500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第162回:魚と眠る


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 魚と眠る1

魚を捌こうとまな板に魚を置く。鱗を取らなくては。

鱗の数を数えてみようと鱗を数え出す。数え出すと数という概念が分からなくなってきて数が数えられなくなる。そのうちに私が鱗と思っている物は、私が鱗と思っているだけで本当は鱗じゃないんじゃないかと思えてきて鱗に触れる。
それは弾力がありビロードのような感触で、陰茎の先の亀頭に触れたかと思う。するとこれは魚ではなく陰茎な気がしてくる。陰茎ならば私の体内に入り込んで来るかも知れぬと、その魚と思っている物に騙されてはいけない、と思う。

そうだ、騙される前に体内に取り込んでしまおう。「魚」と思っている物はするりと私に入り込む。目の前にあった物は実体を失う。

私の体内で私と眠る。



 魚と眠る2

 私の部屋には空っぽの水槽がある。なかに魚はおらず水も張られていない、空っぽの詰まった水槽だ。部屋を訪れた人はそれを見るとみんな不思議そうな顔をする。
 何のことはない、私が縁日で金魚を釣りあげた翌日に父が買ってきたのだ。けれどその水槽に移しかえる前に、浴室の洗面器の中で金魚は死んでしまった。酸素が必要なことを小学生の私も父も知らなかったのだ。幼い頃に父と別れた母親に電話でそのことを告げると、ばかねえ、と考えなしの父と娘を呆れたように笑った。
 かわりの魚を買ってこようかという父の提案を断って、私は部屋の目立つ場所に水槽を置いた。何の役にも立つことのない空っぽの水槽が妙に気に入ってしまったのだ。
 そうして夜遅くに父が帰って来る前、カーテンを開けたままで部屋の電気を落として冷たい床の上にごろんと寝転がる。夕日が落ちて夜に変わる直前の薄青い空気に満たされると、私の部屋は水底みたいに青く染まる。微睡みのなかで私は金魚と泳ぐ夢を見る。
 いくら大きな水槽と水と餌があっても酸素がなければ魚は生きられない。そのことを私も父も知らなかったのだ。
 空っぽの水槽は、私と父の暮らすこの家のようだった。



 魚と眠る3

暑苦しい夜に、寝袋型冷凍マグロ。
今なら抱き枕型冷凍マグロもプレゼント!



 魚と眠る4

 欄干から見下ろす池は、蓮の葉が覆い尽くしている。僅かに覗く水面を錦鯉がちらちらと横切る。
 私は緋色の襦袢の裾をからげ、欄干を乗り越え、勢いのまま飛び降りた。
 蓮葉は私を受け止めることはなく、水音が箱庭の静寂を壊した。
 仰向けに沈む。緋色が溶ける。若い蕾が頭上で揺れる。蓮葉の隙間からキラキラと空を横切る白と赤の魚。
 欠伸をするとこぽりと泡がのぼっていった。すっかり空気が抜けた私は、目を閉じる。斑らになった襦袢がひらひらと揺らめいていた。



 魚と眠る5

ミルク色の夜明けに見えて来るのは曲がりくねった迷い道。僕は薄明かりの中をチョウチンアンコウと一緒に歩いている。一足歩くごとに足がシクシク痛むので、靴を脱いで振ってみたけど出て来るのはサラサラと消えていく想い出だけ。アンコウが口をひん曲げて笑うから、僕は首輪をグイと引いてまた歩き出す。アンコウはのんきにスキャットなんか口ずさんでるけれど、それがまた似合いすぎてて切ない。なんかもう起きなくちゃと思って、ほっぺたをつねるけど痛くない。仕方ないからアンコウにキスをしたら、アンコウの夢と同化して吸収されるなんてどうかしてる。

魚と眠る夜 ミルクみたいな痛み来る 見る夜 胸と中さ



 魚と眠る6

 とっぷりと夜が訪れる、夢を見る海。
 とととつーつーつーととと。
 明日、出撃します。
 幻だったろうか。



 魚と眠る7

掌に舞う泡の軌跡が、時を永遠にする。いのちの雄叫びに消えた記憶が懐かしい。重層になった時が、物思いに沈み、不束な目眩の証しを求める。外なる濃度が、内なる淡いに馴染み、その祈りにも似た安穏さが、身体を巡り出した。

あわいゆめ
ゆるやかこころ
めまいして
かわらぬときの
すぎゆくままに

水の記憶が、宇宙の真空へと漂い、愛の敷衍を逆行する。初めを知らずとも、始めは一度きりなのか、身体が言い訳をする。その証しに空と海が、同じ夢を見る。凝縮する永遠に、拡散する意識が時を数え出した。渡り、亘る。



 魚と眠る8

 魚を描いた。
 わたしの脳みそに棲む魚で名前はない。魚であるということ以外に特徴はない。
 その魚の隣に妹を描いた。
 これまたわたしの脳みそに棲む妹で名前はない。妹であるということ以外に特徴はない。
 魚と妹のうえに毛布を描いた。いっぴきとひとりは眠っているのだ。永遠に覚めない眠りというやつだ。
 毛布に色を塗ることにした。最初は青で、次に水色、それから紫。寒そうに見えたので赤、オレンジ、ピンクを足す。黄色、茶色、肌色も。あたたかそうになった。
 けれど、三つほど使っていない色があった。緑、黄緑、黒。かわいそうなので、その三つの色も塗る。ぐりぐりと塗りたくる。ほかの色ももう一度。
 毛布はぐちゃぐちゃになった。ぐちゃぐちゃの毛布のなかで、魚と妹は眠っていた。
 ああ、良かった。
 これでもう、さむくない。
 これでもう、さみしくない。
 魚と妹は、もうずっと一緒だ。



 魚と眠る9

 その岬の先端には小さな墓標があった。御影石に刻まれた文字は月日を経ておぼろげに故人の名前を記す。
「それはな、ある先生の墓じゃ」
 老婆が言うには、潮がぶつかるこの岬はいろいろな魚が獲れる良い漁場だという。天領として幕府に保護されていたが、同時に潮の流れが複雑で遭難事故が絶えなかったらしい。
「先生はな、ここに住居を構え観測に人生を費やし、複雑な流れを解き明かして多くの漁師を救ったのじゃ」
 晩年は、潮の香りだけで岬周辺の魚群の種類をピタリと当てたという。
「まるで、魚を我が家に招いているようじゃったと聞いておる」
 魚先生。そう呼ばれた彼が眠るこの岬。今日もいい風が吹いている。



 魚と眠る10

結局逢えなかった叔母の家の窓からは海が見渡せた。かつては珊瑚礁だったという遠浅の海は人魚の繁殖地として有名らしい。
「ここらの人魚の尾っぽはね、ちょっと変わってて、みんなバラバラで色とりどりなんだ。ほら、普通はそろってるよね?赤系とか青系とか、そんな感じにさ」
そう教えてくれた人と叔母の関係はわからなかったけれど、リビングの映像フレームが流していたのは2人で笑っているものばかりだった。
「また来て、是非」
別れ際にそう言って渡してくれたものは本当はあの人が持つべきなのではと思ったのは船が宇宙港を出た後だった。スクリーンウィンドウにあの星の輪郭がいっぱいに映し出されて遠ざかって行く。

沖まで続く薄荷水の中を揺蕩う色達。波間から射し込む光が溶け出して行く……揺らぎが満ちて五感を侵食する……深く……深く……。

そんな夢を見たのは睡眠槽の中が思いの外、心地よかったからかもしれない。
エンケラドスまでもう一眠りできそうだ。



 魚と眠る11

「いったい、君たちはいつ眠ってるのさ」
 中くらいのメダカが言う。
「お日さまの太陽が日が出てあかるくないいないないしらない今ねてる時とき」
 葉っぱたちが答える。
「だって君たち、僕がいつか夜中起きたら、おしゃべりの相手してくれたの、覚えてるよ」
「そう私じゃないねごとしらないかしら」
 葉っぱたちはおしゃべりで、適当だ。
 ひゅっと、川下からから、大きなメダカが通り、葉っぱたちがまたざわざわとする。「早いひえっくすぐったいなああーあ」
 中くらいのメダカはどこか遊びに行ってしまった。
 あなたが眠っているとき、わたしたちも眠るよ。



 魚と眠る12

都合により削除しました。



 魚と眠る13

 本来はカタカナで、「カ」にイントネーション置いて発音するのだけど、推測変換は「サカ」の時点で漢字一文字を提示してくれるし、今となっては「サ」だけで変換できてしまうから、LINEじゃ、家族みんな漢字で通している。

 明日、この家を出る。

 わたしが10歳の時、この子は家へやってきた。中学の頃、軽い不登校というか、単なるサボり癖を患っていたので、日中、居間のソファで惰眠を貪っていると、わたしの上に乗ってきた。遊べというのか、テリトリをアピールするのか、それなりに重たいから苦しいのだけど、でも、今思えば、あの頃が一番寝ていた。

 日が替わって、今日、この家の人間ではなくなる。

「おいで」
 わたしの声に応じて、ゆっくりと起き上がるから手で制する。年老いて、脂分の足りていないモフモフは、モスモスな手触りだけど、色合いは変わらない。そばへ寄って、深く抱きしめる。顔を埋める。睡魔が忍び寄る。
「だいすき」
 当然口の中に毛が入るから、自分でもなに言ってるかわかんないけど、ちゃんと伝わっている。そう信じる。信じる強さこそが愛だ。



 魚と眠る14

 魚は鳴かない。歌わない。
 魚は回る。くるくる回って、虹を奏でる。

 ドーナツフィッシュを飼っている。細長いからだをひたすらに旋回させてきれいな円を描く様からその名がつく。そして四方に入り組んだギザギザのひれが水を切り、回れば回るほどに豊かな旋律を響かせる。品種ごとの共通性はあれども、その音色や旋律は、一匹一匹で異なる。それ故にコレクターが世界中にいて、かつては私もその端くれだった。
 今は水槽に一匹だけが泳いでいる。アスールという種で、ブリードはさほど稀少でもないが、ワイルド種は珍しい。淡々と、物憂くも甘い旋律を水槽のなか刻みつけるこの一匹さえいれば、今の私には十分である。ナナという名をつけた。
 日に三度、ナナは回る。朝と昼とそして夜、眠る前だ。ひとしきり回り終えると、ナナは眠る。その旋律が鳴りやむのを認めて後、私も眠りにつく。
 鳴りやむ前に寝入ってしまうことも、近頃は増えてきた。昔に比べ、旋律もずいぶんとゆったりしてきたようにおもえる。ナナも私も、歳をとった。
 ベッドに横たわり、まどろみながら耳を傾ける。やがて見るのは虹の夢だ。ナナ。妻の名。おやすみ、ナナ。



 魚と眠る15

 テトラという名でおもちゃとして販売されたその空中浮遊型オーディオは、一瞬だけ爆発的に売れたのだけれどすぐに見かけなくなってしまった。細長くて小さな銀色は熱帯魚のように見えないこともなく、おそらく商品名の由来だった。
 彼女はベッドに入る前に必ずテトラを浮かせた。だから彼女との行為の記憶には音楽が伴なっている。決まった曲をかけるわけではなかったけれど、せつない旋律を好んでいたのかな、という気はする。
 初めての夜、彼女が僕を待たせてテトラを浮かせるのがひどくもどかしかった。待たされるのも不満だったし、小さめの音ではあったけれど余計な刺激が耳に入ってくるのも気に入らなかった。彼女の体は細いのに柔らかくて、濡れていて、締め付けた。力尽きてそのまま眠ってしまい、目が覚めると彼女はいなかった。テトラも。
 幾度夜を重ねても一緒に朝を迎えることはないままの日々。ある夜、テトラが浮かなかった。電池切れかな、と彼女は困ったように笑い、僕は構わないのでいつものように狂おしく彼女を抱いた。音楽が流れていないこと以外は何も変わらなかったけれど、それが、彼女と過ごした最後の夜だった。



 魚と眠る16

 目覚めると視界を覆っていたのは、ものすごく巨大な茶色い結び目だった。わたしの部屋は建物ごとその結び目に破壊尽くされていたが、わたしはいつもと同じ布団の上に仰向けに寝たまま、その大きすぎる結び目に焦点が合わないほど間近まで迫られていた。
 やがて結び目はひとりでに解ける。しゅるしゅると長い紐というよりも綱が解かれていき、そのあわいから鱗のある生き物が泳ぎだしてくる。突然にわたしの眼前に出現した巨大な魚は、わたしを見つけて、やや、と声をあげた。なぜいるのですか、と。
 困り果てた魚は、夢だということにしましょう、とわたしに提案した。いまあなたが見ているこれは全部夢です。でなければ、大変なことに。
 魚の心配が何なのかはわからないが、魚の提案にはのることにした。右手で掛け布団の端を上げると、魚は安堵した目でわたしの隣に潜り込んだ。わたしは魚と並んで、目の前の茶色くて巨大な結び目だった綱の残骸を眺める。解けた結び目からは、どんどん夢がこぼれ落ちてくるが、魚は知らんふりをすることに決めたようなので、わたしもそうした。
 わたしは永遠に魚と眠る夢を見続ける。



 魚と眠る17

 私が産んだのはハタハタだった。ハタハタはヒトの赤ん坊と違って乳を飲まない。だからか乳が張らない。夜泣きしない。というか泣かない。湯を使わせる必要がない。
 二階に用意した子供部屋を一階に移し、床を防水して泥を敷いた。排泄物や食べ残しのオキアミで有機物の濃度が上がりすぎないように浄化槽も備えた。
 ハタハタは鱗が無く滑らかで触り心地がいいのだけれど、触りすぎると弱る。潜っているハタハタに注意して静かに循環する冷たい泥に体を沈めせめて添い寝する。子守唄は必要ない。



 魚と眠る18

 老人の釣り糸の仕掛けは滑稽な形をしていた。掌に似たそれを海に投げ入れると老人は椅子に腰かけ目をつぶる。静寂がわざとらしくなる直前、おもむろに彼が糸をたぐると、「掌」の上で魚が眠っている。老人はナイフとフォークを手にし、そっと下腹部をナイフでなぞる。薄く鱗と皮とを剥ぎ、白い身を一片、切り出すと、閉じた魚の瞼ににじむ涙で濡らして口へ運び、一息に飲み込む。目を覚まさない魚の顎のあたりをフォークの背面でなでると、老人の胃で切り身が震えた。老人は魚の空いた腹に耳をあて、そこから漏れ出る魚の寝息にしばし聞き入り、やがてそのまま眠ってしまう。



 魚と眠る19

 私が魚に誘拐されたのは小学二年生の時。父の釣りに付き合ってテトラポットに立っていたら超巨大な魚が突然飛びかかってきて、パクリと丸呑みされたのだ。魚の体内は鼻さえ慣れてしまえば意外に快適で、コツをつかめば自由に歩き回ることもできた。巨大魚は私を嫁にしたいと言う。冗談じゃない。私はたったの七歳だ。あと十年経ったら考えてもいいよと言うと、ならば待とうと魚は答えた。
 十年間、彼はいろんな海へ連れて行ってくれた。私の体が海に慣れてくると外にも出してくれた。彼の鱗を目にはめれば、海中だって目を開けて人魚のように泳ぐことができた。嵐やサメの恐怖はあったけど、太平洋の真ん中で子分たちとにぎやかに過ごす毎日は最高だった。
 明日が約束の十年目という日。魚はとんでもないヘマをした。世界中の怪魚ハンターに狙われていた彼はとうとう捕まったのだ。漁船に引き上げられた巨大魚の口から私が這い出てくると世界は騒然となった。
 そうして私は伴侶を失った。この悲しみはあなた達には分からないでしょう。私が目を見開いて眠っているとき、彼は私の目の中でまだ生きている。



 魚と眠る20

 あなたは海で生まれたのよ、と平坦に言った母の言葉を愚直に信じて二十六年。
 躊躇ったせいで、したたかに打ち付けた右側面は痛く、鼻からも口からも入り込んでくる海水は塩辛い。瞬く間に呼吸は困難になり、やっぱり東武東上線に飛び込めばよかった、と今更そんな後悔をしてもすでに遅い。
 恨みがましく目を開けば、揺れる水面の向こうで岸壁に立つ街灯の歪んだ光が見える。眩しいと思う間もなくそれを遮るものがいた。
 照らし出された銀色の光沢、エラ呼吸一つできない生き物を哀れむかのような金色の眼差し。
 ゆらり、開いた呼吸器官の赤が咲く。
 次の瞬間にはもう、海の藻屑と化しかけていた身体は魚の腹に納まっていた。不思議と呼吸は苦しくない。ただ抗いようのない眠気だけが波状となって襲い、やむを得ず目を閉じた。
 ゆらり、引き止める人は誰もいない。
 泳ぐ生き物の体内で眠りにつく。やっと帰ってきたような、やっとまぶたを下ろせるような、そんな安心感が、吐き気を催すほどの生臭さの中にはあった。



 魚と眠る21

 何の話をしてる最中だったか、「おれ、魚だから」と亭主が反論して、えっ人間じゃなかったの、とその時はじめて気づいた。
 そういえば、アタシが亭主の後ろで包丁でひらひらと襲いかかった時、ひーっと叫んで逃げて行ったことがあった。冗談で急襲するふりをしただけだったのに。魚眼だからきっと見えてたんだな。
 体毛が硬いのも気になってたのだが、鱗で覆われてたのだな。
「直子さんは鈍いですよ」と、周りからも言われ続けだった。
 でも、いいじゃないか。みんなナーバスでピリピリしどうしだったら、嫌な社会じゃないか。
 魚の夫は、朝に焼魚を出してたのは嫌だったのかな?共食いだしな。でも残さずおいしそうに食べてたな。魚は気にしないか。
「直子さんは、料理が上手だから」
 焼魚の件を質したら、亭主は笑って言った。

 せめて、魚のくせに長年優しくしてくれる亭主のために何かやってやらねばと考え、考えてウォーターベッドを通販で買った。
「うわー、これ、寝心地最高にいいね!」
「直子さんが喜んでくれるなら、それが一番だから」
 あくまでも、謙虚な夫だった。
 といっても、この内部ではアタシは寝られないから、上で一緒に寝てもらってます。たっぷん。たっぷん。