500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第79回:ジャングルの夜


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 夜だからといってしんと静まり返っていると思えば、それは大間違いだよ。
 それにね、辺りは闇に包装されていると思っているのなら今すぐに認識を改めるべきだ。
 木々が生い茂っているだって? やはり一から学び直すべきかもしれないね、君。
 猛獣やら気味悪い独蜘蛛やら訳の分からないものが沢山いる? ああ、それは間違っていないよ。なんだい君、思ってたより少しは分かるじゃないか。

 でも、認識不足は否めないね。勉強するべきだ。
 例えばね……
 よーく、この展望台から俯瞰してごらん。
 実際に探検して、君の五感で感じてごらん。

 なんかの勧誘か客寄せか、後は会話か何か分からないが、とにかくうるさいだろう。
 電光板や街灯がまぶし過ぎるくらいで、闇なんか申し訳なさそうに存在しているだけだ。
 地面なんかアルファルトで舗装されて、草木何てものは繁っちゃいないさ。
時折現れる通り魔、変質者、ケバケバしい服のギャルなんかは本当に毒を持ってるのかもね。

 君々、ジャングル知ってないと、生きてなんかいけないよ。危険がみっちり詰まっているのだからね。



 口紅を中指ですくって下唇にのせる。その柔らかさを確かめるようにそっと指を滑らす。私が指を離すと、彼女は一度きゅっと口を閉じ、色をなじませた。
「今夜もずっと起きているのですか?」
 私が聞くと、彼女は笑った。紅玉で彩られた唇から真珠の歯が覗く。
「当たり前よ。何のために着飾っていると思っているの?」
 桔梗色に染めた瞼で小さな星が瞬く。長く伸ばした睫毛が、ほんのりと桜色の頬が、結い上げた髪に挿した銀の櫛が、金糸を織り込んだ青い衣装が、彼女を飾る全てが灯りを受けて輝く。
「もう下がってちょうだい。今夜こそ素敵な人が現れるわ」
 毎晩繰り返す台詞を同じように今夜も言って、彼女は椅子に座る。朝までそうやってオスがやってくるのを待つのだ。私は一礼して部屋から出た。彼女はもはや私のことなど見もしない。
 細い階段を下りて外に出ると、もう日は沈んだ後だった。周囲の緑が闇色に変わっている。
 私は扉に鍵をかけた。着飾って待っていたって誰も来るはずないのだ。
 ふと見ると爪の間に先ほどの口紅が残っていた。自分の乾いた唇にこすりつけ舌先で舐めると、わずかに甘かった。



 虹の色の数を聞かれて、そんなのは数えられないと答えたらみんなに笑われたんだ。授業に関係ない、ちょっとした話の繋ぎにと先生が聞いてきただけだったんだが、俺も子供だったから向きになった。黄色にだって色んな黄色があって、それは決して一色じゃない。名前のない色も、それは色なんだ。馬鹿ばかしい話だよ。五色でも六色でも適当に答えときゃ良かったんだ。だけど俺はまだ、子供の頃の俺は正しかったと信じているよ。
 まるで焚き火に話し掛けるみたく彼は呟く。焚き火も彼に相槌を打っている。枝に含まれている水分で、火の中が小さく爆ぜるのである。森は呼吸をしていて、その湿度が光を吸収して蓄えるから、夜は余りに暗く昼間の熱を忘れる。交代で朝まで火をくべ、明日に備える。我々は炎の光に包まれ、光は木々に包まれ、木々はジャングルに包まれ、ジャングルは夜に包まれ、夜は虹に包まれているという。
 どんなに見上げても、木々とその切れ間の違いも見分けられない漆黒の宵闇。しかしよく見れば、夜空もざらりとした濃い闇に紛れて無限に彩られていると彼は言う。名前のない色も、それは色なんだ。見ようと思えばいつでも見られる。誰にでも見られる。
 虹は森で生まれる。



 キスの最中、彼女の髪を撫でていてふと、妙なものに触れた。指の間を抵抗なくすり抜けるなか、ざらっと毛糸のようなものが一本。それを何の気なしに引っぱってみた途端だった。彼女の髪がはらりと散り、目の前の顔の輪郭が崩れる。やわらかな胸も、腕に抱いた背なかも、ただ余韻のみを残して彼女はその形を失った。吸い寄せていた口元から、毛糸がだらんと垂れ下がる。布団の上に毛糸の山がぐじゃぐじゃと散乱する。そうか、ほどけたのだ。毛糸から彼女の味がする。
 と、反り勃ったままの己のものに、毛糸の端が引っかかっているのを認めた。端は結び目になっている。今度はそれを手に取って、ぱくっと咥えてみた途端だった。鋭い獣の叫びがして、目の前がゆがむ。いやほどけていく。世界がほどけていく。足元が消え重力を失い、ぐわんと闇へ放り出される。

 気づくと、密林のなかにいた。木々の隙間から月が覗く。口には咥えたままの結び目。その先が暗闇に向かって伸びている。毛糸をたぐり、奥へと進む。にちゃにちゃと足音。じめじめとした熱気。そして結び目を舌で転がす度、何とも知れない夜行性の生き物が高く叫んで耳をつんざく。



 にわか雨がどどうと降った。大あわてで窓を閉め、レースのカーテンを引くと、雨宿りに入ってきたのだろう、ぽたりと布から鬼が落ちた。
 鬼といっても目覚まし時計のかたちをしている。さりさりと音をたてながら、大きいの小さいの、金属のプラスチックの、人形つきの液晶の、青いの赤いのとわいてきた。門の明かりを頼りに来るのか、まだまだ数が増えてゆく。
そうして私の長い髪に取りつき、すべり台を始めるのでおかしくてたまらない。ベッドから転がり落ちる遊びをして、割れもしないでぽんぽんはねる。
もう私は寝るよ、雨はあがったよ、おかえり。と言っても目覚ましははしゃぎ、つかまえて追いはらっても頑張っている。
 本棚のすき間で小説のふり。鏡台の上で化粧びんのふり。皆でつながって掃除機のふり。
私のほんとの目覚まし時計も、やれやれという顔をしている。



ガサガサとかき分けては溜息を抑えなければならない状況。先が見えない。そしてとにかく暑い。下を向くと汗がたれてきて、口に入ってくる。不愉快なことこの上ない。それでも俺は探さねばならない。発見するまでは一睡も出来ないだろうしもうする気も無い。パキッ、と乾いた音。何か踏み割ってしまったのだと悟る。しかしそれは目的のものではないと判っている。だからその何かの断末魔を聞かなかったことにして、手を動かし続ける。虫が鳴いている。月は出ていない。ああそうだ出ているのは汗だ。ひたすらしょっぱい。この行動がしょっぱい。自分の他に誰もいないことは知っているが、それでも見られていたらどうしようなんて意味の無い心配が頭の中でぐるぐるしている。暑い。蒸し暑い。風が全く感じられない。きっと吹いても南風、涼しさなんて微塵も含んじゃいないのだろうが。
暑い。どうしてエアコンはリモコンでしか動いてくれないのだろう。そしてさっきこの足で破壊したものは何だろう。嗚呼リモコンよいずこ。



 真っ赤で丸い月の夜。ビールを買いに外に出ました。
 公園前の自販機で、買ってその場で飲み干しました。
 飲み足りなくてもう一本、そうだ、と公園に入ってみたらあら驚愕。
 そこそこ広い公園です。記憶によると砂場・ブランコ・滑り台。
 そして、確かにそこにあったのは。
 ジャングルジム。何これ何これ何なんだ。その一角だけ緑の塊。
 恐る恐ると近づいて、触ってみると「……樹?」。
 酔ったんだ、思って缶を頬に。けれどもまた思ったの。それもいいかと思ったの。
 ぷしゅっと開けるプルトップ。ぐびっぐびっと飲み干しました。
 たまには酔って自分開放。Tシャツ・ジーンズ脱ぎ捨てて、そいやっ、と飛び込む緑の中へ。空には赤いラフレシア。気付けば自分は「森の人」。
 長い手足は鉄ではなくて枝掴み、進んでいくよオランウータン。
 ひゃっほー、ひゃっほー、うぃききききー。



ああ、冷たい、とっても冷たい。
昼も夜も冷めない熱の森なのに、妹のおでこは冷たかった。
死んでいるわけじゃないんだ、だって、胸に耳をつけると音がする。
ごう、ごう、ごう、ごう・・・妹のだけじゃない、たくさんの水の音が暗い森に流れていく。
「熱帯雨林保護活動区画A-1004」「養生中につき立ち入り禁止」「美しい自然を守ろう」
何て書いてあるのか全然わからないけど、妹の横にはあいつらの立て札が立ってる。
「子供をさらって、木がなくなった森に植えちゃうんだって」
「植えられちゃったら、種を飲まされていつか本物の木になっちゃうんだって!!」
—人間が本物の木になるなんて、そんなのでたらめだ!!
村のみんながひそひそ声でバカな話ばっかりするから、あのとき僕は怒ったけど、それは本当の話だった。
「ごめんね、お母さんのせいで、ごめんね・・・」
妹が連れて行かれた朝、母さんは泣いてた。
父さんは妹の方を見ようともしないで、あいつらからもらったお金を数えてた。
妹は泣きそうな顔をしてたけど、泣かないようにがまんしてた。
あれから毎日、夜になると僕は妹の所に行く。
あの日「バイバイ」でも「またね」でもなく、「わすれないでね」と言った妹のために。



 草、生い茂る大地の上に男と女が空を見上げて大の字に寝そべっている。
 その二人が一年に一度しか会うことを許されていなかった恋人同士なら、獲物を追っている最中の獰猛な獣だって、邪魔をしては悪いかなと、そっとその身体を跨いでいかないわけにはいくまい。
 ふさふさした尻尾が僕の顔を撫でていく。
「こんなところまでは、追ってこないだろう」
 空一面に広がる大銀河アマゾン川の両岸に声を荒げて引き離された僕たちは、七月七日、超新星爆発に伴って起こる逆流星群を待っていたのに何も起こらなくて帰っていく星サーファーたちに紛れ、手と手を取りあって、ここまで逃げだしてきた。
「いつまでここにこうしているの?」
「このまま、いつまででも幸せだけど」
 今までは対岸でただ見つめ合っていたのだから、今こうして隣り合って同じ方向を見ている、きっちり180度の距離感もそれほど悪くは思えない。別に、久しぶりの重力圏だから指一本動かすのにも苦労しているわけでは決して無い。
 それでも、例えば、『少女の熱く濡れる密林を男の荒々しい肉棒が掻き分けて』といった感じの話の続きが読みたい人は、僕らの絡み合った指の部分を中心に谷折りしてみればいいじゃない。



 トラに乗って、会いに行ったような気がする。
 遠くから見るとその塊は、誰も近付くことのできない緑の要塞みたいだった。
 彼は、いつも優しく笑ってわたしを迎えてくれる。
 その度にわたしは泣いて、彼はすこし悲しそうにする。
 それからわたし達は黙って手をつないで、外から見るよりずっと色の溢れた世界をふたりきりで歩いた。
 しらない花が咲いている。
 食べたことのない果物に触れてみる。
 動物園でしか見たことのない生き物に出会ったりする。
 彼はわたしの右手をそっとひいて、鬱蒼と茂った林のあちらこちらを静かに案内してくれる。
 こんなに生き物がいるところなのになぜか、音はまるでなかった。
 わたし達も、まったく言葉を交わさなかった。
 そうしているうちに、またさよならの時間になる。
 彼が手を振った。

 朝が来て、目が覚めた。
 ちょっと行ってくるね、と言ったまま帰らなくなった彼は、やっぱりわたしといっしょには戻って来なかった。
 全部をふたりで歩いてまわったら終わってしまうような気がするのだけれど、きっと今日もわたしは、見たこともないジャングルにいる彼に会いに行く。
 彼の好きだったトラに乗って。
 今夜はまだ会えると思う。



 熱帯夜に遊泳する魚たちの幻を見て床から抜けた。冷たい火照り。見上げる空には密林の影を底に星々が煌めく。りゅうこつ座が見事な船底を描いているのがうれしい。渡る風。さざ波は耳に遠く、寄せては返す。
 するり、と着衣を脱いだ。羞恥心はない。白い肌が星明かりに滲む。
 キャンプは水場の前。星空を鏡のように写している。
 波紋。
 私のつま先から広がる。
 昼に水浴びした場所だ。ジャングルの掟はあるまい。
 そのままくるぶしふくらはぎ反対のつま先両のふともも秘部締まる腰と漬かって、思いきり水底を蹴った。長髪が広がる感覚。体が伸びきる。熱帯夜を泳ぐ開放感。すべてが——。
「だれ?」
 視線を感じ、胸を隠しながら立ち上がった。だれもいない。
 ああ。
 それでも隠し切れない胸に雫が伝う腰に水面に隠れる秘部に視線を感じる。白い肩や背にも。飛びたいが私は鳥ではない。密林から見られている、多くの瞳に見られている。張り付くような視線だ。
 だから帰国後、彼には会わない。私の体には野生に犯された痕がある。
 シャワーでいくら流そうとも体中に張り付いた目玉は取れない。
 今日も鏡の中、獲物を狙うように私を視姦する。水底の火照りに狂う。



 太陽の沈まないジャングルに陰星が昇りはじめる。陰星の放つ明るさのない光が密林に満ちていく。陽の光と陰の光が打ち消しあって、空気は熱を帯びる。その熱は陽の光が恵む穏やかな温かさの何百倍も熱い。故に土を掘れるものは地に潜り、水に潜れるものは川に飛び込み、空を飛ぶものは陰星の光に追われるように飛び去っていく。
 動物のいなくなったジャングルでは、これを機会に大きさのない木々から、重さのない種が落ちる。陰星の沈みきるまで続く高熱の夜の間に、形のない芽がでてジャングルに時が積み重なっていく。層状の時間は醸されて、三分後に終わる世界の夢で何度も何度もジャングルは魘される。



 コンクリートジャングルの一角に佇む大邸宅。そこの夜会は最高の狩場だ。参加する男はどれも超一流。その樹液を吸うだけで、あたしは蛾のように舞い上がれる。

 門番にコネをつけ会場に入ると、タキシードの密林が開けた。グラス片手に美味そうな樹を物色する。
「是非、お相手を」
 ふふ、群がってくる。でも、狙いは最上級だけ。紛い物には興味ないの。

 突然、ひとりの男に目が釘付けになった。これぞ正真正銘の本物。最高の笑顔を送ると、彼が近づいてきた。
「遅かったな」
「え?」
「『インカの秘宝』は書斎だ。さっさとやるぞ」
「ええと……」
 秘宝って先月、大統領官邸から盗まれたアレ?
 あらら、想定外の事態。
 そう思った瞬間、脳内に危険を告げる胡乱な声が渦巻いた。
「正体を現したな。女に仕掛けた盗聴器に気付かぬとは、馬鹿なスパイだ」
「ダミーにひっかかったわ。この隙に秘宝は私のもの」
 ここは盗賊とスパイの巣窟?
「踏み込むぞ。スパイもろとも一網打尽だ」
 うわ、警察までも!
 そして、とどめのテレパシー。
「ジャングルジム作戦発動」

 ぐらぐらっと地面が動く。
 星空に無数の円盤が現れ、大邸宅ごと吊り上げた。
「成功!」
 あたしは面白いものは根こそぎ奪う主義なのよ。



昼間の月を見るのが好き。
青い空に白く浮かび上がる月を見ながら、私は一人Hに耽る。
異物を肛門に挿入すると欠けていた私自身が満たされる気がして、チカチカした曼荼羅から巨大な蛇が私の絶頂を見下ろすようにパックリとのみ込むと、吐き出させた場所は真夜中の密林だった。
「おや、新人だよ。珍しい」
全裸の男が私に近づいてきて握手を求めてきたけど、私はその体臭にたじろぐ。
「怖がることはない。愛するとは本来、消化不良の排便の中を泳ぐことなんだ」と言った別の男の顔は、なぜかうれしそう。
「ここは倒錯した性欲者が集う場所」
「しかしね、キミ。正常か異常かなんて、うんこかゲロかの違いだよ」
「蛆と真珠」
「教訓はいつも皮肉を生むものだ」
なんかゾロゾロと6人も集まってきた。ていうかあんた逹、服着ろ。
「月は願いを、一度だけ叶えてくれる」
「腐乱した子宮を脳細胞に繋いで詩を作ることだってできるぞ」
「元の世界に帰ることも」
空を見上げると輝いた天体があって、私には太陽にしか見えないけどジャングルでは夜の太陽が月なのかもしれない。
私は「忘れさせて」と願い、曼陀羅チカチカ中でなにを忘れたかったのかを忘れた。



 夕立が止んだばかりでアスファルトには水溜りがたくさんできている。水面にはビルが映っているわけではなく、地面に穴が空いているように向こう側の世界が覗けた。膝を着いてじぃっと眺めると、木々の間を横切る小さなあなたが見えたから、私は「おーい」と声を掛ける。
 あなたは首だけをひねって私の姿を確認したように見えたのだけれど、あまり興味がない風に前を向き直って歩き出してしまう。そんなのは厭だ。私は更に大きな声を上げる。あなたはもうこちらを見ない。私は叫ぶ。
 あなたの名前を。
 突如、私の周りにある水溜りのひとつひとつから一人ずつ現れるたくさんのあなた。空洞の眼で一斉に私を見つめる。けれどあなたはもうあなたではない。あなたたちは誰一人としてあなたではない。同じ顔をした誰か。同じ服を着た誰か。同じ喋り方をする誰か。誰か誰か誰か。
 ああ、空には歪な月がいくつも浮かんでいる。何処からか私の名を呼ぶ声がした。



 もう人生ダメだと思ったから身近な高層ビル、の隣の七階建てのマンションの階段を駆け上り、屋上のドア、破れろと蹴り飛ばしたら、革靴が生き返る。だって毛が生えたから。本当はただドアが毛に変わっただけ。もみくちゃにされて外に飛び出したら、空一面、毛。生えては抜けて生えては抜けて。舞い落ちる、それが口の中に入ったときに、お風呂場、と思ったから、もうこれは間違いなく毛。
 日本だから黒いし、ときどき白いのも混じる。日本はもう中年だったんだ。
 足元も編み籠みたいにていねいに織り込まれている。端まで歩いて下を見ると地面は黒々とした毛で覆われていた。赤のセダン、赤のフォード、赤いチューリップが線の中に揉まれては持ち上がる。他の色はすでに脱落したみたい。
 俺はビルから飛び降りる。でも五分前までの心境とは全く違う。
 毛に阻まれて生き残ろうとも、毛の隙間を縫うように地面に叩きつけられて死のうとも、どちらでもいい。わっさぁとした毛をみていたら、夜が産まれた、なんて思ったから。人ならその神話に向かって飛ぶよ。
 地面を蹴り破っていた。靴を超えて俺も生き返った。黄泉がえり。



 私は、どうして、こんなところにいるのだろう?

 気がつくと、暗くて深い森の中にいた。まっくらな穴の中に突き落とされてしまったみたいだ。仰向けになって星空を見上げると、周りを取り囲む木々がぐるりと円を描くように私を見下ろしている。風で、葉がゆれて音を立てると、不気味な笑い声のように聞こえて、寒くもないのに体がふるえてしまう。
 こわい……。こわいよママ。

 昼過ぎから降っていた雨がやんで、窓から見える空にきれいな虹が出ていて、私は、その虹をつかまえたくて歩き出した。途中、すこしの間だけと、通り道にあった公園で遊んだのだけれど、いつのまにか、疲れて眠りこんでしまったらしい。
 そして、目が覚めるとここにいた。ここは、どこ?

 ママが迎えに来てくれるといいのに。本当のママじゃないけれど。弟が生まれるまでは、とても優しいママだった。最近、冷たくなったママ。でも、会いたいよ。

「コラッ!こんなところで何してるの?」

 ママの声がした。観念した私が砂場に出ていくと、頬をふくらましたママが立っていた。ママの目には涙が流れている。
「心配したんだからね。なんで、ジャングルジムの中でなんか寝ているの?」

 ママは、優しく抱きしめてくれた。



 野良のフタコブラクダと出会う。都会のど真ん中だった。ラクダは四車線の道路を悠然と横切って現れ、僕の前に来ると頭を垂れた。禿げかけた頭に手を添えるとラクダはこそばゆそうに顔を左右に振った。
 僕らは旅に出た。出なければならなかった。僕らは地球をくまなく歩き、ときどき曲芸で日銭を稼ぎ(プラハでサーカスに誘われたけれど断った)、いつしか出会った日のことを懐かしく思えるようになった。

 おまえの背にのってどこまでもゆけたらいいねえ……。

 ある晩、僕らはジャングルで床に着いた。できるだけたくさん火をくべ、僕らは身体を寄せ合い丸くなっていた。こんな夜は早々に眠ってしまうに限る。すっかり嗅ぎ慣れた匂いに包まって空を見遣ると、焚火の白い煙がうっすらと覆っていた。その様子がいつか見た湖の霧に似ていると思ったところで記憶が途切れた。
 ——のっそりと動く気配がある。後足、前足。去る間際、ためらいがちにこちらを振り向いた、気がした。
 待って! と声を上げかけたところで目が醒める。真っ暗だった。火が消えたのだろう。薄らぼんやりとした空がふっと色を取り戻すとそこは都会のど真ん中だった。
 停電だったようだ。喧騒が戻ってくる。



タムタムタム
ボンゴボンゴボンゴ

トラは何も話しません。向き合ったままじっとしていて、何をしたいのかもわかりません。猫のように前足をそろえて投げ出し、スフィンクス状態です。
わたしも膝をそろえて座りました。
赤くてむらむらの月が、夜の真ん中に陣取っています。さっきからじっとしているわたしたちを、じっと見つめるばかりです。一言何か言ってくれればいいのに。

タムタムタム
ボンゴボンゴ

あれはなんの合図でしょう。何の話し合いなのでしょう。いつ終わるともなく続いています。
トラの瞳は澄んでいます。月明かりに照らされ、中で何か動いているのが見えてきました。
目を凝らすと、そこには一匹のトラがいました。トラの瞳の中の、小さなトラでした。
小さなトラは、跳んだりはねたり、ぐるぐる回ったり、わけのわからないい動き方をしています。

タムタムボンゴボンゴ

その音に合わせて踊っているようにも見えます。わたしも踊りたくなってきました。
ジャンジャンジャンで、グルグルグル。
こんな不思議な夜には、自分を忘れることも大事だと、赤い月がにんまり笑って言っているように思えてきました。



 ホッピーだらけの裏通り。ピンクいネオンの歓楽街。
 アスファルト蹴飛ばした先、颯爽とキャッチの荒らし。
「二次会カラオケいかがすか?」
「ただいまタイムセール中」
「いい娘いるよぉ!」
「シャッチョサン! シャッチョサン!」
 残響反響、僕が拾い、死語や駄洒落に陽を当てる。
 雑踏満たす無声音。掻き消してゆく外車成金。吹き流される路上ライヴ。踏みつぶされる夢・希望。
 エコに欠けてるインテリジェンス。強制されるヴォランティア。
 一人称は「僕」がいい。「俺」に無いから。Bが無いから。
 大事なグレード、下げる素人。昼は公園。夜は失楽園。絶品なべっぴんと臭い青姦。
 正論語るオヤジが買う春。ガキが連呼する「ヤバイ」は憂鬱。乱れるミームが絡み合う。
 ドラッグさえも青ざめるコミュニティ。人工的な猫の集会。コンクリートの熱帯雨林。大都会に溢れる緑。
 生態系は常に変動。「原始の自然」という幻想。生き延びるため人が密集。雑然とした都市のシステム。
 僕はゆく。この街をゆく。僕はゆく。



 彼女は人を待っていた。
 鬱蒼とした密林、中でも聖神を宿すとされる不老大樹の根元で。

 ——セリは、森の守り手と呼ばれる獣の部族の一人で、長の愛娘であり優秀な狩人だった。
 獣と言っても、虎の耳、豹の尾、ジャガーの足部、それ以外は人間と同じで美しい。
 部族では永く続く慣習として、月に一度双月が満ちる夜、代表者だけで外の部族との会合が行われる。
 彼女は今の代表者だった。

 周囲に設置された松明の炎が、セリの緑眼に映り込み、金の髪を照らしていた。
 部族独特の軽装なパレオを身に纏い、獣の様に四肢を地に着けて、淑やかに座っている。
 だがその心は夜の静寂さとは裏腹に、落ち着きを欠いていた。元来凛としているその目も、今はそわそわしい。
 突然声がした。
「ニンゲンマッテル。アタマアイツバカリ」
 途端に無数の声が木霊する。
 セリにはそれが精霊の悪戯だと解っていた。
 反射的に叫ぶ。
「ウルサイ!」
 声は収まり、夜風が金の髪を揺らした。

 セリの耳に足音が聞こえ、暫くすると人影が見えてきた。
 人影はセリに手を振った。
 セリの心臓は早鐘の様に鳴り、最早抑え切れない嬉しさが表情や耳と尻尾に出ていたが、彼女は急いで手を振り返した。



 連れは前を進んでいく。人々の中で、私は連れの頭を見失わないようにした。ちらりとりんご飴の文字が目に入る。買う気はないけど、立ち止まってそのままぼうっと眺めてしまいそうで、視線を連れの頭に戻す。
 マイクを通した歌声が聞こえてきた。懐メロ。聞いている分には嫌いではないけど、今連れに話し掛けられたら、きっと聞こえない。私の声も聞こえないだろう。繰り返される聞き返しを思ったら、嫌になった。家族連れが目に入り、あれならよかったのにと思う。
 橋の上は、下の河川敷から思いがけないほどの虫の声がして、うるさかった。連れは、手にフライドポテトを持ってすぐに帰ってきた。後ろから遠く懐メロが鳴っている。花火まで、まだ十五分あった。
 上がった。連れは何か言っていたが、私はただ見ていた。見ながら、ジャングルのことを考えていた。密林。緑と陰。酸素。その夜は、静かだろうか。鳥。夜行性の動物が鳴くのだろうか。寒くなるのは、砂漠だっけ? 急に、さみしい気がした。視界では金色の花火が連続で打ち上げられ、大輪になっていった。周りからわぁと歓声が上がったのに、少し遅れて、気付いた。終わった。いつものように、首が痛かった。