[優秀作品]切符 作者:佐藤あんじゅ
角を曲がると人が溢れ、いつしかその流れに逆らって歩いていることに気がついた。トランクが他の人のカバンや足にぶつかり、何度も手から離れるので、腰に紐で結わいつけることにする。電車が到着することにより、駅からたくさんの人が排出される。ぼくは顔を上げ、遠くに見える駅の建物の突き出た尖頭だけを見つめて、人の波に逆らい進んだ。
夕方だった。駅ではさらに多くの人が待ち合わせをしていた。ぼくはトランクと共に、夜行電車の乗り場へ向かう。駅は不慣れであった。今までこの街から一歩も外へ出たことがなく、電車に乗ったことはなかった。エスカレーターを下へ下へと降りた。
プラットホームにたどり着き、待ってはみたものの電車らしきものはいっこうに来ない。ここは地下五階だ。照明は暗く、人もいない。この場所で本当によかったのか、時間を間違えていないかを確認するため、切符を探す。ポケットには見当たらず、財布にもない。トランクの鍵をかちゃりとあけた。その瞬間、トランクの隙間からトカゲに似た黒い小さな影が飛び出した。それは線路の間に消えた。顔を上げると、駅は消え、あたりには夜の砂漠が広がっていた。
闘争の歴史 作者:宮田真司
凍土に赤い絵を書き続ける。国民は産まれた時から絵描きとなり、その大地を目指し行進する。機械油を展色材に、憤怒を顔料に作る赤を身に育みながら一列に並び進む。その靴跡もすぐ、吹雪に消える。赤は一人では足りない、二人でも足りない、百万人でも足りない。凍土を閉ざす吹雪の白に負けてピンクになるからだ。だから赤を塗り込める。粘度の高い赤絵具を立体と化すほど重ね塗る。行列はあらゆる堕落の誘いに打ち勝ち、確固たる意思を持って進む。やがて吹雪に硝煙が混じり視界が一層白く濁れば、旅の終わりの地だ。凍土を遥か地平線まで赤が塗り込まれている。けれどまだ足りない。凍土にまだ白がある。空にまだ白がある。だから赤を塗り込める。絵描き達は、高らかに腕を降り指先から赤絵具を取り出す。そして赤を塗り込める。絵描きは峻別される。赤の足りぬ者、絵の下手な者、赤色の薄い者は大量の血を流す。赤が足りないからだ。けれど血の赤はさらさらと水に溶け、すぐに凍てつく。だから国民は、機械油を展色材に、憤怒を顔料に赤を育む。赤が足りないからだ。
図書館で 作者:春都
あぁ違う違う、と声をかけられた。
不機嫌そうな顔したおじさんが腰に手を当てている。誰ですか。
おじさんは私の本を奪う。とりあげたと言うのが適切なのだろうけど。奪われた。本を返してくれませんか。読んでいる途中なのです。おもしろくなりそうなところで。
おじさんは本を持った腕をぴんと伸ばして、顔をそっぽに向けた。あ、ねじれた、と思った。おじさんの目がいっしょうけんめいに本を見ようとしている。でも、たぶんあの角度じゃ字は読めない。それじゃ、ただの紙の束ですよ。
おじさんは私に本を渡して、首をもみながら、こうして読んでくださいと言う。なぜですかと聞く。読んでみればわかりますと言われる。おじさんは去る。
腕を伸ばしてそっぽを向く。ページを開こうとしたけど、どこまで進んでたか忘れた。適当にそのへんに指を入れて、こじ開けた。いっしょうけんめいに本のほうを見る。
見たこともない物語が見えた。というか、本があるあたりにあった。視界のギリギリ隅っこで、お話が動いている。
視界の反対側に、小さく手をふる人が映った。女の人だ。たぶん、さっきのおじさんだ。伸ばした腕を上下させた。
でも、少し疲れますよ。
微熱 作者:よもぎ
なんの病いに感染したのか、抗いようもない微熱が僕を誘う。廃屋の蜘蛛の巣のような熱が纏わりついて僕の意思とはおかまいなしに身体を動かす。どこへ連れていかれるのだろう。電車の振動に心臓が煽る。改札を出るとそこは生温くて懐かしい夜の街。慣れた手つきが店のドアを開ける。
轟!と店の中を嵐が吹き荒れる。殴られる視覚と聴覚。旋盤のように渦を描いて雨と風が僕を削っていく。耳が腕が鼻が足が数百の破片に。僕は削られる痛みとぬるく流れる熱に酔い痴れながら雷鳴の中に君の姿を認める。
(やあ、ひさしぶり)
君は鮮やかに微笑んで僕の破片を拾ってくれた。微かな熱を含んで濡れた破片が君の手の中で震える。君のその白い指でひとつひとつ嵌め込まれていく夢を見ている。
積み木あそび 作者:タキガワ
久し振りに親子げんかをした。普段ならば、父の偏屈も聞き流すくらいの事は心得ているのだが、たまたま虫の居所が悪かったのかもしれない。
父の説教は限りなく続き、吐き捨てるようなその言葉は、いつも私を打ちのめす。しまいに父は、全く関係の無い、子供時代のことまで持ち出してくる。
蝶々結びが未だに縦になることや、家中の紐類を、隙あらばみつ編みにする癖や、まるむしを無理矢理丸めていたことなどを、くどくどくどくど責められる。
黙って聞いているうちに、どうしても我慢ならなくなって、それで私は爆発してしまったのだ。
部屋中に散らかった私を見て、父はさすがに慌てた顔をした。ソファの陰から様子を窺っていた母も飛んできた。
母が父を責めながら、私の欠片を積み上げてゆく。禿げあがった父の額に、うっすらと血が滲んでいた。
面白くなって、完成寸前で私はまた飛び散った。おろおろと両親は顔を見合わせる。
勝ったな、とおもった。