500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第78回:ノイズレス


短さは蝶だ。短さは未来だ。

金曜日の夕方6時、駅前は待ち合わせの人たちで溢れている。私は携帯の彼からのメールをもう一度確認した。時間と場所だけを告げるそっけない文章は、間違えようがない。
フリップを閉じかけて、なんとなくそれを耳にあてる。もしもし。どこにも繋がっていない電話に、心の中で呼びかけた。
もうずっと、メールばかりのやりとりだ。会える時間も少ないから、長い夜に声が聞きたいと我侭を言ったこともある。皆が手放しで祝福してくれない二人だから、なおさらに、何度も。無理だよ、と彼は困った顔をした。
誰でもやっている簡単なことのはずなのに、電話の向こうは今日も沈黙している。
不意に携帯が震え、驚いた。彼の名前が表示されている。見回した雑踏と身体で感じる声高な喧騒を突き抜け、遠くに彼を見つけた。携帯をポケットにしまったその手が、ゆっくりと宙で動く。周囲の人たちのぶしつけな視線を、彼は気にした様子もなかった。
この距離じゃ、きっと声は聞こえない。それは、電話を待ちつづけた私と彼との距離に等しいのだろう。雑音に惑わされていたのは、私ではなかっただろうか。
彼の指先が綴る三文字。私の名前だ。
それは、彼が最初に覚えてくれた手話。



 女の子は体毛が薄いと世間一般には思われているけれども、どうして体じゅうには男女問わずあるかなきかでも産毛というものが生えているのであって、それはちょっとした水の流れを妨げたり肌触りを著しく損なったりするのである。ざりざり。
 抱き合うと肌のぶつかり合う音よりも密着させた体の下で互いの産毛がどんなふうに絡まり合っているのかが気になってしまう。産毛とはいえこれだけ隙間なく抱き合えば絡まり合いくらいするでしょう。結果、いいだろ? いいだろ? と訊かれてもごめんなさい産毛がと言っては振られてしまう。
 剃刀を滑らせて産毛を剃る。安全剃刀なんかじゃ駄目で、安全剃刀なんぞと謳いつつもあれはけっこう危険な代物で横滑りにより何度皮膚を切ったか知れないのだけれど、とにかく一枚刃のギラギラと切れ味のよい剃刀を肌に当てて滑らせてゆく。刃の上にこんもりと産毛が溜まる、よくもまあこれだけの毛が体じゅうに生えていたものよ。
 すべらかな肌触り、何の摩擦も起こさないさらさらに陶酔して剃刀を滑らせる滑らせる滑らせる、あ、と思った瞬間剃刀は皮膚に喰いこんでいる。血。ああまたやっちゃった。



 デパート化した電気屋では、枕も密に並んでいる。そばがらの、安いの、肌触りのいいの、安眠用の。
 冷房で芯まで冷えたような低反発枕をつねっていると、
「少子化に伴い、暴走族も減りました。もはや雑音は外にはないのです。お客様、電車で寝たことはございませんか」
 ヘッドホンを持った、白い額の店員がやってきた。
「がたんごとんの聴けるヘッドホンですか」
「がたんごとんも聴けますが、雑音カットが特長です。特定の脳波を感知して、打ち消す波動を出すのです」
 対称の動きをする手で、妙な機械を被せられた。
「スイッチオンで、自分を責めたり、悩んだり、そういうのをカットします。よく眠れますよ」
「僕はいいです。暴走族なので」
 左様ですか、と店員はヘッドホンを外してくれた。
「暴走されてるんですか。単車で」
「自転車です。走るとよく眠れるし、眠れないときも、何かしら思いつくからいいんです」
「私も思いつきました。これ」
店員はにっこりした。
「怪しい機械とお思いでしょうが、一度オンにすると、外せなくなるんです。私が責任を持って外しますから、ぜひ試してみませんか。……お嫌ですか。それはよかった」
 店員はにっこり頷いた。精密で静かな動きだった。



 お父さんは、ね。静かなひとと結婚したの。それはお母さん?と聞くと。そうだったのね、と全てを人任せにして悔しげに笑った。
 テレビが好きだ。それは、お父さんの血のせいだと思う。お父さんは輪をかけてテレビが好きだ。会社から帰ると、問答無用でテレビはお父さんの物。僕の感心は画面からはぐれて部屋をさまよい、にぎわってたと思ってた音が全てテレビの物であった事に気づく。変えられた番組が野球や歌謡曲だったら、お母さんとおしゃべりするしかこの音の足りない部屋ですごす方法はない。けれどおしゃべりしていると、無言で上り詰める音量。さらには、ヘッドフォンで鉄壁の防音。お母さんはしかめつらで口を噤む。もう家中が静かなのに、お父さんはヘッドフォンを放さない。
 一週間後は僕の誕生日だ。お父さんも、ちゃんとプレゼントをくれる。でもそれは、僕が興味を一欠けらも払わないものばかり。お礼を言いたくなくて、だからそのためなら、プレゼントなんかいらない。僕の誕生日だってことを、誰も、お父さんに教えないで。それとなく、匂わせないで。
 あの耳に鋭いとげのような耳栓を突っ込んでしまおうか。



 ゆるやかな丘の上にひろがる砂岩王国は子どもたちが作った遊園地だ。大小の自然石を積み重ねた洞窟や建物、塔、広場や階段はすべて子どもたち自身のアイディアに基づいていると言う。小石の川がシャリシャリと音をたてて流れるが、音はたちまち消える。遠ざかるにつれて川はスローモーションのように動きをゆるめ、王国を出る前に止まってしまう。砂のプールの上には草花の生い茂る山羊のための小断崖。実際の四分の一サイズの石の家が建ち並ぶ街路は草が茫々で、威勢の良い雑草の丈は天井を超えている。子犬が一匹迷いこみ、岩穴の奥に首をつっこんで吠えた。唸っても吠えてもすべての音は砂岩に吸いとられて、こだまは返らない。足音も反響しない。風の吹きぬける音も聞こえない。子犬もついに沈黙する。子どもたちの姿はない。人っ子一人いない。けれども子どもたちは砂岩王国のどこかに潜んでいる。この場所にいれば息を潜めて隠れることが遊ぶことだと思えてくるのはごく自然なことだった。大人は、たとえ両親に捜索を頼まれた探偵だったとしても、誰も見つけられないだろう。ここでは子どもは完全に隠れられるので、自分から出てこないかぎり、見つけることは不可能だ。



 あら。蚊が。
 ふぅー
 双子の姉はぼくの頬に息を吹きかけて虫を追い払った。パチリ。両手を打つ音が響く。
 蚊を退治しようと、わずかに腰を上げた姉の浴衣の裾が割れて見える。姉の筋肉質な太腿の上に頭を乗せているぼくの目線で、畳で擦れて赤くなったばかりの両の膝小僧がチラリと見える。
 パチリ。
 ……ぼくの耳奥を掃除している時に、あまり暴れないで欲しい。
 パチリ。
 こんな廃屋だから人が来るなんてとても珍しいのね。
 ぼん天越しの姉の甘い声音に脳が蕩け出す。
 さあ。キレイキレイになった。姉は赤黒く染まった耳掻き棒の先っちょを振ってみせる。もう、あなたがイタイイタイって暴れるから、こんなところまで血を拭き取らなくちゃならなかったのよ。
 姉は、切り離されたぼくの頭を軽々と、高々と持ち上げた。
 やっぱり初めてセックスしてみて、よくわかったわ。
 結局、カラダなんてあっても煩いだけだって。



 音楽家ジョンは無響室に入って予想もしない感覚に襲われる。どんなに自らが発する音を抑えても、完全な無音は訪れなかったのだ。自らの生命活動が止むことなく出し続ける動作音、それが彼の耳を襲った。いや、彼の耳の中から響いたのかもしれない。それは神経系の音や血流だと彼は知らされたらしいが、リンパ系であったり、あるいは筋肉が絶え間なく発する収縮音であったりした可能性も高いだろう。いずれにせよ、ジョンはそれを音として、自らの意識に作用する外的な現象として分節化し、認識した。それゆえにこそ、彼は最後まで音楽家でいられたのだ——おそらくは。彼我の境界線を確定し、認識するもの−されるものの関係が成立するとき、音は音となる。無響室で自らの肉体が発する音を自らの肉体が受容する時、聞くことに対する発音の他者性が不確かなものとなり、自明と思われた主客が混ざり合い、ついには「音を聞く」という認識行為そのものが無効になるような認識の変容を予想するのは、難しいことではない。もしそうなっていれば、ジョンは(願っていたであろう)完全な無音に出会えたのかもしれない。しかし真の無音から出発できる音楽もまた無かったはずなのだ。



 その音楽には摩擦がない。
 送られてきたのは一枚のCD-R。新人たちが曲を送りつけ、それを僕が判断する。これは日常だがそのCD-Rにはプロフィールが添付されていない。作者名も住所もない。いささか、いやかなり奇妙。
 とりあえず再生する。十秒後には目を見開き姿勢を正している。音の海におぼれる生活を送る僕ですら、一度も聴いたことのない、あるとすら信じていなかった音楽が具現化してここに在る。すなわち、リスナーの中に抵抗なく滑り込み、一体化する音楽。
 ぶつりと途切れる。CDの収録時間を超過したらしい。でも問題はない。おそらく、と思って自動リピート設定にすれば、やはり切れ目など存在しない。無限にリピートする音楽なのだ、これは。
 人間だから?
 その日はもう仕事にならない。何を聴いても頭の中はあの音楽で満たされている。次の日も朝から鳴り響いていたから会社を休む。一日中部屋に籠もってあの音楽を思う。そのうちに音楽が変容を始める。少しずつ、しかし確実にそれは「自分」となっていく。そして三日後の真夜中に完成をみる。
 気づけばもう僕は一枚のCD-Rの中に潜んでいる。そして、誰かの内部へするりと滑り込むのを心待ちにしている。



 ばかばかばーか。ばーかばか。
 何を言っても聞こえやしない。
 あほーんだーら。あほんだらーあ。
 とまあ、がんばればがんばるだけむなしい気がしてくる。
 ああ。しょうもな。
 世間というやつはやかましいことばかり、なんもかんもを静かにしようと試みたところが失敗失敗、わたしが静かになりました。
 音という音を出すことをまるきり禁じられてしまったわたしは何に干渉することもできない体、とは言え、あまりに意識がはっきりしているし化けて出られる様子もないということは息の根が止まったわけでもなさそうだ。
 世の中のごちゃごちゃは変わらずわたしを不愉快にさせるのにこちらから何もできないとはなんたる不公平。けしからん。
 と憤慨したところで塵ひとつ動かないのだった。
 通りの真ん中で半裸で踊っても誰も気付かない。わあわあ騒いでも次第に声が出ているのかすら分からなくなって、わたしの心中もごちゃごちゃうるさく言わなくなってくる。のだけれど穏やかになったわたしはそのまま消えてしまうのではないか知らん、と思ったりする。
 ま、いいか。
 わたしが消えたという事実ですら、何者にも伝わらない。
 人生、諦めが肝心なのです。
 あーあ。
 しょうもな。



 大阪の外れに町があったのじゃが、これが毎日うるそうてうるそうて。何かというと、きつね。ずるずるずるずる朝昼晩とうるさい。
 そんなうどん食い倒れの町に、ハァンという男がおったそうな。目もとは涼しく顔はよろしかったが、胆は小さかった。
 そんなハァンの好物は、ところてん。
 箸一本で事足りるなぞ小粋なことを言うては、縁側でひょいとところてんをすくって、つつつ。
 なんと涼しい風情で食べることか。女どもも放っておかんかったとか。
 どっこい、町の男衆はそれが気に食わん。
「夏が暑かろうが、うどんじゃうどんじゃ」
「ほぅれほれほれ、うどんじゃうどんじゃ」
 汗かく顔をハァンに寄せてはほこほこをずるずるすする。暑苦しいことこの上ない。
「コノ・ヤツバラ!」
 ハァンは狼藉者どもを斬った。気持ちは察してやりんしゃい。
 ところが、じゃ。それからというもの毎夜ハァンの枕元でずるずる音がする。うどんをすする音じゃ。
 耳を済ませば、ずるずる、ずるずる。
 ハァン、胆は小さい。
(以下、自主規制で削除)

 嘘じゃと思うのなら静かにうどんをすすってみることじゃ。ハァンの悲しみが身に響こう。



 オレゴウ・オレゴン・オレガノンという奇怪な文字として縊罠がクリアに認識できた。
 牛視力を会得した功徳に俺は感じ入った。この牛視力によって妖精前駆体すら知覚できたので、妖術半径を意識して行動できるようになっているはずだと頭ではわかっていた。それでも実際の禍象を目にするまでは不安だったのだ。ただ、この縊罠の認識も、妖術分子そのものが見えているわけではなく、周囲の流体の変化を認識しているだけなので、不安が完全に払拭されたわけではない。
 魔道逆行により寸断されてしまっている微かな如来磁気を頼りに、禍象呪塞の類を避けながらサトリを目指す。紫の磁気は有り難さよりくどさを感じるのは俺の血中仏法濃度が低いせいか。仏臓が弱いのは生まれつきだから、こればっかりは仕方がない。
 こんな時は雑念を払えばいいというが、それには抵抗を覚える。そんなの盗んだ飯を親の死体の横で食うようなものではないか。
 百画素くらいに視界がぼやけてきた。少し休もう。
 少々癪だが、一度、禅定に入ることにする。呼吸を整え、醒睡補償点を目指す。



「ツー?」

「カー!」



(きゃあ、遅れる)
 私は南北問題の特別講演に滑りこんだ。

「…SN問題は」
(ふう、間に合った)
「世界的な…」
 しんとした会場では、マイクの雑音が目立つ。
「…Nの増加に対してSは対数 logN でしか増えない」
(マルサスの人口論ね。人口が爆発しても、食糧や資源はさほど増えない)
「…いかにSを…」
(さっそく本題だわ)
「…温度を下げて…」
(食糧危機って地球温暖化のせい? あっ、投機の加熱って事か。確かに冷却が必要よ)
「…フィルター…」
(投機マネーをspamとして排除する訳ね)
「…サンプルを増やして…」
(品種を増やすってこと? そもそも代替燃料のせいでの食糧危機なのに)
「…Nを減らす…」
(げ、これは思わなかった。確かに少子化は地球には優しいわ。でも途上国の口減らしとなると……)
「…閾値を高くして切る…」
(殺すって事? …とすると、わざと食料を高騰させて、飢餓や内戦を煽り……悪魔!)

 思わず席を立ち上がると、回りは理系の奴らばかりだった。 
 どうも変だと、あらためて題目を見直す。
『情報学講座 ——ネットのS/N比の改善に向けて』
 ——しまった。教室を間違えた!



真っ白な世界だった。
一切の混じり気の無い純白。
気が付いたらと言うか、目が覚めたらと言うか、
目の前には荒涼とした白い世界が広がっていた。

真っ白な世界。雪山でホワイトアウトでも起こしたのか?
いや、都内で冴えない暮らしをしていたオレが、いきなり雪山なんかに来るわけがない。
だとしたら、これは死後の世界だろうか?それとも臨死体験なのだろうか?

真っ白な世界の中、遠くで、誰かが、誰かの名前を呼んでいる。
多分、呼ばれているのは、オレの名前なのだろう。でも誰が呼んでいるんだ?
聞き覚えのある塩がれた声。あれは、多分、嘉和おじさんの声。
早くに両親を亡くしたオレを、いつも気に掛けてくれている嘉和おじさんの声だ。

元々冴えない生活で、1度、どん底に落ち込んだ時には、死のうと思ったこともあった。
でも、オレを心配してくれる嘉和おじさんを思うと、死ねなかった。

それが今は、何故だか煩わしく思えて、叫んだ。
「もう楽になりたい、放っといてくれ。オレを一人にしてくれ」
「そうか。分かった」力ない返事が聞こえた。

気が付くと、都内の病室。
息を引き取り、淋しそうな死に顔の嘉和おじさんの手を握っていた。



ノイズレスって、ボトムレスに似てるよな。










あ、いや。ご



 その絵画には、びっしり無数の蟻が集っていた。
 俺は神妙な手付きで、その蟻どもを払い落としている。名画の表面を傷つけぬよう、慎重に、慎重に、だ。
 蟻どもは、払い落としたそばから、煙のように霧散する。一体どこに行ってしまうのか、それは俺にもよくわからない。
 絵画の全貌が露わになってきた。古風な街並みと河、そして船——イタリアの水都を描いたものだろうか。見る人が見れば、大したお芸術かもれないが、生憎、俺は絵画のことには明るくない。そんな俺が、何でこんな作業をしてるのかって? そりゃ当然、“視覚化”した方が、作業が楽だからだ。
 さて、そろそろ潮時だろう。これ以上の作業は、オリジナルを損ねかねない。
 俺は、デコードを開始する。
 絵画の色彩が、流麗なバイオリンの音色となって解け出す。なかなかクリアな仕上がりだ。自らの仕事ぶりに満足しつつ、さらにデコード。
 俺の周囲を飛び交う音符たちは、今度は膨大な0と1の奔流となって溶け出した。

 俺は電子の世界から復帰する。首筋からケーブルを抜きながら、仕事上がりのタバコに火を付けた。あとは、メディアに落とし、依頼主に送りつければ完了だ。
 「ノイズキャンセラー」。それが俺の職業だ。



 お母さんの声がしない。お父さんの声もしない。ユキの声も聞こえない。猫のドミノの鳴き声さえも届かない。
 そして、その全てが雑音であったのだと、はたと気づき僕は愕然とする。
 
僕は街へ出て、固く冷たい道路をひたひたと歩く。もはや街に喧騒は存在しない。
青くて大きな太陽だけが僕をじりじりと蝕んでいる。
歩く先に大きな川が見えて、そこに橋が架かっている。僕はその袂へと向う。
橋の袂には、川を背に一人の男が立っていて、その横には人々が長い列を成して順番を待っている。男は人々を一人一人、見定めする。男が見定めるのを終えると、人々は男の傍らを通り過ぎ、川の中へと消えていく。僕も列に紛れて順番を待つ。男が僕と対峙すると、男は少し困ったような表情を見せて、僕を列から追い出し、君は違う、と小さく呟いた。僕は暫くの間、立ち尽くしていたが、あきらめて橋の上へと行き、次々と川の中へと流れ消え行く人々をぼんやり眺めていた。すると、やはりやりきれない気持ちになり、何気なく橋の向こう側を見ると検問所が見えた。その奥に見える街にはまだわずかに喧騒が感じられる。僕は顔を上げ、死んだように眠る自分の街を背にして、また歩き始めた。



壁にでも張り付いているのか、すぐ外で一匹、蝉が鳴いているのが聞こえる。午後の四時過ぎに何か食べたくなって、うどんという思いつきは我ながら悪くないと思った。だから食べていたのはうどんのはずだったが、器の中に一本そばにしかみえないものをみつけた。まあいいやと思って口に入れる。金を払ってその手打ちうどんの店を出た。それにしてもメニューにそばはなかったから昼に店の人が食べたのが残っていたとかだろうかと今になって考えながら。外は夕立でうどん屋の軒下の端で少し雨宿りさせてもらう。降っているのを知っていたらもうしばらく店内でゆっくりしたのだが。どうせ暇な日曜なのだからとぼうっと立っていたらすっかり辺りは暗くなってしまっていた。足が冷たく痛かった。白いものが舞っていて、見上げると灰色の空で。重たそうな巨大なぼたん雪を見ているとまぶたも重くなってくる。雪は私の手に触れて落ち、道をぼんやりと染めてゆき、葉を落とした小枝に器用に乗っかっては、まだ遊びたがる海の波を包み覆った。まもなく凍りついた星は雲の中、夜の側が仄かに光った。月兎の黄色い瞳は、遠くを見た。



 恋する乙女の力は偉大なのだ。
 緊張感の中、お腹いっぱいに吸い込んだ息で、「この気持ちはなんだろう」の「こ」を「こ」にするため、口腔を、のどちんこを、声帯を震わせようとして止まったトール君の前に立つ。申し訳ないけど、ヤマダには退いてもらって(重かった!)
 左右に立ち並ぶ合唱部の面々も思春期とは思えない不ッ細工に口半開き。だって比喩でもなんでもなく時間が止まったから。隣のアッコのスカートめくって、さらにはちょっとあまり気味のお腹を、むんずと掴んだり揉んだりしたのに、悲鳴ひとつあげないんだから間違いない。
 恋する乙女の力は偉大なのだ。
 高校生活最後の夏。Nコン地区大会当日。ステージ上。歌い始める瞬間。この最高のシチュエーションで時間が止まる僥倖! 誉めて誉めて! わたしを誉めて! って、動いてるのわたししかいないけど。
 さぁするぞ。意図せぬ歪みを見せた瞬間で止まった、わたしが一番好きな表情のトール君の唇を奪ってしまうぞ・・・
 静かな大ホールをわたしの衣ずれとわたしの吐息が仄かに揺らす。
 恋する乙女の力は偉大なのだ。



 夜に口笛が聞こえる。
 父親の口笛が聞こえる。
 娘の私は薄っぺらな布団にくるまって、耳をふさぐことしかできない。
 毎夜毎夜響く音は、次第に緊張を忘れてゆくようだった。耳障りな音が心地よく変わっても、私は固く固く耳をふさいだ。
 毎夜毎夜ふさいだ耳は、次第に音を忘れてゆくようだった。耳が痛んで手が汚れても、私は固く固く耳をふさいだ。
 夢の中で父親が叫んでいる。どうしたの? 汚れているよ? 苦しくて洗うこともできないんだね?
 私は無音の中で、深く眠った。



遥か宇宙への断崖となる地平線。砂塵一粒舞うことなく沈黙を守り、吸い込まれそうな青は、見上げれば藍に、濃紫に、闇へと続く大天蓋を染め上げる。雲を縁取る黄金の光もいつしか紅に沈み、夜への序曲は終焉を迎えるのだ。helpless。
痛いような静寂に立ち尽くし、どれくらいの時間が経ったろう。この世の煩わしさはすべて過去に投げた。愛した風景も、愛された記憶も、もはや異界の滲みでしかない。
しかしこれが望んでいた世界なのか。
この地が暗示するのは、更なる拒絶と孤独ではないのか。
探していたものは、もしや忌み嫌った雑踏にこそ落ちていたかもしれない。



 音が消えた。何の前触れもなくぷっつりと。
 世界から音が消えたとき、世界中が混乱に陥った。これはどこぞの国の陰謀だ、いや宇宙人だ、という議論があちこちで巻き起こった、筆談で。他にも窃盗が横行したり、蝙蝠がふらふらと住宅街を飛んだりする。世界は静かに大いに狂っていった。
 音が消えた半月後、匂いが消えた。やはり何の前触れもなく。

 思い立って外に出る。天気が良いから気晴らしに公園まで散歩するのだ。それでもふとした拍子に考えてしまう。次は何が消えるのだろう。その答えはベンチで飲み物を飲んでいるときに得る。味覚だった。気付いたらお茶は冷たい何かに変わっていた。
 僕は公園を飛び出し辺りを見回す。都心の方から空が色を失っていくのが見える。雲の白でさえも色彩を失い、のっぺりとした白黒の膜が空と地面を覆っていく。瞬く間に僕も飲み込まれ、まだ色彩の残る方も駆け足に侵食されてゆく。それだけではない。その白黒でさえもすうっと薄らいで消えてゆく。煙が空に拡散するように、景色が溶けてゆく。そして自分自身もまた。
 反射的に地に手を突き感触をまさぐる。手の平に食い込む小石の感覚を、重力の鎖を記憶するのだ。空に浮かんでしまう前に。



精神科医の中井久夫氏は文字に色を感じる共感覚者で、よい文章は色の配合が美しいから、ページを眺めただけで書物の水準が分かるという。同種の共感覚者で、生来の赤緑色盲なのだが、文字から感じる色としてだけ赤と緑を見ることができる人の報告を、どこかで読んだ。なんだか空想の翼が、はばたきたがる話である。

大学時代の友人Yは色彩に音を感じるという共感覚者だった。あるときを蛍光灯の下に立って、CDを見詰めて泣いていた。まさか見るだけで音楽を再生できるのかと思ったがそうではなくて、CDに映る光は鏡面上で分光されるので、物体色では通常あり得ないあざやかなスペクトルが見えて、耳からは聴いた事のない美しい音がするのだと言う。言われてみるとなるほどCDに映る光はほんとうに美しい。これが音になるなら、さぞや澄み切った音であろうと思った。
Yによるとこれに匹敵する実体験は、アラスカの僻村で見たオーロラだけで、「光でできたハープがひとりでに鳴っているような、最高のメロディが響き渡った」そうである。

まだ人類が音楽を持たない時代にYみたいな人がいて、旅の途上にきっと、オーロラを見た。



部屋を閉め切り外界を遮断。
電灯を消し視界を消去。
目を閉じ光景を拒絶。
耳を塞ぎ音を絶つ。

そうしてこの忌まわしい世界から抜け出すのに努める。
単なる現実世界と理想世界との二重写しなのは承知のところであろうが、今の私には、こうして矮小でかつ諧謔的な心情に浸るくらいしか心の容量がないのである。そう解釈するのが手っ取り早い。
今の私では、友人の死を軽率に扱った冗談も恐ろしく、それを言いながら廻らす視線も恐ろしく、果てには存在も恐ろしく感じる。よって私は自己保身とも言うべき逃避に走ったのだ。こうしていれば少なくとも恐怖から逃れられる。彼らの声から逃れられる。そうこうしている内にも、理想世界に到達して、私は浮遊した感覚に溺れることに成功する。

さて、私は次にどうしようか。

理想世界にようやく逃れたのに、そう思ったがために、私はまた恐怖した。
全てを絶ったつもりでいたのに、私は私の考えていることを言葉にして自分に話している。音は、存在している。
私の理想世界、つまるところ雑音の無い世界はあっけなく崩壊し、どこでもない場所に放り出された私は、ただ呆然とするだけだった。



 一つ、日陰のベンチに座り。二つ、二人で、寄り添って。三つ、耳にはイヤホンを、半分ずつで使いましょう。素敵な音楽聴きましょう。

 四つ、夜までまだ早い。五つ、言えない、好きなんて。六つ、虫の鳴き声が、ノイズのように聞こえます。空いてる耳から聞こえます。

 七つ、なんだこの手があった。八つ、やっぱりできないのかな?九つ、ここで勇気をだして、自分のイヤホン、あなたの耳に。

 とおくに聞こえる虫の音も、今はあなたに聞こえない。私は、あなたの目をみつめ、小さな声で言ってみる。

「好きです。好きです。大好きです」

 あなたは、優しく微笑んで、私に一言返してくれた。

「たった今、バッテリー切れちゃって……」

 一つ、額に口づけを。二つ、不意打ち、抱きしめて。三つ、耳には聞こえない。あなたの声しか聞こえない。



幸子は生まれつき耳の聞こえない聴覚障害者だった。
補聴器をはずすと全く何も聞こえない。彼女は音のない世界に生きている。
彼女は、就寝前のひとときに心落ち着かせる時間をもっていた。
安らかで心おだやかになれる時間である。

彼女が耳をそばだてると、まるで心の耳が開かれているかのように、
神の良心のささやきの声が聞こえてくる。
あるとき、彼女は幻を見た。
見えない人は目が開き、聞こえなかった人の耳が開く。
歩けなかった人は躍りだし、口のきけなかった人が喜び歌いだす。
それは、神の与えた最高の奇跡であり、至高の祝福である。

神の言葉に耳を閉ざしている人は、耳が開いていても何も聞こえない。
耳をふさがれている人の心には、神の声は届かず、風とともに消えてしまうからである。
しかし、彼女の心の耳には聞こえてくるのである。
幻を見たあとの彼女は平安そのものだった。
彼女は少し神に近づくことができたと思えた。一点のくもりもない澄んだ心境である。
彼女は幸いなひとであった。



 久しぶりのデートだけれど、さっきからずっと会話が成立していない。
「これから僕んち来ない?」
「え? うん、天気いいよね」
「今度はいつ会えるの?」
「え? さっきの映画? おもしろかったよね」
 そういえば、最近新しい耳に変えたという話を聞いていた。
「その耳壊れてるんじゃないの?」
 ためしにそう聞いてみたら、
「そんなことないよ。フィルタ機能付きの最新型だよ」
 彼女は即座に的確な返事をくれた。
「へー、そうなんだ。これから僕んち来ない?」
「え? 帰る時間? それじゃ、バイバイ」



「バー・ノイズレスへようこそ」
 地下のバーの入り口前でペコリと頭を下げたボーイは、十代半ばの少年である。
「店内に入る前に、ノイズを頂戴します」
 ボーイは再び軽く頭を下げると、私の耳元に口を寄せる。美しい顔が近づき、顔が赤くなるのが、幸いここは暗い。
 彼は大きく息を吸う。私の耳の中を吸い出すように。左耳、右耳。
 騒音がたちまち小さくなる。階段したまで聞こえていた車の音、人々の喧騒も止む。時間が止まったような錯覚に囚われる。
 時間。腕時計に耳を寄せると、秒針は無言で回転していた。外して、ポケットに入れる。
 ボーイが無音のドアをあける。唇が動く。耳を澄ます。
「こちらへ」
 ボーイの囁き声が静まり返った脳に心地よく響く。足音すら立たない店内に入ると、バーテンダーが微笑んだ。華麗なシェイキングで、氷の小さな笑い声がコロコロと鳴る。
 そういえば、バーテンダーはずいぶん白髪が増えたのに、あのボーイは初めてこのバーを訪れたときから変わらない。



 みみンみンみみンみンみンみみン、みみみンみみンみンみみみみン。

 たとえば、いま罹っているのが耳の病だとして、足元をこんな文字が這っているのが“見えて”るのなら、いよいよやばいと思う。見えてるだけで聞こえるわけじゃない。
 仮にこれを“みみン”病と名づけ、みみン共の動向をうかがっていると、何でだか「をイをイ」とのたくりながらぼくのすね毛にぶらさがり始めた。足を振っても落ちやしない。ばちんと叩くと今度は手のひらに伝染り、滑りこむようにしわになって生命線をやたらとのばしだす。力こぶの辺りでまた叩いてみるが、への字にへらへらするだけで意に介さない。みみン共はぼくの身体をみるみると侵食していき、ついには耳を除いたすべてに行き渡った。
 痒い。目ン玉まで痒く、骨が折れるかというほどよじれによじれ、助けを求めて叫ぼうとした瞬間、耳を除いたすべてが崩れ、崩れた身体はすべからく、みみン共になった。残された耳も、這い回るみみン共に散々わやにされた末にとうとう“み”と“み”とになった。

 こうしてみとみ、すなわち“みンみ”となったぼくはみみン共を従えて愛するママンの寝室へ向かう。みみン共、いいか、騒ぐなよ。