500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第131回:天国の耳


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 天国の耳1

「次」
 俺の番か。閻魔の前へと進む。
「権田邦夫、58歳、金貸し。欲にまみれ脂ぎった顔だ。だが近頃は多少枯れて燻し銀といった風情か。次に業績だが、若い頃は五人も死に追いやっておるな」
 ああそうだ。地獄行きの覚悟はできている。
「だが母の死を境に改心し慈善団体に多額の寄付をしておる。薄っぺらい善行だが救われた者が多く居るのもまた事実。最後に情愛だが……ほう、かつて殺した男の妻に惚れておるな。しかし己の過去と年齢とを考え陰から見守るのみ。酸いも甘いも程よい想いじゃな。しかも死因はその女の一人息子の身代わりになっての交通事故死とな」
 いまさら贖罪になどならないがな。
「いや良い食材じゃ」
 閻魔が突如何かを振り下ろし俺はそれに挟まれた……これはパン?
「欲望は燻された分厚いベーコン、業績はレタス。そして情愛はトマト。久々の見事なBLTじゃ」
 食われるのか? 覚悟していたつもりだったが恐怖に煽られ反射的に体が動いてパンの端から抜け出してしまった。次の瞬間、つかまっていたパンの耳ごと俺は闇の中へ落ちた。
「天国行きの最終確認となる魂の味見を拒むとは。耳は地獄の亡者への施しなのだがな」



 天国の耳2

 今日の新入りの一人は、耳が無かった。
「おい、お前。耳はどうしたんだよ!?」
「……」
 古株の一人が声を掛けたが反応がない。耳が無いから聞こえていないのだろう。
 すると近くにいた別の新入りが声を返す。
「コイツに何を言っても無駄ですよ。耳だけが天国に行っちまったんです」
「耳だけが?」
「そうなんです。コイツは生前、耳たぶが異様に長くて、近所のお年寄りから有り難られてたんです」
「お前たちはダチか? なんでココに来ちまったんだ?」
「オレオレ詐欺でしくじっちまったんですよ」
 地獄に来るくらいだから相当稼いだに違いない。
「コイツはすごく聞き上手で、電話に出ると長くてしょうがなかったんです。五時間って時もありました。でも不思議なことに、長電話の時ほど稼ぎが良かったんですよ」
 すると耳のない新入りは急にニヤニヤとし始めた。
「なんだよ、コイツ。幸せそうな顔をしてるぜ」
「天国では心地の良い音が溢れているらしいんです」
 うっとりと目を閉じる新入りの前で、男が二人腕を組む。
「どんな音がしてるんだろうな」
「そうですね、俺も聞いてみたいです……」
 果てしなく広がる真っ暗な地獄の天井を見上げて、二人は目を細めるのだった。



 天国の耳3

 天国に下賤な言葉は入ってきません。
 下界からのニュースは情報統制局が検閲を行い、許可されたものだけが天国新聞として発行されます。汚い言葉は一切載っていません。これは統制局が優秀なだけでなく、天国の言語に多くの欠落部分があるからです。
 書物も存在しない天国で、恍惚の住民たちが楽しみにしているラジオは、歌詞のある曲を流すことができません。当たり障りのないインストゥメンタルが流れ続け、時折天国新聞に載ったニュースが読み上げられるだけです。それでも住民たちは満足しています。彼らは不満を表す言葉を知りません。
 天国は幸せな場所です。天国は心休まる場所です。天国は何も知らずに呆けていられる場所です。穏やかなラジオの音に身も心も外との境目がとろけ、住民は自らを失います。それにより、天国は人で埋め尽くされることはありません。



 天国の耳4

 ぼくのじいちゃんには秘密がある。ぼくとじいちゃんだけの秘密だ。
 ぼくはじいちゃんと風呂に入る。じいちゃんは、ゆっくりと湯船に浸かると、あ~っ、と気持ちよさそうに声を出して目を細める。そして、じんわり身体が温まってくると(ここからが秘密だ)じいちゃんの耳たぶがぷくぅと膨らんでくる。お餅を焼いたときみたいにぷくぅと膨らんだ桃色の耳は、触らせてもらうとお餅よりも柔らかくて、ぷにぷにぷにぷに、ずっと触っていたくなる。ぼくが触っている間、じいちゃんはくすぐったそうに笑っている。
 なんで耳たぶが膨らむのと訊いてみたけど、理由はじいちゃんにもわからないらしい。でも、じいちゃんの心が穏やかになる気持ちのいい場所では、
「膨らむんだよ」
と、教えてくれた。誰も気がつかないの?と訊くと、じいちゃんはアガリ性だから人前では落ち着かなくてなアッハッハと笑った。
「今はおまえと入る風呂が一番だ」
と、ゴツゴツした指でぼくのほっぺたをなでた。



 天国の耳5

安達太良山の空の下 黒毛の馬っこのんびりと 緑の牧場で草を食む
春風運ぶヒトの声 耳をそばだて頸上向けりゃ 柵の向こうにヒトだかり

「おーいおーい、お馬さーん」「アオ、アオよぉー、こっちゃこー」

馬っこの耳をそよがせて 風はお空に吹きぬける
風の吹くまま気の向くままに 右に左に尾っぽがゆらり

赤いニンジンぷらぷら揺れりゃ とことこ寄って丸齧り
ヒトの腕だけぶんぶん振れりゃ ぶるると唸って知らん振り

(どちらにしようかな 天の神様のいうとおり――)

耳に届いた風任せ 馬っこどうしたものやらや 




黒馬(あお) 馬の毛色の名。青みがかった黒色の馬。転じてその馬をいう
こっちゃこ  東北地方の方言で「こっちにおいで」という意味 



 天国の耳6


 俺は今、閻魔様の前にいる。閻魔様は、俺の現世での罪を語っている。見るからに、疲れ気味である。毎日、何万人もの死者を、天国と地獄に振り分けているからだ。こんな事を思っているが、俺は閻魔様の声が聞こえない。隣にいる鬼の手話を見て、話している内容を理解している。
“よって、そなたを、音地獄に決定した”
 左右にいた鬼に連れられ、地獄に足を踏み入れた。所々で、悶絶している人達が見える。釜ゆで地獄、針山地獄、血の池地獄などの地獄を越え、とうとう何もかも無くなった広大な場所に、無数の耳のみが落ちている。
 左右の鬼が突然、俺の耳を引き千切った。俺は何をするとばかりに殴りかかろうとしたが、考えてみれば元から役に立たない耳など要らぬ。
“ここが、音地獄だ。明日から暗くなるまで、ここに落ちている耳を拾い、騒音を聞いて苦しめ”
 鬼達はそう言い残すと、風のように消えてしまった。
 次の日、俺は足元にあった耳を拾い、耳が以前あった場所に差し込んだ。これが、音と言うものか。
 生まれてから音を聞いた事が無かった俺は、それから手当り次第に音を聴いた。ここが、地獄という事も忘れ。俺にとって、まさに天国になった。



 天国の耳7

 妻は微笑んでいた。
「ウエディングドレスを、まだ取ってあるの。それを最後に着たいから、着せてね」
 返事ができない私を、妻は心配そうに見た。
「あなたの泣き声が聞こえたら、安らかに眠ってはいられないよ」
 だから、声をあげて泣こう。地獄耳は何でも聞こえる耳と言うから、妻がドレスを着て地獄に行ったなら、蘇っただろう。しかし天国の耳はずいぶん遠い。
 夜の真ん中で、太い縄を手に、森の奥から仰ぐ夜空。星々が木の葉を縁取り、イヤリングのようだった。枝に縄をかけ回し、私の体重がかかれば、星は揺れてシャナシャナ響いた。喉、絞られる。衝撃。枝が折れて、地面に転がっていた私。土に片耳をつけたまま。ごめん。つぶやいた自分の声。耳が冷たい。生きろ、生きろ。耳の形をしたキノコが青白く光っている。自分を恥じた。こんなにもろそうなものでさえしゃんと立っている。
 起き上がる時にうっかりそれを潰してしまったから、食卓には、耳の形をしたキノコビトたちが現れることになった。小さなコビトでも食パン一枚を食い尽くす。シャワシャワした咀嚼音の合唱が妻の席から起きる。私はパンを多めに準備していなければならない。生きること。



 天国の耳8

 いつになく憂鬱だった日の午後、不意にかかって来た電話に俺は耳を疑った。
「もしもし、こちら天国の諜報部ですが、貴方は重大なミスを隠そうとしていますね」
(はぁ?なんだこいつ?頭変なんじゃねぇの?)
「今、頭変なんじゃねぇの?と思ったでしょ」
「・・・・・・」
「まぁその事は置いといて、いくら考えても時間は戻らないのだから、まずは相手に謝って対策を相談した方が良いですよ。人生山あり谷あり。私も生きていた時には色んな事がありましたから」
「あんた一体どこの誰なんだ!どうして俺が悩んでいるのを知っているんだ。俺が修学旅行の宿の手配をし損ねた事は、まだ誰にも知られてない筈なんだぞ!」
「最初に申し上げた通り、私は天国の諜報部員です。小さな声の悪口を聴き逃さないのが地獄耳。心の声を聞き取るのが天国の耳なんです。下手に誤魔化そうとすると新聞沙汰になるから止めといた方が良いですよ。貴方は今日まで真面目に働いて来たのですから」
 そう言い残して、電話は切れた。
 普段なら悪戯電話だと思って相手にしないのだが、絶対に誰にも知られてないはずの事を言われたのが気になる。
 空を見上げると、耳の形をした雲が沢山浮かんでいた。



 天国の耳9

 ここには足りないと気づいた。つまり、ふにふにたぷたぷできないってことで、これは重大時だ。みんな、何処に安らぎを求めればいいのか!?
 だから、作ることにした。
 小麦粉から餃子の皮を作るように、好ましいふにふにたぷたぷを求めて、捏ねたり足したりを繰り返した。
 グルテンよ。グルテン。親愛なるグルテン!
 唱えながら捏ねて、この感触だけが幸福。素晴らしき、ふにふにたぷたぷが出来上がったので、引き延ばして地獄との境から順番にデコる。気持ち良いふにふにたぷたぷで満たされてこそだから。
 ああ。至高のふにふにたぷたぷ。ああ。



 天国の耳10

こんなにも眩いのは光があふれているからです。
光があふれているのは影がないからです。
影がないのは何もないからです。
それでもいいのですか?

答はありませんでした。



 天国の耳11

 __天国を食べたことは?

 ある。なにしろふわふわとして美味い。素直にJamなど塗って食べるのもいいが、やはりSoundwichに限る。
 まず耳を切り落とす。それからHamminやTamgo、シャキシャキのRastasやToma-Tom、Jaazzなど挟む。適度にSoultが効いていればなおいい。時にはFoo-Rootsを挟むのもいい。いずれにせよ、最上の、Cosmoにも浮かぶ味わいである。
 けれども、本当にたまらないのは、実は耳の方なのだ。
 切り落とした耳を、ABluesで揚げ、penSATONicをたっぷりまぶす。一見してJunkであるが、これがなんともやみつきになる。一度、賞味してみるといい。ひと切れ、またひと切れと口にするほど、舌にはFunkの羽が生え、きっと歓喜のChantさえ上げて、胸もBoogie-Woogieとしてくるに違いない。いや、あなたも既に知っているはずだ。Nostamusicなその味を。

 __では、極楽を食べたことは?

 ある。あれもいい。まんまと美味い。わおんに盛って食べるのもいいが、やはりオンニギリに限る。



 天国の耳12

何も無い平原を、人一人出合うことなく歩いて歩いて、今でも稀にその丘陵地に辿り着く者がいる。
喉の渇き、空腹、疲れさえ感じないことに最早気付かず、自分の輪郭も朧気であるのに、なだらかな稜線を見上げて立ち止まる。天国の耳と呼ばれた地の名残に応じてなのか、去り損ねて押し黙っていた僅かな言葉達が身じろぐ。ふもとに多数の人が告解に訪れた洞穴があったのだが、今では半ば土砂に埋もれ、入口は草に覆われてしまっている。

天国からまず神が消え、続いて具体的なイメージに基づいた数々のものが順を追って失われた。その後、それでも一定数訪れる生前の行いを赦されたい人々に応えるべく、天国の耳ができた。

昨今、人は物質的な構造と分かれるとすぐに散逸するようになった。姿形を保って天国を訪れる者は皆無に近い。
いずれ丘陵地は風化し、天国のあった場所は原野に戻るだろう。



 天国の耳13

 芳一の耳は天国で困惑していた。永らく平家の墓に捕らわれていたのだが、あるとき、近所の新墓に現れた観音様にすがったのがいけなかった。巧みに変装したマリア観音の存在など、この耳は知るよしもなかったのである。結果、着いた場所は言葉も通じず、音楽も奇異なばかりで全くなじめない。
 琵琶と錫杖の音が懐かしい一心で情報収集を続けるうち、だんだん言葉が通じるようになってきた。しかし天国からの脱出方法となると難しい。天国と極楽の間に直通の通路はなく、人の世を経由するか、地獄(こちらは、宗教が異なっても連絡があるらしい)を経由するしかないという。
 一時は芳一がまだ人の世にいたらしいが、一旦そちらに戻って合流してから極楽を目指そうとした矢先、それはもう昔話だと言われた。芳一に会えずに耳だけで幽霊としてさまようのは、如何にも心細い。地獄にしても、うっかり血の池に落ちたりしたら、小さな耳などいつまでも引き揚げてもらえまい。万一、芳一がそこにいたとしても、鬼は喜んでまた引きちぎるだけだろう。

 耳は天国で悶々としている。年に一度、イースター兎が尻尾で中をくすぐってくれるのが唯一の楽しみだというから、気の毒なことである。



 天国の耳14

 ふむ、とコチラの総てを見通すように仕分け屋が言うのだそうだ。
 仕分け屋って。商売なんだろうか。
「耳は、いいね」
 あとは、やり直し。
 魂的な部分でそんな経緯があってのち、かくして僕が母さんの腹から産まれ出たのだとかなんとか。
 爺ちゃんは、僕に聴力がない理由を慣れない指点字でもってこっそりそのように伝え、だから俺なんかはまだまだだったのだと笑った。
 ぼくの、ほかのからだは、わるいことしたの?
 と訊ねたら、
 まあどちらかというと、わるいことのほうが、おおかったみたいだな。
 そう考えると、つくづくできたやつであったのだなあと思えて、爺ちゃんがいなくなってからも、悩んだり、岐路に立ったりしたとき、掌で包むように右と左それぞれの手で両の耳に触れる。
 目を閉じて、いつもそうするのだ。



 天国の耳15

 力強く規律正しい音が近寄ると、前に立った気配がある。軍靴だろうか。無駄口はたたかないので何をしているのかは不明だが、行ってしまった。軍人だろう。
 次に甲高い、それでいて控えめな音が聞こえてきた。コツ……と躊躇した音の後、また一定のリズムを刻んで遠のいていく。繊細な衣擦れの音はスカートか。ピンヒールの女性だと思う。
 しばらく、静寂。
「こんにちは」
 突然、ひどく近くから声がした。
「君を見てて、琵琶法師の物語を思い出したよ」
 そう言って、そのまま。
 それは違うが、似たようなものかもしれない。
 しばらく待つが静寂しかない。
 同類、なのだろう。私と。
 足音のない通りすがりにそう感謝する。
 静寂。
 次の音を待ちつつ、何もない胸の奥に確かな息吹を感じる。



 天国の耳16

 天国の鍵を持つペテロは、門の陰に隠れて、新しくやってきた入国者たちの会話を盗み聞くのが、ひそかな楽しみだ。
「何も出来なかった僕なんかがここに来て良いのかなあ」
 本人は知らなくとも、天はその本質を知っている。
「極楽って暇で何もできないんだろう、なんで来てしまったんだ」
 そして、こういう罰の必要な人たちの為にもここはあるのだ。

 地獄の門を預かる牛鬼もまた、同じ楽しみをもっている。
「強力なトップとして支持を集めた私がなぜここにくるんだ」
 地獄耳は自己満足を聞き分ける。
「やった、煉獄ダンジョンだあ」
 そして、こういう向こう見ずの為にもここはあるのだ。

 本人の意識と天地の摂理の違いを映し出す喜劇は年々進化しているらしい。
 ところが、ある日ぱったり声が聞こえなくなった。耳が遠くなったにしては突然過ぎる。不審に思って外を見ると、みなぞろぞろ元来た道を戻っていくではないか。
 「どうしたのじゃ」と尋ねると、ひとりが答えた。
「法律が変わって、あと二十年しないとここに入れなくなったんだ」



 天国の耳17

「楽園から来ました」
「楽園? こことは似ても似つかぬ場所じゃな。あれは始まりの場所、翻ってここは究極の目的地じゃからな。ここに来るものは選ばれしもの。しかし楽園から逐われたのは何ものじゃろうな。自ら逐われることを選んだもの、いやむしろ、逆の意味で選ばれたものとも言える。すなわち、お主は逆選王というわけじゃ」
「えー」
「まあよいではないか。対照的に、ここに入るものは正選王ということになる。正選王はな、いわば天国の耳をもって、逆選王の言葉に耳を傾けなくてはいかん」
「といいますと」
「逆選王がいかなるお題を提案しようとも、虚心坦懐に分け隔てなくそれを聞き、公正な判断をせねばならん」
「むずかしいですね」
「選ばれしものの務めじゃからな。で、そちは楽園より出でて天国に入らんとするもの、すなわち自らの声すらも、自ら邪心なく聴き分けねばならん」
「まるで…試練ですね」
「左様! 自らの声すらも等しく遍く聴き取るには、全き沈黙が必要なのじゃ。時として苦く辛い涙を強いるそれを、わしらは『試練塩』と呼んでおる」
「…しれん…しお」
「どうじゃお主、やってみる気はあるか」
「結構です」



 天国の耳18

中学時代のH先生は、N響をやめて音楽教師になったチェリストだった。「H先生は変人だから」と、担任は言った。でも「変人」と言って済むような経歴じゃない。
いつも頭の上に?が浮かんでいるような人だった。なにかを、探していたのかもしれない。

一年の最初の独唱のテストの日。僕の順が来て、先生の前に立った。チェロが前奏を奏でる。追って僕が歌い始めると、教室がざわついた。
僕の声が聞こえない。
声を張り上げているのにそれが聞こえてこないことに適応しようとして、僕の両耳がどこまでも離れていく感覚があった。
耳が遠くにあるのに、さやかなチェロの音色は聞こえるので、轟音ではない楽音に、世界が満たされるようだった。すべてがチェロの海に沈んでいく。
歌い終えた。しばし沈黙があり、先生が言った。「今、先生には彼の声が聞こえなかったんだが、みんなはどう?」同級生達は口々に「聞こえなかった」と答え「きっと彼の声は」先生は空気を撫でる仕草でざわめきを押さえる。「私のチェロと奇跡的におなじ音色なんだな、ねえ」先生は僕の名を呼んだ。「すごい音だった。もう一回歌ってくれるかな」
三回歌った。その日のテストはうやむやになった。

今もあの日の音色を思い浮かべると、僕の両耳は東と西のなか空を駆け上がっていき、世界が、チェロのユニゾンで満たされる。



 天国の耳19

 遠くに見えていたハート型の上の部分だけ切り取ったような変わった形の虹を、たぶん今、潜ったのだと思う。私は届く。音になって、波になって、春のそよ風を追い越して、私は私を幸せの形に奏でた。私は届いた。私は、届き、届く。



 天国の耳20

 天国には天使がたくさんお住まいなので、お掃除当番はとても大切な仕事です。
 天国の眼のお掃除当番はとても繊細。こびりついている汚れを濡れたガーゼでそっと拭き取り、天使の目薬でレンズを常に潤んだ状態に保ちます。天国の眼は下界を映す鏡。天使たちは天国の眼を通して下界の様子を確認するのが仕事です。
 天国の口のお掃除当番は力仕事。こびりついている汚れをデッキブラシでごしごし磨き、天使のリップクリームで開閉口を常に明るい状態に保ちます。天国の口は下界との出入り口。天使たちは天国の口を通ろうとする魂を選別するのが仕事です。
 でも何よりも大事なのは、天国の耳のお掃除当番。こびりついている汚れをヘラでこそげ落とし、埃にははたきをかけ、と忙しいのですが、熱心にやらずに適度にさぼるのが肝要です。天国の耳の細工は細やかですから、ふとしたことで簡単に壊れてしまうのです。
 ほら、試しに天上に向かって助けを呼んでみましょう。大きな声で渾身の力をこめても助けは来ないでしょう? 天国の耳は今日も故障中。そして、天使たちは私たちが地獄へ堕ちるのをただ眺めるのが仕事なのです。