500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第119回:情熱の舟


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 情熱の舟1

——やっぱ折り紙かな。日本の色鮮やかな折り紙は喜ぶぞ。
——現地調達できるものじゃなきゃ意味ないでしょ?
 緊張と気迫がないまぜになった同期隊員たちの会話を、舟の中で思い出す。彼らの熱に感染して、いつしかモラトリアムの僕でさえ、最高の出会いを意識するようになっていた。

 赴任先は小学校。校舎の床板の下に、泥に濁った水がゆっくりと流れていく。ここで算数、理科、工作を教える。国の未来を決める教育者が、僕なんかで良いのだろうか。
——ツルって、子供向きじゃないよなあ。
 教室に、およそ教材というものは何もない。古新聞を切り始める僕を、皆とまどったような笑顔で見つめている。
——帆の先をしっかり持って、目をつぶって。
——はい、目を開けて。
——あれ、どこを持っているのかな。
——面白いだろう。だまし舟っていうんだよ。
 くすくすと笑いが広がり、何度も繰り返しているうちに笑い声がもれ、次第に歓声に変わった。次は自分の番だと、身をよじり、ぴょんぴょん飛び跳ねる子ら。
 彼らの目に映る異国の魔術師。魔法で、この子たちの人生の何が変えられるだろうか。
 手からすり抜けただまし舟は、風に舞い、泥水の中に沈んでいく。
 二年間は長い。



 情熱の舟2

 ギャラン、ギャラン、ギャラン、ギャラン……。
「はっはー見てみろコレが波紋だコレが鼓動だコレがサウンドゥだ!」
 名勝の湖に浮く貸しボート上でこまごま金属突起の付いたチョッキを着た男がエレキギターをやっていた。
 孤独?
 いや違う。
 ギャラン、ギャラン……。
「音が水面を震わせ行くぜ、テメーのハートを震わせドゥだ!」
 彼の刻むビートは確かに波紋を呼んでいる。ぽつぽつとまるで降り出したレインのように丸い波紋を生んでいる。貸しボートの周辺に。
 ギャランギャラン……。
「いいかいつまで沈んでる? テメーのビートは浮かばれねぇ。俺のビートでデェァンスドゥ!」
 レインはやがてスコールに。そこに誰かがいや聴衆がいや大観衆がヒートしてるライクにレイクでレイヴしている。沸き立つ水は総立ちで大熱気大歓喜大昇天。コールコールコールで見ろ天に向かって降るスコールライクにレイヴなレイク。フィッシュもウィッシュでフライッシュ、アンカーはランカーにハンマーフラウ、オールもオールがバタフラウ。
「ギャランギャラン……」
「どうしたの?」
 湖に浮く貸しボートの上。結婚を控えた女は、寂しそうに湖面を爪弾き呟いている男を心配していた。



 情熱の舟3

どうだい、おもしろいボトルシップだろう。
素人づくりでまるでヨットのような形だけど、材質がいいんだ。クルミ材でできているものなんて、ちょっと他には無いんじゃないかな。
これは祖父の作でね、材料を一から削り出したから、全部完成するのに一年はかかったそうなんだ。
実はは昔、この舟は本当に人を乗せて海に浮かんでいたんだよ。
いや、法螺じゃないさ。
それは、祖父が若い頃のことなんだ。
当時祖父は画家を志して渡米していてね、彼の地で運よく裕福なパトロンに出会えたそうで、上流階級とも交流をもつようになっていた。
そしてある時、パトロンに船上パーティに誘われたんだけど、その船が火災で沈んでしまったんだ。
祖父は海に投げ出されたけれど、幸いにも近くに豪華な机が浮かんでいた。おそらく船長室かどこかで使われていたのだろう、その焦げた机にしがみついて、祖父は九死に一生を得た。
救助された祖父はそれを記念に持ち帰ろうとしたけど、損傷がひどくて机としてはとても使えない。そこで、小さく切り分けて、小さな舟に作り替えたって訳だ。
瓶に入れたのは、二度と火災で燃えないためなんだそうだ。
クルミの船が燃えちゃあ、洒落にもならないしね。



 情熱の舟4

 その舟が情熱で出来ていた為に、水は、液体で居られなかった。舟は、海の死を悲しむ余り、自らの体を焼き尽くそうとした。愚かな者たちを哀れんで宇宙が流した涙は、情熱の燃え滓たちに、碇を下ろす事を赦した。やがてかれらは、知ってか知らずか、舟を再建し、かれらが星と呼ぶ涙を涸らしてしまうのだが、おめでとう、と今は互いの火を讃え合う。如何なる状況にあっても、新しい年へ漕ぎ出す時は必ず祝福しようと、羅針盤となるべき暦を定めた際に誓ったからである。



 情熱の舟5

「ねえ、あなた・・・私、こんなに感じちゃってるのよ」
腰をくねらせ、和服の裾を開いて見せながら、女が男に迫る。

貞淑なはずの女の豹変ぶりに、男は焦りに焦る。
「ダメだ。まだこんなに日が高いじゃないか。よせったら」
男は拒むが、女は男の上に馬乗りになって、結っていた髪を振り払う。

「久しぶりじゃないの。こんなに燃え上がってるのよ。抱いてちょうだいよ。ね?ねえったら」
と言って、女は興奮して息を荒げながら帯を外し、和服を脱ぎ捨て、素っ裸になると、男の顔面に自分の乳房を擦り付ける。

「し、辛抱たまらん!」
男は、熟れきった女の乳首に貪りつく。

「あ、ああ! 感じるわあ!」
女は情熱的な喘ぎ声をあげる。

「そんなに大きな声を出したら、子供たちに気づかれちまうぞ」
男は、意地悪そうに言いながら、女の熱くなった陰部をまさぐる。

「あ、あ、ああ・・・カツオとワカメに気づかれたっていいわ! もっとメチャクチャにしてちょうだい!」



 情熱の舟6

 知りすぎてしまった男は、止むにやまれず向こう岸を目指す。それを世間が熱血だとか言って遠巻きに誉めそやすのが気に食わない。これだけのことを知るために、俺はどれほどの危険を冒し、苦汁を嘗め、親しい者たちを蔑ろにし、それゆえ破れかぶれになる心をも律してきたか。
 誰にもわかるまい。知ることへの飽くなき衝動。知れば知るほどさらなる真実に焦がれる、静かな渇望。あらゆる現実、醜いもの美しいもの、清いもの汚いもの、知という一点においてなべて等価であるそれらが蓄積され臨界点を超えたとき、情報量はその自重で崩れ、凝集し、反応してエネルギーを発する。彼を駆動するのは彼の思いではない、情報の反応熱だ。彼は加熱され、加速し、さらに問い続ける。《なぜだ、なぜ殺すのだ、なぜおまえはおまえを、なぜおまえは誰かを、おまえは俺を、俺はおまえを、俺は俺を、俺は誰かを、誰もかもを…》

 その舟でなければどうしても、誰一人として渡れない場所がある。彼はその舟であり、向こう岸へと運ばれるただ一人の旅人なのだ。



 情熱の舟7

 女子高生なんて、給食当番みたいなもの。時期がくれば割り振られて、また時期がくれば終わる。
 水道沿いのこの街は時代錯誤。自転車に跨ったまま、連絡船に3分乗って下校する。もう21世紀も10年過ぎてるのに。
 夕暮れが金色で、わたしは今日の授業を脳内復習しながら、たゆたゆとした波に揺られる。
 恋愛なんて、ぜったい嫌だ。どうして人のために一喜一憂して、きりきり舞いしなければならないの。そんなの変だ。
 それよりかは絶対、わたしは最強を目指す。最強の地球人。何でもできて、絶対不敗。だから授業は完璧に覚えるし、居合いだってバリトンサックスだって裁縫だって、手当たり次第に習得していく。
 接岸間際。ペダルに力を込めて待機する。
 ほめられたいんじゃないんだ。じぶんのいらだちがゆるせないんだ。呟きが潮風に盗まれる。太陽の時間がもう終わる。



 情熱の舟8

 お前を音の間へ浮かべるのには、苦労する。
 興が乗る前に二本のバチが乱れると、濁りを嫌う魚よろしく、たちまち夜の深水へ潜ってしまう。一端旋律に四肢をまかせれば、跳ね上がるも波間に沈むも自由自在、取り巻く者たちの心を掠い、享楽の海原へ滑り出すのだが。
 お前が去った夜、人の声は暗く、盃の酒は苦い。
 今宵は、どう誘おうか。お前はまだ静かに留まったままだ。
 旋律が弦を離れ、美しい魂の容れ物の、内側へもぐりこもうと忍び寄る。
 所詮私も、気まぐれなお前を待ち侘びるお歴々と変わりはない。気高い独行の魂よりも、それを収めた物に気も触れんばかりに焦がれている。
 いっそこのバチを投げ捨て、その背骨も肋も抱き砕いてしまおうか。
 欲がバチを操る手を狂わせ、音をざわめかせる。
 お前は、秀眉に雲を刷く。
 静まれ。荒れるな。
 漸くバチは純正の調べを取り戻す。音が重なり合って水位を上げる。
 つい、と嫋やかな腕がそこへ浸る。さっと翻る。絡み合う旋律が、お前の髪から滴る。赤く染めたつま先が、音を弾く。弾かれる。音は音を呼び、高い天井まで響きが満ちる。
 今宵、お前はどこまで私たちを運んでゆくのだろうな。



 情熱の舟9

 (海の見える街のメロディーに乗せて)
 そよふくわたしは風、あなたを待つ港。やさしく頬をなでる、あなたにきっと逢える。
 ほどいた長い髪が、わたしを自由にする。もいちどあなたの胸、かならず飛び込むから。
 大好きなあなたの声、今でも想い出せる。泣き出しそうなわたしを包むあなたのぬくもりがほしくて……。
 あなたがいつかくれた、真っ赤な貝殻の舟。あなたのもとに届け、叫んで波に投げる。



 情熱の舟10

 寝る前の時間をサイストリーの実践に当てている。五年も続けていれば慣れたもので、浮かぶ言葉を次々タイプしていくと三十分ほどでディスプレイは文字で埋まる。書き上げた文章を読み返すとふっと気が楽になる。
「ああ、私、こんな事を考えていたんだ」
 サイストリーを習慣化してから、自傷は格段に減った。
 週末。病院から帰ると一週間分をまとめて読む。一日分を選び、加工を始める。登場人物を私じゃない誰かに。世界は現実とかけ離れたものに。少しの誇張を加え、オセロをひっくり返すように一つずつ意識的な嘘に入れ替えていく。通して読み、つじつまを合わせてから細部を整える。
 出来上がったものをネットの海にそっと流す。それは【私の思想】ではなくなり【ファンタジー】として読まれる。ネットノベルというものがある。つまりそういうものとして。時々感想を貰う。サイトは毎週更新され、閲覧者は増えていく。誰も【本当】を知りもしないくせに。
 更新の原動力には怒りと怨みだ。違う、そういうことを箱舟に乗せたいわけじゃない、けれど自己完結してしまうには大きすぎて、どうしようもなくて。溢れ出る冷たい熱はいつ果てるとも知らない。



 情熱の舟11

 君はガラスの入れ物から角砂糖を一粒だけトングで掴みだす。それをコーヒーの入ったカップの中へ静かに落とした。スプーンでゆっくり掻き混ぜられるそこには茶色の渦ができあがる。砂糖はその流れに巻きこまれるようにくるくる廻った。
「渦にのまれる舟みたい」
 君はそれを見ながら薄っすらと笑みを浮かべ口の端に小さな笑窪を作った。
「君となら沈没してもいい」
 なんて冗談を言ったその時だ。気がつけば僕はその角砂糖の舟に乗っていた。
 君は悪戯っ子のように口を尖らせながらスプーンを更に勢いよく廻し始める。右へ左へと舟は大きく揺れ僕は必死でしがみつく。
「ねぇ。今、どんな気持ち?」
 君は吸いこまれそうなくらい大きな瞳で見つめる。
「君に飲まれるなら本望。でも、コーヒーの海で溺死は勘弁な」
 このごにおよんでつまらない回答だと思うも、君は艶のある黒髪を耳にかけながらくすくすと笑う。
 そんな姿が愛おしいのだと見とれる僕に不意打ちを食らわすように君はイッキにコーヒーを飲み干した。だが、次の瞬間「呑みこめない!」という君の呻き。僕は瞬く間に下から上へと引き戻されるようにわきあがり舌をプールのスライダーのように滑走。コーヒーの海へと沈んでいく。
「ごめん、ごめん」
 君は自分のドジを嗤いながらトングで僕をつまみ出す救出作戦。
 じゃない? ぼりぼりぐちゃぐちゃごくん。



 情熱の舟12

 櫂が重くなっていくのは、時間を圧しひしいでいるからだろう。
 舟の速度を示すものは櫂の動きのほかにない。いつからか大気は点滅し、昼も夜もなくなった。水面が曖昧なのは目の衰えのためではない。白くけぶる飛沫のひとつひとつまで見える。岸を離れてどれほど経ったか思い出す必要はない。すべての記憶をありありと見渡せる。記憶の中には誰もいない。水面は何も映さない。
 櫂は動かない。一度たりとも動いてなどいない。
 舟を脱ぎすてるのだ。



 情熱の舟13

 ほんのささいな向かい風にも 瞳を潤ませて
 意地を張るあなたは 願うことをやめられない

 いつかわたしが撫でられたように  このいきものを撫でてみる
 いつかわたしに語られたように   このいきものに語ってみる
 
 あなたはまるで 器に注がれた情熱の水
 願いを沸騰させた 命の形 

 ほんのささいな冷酷にも 素肌を竦ませて
 理不尽を叱るあなたは 触れることをあきらめない 
  
 いつかわたしが喜んだように このいきものは喜んでいる
 いつかわたしが傷ついたように このいきものは傷ついている

 わたしはまるで 大海原を彫りこむ意志の船
 感じる全てをやさしくさせる 命の鞘  

 いつかわたしが願ったように このいきものは願う
 
 わたしたちはまるで 願いを積んだ情熱の舟
 やわらかく揺れてほしい 命の波



 情熱の舟14

 花びらいちまい、あえなく散ってグラスの上へ舞い落ちた。その華奢な身を受け止めた氷は、決して溶けてなるものかと心に誓う。



 情熱の舟15

 岸辺を歩いている。霧はどこまでも深い。
 ざらざらと粗い、小石混じりの砂を踏みしめる。草木の一本も見当たらない。
 木の葉を一枚持っている。厚くてつやつやとした丸い葉だ。どこで手に入れたかは忘れてしまった。
 水面はいつも爪先の二十センチ先にある。見えないけれど水の匂いがする。ゆっくりと流れる音がする。向こう岸には君がいる。
 葉を流せる場所を探している。投げ入れることは簡単だけれど、それはしたくない。水面はいつも爪先の二十センチ先にある。歩いても歩いても辿り着かない。
 霧はどこまでも深い。いつしか干からび、縮み、丸まった葉を指で撫でる。刻みつけた言葉をゆびさきで辿る。向こう岸には君がいる。
 水を踏む。素足に染みる温い水に、しばし立ち止まる。一歩一歩、深くなる水に身を委ねる。乾いた葉は指を離れ、くるくると回りながら、水面を滑っていく。
 霧が晴れている。きらきらと輝く水面のはるか向こうに、大きな木がたっている。豊かで鮮やかな緑。
 息を吸い込み、水底を蹴る。くるくると回る葉の影を追いかけ、水を掻く。
 水を掻く。向こう岸には君がいる。



 情熱の舟16

 ふたつのレンズを丁寧に拭いて眼鏡をかけなおし、とにかく俺は少し家を出ることにした、と言ってのちあなたは浴室から忽然と姿を消した。
 持って入った玩具の舟も無い。
 なるほど、出たくなったのだなと、わたしはそれから、少し広いベッドの右半分で夢を見るようになる。
 わたしの左の、随分と広い広い海で、あなたを探して、舟を漕ぐ。遮るもののない海原で強い陽射しがひどく眩しいが、この波を辿ればあなたを見付けられるだろうか、遠く水平線の向こうに嵐の予感があるのに報せようがなくて目を覚まし、この部屋で待っていなくちゃあいけないのだものと言ってばかりでも心配してくれる知人を困らせるだけなので、部屋を守らなければならないことでもあり、一旦留守にし、用が済めば帰って浴室を洗う。きっと疲れているだろうから浴槽にお湯を張っておくことにして、その間に、もそもそと食事を摂り、ほどなくして、果てのないように見えるわたしの隣の海に出て再びあなたと出合う事を望む。遮るもののないこの舟で、口唇などを重ね、その喜びを感じたいと願う。嵐を抜けて、突然のように帰ってくるに違いないあなたを湯船に浸かり思い目を閉じると一瞬、海に落ちそうになったが、なんとか舟は転覆せずに済んだので、あなたのいそうな方角へ向かい波を掻き進める。
 左手に、あなたを求める。



 情熱の舟17

 A氏は常に言いようもない悲しみに包まれている人だった。その正体が何であるのか、A氏自身は理解していたのかもしれないが、私にはわからないものだった。何か思い悩むことでもおありでしょうか、と思いきって訊ねたこともしばしばあったが、その度にA氏はおどけて見せたものだ。そういう兆候が十分にあったからこそ、A氏が失踪したとき、私は特別驚きもしなかった。
 A氏がいなくなった最初のうちこそ、A氏の周囲の人々は大騒ぎしたものであったが、事件や事故による失踪ではなく自身の意思によるものであることが察せられるにつれ、理不尽さややるせなさと引き換えに次第に落ち着きを見せるようになった。今や誰もA氏の名前は口に出さない。A氏の仕事上のポストは新たな中途採用者に代わり、A氏と恋中にあった女性は今春に別の男性と籍を入れるという。
 時折、私はA氏の住まいだった場所を訪れる。人気のなさは、しんと静まり返った湖の水面を思わせる。その水面にちょんと爪先で触れてみると驚くほど冷たかったのだった。



 情熱の舟18

窓に薄明かりが見えた夜は

かけがえのない時が訪れる

この凍てつく空に舟をだし

過ぎ去った人達を探しゆく


雪よ貴方に心があるならば

星の光で照らしだしてよ


星よ貴方が命を司るならば

遠い別離を返してください


明りが消えてしまうまえに



窓に薄明かりが見えた夜は

流星の舟は高く舞い上がる

見つけた人達をつれづれに

ただ逢わんが為に旅をする



 情熱の舟19

ごとん、と櫂を置く。

雲の隙間から、化鳥の瞳がのぞいている。

今から娶ってやる。

今から俺が娶ってやる。



 情熱の舟20

「わたし、アイツになら食べられていいのに」
 川岸の狼を見つめる山羊は、木に括られながらそう言った。
「俺が困る」
 人の色恋に自分の生き死に譲れるほど、俺は人間できちゃいないな。なんて考えながら川を戻る。
「いっそ俺に食われちまえよ」
 わざとらしく下卑た笑みを狼は見せた。
「誰のおかげで生きてられると」
 俺は狼の前で笑った記憶なんて無いのに。と、すこし考えていたら川向かいの山羊と目があった。
「あ〓あ、お腹減った」
 すこし離れた木に狼を括り、今度は山羊を連れて川を戻る。
「草生えてただろ」
「キャベツ食べたいなー」
「贅沢言うな」
「きっと、アイツもお腹空かせてるよぉ」
 おそらく狼は餓えに逆らってでも山羊を食べないだろう。俺も狼も山羊も、ましてやキャベツだって、生きるために俺の命にぶら下がっている。みんな一人じゃ生きられない。
 ヤギに食べられないようキャベツを抱えて川を渡る俺は、一枚剥がして食べる。苦くて甘い。
「食うなよ」
 そう言ってキャベツを置いたら、狼はつまらなげに遠吠えした。
 黄昏の中、山羊を迎えに俺は川を戻る。生きるために俺たちは、川を渡り、また歩きはじめる。



 情熱の舟21

 出航直後の甲板では、乗客同士の自己紹介が始まっていた。
「自分は海が大好きで、やっとこの船に乗れたんです」
「僕は船が趣味。それであなたは?」
「私は特に好きなものはなくて……」
「それでよくこの船に乗れましたね?」
「十年前にこの船に乗った父を探しておりまして。それで乗せてもらえたんです」
「それは失礼しました。あなたのような娘さんは珍しくて、どんな趣味に情熱を注がれているのか気になったもので」

 それから三日間、海は荒れに荒れた。
「もう海はコリゴリだ。船を降りる!」
「僕はまだ降りません」
「私も父探しを続けます。それではさようなら」

 さらに三日間、天候は回復しなかった。
「もう限界だ。僕も船を降ります」
「私も父探しを諦めます」
「あなたは船を降りられませんよ」
「なぜなんです船員さん。父探しの情熱はもう失せたんです」
「理由はあなたの心に聞いて下さい」

 それから数日後、船は最終目的地に着いた。
「ありがとう船員さん。でも、どうして私を乗せ続けてくれたんです?」
「あなたは自分の趣味を捨てなかったじゃありませんか。ほら、お父様がお待ちですよ。十年前、女装に情熱を燃やして家出したあなたを探し、この船に乗ったお父様が」



 情熱の舟22

 舟は毎日やってきた。大雨が降ろうが、強風が吹きつけようがその姿を現した。天候によっては、くっきりとは見えない日もあったが、舟が現れると辺りが明るくなるので分かるのだ。夕刻には更に赤く光ることもある。そして行ってしまう。私には、そして周りの人々にも、舟は手の届かない存在だった。
 3:58PM、ぼんやりとミルクを飲みながら、一体なんなのだろうか、と思いを馳せる。何のために。そしてビスケットをかじる。私は考えて、次のビスケットをミルクに半分浸した。五、数える。浸し過ぎるとビスケットは崩壊してしまう。「なんで毎日来るのかな」。私の質問に、昨日の兄は「それが毎日というものだからだ」と答えたのに、休日の今朝は(しつこく同じ質問を重ねてみたのだ)「暇だから?」と言った。そしていそいそと遊びに行った。
 4:03PM。六分しか経っていない。舟は今日も決まった時間に消えるだろう。ミルクは飲んでしまったので、最後のビスケットをそのまま口に入れる。私は図書館へ出かけることにして、帽子をかぶった。



 情熱の舟23

 私がその御人に逢ったのは、旅中の客足も遠退き始める暮方であった。舟の舳先で私が一服していると、その御人は静に川下りを頼むと申し出た。私は大方、遅脚の遊子であろうと見当を付け、その御方の恃みを易く請け負った。
 櫂を手に漕ぎ出すと、その御方は舟の端先を陣取り、船頭である私に背を向けたまま一言、二言も発することなかった。
 舟は進み、景色は移ろった。川に波紋が浮べば、離れ行き何れ消えた。
 やがてその御人は静に云った。
「源さんの漕ぎが、一番情熱的ですな」
「そうですか」
 私の声は憮然としていた。私は情熱的と云う言葉を荒々しいものだと解釈したからだ。それに気づいたその御方は、一寸笑って言葉を変えた。
「一番舟を労わっておられる。舟を愛されておられる」
 然し私はここで一寸考えた。果たしてこの御方は私という人間をどれほど御存じなのかと。私達は初めて逢った筈なのだ。私はここで漸くこの御人に違和感を感じた。そしてふと思い出した。船頭たちが信しやかに囁く噂だった。私はそれを信じていたわけではなかったが、不可思議にもこの時は信じる気になっていた。
「ヌシ様、五十年もの間、御世話になりました」
 その御方は又笑い、又静かに云った。



 情熱の舟24

 「情熱の舟か。あの奇妙な情熱を持った、情熱の舟の事を知りたいのか」そう言うと青年Aは語り始めた。「一種の神隠しだ。情熱の舟は轟音を鳴らしながらやって来る。しかし、舟の姿は見えない。舟が来るとその辺りの物を持ち去る。まるで舟が運ぶかの様に持ち去るので情熱の舟と呼ばれる。情熱の意味は後で話そう。しかし奇妙なのは何でも持ち去らないという事。例えば、舟が村にやって来たとしよう。とある時は看板だけを持ち去る。ある時は信号だけを持ち去る。そして持ち去られた物は、数日すると元の村に返される。まるで何かを伝えるかの様に幾何学模様に並べられて返却される。そしてその意味を解読した者はまだ一人もいない。そして何かを伝えるべく情熱的に今だ、物を持ち去り続けいるのだよ」俺は聞きながらふと思った。子供の頃、突然轟音と共に消えた俺と友達の麦藁帽子。きっと情熱の舟の仕業に違いない。しかし、もし麦藁帽子を見つけたとしても、俺にはその意味を解読出来ないかも知れないと。