500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第47回:降るまで


短さは蝶だ。短さは未来だ。

冷たい手が、寒いね。と囁いた。
そんなことありません。あなたの手が冷たいだけです。
そんなことない、此処は寒いよ。ひどく寒いよ。まるで、北の海みたいに、厳しく寒いよ。
北の海になんて、行ったこと無いくせに。
前世で暮らしてたんだ。お前とは違う人と。
本当かしら。
本当だとも。今日は、夜が深々と更けていくから、ことさら寒い。
そうなのかしら。私には、少し暑いくらいだけれど。

此処は寒いね。お前の手も冷たいね。まるで世界の終わりみたいだ。俺はどうにかなってしまいそうだよ。

どうにかなってしまいそうだよ。

今夜は雨になるかしら。私はなんだか淋しくなって、そっとラジオ放送を反芻する。

どうにかなってしまいそうだよ。

いっそのこと、どうにかなってしまえばいいのです。
あなたも私も、もう子供ではないのですから。



 蔵船屋の源ジイはきょうも浜に立つ。
 海猫どもがかしましく囀っては波間を掠めていく。空は鈍い灰色に煙っている。
 この地が鰊の大漁に沸いたのはいつ頃のことであったろうか。浜にはいくつもの酒場と遊郭が建ち並んでいた。だが今は見る影もない。
 学校帰りの子供たちが源ジイの足元に次々と小石を投げた。本気で当てようという気はなさそうだった。からから、かちかちと乾いた音が響く。砂浜はなく、もともと小石を敷き詰めたような浜であった。源ジイは振り向いても見ない。わぁーと歓声をあげ子供たちが走り去る。
 源ジイの目が大きく開かれた。
「来る」しわがれた声が響いた。
 灰色の空が割れ、一条の光が沖から浜まで貫くように走った。
 源ジイは満足そうに何度もうなずいた。
 沖から追われた鰊が浜に降注ぐ様がまるで源ジイには見えているようであった。
 この日をどれだけ待ち侘びたことか。
 浜に横たわる源ジイの遺体が発見されたのは、翌朝早くであった。



「そっちの反応は安定してる?」
「距離、もう少し」
「こっちの一個は諦めようか」
「ガス濃度十分」
「反応少し上げて。その小さいのはもう駄目だよ」
「分子濃度分布確認」
「温度どうだろ。OK?」
「よし、飽和確認!」

「あとは放っておいていいでしょ」
「じゃ、次の調整は半周期後ね」
「うまく発生すればいいけど」

 彼らがその星系を離れてすぐ。
 惑星の一つに、最初の雨が降り出した。



 氷礫が打つ日はパーティをしよう。歌ってつねってくすぐって。泡立つ水に粉果汁、百年ものの缶詰も開ける。姉が私を見上げると弟はスカートに纏わりつく。やんちゃ盛りの童顔に彼の面差しを見つけ、私も黙ってしまいそうになる。
 轟音がやんだら水を採りに出よう。手袋はめて桶持って、苔むして朽ちない倒木の森へ。拾いあつめた氷礫から抜けた炭酸ガスが足許に満ちる。凍てついて水を払われた空は青黒く深く、小さい太陽は激しく輝く。山の向こう、世界の中心は熱湯が渦巻き、滅ぼしあう人々が絶えた今も戦争機械は氷礫を撃ってくるのだという。止めてくるよ、と彼は言った。その日まで生きているのが君の仕事さ。
 本当なら雪というものが降るらしい。さらさらと舞い、ふっくらと柔らかく、しんと音を吸いすべてを包む雪。掌の上で淡々と融けて澄んだ美味しい水になる。白くて冷たくて、魅入られて埋もれて死ぬ人もいるんだよ。無知な私を彼は笑ったけれど、想像すると心が身体を離れそうになった。私を受け止めた彼の胸板はたしか、厚くしなやかで温かかったと思う。
 明日かもしれない。明日ならいい。いつまでも暮れない夕闇を眺め、二人の手を引いて私は待っている。



新品の傘が、玄関で出番を待っている。



 羽化するに非ず。

 蝶ハ死ンデ人ノ魂トナル。

「だったら桜の花は散って何になるの?」
 満開の桜を見上げながら、美緒が言った。人ごみの中で立ち止まると押し競饅頭になってしまうので、彼は美緒を道の端にひきよせた。
「ほらあれが」
 と健太郎が指さす。たそがれ近い空を背景に蝙蝠が枝先をかすめて飛んだ。
「たぶん美緒さんのお兄さんですよ」
 空では一匹また一匹と蝙蝠が数を増してゆく。中の一匹が偶然、美緒がさしだした掌の中に落ちてきた。奇妙に歪んだ愛くるしい鼻面を起こすと、いきなり手のひらに咬みついた。「あ」と声をあげて握りしめた手の中で蝙蝠はごくごくと飲みつづける。
「吸血蝙蝠ですね。大丈夫ですか」
「痛くはないわ」
 いつのまにか大群となった蝙蝠が花見客の頭上で音もなく羽ばたく。一時、強い風が吹き、桜が散りだすと人々ははじめて蝙蝠の群れに気づいてどよめき、美緒はそっと掌の中の一匹を空中に放してやる。
 花びらの渦に逆らうように一斉に腹を向けた吸血蝙蝠の血の色を火と見まちがい、誰かが思わず「火事だ!」と叫んだ。人々は出口に向って殺到する。
 あいかわらず空を見上げたまま、美緒は桜の花びらを満面に受けて涙を流した。



 ノアにヘラクレス・オオカブトは捕らえられない。



 退屈だった。朝食のメニューも、通学路も、先生の冗談も、友達との会話も、すべて退屈だった。
 昨日は赤い絵の具の雨が降った。アスファルトもビルも、芝生も街路樹も、信号機も車も、傘も靴も、すべて真っ赤に染まった。
 今日は青い絵の具の雨が降る。アスファルトもビルも、芝生も街路樹も、信号機も車も、傘も靴も、すべて紫に染まっていく。
 明日は何色の雨が降るのだろう。やがてこの世は真っ黒になるのかもしれない。そう思うと、うそみたいに退屈は消えていった。



 九つの命をもつ黒猫も九十パーセントの降水確率にはかなわない。彼は物憂げに体をゆさぶりながら部屋を横切り、隅に投げ出された大きめのクッションにどかっとおちつく。すぐ側の窓に、生憎の曇天。醒めたまま寝返りを打とうとしたが、途中で冷たいなにかにひっかかって元の位置へ半回転で返される。弟の白猫が兄の脇腹に鼻をつっこんだのだ。
 この兄弟は性質もまったく似ていない。やたら戸外へ出かけたがるやんちゃな兄、窓辺の観葉植物のような弟。しかし仲は悪くなかった。兄が家にいるだけで嬉しいのだろう、白猫は尻尾を水飲み鳥のようにゆらめかせ、黒猫に胴全部をおしつける。黒猫のほうは歓迎するでも邪険にするでもない。一度、猫特有の弓なりの長い伸びをしたきり、ただ弟のやりたいようにさせてやる。
 つ、と。
 黒猫が白猫をやおら立ち上がり、迅速なステップで窓から離れる。置き去りにされた白猫がきょとりと細い目を丸くさせたそのとき、雨が降り出した。べちゃ、べちゃ、と硝子が汚されてゆく。きっかり一メートル離れた場所から、黒猫は憾みがましく外を眺めやる。白猫が黒猫のそばに近寄り、あぉんと一鳴きすると、兄は自分から弟の首を甘咬みした。



 港町の住人は総じて貧乏人ばかりだ。亡命者、食い詰め者、ヤマ師、流れの人足、船を下りたコックや医者。波しぶきを避けるために港町に人は集まる。誰もそこに長居しようという気はない。せいぜい次の船賃または船底生活の楽しみにするタバコや酒代を稼いで、また町を出てゆく。世界が荒れると港町は賑わう。港町というのは傘の中のようなものである。しかし、彼等が傘を出るのは、いつも雨が来そうな晩である。彼等の人生は雨天から雨天までの繰り返しである。雨が降るまでとは思ったけれど、港町に生まれ育った私はやっぱり、こんな砂漠のような街には住めないのです。さようなら。
 そういって部屋を飛び出したのだが、こんな晴ればかりの街ってのはどうなんだろう。半世紀以上も晴れ続きで、こんな所に定住している人の気が知れない。そういえば、傘屋は繁盛していた。日傘ばかりがよく売れるのだそうだ。それに電気屋はクーラーがよく売れ、水道屋はシャワーがよく売れると言っている。化粧品屋も薬局も肌の保湿剤で荒稼ぎしている。
 タクシーが来た。「雨雲のあるとこ」俺がそう言うと運転手は「倍額になりますが」と言った



公園にある日陰のベンチに、一人の女が腰掛けている。
ぼんやり空など見上げているのを見ると、待ち合わせというわけではなさそうだ。
「いい天気ですね」
僕がそう声をかけると、気のせいか女は少し困ったような顔をして、小さく「ええ」と頷いた。
どこか気分でも悪いのだろうか。僕は女に声をかけたことを少し後悔した。
するとしばしの沈黙の後、女が不意にポツリと呟いた。
「雨を……」
「えっ?」
「雨を待ってるんです」
どうやら晴れ宿りをしているらしい。



誕生日に彼女に傘を買ってもらったんだけど、次の雨が降るまで持たなかったよ。
もう彼女じゃない彼女が、隣の部屋で引っ越しの支度をしている。
この傘は置いていくんだろうな。まだ新品ですよ。
靴をぜんぶ、隠してしまおうか。
かわりに長靴だけを置いておくんだ。
そしたら彼女は、雨が降るまでこの部屋を出て行けない。
晴れの日に長靴は似合わないからね。彼女はおしゃれさんだから。



菫色の空の際、ひと粒の白い星がきらめく頃。村を見下ろす丘の上、ひとりの少年が笛を吹く。
 草に絡まる無数の露が笛の音に共振し、内側に小さな火が灯る。丘が夜に沈むと火を閉じ込めた露は浮上し、少年を軸にしてまわりはじめる。玲瓏と響く笛の音に、天に浮かぶ星々もゆっくりと巡る。

 枝がたわむほど花を咲かせた木は、僅かな風にも惜しみなく花を散らす。枝を離れた花片は発火し、その一瞬まばゆい光を放つ。
 村人たちの願いを叶えることのできなかった少女はこの木の下に生き埋めにされた。腐りゆく目は降りしきる火の雨を映す。少年の半身である少女。しかし、はじめから彼女には、力などなかったのだ。

 星が天から零れる。燃え上がる星は海に落ち、夜空を焦がして消えた。
 笛の音が歪んでゆく。星が痙攣し、またひとつ零れ落ちる。森が赤い炎に包まれる。
 引き裂かれた痛みを抱え、村を見下ろし、少年は吹き続ける。
 すべての星が彼らに。



降ることを忘れた雨が、中空で途方に暮れている。はんぶんは雲であるまま、もう雲にもどることはない。
下界では濡れることを忘れた舗道が、意味不明のわらべ歌のように、「しとしとしと」と口ずさんでみたりしている。
こらえ切れずに落ちた木の葉が、できるだけ宙にとどまろうとして右から左へ、そしてそのいきおいで右へ、空気の坂を駆け上っている。
ざわめく街は、津波の直前に引く潮のように、うごくものもうごかないものも、けはいとともに遠ざかってゆく。
世界の進行を遅らせているなにか張り詰めたもの。
雨も舗道も街も、それが破れる瞬間を、知らず待たされている。
君が涙をこらえている今。



白い花が、大きな木の、枝という枝をおおいつくしている。
なんであんなにたくさんの花が、いっせいに、重いほど咲けるんだろう。
そんなことを考えながら、うすぼんやりした雲を背負う中空を見上げていた。
すると、肩をかすめてふいに紙ヒコーキが飛んできた。
振り向くと、小さな男の子がこちらを見て笑っている。少年は、利発そうな目でわたしを見つめた。
「最近、紫色の木蓮より白い木蓮のほうが多いわけ、知ってるかい?」
唐突にそんなことを言う。妙に大人びた口のきき方だ。
わたしがあっけにとられていると、彼は、目線を上げて長いまつげをしばたかせ、「あれ。もう行かなくちゃならないや。」とつぶやく。
その時、首すじにポツリと冷たいものを感じた。・・・雨か。
ざわつく空気があたりを駈ける。
草が揺れ、花が揺れ、男の子はいなくなった。紙ヒコーキが、もう一度飛びたそうに、地面の上で少しもがいた。



 星図盤持って男の子と二人っきりなのに、彼女はなぜか醒めてる自分を自覚している。こんな空が近くて、東京じゃ比べものにならないぐらい、空がキラキラしてるのに。
 隣の男の子が嫌いなわけじゃない。8月なのに半袖じゃ肌寒い北海道まで、わざわざ一緒に来たんだからそれなりの打算だってある。けど、そういう問題じゃなく・・・
「ホントは星が流れてるんじゃなくて、地球が流れてチリの塊に——」
 優しいレクチャなのだろうけど、彼女がわかったのは、21時だから、あと30分も過ぎればなんとか流星群が見れるということ。予想では、雨みたいにたくさん。あとはわかったフリで頷くだけ。
 名前も知らない鳥の鳴き声と、永遠に続きそうな天文トーク。ロマンチックなハズなのに乙女心は機能しない。ナゼ?
 早く30分が過ぎることを、流れるはずの星に祈った。



「あんたウザいよ」

 ガン、と目の前にあった机が蹴られた。相手は、同じクラスメイトの少女、マキ。私はただ彼女を見つめた。表情は、動かさない。動かしてたまるものか、という些細な意地から私は無表情を装う。その間も、嘲笑が私を包む。人間というものは不思議なもので、毎日繰り返されるそれすらも習慣の一つのように思えてくる。そして、それにじっと耐えるのが、私の仕事。
 不意に、私のカバンの中から1冊のノートを引きずり出された。私はその藍色の表紙に気付き、思わず声を上げた。
「それは・・・返してッ」

 藍色の表紙が眼に鮮やかなノート。そのノートの中には、今まで書き溜めた私の詩、そして物語が紡がれていた。私の想い、夢、希望すべてが。

 駆け寄る私をいとも簡単に避けたマキは、ノートを無造作に開いてみせた。そして、顔を歪めた。
「うっわ、キモい。こいつポエムってるよ」
 マキはそう言うと、ノートを高くかざし、真っ二つに破った。
 綺麗に塗られたマニキュアの指が、自分の侵されたくなかったモノを粉々にしてゆく。そして、へたり込んだ私の頭上でノートの破片が舞う。
 私の想い、夢、希望がひらひらと私の体に降りゆく。
 その時、私はある一つの想いが降ってくるのを感じた。強くなりたい、と希う想いの破片が私の上に降り注ぐのを。



「マキ」
 いまだに哄笑しているマキを呼ぶことで、彼女をこちらに向かせ、私は力いっぱい手を振り上げた。マキの引き攣った顔がやけに可笑しかった。



 それは、ただ耐えつづけることしか出来なかった私の想いが解放された瞬間だった。



みにくいアヒルの子は白鳥になりましたとさ 人魚姫は泡になりました 白鳥にされた王子たちが十一人 みな人間に戻りましたとさ マッチ売りの少女は燃えました なにも食べていなかったので焚き木のようにかわいていたのです はだかの王様は今日もパレード 鼓笛隊はおもちゃの兵隊です 笛の音に合わせねずみが行進いたします 空飛ぶかばんにまたがってハンスはパン屋でハエ退治 すずの兵隊は溶けました 白いチュチュと赤い靴 燃えのこった踊り子の二本の脚だけ踊りつづける 雪の女王は泣いています まっ白なパンを踏んづけたまま 少女は今も水の底 世界に恐怖の大王が降るまでは



「待って」
 彼女がそう言ったから、僕は息を止める。
 さよなら。
 そう言いかけていたのだけれど。
「これで最後だから、桜の花びらが降ってくるまででいいから」
 彼女は僕の胸に顔をうずめた。彼女の髪の甘い香りが、僕の鼻腔をくすぐる。
 行き場のない視線を空に向けると、ぼったりと重そうに花を咲かせた桜の木。
 彼女とは、ここで別れたらもう会うこともないだろう。
 このまま風が吹かなければいいのに。
 そう思ったのは永遠の秘密だ。



細長い睫毛のこごるほど、ふるり、と空気がかじかんだから、舌を突きだしまんじりともせずに待つ。



もしもこの子が、次に雪が降るまでわたしのお腹にいるのなら、あなたの名前を付ける。
そう決めた。
せめて、そのぐらい……。
いいよね? 秘密にするから。



 言ってしまった。降水確率100パーセントと言ってしまった。100パーセントとは、すなわち「絶対」である。この世に「絶対」などということが存在するとは思えない。なのに、言ってしまった。
「絶対」という意味では、降水確率0パーセントも、できれば避けたい。しかし、降水確率0パーセントならば降水確率100パーセントよりは「絶対」に近い。何故なら、雨雲があるからといって必ず雨が降るとは限らないが、雲さえなければ雨の降りようがないからである。
 そもそも、われわれ気象予報士は気象庁の発表を伝えるだけなのだ。その証拠に、ほら、どこのチャンネルを見ても予報の内容は同じでしょう? でも、視聴者はわかってくれない。予報が外れれば、街でエクレアを投げつけられ、喫茶店ではガムシロップを頭から掛けられる。みんな、私が甘いものを嫌いだと知っているのだ。
 天気予報は科学であり、神の意志などは一切考慮されない。私自身も特に信仰の対象をもたない。けれど、降水確率100パーセントの予報を出したあとだけは、1ミリ以上の雨が観測されるまで、祈らないではいられない。こら! てるてる坊主なんか吊るすな!



「ねえやめようよ。寮長先生に怒られるって」
何やら大きな物を抱える少年が息を切らして言う。
先に屋根に登っていた少女が振り返り言った。
「シドの臆病者!怒られるのが恐いの?」
「リズにつきあったせいで先週もトイレ掃除だったからなあ」
リズが頬を膨らませた。
「いいわよ。だったらシド一人で部屋に戻ってればいいじゃない。奇跡がおこってもシドには教えてあげないんだから」
「一緒に戻ろうよ」
「絶対絶対ぜーったいイヤ!」
リズはシドが抱える毛布をむりやり奪うとそれに包まり腰をおろす。
「本で読んだんだから。『流れ星に願い事を言うとその願いを叶えてくれる』って」
「風邪ひくよ」
「いいわよ。シドにうつすから」
シドは溜息をつきリズの隣に座る。
「帰らないの?」
「置いてけないよ」
「・・・だったら少しだけ毛布を貸してやってもいいわ」
一つの毛布に二人で包まりながらリズとシドは夜空を見上げる。
リズが目を夜空に向けたまま言った。
「シド、私流れ星に『パパとママができますように』って言うつもりなの」
リズはぶっきらぼうに言う。
「ついでにシドのぶんもお願いしてあげてもいいわよ」
その夜二人は孤児院の屋根に座り続けていた。
星が降るまでずっと。



時々だが雨が降る。霧のような雨だったりスコールのような雨だったりするわけだが
特に男は気にとめてはいないようである。
一面土と砂が広がっているここにはこの男しかいない。
男が歩く度、ざく ざく と乾いた音がするのだが、
雨が降ると、しゃく と湿った音がする。
降りしきる雨の中、男は躊躇いもなくその場に腰を下ろし
濡れた土でありとあらゆる物を作り上げる。
雨が止みしばらくすると、男の手によって作り出された全ての物は
水気を失い、また元の乾いた土や砂へと姿を戻す。
男はその残骸をちらりと横目で見、どこと無く歩き始める。
こうして男は次の雨を待つ。ざく ざく と足音はまだ止まない。



 もうちょっと、もうちょっとだけ待ってくれや。もうすぐのはずなんや。いやわかる。真夜中に何も説明されんとつれてこられて、きみが怒るのもようわかる。でももうちょっと我慢してくれへんか。なあ帰るなんて言わんと、もう少し付き合ってや。頼む。一生のお願いやから、な?
 うーん、もう時間は来てるはずなんやけどな。え? 何のって言われても……。今はちょっと、まだ教えられへんのや。もう少ししたら教えたるさかい、だから……ちょ! ちょっと待ちい! わかった、あと5分、5分でだめやったらあきらめる。あきらめて帰るわ。だから、な? あと5分間だけ、しゃべらんと、星でも眺めて待っとってくれや。興味ないなんて、そないなこと言わんで。
 ……だめや。5分たってしもうたわ。……しかたがない、あきらめるわ。すまんかったな。ささ、帰ろう。え? ああ、実はな、今日は流星群が降る日なんや。空いっぱいに降りそそぐ星をきみと一緒に眺められたらどんなにすばらしいやろうって、そう思ったんやけどな……ははは……。くだらんことに付き合わせてしもうて、ほんとすまんかった。帰ろう。
 ……え? ……そうか、付き合ってくれるか。ありがとう。うん。じゃあ、とりあえず空を眺めて……
 あ!



飼育場に並んだ食餌中のミシンたちが一斉に首をもたげ、主人のほうを見上げる。
ゆるい寒天の大気を調子っぱずれの汽笛が渡る。交差点では水牛が渋滞している。
影法師の子供たちが空き地ではしゃいでいる声がする。一雨来ればそれも消える。



 岬に少女が立っている。両手を見下ろし、そこに浮かぶ指紋や皺を嘗め尽くすように見ている。やがて少女は指紋と指紋がぴったりと一致するように、皺と皺がぴったりと一致するように両手を重ねた。緊張のあまり、手と手の間に電流に走り、それが汗を蒸発させてゆくような錯覚に陥る。
 頭を振って少女は地面にひざまずく。そして陽炎の昇ってゆく先、目眩を誘うぐらいに澄み渡った空の向こうに視線を向ける。雲ひとつない空に太陽が見える。何千年前か前よりも、ずっと地球に近づいた太陽は、大きくて、そして暑かった。
 少女は目蓋を下ろすと、一心に願った。
 少女はまだ少女が幼女だった頃に、母親から教わっていた。
 思い信じて願えば、空から飴が降ってくることもあると。



「雨が降るまででいいから」と言って、唐突に訪ねてきた小さな何かは、ぼくの机の上に居座った。
「どうして雨なの」
聞いたけれど
「なんとなく」
と言ったきり教えてくれない。
 まあ、それでも特に困ることはなし、気にしないことにした。それから、他のいろいろな話をした。

 雨が降ってきたのは六日後の朝だった。目が覚めるともう降っていて、はっと机の上を見たけれど、まだ、ちゃんといた。
「行くの?」
聞くと
「うーん、やっぱり、星が降るまでにする」
と言う。
「どれくらい?」
「山盛り」
 答えるだけ答えると、そのまま、電気スタンドのわきにつくった小さなベッドでまた眠ってしまった。

 二週間後の夜、ごはんを食べてから窓を開けてぼくたちが話していると、ものすごくたくさんの星が降った。
「もう行くの?」
聞いたけれど
「うーん、やっぱり、」
少しだけ間があいて
「ゴニョゴニョが降るまでにする」
何て言ったのかよくわからなかった。
 まあいいや、聞かないことにした。
 山盛りの流れ星が、山盛りきれいだった。

 ぼくの机がにぎやかになって、もうすぐ一年経つ。
 ゴニョゴニョはまだ降らないみたい。



「やはりここでしたか」
 エプロンドレス姿のリインカーネは、揺らぐ蝋燭の火をすいと巡らせて言った。
 暗い洞窟の中、身を丸めた少年が面を上げる。金色の双眸が光を跳ねギラリと輝いた。顔にはとまどい。この矛盾が彼そのものを表していた。これも血なのねとリインカーネは瞳を曇らせる。
「デラクレア様。またお父様にお叱りを受けたのですね」
 名前を呼ばれた少年は肯く。
「あなたのお父様は、次に目を覚ましたらきっと全てをお忘れです。さ。お屋敷に戻りましょう。あなたがいつものベッドでないとぐっすりお休みになれないことは、よく存じております」
「でも、まだ昼でしょう」
「ええ。まだ昼ですが、雨が降りはじめましたので大丈夫です」
 そう言って持参したコウモリ傘を見せ、温かい笑みを浮かべた。
 まぶしそうに少年は目を細める。彼は太陽を見たことはないが、ブリタニカで得た知識よりも彼女の方がよほど太陽っぽいと感じた。
「さ、早く」
 支配されていない者の輝き。
 少年は、雨が降るまでに固めた決心が解けていくのを感じた。父に「だから半人前なのだ」と、また同じ叱りを受けるだろう。
 それでも、彼女の首筋に牙を立てる気にはなれなかった。



「じゃあ何かい、降れってのかい」
「降れてんだよ」
「しかし何も降らなくったって、こわいじゃないか」
「降ったっていいじゃないか、こわかァないから、ぼちぼち降ってみなさいよ」
「降るってえと何かい」
「降るんだよ」
「やはり降るのか」
「降るよ」
「降るだろうな」
「せっかくもらったこの命、一生に一度くらい降るのが心意気ってもんよ」
「おうおうおう、そうと言われちゃおれだって後にはひけねえ、ひとっ走り降ってやろうじゃねえかべらぼうめ」
「おう、いよいよ降るか」
「じゃあ、ちょっとそこまで降ってくる」

 そういう具合です。



ドミノを並べます。ひたすら並べます。もう9365個並べました。次は9366個目です……
こうやって無心になって……9366、9367……ドミノを並べていますとね……9368……
頭の中に突然フっと……9369……降ってくるもんなんです……9370、937……

「!」

そうだ、まず書き出しはこうしよう。
「ドミノを並べます。ひたすら並べます」っと——。



書けぬ。



 慌てて下剤を飲んだけど出てきてほしいものは出てこない。正直出てきて良いのかとも思う。紛らわしい場所に置いとくから間違えるんだよ。
 今朝のメニューがトーストとベーコンエッグとサラダとミロクとグレープフルーツ、て。



此処に居られるのも、もう少ししかないから、思い切ってアナタに告白したけれど答えてくれないのね。
もうすぐ桜も散ってしまう。
上京するまで、あと3日です。



重力を超えて空に降るまで、地を水を千草を蹴って踊り狂え。



 なんとなくもやもやした状態のまんまじゃ、どうにもなりやしない、って、視界不良のなか気づいた。
 漂い続ける日々にピリオドを打つなら、核になるものが要るんだ。
 でも、どうやって?
 そんな迷いを吹き飛ばすように、
(そんなの借りものでいいんだよ。形ができれば、きみはきみ自身になる)
 って、お告げのような声がした。
 そうか!
 早速ぼくは、そこらのどうでもいい塵みたいな欠片を拾って、これがぼくの核だと決めたんだ。どうだい? まさにハードコア。と思ったらその核はどんどん勝手にぼくを吸い取りはじめ、ほかの似たようなやつらとぶつかり合いながら、まるっきりぼくの意思を離れて凄まじいスピードで大きくなっていった。
 だめだ! それじゃぼくがその重さに耐え切れない。早くしないと——

「あれ? 今ぽつっと来た?」



 闇の底。
 まぶたの裏に青空を浮かべて沈む、星の降るまで。



 淋しくなったらあの桜の下へおいで。

 それは母さんが遺した言葉。あれから、2年経った。
 この春、わたしは初めてセーラー服を着た。
 ひらり、と暖かい風がわたしのスカートの裾をひらめかせる。深い紺色のスカートは、晴れた空に大きく広がった。
 くるくる。そんな擬音が似合いそうなスカートの乱舞。わたしは舞い上がるスカートを押さえることもせず、ただ足に纏わりつく風を視線で追った。風の姿は、見えない。けれど、肌で、わかる。
 ひとしきり風を見送ると、自分の背後に悠然と立ちそびえる桜を振り向いた。

「母さん、わたし今日で中学生になったよ」

 わたしは2年前と比べて心持ち小さくなったように見える桜に語りかけた。
 この桜は、母さんが大事に育てたもので、わたしにとっては母さんの象徴そのものだった。
 わたしは繰り返し語りかける。

「わたし、大きくなったでしょ」

 わたしの呼びかけに応えるように、桜はその腕を揺らし、淡い雪を降らせた。
ひらひら。
 わたしの頭、紺色のセーラー服、スカート、足の先まで薄紅色の小さな花びらが降り注ぐ。

 春の日。

 桜の花びらが、少女に降り注ぐ。
 そして、少女の時がまた一つ終わってゆく。