500文字の心臓

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短さは蝶だ。短さは未来だ。

Final Match / 誰か叫んでいないか
・人間を登場させないこと
・何かが失われること  

赤コーナ : 春名トモコ

 一日が終わる静かな浜辺の波打ち際に、一匹のミズウサギがいた。硝子のように澄んだ水は、白い砂をゆっくりと揺らしている。ミズウサギは水硝子の奥にチラチラと現れる紫水晶を、まあるい瞳で見つめていた。何度ねらいを定めても前足を入れた途端、紫水晶はかき消えてしまう。
 不意に。ミズウサギは顔を上げた。真っ白な耳をぴんと張り、後ろ足で立ち上がって波のない穏やかな海の向こうをじっと見つめる。

 白骨のような月がかかる薄紫の空からイッポンアシ鳥が降り立つ。浜辺は穏やかな潮騒だけが満ちていた。だが、ほのかに熱が残る砂の奥の奥。何かから逃げようと砂がうごめいている気配がする。イッポンアシ鳥は飛び去ることもできず、不安そうにミズウサギが見つめる海の彼方に目を向ける。


 やがて、行き場をなくした雲が、空をさまよいはじめる。

青コーナ : マンジュ

 その朝、恋に患いすぎた画家が自死したので、アトリエには彼の作品と密やかな痕跡だけが遺された。パレットの絵具は乾き罅割れ、絵筆は床に散乱している。画家の死を知る者は、まだ誰もない。
 イーゼルにかけられたキャンバスには侵しがたい婦人の肖像が描かれており、ぽってりと赤く塗られた唇には繰り返し口づけた跡があった。かつて婦人の腰掛けていた形のまま緩やかなへこみの残る椅子の傍らで一頭の蝶が肢をもがれて死んでいる。蝶は、婦人の唇で翅を休めたがために画家に捕らえられたのだ。
 すべてが少しずつ果てゆく中で、戸棚にいとおしげに仕舞われた指輪だけが傷ひとつなく豊かな光を放っていた。画家から婦人へ宛てたイニシアルの彫りこまれたその指輪は、戸棚の中でもうずいぶんと長いことその役目の訪れるのを待っていたのだ。
 けれども画家が死に、どこかそう遠くない教会で祝福の鐘が高らかに鳴り響き始めた今、その訪れも指輪の価値さえも永久に失われた。それでも指輪はいじらしく、戸棚の中でいつ終わるともなくきらめき続ける。