500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第73回:その他多数


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 今日こそは、父が私を襲うだろうと思った。警察が呼ばれた。私は、父が逃げ出さないように、彼の左腕を握りつぶすほど握った。父は風呂上りで、濡れたぼさぼさの頭で、いつも通りおどおどと目を剥いていた。母は家の外に立っていた。警察は父を連れて行った。やれやれこれでようやくと思って、茶の間に戻った。すると、座った父がテレビを見ていた。また警察が呼ばれた。警察は、パトカーで父を連れて行った。私はぞくぞくして、急いで家の中に戻った。するとまた父がいた。ぼさぼさ頭のままハンテンを着ていた。私はパトカーに待ったをした。警察官は三人いたが、パトカーの中には、父が二人になった。私は父の首を掴んで渡した。しかし恐ろしかったので、私は警察を待たせて、家に戻り、茶の間をのぞいた。すると、風呂上りでぼさぼさの頭をした父が、猫背でテレビを見ていた。私は立ちすくんだ。濡れているので、父はいつにも増して、骨ばって瘠せて見えた。

 私は部屋の中でひとり座って、爪を噛んでいた。家では父が、テレビを見ながら味噌汁の朝食をとっている。母はもう、諦めて隣で飯を食っている。私は箱のような部屋の中で、爪を噛む。爪を噛む。



 一人の儲かる作家の陰に、十人の儲からない作家と、百人の新人、千人のプロ志向、万のネット作家。例えば平安の傑作は千年祭の源氏だけではない。

 千の底辺に喘ぐ友人に、百人一首で顔を合わせた、
『始まりは 一人で出来ぬ カルタ会』
 …箱を見るなり、不平が漏れる:
「才能は 十人並みで 読み継がれ」
 …駄作の類いは、確かに多い。
だが、この手の嫉妬は、宝くじに当たらない事を恨むに等しい。
『春秋の 百家の名前 誰ぞ知る』 
 …道儒を除けば、良くて孫墨。
一体、文章の世界は、才能が埋もれる方が大多数なのだ。友人はおかまい無し、
「可憐でも 千草の花は ひとしれず」
 …ちゃんちゃら笑う、このナルシズム。
嘆く前に佳作を量産してくれ。雑草は一本だけでは目立たない。
『まほろばに 万から集う つづり葉は 詠み人知らずを 今に伝ふる』
だが、友人は譲らない。
「紫の 千歳ふるよに いきかえり 山はひとつの 峰のみにあらず」
困るんだよあ。一つの事に思い込んで、その他多数の視点が見えないっての。思わず
『一を知るも 十を知らずに 齢百』

 友人は、あれ? という顔をして私を見上げた。



 モデルと現実とのギャップを埋める、大きさのない粒子とそれでも埋めきれぬ隙間

   或いは

 有毒飲料中の水分子

   或いは

 自分の出番を待つ匂い受容体

   或いは

 単為生殖者の裔

   或いは

 受刑者に眉をひそめる潜在的受刑者

   或いは

 遺伝倫理システム構築学会非学会員

   或いは

 星々に決められぬ人間の運命

   或いは

 非仏非非仏非非非仏

   或いは

 わたしの補集合

   或いは

 わたしの補集合の補集合の補集合



 その他多数には名前がない。
 厳密にいえばあるのだが、それはその他多数にとっては名前ではない。その他多数が求めている名前というのは今持っているそれとはまた別のものだ。
 X県のある郡では園田姓が十割を占めるという。親戚遠戚である園田さんも当然多くて、地域ぐるみで家族のような付き合いをしているのだという。一つの郡が一つの大家族で、彼らの名前が全員園田。つまりこれは園田多数である。園田限りともいう。
 だがその他多数が求めているのはそんなものではなかったし、その場限りのものでもなかった。
 自分は一個の存在なんだという証明。それがなければ、生きていくことはつらい。生きていくことは苦しい。その他多数がまだ生きているのは、名前を得たいという目的があり、そこへの道筋がまだ残っていると信じているからだ。その光明を失ったとき、彼らが世界にいるのかどうか。それは誰にもわからない。
 彼らは名前を手に入れようと藻掻き、足掻き、精一杯に手を伸ばす。しかしもう少しで掴めそうだというその指先から、名前は容易に逃げてしまう。ソノッ、タタ、スーッと逃げてしまう。
 だから、その他多数には名前がない。今日も明日も、名前がない。



三が日を過ぎた百貨店の売り場に一つだけ残る福袋はさんざん振ったり揉まれたりしてくたびれ赤い色も褪せくしゃりとして見栄えもせず。整然とした一般商品を後ろに「ぜひ狙って」とばかりに矢面たる最前列に晒された老兵のごとく。狙うは無論通路を右に左に流れる冷やかし客という名の来店者らで、「残り物には……」とか淡い期待の垂れ目視線を向けるも所詮初売りには並ばなかった人生遅刻組らしく、「どうせ『余り物』というより『行き遅れ』だよな」と決め付け手は伸ばさない。あわれ、三が日中そんな視線を受けていた福袋。くしゅくしゅにも萎れようもの。余りにもくしゅくしゅ萎れたので腹癒せに刃物売り場の出刃包丁で通行客の腹を斬って裂いて斬って裂いて。そして出て来た内容物を見て愕然。
「中身はどれもいっしょやんか!」
押して揉まれてされた日々が走馬灯のごとく。悔しくて悲しくて、斬って裂いて斬って裂いての紅白幕。あ、めでてえな。
最後に残ったのは身が重くて逃げ遅れた女性客。斬って裂くと、なんと宝が出て来た。
残り物には福があることを知り満足した福袋。持ち場に戻り客を待ち続ける。
やる気が出たのか、色も赤く背筋もピン。



 頭が痛い。
 なぜ私はここにいるのか、あてもなく考えても答えるものはなし、私でない誰か、という概念は分かるのに私の他の誰かはどこにもいない。この私がきちんと存在しているのかすらも不安になるが、こうして頭痛に悩んでいるからには私はここにいるのだろう。
 がつん、と頭の中を蹴られたような痛みがある。
 ひどい事故で記憶障害になったのと思うこともある。
 頭蓋の内側で、私でない誰かのようなものたちが足を踏み鳴らす。てんでんばらばらに動く。喧嘩をする。
 いつの間にか湧いて出た誰かや何かがやかましく、走る、寝る、育つ、暴れ出す。
 果たしてこれらは私の望んだそうぞうの産物なのか、こちらの意志に関わらず彼らは頭の中に居座り続け、どんぱち、どんぱち、万歳、行進。
 こめかみが痛む。
 愛と平和の。
 とにかく痛む。
 なんとか彼らを減らそうとしてみるがどうにも一時凌ぎで、治る気配がない。
 いっそ自分の頭に飛び込んでしまいたい。
 はっぴーにゅーいやー。
 ちゃりんちゃりん、がらんがらん。
 ちゃりん、がらん、と頭が痛い。
 ここにはいないたくさんの誰かたちが私の頭蓋のてっぺんを仰いで祈る。
 脳味噌の中で、わあわあ騒いでいる。



 気になる女の子を見つけたら、想像力を豆腐で包んでガスコンロで焼く。ぷつぷつと豆腐に穴が空きはじめたら、火を止めて、ベッドの写真を撮る。別々のアングルから撮ったものを四枚用意する。写真ができたら、それを液状にして穴に注ぐ。
 しばらくすると想像力が緑色に発光する。黄色に変わるまえに女の子を部屋に連れ込む。穴を塞いで、形を整えた豆腐を食べてもらう。
女の子が腹痛をうったえたら、トイレを貸して、お帰りいただく。その人とは脈なしである。眠くなった人とは友達以上になれないので終電が過ぎるまえに帰ってもらう。服を脱ぎはじめた人とは一夜だけ共にする。何の反応も見せない人は人間ではない可能性があるが、最近、このパターンが多くてどうしたものかと思っている。



 生活に必要なものは、もう新居となるマンションに移してある。
 これは保育所のわたるクンにせがんで貰ったビー玉、持っていく。小学校のさい藤クンがくれたメダル、持っていく。中学校の池永先輩から貰った第二ボタン、いらない。高校の明仁から誕生日に貰った指輪、いらない。薫から卒業式で貰った万年筆、持っていく。大学のトシから貰った時計、いらない。
 友達からは、飲み会のたびに「恋多き女め」と言われてネタにされ続けた。
 自分では「そうでもないんだけどな」と思っていたし、今でも思っている。
 サークルの和明くんから貰ったぬいぐるみたち、いらない。同期の伊藤から押し付けられたピアス、いらない。合コンで会った宏道とおそろいで買ったネックレス、いらない。後輩の浜田から貰ったCD、いらない。先輩の宮沢さんから貰ったシャンパン、飲んでしまおう。
 意外と本気の恋ってしてないんだよね。この部屋にはいらないものばかりだったんだ。
 職場の女性一同から貰った花束、持っていく。
 明日、結婚、します。
 拓也さんとの初デートで行った映画の半券、持っていく。



 しかしながら、聖霊の無選択は一人の御子のみならず多くの怪物を生んだ。忌まわしい、邪悪なものが大半だったが、中には無辜の幼児達の殺戮を逃れていたら、もしやと思わせる者がなかったわけではない。無頭症の赤子が生き残って立ち上がり、長じて稀代の車引として一生を終えたのは聖霊の種だったのかも知れぬ。
 先頃、空港でスーツケース爆弾の持込容疑で止められた男もその末裔だったのかも知れない。彼が持っていたスーツケースは核爆弾などではなく、神に愛でられなかったため、正式な種類としてはこの世に存在しない生物がいっぱいに詰まった携帯用の箱舟だった。例外と偶然が支配する聖霊の御世にこそ生きるべき彼等に、幸あれかし。空しく地に放たれし、ザーメン!



 最近の私は、あのヒトに夢中で頭がおかしくなってしまったのかもしれない。あのヒト以外の世界中の男すべてが野菜にしか見えなくなってしまったのだ。例えば、あそこにいる男は、頭のてっぺんの寝癖がピンと立っているピーマン男に、その横は血管が浮き出た筋張りセロリ男、さらにその斜め後ろはヒゲの剃り残りが激しいヤマイモ男……などなど。
 愛しいあのヒトが私に近づいてきた。胸はコトコトと高鳴り、そして彼と目が合う。
 彼の瞳に映っているのは、煮ても焼いても食えない巨大ドテカボチャだった。



 十円玉があった。いくつもあった。
 一円玉もあった。いくつもいくつも、いくつもあった。
 レモンがあった。いくつもあった。
 青いのもあった。いくつもいくつも、いくつもあった。

 よく熟れたレモンを手にとった。力をいれるとぐうっとたわんだ。めりりと皮が割れて、鼻の奥まで刺激がきた。手が少しぬめり、ジュースが落ちた。
 いくつもいくつも握りつぶしていたら、辺りはすっかりつんとして、足元が少し光っていた。十円玉が光っていた。酸っぱいのに銅が磨かれて、赤いくらいに光っていた。
 ジュースでざぶざぶ洗いこすると、もっと赤く光るのだった。
 レモンをしぼって、しぼっては洗った。いつの間にか青いのも熟れて、甘酸っぱい匂いがする。十円玉はいくつもの、ぴかぴか光る山になった。一円玉も一緒になって、赤い山を包むように、いくつもいくつも、いくつもの、きらきら光る流れになった。
 さあっと一円玉が青くなった。空が晴れて、一円玉も晴れた。
 青い一円玉は水になって、赤いぴかぴかは土になった。水を吸い込んで、土はもっとふかふかになった。
 そしてレモンの芽が伸びた。
 レモンの若木に、虫が飛んでくる。あげは蝶と、知らないのと、それからたくさん。



着信は1日数百件。誘惑な件名は開封されないメッセージ。



 ある日、世の中のあらゆる物語を見聞きしたという少年があなたを訪ねてくる。あなたはお話をするのがたいそう上手だという噂を聞きつけて。
「特別なヒーローやヒロインが特別な葛藤や苦難を経て特別な活躍をする話にはもう飽き飽きなんだ」
 彼の希望に応えるべく、あなたは自身の過去を話し始める。どこにも特別なところなんてない、平凡な人生の物語を。しかし、話し終えると目の前の少年は眉根を寄せてこう言う。
「僕の言ったこと、よく分かってもらえなかったんだね。特別なわたしの物語は聞き飽きたんだ。僕は、それ以外のお話が聞きたい。その他大勢の人々のお話。たとえば、あなたが珍しく一本早い電車に乗ろうと走った、駅までの道ですれ違った人たちの話。たとえば、あなたが着ているジャケットを作った工場の半径二キロ圏内に住む人たちの話。でもこうやって焦点を当てた途端、その人たちもまた特別な誰かという役割を纏い、もう誰でもない存在ではなくなってしまう。
「だからね、これを巧く話せた人は残念なことにいまだかつていないんだ。僕自身も含めて」
 困った顔で笑いながらそう話す少年は、今やあなたよりもずっと年ふりている。



 足が降りてくるのだという。そのためのくつ下を編んだのだという。履かせるのはただ一人、それがわたしの意中の相手なのという。何の話かさっぱりわからず、ええとこれはフラれたと解釈すればいいのかなとぽかんとしていると、「ほら、きた」と彼女が上空を指さした。つられて見あげると、そこには空を埋めつくさんばかりにたくさんの巨大な足、足、足。おもわず腰をぬかした。呆気にとられるぼくをよそに、彼女はきょろきょろと何かを探す仕種で、そのうちに「あなた」と手をのばして足の一本をつかんだ。そしてそのすねにキスをし、くつ下をていねいに履かせてからぎゅうと抱きついた。すると彼女はあっというまに上空たかく引っぱられ、次の瞬間、フラれた他の足たちがいっせいに地団太を踏んだ。そこから先はおぼえちゃいないが、おそらく世界は、彼女以外はことごとく踏みつぶされてしまったいら。



 殺す予定の男が、茶でも飲もうやと言うので、自販機のコーヒーを手に廃ビルの屋上へ登った。風が強くて乾いている、いい天気だ。
 錆びた柵越しに地上を眺めながら、のんびりと缶を傾ける。
 彼が属する教団は先日、世界の核となる宝珠を砕き、そのかけらを千人の信者へ埋め込んだ。全ての欠片をつなぎ合わせなければ、早くて数年のうちに、世界は均衡を失い滅びへ向かう。
 宝珠は生気を好み、生きている物からは回収できない。
「十人殺しても大騒ぎな世の中に、千人」
 ぼそり、と男が言う。
「大変だな、あんた」
 カルト教団を狙った連続殺人。すでに世間は騒ぎはじめている。けれど。
「関係ないからいいけど、ってさ」
「誰が」
「その辺の学生」
 鼻で笑って、男は俺を見た。静かな目だ。狂気も狂信も宿さない、穏やかな。
「いっそ全部滅んじまえばいいと思わないか」
 世界が滅びようと俺に殺されようと、どのみち男は死ぬ運命だ。
 捕まれば俺は裁かれる。自分が救おうとした、何も知らない人々に。
 投げつけた缶はあっさり避けられ、風に巻かれて飛んでいく。
「……かわいそうに」
 缶の行方を見送って、俺たちはおもむろに向かい合った。地上の喧騒はひどく遠い。



 もしもあの時、別の道を選んでいたなら今の人生はまるで違っていただろうか。もしもあの時、自分が希望する学校を選んでいたなら。もしもあの時、別れた男との復縁に応じていたなら。あの時急行に乗っていたなら。左利きを直していたなら等々。
 それらはどれ一つとして、無い物ねだりではなく可能性として有り得たはずの未来だった。わたしは未知のものとなってしまった方の選択結果に思いを馳せる。
 もしも、あの時——。その時々で異なる選択をしていたなら存在しえた無数のわたし。わたしの所為で潰えてしまったたくさんのわたしたちを儚んで、わたしは思い付く限りの岐路を挙げてはあらゆる途を逆に辿った。けれど可能性の一端でも取り戻そうと進めば進むだけ、「あの時そうしていたはずの自分」から遠ざかっていることに気が付いて愕然とする。「その時すべきことをし続けた自分」や「その時別の途を戻った自分」や「その場に立ち止まった自分」がそれぞれの分岐で多数の新たな可能性を生み続けていくばかりで何一つ取り戻せてはいなかったのだ。わたしは何ものも存在しなくなった部屋で立ち尽くす。
 わたしが次に選ぶみちは、もう、一つしかなかった。



 たりぃよなぁ。なにも雨の日にウチの怪人様も暴れなくて良くね? 水煙の中から登場とかにカッコ良さ感じるのって、俺らの親父みたいなオタク第一世代の連中だけだって。今時の悪役はもっとスマートかつクールにだな。
 いって。泥だらけの足で蹴んなよ。ちっとは人の話聞けよ。だいたいな、俺よりお前らのが全然強いんだから、余裕つーかゆとり? 必要じゃねぇーの。正義の味方だろ? なんだ。今時のPTAとかは、ヒーロは悪役を集団でボコるからけしからんとかなんとか言ってるらしいじゃん。だろ? だったら、やっぱ俺らみたいのをもっと大事に扱うべきじゃね? すこしは危機感煽りつつ格好良くこなしてみせろって。そうすりゃ、お子ちゃまだけじゃなくてPTAの皆様も肩入れしてくれるって。頼むからイケメンとかでお茶の間に媚び、へいへい。やられりゃいいんだろ。やられりゃ。でもな、俺にはクライマックスだぜ。見せ場だぜ。バシッとやられてやろうじゃねぇか。わ〜、や〜ら〜れ〜た〜〜〜



 刻み込まれる痛みに、意識が覚醒させられる。切っ先から注ぎ込まれるのは、恨み辛み憎しみ。行き場のない想いが救いを求めて、私に流し込まれる。死を待つだけのこの老体に、今更何ができるというのか。それでも彼女等からの意志は、切実に私に突き刺さる。やがてそれは私自身の姿を変貌させる。私自身の姿に、好奇の視線を向けるものも僅かながら現れる。私はここに根付いているから詳しくは分からない。唯、脈々と噂が語り継がれているというのが、私の中にも伝わってくる。私という個が形成されていく。私は私に縋ったものたちに報いてあげたい。そう強く願えば、私の輪郭はますます濃くなる。望みが成就されたからか。あるものは私を信奉し、またあるものは私を畏怖した。私を思ってくれるのなら、どちらでもかまわない。私が読み取れるのは私に籠められる想い、向けられる想い。その中でも慕い縋るのは、所詮一部の小さな想い。だから私に籠められる呪詛を私に見向きもしないその他多数の人々に、私は何の感傷も持たずに送ることができるのだ。今日も私はこの薄暗い場所で繁茂し続ける。



「じゃあ、こちらを」
 小さいほうのつづらを両手にもち、「ありがとう」と目を細めておじいさんは言いました。そして、よっこいしょ、と腰をあげかけましたが、
「待ってください」
 一羽の雀が片方の羽根を前に出し、おじいさんを引き止めます。
「なにかな」
 よっこらせ、と再び筵の上に腰をおろしたおじいさんに、別の雀が言いました。
「ぜひ、開けてみてください」
 おじいさんは、にっこりとして頷くと、つづらのふたを開けました。「おや」
 中には薄茶、えび茶、藍色、草色をした四つのつづらが入っているではありませんか。
「選んでください、おじいさん」
 しばらく迷ったおじいさんが「じゃあ」と、その一つをとりました。雀たちはまた、開けてみて、と言っています。
 開けると今度は十いくつの、平たいのや角の多いのや丸いのやのさまざまな形のつづらが入っています。
 おじいさんはひとつ、摘みあげました。雀たちよりずっと小さなつづらです。眇め、うふふ、とおじいさんは笑って言いました。
「結構な細工だね」
 ほめられた雀たちも、ちちちち、と笑います。
 おじいさんがふたをそっと外すと、中には目の前の雀たちよりたくさんのつづらが並んでいます。



われわれはわれわれが割れ割れにならぬように、重々気をつけなければならない、夜が捲れあがる速度で、町に囁きが伝言される。
割れ割れになったカケラはわれわれの踵に刺さり、甘く苦い痛みを与えるらしいよ。けれど、いくらわれわれが割れ割れても、花魁の首筋の淫靡でそれを避けることができるのだというよ。
われわれはわれわれでいるべきなのか、割れ割れて離れるべきなのか、迷っている。悄然、さかまくがあり、了解はさまざまで、裏切りがあり、約束を結んではほどいたりします。
割れ割れたら、われわわれではなくなるから、なんだか寂しい気がするけれど、とりたてて困ることもないきがするのです。



俺は自分で言うのもなんだが、普通の連中とは違う。
世間であふれかえっている同世代の平凡なサラリーマンや、平凡な学生なんかとは比べ物にならないはずだ。
そういえばこの前雑誌を読んでいたら俺の気を引く記事があった。
この雑誌も本当に人が読んでいるか分からないようなマイナー雑誌で、その記事とは俺がこの前答えたアンケート結果だった。
ほら見てみろよ、俺の答えが少数意見として載ってるぜ。
その他多数なんかでまとめられる連中とは違うんだ。



この駅には片道切符しか売っていない。
私は切符を受け取ると上がりの列車に乗り込んだ。
見渡すと女優やノーベル賞博士など有名人の姿があった。
空いている席に座るとすぐに車掌が切符の確認に来た。
「ここはグリーン車です。お席はあちらになります」
そう言って指さす車両に移動した。

「会社員の指定席はここですか?」
「ここは公務員です。もっと前のお席ですよ」
礼を言い再び移動すると途中で落とし物の切符を拾った。
『自由席 大人一命 フリーター様』
と書いてあった。ちょうど通りかかった車掌に渡した。

席に座り窓の外を見ると隣には下りの列車が止まっている。
窓際の顔に見覚えがあった。新聞を騒がせた殺人犯だ。
驚いた。もう刑が執行されていたとは。
思わず胸を押さえたが私にはドキドキと鼓動を鳴らす心臓はもうなかった。

ゆっくりと列車は動き始めた。
行き先は2つ。
黄泉の電車に途中下車はない。
前方のドアが開くと自由席は人であふれている。
このご時世だ。これからもっと増えていくことだろう。
ガラガラに空いているグリーン車の方を見ながら私は苦笑した。