彼女は残業で家に帰れない可哀想な子羊達に、コーヒーを入れてくれた。
「こちらに置いておきますね」 靴音がコッコッと遠ざかって行く。
…チョコは、なしか。
…このタイミングでないのなら絶望的だな。密かに自分に気があるんじゃないかと思っていたのは、どうやら勘違いだったらしい。
パソコンの画面から視線をはずしチラリと
彼女を見ると、帰り支度を始めている。
今日のバレンタインデーは、無縁のイベントで終わるみたいだ。
小さくため息をつきながら、コーヒーに手を伸ばした。
ゴホッ
「おい、熱かったのか?」
先輩は苦笑した。
「あ、いえ」
胸の辺りにこぼれたものを隠しつつ、僕はかなり動揺していた。
…ビックリした。 口に入れた液体は、コーヒーの味がしなかった。…それは、ホットチョコレートだった。
帰りの挨拶をしながらこちらを見ている彼女に気が付いた。僕が『アリガトウ』と音に鳴らない言葉を唇に浮かべると、ニコっと会釈をして、部屋から出ていった。
彼女の笑顔は、とても可愛かった…
完全に意表をつかれた僕の心臓は激しく高鳴る。痛いくらいに。
ああ、そうか
この胸にポッポッと残る血痕のようなチョコ痕は、ハートを射抜かれた跡なんだ。
親指の爪の中に、ごみがたまっています。半分は俺のせいですが、もう半分は靴下のせいです。毛くずのせいです。
そんな俺の足の下には、ごみがいます。半分以上、はっきりとごみです。
いえ、踏んでいるわけではありません。のせているんです。
スニーカーって、履きつぶすと、底が割れるんですね。二月の雨は、こいつにも靴下にも冷たかったのです。
生ごみがあったかいって、ご存知でした? 発酵して、熱を持つのだそうです。
本当にあったかい。
なつかしいな、前にもこうして、あったまったことがあるんですよ。
「そうだっけ」
「覚えてないのかよ、アッホだな、お前」
そのときも、ふくらはぎであったまりました。
ああ、所詮はチョコ痕、新しい恋の熱さに溶けるのですね。生あったかい低温やけどで、俺の心はひきつれているのに。
誰もそれを覚えてはいないが二十年前のある日、人々は空の向こうから息遣いと、「じいや、次はあの星」「かしこまりました」という深い声が降りてくるのを聞いた。そのほんの数分後巨大なチョコの水柱が地球を襲い、たちまちの内にコーティング処理は完了し地球は宇宙のチョコボールと化してしまった。それから何か大いなるものの手が伸びて、生命の絶えたこの星をひょいと摘み、口に放り込もうとしたが、間一髪という所で、また別の声がどこからか響いた。「いけない」
というのも<一定以上に繊細で自律的な構造を表面に有する星>の破壊を禁ずる宗教が近年彼ら<矛盾生物>達の間で流行しており、あまり軽はずみにその信徒と対立すると後々厄介が起こる算段が高いのだった。「じゃあパパ、これどうするの?」「元に戻しなさい」そう言われて大いなるものは面倒そうに地球からチョコレートをこそげとり、壊れてしまった小さく精密な構造群を直してやった。そうして地球は、前よりも生物たちの形や心が多少いびつで奇妙なものになり、誰にも理解出来ない大量破壊と大量復活と大量チョコレートの痕跡が至る所に広がっている以外、大体において元通りの、静かに宙を彷徨う青く魅力的な水菓子に戻ったのだった。
ちょんちょんちょんとしたアシアトが道に付いていてきっと可愛い小鳥だろうなとぴょんぴょん喜び勇んで辿って行ったら、いたのは見上げるほどあるベアだった。ベアは私の顔色を読んだように言った。
「ちょっと不思議な話なんて糞食らえだよね」
む。
「動物が出てくる話もちょい避けたくない」
「お互いに」
「でもストーリーを思い付かなかった」
「誤用の方で煮詰まってる」
「だからと言って支離滅裂」
「しかしこれはフィクション!」
「煮詰められてないフィクション」
「とりあえずの強調リアクション!」
「アトサキない微言葉遊び」
「ぐつぐつぐつ」
「えっと……」
「固まっていた物を溶かしてまた固める事を世間では手作りと言います」
「愛の形に!」
「形あるものはいつか……」
「ひ・が・み」
「夏になったら皆溶けちゃうんだ!」
「アトカタもなく」
「ぐつぐつぐつ!」
「えっと……」
何事もなかったように、何事もなかったのだこれはフィクションだから、何事もなくベアがのそりと尻尾のない後ろ姿を見せた。
「あれは湯煎にするんだよ。ノットぐつぐつ」
ある所では桃の花咲く頃、あらぬ所では一面の氷雪景色、見えるは赤の目二つでアトはホワイトアウト。
「次回へ続く」
祖父の思い出にはきまって甘い匂いがつきまとう。体を壊してからは酒も釣りもやめ、代わりに孫相手に菓子をつまみつつ、かつての手柄である魚拓をひとつひとつ解説するのが趣味といえば趣味だったのか。悠々自適の隠居生活というには淋しい暮らしで、むやみに広い家には日中、祖父とぼくのほかにまだ少女と呼んでいいくらいの若い女中が一人しかいなかった。一度、祖父の部屋から駆け出してきたところに出くわし、唇のはしにチョコレートをつけているのを見つけ笑ったことがある。そのとき彼女は、耳まで真っ赤になって走り去ってしまったのだった。
祖父が亡くなった頃の記憶は曖昧で、父が連れてきた新しい母は女中を追い出してしまったのだが、葬儀との前後関係ははっきりしない。幾日かが過ぎ、思い立って祖父の部屋に入ってみたら奇妙なことにあれだけあった魚拓が一枚もない。とたんに門を出ていくとき憔悴しきった表情の彼女が呟いた言葉が、その白い首筋に見たものが、よみがえった。
「ねえ坊ちゃん。肌でも甘いって、感じるんですねぇ」
祖父の思い出にはきまって甘い匂いがつきまとい、それはいつからかぼくの鼻腔の奥に棲みついて、ときどき疼く。
だれ?
カカオの香りをたてているのは
誰なの
チュー
さよならルールー、メアリー、キロくん。
あたしは違う生き物になりました。
「まだ」の輪からちょっと離れて、「もう」の彼女たちに話しかけてみました。
「最初の時って、茶色じゃなかった?」
一瞬思いきり引いてから、何人かこちょこちょ笑います。
恥ずかしくないと言われてもどうしてもひそひそします。
本当に月が関係あるのかなあと、満月を見上げました。
マンガみたいに胸がおっきくなるのはいつでしょう。
卵がぽとぽと落ちるようになったって、世界の色は変わりません。
それでも。
さよならバグナー、とりさん、ゴッコ。
最後に一つずつ撫でて、あなたたちをしまいこみます。
大人になったとは思わない、けれど。
さよならあたしのふかふかさんたち。
あの汚れはなんだか、あなたたちに似合わない。
類稀れなる美人だった姉やは負った火傷で皮膚は引き攣れ髪はほうほうと抜け落ち、赤黒い顔に血膿の浮いたさまは鬼とまで蔑まれるようになった。ひと月生死をさまよった。
家屋が焼けたのは姉やに懸想していた誰ぞの放った火が原因だったらしいと聞いた。どんな恋情を打ち明けられても姉やはすべてを袖にした。火の手から逃げ遅れた私に気づいて引き返してきた姉やはほとんど火達磨だった。
以来私は毎夜姉やの部屋を訪れる。姉やは寝間着を脱いで全裸になって待っている。私は姉やの引き攣れた皮膚や爛れた乳首を丹念にねぶってゆく。にじむ血膿を口いっぱいに溜めながら、甘い甘いと繰り返す。姉や姉や。美しい姉や。姉やの傷はどれほどにも甘いから、私はどんなにでもしゃぶることが出来るんだよ。心の臓が打っていないことさえ問題ではないんだよ。
私は、姉やの血膿をすべて舐めとり、その下に以前と違わぬ透きとおる白い肌の現れるのを夢想する。甘い甘いと繰り返す。
つるりと足を滑らせて、僕はチョコレイトの池に落っこちた。
その後ろではミントの池に君が落っこちた。
僕はチョコレイトまみれ。
君はミントまみれ。
「おいしいよ」
僕らの声が重なって、お互いの指を舐めてみる。
「おいしいね」
とろけるような感触に僕らは夢中で絡み合う。
甘くも爽やかなキスはチョコミントの味。
香ばしいクッキーの地面には、僕らの痕が冷たく残る。
暖まってないから、あなたが甘噛みすると乳首が取れた。
「ごめん」
「いいよ。あとで付けるから」
謝っておきながら、あなたは懲りずに乳房への口づけを繰り返す。
「甘い」
「嘘」
90%以上カカオなあたしが、甘いハズない。
「・・・そんなにしたら」
「柔らかくなってきた」
繰り返される口づけは、すこしずつ胸から下へ。
「たしかめる?」
意味を理解する間もなく攪拌されて、意識がボヤける。ぐちゃぐちゃ。音だけがハッキリ耳に届く。
「ホラ」
内側が融けていく。
「舐めて」
なにかが唇に触れる。
「・・・甘い」
カカオの匂い。あたしの匂い。
「嘘じゃないだろ?」
そう言うあなたの唇は、血に濡れたよう。
日が落ちた町に細長くチョコ痕が続く。ビルの壁、街路樹の幹、ガードレール。人の目には茶色い汚れの筋にしか見えないそこを辿るのは、なめくじである。
なめくじはチョコレートの香りに導かれ、一分の狂いなくチョコ痕を辿る。ほんのわずかこびりついたチョコ痕をきれいに舐め取り、引き換えに彼の粘液を残す。チョコレートを舐め取った後の粘液は、チョコレートと彼の体臭が混ざり合い、妙なる香りを発する。
それを嗅ぎつけた野良犬たちが、切なく吠える。
歩道橋の手すり、横断歩道、チョコ痕は続く。なめくじが歩む。野良犬の遠吠えもしばらく続きそうだ。
みんな、どこかしらにそういうところがあって、それがひとつところにとどまらずに、しょっちゅうあちこちに移動しながら、ひとの体のうえを大きくなったり小さくなったりする様子は見てて面白いのだけど、ほかの誰かから同じ話は聞いたことがない。
ふたつ前の彼女はすこし変わっていて、僕の言うことをまるきり信じた。僕が言うのもなんだけど、正気をうたがった。
彼女は、むかしのかなしい話、つらい話をするのが好きで、ベッドの上でもよくしゃべった。そのとき肩のあたりで、あざみたいなそいつが嬉しそうに形を大きくするので舐めてやると、甘くてほろ苦くかった。彼女は喜んだ。
苦味のつよいのもあるし、むちゃくちゃ甘いのもある。と言うと、
「チョコレートみたい。」
苦いばかりのやつは、カカオ分が多いのよきっと。
へえ、そりゃすごい。
こういう変なちからは、女の子のほうが似合いそうなのに、と思った。
道行くひとたちの、顔や腕でぽつぽつと茶色い斑点なようなものが這い回っている。
いま隣にいる彼女には、たぶんカカオ90%くらいのやつがいて、味がわかったからって僕にそれを甘くできるわけじゃなし、やさしく舐めることしかできないけど、彼女が笑っているいまはまだ小さくなっておとなしい。
「わたしはあなたを殺したい。あなたがいなくなってはじめて、わたしはあなたを愛せるだろうから」
差出人不明の手紙には、赤茶けた指文字で、意味不明の痴言が記されていた……心当たりは……無論ない。冗談や偶然でも他人から好かれる覚えはまったくなかった。
血で書いたのでないとすれば……
おそらくバレンタインデーに振られた女が悔し紛れに、無作為に選んだ相手に送りつけたのだ。
するとこの文字は手作りチョコレートの残り物か。受取拒否を涙で溶かし、指にへばりついた口惜しさ、煩悶に血迷い狂った徒然に、こんな物を書いたのだと考えれば、たとえ逆恨みでも、せつないような……なんだかひどく愛おしい。
鼻を近づけて嗅いでみる。
かすかに甘い……ような気もする。
差出人は不明。
たぶん相手もこちらが誰だか知らないラヴレター。
この先も決して出会うことはないだろう。
いずれにしても初めて貰った……しかも季節外れの……バレンタインチョコなのだから……そう思っている方が幸せだ。
イタレリとツクセリは親友である。皆が冷やかす程の仲のよさで、365日を共に過ごし、過ごさないのはうるう年の七夕だけだという(理由は二人以外知らない)。イタレリが風邪をひけば、双子でもないのにツクセリも具合わるくする。そんな二人が、ただ一度危うかった事がある。そのときは皆が冷や冷やとした。
ある日、ツクセリの机のうえに、青のリボンで彩られたプレゼントが置かれてあった。イタレリからかと皆が思った途端、ツクセリはそれを床に叩きつけ、さらには踏みつけ、しまいに蹴りとばした。そうして周囲もはばからず号泣した。
「イタレリは馬鹿だ」
プレゼントの正体はチョコだった。皆がなだめて問えば、青のリボンもチョコも別れの印なのだという。気をもんだ皆のうち一人がイタレリをつかまえ、訳を聞いた。曰く、
「ツクセリのためだ」
ある女子の彼への恋心を知り、良縁に感じて、青のリボンでチョコを贈る事を進言したのだという。皆で二人を説得し、どうにか元の鞘へと収めた。
二人がいたわりいつくしみ合っている事、そのとき床に残った痕がしばらく皆の話の種となったが、可哀想なのは、その想い報われなかった娘と何の罪もないチョコだろう。
「ねえ、玲子、このチョコレート知っとう?」
「なーん、知らんよ、そげんと?」
「これを食べると、浮気しているのがわかるげなよ」
「え!、それよかね、でもどげんしてわかると?」
「これを食べるとね、おでこに、黒っぽい吹き出物が浮気している數だけ、
できるげなよ。だから今度のバレンタインデーに彼氏に送ろうと思っとっちゃん」
「.....」
「あれ、玲子、おでこに黒っぽい吹き出物ができとうよ、どげんしたと?」
「どげんしょう、昨日、彼氏にそのチョコを貰って食べたんよ」
「あらら、彼氏にやられたね。おでこにチョコ痕やね。」
快楽の享受に、泪は不要。そう嘯いたボンテージの女が傾ぐ赤褐色の蝋燭から、瘀血がひとつ、仰臥する男の胸に垂れた。甘い匂いと、焦がす熱さが、精神と脳を乖離させる。胸に落ちた染みはじわりと拡がり、浮かび上がるのは、未熟児のような奇形。瀟洒な革衣装には不釣合いなほど矮躯な女は、更に身をかがめ、ざらついた舌で乾ききらない刻印をなぞった、ハートの模様を描くために。「人が、結ばれたときの印。いまのあなたの気持ち」。——その寿ぎとは裏腹に、女がにぎる溶けかけの蝋燭のほうが男の寂寞した心境に近い。
可愛らしくデフォルメされた心臓を、人工の爪で彼女は押す。真空が破かれたような澎湃たる射精。
女は未だ聳やぐペニスに肉迫して叫ぶ。忌詞の代用がみつからず、苛立った様子で。
「この精液は「泪」じゃない!」
男は漫ろに問いかえす。
「だけど君の泪は愛液だろう?」
女の瞳は性器だ。慟哭する瞬きに、男はひと時の回春をみる。帳は下ろされ、蟄居だけを望む男は、女のなかでどんな分泌液に変わるだろうか。
自らの温度に気づけない聖火は、凍える者のように身を震わしている。問いかけに貫かれたまま、ボンテージの女が、男の尿道に告白色の蝋をこぼした。
「額の中心で愛を叫ぶ……だな」悪友は、俺の額のタンコブを見ながら、ゲラゲラ笑い呟いた。「冷たいヤツめ!」と言い返すと「オマエが悪い!その傷はミキちゃんの愛の証だ」と、きり返された。
果たして、この傷は愛の証と言えるのだろうか?
事の発端は、バレンタインデーに俺が彼女以外の女の子から本命チョコを受け取ってしまったことで起きた。それを知った嫉妬深いミキは、夜な夜なチョコを刻み、ウン十キロはあろうチョコを鍋で溶かし、お手製の巨大な型に流して、ガリバーサイズの板チョコを完成させ俺の元へとやって来たのだ。そして
「空手の達人が拳で瓦を割るように、この愛情注入チョコを頭でカチ割ってみて!私のことが好きなら出来るはずよ!」
と鬼気迫る勢いで俺に詰め寄るのだ。
「助けてください!助けてください!全部、食べますからー」
と叫ぶ俺。首を横に振り顎一つで絶対命令の彼女。俺は辞書のような分厚いチョコめがけて頭から突っ込むことを余儀なくさせられた。そうして、凸の激しい顔が誕生する事態と引き換えに、今回も彼女との別れの危機を脱することが出来たのだが……しかし、愛の証はプヨプヨした皮下内出血の、このタンコブの中にあるのかどうかは定かでは無い。
寒い日には、秘密ですよ、と囁いて、昌子さんはカップとナイフを用意する。
傷つけた指先から溢れ出すのは、熱くて甘いチョコレート。最後に昌子さんがひと舐めすると、傷はきれいに塞がってしまう。
昌子さんは兄の恋人で、帰りの遅い家族の代わりに、いつも家にいてくれる。二人で過ごす夕暮れが、僕はとても好きだった。
その前で立ち止まったのは、色褪せた看板の隅に、昌子さんによく似た顔を見つけたからだ。地方巡業の見せ物小屋。蛇女の横、文字はすっかりかすれて読めない。
学校帰りの子供にビラを配っていた男が、僕に気付いて寄ってきた。
「坊ちゃん、その人ご存じで?」
間近で僕の顔を覗き込む。男の虹彩は何故か目まぐるしく色を変え、気を取られた瞬間に、ぐるりん、と世界が回った。
気付くと、うちの前に立っていた。玄関のガラスが割れていて、そこら中に褐色の液体が飛び散っている。昌子さんはどこにもいない。
ちょうど帰ってきた兄が、すぐに血相を変え身を翻した。
「チョコレートだよ」
遠ざかる背中に叫ぶが届かない。
「……チョコレートだろ」
それきり二人は帰ってこない。
からっぽの家に、昌子さんの甘い匂いだけが満ちている。
前から高校生らしき男の子が二人、歩いて来る。特に聞こうと思ったわけではなかったが、会話は開けっぴろげで筒抜けだ。
「やっぱりお前、もらってたんじゃねーかよ」
一方の背の高い子が真面目そうな眼鏡の子に笑いながら、ふざけた口調でそう言う。けれど目が真剣だった。
「もらってたって、何を」
「チョコだよ、チョコ。決まってるだろ」
「な、え?なんでそんな、」
眼鏡の子は真剣に慌てている。たぶん、今流行のアレを知らないのだろう。
背の高い子は、少し面白そうな顔になった。
「なんかさ、女子の間で流行ってるんだって『チョコ痕』とかいうやつ。手作りチョコに入れて、それ食べると首の後ろのとこに印が出んの」
ここんとこに、と言いながら背の高い子が眼鏡の子の後ろ襟をつついている。
『チョコ痕』を入れたチョコには「気持ちに応えてくれるなら食べて下さい」というようなメッセージをつけるのが礼儀だ。ホワイトデーのお返しの時に、チョコ痕の効果を消す薬を渡すというシステムになっている。
「マジで!」
と、眼鏡の子が真っ赤になったところで、ちょうど二人とすれ違った。微笑ましく見送る。
風は暖かく、春の気配だった。
おじいさまのご本に「マイチョコウミウシが残す特有の痕跡をチョコ痕という」と書いてありました。クリーム色の体にチョコでデコレートしたような可愛いマイチョコウミウシの写真をみて私はこのウミウシが大好きになりました。
おじいさまは私が生まれる前に死んでしまわれたのですが、こんな面白いご本を書かれたのだから、いろんなことをいっぱい知っておられたのでしょう。おじいさまからお話を聞きたかったです。
難しいご本でしたが、がんばって読み進めますとノエル痕というのもありました。これはブッシュドノエルウミウシ特有の痕跡です。
フルーツポンチウミウシというのもいるそうです。でも、これの痕跡はポンチ痕とはいわずニシキ痕というそうです。なぜならこのウミウシはよく調べてみるとニシキウミウシの色が変わったものだったからです。
でも、コンペイトウウミウシの痕跡はコンペイトウ痕です。「オシャレコンペイトウウミウシも同じ食痕を残す」とあり、なんだかおかしくなりました。
おじいさまが見たようにウミウシたちとその痕跡をこの目で見てみたくなりました。
いつか、マイチョコウミウシが舞う澄んだ暖かい海に潜ってみたい。
「つっ……」
テーブル向こうのジャムを取ろうとして、僕は痛みに苦しんだ。1ヶ月前に受けた呪いの痛み。
バレンタインデー当時、僕は誰からもチョコを貰えず絶望していた。それでつい、自室の床に魔方陣を描いて願ってしまった。誰でもいいからチョコをくれって。出来るだけ大量にくれって。
そうしたら悪魔が出てきて、これだ。
悪魔は、僕の右腕に大きな裂傷をくれた。この傷は治ることも、痛みがおさまることもない。ただ、いくらでもチョコを溢れさせてくれた。腕を伸ばさなければ大した痛みもないが、冷静に考えてみれば大して得をしたわけでもない。
下らないことを願ってしまったと思う。
傷を見直して恥ずかしくなる。ふちに漏れたチョコを指先ですくい取り、トーストに塗りつける。
2月10日(土)晴れのち曇
彼女はチョコレートが異常に好きだった。小さな弁当箱を開けると、コンビニによくあるピーナツチョコがゴロゴロ入っていたりする。それと野菜ジュースがお昼なんていうこともけっこうあった。
そんなんでよく体がへんにならないねと言うと、カカオ豆とピーナツの効能を得意げに語り、ぱくぱく実にうまそうに食う。
「でもランチが袋のままじゃ悲しいから、おべんと箱は日替わり」なんて言いながら。
甘いものが苦手な僕には、信じられない光景だった。
バレンタインデーはもちろん彼女の手作りチョコ。トリュフ形のシンプルなものだったが、これが意外にうまくて、この時ばかりは僕も、彼女のチョコ好きを見直した。
「とびきりおいしいチョコレート作りの修行に」と、彼女がパリに行ってもう2年たつ。あの時僕は、意を決して引き止めた。しかし、「あなたはチョコの魅力に少しだけ負けてる。」などと言われ、無残な敗北感を味わった。くそー。
あー僕はなんで今更未練がましくこんなことを書いているんだ。→今年ももうすぐ最大級に胸の痛む日がくるせいだ!
まわりで飛び交うチョコ話を耳にするたび、アタマと胃がほんとにムカムカしてくる。はよ去れバレンタイン!!
その無数の地蔵たちは村のはずれにある。
弥平は地蔵たちのうちの一体に祈っていた。
「お地蔵様。これは『ちょこれーと』というものです。これをあげますから、母の病気を治してください」
地蔵の前にはチョコレートが供えてある。
弥平のような農民には普通手が出せない、南蛮渡来の高級品だ。
頭を垂れて、弥平は祈る。
ゴトリ。
唐突に、重い石を動かしたような音がした。
弥平が顔を上げると、そこには唇を茶色く汚した地蔵があった。
供え物のチョコレートは無い。
「こ、これは!」
弥平は、己の願いは聞き届けられた、と確信した。
地蔵の唇にあるチョコレートの痕跡に、震える手で触れる。
すると、がぶり、とかまれた。
がぶがぶ、ばりばり、ごくん。
翌日、村に誰のものとも知れぬ田が出現していた。
地蔵様の御慈悲だ、と村人たちは言った。
地蔵たちが置かれた頃から、そういった不思議な田はしばしば出現していた。
その田の近くには、難病でろくに働けない、一人暮らしの女がいた。
数年後、廃村のはずれに、無数の地蔵たちが発見された。
近々、近隣の村のはずれに移される予定だ。
大人の世界は権力社会。
子どもの世界も一緒で、彼女が雨の降る廃虚で一人雨宿りしていた理由もそれだ。うちひしがれ、力無い。
「オゥ!」
廃虚に誰か来た。進駐軍だ。用を足すつもりだったが手を止めた。少女の様子を心配し声を掛けたが、英語では通じない。仕方なくチョコを置いて廃虚を出た。焦土の街は冷たい。遠くでジープの音だけ響いた。
「ギブミーチョコレート!」
子どもたちの知っている唯一の英語だ。用法は、進駐軍に向かって。運が良ければチョコにありつける。
子どもの世界は力の世界。
小さな彼女に、力はない。たとえもらっても取り上げられる。隠し持っていることがばれるとひどい目にあい、いつかのように廃虚で一人うずくまるしかない。
それでも勇気を出して口を開いた。いつかの兵隊がいたからだ。
彼は悲しそうに首を振る。手にしたチョコを渡すことはない。ジープは走り去る。少女は肩を落とすが、あの時とは包装紙が違うことに、果たして気付いたか。
やがて街は復興し経済成長した。あのチョコを食べた者たちの手による復興だ。かつてと違うまちの雰囲気に、果たして彼らは気付いているか。
もちろんいつかの少女の姿は、そこにはない。
密室に男女。シタイ。胸にはうたれた痕がある。二月、零時を過ぎて日付は十五日。
オッキナ=チチスキー博士によるとカカオにはギャバやポリフェノールといったストレス軽減やダイエットに効果的な成分が数多く含まれていることは有名だがその副産物としてホルモンの健全化による豊胸効果が認められることに注目が集まらないのは遺憾であり、世の中に大きな胸が好きな男性と己の肉体的官能性能を気にする女性がいる限りその価値観は不変であるのでカカオの遺伝子より取り出した巨大化因子を組み替え定着させた名付けて巨乳化因子を含んだそれは必ずヒットすると思ったので開発して発売に漕ぎ着けたそうである、ので色気を露ほどにも感じさせない己のスタイルに不満を抱いていた由紀恵はアンジェリーナの如くの体型にシフトチェンジするべく発売されたばかりのそれを食べ漁り、飲み干し、疾り、泳ぎ、跳び、ヨガ、ウォーキング、林檎、あんぱん、納豆、ボディブレード、Xウォーク、ロデオボーイ、ともかくありとあらゆる夢幻の荒野を制圧して気がつけば一ヶ月が経過しており、さて効果のほどはどうだと三十日ほど前までは起伏の乏しかった胸の裡をときめかせつつキャミソールをめくり覗き込んだそこには九十九パーセントカカオでできた頭頂部がちょここん。
彼女の左の二の腕の後ろ側、少したゆんとしたあたりに薄茶色い1センチばかりの斑がある。そこはぼくのお気に入りで、つんと触れるとぽよんという柔かい反発があって、彼女はいつもうっすらと照れくさそうな笑みを浮かべるから、きっと何か青くて甘酸っぱい記憶の味蕾を刺激しているのは間違いないのだけれど、すぐに彼女は涼やかな顔に戻ってしまい、いつもぼくはその記憶に手を伸ばせないままでいる。