたのだ。
私は涙を堪え、声を絞り出した。
「これは、ぼくの椅子だ。 ぼくの椅子なんだ。やっと見つけたんだ。」
「そうだ、よく言った…大事になさい。」



 今でも私はときどき、どうしようもなく不安になるのです。
 かつてあなたの上に座ったときひどく冷えていたことを思い出して。



 明日は日曜日。でも休めないんだなこれが。
 あーあ、読みたい本も表紙を眺めるだけ。上に似たような本たちが重石となって積まれていく。たぶん一番下の奴は発酵していい味になっているに違いない。でも味を確かめる暇もないんだよなー。うつうつ。
 テレビには沈痛な面持ちをした人が映っている……ってまだ点けてないよ。スイッチを入れたら、ノーテンキな笑い声が、うー、響くから、頭に響くから。騒音だよこれじゃ、でも消したら音がなくて寂しいし。
 あーまだ忙しいよ、眠たい疲れた騒ぎたい。まだラウンドは半分も過ぎていない、ようやく山路が険しくなってきた頃。だけどつまんない。もうちょっとやったら楽しい場所に差し掛かるんだけど、今はまだ忍耐の時間帯。でも長すぎ。飽きる。したくねー
 の勢いにまかせて鞄の中の紙の束を地面にぶちまける。床が真っ白になって、足の踏み場がない。よいしょって椅子の上に立って高い所から文字たちを見下げて、両手を高く掲げて勝利の雄叫びを上げたつもりになる。我に戻ってため息ひとつ。今はこれくらいの壊れ方が精一杯。座るためにあるもんだろ、椅子って。



「冬は終わりよ。ピクニックをするわ」
 姉が叫んだので、みんなあわててテーブルと椅子を運びだした。紅茶にマドレーヌにマーマレード。春の日はうららかで、はらはら花びらも落ちてくる。と、蜂蜜のビンのまわりを飛ぶ蜂を、姉のスプーンが撃墜した。
「しまった。これ、春の精だわ」
 姉が叫ぶと、たちまち襲いくる猛吹雪。みんなあわててテーブルを運びこんだ。窓の外では雪の中、姉がスプーンで墓を掘っている。取り残された椅子がそのまわりを囲んでいる。



さっきまで被告席に座っていたのは、私の飼い主です。もう暖かみはありませんか。



 残るは五人。薄暗い静寂を破ってオクラホマミキサーが流れると、私たちはまた回り始める。張り詰めた空気におよそ似合わない軽快な音楽。それが止まる瞬間を待つ。待つ。待つ……。
 不意に音楽が途切れる。即座に座ろうとするがそこに隣の男性が突っ込む。被った! しかし私は慌てずにタックルを跳ね返し狙った椅子へどかりと座る。目の前に倒れる男性。かわいそうに、でも私は元々図々しい性格なのだ。
 立ち上がる間も無く男性は燃える。おぞましい悲鳴。もう慣れてしまった断末魔の悲鳴。すぐにまた静寂が訪れ、後に残るは真黒な炭。
 皆が立ち上がると椅子が一つ燃え尽きてこれまた炭になる。残る椅子は三つ。そしてあの軽快な音楽が。
 なぜ私はこんなことをしているのだろう、考えるのはとっくに止めた。いつだって、誰にだって、こういったことは起こり得るのだ。
 回り続ける私にただ聞こえるのはオクラホマミキサー。ただ見えるのは三つの椅子。音楽はまだ止まらない。



その日私が学校のふりをした牢屋のふりをした空っぽの檻から戻って見たものは誰もいないテーブルの向かい側を見つめて虚空に言葉を放る母の姿でした。ああ、糸、切れちゃったんだ、と妙に冷静に思いました。母はとても楽しそうに今はいない父に話しかけていました。今晩のおかずの味付けのこと。私の成績のこと(上昇気味だったのです——そのときは)。父が経営していた、今はもうない会社のこと。脳のなかの話題が尽きるまで「あの日」の前のことを話すんだと思うと、それまでなんともなかった胸が急に詰まりました。私は何か叫びながら母に飛び掛りました。やめてほしかったのです。いや違います、救いたかったのです。私には生涯縁がないだろうと思っていた英雄的感情でした。……私は突き飛ばされました。何故かテーブルの上に投げ出されて、転がって、向かい側の椅子とテーブルの間に落ちました。刹那、母は私にこの席に座ってほしいのだろうかと感じました。私は思いました。嫌。汚い。あんな親父が座っていた席なんて嫌。後ろから倒れこんで頬に触れた椅子の腰掛ける部分が冷たくて、とても悲しくなりました。すべては無駄に終わったのです。不在はここに残ったままなのです。そして私はすぐに、汚いからさっさと降りようと思いました。



千香は3年ぶりに京都の高島屋に出掛けた。
友人との始めての待ち合わせだった。

待ち合わせには未だ時間があるのでデパートの中をうろうろする。
3年前、毎週のように彼と待ち合わせをしたキタムラのショップを探してみる。
彼はよくキタムラの店頭の椅子で待ちくたびれたように座っていた。
「あぁ〜無くなったんだ」
千香は思わず声を出し、自分の声にはっとした。
目を瞑れば目の前にキタムラのお店があり、自分を待っている彼の光景が鮮明に浮かぶ。
千香の中の時間は3年前に止まったまま。なのに周りは容赦なく変わっていく。
思い出の場所が無くなる。もう自分の記憶の中にしか存在しない。
自分だけまた取り残された感覚が襲ってくる。

千香は少しため息をつき、高島屋の入り口に向かった。
友人が千香を見て手を振った。