500文字の心臓

トップ > 自由題競作 > 選考結果 > 第29回:峯岸選


短さは蝶だ。短さは未来だ。

5.000.000.000文字の心臓

 この「500文字の心臓」では500文字以内の作品を募集していますが、「500文字以内の作品」だけが超短篇ではありません。500文字を超えているからと言ってその作品が超短篇ではないとはやっぱり言い切れないと思います。では何文字までの作品を超短篇と言う事が出来るのでしょうか。
 まず前提として「500文字以下」の作品は超短篇であるという事にしましょう(それでは多すぎるという方は「311文字」でも「17文字」でも、任意の「確実に超短篇だと言える」文字数に修正してお読みください)。それでは「501文字」の作品ではどうでしょう。たった一文字違っただけで、超短篇かどうかをきっちり分けられるとはやはり考え難い。もし分けられるとすれば、ある「500文字」の超短篇に読点を一つ足したけで超短篇と言えなくなるといった事が起こってしまいます。それはさすがに不合理ですね。やはり「501文字」は超短篇だと考えて良いでしょう。それでは「502文字」はどうか。やっぱり超短篇みたいです。では「503文字」も超短篇だし、「504文字」でも大丈夫そうです。それなら「505文字」だって。
 と、こんな事を続けていく内に、ああ、いつの間にか「5.000.000.000文字」もの超短篇が出来てしまいました。原稿用紙にすると12.500.000枚にもなる大長篇です(蛇足ですが栗本薫『グインサーガ』シリーズは100巻までの累計で約40.000枚との事です)。さてここで新たな問題が生まれました。この「5.000.000.000文字」という(未曾有の)超大作を超短篇と言って良いでしょうか。
 どんなに控え目にみても、この空前絶後の大長篇を超短篇と呼ぶにはさすがに無理があります。ならば「5.000.000.000文字の超短篇」などというものは存在しないとして、いったい「500文字」と「5.000.000.000文字」の間の何文字目から「超短篇」と呼べなくなってしまっていたのでしょうか。
 改めて考えてみましょう。「5.000.000.000文字」の作品が超短篇ではない事は明かな様です。それなら「4.999.999.999文字」も違うと言って良いでしょう。そうすると「4.999.999.998文字」や「4.999.999.997文字」も違うでしょうし、「4.999.999.996文字」や「4.999.999.995文字」だって超短篇とは言えませんよね。
 と、こんな事を続けていく内に、いつの間にか(ご想像通り)「0文字」まで行っても超短篇とは言えないままでした。でも明らかに矛盾していますよね。「5.000.000.000文字」でも超短篇と言えるのに、「0文字」でも超短篇ではないなんて。どうしてこんな事になってしまったのでしょうか。
 実はこの「+1」式/「-1」式の論理はいわゆる詭弁と言っても良い種類の論理で、一般に「滑りやすい坂の論法」と呼ばれています。数学的帰納法を曖昧な性質のものに適応させると突飛な結論が導かれてしまうというものです。今回は「超短編である」という性質の曖昧さを無視して、文字数でもってきっちり分けようとしたが為に起こった矛盾と言えると思います。「超短篇である」という性質は文字数によって厳密に定義されてはいませんから、その作品ごとに超短篇であるかどうかを考えなければなりません。超短篇の定義を文字数で明確に規定しない限り、「確実に超短篇だと言える」文字数(及び「確実に超短篇とは言えない文字数」)なんてものは存在しません。ですからこの前提がそもそも間違いでした。そして「確実に超短篇だと言える」文字数が存在しないのですから「500文字」と「5.000.000.000文字」の間にある超短篇である事の明確な境界線がある筈がありません。仮に「n文字」で書かれたある作品が超短篇であるといっても「n+1文字」の作品が超短篇であるとは断定は出来ませんし、それどころか「n文字」で書かれた他の作品だって超短篇とは言えないかも知れないのですから。それは五七五で書かれた文章の全てが俳句でないのと少し似ているような気がしています。では「超短篇である」とか「超短篇らしい」というのはどういう事なのでしょうか。
 思うにきっとそれは作品を読んで「超短篇である」とか「超短篇らしい」と思うときにだけ感じる、単なるイメージに過ぎないのではないでしょうか。幻想と言っても良いかも知れませんね。私たちは目に見えないものにも名前を付け、意味を持たせ、目に見えた形のあるものの様に語る事が出来ます。「超短篇」もそうしたものの一つに過ぎません。小林秀雄は《美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない》と言いました。それと同じく「超短篇らしい超短篇」というのは存在するでしょうが「超短篇の超短篇らしさ」というのは形のあるものとしては存在しないのです。ですから「超短篇らしさ」の厳密な定義なんて出来ませんし、文字数と「超短篇らしさ」に相関が認められているとしても明確な境界線など引く事が出来る筈がありません。
 超短篇を「詩と小説の間」という風に説明をする事もあります。運が良ければそれで何となく理解して貰えたりする事もあってこんな説明をしてしまいがちなのですが、そこから続けて「超短篇っていうのは詩と小説のどちらになるの?」とか「超短篇と散文詩ってどう違うの?」と訊かれてしまうと、その度に答えに困ってしまいます。でも本当は詩と小説を分けようとすること自体がナンセンスなんじゃないかと踏んでいます。開き直りでも何でもなくそう思っています。少なくとも「小説」というのはそもそも何をどう書いても良い、比較的新しい文芸形式です。格闘技で言えば「ヴァーリ・トゥード(何でもあり)」みたいなものですね。「何をどう書いても良い」のですから、(極論を言えば)もしもその作品が明確に「詩」であるとしてもそれは「小説」である事を何ら否定し得ないのですから。
 また、このサイトでは超短篇の説明書きを「独特の読後感を持ったすごく短い小説」という風に載せて来ました。でも、こんな説明では単なるトートロジだと仰る方もいるかも知れませんね。「独特の読後感とは何か」という問いの答えが「超短篇らしさ」であり、「超短篇らしさとは何か」という問いの答えが「独特の読後感」となってしまっていますから。説明としてはやはりちょっと苦しい。ですが、もし「独特の読後感」を別の言葉で説明しようとするなら、それは短系文芸の、その短さから喚起される何かという事になるんじゃないかと考えています。短い作品でだけ起動する装置とも言えるでしょうか。これでもトートロジからは抜け出せてはいませんけれど。
 でも、それでも私たちは朧にでも超短篇らしさの様なものを掴んでいるという風に感じています。以前ここに、超短篇を知って貰うには「やっぱり実際に作品に触れて貰った方が早い」という風に書きました。ありがたい事に現在ではその当時よりも多くの作品を投稿して戴いており、タイトル競作では投稿数の制限を行うまでになりました。そうした皆さまのお陰でより多くの作品に触れる事が出来るようになっておりますし、何より送られてくる作品は触れるに足るものばかりだと思っています。こうした投稿されてくる作品が「超短篇らしさ」を体現していると思うのです。

選者:峯岸 



掲載作品への評

月光 : 北川仁

> 窓の外に広がっている蠢く活字の作り出す夜の影に、

 夜の深い闇の中に密集した明朝体を見た発想力が素晴らしい。通底したイメージが無駄のない描写全体を支えています。



安全な恋 : マンジュ

>  僕らは舌の融合したシャム双生児です。

 グロテスクな魅力が光る作品。均質なトーンが作品の密度を作っています。こういう奇想をためらわずに書き切った点も好印象です。



不老不死の秘術 : ブンガ

>  不老不死を得る方法を探して旅していた男が、

 ツェノンのパラドクスを元にした作品と言って良いでしょう。狭義のショートショート的な面白みもあるかも知れません。
 こうした一般に知られている思想や格言などを借りて来て、物語として纏められるというのも超短篇の魅力の一つだと思います。



掲載されていない作品への評

涙の敵

 タイトルとのフィット感に主眼を置いた一行作品と読みました。しかし、文字数の問題ではなく、これだけでは情報量が少ないと思います。



ある休日の昼下がり

 細かい事ですが、腐敗臭を生ゴミの中に埋もれているメロンの匂いだけを正確に嗅ぎ取るのに違和感を覚えました。そのまま吐いてしまうほど激烈な悪臭を嗅ぎながら、その中のメロンの状態を普通に想像してから吐くというのは普通に考えてあり得ないと思います。全体的にちょっとした想像で自動的に書かれている印象を受けました。



バチカン市国の豚

 掲載にしようか、かなり悩みました。肥沃なイメージの連続は魅力的です。ですが、そのイメージの連続がともすればイメージを散漫にさせてしまっている事も否めないでしょう。一文いちぶんは充分に魅力的なのですが、これらが連続した時に作品の軸がぶれてしまっている風に思いました。



頬の上の星興亡史

 アフォリズム以上の面白みを感じられませんでした。アフォリズムとして見ても、切れ味は些か鈍いのではないでしょうか。



 一行作品は発想の豊かさと切れ味が重要です。誰にでもあるようなちょっとした感覚を描くには、もっと深くで言葉を掬わなければならないのではと。



きゅっきゅっ

 ちょっとした、不思議なエピソードという体の作品。ただ、作品の核になるものを感じられませんでした。あえてそうした核の部分を外したような気もするのですが、それならばもっとイメージの飛躍が欲しい。



手を繋いで! 五兄弟

 佐藤雅彦『クリック』収録の『だんご三兄弟』とほぼ同じ内容で、文体も近い。良い風に解釈してもエピゴーネンにしか読めませんでした。もしオマージュであるとしても、相応の書き方があるでしょう。



懸想

 こういう短い作品では言葉の選び方が殊に重要となる事は皆さんももうお解りになっていると思います。この作品では「においが香ばしい」みたいな複式記述(ex.「馬から落ちて落馬して」「頭痛が痛い」などの重複表現)や「馥郁」という余り一般的でない言葉がこの短さの中に二度出てくる点、またその「馥郁」を漢字に閉じていながら「がく然」では「がく」の部分を開いていたりなど、言葉の選び方に緩さを感じました。



くるくる

 こういう個人的な感覚だけで作品を構成する場合、どこかで客観的なバランスを取る必要があるのではないでしょうか。悪い言い方をすればひとりよがりな印象を受けました。