とまどいもしない 作者:井上斑猫
ひとつがふたつ、ふたつがよっつ、自動的に、機械的に、規則的に。
概念もなく、意識もなく、よっつがやっつ、淡淡と、まっすぐ、まっすぐ。
複雑化、多様化、分岐して、かちかち、コ・エンザイム、螺旋が。
半分と半分だった時から、まっすぐ、ただ、定められた道を。
三十八億年、惑った道の、最短を確認して、ひたすら、光に。
意志でなく、意識でなく、しかしがむしゃらに、ひたむきに、
光に。最後のトンネルを抜けて、前へ、前へ。
おめでとう、最初の声は、歓喜のファンファーレ。
これでもか 作者:天原
コレデモカはニワトリに似ているがハトの仲間である。鳴き声が「コレデモカコレデモカ」と聞こえるところから名づけられた。「コレデモカ」は現地の言葉で「空腹」を意味する。人々はコレデモカが「コレデモカコレデモカ」と鳴くたびに面白がって食物を与える。これをコレデモカは面白いように食べる。人々はますます食物を与える。コレデモカはいくらでも食べる。だからコレデモカはどれも丸々と太っている。太り過ぎて飛べなくなってしまったものも少なくない。体が重いため地上でも動きが鈍い。容易に捕獲できる。捕獲されたコレデモカはコレデモカな人々の胃袋を満たす。
象を捨てる 作者:逢ふ日
ねえおまえ。
いったいどこへ捨てろと言うんだろうね。こんな大きなおまえを。
銀の月が、サバンナを行く小山のような象と、か細い老人のシルエットを浮かび上がらせていた。老人は片手に杖、片手に引き綱。近くの丈高い繁みの中に豹が潜み、ときおりその目が赤く光って見える。象は歯牙にもかけず、ゆっくり歩み続ける。
ねえおまえ。
許しておくれ。でも嫁が言うのさ。たくさん喰う割に役立たずだって。
白いターバンの下の黒い顔が哀しみに歪む。象は小さな目で前を見据えたまま、鈍重な歩を進める。恨むでなく。嘆くでなく。
ねえおまえ。
疲れただろう。休み休みでいいんだよ。
象の歩みはむしろ速まったように見えた。老人の白い服の裾がはためく。衰えた足がもつれる。痩せた顔の大きな瞳はますます大きく見開かれ、鼻から口から荒い息が漏れる。豹は顔を上げ、そろりそろり匍匐前進で彼らをつけて行く。やがて象の足取りは明らかに小走りになっていった。地響き。千切れ舞う草々。立ち昇る砂ぼこり。象が非力な老人を引きずるシルエットを、月明かりが追いかける。それを豹が追う。
ねえおまえ。ねえおまえ。
これは本当に、私がおまえを捨てるための旅なんだろうね?
魔法 作者:スノーゲーム
晩年の父は、いたる所に忘れ物をしてきた。
だが不思議とそれらは戻ってくるのだ。
そうすると決まって父は、
「魔法だ魔法だ」
と言って、あきれる母と私を尻目に得意気に笑ってみせるのだった。
そんな父も、もうこの世にはいない。
しかし今でもたまに、ひょっこりと戻ってくる父の忘れ物に、
『魔法だ魔法だ』
と笑って煙草をふかす父がそこに居るような気がするのである。
二人だけの秘密 作者:美土里
「ぐみの実落ちる陽だまりの午後」
「ぱらつく雨に煙った夕べ」
「蝶番がはずれたままうち捨てられた扉を潜り」
「丁子の香たゆたう廊下。その先に見えるものは」
「紅蓮の池を渡る一艘の舟」
「巴里の夕暮れの」
「群青色の調」
「牌」
「π」
「パイプオルガンが震えた礼拝堂。後列で眺めた天使」
「パズルは解けない。もう何年も凍ったままで」
「ぐずぐずしてると置いていくよ」
「ちょっと待ってってば」
青い星影を縫って無辺階段で追いかけっこする子等。ルールは二人だけの秘密。
金属バット 作者:よもぎ
キン。と音を立てて白球が夕暮れの空に吸い込まれていく。
買い物袋を下げたまま、ふと金網越しにグラウンドを覗く。
キン。バットの放つ小気味よい金属音が呼び起こす遠い日の。
あの頃の私は生活に疲れた主婦などではなく。
キン。白球を追うかけ声が記憶にこだまする。
あの時もこうして金網越しに彼を見つめていた。初恋の。
キン。ボールの重みが一瞬にして弾け飛び現実にぶつかる。
結婚という生活はぬるく苦く澱んで重なり。目眩が。
キン。キン。キン・・・。
繰り返される打撃音。夫の背後に迫る自分がよぎる。夕闇がじわりと潜む。
キン!ひときわ高く弧を描いてボールが飛んでいった。
ハッと我に返る。
今晩は枝豆をゆでておこう。
ボロボロ 作者:月水
古くなった電灯は光を注ぎ続けることができず、眠そうにまばたきを繰り返してやっと滲み出る荒い色の光を降らす。じっぱ、じっぱじっぱ。搾り出る光は電灯の元に横たわる死にかけの猫を照らす。じっぱっぱ、じっぱ。深夜、ついに猫が息を引き取る。と、電灯はひっそりと光を消す。スポットライトは命亡き者を照らさない。猫は動かない。電灯は眠る。猫は動かない。電灯は眠る、ふりをする。何かを堪えるように、目を瞑る。
ふいに、耐え切れなくなったかのように、じっぱ。電灯は輝きを取り戻す。丸い電球いっぱいに潤んだ電子がゆら、とたゆとう。次の瞬間、堰を切ったように電灯は大粒の光を零す。電灯から零れ落ちる光は途絶えながらも次々と降り注ぎ、猫の周りに光溜りを作る。じじじ。っぱ。っぱっぱ。じじじ。大粒の光はいまやとどまるところを知らずただ猫だけを照らし続ける。
かめ 作者:タキガワ
白日の、じっとしていても汗が滲む河原で声を掛けられた。彼に会うのは久し振りの事だったので、誰だか解らずに本当に戸惑った。
彼は裸で川に浸かっていた。確かに今日は夏日だが、その振る舞いは彼の慎ましいイメージに反している。しかも案外着やせする質なのだな、とその体にさりげなく目を走らせておもう。
勧められるまま、僕も足を水に浸した。足の裏の熱がさらさらと流れてゆく。マッサージがてら、河原の石で土踏まずも刺激した。
いろんな石で試していたら、そのうちのひとつがみしりと割れた。彼のみじかい悲鳴で、僕はそれが何かを悟った。謝るより早く、彼は僕をなじった。
一体、何を着て帰ればいいんだ。
彼は甲羅のかけらをかき集めながら、あからさまにムッとした顔をする。こんなところに脱ぎ散らかす方も悪いとはおもったが、黙っていたら彼は甲羅を抱えて行ってしまった。
彼の去りしなに、かけらがひとつ転がり落ちた。僕は、その背中を呼びとめようとして気付く。
なんて呼んだらいいんだろう。
引き算 作者:松本楽志
俺さまが出来る唯一の計算は引き算だ。人生だってなくすものはあっても得るもんなんて何もない。引き算で十分だ。そんな俺さまが色んなものをなくすためにたき火をしていたら、剥がれた夜がべろん低いところまで垂れてきて、引火しちまった。まいったね。一瞬にして燃え上がった夜空。地上へと吹き付けてくるごうごうという風が熱いったらありゃしねえ。しばらく見てたら、天蓋を覆っていた薄い膜がすべて燃え尽きちまった。あとには罅の入った夜空が素肌を曝してやがる。そうか引き算かと膝を打って俺さまは高層ビルにあがったのさ。大きく息を吸い込んで、夜空を思いっきり殴りつければ、大量のすすが街にわっさわっさと降りしきる。天を仰げば見たこともねえ満天の星空だ。ほれ、引き算だって役に立つじゃねえか。
密室劇場 作者:キセン
エレベータに乗った。降下し始める。カーゴの中には僕しかいない。ふと見ると扉の左側にディスプレイがあって、エレベータ内の監視カメラが映した映像を流している。そこには僕が一人で映っている。右手を上げてみた。映像のなかの僕も右手を上げた。左手を動かしてみた。映像のなかの僕も左手を動かした。ステップを踏んでみた。映像のなかの僕もステップを踏んだ。両手両脚の動きはいつしか舞踏のようになっていった。しかし問題が起きた。どうしても顔が動いてしまいディスプレイを見ることが出来ないのだ。客のいない舞台は虚で愚。仕方がないので僕は首から顔を引っこ抜きディスプレイを見上げるように床に置いた。しかし見えづらい。ディスプレイは小さく、しかも僕の視力はあまり良くないのだ。しばらくそれで踊ったが乗らない。しばらくしてあることに気付いた。ディスプレイを見る必要などない。直接僕を見させれば良いのだ。僕は僕の首を身体を見るように置いた。ラジコンを動かすような違和感があって最初は苦労したが、そのうち異様に面白くなってきた。僕は踊り続けた。エレベータは止まらない。
衝撃 作者:春名トモコ
生まれてはじめて友だちの家に泊まったぼくは、夜中になってもちっとも眠たくならず、長い長い時間、憎たらしいぐらいぐっすり眠っている友だちの寝顔を見ていたんだ。
それは日付が変わったころ。部屋のすみで何かがうごめく気配がした。一匹じゃない。ものすごくたくさんいる。ざわざわ近づいてくるのが分かる。
豆電球のように光る小さな虫だった。大量のヒカリ虫は隣のふとんに群がって、寝息をたてている友だちをばりばり食べだした。次々と部屋のすみからあふれ出てきては、すごい勢いで友だちを食べていく。指が、頭が、肩が、砂が崩れるようになくなっていく。ヒカリ虫は友だちを食べ尽くすと少しずつふくらんで、隣どうし結合し、やがてふとんの上で、光る大きなかたまりになった。眠ってしまったら次はぼくの番だ。息を殺してぼくは一晩中まるいかたまりをにらんでいた。
明け方、かたまりがぐにゃぐにゃと動き出した。形を変え、色がついて、友だちそっくりの姿になった。何事もなかったように目覚めた友だちそっくりは、寝ぼけた顔でぼくにおはようと言う。
ほんの少しだけ背が伸びている気がした。