500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第72回:仮面


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 「会長、そろそろお時間です」
 「どうだ、このマスク、おかしくないか?」
 「マスクをしているなんて全然わかりませんよ。これでどんな質問が来ても顔色なんかわかりませんよ」
 「そうか、安心した。なにせテレビ放送されるからな、やばい表情はできないからな。しかし、この前のマスクはひどかったな。証人喚問の時、隠し事がそのまま顔に現れたからな。あれはどこのメーカーだ!」
 「申し訳ありません、値切ったので中国製を掴まされました。今度は大丈夫です。心拍数と発汗量をセンサーが感知し、緊張状態になると顔の表情を変えるようにコンピュータで制御しています」
 「これで、完璧だな」会長は満足げに喚問室へと入っていった。
 しばらくして、会長が怒って部屋から出てきた。
 「どうしたんですか?」
 「だめだなこのマスク!」
 「何かあったんですか?」
 「このマスク、顔の表情を変えるのはいいのだけど、話の最後に舌を出しやがる!」



「変……」
 何の変哲もない日常のはずだった。
 少女は兄の帰りを楽しみに待っている。
 兄はケーキの箱を携えて家路を急いでいる。
 そして宵待ビルの上階の一室が血に染まった、という。目を覆いたくなるような惨劇の中でガラス窓を打つ音が響いた。『てのひら』だ。ガラスに赤い手形がべったりと張りついた。
 呪われた赤い色素はゆっくりとガラスの外側へ浸透していく。
 兄は見上げた。
 頭上から落ちてきた赤い何かに顔を覆われたとは、後から知ったこと!
 絶叫が夜盲街に響く。
 少女は待ちつづけた。
 何日経っても兄が帰ってこないので少女は兄の行方を一人で探しまわった。ケーキを頼んだ洋菓子店から自宅までの道を何度も往復して誰彼構わずに必死に尋ねた。
 兄が消えたのと同じ日に近くのビルで大量殺人事件があり、それと同じ手口で連続殺人事件が起こり始めている。
 少女が聞いた噂では顔に手形のペイントをした怪人が被害者の両手首を切り落とし顔面をぐちゅぐちゅに潰し殺しているらしい。
 それは本当かも、と思う。兄を探して夜道を歩く少女の前に黒い手を顔に張りつかせた異装の怪物が立ち塞がった。
 悲鳴が夜盲街に響く。
 その叫びを聞き、兄はゆっくりと少女と怪物の間に歩を進めていく。
「……身!!」



「ああ、やっぱり飼うなら猫より犬だよね……」
泣きながら部屋の電気を消して布団に入ると、クロはそっと傍らに
寄り添ってくれた。クロは数日前に拾った子犬。
気が付けば家の前にいる根気に負けて飼うことにしたんだけど、
今は本当にいてくれて良かったと思う。
失恋した私の心をこんなに癒してくれる。
外人好きの彼に愛されたくて仮面神社で祈り続けたら、
神様は私に白人女性の仮面を授けてくれた。
しばらくはうまくいっていたんだけど、ある日、彼に両親の
名前を知られてしまった。
マサオとカズコじゃどう考えても日本人だもんなぁ。
罵倒され頬を一発平手打ち。その瞬間、仮面も私の恋も砕け散った。
ごめんなさい、本当に騙すつもりはなかったのよ。
ただ、より理想の形になって、あなたに愛されたかっただけなの。
ポロポロとこぼれる涙を気にしてかクロが顔を舐める。
仮面が剥がれた跡がヒリヒリと痛んだ。
もう、駄目だってば、痛いよ……あっ!
思わず力が入ってしまった手がクロの顔に強く当たり
「ギャン」という悲鳴と共に布団から転げ落ちた。
「だ、大丈夫?……クロ?」

「…………ニャァァァ」
か細くなく獣の声が聞こえ、暗闇の奥が緑色に光った。



 猫笑いの夜にババヌキをしてはいけない。うっかりゲームをつづけてしまうと、いつのまにか右も左も真向かいも皆、笑う猫の面に変わっていて、だれがババを持っているのかもさっぱり読めなくなるから。そしてどのカードを引くときも、「にゃお」とは鳴かずに「にゃんでもにゃい」と鳴いてくる。
 5を引いた。
「にゃんでもにゃい」
 8を引かれた。
「にゃんでもにゃい」
 Jを引いた。
「にゃんでもにゃい」
 2を引かれた。
「にゃんでもにゃい」
 7を引いてそろった。
「にゃんでもにゃい」
 Jを引かれた。
「にゃんでもにゃい」
 あっ——

 ババを最後まで持っていてはいけない。さもないとあなたも笑う猫の面になって、もう決して戻らなくなるから。それが「にゃんでもにゃい」のなら止めないが、忠告はしておくよ。猫笑いの夜にババヌキをしてはいけない。



 鏡に向かったあなたは、己の顔が真っ白になっていることに狼狽した。のっぺらぼうになったわけじゃない、仮面を着けているだけだろ、と言うと安堵する。だが仮面は外れない。あなたは再び焦り出す。
 あなたは呼吸するための二つの穴に指を差し入れた。指が何にも触れない?まさか。鼻にも何も感じないのか。
 あなたは視界を確保するための穴に望みを託す。穴の奥にあるはずのあなたの瞳は見えないが、それでもあなたは指を入れようとする。きつく目を閉じて、と言うとあなたは力強く頷く。
 指が入り、手が入り、腕が入っても、まだ何も触れないようだ。肩が入りそうになったと思ったら、あなたは穴の中に引き込まれ、消えた。
 落下し、硬い音を立て、鏡の前に転がる仮面。これは一体何だ。あなたはあなたの顔を失ったまま消えたのか。消えなければならなかったのか。
 わたしはあなたの温もりを求めて仮面を手に取った。
 刹那、鏡に映る真っ白な顔。



 男の七割は下半身に仮面を被っているものだ。



朝起きて、枕元がざらざらしていることに気づく。
寝汗によるものか、はたまた涎を垂らし過ぎたのか。
昨晩は布団の中でお菓子を食べなかったのだが。

非常に喉が渇いていたので、何はともあれ、台所に向かう。

食卓には父が座りコーヒーを飲んでいる。
母はカウンターキッチンで目玉焼きを作っている。

おはようとあいさつをして、冷蔵庫から牛乳を取り出す。

父はテーブルにブラックコーヒーを飲ませてやり、
母はフライ返しを床と仲良くさせた。

喉を潤した後は、顔を洗いに洗面所に向かう。

冷たい水が気持ちよく、ついでに頭も軽く流してしまう。

思う存分水を浴びて顔を上げたら、鏡に自分の顔が映った。

やや濃い眉に、つりあがった目。割と良く通った鼻筋に、酷薄そうな唇。

それは、久しぶりに見る自分の顔だった。



 さぁさ宴が始まるよ。舞踏会のお決まりは、みんな仮面をつけること。そして詮索しないこと。仮面をつければただの人。身分家柄忘れてしまえ。
 仮面をつけた舞踏会。出会ってしまった天使と悪魔。仮面で互いが判らない。踊る踊るよ音にのせ。白いドレスと黒燕尾、ステップ踏み込むその足は、あまりに華麗でみんな釘付け。本人たちの間にも”恋”の始まり感じ出す。激しく胸打つその鼓動、ダンスのせいか想いのせいか。
 宴の終わったその後に、木陰で二人語り合う。再びその手が触れたとき、悪魔は天使を抱き締めた。くちづけしたいと囁くと、少しためらい仮面を外す。相手の顔を見たときに二人は知った「もう会えない」。一人は天界、大天使。一人は魔界の皇子さま。
 抱き締められて離れない。抱き締めたくて離さない。身分家柄忘れたの。優しく触れ合うくちびる二つ。
 仮面をつけて歩き出す。別方向に歩き出す。「さようなら」「さようなら」声にならない言葉を交わし、別方向に歩き出す。
 さぁさ宴は終りだよ。舞踏会のお決まりは、みんな仮面をつけること。そして詮索しないこと。仮面をつければただの人。そのとき二人、ただの人。一人の男と一人の女。



「東洋のキトラ古墳壁画箔片は246番の方が落札です」
 韜晦の薄暗いホールが、おお、とどよめく。年齢性別など様々だが、皆目元を隠す鮮やかな蝶や蝙蝠の仮面を着けている。競売人なども同じ。
「同様に目玉品。次はアドルフ・ヒトラーの精子。DNA鑑定済み」
 どよ、と沸いた。壇上には円筒形容器が運ばれた。冷凍保存。
「どうよ。贋品かね」
 鍍金の袖ボタンを揺らし75番の男が冷笑した。
「投与して誰かに身籠らせてみたいですわ」
 隣の76番の女性は上唇を嘗め探る。初対面同士の恋愛ゲームも香る。
 どの参加者も入手経路は問わない。状況から裏事情を推す。表層から得られるだけの情報を得て判断するのだ。
 突如、ステージが慌ただしく。
「どうも情報が漏れたようで。皆さん、お逃げ下さい」
 緞帳の裏から男が出て来て言うと、どよ、とまた沸いた。
 当局が踏み込んだ時、関係者や参加者は皆大人しくしていた。誰一人逃げていない。官憲は一様に素顔のまま虚ろな目をした人々に首を傾げながらも確保。残さず連行した。無抵抗。

 土曜の夜、無数の蝶や蝙蝠が低く飛んでいることがある。騙されるな。渡りではない。
 どうか無数の瞳大きな羽と目を合わす事勿れ。



 子どものころ、テレビの変身ものに出てくる正義の味方にあこがれていた。泣き虫の僕でも、仮面をまとうだけで強くなれる。悪の手先を片っ端からやっつける。そんな空想にふけると時間を忘れた。
 仮面とは、パラレルワールドへの入り口だ。現実でがんじがらめにされた己の殻を打ち破り、理想の宇宙に羽ばたくための翼なのだ。

「人非人め。その女性から手を放せ。よこしまな行為を悔い改めよ!」
「はーはっは。なんだ、そのおもちゃのお面は。正義の味方にでもなったつもりか」
 僕は、豹のように音もなく相手に飛びかかった。こんなやつ、もちろん僕の敵ではない。
 乱打を受け、ぼろ雑巾みたいになった身体が地面に横たわる。
 冷たい壁に必死で背中を押しつけている女性のもとに、僕はゆっくりと近づいた。
「待たせたね」
 彼女は、涙にぬれた絶望の瞳で僕を見上げた。

 おとなになって悟ったんだ。仮面のヒーローなんて、お子様の妄想だ。そんなモノかぶらなくても、人はいつでも変身できるのさ。



「仮面汁はありますか?(汁くれ)」
「いらっしゃいませ。仮面汁でしたら、Lと竹、小とピコグラムがございますが(ちゃんとメニューを見ろよ。その目は腐ってんのか)」
「レギュラーサイズはどれですか?(メニューがわかりづれーんだよ)」
「竹になります(常識で考えりゃわかるだろ)」
「じゃあ、竹で(LMSとか松竹梅とか統一しろや)」
「竹一丁入ります!(図体デカいんだからLを頼めやヴォケが)」
「あ、それから、ここは直面ものはないのですか(ここにゃ仮面モノしかねーのかよ)」
「それはスガオということですか。申し訳ございません。当店では扱っておりません(今どきスガオがあるかバカ)」
「じゃあ、汁の竹だけで(なけりゃいーよ。言ってみただけじゃねーか)」
「ありがとうございます。250ルリになります。はい。300からお預かりします。50ルリのお返しです。はい。仮面汁竹、こちらになります(あーウザイ。さっさと帰れ)」
「ありがとう(二度と来るか)」



 さあ、お掛け下さい。その声にしたがって僕は腰を下ろす。木製の椅子は冷えているはずだけれど僕から奪えるはずの温度がないせいで凍えるようにカタカタと揺れたように思えたのは、単に足の長さが不均一だからだろう。
 ひとかたまりの巨大な胸肉を持つ女性がアルコール臭い息を吐きかける。「一言。たった一言だけしゃべりなさい」安っぽい刺激臭だけを残して女は椅子を反転させた。
 僕は情けないほど裏返った声で叫ぶ。「僕を覚えている?」対峙する、目を隠した猿に向かって。この猿は自分の掌が世界なんだ。
「私がいたからあなたは自我を支えられたのよ」
「私が売った媚があなたのご飯になったのよ」
 倖田來未を軽蔑しながらも嫉妬する、両隣のヘビとカエルが言う。彼女たちの声は不快で耳にヘドロを流し込まれている気がした。
「せかいのいまはおれのおかげだ」正面の猿が耳を押さえながら唾を飛ばす。その後ですぐ毛むくじゃらの手を口に当てた。
「真に悲劇的な人間というのは自らに同情するのではなく、止めようのない変容を享受することにあるのだわ」黙れよ……アル中。
 僕は顔面をかきむしる。こぼれ落ちた眼球に映ったのは、やっぱり僕の顔だった。



驚いた!アパートに帰ると消してきたはずの電気が全部点灯しているのだ。不安にかられた俺は思いきってドアーをあけた!「お帰りなさいませご主人様。」
俺を迎えたのは歯茎が異常に発達し、目が耳まで裂けて、頭だけが異常に大きな化け物だった。「うぉー!なんなんだ君は!?」
いいや、彼だけではなかった。部屋からはものすごいざわめきと罵声と。怒りだしてテーブルを投げ飛ばしているやつもいるようだ。
横からピョンピョンと跳ねてきた30センチのチビは謝りながら泣いている。その涙の量たるやもう人間のものではない。
「でしゃばりが失礼しました。私は小心者です。ううぅ。」
その小心者は言う。最近は俺の人間付き合いや仕事の業績も好調!もう彼ら108人は俺の心に住めなくなったと言う。そしてお別れに姿を現したのだと。
「そうか、ならば俺はもっと幸福になるんだな!やった!ざまーみろ!」
そう言った瞬間だと思う。「やっぱり私たちはご主人様と一緒に居なければ。。。」霧のように消えだした小心者が笑みを浮かべた。そして4000年も前から俺に住みついていると俺に告げて消えていった。



姫は七つの色の仮面を持っていた。
月曜は金の仮面、火曜は銀の仮面水曜は緑の仮面、木曜は鳩羽色の仮面、金曜は水色の仮面、土曜は夕日色の仮面、日曜は黄色い仮面だった。
姫は、仮面を付けて城内を歩く。誰も姫の顔を見たことはない。
そして姫は、月曜から日曜まで、毎日別の貴族たちを招いた。月曜の貴族、火曜の貴族、水曜の貴族・・。
姫のお気に入りは、木曜日の貴族、侯爵家の次男だった。
姫は、木曜日に、彼に鳩羽色の仮面を付けて会うのが恥ずかしかった。もっと美しい色の仮面で会いたいと願った。
ある時姫は、次男に会う木曜日、夕日色の仮面を付けて城内に現れる。それを見た侍従は、あわてて土曜日の貴族たちを呼んだ。木曜の貴族たちは、入城を退けられた。
密かに姫に焦がれてていた失意の次男は、領地を離れ、旅に出る。二度と姫に会うことはなかった。
それを知った姫は、夕日色の仮面を燃やした。土曜日の仮面のない姫に父王は、土曜日に部屋から外出することを禁じた。
その時から姫は、夕日を見るたび涙する。次男を思って涙する。今日も、空の上から涙する。



 ところが、またしても飽きてきたのだ。驚いた。あっという間に、滑るようなカシミヤ、ふっくらとしたレザーも、あれだけ求めたシフォンベルベットさえも、耐え難いほどに色あせてしまった。

 開けるはずのなかった扉の向こうには、小さな飾り棚が点々とあった。硝子の小瓶の中で、色とりどりの液体が輝いた。
 備えつけの試香紙で遊んだ。幾つかの香りはひどく陽気にさせた。またゆったりとした気持ちにもなった。ときおり切ないものもあった。
 気に入りを見つけては、身にまとって楽しんだ。トップからミドル、ラスティングノートへと追いかけていくのは面白く、もう飽きることは無いはずだった。何の不安も感じたくなかった。

 すぐに襲ってきた音に、息をつめた。およそ露悪的な騒音だった。けれど一瞬の後に焦燥を吹き飛ばされてしまった。そこにはあらゆる性質の音があった。よろめき走っては、望むメロディを浴びた。優しいサウンド、粘つく歌声、尾てい骨に響くパンクロック・ショウ。もう立ち止まっていたかった。


 足音をひそめて近づいた。それは寝息だった。耳の上の生え際から、脂の甘い匂いがした。頬の産毛が、唇を撫でた。そいつは目を覚ました。
 悪態をつかれた。



 幼い頃、事故で酷い傷を負ったという兄やの顔は、今朝もぴったりとした鉄色の仮面で覆われている。兄やはとても静かになめらかに動く。寝起きのぼんやりした頭で眺めると、よく出来たからくりのようだ。
「遅れますよ」
 起こしに来るとは珍しいと思ったら、どうも寝過ごしたらしい。
 着替えを持ってきた兄やの、唯一のぞく口元に、昨日はなかった痣を見つけて問うと、今朝方メイドとぶつかりまして、と笑う。仮面の無表情を補うように、兄やの声はいつも豊かで柔らかい。 
 身支度を整えて朝の間へ行くと、弟と朝食をとっていた義母が、なぜか顔色を変えた。義理の親子関係に亀裂が入って久しいが、今日はとみに様子がおかしい。視線を追って兄やを見るが、表情が読めるわけもない。
 義母たちが去った後、向かいあわせで朝食をとりながら、そういえば、と、とても今更なことに気付く。物心ついた頃には傍にいたが、僕は兄やの素顔を、一度も見たことがない。
 視線に気付いた兄やが顔を上げる。細いスリットの奥、僕と同じ色の瞳が、笑うように細められた。



 熱気に包まれたいつもの広場みたいな場所で、白磁の仮面を被った冷めた目の人たちが口々に何事かを唱えている。それは念仏にも絶叫にも聞こえ、好き勝手に言っているようにも唱和しているようにも思えて仕方がない。そのうち白熱したのか厭きだしたのか、お互いを斬り付けあったり抱擁しあったりで、中と外があべこべになったみたいな情景に様変わりした。その環の中で突然地鳴りが起こり、空が割れた。剥き出しの大地には御光が降り注ぎ、その中心に巨大な仮面を付けた名状しがたいものが光臨した。なま物みたいな触手や機械みたいなアームが沢山ついていて、仮面を剥いでもきっと名状しがたいものなのだろうなと思った。望みが叶ったのか叶わなかったのか、人々は逃げ惑いながら歓喜の悲鳴を上げている。こうなったらもう中も外も関係ないのだろうなと思ったけど、皆幸せならこれでいいのだろう。めでたし、めでたし。
目覚めると僕は深呼吸一つして走り出した。その際誰とも擦違うこともなく、外気がやけに澄んでいるなと思った。広場に辿り着くと、無数の仮面がそこには転がっていた。僕は誰もいなくなった街の広場で仮面を被ると延々と涙を零しながら、何時までも笑っていた。



 先輩セーンパイ、聞いて下さいよ。俺昨日、イイ物ゲットしたんですよ! 昨日まで? おとといまでが嘘みたいに世界がガラッと変わって見えるっつか、アレ一枚で自分に超自信が付いたっつーか。何か人格まで変わっちゃうのか、アレ使うといつもより大胆になれるみたいで。ってアブナい意味じゃないっすからね? でも実際周りの反応も今までと全然違くてビックリですよ。メルセデス、は親のっすけど今度一緒にどうですか?
 大学の後輩が媚びるような声を響かせて駆けて来ては、人の迷惑も顧みずにくどくどとまくしたてやがった。そうか外車で舞踏会にでも行く気か。安下宿暮らしの俺への当て付けか。正直、以前から煙たがってはいるのだが、拗ねられたら後が困るから好意的な体で接してやる。ただ、そうと知った上で俺に絡んで来ているのだとしたらとんだ食わせ者だ。というより世紀の嫌味ヤローだ。「悪い、そういうの俺興味ないし」
 すると、コイツは残念がるどころか愛嬌たっぷり戯けたように肩を竦めた。
「つっても一人じやまだ公道走れないんですけどね」

「……漢字違ッ!」
「え?」
「いや、こっちの話」



 すこし明るめの口紅。
 最近、馴らそうと明るい色の服を着ている。
 夫と違って少年のような彼に合わせるのは骨が折れるけど、若返るようで楽しい。
 だから、白い浴衣に紅い薔薇が咲く。
 今すぐ彼に見てもらいたいけど、今日は良妻賢母の日だから我慢我慢。
 でもやっぱり、夏祭りは心が躍る。

 大人びた感のある紺地の浴衣を纏った娘と手をつなぐ。
 娘にはすこし早いかと思ったけれど、父親の贔屓目を差し引いても可愛い。
 けれど、所詮女だ。
 穢らわしい。
 家族三人水入らず。絵に描いたような団欒。
 この絵を描くために殺してきた自分を弔う花火は八時から。
 好みの男が視界を掠めないかと、わたしは人混みを見る。

 全然夜でもやっぱり外は暑いのに、パパもママも冷たい手。
 そんなんだから、裏のスズキさんや向かいのサトウさんがなんて言ってるか知らないんだ。
「手が冷たい人は心が温かい」って絶対嘘。
 思うんだ。わたしは、たまたまパパとママがパパとママの役になったママゴトに、子ども役で混ざってるのカモって。
「パパ。プリキュアのお面欲しい」
 だから、こんなのっぺりしたプラスチック、ホントは欲しくないの知ってるよね?



 これが俗に娑婆と言われるものか、とやけに眩しい朝日の下の雑然とした風景を眺めながら悦に入る。コブ付きではあるが、大手を振って人の多い明るい町を闊歩する。
 愉快。
 とは思うが、高揚感と解放感との間に若干の緊張と恐れがある、というのも自分で分かる。
 そう体を強張らせる事はないのだよ、と丁寧な口調で言いつ並んで歩く中年男性の顔をしたひとは、厳しい目を常にこちらに向けている。
 冷静に振る舞わなければならない。
 私は、道行く適当な人に声を掛けた。
 すみません、道をお尋ねしたいのですが、よろしいですか。
 半歩後ろで、例のひとが目を光らせているが、まず落ち度は無かろう。幸い、選んだ相手も良かった。分かりませんと断られることなく、道筋を知る。
 なるほど、あの角を左に曲がり、それから七つ目の十字路を右に、あとは道なりに行けばいいらしい。
 私たちはつつがなく目的の場所に着いた。
 その建物の地下の一室を開き奥へ奥へ進むとやがて、どのようにつながっているのか、見覚えのある扉の前に出る。
 ああ、戻って来たのだなあ、本面が貰えるまではもう少し先、一体どんな顔になることだろうと考えながらお面を外すと、私は元ののっぺらぼうになる。



 一匹、二匹と羊は柵を越え、人は寝返る。
 隙間から、正月の若い女のような襟巻きをして着飾った雨が降る。
 夏は冬の振りをしている。冬は夏の振り。0時は0時の、1時は11時の、3時は9時の振りをしている。
 コットン。翌朝、郵便受けの振りをした牛乳ポストに、四角四面の書類を装ったラブレターが届く。配達人を装った山羊の振りをした羊。なら山羊はサンタクロース。世界でたった一頭の装った山羊がトナカイたちを指揮する。むろん彼らは本当はトナカイではないけれど。リン、リン。
 さざ波のように、風を装った色を隠して駆ける歌になびく葉っぱ、葉っぱ。さようならを装ったこんにちはと揺れて枯れてゆく土色に積もり深い池の振りをする。水中から舞い上がる蝶々。
 アムールヒョウを装ったペルシャヒョウ。

 どうも苦しい重さを感じる体が思うように動かないと思い目を開けると、何も見えない。私の頭の振りをした枕が顔の上にあるから。枕を退かすともちろん私の上には掛け布団の振りをした敷布団が乗っている。さあもう一眠り。「メェェ」
 白髭がやってくる。
 見ては駄目、秘密だから。
 薄目なら可、多分そのくらいなら。
 子どもの振りをした私に、
「欲しいものはなあに」
 振りをしたそれが枕元に、
 私の振りをしたあなたの枕元にやってくる、振りをする、振りをして。



そのくるくる変わる表情がたまらなく好きなのだと私が口をきわめて褒め称えると彼女は、帽子の庇を上げるような気安さで面の皮—私が面の皮だと思っていたもの—を捲り上げた。
弁当箱の蓋が開くことを連想したのは、その裏側には鮮やかな白い蛆がびっしりと蠢いていて、飯粒のようになだらかに並んでいたからだ。
「このこたちがわたしの表情を豊かにしてくれてい」
くぐもった口調でそう言いながら指を離したので、パンツのゴムが鳴るようにぱつんと面の皮は元に戻り、言葉尻だけがいつもの彼女らしくしっかり響いた。
「るのよ」



「あぁ? 今更何言ってんだ」
 歓喜の表情で走り出そうとしていた青年は何かに蹴躓いたようによろけ、呟いた。
「気にしたら面白くないだろが。装甲だろ装甲。あと、オトナの事情」
 一人言い捨てた後にまた足を進めようとし、しかし一拍置いて彼はたたらを踏む。
「だーから! 初代みたいな事故があっても大丈夫なように、とかよ!」
 独り言をまた吐きながらその場に足を止め、苛立たしさに口の端を曲げ、青年は己の中の衝動を抑えるように腕を組んだ。
「今期はバイクアクションも少ねえからそーいう意味ではお前のツラそのまんま晒しても良かったかもしれねえけど、設定上お前それやったら死ぬだろ」
 腕を組んだままやや右足を引き、前方を睨んだまま不敵に笑う彼に異形の何かが迫る。
「とにかく今はアイデンティティにこだわる状況じゃねえだろ。行くぜ行くぜ行くぜえぇぇ!」
 彼は叫んだ後軸足で地を蹴ったとほぼ同時に、胴に太いベルトを巻きつけ、一声何ごとか吼えた。着地した時にはその姿が足の先から頭の天辺まで装甲に覆われていた。異形の何か、の攻撃をがっきと受けとめ、彼はまた吼える。
「ライダーがどうとか言う奴はバイクに詳しくない今期の脚本家と時代を恨め!」



 左から二番目の男性、とわたしは命じる。男は一歩わたしに近づき、他のニンゲンは去る。
 わたしは男の首に手をかける。その頭を引き寄せ、唇を食む。男の唾液を飲み込み、男の舌を食らい、男の口腔を舐め回し、咀嚼する。男の顔に空洞ができるまでむしゃぶりつくし、わたしはそのなかに頭をねじ込む。ずるずると男の内部を囓りとり啜りながら、肩を押し込み、尻を詰め込み、男の脳髄と体液でわたしを濡らす。わたしは全身に男の肉塊をまとい、顔だけをその空洞から突き出し、髪を整える。
 わたしは鏡を覗く。醜いわたしの顔。どんなカラダで身を包もうとも、これだけは変えることができない。落ちくぼんだ生気のない瞳。ひしゃげた鼻とひび割れた唇。醜い。
 わたしはクローゼットを開ける。屋台で買い揃えた陳腐な面の数々。顔半分はあろうかというほどに大きな瞳をもった水色の面を、わたしは取り出してつける。鏡のなかには、逞しい男の裸体に、デフォルメのききすぎた妙な笑顔のイキモノが映っている。高望みはしない。これがいまのわたしの精一杯だ。



「カモン! 亀仮面!」
 男は叫んで、変身した。
 亀仮面はカメラを背負って亀の仮面をかぶった改造人間である。敵はショッカの改造人間だ。「食え、可能な限りすべて!」を至上命令とする秘密組織・処女童貞撲滅変態冒険家協会、暗号名=食可は、罪もない人々を襲う変態性欲者の集団である。
 造成現場、建築途中で放棄されたビルの上での戦い。ミミズ千匹の泥沼、カズノコ天井の罠を潜り抜け。亀仮面は頭から体当たりする。蛸女は透明な汁をピューピュー噴きながら、人間魚雷に貫かれ、悲鳴をあげて痙攣し、爆発し絶命する。
 亀仮面はカメラを構えると改造人間の死体を写真に収めた。後でカードにして売りさばくのだ。もちろん、PTAから懸賞金をもらうための証拠でもある。
 亀仮面の正体はフリーカメラマンの近藤無我。内藤鰊はライターを装って彼に近づいた宿敵・マゾヒストラーだった。
 マゾヒストラーは被虐の人だ。ガーターベルトと黒のストッキングの他は一糸纏わず、浣腸液で妊婦のように下腹を膨らませて、三角木馬にまたがり、尻を鞭で打たせながら嘯く。
「僕を殺すか? ふふん、だったら明日の新聞の見出しはこうさ。『近藤無我、内藤鰊退治、殺害』死体遺棄で逮捕ってな。罪人はおまえだ」
「かめへん」



 今朝学校へ行くと僕以外のみんなが面をつけていた。ネコの面の子が「おはよう片山くん」と言う。何故面を、と問うには自然すぎる振る舞いで。
 チャイムが鳴り先生が現れた。イヌの面。ウサギの面の女の子が続く。転校生だ。
 初山理恵子です。
 ぺこりと頭を下げ、顔を上げたとき初山理恵子と僕は目が合った。面の奥にある真っ黒な目がじいっと僕の顔を捉え、思わず息を呑む。耐え切れなくなり目を背けた。
 ある時、初山理恵子と一緒に兎小屋の掃除をすることになった。転校以来初めて話をする機会だ。そこで初山理恵子は夢の話をした。自分はたくさんの仮面の上を歩いていて出会う人は誰もが仮面を被っているのだという。変な話だよね、と初山理恵子は照れ隠しに僕に背を向け、トラの面を被った兎たちを隣の柵へと移していく。何だよそれ。僕は初山理恵子の後ろに立ち、初山理恵子の面を剥ぎ取った。わっ、と泣き出す面の下はウサギの面。手にした面を僕は被る。すっかり初山理恵子になった僕はトラの面を初山理恵子に被せ、兎小屋に閉じ込めた。
 翌日先生が、片山はご両親の都合で急遽引越した、と告げた。
 りえちゃん何でかしってる? 知らなぁい。
 幸い教室から兎小屋は見えない。



「貴方も今日からこれを被ってちょうだい」
 一ヶ月前に妻にそう言われて渡されたのは、民芸品のひょっとこ面だった。妻はすでに、お多福面を被っていた。
「これで、おたがいの顔を見なくてすむでしょ。私たち残りの夫婦生活は、この面をつけて生活しましょう。笑って別れたいのよ」
 いつからだったのだろう。僕たちは、外では仲のよい夫婦を装っていたものの、家の中では顔を見合わせれば、相手の存在をうとましく思うようになっていた。
 こうしてついに、僕たちは仮面夫婦ならぬ、本当に仮面を装着した夫婦として過ごすことになったのだ。
 そして今に至る。ひょっとこ面の僕とお多福面の妻は離婚届けを挟んで、向かい合っていた。
「君には色々イヤな思いをさせてしまったな。最後くらい、ちゃんと顔を見てあやまりたい」
 僕は、自分のマヌケ面を剥がし、妻の顔にそっと手を伸ばした。
 下膨れのにこりと薄笑いを浮かべているお多福面の下からは、目を真っ赤にして泣きはらした妻の顔があらわれた。
 支えてあげないと倒れてしまいそうなくらい弱くて脆い女の顔だった。
 最後に妻のほんとうの顔を見た気がした。どうして今まで気づいてやれなかったのだろう。