500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第46回:指先アクロバティック


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 私は彼の指が好きである。すらりと細く長く、形が綺麗だからだ。もっと好きなのは、ピアノを弾く彼の指である。指は、舞うように鍵盤の上を這う。軽やかに、メロディを刻む。
 カチ、カチ、カチ。
 鍵盤を叩く音が私の肌に伝わってくる。私は彼がピアノを弾く時、いつもピアノの側面に立ち、そこに凭れ掛かることにしている。その位置ならば、彼の指を眺めながら、ピアノの音を直接肌で感じることが出来るからだった。ひとしきりピアノの音が鳴り響く。
『今日の音はテンポが良くて、明るい感じで好き』
 私は不慣れな発音で感想を述べた。すると、彼は小さく笑って鍵盤から指を外し、手話で返事してくれた。
『ありがとう』
そのやりとりは、私と彼のささやかな日常のひとつ。

 私は彼の指が好き。もっと好きなのは、ピアノを弾く彼の指。もっともっと好きなのが、耳が聞こえない私のために手話を使ってくれる彼の指。



ながいこと
それは
そらをとんで
およぐようにとんで
なめらかなうごきで
ぞうげのしろさにまいおりた
かとおもうと
みずどりがえものをしとめたあとのように
しぶきをちらしてすばやくとびあがり
たかく
たかくまい
またとおくはなれたところに
ふかくするどくはげしいいちげきを
たたきつける

すずなりのすずのね はがねのいかずち

どちらがさきともわからぬほどに。



 キーボードの上を軽やかに駆け回り奇想天外な物語を紡ぎ出すわたしの指を、わたしはうっとりと見つめる。指の動きが止まると顔を上げ、モニタに整然と並んだ文字を読み、ふたたび恍惚へ至る。わたしはわたしの十指を撫でてやりたくなる。



『指先アクロバティック世界選手権』決勝前。

控室の片隅で静かにメンタルコントロールに励むおれ。
そこにやって来た、レポーターと名乗るその男は、頼まれもしないのに、
「いやぁ、わたしもかつては名の知れたアクロバティック選手でしてね」などとペラペラ軽口を叩く。
強引なペースで自分の質問を進め、口を挟ませない・・・

“何なんだこいつは?”と思っているうちにおれのマネジャーが控室に入って来た。
傍らのそいつをチラリと見遣り、おれにこそっと耳打ち。

「気を付けなよ。こいつ昔は“口先アクロバティック”の世界王者だったんだ」

集中をかき乱されたまま、おれは対戦者の待つリングへと向かう羽目になった・・・



 「そうかい、恋人に自信を取り戻して欲しいのか。」
ジュリアを前にしわがれた声で老婆は囁いた。そのために魂でも売り渡す決意でここに来たのだ。彼女の恋人は華麗な空中ブランコで観客を魅了してきたが、1ヶ月前に転落事故を起こしてから自信をなくしてしまっている。すがる思いで訪れたのは、気味悪い噂も聞く老婆の占い師だった。しかし、意外にも老婆は優しい声で
「恋人がブランコをするとき、この指輪をはめてごらん。お前の指の動きに合わせて恋人は立派な演技をするだろう。」
と言い、彼女に鈍く光る銀の指輪を渡した。
「さぁ、しっかりやってみるんだね。あとは、お前次第さ。」

 空中ブランコを見上げるジュリアの手にあの指輪が光っていた。始めは恐々動き始めた彼女の指も徐々に勢いづき、今や両手で大きな旋律を奏でているかのように見えた。旋律に合わせて恋人の体も軽やかに宙を舞い、観客の興奮も高騰していく。その興奮に煽られ彼女の旋律も一段と激しさを増し、額に汗が浮かんだ。流れ始めた汗の滴を左手の甲で拭う。その瞬間、恋人はバランスを失い地上に転落した。
 ジュリアは「お前次第さ」と囁いた老婆の顔に薄ら笑いが浮かんでいたような気がした。



 驚きと動揺と怯え。
 数多の感情が同時に噴出したのは、ディーラの少女がカードを鳩にしたから。
 客が求めより先に少女はカードを新しいセットに交換し、シャッフルをはじめた。
 いつにも増して客は少女の一挙手一投足に注意を注ぐ。こぎみよいリズムは彼らの耳に届かない。
 バレさえしなければ、イカサマは正当なテクニックである。
 すぐさまカードは少女の小さな手に馴染み、2つに分かれた。
 バレさえしなければ、マジックには拍手と歓声が続く。
 2つの山はスムースに流れ、1つに戻った。
 マジックもイカサマも似たようなもの。どちらも少女の小さな手が支配する。
 テーブルの上、淀みなくカードは配られた。
 ゲームが始まる。



「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」

その瞬間、彼らの渾身の演技は日本中を興奮の渦に巻きこんだ。
怪我に悩んだことも、挫けそうになったこともあったろう。
しかし、5つの力が結集して、見事につかみ取った最高の栄誉。
表彰台に仲良く並び、黄金に輝くメダルを受けるその笑顔。
本当にすばらしい夢と感動をありがとう。

そして新たなる挑戦の舞台は、次の北京ユビリンピックへ——



子供の頃から箸の持ち方が変で、「よくそんな持ち方でご飯が食べられるものだな」と誉められてるのかあきれられてるのかよくわからない言われ方をしたものだ。たぶん、誉められてない。
でもいいのよ、結局いつかは、某国の王子様に見初められて、フォークとナイフの食事で一生を過ごす国に連れていってもらえるんだから。たぶんね。



 豆掴む 豆逃げる
 追って 追って
 掠って 弾く
 豆 飛び上がり 四回転半
 砕けて飛散 嗚呼悲惨
 ひとつ
 ふたつ
 飛んで いつつが
 大小さまざま
 蜘蛛の子 散らす
 にわかに本気 闘志燃え
 指 しならせて 豆掴む
 拇指と人差指
 薬指と小指で巻きこめ
 調子づいて ふたついっぺん
 最後のひとつは
 ……まだ 空中
 くるくる廻る
 五分のひとかけら
 掴みきったら アプローズ



カナイはお碗を机に置こうとした所でつまづいた。
 ムラキがあっと声をあげてカナイを指差す。
 きったねーの!
 ムラキの指先から伸びた紫色の線を辿ってスープをよそって貰っていたシラカワがカナイを観た。
 どうしたの? とスープをよそっている給食係のアカイがシラカワに訊ねる。
 ムラキがさ、といいながらシラカワがカナイを指差した。シラカワの指先から伸びた雪色の線がグルグルとよじれながらカナイに絡みついた。
 もったいないねーとアカイは言った。 指差しながら続ける。
 アオタの鞄が汚れてる、かわいそーw
 アカイの指先から伸びた赤色の線がアオタの汚れた鞄に巻きつき、アオタの青色の線が突き刺さる。
 おいどうすんだよこれ! 指差しながら嘆くアオタの足元で、カナイはこぼれたスープをハンカチで拭っている。
 なんか言えよカナイ! ウジウジとした姿のカナイにきれたアオタはカナイの頭を踏みつけた。
 カナイの悲鳴にクラス中が笑った。何本ものカラフルな線がカナイに引き寄せられる。
 どこを見ても誰かがカナイを指差している。カナイの目にはそれらがすべて同じ色に見えた。何十本もの指先が瞳にやきついてグルグル回っている。



 「今し、男ありけり」。
 教師の声に反逆して、ノートの端に書き込んでみる。
 くるくる、すとん。くるくる、すとん。
 左前、窓際の君がペンを回す。
 「わたしには できない行為 それだけで 思う吾もあれ 十七の時」。
 そう、書き足して、ページを破る。
 くるくる、すとん。くるくる、すとん。
 高三、十月、古文の時間。わたしは文系、君は理系。
 君の中は今きっと、「位相がπずれた場合の波形」についての思考だけだろう。
 くるくる、すとん。くるくる、すとん。
 考えているときに、よくやる癖。
 一緒に受けられる授業はあと少し。わたしは文系、君は理系。
 くるくる、すとん。くるくる、すとん。
 そのペンが回る勢いみたいに、ぱっと変われたら。マイナスかけただけで反転する波形みたいに、くるりと変われたら。
 そうしたら、わたしも理系になれるのに。同じ学部を受けられるのに。一度も話せなかった君に、笑って話しかけられるのに。
 くるくる、すとん。くるくる、すとん。
 含み笑いみたいなリズムを聞きながら、ノートから顔、上げられないでいる。



 あまりに人を狂わせるというので月魄を禁ずる法令がしかれてずいぶんたちますが、ぼんやりとした加減がよく似ているらしい爪の半月をしゃぶりすぎて小指を腐らす事件があとをたたず、近頃の外套屋が黒い手袋の片側だけを軒先にならべるようになったのは予防策としていちばん効果的なのがそれだからだそうです。



 「打打打打打打打打打打打打打打打打」

 一秒間に十六連打。



 「走らないでね」という百貨店のお姉さんの声を聞きながら、僕はそわそわ、ちっちゃく足踏みしながらエスカレーターで屋上まで昇る。魅力的で不思議な遊具が設置され並ぶ屋上遊園地の中、お目当てのコイン式電動遊具=ライドには順番待ちの列が出来ていた。僕はその列の最後尾に、ポケットから一枚、銀河銀貨を取り出しグッと握り締めて並ぶ。
 遠くの轟音が微かに聴こえて、僕は青い空を見上げた。
 少し遅れて、僕の前に並んでいた少年が上を向いて指差す。
 巨大な飛行機が斜めに横切っていった。
 僕の順番。思い切って宙に振りかざした指先の銀河銀貨には無数の小粒な穴が空いていて、陽を透かし、いきおい良くコイン投入口に放り込めば、極小な流星群が見え隠れする。
 僕は遊具、ノン、飛行機体に颯爽と乗り込む。
 軽量センヌ機。握りやすい胴体が、とても格好良い。
 機体の側面にマグネットで撃墜王のクラウンを八つ貼り付ける。賞賛の声があがる。これは僕がすでに八個の王冠を得ているというシンボル。ぺらぺらの牛乳瓶の蓋を集めている、数だけのミルク・クラウンとは違うという証。今日のゲームは『父親の瓶ビール』で、いかに母親の制止をかい潜り、二本目を勧めるかが勝負だ!



はらをひらいてみたらなかにはほうせきがどっさりだった。ぼくはだまってひとつひとつかのじょにたしかめさせながらはらのなかからほうせきをとりだした。ひとつかふたつはしっけいできるとおもったけれどかのじょがわらうのでみすかされているかとやめてしまったのをこうかいしたことはない。ほうせきだとおもったいろとりどりのまるいたまはかのじょのたまごだったのだから。たまごはぼくのゆびさきにふれてじゅせいした。



 俺は走った。走り出してすぐ、はたと止まる。宙返りができない。得意の宙返りができない。
 右手の人差し指と中指だけが、辛うじて、小さく、前後に動く。病室のベッドの上に男は寝ている。
 俺はまた走った。走り出してまたすぐ、はたと止まってしまう。どうしても、宙返りができない。得意の、ムーンサルト、後方二回宙返り一回ひねり。
 男の二本の指は、それを再現しようとするのだが、実際は震えながら、相変わらず、小さく動くだけ。ほんのわずか、微かに動くだけ。
 俺の、宙返りを、誰か見てくれ。
 男の体は動かない。親族か、恋人か、傍らにいる誰かが、男の指がほんの少し動くのを見ただけ。
 目の前に道化が現れて、人差し指と中指だけで綱渡りをしろなどと言う。突然、俺は綱渡りの台に立っていて、道化は耳元で囁いた。向こうまで辿り着いたら、また、宙返りが出来るようにしてやる。ロープの下は真っ暗で底が見えない。無茶を言うと思ったが、俺は道化に唆されるまま二本の指でロープに逆立ちになった途端にバランスを崩した。
 男の指が一瞬痙攣して、止まった。

 しばらくして、それからまた、ゆっくり、動きだした。



「本日は、超絶技巧でおなじみのピアニスト、キョーケン・ハネケーンの演奏の秘密に迫ると題してお送りしていますが、ここまでのところその秘密はわかりませんでした。それでは、今度はその演奏するハネケーンの手元をスローモーションで見てみましょう。曲は先ほどから話題に上っている、人類には弾きこなすことは不可能とまで言われた曲エビーリシューマイです」

「すごいとは思っていましたが、これほどとは。スローにしても、まだ指の動きがはっきりとは見えませんね。いったいどれくらいの速さで動いているのでしょうか」
「ハネケーンの恐るべきテクニックは青縞先生の予想も超えているようです。それではもっとスピードを遅くして、スーパースローでご覧いただきましょう」

「こ、これは、青縞先生?」
「えぇ、これでは人類には不可能と言われた曲でも弾けるはずです。まさか六本の指をこんなふうに駆使して弾いていただなんて」
「正に驚嘆すべきテクニックですね」
「えぇ。六本の指をこれだけの速さで動かしているのに、どうしてからまったりしないのでしょうか。とても私には考えられません」



 たばこのパッケージを開けるあの人の指先の優雅な舞を見ていると、私の頬が熱を帯びだす。



 さあ、いらっしゃい。
 灰色の脳細胞なんて、付随品なんだってすぐわかる筈よ。
 欲望が理性を引きずって歩くさまを、見せて。
 何がお望み?
 お姫様だっこされたい? 女装してみたい? 若きベンチャー企業の社長さん? 芸術家? 殺人犯にだって、虫けらみたいな人間にだって、なれるの。あなたの欲望のまま。
 ま、最初はとまどうかもね。
 すぐに慣れるわ、頭なんて無粋な器官を使うのは最初だけ。
 あとは感覚器官に任せるだけよ。言葉? 知識? 後からついてくるわ。
 頭を置いてきぼりにして指が踊る悦楽と恐怖を味わえるのに、何を躊躇してるの?
 うふふ、今更ホントの姿を気にしてるなんて、マジメなのね。
 仮面舞踏会で素顔なんて、ヤボでしょ? 同じ事よ。
 ……なんてね。ごめんなさい、大抵はじめは、嘘をつくのに慣れないの。
 慣れちゃうとバカみたーい、って思うわよ。何にでもなれるのに、なんで正直でマジメぶっちゃうのかしら。アラごめんなさい、あなたの事を言ったんじゃないの。
 何になりたいか、決まった?  
 いるのはちょっとした機械と、ちょっとした申請と、ちょっとした勇気だけ。
 繋がった? 入力した?
 さあ、ENTERキーを
 そう、そんな風に
 小指で押して。



ものすごいスピードで、彼女の指は動く。
右手と左手がそれぞれ意思を持っているかのようだ。
彼女の指がキーボードの上で動くたびに、画面の表に数字が打ち込まれていく。
商品の出荷数、今月の売り上げ高、現在の在庫数。
そして画面が切り替わり、今度は情緒のかけらもない文章が入力されていく。
商品リスト、報告書、取り扱い説明書。
彼女の指先から紡ぎ出されているのは、突き詰めれば0と1になる信号ばかりだ。
しかし、私には聞こえていた。
カチャカチャと軽い音に混じって流れ出している素晴らしいメロディ。
高く低く、和音の余韻を残し、繰り返しながら、リズムを変え、彼女の指は美しい音楽を奏で続けている。
私はヘッドフォンをはずし、大きくうなずいた。
私を見守っていたスタッフたちが安堵のため息をもらす。
ずっと開発中だった業務用オルゴールが、ついに完成したのだ。
「主任、曲名を」
スタッフのひとりにうながされ、私はキーボードの上に指を滑らせた。
彼女ほどではないが、かなりのスピードで私の指は動く。
「タイトルは……」



 たん、たん、たん、とパイプ椅子に座った人々は右足を踏み鳴らす。上空では、戦闘機がくるくるときりもみ飛行をしていた。その下っ腹をかすめるようにトライアングルを組んだ三機が振り子のように駆け抜ける。雲ひとつない蒼天に、飛行機雲でPeaceの文字が描かれた。
 拍手わく客席の前でタキシードの紳士が一人、壇上に立っていた。
 うつむいて、手にした指揮棒を小さく上下に揺らしている。
 合わせるように、再び観客は足を踏み鳴らす。
 ばっと右腕を広げる指揮者。タクトの先で三角編隊が華麗にループ。
 すぐさま左。同じく三機がスナップ・アップと捻り込みの乱舞。
 キラキラと大空舞うしろがねの翼。
 やがて彼は広げた両腕を縮めながら屈む。うーっ、とうなる観衆。七機が紳士に向かって集まるように降下してくると……。
 一気に彼は起き上がり、指を天に振り上げた!
 編隊が豪音を立て、すぐ背後を駆け昇る。七色のスモークがきれいに尾を引いた。
 わあっ、と歓声。
 国民だれもが知っているこの指揮者は、続けて指先ひとつで指示を出す。
 空では最強の翼が、光をはねていた。



「ここ日本武道館は、かつて経験したことのないような熱気が渦を巻いております。赤コーナーに陣取るのは世界ヘビー級チャンピオン大橋健太、青コーナーから挑みかからんとするのは世界ジュニアヘビー級チャンピオンのタイガーMAX、今宵二人の異なる階級のチャンピオン同士が新設の世界無差別級のベルトを巡ってぶつかり合う。文字通りプロレス界の頂点を決める世紀の一戦、さぁ今その戦いのゴングが高らかに鳴りました。リング中央に進み出る大橋、その周りを回るタイガー、大橋が手を大きく広げ指先を動かしてタイガーを誘い込みおーっと、今タイガーがその右手を大橋の左手に合わせました。しかしこの力比べは大橋が俄然有利でしょう」
「そうですね、大橋とタイガーでは三十キロ近く体重差がありますから。何しろ」
「いや、しかしこれは何と、押しているタイガーが押している。信じられない光景を目の当たりにしています。ジュニアヘビーのタイガーの右手一本に対しヘビーの大橋が両手で押されています。これはいったい? あっとこれは信じられない。テレビをご覧の皆様おわかりでしょうか、何ということか、タイガーの指が大橋の指を四の字に固めているッ!」



 右手で狐の形を作って飛行機にする。きりもみ旋回急降下、背の高さしかない低い空を自由自在に飛びまわった。僕は飛行機に乗り込んで、きりもみ旋回急上昇、高い空へ飛び上がる。だけど、どこへ行っても目の前にはでっかい指、父様母様仏様。脱出、脱出、脱・指先アクロバティック。



 ちょうど指先ほどの大きさのピエロが、机の上でくるくると宙返りをしている。
 「申し訳ないけど、どいてくれないかな。これから勉強しなきゃいけないんだ」
 僕がそう言うと、ピエロは瞳にうっすら涙を浮かべて、とても哀しそうな顔をした。
 やれやれ、これじゃまるで僕がいじめてるみたいじゃないか。
 「わかったよ、ここは君の場所だ。好きにすればいい。でも今夜だけだぞ?」
 僕は勉強をあきらめ、ピエロにそう言った。
 ピエロは嬉しそうに頷き、また飽きもせずくるくると廻りはじめた。
 くるくる、くるくる。くるくる、くるくる……。
 「ハァ」
 僕は小さくため息をつき、窓の外を眺めた。
 窓の向こうには、ヘ音記号のような三日月がぷわぷわと浮かんでいる。
 
 夜はまだ、終わりそうにない。



会社帰りに、傘を二本持って帰ることにした。いや三本にしよう、どうせなら。
細身の女性用だから大丈夫でしょう。
さすがに家に傘がない状態はまずい。全部の傘が会社に置き傘状態ではまずい。
「今日、これ全部持って帰りますわ」と部長に笑顔。
三本の傘を、指先で器用に回してみた。けっこうイケてる? 愉快な気分。
あ、一本外れた。
外れてしまった傘をどうにかしようとして、鞄が落ちて、中身散乱。
空のお弁当箱から林檎の芯が飛び出てきて、かなり恥ずかしかった。



考え事に没頭して瞬きを忘れていると、ぷーんと飛んできたハエが眼球にとまる。
いい機会なので至近距離で観察する。
瞳に触れている六本の脚の先端がおもしろい。手にさくっとはめて使うブラシがあるでしょう。あんなふうに、ひょろひょろに長い指みたいのが、規則正しくびっしり生えている。両手をすりすりするお馴染みの仕草は、ブラシをもってブラシを制す要領で、ごみをこそげ落としているわけだ。脚一本に千本はありそうな指の先っぽは、耳掻きみたいにくいっと曲がって先端は平らになっている。これをきゅっと押し付けて、無数の平滑面をぴとぴとぴとぴとっと密着させる。ははー、これでつるつるの眼球の表面にもとまっていられると、こういうわけやね。



 いつの間にか春が来ていた。僕はちっとも気がつかなかった。眠っている間に右腕と左腕が交わっていた。
 腕が交わる様子を僕は目にしたことがないけれど、非常にアクロバティカルに指を絡ませ合うらしい。まあ、それは当然かもしれない。日常的な絡み方でいちいち繁殖されては、たまったものではない。
 春には気をつけなければいけなかったのだ。なのに僕は春の訪れに気づくことさえできなかった。
 脇腹から、腕の子が生えてきた。どうやら左腕似らしい。もうすぐ夏だというのに、これでは海にも行けやしない。



彼の指が私の体を這い回るとき、私は酷く緊張する。
長過ぎる彼の爪は時々ではあるが、この体に傷を残す。赤く滲む部分がじりじりと熱い。
彼の指はそんなことはお構いなしにリズミカルに踊り続ける。
不思議なことに痛みは一瞬にして快感へと姿をかえ、私の体は弓のようにしなり、
何時間も何時間も指は舞い血は流れ私は喘ぎ続ける。
気が付くといつも彼はそこにいなくて、私は黙々と無数のかさぶたを剥いでいくだけなのだ。



 光る棒を持った両手をぱっと掲げると、まず右手でゆっくりテータ。左手は抑えぎみのミューに保ちつつ、だんだんと右手の動きが速くなってゆく。そのままイオータへ移行。さらに速度を増した右手につられるように左手の動きも次第に速く。ただし動きは小さく。右手を大きく振ってキーへ。今度は跳ねるような動き。ここでも左手は小さく。最大まで振った右手はクシーへ移行。ここで左右の速度が一気に落ちる。右手は大きく、左手は小さく。さらにゆっくりと速度を落とし、自然な形で両手の動きが止まる。一拍おいて両腕をすばやく大きく広げ、大きく暴れるようにガンマ。少しのちに左手でロー、右手でカッパ。瞬時に動きを縮め、小さく速い動きで、左手はそのまま、右手はタウ、ラムダ、プシーと流れるように。テンポよく、リズムよく。そして左手シグマ、右手オメガで速く、速く極限まで速く。追いきれない速さの両手が突如ぴたりと止まり、目には光の残像だけが残る。

 お送りいたしましたのは、2374年アルパ作曲、『耳を必要としなくなった人々のための音楽』第4番“アクロバティック”でした。続きまして……



…えっ? 今のもっかい!



 景色のいい廊下を進むと、高い天井の間へと出た。天窓から落ちる光は弱く、立て札を先頭にして、仏頂面の中高年の長い行列ができている。
「解けなかったルービックキューブの供養に来られた方は、整理番号のシールを貼って、こちらの台に置いてください」
 言われる通りに木の台に置き、手を合わす。上からひょいと細長い手が降りてきて、それを摘み上げた。目で追うと我々の頭上で、千手観音が全ての指を忙しそうに動かしていた。



「親指が左回転、小指が右回転! 人差し指が右回転、薬指が左回転! そして、中指が上下運動ッッ!!」
「うおぉっっ、気持ち悪ぃぃ」
 クラス中にどよめきが走る。前列に並んでいる生徒たちは、少しでも壇上の生徒に近づこうとし、後列の生徒たちは前にいる生徒を押し分けて前にでようとした。
「さらに左手もっ!」
「すげえええ!!」
 人垣の先頭にいる生徒は、演技している生徒の指に思いっきり顔を近づけた。
「そしてぇっ、右手は時計回り、左手は反時計回りッッ!!」
「神業だ! 指だけ神の男がここにいるぞ!!」
「まだまだこれからだ! 喰らえッ! 禁断の領域ぃっ!! 右肘が反時計回り、左肘が時計回り! 右肩が時計回り、左肩が反時計回り!!」
 怪奇にして奇妙な、蛇がうねるような動きで、演技をしている生徒の腕が竜巻を生み出す。徐々に増してゆく動きに、右手と左手とは絡まり、やがては一本の捻れた腕となり、それが先頭の生徒を巻き込み、巻き込まれた生徒は回転しつつ、隣の生徒を巻き込み、向かって右側の生徒は左回転、向かって左側の生徒は右回転しつつ、やがて壁をぶち抜き隣の教室にまで回転を進み、世界が竜巻に巻き込まれた。



私は、舞台の袖からじっとピアノを見た。スポットを浴びたピアノは、沈黙を守って私の登場を待っている。

「君の演奏には心がない。」
「もっと感情を込めて弾いてごらんなさい。」

ハン。わたしはそんなものは知らない。そしてそんなものはいらない。小さい頃から遊ぶことも許されず、指の訓練をいやという程繰り返してきた。母のめくる楽譜と毎日格闘してきた。
感情なんていう実体のないものは信じない。そんなのは、聴き手の一種の妄想じゃないの。私は、この鍛え抜いた10本の指で、私の演奏をつきつけてやる。リスト難曲中の難曲を、余裕で弾ききってやる。

舞台に進み出る。ピアノと対峙。深く呼吸。最初の一音は鋭く。そして自分を信じ、音に全神経を集中。指先にすべてを語らせる。

────────

13分間の戦いは終わった。気が付けば、怒濤のような拍手が会場全体を呑み込んでいる。

勝った!勝ったんだ!



「ケフェウス座デルタ星は脈動変光星です。いまは膨らんで暗くなっているから、視認できません。でも、あすこにあります」
少女はすらりと北天を差す。
およそ一千年前、その指先を目差してデルタケフェウスを旅立った光子がひとつ。
今、あやまたず着地した。



 地下牢の囚人のたったひとつの楽しみは、明かりとりの窓から外へ向けて手を伸ばすことである。もちろん看守にはぜったいに内緒にしなければならないし、窓もだいぶん高いところにあるから、彼がそうできるのは真夜中のほんのひとときだが、頑丈な金属の格子枠をようやっとくぐって中指のはしを月輪にひたすと、決まってなにものかが彼の指先をついっと細く撫で上げてくる。あらゆることを心得ているらしい相手のやりくちは巧みで、けずれかけた指紋に沿ってほどこされた流麗は皮膚を泡立たせ、肉に波を打たせて、鈍い腱をもふるわせる。それが幻でない証拠に、元へ引いた指にはいつも柔らかな香りとほのかな甘みが残されている。疵を舐めるようにして舌を這わせると、色褪せた地上の歌が口にいっしゅんひろがった。だから彼は指を大事にする。頬を添わせて子守歌を口ずさみながらあやしてやる。できうるかぎり愛してやる。
 それを幾夜も繰り返し、刑期をつとめた囚人が腐臭の闇へと流されたある日、明かりとりの窓を守るように昼も夜もなく咲きこぼれていた小さな花も、きちんと命を終えていた。あとにのこされた露と蜜ともつかぬ一滴も、やがて世界に乾いていった。



 朝起きると爪の長さが変わっていることがあるのは、夜のうちに指を離れて遊んでいた爪が着地場所を時々間違うかららしい。これを聞いて以来、いつか指がそんなことになっていたらどうしようと心配でたまらないようになった。手を握って眠るようにすれば解決するかと思ったが、どうも親指がはみ出してしまう。



 きゃああ、という悲鳴にキッチンを覗いて、僕は目を疑った。
 テーブルに床に流れる卵の黄色の中、これまた卵まみれの彼女がべそをかいている。
 あの、目玉焼き、作ろうと——と言いかけ、後はしゃくり上げた喉に消えた。
 どうすれば目玉焼きでこんなに汚せるんだろう。
 溜息混じりに飛び散った卵を拭うと、僕は左手でフライパンを火にかけながら、右手で新しい卵を割った。人差し指と中指の間に一つ、中指と薬指の間に一つ挟んで、同時に。黄身は無傷なまま、殻の一片も落とさない。
 慣れれば大した技じゃないが、彼女は大喜び。すごいすごい、なんて器用! プロのマジシャンみたい!
 でも携帯の上じゃ彼女の指も、目にも止まらぬ速さなのを僕は知ってる。誰を呼んでるのかは知らないが。
 指先で転がされてるのは、僕の方だ。