「お母さん。あたし、どうしようっ!?」
ぷっくり愛らしい尻尾をふるふる震わせた娘は、今にも泣き出しそうな表情だった。毛がごっそり抜け落ち、表皮が露わになった前脚を私の前に差し出す。
「こんなの嫌だ。こんなの知らない!!」
半狂乱になる娘を見ていると、滑稽なような、泣きたくなるくらい切ないような、そんな懐かしい気持ちに襲われた。私は、勤めて軽い口調で、彼女を諭す。
「あんたも、そんなお年頃になったのね」
「病気? ねぇ、これ病気?」
娘は未知の体の異変に狼狽えている。
「違う違う。年頃の女の子はね、みんなそうなるの。ちょっとの間だけ、ニンゲンになっちゃうのよ。あなたのそれは、その前兆なの」
「嫌だ。あたし、ニンゲンなんて嫌だ!!」
ほんと、私がそうだった時と同じ反応だ。
「ほんの少しの間だけよ。その間に、里へ下って、番う相手を見つけるの」
「“つがう”……って?」
「それはね……」
私は、娘を優しく抱きしめながら、語り始める。この子の父親のことを、そして、かつて私がニンゲンだった頃のことを——
受精卵はその胎内で十月十日の進化を行った後、人になるらしい。
博士は私の子宮口を縫い閉じて閉鎖系世界を構築しました。
耐え難い引力を腹部に感じます。
契約して悪魔になったはいいけれど、いかんせん、暇。
世にあふれるは天使ばかりで、片側通行でいいかもよをそれぞれに囁くので、天使の讒言で争いは絶えることがない。
悪の道は一本道にして、いまのご時世にあっては、それはまるで6歳児用絵本。
自己啓発的新書的天使の弁舌には到底拮抗しやん。
公園では所在ない悪魔が日光浴をしている。
もっぱらの話題はストレッチとサプリメントで、寿命は果てがなく伸びる絶望。
今日も天使志願者は、資格を得ようとミサイルを落としてゆく。
またひとり、天使が増えたらしいよ。
ヒトデ、って言ったっけ、ヒドラ、って言ったっけ、とにかくそんな名前。
新歓コンパは午後6時からです。
昔々のお話。とある赤い星に、ごく普通の、おばあちゃんっ子の娘がいた。祖母は星の語り手であり、彼女は星の旅人だった。兄や母などもいた筋に関係ないので略す。
ある時、旅の娘は白い星へと降り立った。白は星に掛かった雲であり、地を覆った氷だ。鳥は白であり、黒。娘は子どもの時分祖母に聞いてこの星を知っていた。赤い星の乙女が、白い星の唯一羽の過去人間で複雑な進化を遂げて鳥になった王子を見出しその個体だけにマッチを擦って火の使い方を教えると、炎を恐れぬ王子の子孫はやがて再び複雑な進化を経て人間となり、更にはその頃には氷河期が解けるのだ、祖母曰く。そして、いざ白い星に行ってみた娘は可笑しくて仕方なかった。じっとしている、翼をばたばた、嘴でつつき合っては右往左往、開いた大穴から海にぼちゃん。ガアア、ガアア鳴く鳥は兎に角たくさんいたのだった。長らく鳥らを眺めた娘は言った。
「このままでいいよ、かわいいもん。うるさいけど」
こうして赤い星と白い星は今日も彼方で光り輝き、娘は旅と祖母のお話を愛する。
「自分の良心に問いかけるためにやったんだ。」とAはいう。つまり、何をしても罪悪感を感じたことのなかった彼は自分の心に良心が存在するのか試すために、自分が人間だったのかを問うために一人も人間を消し去ったという。なるほど、Aからは反省や後悔、罪悪がまったく感じられない。彼は、本当に良心の呵責を感じたことがないのかもしれない。しかし、そんな理由でひとりの未来を消し去ることは許されない。はじめ、私は彼に至極憤りを感じていた。
私はAと話すうちに、Aの世界に吸い寄せられるような感覚を覚える。それは、彼の言葉が整然としていて、彼の弁論がためではない。それは、自尊心と利己心に塗り固められた彼の心のうちに、落ち着かない感情が見られるからだ。しかし、彼はそれを、まったくといっていいほどみせない。私は、彼のその心のうち暴いてやりたいと思うようになった。
それはひどく簡単であった。彼の自分愛の虚をついたところ、彼の内なる一面を垣間見ることができた。彼はいう「自分もかつてひとりの人間であったのだ」と。
——すべて「死」に立脚した「生」の美である。言い換えれば「人工的」な「自然」の美となろう。つまり、美意識は「自然」それ自体よりも適度な「人工」に対して鋭利に反応するのだ——
大理石で組まれた台座に、嵌め込まれた説明と解説。
その上に、プラスティネーションでは表現しきれない、彩色とディオラマによる、神がかったあるいは悪魔的な「美」
きっと、ダダ星の学芸員が夢見た博物館はこのようなものだったのだろう。
物音がして、わたしは振り向いた。仮に捕えられたとして、このように飾られるなら、自然に生き延びるよりも価値があるのでは? そんな俗な想像とともに。
わたしは2つの足で立つが、同時にワイヤで吊られている。人はそんなわたしに「美」を見出す。
本能は叫んだのだけれど、既にわたしはなにも震わせることができない。
あまりに遠い昔のことで、もう記憶の残骸を拾うような感じでしかない。
わたしはたぶん。人間だった。
この、傾いた首の先につき出す怜悧な舌を動かす時、かつてここから伝えたい何かがあったことを、かすかに思うのだ。
それは確かに言葉だった。わたしたちが手放した表現手段。持たずとも、なんの不自由もないもの。
それを使うことを渇望していた無量劫の過去を、わたしは思う。
何を。誰に。
地に突き刺した脚はそのままでいい。しかし言葉というものが。言葉を持たないものの、思いとも言えない思いが・・・。
ピリリと触覚が、ある種の信号をとらえる。
こうして行きつ戻りつし、記憶をさぐる作業が、今日も中断を余儀なくされる。
脳髄だけが進化を遂げた哀しい生きものである我々は、愚かしくも豊かだった人間のやりとりを、今はただDNAの片鱗に刻むだけだ。
人間を経ずにここに生まれたものたちの、なんと殺伐としていることか。そしてなんと幸福なことか。
わたしの生はまだ始まったばかりで、未来を思えば不可思議な閉塞感に支配されてしまう。
わたしは遠い記憶を探りながら、生まれ来るものたちを、今日も、淡々と見つめる。
それはかつて七度アマガエルであり、十度トビウオであり、百二十二度蜜蜂であり、二千六十七度蒲公英であり、六万四千百九十九度ゾウリムシであった。黄色ブドウ球菌であったこともあるが、その一生涯の画定は困難であり回数を云うことはできない。
するべきことは、むろん多様な諸相を含んではいるものの、おおむねひとつの言葉に集約される。繁殖すること。
しかし、それは、人間であったときには繁殖しなかった。
人間になる機会は二度となかった。
名前などないものになることが多くなり、そしてやがて、名前さえも繁殖をやめた。
思い出すものもいないのだが、宇宙が始まってから終わるまでに一度だけ、それは心をこめて恋文を書いた。勇気が足りなくて、渡せなかった。永遠に。
それの恋心が、手紙として生まれる機会は、二度となかった。渡さない機会も二度となかった。
もっとも激しい祈りをみずから叶えまいとする、そんな自由は二度となかった。
悪魔と契約したあの頃、私はだたの職人だった。私の国は戦争中で、沢山の人が命を落としていた。
悪魔の力は素晴らしい。知識は血のように体を巡り、なんなく操ることができた。大勢の人の命を救った。私の作る義体は、見た目も動きも本物そのままだった。私は人々に神様と謳われた。
戦争が終わると、しばらくは平穏な日々が続いた。悪魔に魂を売ったせいか、私には老いる兆候もない。好きな研究に明け暮れた。
どれだけの時が過ぎただろう。いくつかの戦争と平和の末、人々は謎の病に冒された。体は生きながらにして溶け、助かるためには、溶けた部分を義体へ替えていくしかない。
体を失い、生殖機能を失い、絶滅に瀕した人々は、産まれない子供の変わりに、義体の技術で子供を作ることを思いついた。私はそれぞれの両親に似せ、思考し成長する機械の子供を作った。核には人の魂が必要で、人々はそうして滅びた。
助けることもできただろう、と悪魔が問う。そうだね、と私は頷く。
機械の人々の世界は、今のところ平和だ。生身の人より遙かに丈夫で賢い彼らは、私の手をほとんど必要としない。
私は今でも神様と呼ばれている。悪魔は時々遊びにやって来る。
雨が降る。
リア坊やは雨滴のなかで眠っていて、地に叩きつけられた瞬間に砕けて、死んだ。その亡骸は、同じくして死んだ“亡骸ン坊”たちと混ざって、或いは下水に吸い込まれもするが、多くは地にとどまり柔らかな集合を成す。この状態を“ガンボ”と呼ぶ。
ガンボは乾くことで、より大きく柔らかな“カラッポ”という状態となる。カラッポははっきりとした境界を持たずに何となくのび広がる。死んで止まったままでいるリア坊やの意識は、塵のようにカラッポのなかを漂うが、やがて、同じく漂う別の意識と、ある拍子に交合する。死んだまま、まぐわう。それは“アッケラカン”と呼ばれる。アッケラカンによって、カラッポは徐々に波打ち、湿りを帯びる。そうして或いは花を咲かせ、或いはしらべを奏でするうちに、いよいよカラッポは白けだす。
ふたたび雨が降ろうかという間際、白けた空を仰ぐ者が、地にぽつりと立っている。その者は咳をひとつした後、深く息をすい、そして吐いた。その時、リア坊やの欠片がその者のなかへ取り込まれた。
リア坊やは覚醒する。その者の意識の欠片として。かすかに粟立ったその手には今、鈍色のカギが握られている。
寝不足のせいか、ドラッグのせいかは判らないが、俺はただ動く標的に向かって銃を乱射し続けた。
思考は停止していた。敵も見方もわからずにただ言われるままに銃を乱射していた。
テロとの戦いでこの戦場に赴任して半年、薬と極度のストレスのおかげで俺はなんの躊躇いもなく人を殺せるようになっていた。ドラッグ、レイプ、強盗、殺人、何をやっても後は軍がうまく処理してくれる。この狂った状況の中で生き延びるために必要なもの。それを理解するのに時間はかからなかった。人のかけらを捨てきれれば、それでよかった。
激しい銃撃戦の後、疲れからか俺は動けずに座り込んでいた。背後から誰かが近づく気配を感じたがやりすぎたドラッグの後遺症のせいでいつも意識はもうろうとしている。少女らしきものがそばに立っていた。俺はやさしく微笑んで、少女の差し伸べた手を掴んだ。爆音とともに俺の心も体も無数のかけらになって戦場に散らばった。
窓の外は暗く、ラッシュの車内はより暗く、足元がおぼつかなかった。乗り換えの多い駅でもみくちゃになった私は、後ろポケットを誰かが探るのを感じた。
背後を見たか見なかったか。出かけた財布がポケットにぐいとねじりこまれた。
「危ないところだった」
と後ろで呟くのが聞こえた。
私はその声にはっと思い当たり、小さく叫んだ。
「もしかして、君はジュンくんじゃないか?」
背中が震えているのが伝わった。やっと彼は、私のあの優秀な友人であることを認めた。
私は息をついた。そして彼に顔を見せてくれるよう頼んだが、彼はお互いを向かわせなかった。
あまり懐かしいので、話し出すと止まらなかった。お互いの友人とその子どもの話。世間のニュース。私の仕事の話を、彼はことさら喜んで聞いた。
「自分はつまらない石ころだったよ」
彼はわらった。
「昔にそうと知っていれば、俺は喜んで才能のないのを人にさらしたんだがなあ!」
やがて私の降りる駅に近づいた。彼は住所を教えなかった。
「そこのホームで振り返って、自分の姿を見てほしい。二度と会おうと思ってくれないように」
私はそうした。遠くガラス越しに振り返った。
白い顔の男は人に沈み、再びその姿を見なかった。
最初は卵だった。我ながら気味の悪い状態を経て8週目辺りでようやく人心地がつく。その後胎児となる。色んな人に手伝ってもらって自分でもよいしょと頑張り新生児となる。赤ん坊とも言う。宝物と言われたりもする。
そしてしばらくは乳児だろう?おっぱいを卒業したら幼児か。後は長く児童、子供とだけ呼ばれる。小学生、少年に分類され、先輩後輩なんていうのも意識されてくる。
少年というには無理がでてきて、青年になる。この頃は呼び名が多彩で、点取り虫、優等生、学級委員やメガネなんて呼ばれたり。
ティーンエイジを過ぎると成年になる。次は会社員だろう?平社員から係長、課長、部長と階段を昇る間に、壮年になり中年になった。彼氏から花婿、亭主、父になった。
真人間、とも言われたな。
とんとんと老け込んで老年になった。祖父と紹介されると、なんだか得体の知れない達成感で肩が落ちたものだ。喪主や患者にもなったがこれ以上は省こう。
今じゃ仏さんだ。順調な一生だったと思うよ。犯罪者や被害者にならなかったのは幸いだ。このまま仏さんでいるのか、また卵から始めるのか、はてそれはまだわからないね。
帰路へ着く人々の流れに逆らい歩いている。彼らは顔中に疲労を滲ませているのにどこか幸せそうで、私と肩がぶつかっても私の方がよろめくばかりだ。彼らは黙々と家族の待つ家を目指す。それは幼い子が笑顔で出迎えてくれる家だろうか、新妻がかいがいしく世話を焼いてくれる家だろうか、年老いた父母が肩を並べてテレビを眺めている背中が見える家かもしれないし、もしかしたら一人暮らしで扉を開けても暗がりがあるだけの家かもしれない。それなら近親感が湧く、少しだけ。彼らは一様にぼんやりとした眼差しで前を向いていたり、視線を足もとに落としていたり、携帯電話を眺めたりしている。しかし誰も空を見ようとしない。日の長い夏の夜の空には薄らぼんやりと紺色の濃淡が広がっていて、その裾野を街灯や建物の灯りが仄かに黄色く染め上げている。中空にぽつんと金星が瞬く。私も帰ろう、家に帰ろう。と、誰かと肩がぶつかった。よろめく。それでも私は歩かなければならないので、足を摺り前へ前へと進む。また誰かとぶつかる。転ぶ。それでも私は。べちゃり、べちゃり、と顎と腰で地を這い進む。腕などとうに失くした。人の足の隙間から空を睨み上げる。遠い。
培養液の中は居心地悪くはないが、このコードはどうも気に食わない。
脳みそだけとなった私には、このコードが外部との接点だということはわかっている。今も、思考が電気信号となりモニターに表示されているはずだ。昔は十本の指でタカタカとキーボードを叩いたのに。今じゃ箱入り脳みそだ。
国家が重要人物と見なすと、問答無用「歩かない生きた辞書」となる。五十歳までに処置しなければ、現在の技術では箱入り脳みそにすることができない。健康に大きな問題はなかった。娘は結婚したばかりだった。
私は外科医だった。患者のデータをコンピュータ経由で受け取り、適切な治療法を指示するのが今の仕事だ。患部を見ることも、患者の声を聞くことも、薬品の匂いもしないのに、二十四時間膨大な数の患者を診つづける。
ほんのわずかの暇を見て、こうして考え事をしている。コードから送受信する情報だけではやっていられない。自分の意思で感じることのできる目や耳や鼻、そして物を触ることが出来るようにならなければ。そのための「器官」をどうやってこの箱につけ、脳と連動させるか。これが今一番の関心事だ。
培養液きちんと交換されるうちは、私は死ぬこともできないのだ。
目の前が真っ暗になる。僕はお葬式が行われている町外れの教会を早足で飛びだした。森の中に飛びこんだ。すぐに、逃げだした。俯き加減にあちらこちらとやみくもにただ歩きまわる。
指先にはさっき恐る恐る触れてみたおじいちゃんの肌の感触がまだ残っている。
「そんな風になるなんて、知らなかった!」
と息を吐くと、いつの間にか辿りついていた丘の上の一本樹に頭から思いっきりぶち当たった。
あお向けにひっくり返った僕の目の前に広がる、青い空や青い空や。
擦り剥けて痛む自分の額にそっと指先で触れる。
知らなかったんだ。
人間が死ぬとその残された体は木と化してしまうなんて。
僕は火照った身体を起こし木肌を擦りながら、目を閉じて、丘の下の町から聞こえてくる賑やかな囁きに感じ入った。死についてはまだ良くわからないけど、こんな風なのは、嫌いじゃない。
僕もいつかこの樹のように。
大好きなピノッキオおじいちゃんのように。
靴の音がドアの前で止まった。
あぁ……。 今日がその日なのか。恐れと希望の解け合った想いが浮び上がった。
子供の私は大人しく、ほとんど喧嘩をしなかった。多少ヒヨワだったが、確かに人間だった。
その後、高校、大学をして社会人になった。いくつかの恋を経験し、それが壊れた時もまだ人間だった。
気が付けば、私も三十を幾つか過ぎていた。周りに人にも「結婚しろよ」と以前から言われていた。
ある日の休憩時間に、顔見知りオッサンから見合いを勧められた。婿養子で両親と同居と言う条件で。
結婚後も数年間は人間だった。きっと…… 多分…… そして、今は世間から鬼と呼ばれるようになった。
私の頭に黒い布が被せられ、首に太いロープが掛けられた。足元の床が消える音が聞こえた。
数分後『かつて人間だった』私は、『もの』になった。
恋をした。
命という命を漂白しつくして、浜辺は白亜質の砂粒以外なにも見えない。湖水は、ただひたすら碧い。空よりも空のように明るく澄んで眩い、死の海。
厚ぼったくて白い靴の先に目を落とすと、何かの、跡、がある。物理現象が描く規則的な軌跡ではなく。自己複製し、増殖し、成長する何か。フィボナッチ数列比で生成する系統分岐。形状を意味として読み取り、翻訳し、再構成する一連の運動。それが生み出す淡い雲のような迷宮から、おもむろに立ちのぼる、かすかな芳香。
それはたしかに君だった。いや、かつて君だったものが、世界の自律的運動のなかに一瞬だけ、何千年かぶりに再現したのだ。ぼくはその軌跡をいとおしくなぞってみる。指先の描く線はきみに寄り添い、恋がかなう前にこわれてしまわないように、ゆっくり、ゆっくりと延びていく。
やがて、長く入り組んだ線はぼくになり、誰もいない世界でふたりは暗号として結ばれる。
若者が飛び跳ねている。
老いた私は公園のベンチからずっと眺めていた。
酷く彼のことが羨しくなってしまった。
すぐに定期預金をくずして新しい脚を買った。
私の染みだらけの脚と交換したら、四半世紀ぶりに公園を全力疾走できた。
車を売ったお金で、両腕も交換した。
懸垂だって余裕。
家具などを売り払って、胴体も新しくした。
新鮮な胃にいくらでも飯が入る。
家も売った。最後に残された頭も入れ替えた。記憶はコピー&ペーストで新鮮な頭脳へ写す。惚け気味の思考が鮮明な活動を始める。
公園のベンチに残されたのは、残骸。
かつて人間だったもの。
老朽化した躯を残し、若く生まれ変わった私は公園内を駆け抜けた。
※
若者が飛び跳ねている。
老いた私は公園のベンチからずっと見ていた。
酷く彼が羨しくなってしまった。
泣こうとして泣けない。笑おうとして笑えない。話そうとして話せない。怒ろうとして怒れない。走ろうとして走れない。歩こうとして歩けない。はしゃごうとしてはしゃげない。叩こうとして叩けない。読もうとして読めない。聴こうとして聴けない。見ようとして見られない。ふれようとしてふれられない。なぞろうとしてなぞれない。食べようとして食べられない。眠ろうとして眠れない。起きようとして起きられない。楽しもうとして楽しめない。悲しもうとして悲しめない。忘れようとして忘れられない。かつて一度体験してしまったことだから忘れたくても忘れることができない。
なぜならおれには胃袋がないのだから、腹がへった、なんて思うのは勘違いも甚だしいことだ。
しかしたしかに腹がへったという気がするのは何もおれに限ったことではないらしく、何を隠そう隠しはしないが人の気配はないのにどことも知れぬところから腹の鳴るのがそこここと聞こえるのが何よりの証拠といえば証拠である気がする空耳かも知らんけども。
おれは、かんがえる葦である。
かんがえていたかいなかったか定かでなかった葦だったおれは、いつか人間となったもののやがてもう人間であるのかあやふやなジジイもジジイ化したか否か、どういう経緯であろう再び葦となりこのかんがえる葦であるところのおれが今ここにいるのであった。という記憶がなんとなくある。
なので、そこらの葦とは違うのだぜ。
と、ほかの葦らもかんがえているに違いないのは、おれだけがそのような体験をするよりは逆の方がむしろ道理だとかんがえられるからで、そうしたらもうあらゆるもの様々が同じ経緯をたどり人をかこみ人知れず今も何かかんがえているのだろうとかんがえるとある意味あれも人間これも人間けったいな世の中だこと、たいへんおかしなことですね、ほらまた腹が鳴りゃあがる。
ぐう。ぐう。ぐう。
高度な知能を有するマウスが発見され、知的生命体には人権をという感傷的な制度ができたのが発端だろう。数が少ない内は名誉人間として珍しがられていたけど、あれよあれよという間に知的マウスにも選挙権が認められ、被選挙権まで認められた。そしてとうとうマウスが政権を握るに至った。そうなると、自然人と法人としてのマウスというヒト目線から、自然鼠と法鼠としてのヒトというマウス目線の法設定になるのは当然だ。
シーソーゲームは続いており、いつ逆転するかわからないけど、柔軟な発想の出来るマウス政権の方が僕は好きだ。ヒト政権の時は企業法人と自然人が結婚できないのと同じで自然人とマウス法人は結婚できなかった。子供が出来ないからそれも一理あるけど結婚は繁殖のためだけにするんじゃない。結婚は愛の一形態だ。その点、自然鼠と法鼠の婚姻を認めているマウス政権は粋なことをする。
「どうしたの?」掌の上に載った妻は考え事をする僕を見上げている。
「この状態が続くといいなって考えてたのさ」
「ヒト政権になって婚姻制度が元に戻ることを怖れているのね」妻はくすりと笑った。「愛と制度は無関係じゃないの? あなたが鼠になっても私が人になっても本質は変わらないわ。あとは自分が何であるかという意識の問題だけじゃないの? まだ鼠になった自分に慣れていないのね。大丈夫。私もかつて一度は人間だったもの」
iPSは有り難い。
火傷の後の皮膚再生。
大怪我の傷口の再生。
……こんなものはちょろい。
すり減ってヘルニアになった腰の再生。
ころんで割れた歯の再生、ついでに抜けた歯も。
……感激だ。煎餅が噛めるぞ。
乱視も遠視も怖くない。
……眼鏡を探さなくてよくなった。
内臓も元気になった。
……なつかしの不養生、酒が甘い。
若い頃の弾力ある筋肉、そして運動神経。
……ふっふっふ。年齢詐称。
生殖細胞の活性化。
……おお、何十年ぶりだ。だが、子供はオレの子ってことになるのか?
かくて、皮膚、筋肉、骨、内臓、運動神経、五感が再生し、外見二十代、実年齢百三十歳の老科学者が次に取りかかったのは、脳神経細胞の再生だった。だが、これだけは困難を極めた。失敗を重ねるうちに彼の認知症は進み、ついには昨日書き留めたメモさえ理解できなくなった。
ロボット助手の協力を得て、ようやく最後の試作装置が完成した。成功の確率は五分と五分。定まらぬ意識の中、科学者は祈るような気持でスイッチを押した。
目覚めたとき、彼はぼんやりと呟いた。「オレハ、ダレダ?」
ロボットは、答えた。「やれやれ、これで三度目だよ」
宇宙戦争で地球は敗北した。
時に、西暦3017年。
私は銀河を離れた戦地から、超推進航法で恥ずかしながらも帰ってきた。
生きて必ず会おうという約束を果たすために。旅立つときに誓った、道路工事かっていうくらいに激しく深いキスが、私の戦う理由だった。
しかし、母星は過去を失うほど荒廃していた。文明は崩れ、大地は裂け、灰色の風が頬を撫でる。なにか凄謐な射精後の心象描写みたいだ。
しばらく歩くうち、侵略者に改造された私たちの末裔とすれ違った。眼窩に胎児を宿すとか、拡張した膣を頭から被るとか、ペニスの指で放尿するとか、全身が膿で出来てるとか、そんな奴ばかり。
ひときわ異形なのは、蛸の足みたいな髪で、犬を干からびるまで吸引している生物だ。
ビビった。だが私は、その髪から法悦に似た既視感も得ていた。
今じゃ似ても似つかない、一人の女の名を呼ぶ。彼女は、ぴくりと反応した。ヒョットコのような口で聞き取れない言語をしゃべる。
「£*§¢ξбж!!!」
それはきっと、私の名前だろう。
彼女は泣きじゃくりながら、私の肛門へ触手をもぐり込ませ、慈しむように体液をすべて吸った。
変わらない、激しく深いキスで。
クルクルと回転する円形の板には、様々な種類の生物の名前が書かれている。
ここは、とある地球外生命体のアジト。
アジトには地球が植民星として役に立つか調査に来ている調査団員達で犇めいている。
調査方法は数人の班単位で、地球のあらゆる生物に変身して、その集団に潜り込みフィールドワークで調査するという方法が採られていた。
より多面的な情報収集の為、調査員達は毎年担当を変えて、それぞれの班で持ち回りで調査報告する。
どの班がどの生物を担当するかは、先ほどの円板とクロスボウで決定する。
任期は1年で寿命が1年以上の生物に限定されるが、それでも円板には多くの生物の名前が記されている。
ソノレレは、調査に意義は感じるが、去年の担当生物に辟易していた。
「もうあんな生物は二度とやりたくない。」別の班員にそう漏らしていた。
しばらくすると、ソノレレ調査員の班の抽選になった。
固唾を飲むソノレレに見守られて、矢がクロスボウから放たれる。
ターン、乾いた音と共に円板に矢が突き刺さる。
矢は円板の「人間」の項目に刺さっていた。
ソノレレは思わず声をあげた。「うわぁー。最悪やんけ。去年と同じ人間やないか」