日の出食堂は、さびれている。
自分は、薄暗く冷えきった食堂の、油がしみてベタついたビニールの椅子に腰を下ろして、卓上の胡椒壷を振った。
ガラス瓶の中で、蛾がばたばたと、羽を動かした。胡椒色の蛾は、元は何色だったのだろう。
醤油さしの中には、微細な虫が群れて泳いでいる。ソースの瓶に不審な沈殿物がある。食卓塩の瓶の中には、ときどき蠢く灰色の粒が混ざっていた。
食堂が繁盛する可能性はない。
自分は、ヒマだった。
透明な胡椒壷を翳した向こうから、強い光が差しこんできた。
今の季節は、力強い日の出の光が、食堂の東の窓に真直ぐ当たる。温かみのある明るさが、店内を隈無く照らす。その様子が気に入って、日の出食堂と名前をつけた。
自分は、両手で顔を覆った。
日の出食堂の未来を潰したのは、ちっぽけな虫だった。封鎖されたちっぽけな瓶の中に、ヤツらは、いつのまにか入り込んでいた。どうやって入り込んだんだ。こんな密閉された瓶の中に。どう考えたって、おかしいじゃないか。
自分は、両手で顔を覆った。
あれは、悪意だった。
「で、どうだった?」
「ええ、何とか。主人は嫌がっていましたけど、どうにか頼み込みました。
でも、どうして、日の出食堂なんかに選挙のポスターを貼るんですか?」
「イメージだよ、イメージ。選挙なんてものは、庶民には政策なんてわかりっこないんだから。最後は、庶民的な印象が勝負なんだよ。」
「そうですね。先生は、高級外車に乗って、高級料亭で食事して、愛人まで囲っていますからね。庶民とはほど遠いですよね。」
「しっ!大きな声を出すな!」
「ところで、お腹も空いたし、あの食堂で食事しませんか?」
「冗談じゃない、あんな薄汚い大衆食堂なんか。それより、つぎの宵の口食堂に行くぞ。」
『ただ今準備中 どうぞお入り下さい』
奇妙な看板に吊られ、男は暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」
少し埃臭い店内では主人が向かえてくれた。男は勧められるままカウンター席に座り、深い溜め息を漏らす。
「どうされました?」
「……先日、妻に先立たれまして」
「それは、お気の毒に」
主人が小鉢と湯飲みを差し出す。酒の香りに包まれ、口に含むとほのかに甘く、心に染み渡る。また小鉢には角煮が入っており、繊細な味に感嘆の声を上げた。
「溜められているご様子ですね。私でよろしければお聞き致しますが」
男はほろ酔いもあって、口が軽くなっていた。妻の看病を経て今に至ることから昔の話まで花を咲かせる。主人は頷き、時折手元を動かしながら男の話を聞いていた。
男は段々心地好くなり、いつしか睡魔に襲われた。
気が付いた時には、雀が鳴いていた。肩から毛布が落ちる。
カウンターに主人の姿はなかった。代わりに器が一つ置かれている。できたばかりなのか、温かい。男はそっと蓋を開ける。
「これは……」
眠っていた胃にじわりと染み込む。
料理は上手ではなかった妻。その長年親しんだ味がそこにあった。雫がテーブルを濡らす。
『本日の営業は終了致しました』
「なァ旦那、話があるんだ」
「おぅ、どうしたぃ」
「おれさァ、月見うどんだろ」
「どっからどうみても月見だな」
「この店の看板に合わないと思うんだ」
「あァ、なるほど。真逆だもんな」
「注文入るたびに肩身が狭くてさ。同僚の朝定食にも笑われるし」
「あんな目玉焼きヤロウのことなんか気にすんなよ。なんでぇ、元は同じじゃねえか、デカイ顔すんなって言ってやれよ」
「いや、自分でもわかってるんだ。おれがあいつの立場だったら、いいキミには思わないさ」
「そんなもんかい」
「だから、転食することにしたんだ」
「だけど、アテはあんのかい。何なら世話するぜ」
「いや、実はもう、外資系から声が掛かってるんだ」
「おいおいおいちょっと待て。そりゃおめぇどういう料簡だい」
「これからは、バーガーとして再出発するよ」
「おれの前でよくもぬかしたな、こちとら掛ければ三十二、割って二ホンの箸てんだ。おめぇ西に傾くたァ、もうおれは要らねぇてんだな」
「旦那にはすまねぇと思ってる」
「……そうかいそうかい。てめぇなんざどこへでも行っちまえ、せいせいすらァ!」
「割箸の旦那、今までありがとよ。じゃあ、行くよ」
「……へっ、何でぇ。看板が、やけに目に染みらァ」
こちら、「日の出食堂解体現場」です。
いま、大きな建設機械ユンボが壁を崩しに掛かりました。
大きな柱時計はそのまま、なんですが、780円のとんかつメニューは落下。
親方はエンジンを止め、缶コーヒーを買いに行きました。作業員たちも
ヘルメットを外してコーヒーを買いに行って、そこでケータイを取り出しました。
はい。こちら「日の入り食堂建設現場」です。
火花です。電気溶接でしょうか。凄いです。
オートドアの微調整に手間取っています。
…塗装も終わり、足場も片付けられようとしています。
大きなテーブルが運び込まれようとしていますが、大きすぎて入りませんね。
応援願います。
一般作業員の日当は一日8000円。
私はそこから1000円を引き抜いて神棚に飾っています。
少年探偵は不意に背後に気配を感じ振り返る。夜明けの朝靄の中に輪郭を融かして日の出食堂が隆起していた。気付けばそこは古い木造家屋の並ぶ小さな田舎町。シャッターの下りた商店街の中で日の出食堂だけが黄色い光を零していた。自転車のベルを鳴らして新聞配達の高校生が少年探偵の脇をすり抜け、少年探偵は目でその背中を追った。
日の出食堂は閑散としていた。少年探偵は席の隅に一人の女学生を見つけ、それとなく隣に座る。納豆定食二百円。女学生と二人で熱い茶を啜っているとお互い第一声が中々出ず、しかしついに被ってしまう。厨房の奥から包丁がまな板を叩く音。それからぽつり、ぽつり、と女学生が来春に見合いをすることを話し始めた。「いやなのか」「うん」「じゃあ、おれと逃げよう」少年探偵は女学生の手を握る。すると女学生はふんわりと顔を和らげ、
「起きなさい、朝よ。学校に遅刻するよ」
「……出て行かないよね」
くぐもった声で少年探偵は問うと、おぼろげな視界に老いた女学生の困ったような笑みが浮かんだ。どこか遠い記憶の片隅から包丁がまな板を叩く音がひっそりと響く。
(あれはどこだったろう)
少年探偵は母親の首筋に鼻を埋めて記憶を推理する。
西向きの崖っぷちに建つバラック小屋。西日しか当たらないこの建物には看板すら見あたらない。しかしこれでれっきとした食堂なのだ。わたしはいつものように裏口から店に入った。この時間、ちょっとした見ものがある。
真っ白なうどんがするすると上昇する。うどんは天井から逆さにぶら下がった翼人たちの小さな口につるつると吸い込まれては消えていった。飛行を前に、翼人たちは腹ごしらえに余念がない。
あちこちでうどんがくるりと輪を描く。急に店内が赤く照らし出され、翼人がいっせいに首を回したからだ。開け放たれた窓の外、山並みの向こうに沈もうとする夕日が、一日の最後の輝きを放っていた。否、翼人たちにとってそれは夕日ではなく、朝日だった。すぐに太陽は赤い光の衣を脱ぎ捨てて、本来の真っ黒な姿に戻るだろう。そして闇こそが翼人の世界なのだ。
朝食を終えた翼人たちは慌ただしく店の開口部へと移動し、谷底めがけて飛び降りる。不安になるほどの時間彼らは落ち続け、太陽の最後の光が消える寸前、ぱっと翼を開き、闇に溶ける。
東の地平線の向こうに、何かのはずみで、狐の面をつけた店主の居る食堂が薄ぼんやりと蜃気楼のように見えることがあるらしい。
壁には店主の直筆らしい達筆で、
らあめん
ちゃあはん
えぇていしょく
などとしたためてある。いつでも満員状態で、薄暗い恰好をした客たちのさまざまの後頭部がひしめいている。差しだされた食券をこれまた万媚の面をつけた店員たちがもぎってゆく。
見えるのはほんの少しのあいだだけで、陽が昇りはじめると逃げるように消えてしまう。ひょっとすると夜の者たちの集う場所が屈折してそんなふうに現れ見えるのではないかとも言われているが、定かではない。
港ではストライキの間に起重機の天辺にハヤブサが巣を作っていた。
本日。営業再開。
A定食 百二十八食。
B定食 二百八十食。
以上。まあこんなものだろう。初日でもあるし。
港湾労働者の皆さま方。ご来店お待ち申し上げております。
シャッターを閉じて、歩いていると霧の中で迷ってしまう。
「おーい」
声がした。
仲間の声だと思うが、十数分前に自分が上げた呼び声のような気がしなくもない。声には澱んだ水で漉したような反響が纏わりついでいる。
ナイフを取り出して、分厚い夜の表面を削り取る。
「味見してみて」
死んだ妻の声が聞こえる。
「どーお?」
「うーん」
今晩の素材は漸進性のブルーグレーか。やや渋い。
『豚の餌には感覚麻痺剤が投入される。満腹感を得られず、より肥え太るようにするためである』とアリストテレスは言ったが、かつては港湾労働者にも否認薬が配られていた。一種の命令忌避剤で、とりあえず命令には逆らってみるものの、結局は肯定するように反応する。意識とは裏腹に行動を制御するのだ。食品素材にも混ぜられていたという。
日の出食堂で港湾労働者が食べる料理には、今は夜の欠片が入っている。
明日の午後には船荷が着く。
ハヤブサの巣はどうするのだろう?
「いただきます」
油が跳ねたかと思うと、包丁が小ぎみよくリズムを刻む。
「あのさ、おばちゃん」
「なに? 勝手に喋ってて。聞こえてるから」
おばちゃん一人で切り盛りするには繁盛しすぎなほどで、炊飯器から水蒸気が吹き出し、什器が擦れ、蛇口がキュッと締まり、客が一人、お代を置いて出て行く。
「俺さ、今日でここ来れるの最後なんだわ」
「ツケ払っててよ」
「チンジャオロース旨かったなぁ」
「しんみり言わないの」
「産まれたくねぇなぁ」
「なんのために死んだのさ」
「そうだけど・・・またしばらくおばちゃんの飯食えなくなるんだぜ」
「どうせまたいつか帰ってくるんだから」
「そしたら俺は俺じゃないし」
「アンタがアンタだってことぐらいわかるわよ」
「そっか・・・よろしくね。ごちそうさまでした」
「お粗末様でした。ちゃんと産まれなよ」
おばちゃんの料理が恋しいから、人は泣いて産まれるのだ。
一夜にして海に没したという古の商都は、古老が呟く擦り切れかけた言い伝えにより辛うじてその記憶を今に繋いでいる。異教の都で、享楽を貪ったがために滅ぼされたというのだがそれは支配者の理屈である。土地の者たちは支配者の策略に落ちて水門の鍵を奪われた美しい王女を偲び、今も水底にかつての姿のままあるとされる都の復活を待ち侘びる。
在りし日の都には夥しい数の商人がひきも切らず訪れ、市場を賑わしていた。その中心に位置し、都の象徴ともなっていたと言われるのが、差渡し数十メートルの大屋根を持つ大食堂である。そこでは商人たちが慌ただしく飯を喰らいながら商売の話を声高に響かせ、あたかも世界中の富が集められたかのような華やかさだったという。その食堂が年に一度、春分の日の夜明けとともに海面にその姿を現すのを、古老と土地の者たちはまだ暗いうちから待ち続ける。空が明るさを増すにつれ、往時の賑わいが海の底から聞こえ始め、だんだんはっきりと、大きくなって行く。そして日の出の瞬間、食堂は最盛期の輝きを一瞬だけ取り戻すと、またゆっくりと海中へ沈んで行く。
年に一度、その日だけ土地の者たちは朝飯を摂り損ねてしまう。
油で曇った引き戸を開けると初めて見る満員の光景がそこにあった。
「らっしぇい」
汗だくになりながらフライパンを振る親父さんが耳に馴染んだ声をかけてきた。安テーブルもカウンターも一杯だった。塩サバを口に運びながら千切りキャベツを飲みこみながら客は泣いていた。注文の品がまだ来ていない者は水を飲んでおいおい泣いていた。
「今日が最後なんてなあ」
「もう『トソカシ定食』としか読めないメニューが見られなくなるなんてなあ」
俺も空席を待ちながらわあわあ泣いた。学生らしき男がぐすぐす鼻を鳴らしながら席を立った。
「お勘定ここに置きます胸が一杯で食べられない」
その言葉で皆泣き声を大きくする中黄ばんだ割烹着姿の小母さんが飛んできて皿を下げたので俺はそこに座っておんおん泣いた。
「今日の定食お願いします」
野菜炒め定食はいつもの味の素味で噛み締めるごとに喉にこみ上げるものがあった。
「今日が最後なんてなあ」
口に出してみたら熱い涙がぶわっと噴き出してきて俺は轟々泣いた。
「お勘定ここに」
小母さんの不機嫌そうな顔を見るのもこれが最後だと思うと鼻水が止まらなくなった。
店を出てからもおうおう泣きながらファミレスに行った。
味も景色も抜群だったけど、立地が衛星軌道上では客足も鈍く、すぐに潰れてしまったのは残念だった。
その球形の大きな人工衛星は、日本の明け方の水平線から、太陽とぴたり重なって昇ってくることから、屋号だけは天文用語として残った。
昇るにつれて軌道は太陽から離れてゆく。日の出と共には訪れなくなった日本の朝は、中空から夜空を破くように明ける。
看板はジャイロコンパス式に、常に地表を向いている仕様で、空気の澄んでいる日には今も、地上から赤地に白抜きのロゴが肉眼で読める。
いつからこうしていただろう。今日こそは食べてもらいますからね、と鬼の形相で迫られ箸を取ったはいいが胃の腑へ落とせども落とせども際限なく出される料理の数々。毎日独りきりで食卓の椅子を暖めているのに耐えられなくなったのか一念発起、最近外で働き始めた妻は妙に強気だ。何でも誰か正規職員の代替らしいが、お前の年でよく雇ってもらえたなと言うと、あら、運と上昇志向さえあれば年齢なんて関係ないのよと返される。
「さあさ、早く食べちゃってくださいな、でないと夜が明けちゃうわ。朝早い仕事なんですから。それにあちこち飛び回らなくちゃならなくてくたくたよ」
喋りながらも給仕の手は休めない。
「前任者は嫌気が差して部屋に閉じこもっちゃったのよね。でも私が顔を出すのを心待ちにしてくれてる人がいると思うとやっぱり辞められないし。あなたなんかよりよっぽど……あら、大変。もうこんな時間」
言うが早いか妻は東の窓に突進し、忽然とかき消えた。時を同じくして山際から射す白い光。阿呆みたいに握り締めていた汁物の椀にぽかりと朝日が覗く。
全体、うちのかみさんは何に成ったんだ。
こんな所か・・。子供の頃世界の全てのように思えた場所は、裏山の東斜面に切り開かれた、狭い空き地だった。朝この木材集積場跡に来ると、平野の縁から昇ってくる朝日が見える。
僕たちは、毎日ここに来て遊んだ。大木の切り株は、かつて僕たちのテーブルだったのだ。
もう、何もない。誰もいない。箸にうってつけの小枝も、死んだ祖父の茶碗も、カケラすら見当たらない。
僕はいつも、お客の会社員の役だった。日の出食堂と名付けたこの青空食堂で、
「いらっしゃいませ!」と元気な声をあげるのが、隣の家の静子。パイロットを名乗っていたのは、静子の弟祐一だ。
あんなに仲がよかったのに、引っ越してしまってからは、手紙を書いたこともない。
当時の食堂につっ立った僕は、子供の自分からすれば、電信柱のようなものだろう。あの時既にサラリーマンだったことが、なんとも滑稽に思える。
当時の僕は、いったいどんな顔をして、落ち葉のカレーや紐のうどんを食べていたのか。やせっぽちの静子は今、どこで誰のために料理を作っているのか。・・・
数十年ぶりに訪れた故郷の裏山は、時間を忘れたように、ひっそりと呼吸している。
ばかげたことだが、僕は小声で「ただいま。」と言ってみた。見上げると、空の青がとてつもなくやさしい。僕はなぜか、泣きたいような気持ちになった。
冬らしい曇天。交通のまばらな道の、しもた屋と洋装店に挟まれてその店はあった。
正午過ぎ、近くに勤めているのか時々やってくる男が、引き戸を開ける。ほんの少し間をおいて、いらっしゃいませ、という声が奥からする。他の客はいない。男が、今日一人目の客かもしれない。テレビは昼のニュースを映している。男は真ん中辺りの四人掛けの席に座った。その横にストーブがあるのだ。は、と短くため息をつく。
テーブルにコトンと水が置かれる。男はオムライスを頼んだ。男は、この店では大抵カツ丼か、オムライスだった。
次の客はまだない。いくらかして、オムライスができあがる。大きな白い皿に、またやたら大きなオムライスがのっていて、パセリが黄色い山のふもとで休んでいる。卵は端の方がぱりっとしている薄焼き卵。その上に、のびた楕円のケチャップがどっかりとかかっている。
男は後は無言で、時々テレビに顔を上げては、俯いてスプーンを動かした。
「ごっそさん」
男が勘定を払う頃、店には二人連れの客が入っていた。
「ありがとうございましたァ」
明るい──太陽のようにとは言わないが──見送りの声が、男の背中を追いかける。男は、暖簾をくぐる時、ふ、と息を漏らした。
夜明けの銀の雲と金の太陽。当時としては高価な顔料を惜しげもなく使ったこの作品は、当初は何の変哲もない安食堂に掛けられた看板として企てられた。「何の変哲もない」とは間違いである。なぜなら、戦火を免れて街の広場に屹立できた建造物はといえば、その安食堂だけであったから。
この作品の、今も専門書に二、三行の記述しか見出せぬ生みの親は、書き上げて間もなく貧困と飢えで命を落とした。彼にそうさせたのは他ならぬこの作品である。それでも彼は、その生誕に自らを磨耗させられねばならなかった。
子ども達の為である。灯り一つとて燈ることの叶わぬ負け戦の夜に、その闇はいかほどの恐怖であったろう。この光景はそれが許せず、小さな模倣物をさながら英雄のように人に孕ませ産ませたのだろう。
この光景といった。あの雲を貫き上る太陽こそは、現在においても“いと高き者”を思わせる。いわんや当時の人々をや、である。
今日では聖堂になった、かつての食堂跡に安置されているこの作品の前には、飢え死にした作者への供え物が今も絶えぬ。今、わたしはその供物を感謝をもって口に運ぼう。神話にも似た因果を経た、悦ばしい恵みの糧を。
慰めなんて要らないさ。って、たしか昨日、僕は格好よく言ったよね、太陽?
やさしく包み込むような、暖かな陽射しを避けるように背に、僕は、おかっぱ髪の毛先を指でくるくる巻いたり伸ばしたりしながら、ときどき振り返っては太陽を上目で睨んだ。
ほとんどは自分の影を見ながら歩いた。
人もロボットも影は平等です。
僕たち、ロボットの産みの親であるFノ博士の言葉をリピート再生しながら。
取り引き場所にはメトロポリス五丁目に新しく造られた、嗚呼、懐かしき『日の出食堂』が指定された。古ぼけた店内には数人のスチーム・マンと、白衣を着たFeノ助手が眼鏡のレンズを拭きながら、何故か座っていた。
「うわぁ、研究所には帰らないからな。お前たち人間に、僕たちロボットの、サンプルショーケースの中で埃を被りながら本物を見つづける気持ちが解るか!」
「君は人間だ」
「違ウ! ボクハ、ろぼっとダ」
「楓ちゃん。君は人間だ」
「それみろ! その名は博士の死んだ娘の名だ。僕は彼女の代替物として新しく作られたんだろ? 知ってるぞ、彼女の死ぬ場面もこの眼で見たからな。いいか、よく聞けよ。僕は研究所には戻らない。この、この下腹部のタンクに博士から直接注ぎ込まれた精子を地下精子バンクに大金で売り渡して、一人で生きていくんだ!」
なんて格好いいセリフ。「一人で生きていくんだ!」
僕がうっとりとして下腹部を触ると、それはわずかな膨らみを示した。
もうすっかりきれいなものなのに、どことなく生臭いようなにおいがする。尻が冷えたので、ずるずると横倒しになり、コンクリートの床に右半身をつけた。
そうだ、この床がいけないのだ。ざらざらしているから、隙間に染み付いたにおいが取れないのだ。並んでいるいすもいけないのだ。足カバーのプラスチックに刻まれた茶色い筋、すじ、すじ。
ガッコウカバンを枕にしようとした。とんでもなく臭かった。頭を床に直接つけた。
細かい粒が頭皮に食い込む。服と床との摩擦がひどくて、シャツがぴしぴし言ってズボンがばしばし言うから、身動きが取れない。
やっぱりどうにも生臭いのに、空気が冷たいから、汚いのかどうかが分からない。
二階から下りてくる足音が聞こえても、俺は目を閉じたままでいた。電気をつけないまま、祖父は俺の前にしゃがんだようだった。頬に触れたしわの感触が、顔にかかった髪をそっと流した。袖口からにおいがした。
じいちゃん、じいちゃん、前みたいにしてくれよ。前みたいにだよ。
全部が暗くて寒いのに、放り出される俺だけは熱い。
本土から遠く遠く離れた、珊瑚礁の小島。ハナコさんは国から島の保全を委ねられている。といっても仕事は海岸を見回り、珊瑚の成長をレポートにまとめ、衛星通信で本土へ送信することと、台風襲来時に観測機器の動作をチェックし、壊れた機器を修繕すること。日課が終われば、残りは長い長い自由時間となる。環礁の内側で釣りに興じたり、見たこともない魚の調理法に悩んだり、プランターを並べた家庭菜園の草取りをしたり。
そんなハナコさんの許に、時たまメールが届く。黙認されているアルバイトの依頼だ。「よっしゃ」と気合を入れ、倉庫から運動会などでよく見るテントを担ぎ出し組み立てると、次は折りたたみ式のテーブルセットを並べた。魚を釣り、家庭菜園から食べ頃の野菜をもぎ取り、米を炊く。約束の時間になると、大きく警笛が鳴った。沖合いの客船から小型のモーターボートに乗り移った客人たちが手を振るので、ハナコさんは自作の料理を誇るかのように両手を広げた。
舌の肥えた好き者の間で、その島が地図上の名前で呼ばれることはほとんどない。ハナコさんのテントに大きく記された名が、通称となっている。
なんとかいう女神が深い眠りについてから、この国には夜しかない。おれは夜から夜へと旅をして、鄙びた店にたどりついた。店の中には客が数名。テーブルの上には白いご飯だけ。手元のおしながきには「日の出定食」とある。愛想のない店の女に注文すると、しばらくして目の前に白いご飯が供された。箸をとろうとすると止められ、古びた壁掛け時計を指し示される。時刻は本来なら夜明け前。そのとき時計の針と針が交わり、大きな音が鳴り始めた。きしんだ音がして、からくり時計の蓋が開く。そこからなんと流れ出す暁光。蜜のような黄金色の曙光で部屋の中が見る間にどろりとうねり、甘い洪水の中におれは放り出された。浮きつ沈みつするおれの手に、誰かが茶碗と箸を握らせる。おれは言われるままに、黄金色に染まった米を口中にかき込むが、咀嚼しきれずに戻してしまう。おれは咳き込みながら光の中に溺れる。ふと時計の音が止み、いつの間にか元通りに、目の前には白いご飯。他の客はもうおらず、茶碗の中は空っぽだ。おれは目の前の茶碗を取り上げまずい冷や飯を食う。支払いを済ませて扉を開けると慣れた夜が広がっていた。おれは次の日の出を探してまた夜の旅を続ける。
おはようございます、と声を掛けられたが今が朝なのかどうか、何せ時計というものがない世の中である。店内は薄灯り、机と椅子とあとはオヤジが一人いるだけで、やはりそういう類のものは見当たらない。あれば大変なことになる。
時計はなくなった。朝もなくなった。
誰の仕業かうやむやで、よく分からないうちに色々あって色々変わって、適当に起きて仕事しメシを食べ眠り、それでも案外世間はうまく回るようなのだから昔を知る身としては不思議ではある。
日の入り続きのこの時代に、なかなかいかした屋号だぜ。とオヤジを眺める自分も、うろ覚えだが結構な年だったかと気付く。
人間五十年、という言葉が浮かんだ。
品書きには、さば味噌定食コロッケ定食カツ丼他ずらり並んだ最後少し離れて「日の出」の三文字、まさか料理ではあるまいが半ば冗談で注文すると、ああそれは、と返事をする目と目が合う。お客さんはまだ止した方がいい、と視線を手元に、さらにオヤジが一言付け加えた。
そいつは、もう終わりだなってえ頃合に。
それから何度か、やあやあ出た出たと声をあげ、やけに上機嫌で消えていく客を見てはあれがそうかなと思うのだがでも今日はメンチカツ定食にしてみる旨い。
うぇ〜っす
おう。しばらく見んかったけど、どないしててん
度朔山にやな…
何やて
度朔山に行ってたんや
何かい、あの枝ぶりが三千里もあるっちゅう桃の木が生えてるあの伝説の島かい
せや。その木の東北にある枝が門になってて鬼が出入りするから鬼門っちゅうあれやね
またホラかいや
ちゃうて。ほんで、えらいもん見たんやて
何やねんな
あんな、その鬼門を入ったら何があるか知ってるか
知らんがな。桃の幹ちゃうんか
ブー。そこにはお堂があるんや
ほう
そこにな、「日の出食堂」て書いてある
ちょっと待てーい、日本語かい!
あかんか。日本やのうても日本人が額を書いたかもしれんやろ。それに日本語圏でもええやんか。中国の東やねんし
まあ、ええとしよ。せやけどな何でそんなとこに食堂があんねん
食堂ちゃうがな。お堂て言うたやろ。日の出食の堂やねん
なんや日の出食いうのは
知らんか?日の出を食いよるやっちゃ
日の出を食うたらお日さん出ぇへんがな
せやし、偽の日を食わせるために祀ってんねやんか
ほんまかいや
せやで。ほんでそこに持ってたチョコを供えたんや
ほうほう
そしたらえらい気に入りよってな、もうチョコしか食わんて
それでか。最近、お日さん2つ出てるんは
すまんな
僕の注文した目玉焼きは完璧だった。ツヤツヤと輝きを放ちながら仕上がりはレア。縁だけがカリッと焼けている。その艶かしい姿は僕を誘惑する美女のようだ。焦げたバターの香りが鼻腔をくすぐる。添えられたソースも濃厚な赤ワインと肉汁をゆっくりと煮詰めたものだ。口に含めば全てが渾然一体となり、官能さえ刺激する。僕は至福の一時を味わう。
こんな良い材料を調達できる食堂は他にはない。一人で店を切り盛りする女将さんの腕は確かだ。一流のレストランにも匹敵するんじゃないだろうか。僕等の仲間内では評判の店だ。
「そろそろ日の出だねぇ。閉店しますよ」
真夜中に開店し、夜明に閉める日の出食堂。
「おばさん、美味しかったよ。睫毛がちょっと残ってたけど」
「すみません。気をつけますね」
女将さんは僕に頭を下げた。睫毛など些細な事だが、それにしても美味かった。
世間には疎まれるであろう僕等の食癖を満たしてくれる店は数少ない。この店で料理を食べれば、僕等の心にも太陽が昇る。
嬉しいな、ほうれん草のおひたし、と僕は目の前の新妻に言う。
こういう何でもないものが好きなんだ、いや、馬鹿にしてなどいない、難しいよね、美味しく作るのは。
前に食べたのはひどかった。あれは昨日のことのようでもあり、十年以上昔のことのようにも思えるのだけれど、どこか知らない町の食堂で、ほうれん草のおひたしが出たのさ。冷凍してあったのを正しくない戻し方でもしたのか妙な味、と言うより感触だった。
言い終って漸く僕は妻の料理に手をつける。途端に甦るあの味、と言うより感触。
そう言えばあれはどこの食堂だったのか。知らない町の食堂に入るという経験など僕にあっただろうか。もしかして夢。
その夢は、と妻が口を開く。
まだ続いているのよ、と言って立ち去る後姿は割烹着を着た知らないおばさんだ。
すみません、と小さな声で言いながら僕が店から出て来た瞬間を、背景には店の看板をきちんとおさめてぱちりと撮った一枚、というふうに見えない?、この写真。
岩戸にこもったアマテラス。機嫌を損ねて出てこない。岩戸の奥で一人きり。暇に任せて料理の研究。毎日毎日作るうち、美味しい肉じゃが、魚の味噌煮、おふくろの味何でもござれ。だがしかし。料理の腕は上がったが、披露する場がどこにもない。
今日も料理をしていると、なにやら外が騒がしい。岩戸をそっと開けてみる。外はドンチャンお祭り騒ぎ。あれよあれよと連れ出され、いつの間にやら祭りの中心。戻ってきたよ太陽が。
祭りはひたすら一日続き、みんなくたくた。腹ぺこぺこ。
「岩戸の中におかずなら」
アマテラスの発言に、踊るみんなは殺到し、白飯求めわめきだす。
かがり火で炊くたくさんの米。ほかほか全員いきわたり、おかずはどうぞ好きなだけ。
「日の出の祝いの会食だ」
誰かが言い出し、わっはっは。アマテラスもわっはっは。
みんな楽しく、飯は旨い。
おかずをつぎわけ、白飯よそう。日本最初の食堂女将、天照大御神。お代はツケで結構よ。太陽笑うよ、わっはっは。
元旦の早朝営業でローカルに有名なこの店が、普段から早朝しか営業してないのは全く有名ではなく、お客は現場のおっさんと、峠を攻めにきた若者ばっかりだ。
皆、疲れて眠そうで、なのにどこか清々とした空気が流れている。
テーブルにつくと同時に、おばちゃんが朝定を持ってくる。君の席にはいつものグラス。琥珀色の氷の作り方を、おばちゃんは何度聞いても教えてくれない。
はじめてこの店に来たのはいつだったか。
夜明け前の町を、君は怒った顔でずんずん歩き、僕は黙って君を追いかけた。
『こんなに、まだこんなに』
荒い息の下、言葉はすぐに途切れた。
それでも君は歩き続け、疲れておなかが空いて、たどり着いた先にこの店があった。格子越しの朝日は綺麗で、ひどく目に染みた。
朝定を平らげ、最後に君を真似て、指で溶けかけの氷をつまむ。白熱灯の明かりに金色にきらめく。ほのかに生姜とハチミツの香り。
君は口を尖らせ、血管の透けた細い指でそっとグラスを包み込んだ。氷を映して揺れる眼を、僕はただじっと見つめる。
やがて空は光をはらみ、変らぬ朝日が、夜と君の名残を溶かす。
瞬きを、ゆっくりとひとつ。
夜が終わり、僕の一日が終わる。
どこにでもありそうな、昭和の匂いする食堂。
名前を聞いてイメージしたのはそんな食堂だ。
待ち合わ時間が、14時『日の出食堂』
喫茶店なら、コーヒーを飲みながら雑誌でも読んで待っていただろう。
しかし、果たして食堂でそんな待ち方ができるのだろうか?
だいたい14時って何だ?
中途半端な14時から、一緒に飯を食べるのだろうか?
ここは飯抜きで、待つべきなのだろうか?
友人の指定には疑問が残る。
待ち合わせ当日、飯抜きで私は恐る恐る日の出食堂に入った。
やはり昭和の匂いのする食堂だった。
メニューを見ると、コーヒーはない。
しかたなく、店員に連れが来てから注文すると言う。
遅い。
友人は約束の時間を15分過ぎても来ない。
当然だった。友人は、店の前で私を待っていた。
今日あの肥大化してしまった食堂が、取り壊された。外面は一流、けれども中はボロボロで、儲け度外視が売りだったのに、チェーン展開などしたものだから、虚飾で出来た偽食堂になってしまった。シンボルの、陽の真ん丸マークは、すっかり黄ばんでいた。そしてついに、帽子を被った男たちが来て、「区画整理です」と言ったかと思うと鉄球で大穴を開けた。乱暴で、傷ついた人もいっぱい出たが、彼らの言っていることは間違ってなかった。
いつの間にか陽は落ち、そこはもう更地になり、人の影がちらほら夕闇にあるばかり。男たちは消えてしまい、瓦礫だけが残った。月のひかりが射すと、そこにいた人々は、立ち上がり、男たちが残した工具を使って、もう一度作るのだ、食堂を。
朝が来て、月が陽に取って代わるころ、そこには、昔のような、あの飾り気の無い、けれども今までに無いものを取り入れた、食堂がしっかりと立っているだろう。受け入れられ、また幸せに満ちた笑顔が、この食堂にあふれるだろう。そして、陽の真ん丸マークは、その時にこそいっそう、輝くだろう。
夜の間に、人々は、朝の希望を擁き続ける。夕闇や夜を避けられないことを知りながらも。擁き続ける。
えっ、この辺りでランチをやっているお店ですか?それじゃぁ、この坂道をずっと登って行ってみてくださいよ。海が一望できる日の出食堂なんてどうでしょうかね。メニューが豊富ですよ。和食はもちろん、洋食、中華なんでもござれ。あなたが食べたいと想像するものは、たいていあるでしょう。え?どうせ、ラーメンはインスタントじゃないのか、ハンバーグは冷凍食品じゃないのかですって?さぁー、まぁ、ファミレスっちゅう所だって、そんなもんなんでしょう?外観は歴史を感じさせてくれる趣深い建物ですし、店内には、おやじさんが旅行で集めた木彫りの熊が何百とお客さんをお待ちしておりますよー。奥さんは、三角巾がまたよく似合うハイカラな娘さんでしたしね。商店街主催の美人コンテストで優勝したこともある『ミス日の出』ですよ。ええ、残念ながら、それも四十年くらい昔の話ですが。兎に角、気の良い夫婦がやっておりますから、一度行ってみてくださいよ。え、そこじゃ食べたくないって?困ったなぁ。この島には、そこしか、お食事処がないんですよ。
「ただいま〜」
がらりと引き戸が開くと子どもの長い影が焼けた陽とともに差し込む。いらえはない。
昔ながらの長家風に連なった商店街。ただしほとんど空き店舗だ。中はいわゆる「鰻の寝床」。
ランドセルを背負ったままの彼は、土間になっている何もない売り場を抜け居間に上がる。暗い。
こたつのスイッチをまず入れておいてから、さらに奥の台所に行く。
テーブルに、いつものように少し汚い文字の書き置きがあった。
み帰り、まさゆき。
夕ハンはトンカツをチンしZね。レーゾーコ9中9漬物も食べZ。
ガスは使っちゃダメa。
母からのメッセージ。
テーブルのラップの下には、とんかつと煮染めがある。
母は夜、働いている。
職場はあっちの隣町。日の出る方。
まな板の音に鍋の音。時折揚げ物の音も。トントン、コトコト。じゅうぅぅぅ〜。
——「チン」とレンジ。
とんかつが温まったのでごはんをよそいでこたつに。
まぎれもない母の味。少し形は悪いけど旨味が染みている。
「おいしい」
母の職場まで遥か遠い。手作りの味、おふくろの味、ふるさとの味が自慢で単身者らに人気だそう。わいわい、がやがや。わはははは……。
「——おいしい」
思わずつぶやいても、いらえはない。