500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第48回:だめな人


短さは蝶だ。短さは未来だ。

自分で言うのもなんだけど、私、才色兼備なの。
貴方と一緒にしないで下さる?
だめな人。



「だめな人ねえ。」私が失敗するたび、そう言って母はいつも笑った。小言を言うこともなく、何でもサラリと受け流してしまうのだ。そこつ者の父に似た私は、幾度となくその言葉を耳にしたが、責められたという記憶はない。
学校の友人からはよく、「まったくあんたって人は。」という目で見られた。親友には、「もう少ししっかりしないと、世の中やってけないよ!」と叱咤されもした。
「だめな人」は、いつしか心の中で、自分自身の別称のようになっている。でもその言葉は、なぜかふんわりあたたかい。花のような母の、ゆったりした口調のせいかもしれない。あきれつつも、何かにつけ親身になってフォローしてくれた、友人たちのおかげかもしれない。
わたしは明日嫁ぐ。たった一人、わたしを「できた人」と言ってくれた人のもとに。式場には、百人の大切な人たちが集まってくれる。失敗ばかりの私を見捨てずにいてくれたみんなの顔を見たら、泣いてしまうかもしれない。



 今日やらなくてすむことは、明日にする。
 明日やらなくてもすむことは、あさってにする。
 あさってやらなくていいなら、来週にしてしまう。
 来週でなくてもいいようなら、再来週。
 再来週でなくてよければ、いっそ来月。
 来月やらなくてもいいことは、多分再来月やらなくてもいいだろうし、半年後にやらなくてもいいだろう。そして来年も、再来年も、きっとその先も、ずっと ずっと。
 やらなくていいことどもをやらないでいても、わたしはただこうして、このままにあることができる。ただ、ある。それの何がダメなのかわからないけど、それがダメなのだと人は言う。何のためでもなく、何をするからでもなく、ただひたすらこうしてあるということ、それだけでも尊いことだと思うのに、なぜダメなんだろう。そんなことを言うようだからダメなんだろうか。
 ——誰もこたえない。ただ、世界じゅうの物音が、風に運ばれて聞こえてくる。
 わたしはそれをただ、聞いている。いつものようにこの場所で、行き交う人をながめながら、背筋のばして。



 その程度では、全てを平伏せしめるこの称号は差し上げられぬ。諦めて真っ当に努力されるか、あるいはそれを完全に放棄するべく努力されるか、選ばれよ。



 扉を通り抜けようとした瞬間、けたたましくブザーが鳴った。何だ何だと思っていると、どこからともなく制服を着た警備員らしき男たちが現れて、いきなり僕を羽交い絞めにした。
 「おいおい、ちょっと待ってくれよ!」
 僕は慌ててそう叫んだが、男たちはきわめて事務的に僕の手をロープで縛りあげた。まったく冗談じゃない。僕は自由の利かない体で必死に男たちに詰め寄り、一体どういうことなんだとわめき散らした。するとその中のリーダーらしき男が、哀れむような視線と冷たい口調でこう言った。
 「あなたはね……だめなんですよ」
 ふと見ると僕の後ろに並んでいた大勢の人々は、みな無表情のままぞろぞろと扉を通り抜けている。大声で助けを求めてみたけれど、誰一人として立ち止まってはくれなかった。僕は絶望にうなだれた。なんだか世界に独りぼっちで取り残されたような気持ちだった……。

 それからというもの、僕はこの暗く狭い牢獄の中で、半ば廃人のように暮らしている。
 もうとっくにすべてを諦めたけれど、何がだめなのかは未だにわからない。



 世の中すっかりダメには住みにくくなった、なんていかにもダメそうなおっさん達が悲しげに語り合っているのをつい最近見たような気がするのだが、何がどうなるかわからないもので、昨日今朝の失敗を嬉々として語りいつの間にかダメを自慢することが流行る昨今、なんだかね、やれやれ、わからないことだらけです。けれど私はそのような流行には乗らない、けして乗るものか、と頑なに、必要以上にダメを恐れて日々を暮らしているものの、周りがこうもダメを有難がっていると、むしろこちらの方が世間的にはダメなのではないかと不安にもなり、そもそもダメとは何であるか失敗することそのものはダメとは違うのではないかと頭を悩ませているときにテレビでいわゆる「ダメのカリスマ」など見てしまうと、ああ、やっぱりこうはなりたくない、ダメはイカン、感性が許さない。道を歩けばダメそうなおっさん達が、いやあ世間はだいぶん我々にやさしくなりました、なんて言っている。そんなに晴れやかな顔をして。ワタクシそのようなダメは認めません。ではなくて。とにかく負けない、負けるものか、負けてなるかダメなどに。

でも、まいったな、ちょっとめげそう。



 月明かりを頼りに古い楽譜棚をあさっていると突然まるい懐中電灯の光に照らされた。
 第三ヴァイオリン講堂でアタシとその女教師は見つめ合う。「どうして此処に?」女教師が声を潜めて問うがそもそも高い塀に囲まれたシャンポリ音楽中等院に侵入する為には中の人間が手引きをするかアタシのような院生徒になるしかない。「危ないじゃないの。きのう変質者が無断で教棟を歩いていて大騒ぎになったのよ」知ってる。その人はガジェット・ストーンズという詩人だ。誤訳詩人だ。イムホテップを誤ってインポテンツと訳詩して永遠に解けない呪いを受け、夕たなくなっちゃった人だ。彼はピンクラウンジを巡りまぐわり絶望した挙句にこのアタシに楽院に隠された秘宝のレシピの在り処を尋ねた。「知らない」何度も言ったのに彼は諦めきれなかったらしい。
 「どうして此処に?」女教師が声を強めて問うがあれが皆が想像したような回春薬でもなく詩人が妄想したような肉厚な張り型でもなく、もっとチャッチイ、『すぷれー管ニもーたーヲ付ケル』みたいなメモである事はもともと楽院生徒会役員でもあった女教師も知っているはずだ。
 「ごめんなさい。でも、先生だって『ぼく』を探しに?」



だ【駄】
(1)馬に荷をのせて送ること。また、のせた荷物。「〜賃」「荷〜」
(2)荷物を運ぶための馬。また、乗馬にならないよくない馬。「〜馬」
(3)名詞につけて、つまらないもの、粗悪なものの意を表す。「〜菓子」「〜じゃれ」
だめ【駄目】
(1)陶磁器などの良し悪しが分からない人のことを揶揄した言葉。目利きが悪い人の意。
(2)(良し悪しも関係なく収集するので)一流品に劣る品物を好きで集める人。好事家。ディレッタント。「こんなマニアックなものばかり集めているなんて、あなたは相当〜な人だなあ」



ジャ———ゴボゴボ・・・。
ここはトイレ。水の音が狭い個室にこだまする。そんな中、おれは便器を前に立ち尽くした。嫌な汗がじっとりと背中に張り付く。

おお、神よ!
夢なら早く醒めてくれ。きっとおれは今ごろ布団の中で眠っているんだ、そうだろ?そうだと言ってくれよ。こんな夢、タチが悪すぎるぜ。頼むよ、誰かおれをたたき起こしてくれ。

そう願ってみても目の前の事実は変わるわけもなく。
便器の中は憎らしいほど一つの塵もなく綺麗に流されていた。
おれの排泄物も夢も希望も見事に死に花を散らした。
それでも、それでも。
諦めきれないおれは、便器に向かって叫んだ。



「戻ってきてくれ、おれの2億円———!!!!」

・・・ここに、2億円の当たりくじを○ンコとともに流してしまったダメ人間が一人。



 箱の中のそいつを剥すと、そいつは「あーれー」と言ったきり黙ってしまった。
「つれないなあ」
「クールと無愛想は紙一重」
 ポケットの中のそいつらが喚き立てる。ああ五月蝿い。僕はそいつを丸めてポケットに押し込んだ。
 途端に中で歓迎会が始まる。
 一気! 一気!
 一瞬静まった後、拍手が巻き起こる。
「わたくし、××と申します」
 やんややんや。
「見ての通りしわくちゃですんで、クチャと呼んで下さい」
 笑い声が耳に煩い。
 僕はポケットを五回ほど叩くと、次の箱を開けることにした。
「体調殿、スカタン号はスカタン号であるが故にそのスカタン号っぷりを発揮、結果わたくしはお酒にまみれたのでーあります! 報告完了でーあります!」
「隊員各位はクチャ隊員を舐められーたし!」
 棚には先のと同じ箱があり、開ければ中にはやはりそいつがいるのだ。
「ご苦労。君は彼らのところにはいかないのかい?」
「馬鹿馬鹿しい」
「そう? まあ、実際どうだっていいんだけどね」
 そうだろうね、と答えてそいつを剥した。
「しーぬー」
 ポケットの中のそいつらが喚き立てる。ああ五月蝿い。僕はそいつを二つに千切ってポケットに押し込んだ。



「では次の質問。好きな異性のタイプは?」
「うーん、鎖骨がイビツで眼鏡が似合えば何でも」
「好きな言葉は?」
「えー、土管はえてして割れたがる」
「では尊敬する人物は?」
「強いて言えばビル・ワイマンかなぁ」
「好きなアーティス」
「楠瀬誠志郎!」
「即答でしたね。好きな色は?」
「あのう…珈琲おかわりしてもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
「すいませーん!珈琲おかわりー!ウインナー少なめで」
「えーと、では趣味は?」
「絵本を描くこと」
「ほう。どんな内容です?」
「スイカちゃんシリーズです」
「ス…スイカちゃん?」
「さわやか万太郎のパロディなんですが」
「…へぇ。では好きな画家は?」
「オスヴァルド・チルトナー」
「得意料理は?」
「電気ポットを使ってのしゃぶしゃぶです」
「意外と賢いですね。さて僕も珈琲おかわりしようかな。すいませーん…すいませーん」
「こらこらそんな小さな声じゃ届きませんよ、私が呼びましょう。すんませーん!すんませーん!おーいコッチコッチー!ほらね?すぐ振り向いたでしょ」
「…へい」
「ったく今日日の男子は注文もロクに出来ないみたいで。だめな人ですなぁ」



 気がつくと見知らぬ浴室だ。私は裸で、手足を縛られ、果物のように皮を剥かれている。記憶を巻き戻そうとするが上手くいかない。乾いたタイルが固く冷たい。あるいは皮膚をなくしたために寒けを感じているのかもしれない。
 男が現れる。私の耳を引っ張り、浴槽の中へ目を向けさせる。「何かわかるか」
 胸が悪くなる匂いがする。浴槽を満たす液体は水ではないらしい。
「これだけのシロップを集めるのに、いったいどれだけの缶詰を食べたと思う?」男は私の顔をざぶざぶと漬ける。お前のせいで、お前のせいで、と言いながら。「お前が書いた『絶対モテるデート・マニュアル』の通りにやったら女に振られた。だから『自宅でできる! かんたん缶詰の作り方』に書いてある通りにお前を缶詰にしてやる」
 ついに私は体ごと浴槽に放り込まれる。男が蓋を閉める。思うように缶詰ができあがらなかったら『自宅でできる! かんたん缶詰の作り方』の著者はどんな目にあわされるのだろう、と私は思う。
 失われた皮膚がふやけていく。



真新しいクラス名簿の名前の上に、彼女は次々とマルバツを書き込んでいった。
マルはいい人。
バツはだめな人。
彼女の主観ではかった人物評。冷淡なほどの手際のよさが心地よい。マジックペンのきつい臭いが鼻をつく。
やがて彼女は僕の名前まで辿り着くと、ちらりと僕をうかがってから、大きなマルを描いた。
僕は彼女からペンを奪い取り、彼女の名前の上に、幾重もバツを書いてやった。



 ねぇ、それがあなたの口癖だったわよ。
私のためなら、何でもやってくれるって。
だから、ねぇ、あなたも手伝ってくれるわよね。
今夜中に片づけないと、私、やばいのよ。
 なによ、血が出たぐらいで怖がって。
ほんとうにあなたって駄目なんだから。
もっと小さく切らないとばれてしまうでしょ。
これがあの人の身体だって。
私、あなたのせいで刑務所に行くなんて、いやよ。



 海辺沿いをあなたと歩く。海が見たいとわたしが言うと、あなたは渋ることなく車を走らせてくれた。あなたはいつだって、優しい人。カーラジオの隣でしゅわしゅわと弾けていたサイダーは、車を降りる頃には造作のない甘ったるいだけの液体に変わっていた。
 一歩前を歩いていたあなたが立ち止まってわたしを見るから、思わず唇をすぼめたら、ほどけてるよと笑ってわたしの靴を指差す。
 僕が結び直してあげるから動かないで。すかさずしゃがみこんだまではよかったけれど、靴紐はなかなか上手に結ばれない。普段自分でやるのと勝手が違うからだよなんて、潮風に湿った耳を真っ赤に言い訳をする。
 あんまりあなたが一生懸命だから、わたしは息を吐くことさえ躊躇われて、波がすぐそこまで迫ってきていることにも口を噤んだままにした。
 しゃがみこんだあなたのズボンのお尻と、やっぱり靴紐のほどけたままのわたしの靴を瞬く間に波が呑む。
 わっと驚いて尻もちさえつくあなたに、不謹慎にもわたしは声を立てて笑ってしまう。



小料理屋に入ると既にほとんどの奴らは酒がまわっていた。
「おー、お前ケンだろ。小林健介!久しぶりだなぁ!」
頬を軽く上気させた男がそう言いながら自分の隣の席をばんばん叩く。
コイツ誰だっけ?
「本当に久しぶり。調子は?」
「おう、働き盛りだ。お前はどーよ?」
「まあまあかな」
名の出そうな話題は避けながら当り障りのない話をする。
8年ぶりに会う旧友達。見知った顔を確認していくが、探している奴が見つからない。
「なあ、佐倉は来てないのか?」
「佐倉?ああ、佐倉愛か」
佐倉愛は俺の中学3年の時のクラスメイトだ。性格が暗く物言いがぼそぼそしているので皆から「佐倉」ならぬ「根暗」と呼ばれていた。学級の苛められっ子でよく靴を隠されては泣いていた。俺が一番佐倉を苛めてた。
「そっか、ケン知らねぇのな。佐倉は、死んだよ」
周囲の喧騒が一瞬遠くにひいた。
「・・・いつ?」
「去年。あいつ自殺したんだ」
旧友の口から語られる佐倉の一生。両親の離婚。就職難。手酷い失恋。
「弱かったからな。昔から」
そう。佐倉は弱かった。泣くばかりで口答えもしない。
「弱すぎだよ。ちくしょう駄目な奴だな最後まで」
謝ろうと準備していた台詞がパッと頭の中で散った。



 血だらけの包丁を持った男の肩を、探偵は後ろの方からそっと掴んだ。
 部屋のすみにあるクローゼットには、小さなのぞき穴がついている。



 ああ。どうせ俺はダメさ。ダメでダメでダメダメさ。何をやってもダメ。何もしなくてもダメ。仕事の飲み席で「今夜は無礼講」と言われりゃ記憶に無いことをしでかすし、彼女にキスを迫って「イヤ、イヤよ」と言われりゃ何もしねぇ。黒猫は遠回りしてでも俺の前を通りたがるし、湯のみに茶を入れて茶柱が立ってると思や、俺が見た途端死んだ金魚のようにぷかあと横たわりやがる。イヌが西向きゃ、終わりだし。……へへ、へ。目の前がにじんできやがる。
 でも、そんなダメな俺でもなぁ、やらなきゃならねぇ場面ぐらいは分かるのさ。今が、その時。できる、できねぇじゃねぇ。やるか、やらねぇかだ。もしかしたら、人様の役に立てるかも知れねぇじゃねぇか。……いや。ダメだダメだ。そんな「ダメでもともと」なんて考えじゃダメだ。やるんだよ! ダメな自分におさらばするんだよ! もう、時間は無いんだ。走れ、走れよ。ほら、上空に見えてきた。ぐんぐん近付いてくる核ミサイル。あれを接地爆発前に受けとめるんだ!
 ……畜生、にじむねぇ。周りもみんな、走ってやがるよ。



昔からよくだめな奴だと罵られた。それはきっと僕がいつまでたってもしっかりせずにふわふわ浮いてばかりいるからだと思う。どうにかしたいと思っていろいろ頑張ってみたもののうまくいかなかった。
ある時仕事の都合で遠くに飛ばされることになった。ふわふわしていた僕は思いのほか遠くに飛ばされてそのままの勢いで地面に降り立ちそこに根を下した。
それから二十年、特に大きな成功も失敗もないままごく普通に生きている。
風に吹かれて飛んでいるタンポポの綿毛を見るたびに「いつまでもフラフラしているんじゃない」なんて説教じみたことを言いたくなったりもする。ふらふらしなくはなったが、妻からはよくだめな人だと言われてしまう。どうやら自分がだめな奴なのはふらふらしてるせいじゃないらしい。



うーん、問題作w
こういう内容がなくてひねりだけって作品、だめな人はだめだとおもうんですけど。
誘惑されちゃだめ! 作者の術中にはまっちゃだめ! と、思いつつ、ついつい正選に推してしまいます。
そもそも作品として成立しているのか、疑問ではあります。けれどもこの作品に対して選評書くときの奇妙な気分、これは得難いものと判断しました。これを評価できないようでは、だめな人だと思います。
まあ、自分で「問題作」って言っちゃう作者もどうかと思いますけど。



 パートが終わってアパートに帰ると、玄関のカギが開いていた。離婚して1年以上経つのに、ノブを回してドアを開けるまでの間、恐ろしい妄想が頭を駆け回る。
「ただいま。カオリ? 帰ってるの?」
 台所と居間を隔てるドアは開いていて、窓から差し込んだ夕陽が娘の赤い靴に当たっている。アニメの時間なのにどうやらTVはついていない。
「どうしたの? カオリ? 帰ってるの?」
 フローリングなのに自分の足音が五月蠅い。心拍音も。もともと盗まれるような物は無いし、実際荒らされた形跡もない。
 窓の方にばかり気を取られて、ドアの、わたしのすぐ側で娘が体育座りしていることに、わたしは気付けなかった。
「なに……してるの?」
「……ひとりぼっちの練習」
 全身の力が抜け、崩れ落ちる体を無理矢理、娘の隣に体育座りさせる。
 顔は別れた夫に似てるけど、この娘はやっぱりわたしの子どもだ。
「ママも……ふたりぼっちがいいなぁ」
 呟いたら、娘が小さな手でわたしの頭を撫でた。
 もうすぐ夜になる。



 家から出ると隣人が「あなたはだめな人ですね」と言った。彼だけではない。道行く人が皆私に向かって言うのだ。「あんただめな人だよ」「君はだめな人だ」「あんた本当にだめな人だね」「真にだめな人ですな」「貴様はだめな人だ!」「まさにだめな人じゃのう」「マジでだめな人じゃねえ?」「You are だめな人」「だめな人だにゃー」猫まで言っている。コンビニで弁当を買おうとしたら店員に「あなたみたいなだめな人に売る弁当はありません」と言われたのでしかたなく何も買わずに家へ帰った。ああ私はだめな人だなあと納得しながらテレビを見てそのまま寝た。



 夜中、まぶたの裏がチカチカ輝く。あなたは胸苦しくなって台所に這い出す。闇のなか、流星粉を探し当て、あなたはびりびりと袋を開ける。とたんにあふれ出す光。おばあちゃんの病気が治りますように。醤油の壜が倒れて、テーブルから滴っている。和人さんと一緒になれますように。くずかごが転がって、煙草の灰が舞い上がる。無病息災家内安全。掃除機が壁で砕けて何かがまき散らされた。サッカーがうまくなりますように。東京大学に合格しますように。幸せな結婚ができますように。宝くじが当たりますように。今度は男の子が生まれますように。光、光、光。
 あなたは流星粉を流しにぶちまけて、水をひたすら流す。もはやなにも考えたくない。



ダメな人。君。なんだか丸ごと全部を愛せそうな気がする。そんなダメな人。僕。



「いいの。気にしないで」
そう言って女は男をまたいで冷蔵庫へ向かった。ガラナエールをグラスに注いで一気に飲み干し、テレビと煙草に火を点ける。素っ裸のままもんわりと紫煙を吐く女の姿を見て「こいつは本当にいい体をしてるな。少し猫背がきついけれど」と思った。女は膝に顎を載せてテレビを見ながら「好きよ」と呟き、男はベッドの上で汗ばんだ尻を掻きながら「来いよ」と言った。「もういいってば。また明日にしましょう」「いいから来いよ」「いいってば。もう少し時間をおきましょ」「来いってんだよ。今回ばかりは漲ってる、逆毛も立っている」「…フフフ」女は微笑みながら歩み寄り、男の尻をピシャリと叩いて押しのけてベッド上で大の字に仰向けになった。のし掛かる男の荒い鼻息はまだくすぐったくて、必死な様が妙に愛しい。深夜のテレビショッピングは続ける—
《えー今回ご紹介致します商品は〜、高麗人参と蝮エキス配合の…》
—ピタッと動きが止まる男。女は笑いながらテレビを消してリモコンを放り投げ、抱え込んだ男の頭に長いキスをした。



 霊園では新しい墓の開通式が執り行われている。坊さんがお経をあげて、もくもくと線香の煙が立つ向こうには二十人位の喪服の集団が頭を垂れている。子供まで黒の半ズボンで揃えている。喪服の少女は色っぽい。黒いミニスカートに白いセーター。身を屈めた拍子に見えたパンツも白。
 僕はつい立ち止まった。
 除幕のセレモニーも滞りなく終わり、喪服の人たちが三々五々散ってゆくなか、ゴゴゴと墓の蓋がずれ、ふいと風がそよぐように僕は真新しい穴に吸い込まれた。もういちど見ようと少女を振り返った、そのとたんだった。
 しくじった。この墓はさっき奈落に通じたのだ。
 白い骨、白い灰が、僕を置いて上へ上へとさかさま雪のように舞いあがる。だったら、と少女の白いパンツを思い浮かべたその刹那、魑魅魍魎が体中の色という色を食いちぎろうと襲いかかるのをかろうじて逃れて、僕の体はアドバルーンのように浮き始め、墓の外へ凄い勢いですっ飛び出した。
「だめよ」
 両手両膝を地面について、ハアハアと息をつく僕に向って少女が言った。
「白は奈落では唯一浮力のある色なの。ただでさえ色は狙われやすいのに、そんな悪趣味なアロハでお墓の前を通っては——ねえ、聞いてる?」
 見ると黒い革靴に、ソックスも白。



君のことが好きです。付き合ってください。

なっ・・・なんで?

他に好きな人がいるって…誰だよそいつ。

はぁっ?あんなヤツのどこがいいんだよ。

そんなの理由になってないよ?
どうして、僕よりあんな奴の方がいいのか
ちゃんと説明してくれよ。
僕に悪いところがあるなら直すしさ。
必ず僕のほうが君を楽しませてあげることできるし。
考え直しなよ。

・・・・・・。

はっ?だから、なんで僕じゃダメなのか
詳しく、わかりやすく、納得できるように今すぐ、説明しろよ!
そうしなきゃ、学校やバイト先にあることないこと言いふらしてやるからな!!

・・・あ。今のは、冗談だからさ。ね?
それほど君がすきなんだって。お試しでいいからさ、付き合ってよ。



 未使用の切符を拾ったのでさっそく電車に乗ろうとしたところが改札を通れない。駅員に文句を言うと「それは昨日の切符です」などと失礼な口をきく。むかついたのですべてのものには7年間の保証期間があるのだと教えてやったら奥に引っ込んだ。その隙に改札をすり抜ける。世界は俺を中心に回っている。
 座席にすき間を見つけたのでぐいぐいと割り込んで座ったら隣の女がいやな顔をする。むかついたのですね毛で女の足をくすぐってやったらすぐに席を立った。世界は俺を中心に回っている。
 女のあとにどっかと男が座った。でかい。むかついたのですね毛攻撃をしてやったら相手のすね毛もひどく濃くて、互いのすね毛が絡みついてしまった。次の駅で男が立ち上がると痛い痛い。こちらも立ち上がらざるを得ない。男は俺に構わず、ずんずん歩く。歩幅がでかいのでこっちはずっとけんけんだ。しかも男の歩幅はどんどん大きくなる気がする。ほんとうに世界は俺を中心に回っているのか?
 男の歩幅はますます大きくなり、やがてけんけんすら必要なくなった。俺はすね毛にからめ捕られて移動する。ラクチンラクチン。やっぱり世界は俺を中心に回っている。



 例年に較べて十日ほど遅い、と気象予報士が繰り返しているのを聞いてはじめて、すっかり忘れていたことに気付いた。

 花が終わった頃に来るのもいいだろうが、と遅れた分は菊の量でごまかしたつもりだけれど、これくらいのタイムラグはあんたらしいとおまえが上で笑っているようで、どうにも落ちつかず腹いせに、おまえが嫌いな吸いかけの煙草を線香の替わりにぎうと立ててやった。
 ざまあみろ。
 だがこれもおまえの掌の中に思えてならない。何年経っても。



 風なら遅れ、雨なら休む。冬には暖房を、夏には冷房を効かせた部屋から出ない。体はぶよぶよで、欲にまみれ、些細なことに腹を立ててはいつも嘲り笑われている。毎日の料亭通いにはもう飽き飽きで、たまにはファストフード店にも行ってみたい。自己中心的だと言われるが、他人の意見なんかいちいち聞いていられないし、都合の悪いことはすぐに忘れてしまうのが健康の秘訣だ。高層マンションが林立する中で広い庭つきの平屋に住み、東に憲法改正を求める声があれば可及的速やかに実現しようと努め、西に愛国を叫ぶ人があれば負けじと愛国を唱え、南で起きた災害をテレビで見ながら楽に痩せられる体操を試し、北の貧困を尻目に一秒でも賞味期限を過ぎた食物は生ゴミとして処分する。地球温暖化なんか自分が生きている間には関係のないことだし、冷夏ならば過ごしやすくて大歓迎。みんなに先生と呼ばれ、褒められもせず、苦情ばかり訴えられる。そういうものにあなたはなりたい。



俺の彼女は生活能力がまるで無い。必然的に同棲している俺に家事がまわってくる。
「亮君、私オムレツ食べたいなぁ」
「ではお昼に作りましょうか」
「やった!」
幸せそうに咲は笑う。
「亮君の作るお料理好き。亮君も大好き」
「俺もですよ」
細縁フレームの眼鏡が咲の細い指ではずされた。
軽くぼやけた世界でも咲は充分美しい。惚れた贔屓目ではなく咲は本当に美人なのだ。
そっと唇をあわせながら愚かな恋人を抱きしめる。
美しい君ならもっと頼りがいのある男を捕まえられるだろう?こんな家事くらいしか取柄のない男を好きになるなんて。
「だめな人ですね。貴方は」
咲の耳元でこっそり呟いた。

亮君は本当に料理上手。掃除も洗濯もテキパキこなしてしまう。
夏のストリートスタイル特集の雑誌を読んでいると亮君がオムレツ持って来た。
「できましたよ」
「いただきまーす」
口の中に卵の味がふんわり広がった。
「美味しい!」
「よかった」
亮君は優しく微笑む。
優しくて馬鹿な人。亮君は優しすぎる。私は亮君に何もできないのに亮君は私に沢山のことをしてくれる。もっと亮君を幸せにできる人が絶対いるのに私なんかを好きになるなんて。
「だめだねぇ亮君は」
優しい恋人は首を傾げた。



 彼は白とも黒とも恋に落ちず、碁盤で欠伸をしている。



私が決めたダメな人は自分。
夢も無く、希望も無く、目的も無く、仕事も無く、才能も無く、実力も無く、気力はあったが、現実を目の前に失った。
わたり鳥は決められた季節の間に移動しないと死んでいく運命。それさえも、決まらない自分は渡り鳥よりも劣る。しかし、自分は実は恵まれていることを知っている。それを裏切ることも出来ない自分がいる。それも弱さと甘さだ。道を外れるわけでもなく、目の前にある日々をこなしているだけだ。誰にでも出来る。
しいていうなら、自分が生きる意味は犬の為に。以前は学校の為に。学校はもう終わった。自分よりも先に死ぬものを見つめて、犬が死んだら、次は自分が何のために生きるのかまだ決まらない。
家にいて、同じような毎日で自分を悩ませているのは夕食のメニュー。使わない脳は衰えて、いまでは友人さえも忘れていく。
物事は計画通りには進んでいかないものだけれども、あまりにひどく急激に傾いた計画は修正がきかない。とくに、壊れた体の修正はもっときかない。人も動物も。
道はまだ決まらない。決められない。犬が死んだら見えるかもしれない。それから考えようと思う。答が出ることを願いながら。



数年前、アメリカから、新しい遊びがやってきた。30歳以下の男女はもう夢中。家の中でも電車の中でも。歩きながらも走りながらも。社会現象。老人たちは「けしからん」と叫び、国会では規制案も出る始末。
一方、ちょっとしたコツがいるその遊び、どうしても出来ない不器用な人たちがいる。彼や彼女はコソコソと生活をしている。ある時、世間に対して気まずい思いの二人の目が合い、こうして仲良くなった。この春、結婚するという。それはそれで幸せな話だ。



 原稿の締め切りを間近に控えた若手女流作家・赤瀬洋子の書斎に、突如その男が現れたのは午前二時のことだった。
 密室である書斎に強い光が満ちたかと思うと、閉じたドアの前に黒いロングコートを着た長身の男が立っていたのである。
 呆然とする洋子に、男は口を開く。
「俺は未来から、お前を殺しに来た」
 二十世紀末のSF映画で使い古されたようなセリフを平然と吐き、男は一歩前に出る。
「今お前が書いている小説によって、未来の地球は滅亡の危機を迎えている」
 洋子は回転式のイスに座ったまま男を見上げ、人差し指の先でトントンと顎を叩く。
「えーっと、つまり私が今書いている小説は締め切りに間に合うのね?」
「ああ、今から五時間後に完成するはずだ」
 それを聞いた瞬間、洋子は殴るように拳を固め、よっしゃあ! と歓声を上げた。
「それを聞いてヤル気が出たわ!」
 クルリとイスを回転させ、机の上に置かれたノートパソコンに指を走らせる。
「待て、お前の小説で地球が滅びるんだぞ」
「フッ、野暮なこと言うねえ。地球を滅ぼすぐらいの小説が自分に書けると分かって、途中で止める作家がいるわけないじゃない!」



漏れ。



 俺。
 それとも、あんたか?



 ここで訂正がございます。先ほどコメンテーターの神崎さんが、作家の川添さんのことを「私の友人」と発言しましたが、正しくは「知り合い」であることが判明いたしました。
 謹んで訂正いたします。



彼の呼吸で風が吹く。
彼が眠ると日が沈む。
彼はこの世界。
冒されることのないリズムを刻んでいる。干渉は許されない。
好きになっては    。



「昨日、流しの下の扉を開けたらゴ」
「きゃあぁぁー」
 彼女があまりにも大きな悲鳴をあげるから、僕はゴの形に口を開けたまま止まる。
「待って、言わないで。だめ。あたし、それ苦手なの。名前聞くだけでも、だめなの。お願いだから言わないで」
 涙目プラス上目遣い。僕の腕をぎゅっとつかんで、彼女は必死に訴える。
 でも、残念。僕はそういう仕草がだめなんだ。
 背筋を駆け上がるような快感に押されて、僕はもう一度。
「だから、ゴ」
「きゃあぁぁー、やだ言わないでー」



にとぬの間で男がひとり肩を震わせしゃがみこんでいた。



「だめだ! だめだ! こんなんじゃだめだ!」
大声で叫びながら、男は書いたばかりの原稿用紙をくしゃくしゃに丸めてポイッと投げ捨てた。
「あらあら、あなた、ゴミはゴミ箱に捨ててくださいね」
男が投げ捨てた紙くずを、男の妻が拾ってゴミ箱に捨てる。
「だめだ! だめだ!」
男は妻の言葉など耳に入らない様子で、少し書いてはすぐさまその紙を丸めて投げ捨てることを繰り返している。
「あらあら、あなた」
妻は男の捨てた紙くずを、すぐさま拾ってゴミ箱に捨てる。
「だめだ! だめだ!」
「あらあら、あなた」
「だめだ! だめだ!」
「あらあら、あなた」
繰り返すうちに、男の机の上から原稿用紙がなくなった。
「だめだ! だめだ!」
大声で叫びながら、男は頭を抱える。
「だめだ! だめだ!」
男は今度は膝を抱えた。
「だめだ! だめだ! だめだ!」
「あらあら、あなた、だめじゃないですか。ゴミはゴミ箱にって言ったでしょう?」
大声で叫びながら段々くしゃくしゃに丸まっていく男を見て、妻が微笑んだ。



「男なんて、取り替えていればいつかはいいのに当たるわよ」
 女はそう言ってタバコに火を付けた。
「あたしなんて八歳年下の若い男をつかまえたのよ」
「おお」
 歓声が湧き上がる。

「イヤですよね」
 隣の席の会話を聞きつつ、若い男は残りのコーヒーをすすった。
「何で、男が女の見得に利用されなきゃなんないんでしょうか」
「お前、年いくつだっけ」
 先輩社員に聞かれ、男は「25ですけど」と答える。
「女子高生だな」
「は?」
「がんばれよ」
 そう言ってレジに向かう背広姿を、男はぽかんとしながら眺めていた。



「それじゃあ、一人一人名前をいって。」

部屋には白衣をきた男と、黒いスーツをきた女がいた。
そして彼らの前には同じ姿、顔、形をした女性達が並んでいる。
一様にメイド服をきている。

「あすか」「あずみ」「ア、アッ…ギィッ」「ありす」「あれん」…

女性達は男に言われたとおり名前を名乗っていく。
一人を覗いて、全員が正常に動いていた。

「3番はダメか…。おい、処理場へ向かわせろ。」

「はい。」

男に言われ、黒いスーツの女が3番と言われたメイド姿の女性を
どこかへと連れて行った。

「ではこの後料理、洗濯、掃除、子守という順番でテストをする。
 まずは料理だ、隣の部屋へ移ってくれ。」

男がそういうと、女性達は「はい」といって次々に部屋を出て行く。
が、ここでも一人だけ、その場に座りだし、雑巾がけをしだす女性がいた。

「やれやれ、こいつもダメか…。」

男はそうため息をつくと、そのロボットをつれて処理場へと向かっていった。



 僕は冴えないヤツだった。
 ところが、14歳の夏。同じクラスだった彼女が僕のノートを拾ってくれたのがきっかけで、僕の世界がひっくりかえった。それからは、彼女に笑いかけられるたび僕は嬉しくてしょうがなかった。僕はどんどん我が儘になってゆく。もっと僕を見てほしい、と浅ましくも望んだ。
 僕は必死で勉強に励み、学年上位を維持した。陸上を始め、体を鍛えた。雑誌を買い漁ってファッションを追求した。引っ込み思案な性格も直すべく努力も惜しまなかった。そして、僕は有名大学を卒業し、貧弱だった体は逞しくなり、外見も垢抜け、友人も増えた。今は有名企業に勤め、その成績もめざましい勢いで伸び続けている。
 彼女と出会ってから11年、僕は彼女のために男になった。
 僕は繰り返し告げる。僕を見てくれ、と。でもそれはもうすっかり擦り切れてしまった言葉で。
 ———これ以上僕はどうすればいい!
 たまらず叫んだその時、彼女は僕の頬に手を伸ばした。そして、彼女はかつてノートを拾ってくれたあの時と同じ笑顔で、僕に囁く。
「あなたって本当に、」
柔らかで、優しい声。

「ダメな人ね」

 僕は目頭が熱くなり、消え入るような声で呟いた。


 あなたが、好きなんです・・・。



大統領候補の公開ディベートが行われた後のプレスルームは慌ただしかった。
「おい、聞いたか。ディベートの時、現職のW大統領の背中に無線機のような物が見えてたらしいぞ。」
「ああ、大統領のあまりの頼りなさに参謀が入れ知恵していたんじゃないかっていう話だろう?」
「どうして、そんなに落ち着いていられるんだよ。ディベートで不正が行われたなら立候補資格の剥奪も辞さないって、選管はカンカンだぜ。」
「問題ないよ。大統領、無線のスイッチの入れ方が分からなくて使えなかったってさ。」



続編を書く作者。



靴下のなかで待ち合わせしてしまったときの気分を、パントマイムで



 目を閉じて耳をふさぎ四角い腿を合わせて平らな腹に引き寄せる。とくんとくん心臓の鼓動だけになる。怒り、嫉み、怠け、嘘をつく、人はどうして我儘で、際限ないのだろう。疫病に倒れた者の魚のような眼を想う。私も病気になれれば、耐えるだけが至上の命題なのに。
 肺で呼吸し血液を廻らせ、上下の穴を繋ぐ消化管で養分を吸収する。弟は片頬を歪めて笑う。奴らのことで悩むことはないぜ。勝手に動き出して勝手に止まる、ただのからくりよ。少女は唇を噛む。それなら私たちは誰?
 洞窟のまばゆい静寂に楽の音が響く。臙脂色の少女の瞼の裏に一人の女の姿が浮かぶ。篝火の下、丸みをおびた腰を揺らし、脂膜をのせた二の腕を振る。脚を伸ばしつま先を跳ね上げ、背中はしなって地表を滑る。声にならない少女の言葉を女は肩で受け流す。むずかしいのね。額の汗を拭いもせずに女はぬめりと笑ってみせる。あなたの光に包まれて踊りたいのです。指先がなにかをなぞって動き、少女の背筋はひやりとすくむ。
 永遠の時間の中ではわからないならせめて、成熟し朽ち果てる宿命のおまえたちの側で、想わず何も為さず、すべて見届けてやる。少女は岩屋戸を開き、天の道を歩みはじめる。



「だめな人ね……」そう言って女は俺に口づけた。
まんざらだめじゃないかもしれない、そんな風に俺は思った。
グラスの中で溶け出した氷が、カラン、と小さく俺を笑った。



腹がたったので「もう二度と、私はダメって言うな!」と叫んでしまった。
愛されるダメな人がいる一方で、愛されないダメな人がいる。あの子は、愛されるダメな人。見ててイライラする。
あの子は部屋を出て行った。
私は、机の上の資料をぜーんぶ床に落として、椅子の上で体育座りしながら目をつぶって、10分後に自分で片づけた。
泣くもんか。私は誰にも愛されたくなんかない。



 真面目に働こうとしては辞めてしまう。謙虚になろうとしては去勢を張ってしまう。大人しくしようとしては暴れてしまう。買おうとしては盗んでしまう。いらないものも盗んでしまう。手を切ろうとしては付合ってしまう。足を洗おうとしては続けてしまう。自分を大きく見せようとして拳銃を手に入れてしまう。禁断症状は怖いが薬を打ってしまう。どうしても打ってしまう。優しくなろうとしては殴ってしまう。苦労を選ぼうとしては楽をしてしまう。笑おうとしては泣いてしまう。喜ぼうとしては怒ってしまう。感謝しようとしては憎んでしまう。好かれようとしては嫌われてしまう。悲しもうとしては呑んでしまう。忘れようとしては打ってしまう。いっそ死のうと思うが何も。起きようと思っては寝てしまう。病院へ行こうとしてはギャンブルにのめり込んでしまう。後悔しては繰り返してしまう。やめようと思うがやめられない。呑むまいとしては呑んでしまう。どうしても呑んでしまう。幻覚だと判っていても撃ってしまう。幻覚から醒めても死体を隠してしまう。自首しようとしては逃げてしまう。やはり死のうと思うがやはり死ぬ事も出来ずにいる。泣こうとしては笑ってしまう。



 投げた石は木の枝に当たった。細い枝がゆさゆさと揺れて、耐え切れなくなった毛虫が落ちてくる。と、その一瞬前に、がしゃりと響く鈍い音。しまった、またやってしまった。思わず頭を抱える。先週は4丁目の鬼姥の家のステンドグラスだった。怒り狂った鬼姥のおかげで、家はノアの鳩が5匹死んだんだっけ。母にこっぴどく叱られたことは言うまでもない。
「だから、俺はもう止めとけって言ったんだ。それをお前は」
 誰もいなかったはずの隣からよく知った、呆れた様にも、馬鹿にした様にも聞こえるわざとらしい溜息がした。
「今度は、うまくいくと思ったんだ」
「だからって。また、母さんに怒られる」
「うう」
「まあ、自業自得だけれどさ。大きな騒ぎになる前にさっさと謝りに行けよ。逃げたってどうせすぐばれるんだから」
「う」
「ほら。足元、破片が散らばってるから気をつけろよ」
 一歩踏み出した途端、前のめりにつんのめり、見事に地を舐める。
 がっしゃん。
「だから、もう。お前ときたら」
 大丈夫、小さく呟く。
「俺を忘れて行くんじゃねえぞ」
 ゆっくりと、体を起こして振り返ると灰色の、砕けた右足が嗤っていた。



「だめです。」
 と、彼女は優しく、けれど断固として答えた。
「きっと、また来るよ。」
 男は優しく、けれど悲しそうに言い、去っていった。

「だめです。」
 と、彼女は優しく、けれど断固として答えた。
「きっと、また来るよ。」
 男は優しく、けれど悲しい顔をして、再び去っていった。

「だめです。」
 と、彼女は優しく、けれど断固として答えた。
「きっと、また来るよ。」
 男は優しく、けれど疲れたように笑って、やはり去っていった。

「だめですよ。」
 と、彼女は優しく、断固として、けれど泣きそうな顔になって答えた。
「きっと、また来るよ。」
 男もまた優しく、けれど悲しく、泣きだしそうな顔をして、去っていく。

 何度も、何度も。