500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第76回:きみはいってしまうけれども


短さは蝶だ。短さは未来だ。

「明日の夕方には帰る」
出張に出掛ける夫。
「行ってらっしゃい」
出張がちな夫を、私は涙を堪え笑顔で見送る。
私は知っている。
本当はあの女の所へ行く事を。
夫は浮気している。
半年前の夜中、ふと目覚めると居間からの薄明かりと夫の声。
「俺も愛してる」
我が耳を疑った。
愛を囁く携帯の相手は誰。
それからの私は夫のすべてをチェックした。
携帯履歴に残る、私宛の愛してるメール。
その直後、同じメールをあの女にも。
言い様のない悲しみと怒り。
それでも別れるつもりはない。
私は夫を愛している。
ただの遊びと耐えてきた。
けれどそろそろ限界。
私は、どうすればいい。
悩んだ挙句、思いついた。
そして、それを実行した。
あれから数日後の出張の日。
いつもの様に夫はいってしまう。
けれども今日の私に涙はない。
最高の笑顔で見送る。
数分後、携帯に着信。
今家を出た もうすぐ行く
私は、クスリと笑いながら、
早く会いたい 待ってる
と返信した。
「でもね、本当はもう会えないの。だってあの女は」
携帯とストラップに付いている赤黒いシミ。
それを見つめながら、
「捨てなきゃね。もう用がないもの。だってこれからは出張がなくなるんだから」



 僕は今、公園のそばのカフェでキミからの手紙を読んでいる。カップを皿に戻すと、小窓の向こうにはあじさいが揺れていて、濡れた緑の葉の上にかたつむりが乗っているのが目に入る。僕は手紙を置いてキミのことを思う。
 カフェの片隅にある骨董品のようなスピーカーから、あのシャーデーの曲が流れてきたんだ。そう“Smooth Operator”が……。もう何年も前になってしまったね。キミがどうしても行きたいって、コンサートのチケットを手に入れてきた。正直、僕はシャーデーの名前なんてあの時まで知らなかった。アンコールで、会場は総立ちになったっけ。キミは、いきなり前のほうへ進み出て、ちょっとした広いところに立つと、体をしなやかに曲げて踊り始めた。まるでステージにいるシャーデーの影のように……。
 キミは来週アフリカへいってしまう。いったいボランティアで何をするんだい。遠いアフリカ大陸のどこかで熱風に長い髪をすくわれて、がんばっているキミの姿が早くも僕の胸に飛び込んでくる。僕が止めたって、いつもキミの決意はアフリカの熱風のように燃えてるんだから。ああ、僕の傍らじゃ、かたつむりがまだ1センチも動いていないってのに。



 強靭な音だ。生演奏とは思えないくらいびりびりと響いてくる。焼きついたようなしわがれた声がこぼれる。古い唄だ。哀しい唄。愛する女が死んだと報される男の唄。その演奏家は自らの激情をギターに叩きつける。
 文字通り“叩きつけ”ている。ギターが打楽器だとは知らなかった。
 左手はなめらかに動きフレットの上を自在にすべる。対して右手はボディめがけて武骨に暴れる。弦を切らないのが不思議なほどだ。さもなければ右手の方が切れて血が噴き出すかというほどだ。こっちが痛々しく感じるほどだ。やるせないほどに。
 そしてその音はこれまでに聴いたどんな音よりも強い。
 彼は懐から酒瓶を取り出してぐいと呷ると再びギターを構えた。曲は『Baby, Please Don't Go』。これも古い唄だ。
 先にも増して鬼気迫る演奏に胸がつまる。喉が渇く。そして焦げくさい臭いがした。彼の右手から火花が飛ぶ。ぷんと酒の臭い。彼の身体から火の手があがる。
 炎に包まれても彼は演奏を止めない。なお喉を振りしぼり唄う。動けない。皮膚が燻っている。
 唄が止んだ。
 彼は絶命していた。
 黒焦げの指から何かこぼれる。
 煤けたボトルネックだった。



薄暗い部屋。窓の外で雨音。机の上の手紙。添えられた言葉は、結局、短い。
流し台から水音。
電気のない部屋。静かに降る雨。小さな滴がやさしく叩く。包み込み、閉じこめるように、全部覆う。
流し台から水音。
霧がかった風景。何かがひっそり流されていく感覚が耳に貼り付く。鳴っているのかいないのか、分からなくなる。一人きりの部屋。
流し台から水音。
机の上の手紙。薄暗い天井。窓の外は雨。あまり静かで絶え間なく、何も降っていない気がする。全てが止まっているような錯覚を起こす。
霧がかった風景。
机の上の手紙。
繰り返す言葉。
一人きりの部屋。
繰り返す言葉。
灯りのない部屋。
くりかえす言葉。
机の上の手紙。
くりかえすことば。
降っているのか、いないのか分からなくなる。
霧がかった風景。窓の外は薄暗い。机の上の手紙。添えられた言葉は短い。
誰もいなくなった部屋。
いつか変わる景色。
机の上の手紙。
流し台から水音。



痛いほど
かじかんだ指先に君のぬくもりが触れる。
傍らで微笑む君が余りに遠く思えて、僕はただ歯を食いしばった。
「もう逢えないね」
「うん仕方ないね」

そっと返された踵がすでにめそめそ泣いている。

見放せなくてぼんやり後姿を辿っていた。
黄昏に紛れそうな背中。
もはや君が君であることしか判らない。遠い。
それでも、確かに判ったのは、
君の頬を伝うあたたかなぬくもりが、僕の目頭を熱くしているっていうこと。

僕は出逢ったあの頃よりも、ずっと君を覚えたよ。
ねえ、僕も、少しだけ泣くよ。

きみはいってしまうけれども


それからはひとりで

ひとりで考えるよ。



 きみの向けた矢の先は、まんまるの月だった。
「届かないよ」
とぼくはいうけれど、きみには聞こえていない。
 月に帰ったきみのお姫さまから、ぼくたちの姿は見えているのだろうか。見えていたとしても、愚かな男と笑っているに違いない。
「止せよ」
 違う世界の人なんだからと続けようとしてやめた。もう散々いわれたことだろうから。
 ふいにきみは矢を上から下へに向け変えた。水面に映る満月。
 きみはいってしまうけれども、ゆらりと揺れるだけだよ……。



きみちゃんとは大の仲良しだ。
ボッボクは体内の熱を大きな口のラジエターで冷却し、汗の変わりにヨダレを垂らす。
そんなボクをきみちゃんはいつも抱きしめてくれる。
きみちゃんの顔が近づくと本能的に顔を舐めてしまう。
嫌がりながらもボクが満足するまで顔をドロドロにする。
そんなきみちゃんがある日から急に色っぽくなった。
ボクは今まで意識してもいなかった。だから、きみちゃんに近づけなかった。
きみちゃんはそんなボクを寂しそうに見つめる。
でもその眼差しすらボクには毒のように心臓を苦しめた。
ボクときみちゃんの距離はどんどん離れていき、いつしかきみちゃんはボクの視線から消えてしまった。
そしてボクも冬を迎えた。老衰しきった目蓋もそろそろ閉店だな。
でも心は妙に晴々している。きっと『虫の知らせ』の性だろう。
さようなら、きみちゃん。また会えるよね。
ボッボクは・・・・・・・・・Zzzz。



 ペンシル型のロケットに乗り込んだきみは、丸窓から私に手を振り「さよなら」の形で唇を動かした。三十からのカウントダウンを経て、きみのロケットは真っ青な空へ飛び立っていく。白煙がもくもくと視野を濁し、やがてすっかり晴れた空に、きみはもういない。さよなら、ときみと同じ唇の動きを繰り返してみて、私は空の高さを思い知る。小高い緑の丘と澄んだ青の空と場違いなコンクリートの発射台と、もうどこにも行けない私。物語が終わってしまった。もう次のページは捲れない。
 そんな夢を見た日の目覚めは、胸のぽっかり空いた穴に朝の静謐さがとろとろと溢れて切なくなる。朝陽はカーテン越しでさえ眩しい。ぎゅっとシーツを掻き抱いていると部屋の外から、チン、とトースターの鳴る音、直後に「あちっ!」と悲鳴、それからどんがらがっしゃんと食器が喜劇を歌う。ダイニングを覗いてみると、エプロン姿のきみが途方に暮れていて、私と目が合うとあいまいな笑みを浮かべている。ばかね、と苦笑して、私ときみの二人で、一緒に割れた食器を片付ける。おかえりなさい。呆けたきみの顔は無垢な犬みたいだね。額にキスをしてあげよう。



友人の奇行は周りの噂になっていた。
きみは普段は大人しくしているのに、突然、初対面の女の子に
「すきだ」と告白したり、大通りで「かじだ」と叫んだり、コンビニのレジで
「かねをだせ」と店員を脅した時にはさすがに参ったが、友人は
自分でもわからないけれど何故か言ってしまうんだと泣いていた。
一緒にいる時に騒ぎを起こすことが多いので、私に対する嫌がらせ
なのかもしれない。きみは焦る私の姿を見て笑っているのだろう。
あの時のように。

ある日、寝ていた友人が大きなあくびをした。
ふと、直感的なものを感じ口の中を覗きこむと、そこにいたんだ。きみが。
その小さな眼をあけなかったら、私は見過ごしていただろうに。
視線があうと「しゃべったらころす」とにぃと笑った。
「人面……」
私は最後まで言葉にすることができず、そのまますべてを飲み込んだ。

そして今日も悩める友人の動かない口唇から、きみのこえが聞こえる。



いらっしゃいませ。
はい。
え。
アレルギーですか。
はい。
カスタードプリン。
それは、、、入ってますねぇ。
大丈夫なのと、そうじゃないのがある。
う〜ん。どうでしょう。
どのようなもので、とかの区別って。
あ、はい。
分からない。
それは私も分かりかねますね。
・・・えー。そうですね。
これは私の想像なのですけれども、プリンでアレルギー反応が出るものと出ないものがある、ということは、全卵か卵黄のみかの違いではないかと。
はい。
でしたら、当店のものは卵白は取り除いて黄身だけを使用しておりますので。
はい。ええ。はい。
え。はい。お二つで。
ありがとうございます。



  小学三年生の夏休みだ。僕はロックスターに会った。ロックスターは路地裏で、ボロボロのジーパンと革ジャンを着て、エレキギターと小さなアンプを抱えてうずくまっていた。僕が見つめていることに気がついた彼は、虚ろな目をして、少し頼みがあると、話しかけてきた。ロックスターは見るからに小汚い格好だったから、てっきりお金を要求されると思ったが、彼は意外なことを言った。アンプの充電が切れてしまったから、充電させてくれと言うのだ。僕は、ボロボロの彼が可愛そうだと思い家に連れて行きアンプを充電させてあげた。僕の家は両親が共働きだったから家には、彼と自分しか居なかった。今思うと危ないことだ。ロックスターはアンプの充電が終わるまで一言も喋らず、ソファーに仰向けで倒れていた。暫くして充電が終わるとロックスターはムクリと立ち上がり、ギターをアンプに繋ぎ、ロックを引き出した。それは、僕が今までに一度も聞いたことのない、爆弾みたいな音楽だった。ロックスターの体はガリガリだったけど本当に力強い音で格好良かった。演奏を終える彼は礼の一言わずにテーブルの上のバナナとアンプとギターを抱えて行ってしまった。夢のような一日だった。



 あなたがうまれたということはパパもママもわすれないからね。



 干しブドウをさらに圧し縮めたようにしわくちゃな顔が、半ばバターになりかけたミルクの海に浮かんでいる。
 その顔を認めた男がミルクの海に飛び込んで、だばだばと半発酵乳をかき分けて進む。
 皺に埋もれて目鼻がどこにあるのかわからない顔は、自分を見おろす男に気付いて、裂け目としてはっきり認識できる口を開く。
「おお、マナビト。君は機の熟したれど旅に出なかったマナベナの話を知っておるかね」
 マナビトと呼ばれた男は首を振る。
「そうか」
 顔はミルクの海に沈んでいく。
 マナビトはミルクの海に手を差し入れて顔を掬い上げる。とるんと粘ったミルクから出てきた顔は頭だけで首から下がない。
「おや、マナビトか。君は機の熟さぬうちに旅に出てしまったマナベナの話を知っておるかね」
 顔は甲高い声で今初めてマナビトに気付いたように尋ねる。
 マナビトはまた静かに首を振る。
「そうか」
 顔はマナビトの手からこぼれ落ちる。それは如何にも自発的な動きだ。こぼれ落ちた顔は乳海に没入する。
「ああ。マナベナ」マナビトはもう掬っても無駄だと悟り、途方に暮れたような表情で、ミルクの海に突っ立っている。



 夜の砂漠は満天の星で明るい。
 踝まで水が張った石造りの街にきみはいつも一人立っている。生きた女性が石化したように精巧だ。星明かりの中、石の長髪や肌が映える。
 キスを。
 と寄ると、姿を消す。どこかにある排水口に水が引き始め、きみも街も水と一緒に引きずられ小さくなりながら吸いこまれるのだ。
 夜はいつも明るい。
 砂漠を彷徨っていると、やがてまたオアシスの街にたどり着く。昼間にたどり着けないのは蜃気楼のせい。孤独な住人たるきみは、いつもの場所にいつもの格好。
 きみは、美しい。空とそれを鏡のように映す足元の星明かりの中、神秘的だ。瞳は、何かを求め焦れている。見とれているとキスしたくなる。
 ゆっくり、ゆっくりと唇を近付けた。まだ水は引かない。
 あとは目蓋をそっと閉じれば触れてしまう所まで近付いたところで、だっと走った。
 水が引き始めたのだ。急げ。排水口の場所は分かる。きみと別れたくない。わが身を栓とせん。
 その場所に立ったとき、きみはつんのめった。長髪と服がなびく。私の方を見るとぺこりと一礼し立ち去った。肌が、瑞々しかった。
 私は、どうしたわけか動けない。空と水の星明かりの中、私は、それでも。



突風のような勢いで来て、真夏の夜のような早さでいってしまうけれども
君がいってしまった後には、甘さとすっぱさと苦さが激しく絡まりあって出来る路がある。
その路は次への幸せへと続いているんだ。

僕は、そう願わずにはいられないんだ。



ゆらゆらと。
長いかげがゆらめいた。それは涙のせいだ。
きみがふいにそんなことを言うから。そしてそのままいなくなろうとするから。
おぼえてる? わたしなんだよ、あの時のあの手紙は。
がらにもなく、ペイネのイラストのレターセットなんか買ってさ。ばかみたい。
いま思い出すとわらえる。
でもね。あのころの思いが、こんなかたちで終点をむかえるなんて、考えてもみなかった。
うれしいと言えばいいのか、ひどいよと言えばいいのか、ありがとうと言えばいいのか、ばかと言えばいいのか。
でもいいや。いいんだ。いいことにしよう。
かわってないよ。ほんとはね。大好きなんだ。
ああもう、このまま一生独身決定だよ。
わたしはここで、仕事がんばるから。
どこかでかつやく耳にしたら、メールくらいはちょうだいね。
と、ゆれるかげ見ておもってみる。
ほんと、わたしもひとりでがんばるよ。



モディリアーニの絵葉書が届いたのは、いつのことだったか。9年も連絡がなく…、そう、9年も! そして、昨日今日の気紛れ、とでもいうように、きみはわたしに絵葉書をよこしたのだったね。ようやく完璧な彫像をつくることができた、是非見に来てほしい、と。聞いたこともない土地の名前と簡素な地図を右下に添えてね。きみは大学にいる頃から、人間の完璧な彫像を制作したいんだ、と日々没頭していた。美しい、あまりに美しい彫像の数々を、わたしはよく憶えているよ。美しく、非の打ち所のない、完璧にみえる彫像に、けれどもきみは、満足しなかった。わたしたちは、きみがなにを求めているのか、首を捻ったものだったよ。そして、あの夏の日の突然の失踪。あれから9年。わたしはきみには及ばずともそれなりの美しい彫像を創る作家として、幾許かの名声を手に入れていた。きみ名を聞くことはなかったけれども、さぞ鍛錬を積んだことだろう、なんだか落ち着かぬおもいできみの指定した日を待ち焦がれた。
わたしを迎えたきみは、大学時代のままのようにも、老人のようにもみえた。薄暗い倉庫ーーーーアトリエ、ときみは呼んだけれどもーーーー、埃に噎せていると、それが合図ででもあったかのように、風を孕んだカーテンが捲れあがり、視界が白んだ。さあ、見てくれ! 完璧な彫像だ! そこにあったのは、…ああ、なんといったらいいか、あまりにも酷い、プリミティブアートでもない、もっと醜怪な、見るも無惨にあらゆるが崩壊した、見たこともなければ想像すらできない、もはや人間の彫像などではない、「なにか」だった。わたしの戸惑いを気にも留めず、きみは肺病患者の笑顔を湛え漂っていたね。わたしたちはそこで悲劇的な珈琲を飲み、わたしはできるだけあの彫像から目を逸らし、早々にお暇することにした。また近くに来ることがあればーーーーいったい誰がこんなところに再び来るというのだ? ーーーー寄ってくれ、きみはそう言ったね。わたしは時折夢を見るよ。きみがあの彫像たちと語らい、踊り、愛で合うさまを。そして気づけば、きみもあれらの一体になっている。汗にまみれてわたしは目を醒ます。傍らにある自分の創った彫像を見る。そんなとき、おもうんだ。果たしてわたしの求めている完璧とはなにか、きみの到達した完璧とはほんとうに頽廃でしかないのか。そしてわたしは、名のない町、あの倉庫で、暗い芸術の花がまたひとつ開く、その音の響きを知るんだ。



「わたしねぇ。もう地球の男に飽きちゃったのよ」
 深夜、姉はパジャマ姿のまま、僕の部屋にやって来て、そう言い放った。
「この星から脱出するつもりよ。止めないでね」
 姉は、昔から思ったことは、すぐに行動に移す性分で、誰が何を言っても聞く耳を持たないことくらい二十数年、姉弟をやっている僕は承知していた。
「止めやしないけどさぁ……でも」
「でも、何よ?」
「父ちゃんと母ちゃんが悲しむぜ」
「地球規模で考えるから、そうなるのよ。同じ宇宙の何処かで、わたしはちゃんと幸せに暮らしている、そう思ってほしいの。異星人と結婚して赤ちゃんだって産むわ。その時は、地球に里帰りだってする。だから、それまであんたが、父ちゃんと母ちゃんを守るのよ」
 そう言うなり、姉は自室に戻って、机の前に置いてある回転椅子ロケットに腰をかけた。そして、椅子に備えつけられているスイッチを押したかと思うと、ゴゴゴゴゴという爆音と共に白煙を吐き出しながら家の屋根を突き破って、群青色の夜空に消えていった。
 姉が壊していった屋根の穴からは、無数の星が瞬いている。あの、何処かに姉が求めている幸せがあるのだろうか。
 いや、きっとあるに違いない。



 ナンバー46は捨てられないものの研究をしていた。
 全てのゴミを調べ、コンビニ弁当の箱、空き缶、釣り道具、ポイントカード、軍手、レシート、ふたがなくてカチカチになったスティックのり、ぬいぐるみ、試供品、年賀状、衣服、教科書、ゴミ箱等が捨てられることをつきとめた。
 高価なものが捨てられないわけではないことも発見した。銀色の指輪を始めとして、貴金属も多く捨てられていた。
 人を含む動物も例外ではなかった。
 さらにナンバー46はアンケート調査から、具体的な物ではなくとも捨てられることを明らかにした。肩書き、名声、時間、名前、戸籍、記憶、信条、自我その他はよくドブに落ちていた。
 結局のところ、誰にも捨てられないものはなかった。誰しも、いるもの以外はいらないのだった。
 ナンバー46は、特定の個人が特定の何か(誰か)を捨てられない理由の研究を、ナンバー47に依頼した。



ぼくはわすれないよ、いつまでだって。(「おはよう」っていう言葉は凡庸?)
でもやっぱり、もどって……くるん、だよね?(疑いの姿勢)
朝顔が花を閉じるように。(それが時間というもので)
あたしはまだちょっといってないんだけれどね。(横たわったままモノローグ)
続けてもう一人来るのなら、きみに渡したその箱は開けられないで済むのかしら?(浦島太郎に意地の悪いお隣さんはいたのか)
すてきなステップだったけど、どんな子だったか思い出せないなー、ま、ガラスの靴あるんだから大丈夫か。(登場人物の心情を推し量る問題五の選択肢B)
最後の丘で昼寝して結局は僕に追い抜かれることになってるんだ、残念だね。(「本当に残念な昔話」より、亀から兎へ)
きみのこどもが戻ってくるのをご飯を炊いて待ってる!(清流の岸辺より、私から鰻へ)
半日後に会おう、太陽よ。(天動説)
半日後にたぶん会えない。(地動説だけど相対性理論?かつ降水確率が70%)
香りがよくなるのはわかるんだよそれでも……。(私は生なゴマがすき)
蓋をせずにそんな所にしまったら湿気るだろう。(きみは湿気たゴマがすき?)
わたしはオムレツが食べたいんだって、昨日も言ったよな?(形が大事)
次にボウルに残された白身を泡立て、メレンゲを作ります。(うまく作れるかな?)
次にボウルにちょっと留まってしまった黄身入りの白身を泡立て、メレンゲを作ります。(うまく作れるかな?)
お前の弟はしかけてしまうようだね。(手に負えない兄弟げんか「吹き矢vs罠」)
私もいってしまおう。「五百文字も過ぎたし、(それではさようなら)」



(上司モノローグ)
 き みょうというか
きみ がわるいというべきか
みは なした おまえなんか。
ハイ テクとはいえ
いっ こうに うだつのあがらない会社なんかに何故?
って 疑問に思ったこともあったが
てし おにかけたさ 俺なりに
しま つ書を前にして
まう んどから降りる投手のように
うけ とりを拒否された荷物のように
けれ んも何もない俺のまごころが
れーど の気温なみに冷え切った。
どーも ならん
もー いやだ!

(部下モノローグ)
 き っと
きみ つを守ると思ったのだろう。
みは っぴょうの
ハイ ツ構想を書いた
いっ つうの書類が
つて たよりに
てし たから送られた時、
しま ったと思った。
ま、う ったら億クラスの書類だ。
うけ おってこそ 報酬も大き
けれ
れっど ランプが点滅だ
ども りながら言い訳する
もー 逃げるかな



 もちろん君は俺がそんなゲームを仕掛けていることなんて知らない。なにしろこれは復讐なので。
 俺の親友という名の想い人が、突然事故で逝ったのは、5年前のことだ。
 彼女が出来ても、のろける相手なんて俺くらいしかいないような、シャイでおとなしい男だった。君の話をする時は、いつも幸せそうにはにかんでいたので、俺は奴がタチの悪い結婚詐欺に引っかかって借金まみれだったとは、想像だにしていなかった。
 許容を越えた怒りと悲しみと後悔は、人を底までつき落とした後に、奇妙な悟りへ導く。
 2年前、君に偶然出会った時、俺はあまりにおかしくて、つい、とびきりの笑顔を浮かべてしまった。今更。死んだ人間が戻るわけでもあるまいに。
 だからこのゲームはほんの少しだけ、君にもやさしい。
 さぁ、昔のアルバムをめくって、素知らぬ顔で思い出話をしよう。あくまで不幸な事故で亡くなった親友の話を。 
 君は気の毒そうに眉を寄せ、けれど背筋の緊張がほんの少しゆるむ。
 ルールは簡単だ。俺が決めたいくつかのキーワードを口にしなければ、君の逃げ切り。



 僕は見送るだけだった。
 何せ君は虎鈴屋。僕は滞在屋。
 一緒に居られる時間なんてほんの僅か。
 虎鈴ってのはトラベルの当て字で、センス最悪の名前だけど君が気に入ってるんだからしょうがない。
 今回の君の仕事は
 『田舎の婆ちゃんちで夏休みを過ごしてきて』
 HN.都会っ子(14)から。
 感想レポート提出期限は九月一日必着。
 君のことだから皆が羨む冒険譚を書き上げるだろう。

 僕もこれから長い長い仕事に就く。
 『火星仮設個人基地にて引き籠れ。一年間』
 NASA製ロケットに積み込まれ、ハウスキーパーとしての契約まで結んじゃった。

 お互い、いつの時代も職を失わずに済みそうでなによりです。
 バイバイ。



いつからか紅い糸が見えるようになった。
繋がっている二人がともに友人だったりすると、陰日向に立ち回って近づけてみた。例外なくうまくいった。だから、自分の糸がきみに繋がっているのを発見したときには迷わず告白したのだ。にべもなく振られた。すぐに噂になって、壁村はきみのことを「やめとき、外見だけやで」と言うのだが、ぼくの心を囚えているのははきみの、内側で燃える芯のようなものなんだ。いつか伝わるさ。ぼくは紅い糸を信じる。

ある日気がつくと糸は張りを失い地べたを這っていた。きみが死んでしまったのかと思った。すぐに確かめる勇気がなくて、翌日登校するときみは来ていなくて、ぼくは倒れそうになったが、品川先生によると病欠ということだった。

やつれたきみが登校してきたときにはほっとしたけど、体育を休んで膝を抱えている蒼白な横顔を見てもぼくの胸は高鳴らない。きみはいない。糸はもう彼女に繋がっていない。どこか遠くて暗いところに伸びていた。伸び続けていた。蛍の飛跡のように。
彼女は、内緒で子供を堕ろしたという噂を聞いた。

深夜ぼくは長旅の準備をし、糸を手繰り出発する。置手紙が難しかった。



 きづかないふりのメール。電話のむこうのしずかさ。ドアのまえで逡巡するおと。会話のすきま。ふるえをけした声。なみだをみせなくなった顔。とおくのせなか。
 あのときだったね、一人だった二人が、よりそいはじめたのは。
 いつだったっけね、一緒にいれないこと、ふたりできめたのは。
 現実は興醒めで、浪漫チシズムは御間抜けで、感情論は閉塞的で、幸せは嗤うものだって、何時もテレビで云っているけど、そんなことに、まけてしまったのかな。
 それともあなたが、幼すぎて、リアリストすぎて、わたしが優柔不断すぎて、割り切りすぎた、からかな。
 郊外電車が、駅にはいる。
 きみの乗ってしまったのは、それよりもっと、とおくへいった。
 終着駅へついてしまったかのような虚ろさが骨につまっているけれども、アナウンスにまぎれたはじまりの序曲に、皮膚はちりりとしている。



屋敷の大広間で、五人の男女が死体を囲んでいる。死者の横に記された赤い文字を覗き込み、「このメッセージには犯人を示す意図が隠されていると考えられる」と、官能小説家の迅巌 骰涼(じんがん さいりょう)は探偵口調で言った。
「それを解くために、まず意味が多様化してしまう平仮名をこう変換する。“キミは行ってしまうけれども”。離ればなれになっていく男女の心情を表していると言えましょう。——時に霧華さん、あなたは被害者との婚約を破棄して名のある実業家に嫁ぐことになっていた。殺人は過去の清算のため……」「なっ、私じゃありませんわ!出鱈目を言わないで頂戴。この遺言はこう解釈するのが正しいはずよ。“君、歯鋳ってしまうけれども”。これが意味するものは歯の鋳造。つまり、前歯を四本も金歯にしている二階堂さん、あなたが犯人です」「待て、こじつけだ!それなら、こうも解読できる。“公は炒ってしまうけれども”。こいつの“公”は上下をわけて“ハム”と読む。さて、森さん。あなたは火を通さない食物が苦手で、引出物の生ハムすら炒めてしまうんですよぉ(笑)とおっしゃっていた。されば、犯人が誰か、もうおわかりだろう?」「いやいやいや!そんな強引な……。あっ!よく見るとこれ、“い”じゃなくて濁点じゃないでしょうか。すると、“きみばってしまうけれども”となりますね。ふっ、レベッカさん。あなたはイギリス人と日本人のハーフ
だ。コーカソイドに黄色人種の血が混ざる、要するに“黄みばってしまうけれども”となり、メッセージは貴女の犯行を告発しています!」「バ、バカなこと言わないで。そんな理論、私の美白が身の潔白を証明しているわ。私が思うに、これは一度英語に訳すべきね。“君入って”は“your come in”、“しまう”は“close”、“けれども”は“but”。これらのアルファベットをアナグラムで組み立てると、“untime”“tor”“cube”“cool”の単語が拾えるわ。untime=時期が早い・早と類義の漢字である迅、tor=岩山・岩の正字は巌、cube=サイコロ・骰、cool=涼しい・涼。これらの文字を組み合わせると、迅巌骰涼先生、あなたの名前になるのは偶然?」「あ、当たり前だ。ワシは殺しなんてしていない。君が殺ったんだろう!」「いや、あなたがやったのよ!」「断じて!犯人は貴女だ!!」「お前だぁ!」「ガヤガヤ」「ワイワイ」「……」「…」




翌日、朝刊の三面に、金銭のトラブルから殺人を犯した『キミハ・イッテシマウケ・レドモー(28)』というミャンマー人の記事が載った。



 僕は知っている。君の野菜嫌いを。
 僕は知っている。君は薬に頼っていたことを。
 僕は知っている。君が入っていたのに、やっぱり臭わないことを。
 僕は知っている。君がしまう場所を。無花果の形したアレをしまう場所を。
 僕は知っているから、恥じらいはわかるけれども、君はそんなこと隠さなくていいんだよ。



 だからといってわたしも一緒に行くとは限らないのだ、もちろん。

「やっぱり無理だ。わかれよう」
 思わず送った、たった一行のメール。返事が来たのはたっぷり一日たってからだった。
「わかった」

 その五時間後に、なぜかわたしは大阪の地に降り立っているのである。
 会社には風邪を引いたと伝えた。
 以前訊いた住所を頼りに、歩き回ること数時間。夜遅くにわたしはついにそのアパートを見つける。
 チャイム。考えもせずに押してしまう。
 そしてドアが静かに開く。

 朝日を受けて目が覚める。
 会社に電話。「まだ体調が優れません」
 数分後には、彼も電話をしている。「ええ、風邪を引いてしまいまして」
 見つめあったわたしたちはくすりと笑う。
 さて、今日は何をしよう。

 わたしが一緒に行かなかったからといって、そんなことは全然重要じゃないのだ。



   自殺志願者の皆さんへ、お願い
1.通勤電車に飛び込むのはやめましょう。多くの人の迷惑になります。朝夕のラッシュ時は避け、復旧にかかる時間的な余裕を見積もって行動しましょう。新幹線は速度がありすぎて危険です。死体も細かく砕けすぎるので回収しきれません。避けましょう。

2.ビルから飛び降りるときは下に人がいないかよく確かめてから飛び降りましょう。無関係な人間を巻き込むのはとても恥ずかしいことです。

3.硫化水素を発生させる際には、まわりに人家のない空き地や山中で行い、車やビニール袋で密閉状態を作るようにしましょう。人家がないからといって地下鉄で行うとオウム真理教の二の舞になります。冗談でもやってはいけません。

4.いじめが原因で自殺するときは必ずいじめた人間を始末しましょう。人をいじめるような人間は絶対に更正しないので生かしておくだけ時間の無駄です。現世にゴミを残してはいけません。人は死んでも恥は生き残ります。殺人は罪ですが恥ではありません。きっちり落とし前をつけて逝きましょう。

5.人間の価値を決めるのは行為とその結果です。責任ある行動を心がけましょう。



きみは、きっといってしまうんだろうなぁ。
今何年生なんだろうか。そんな事もわからないから、毎年春が怖かった。
朝同じバスに乗るようになってから、今年で三年目になる。
最寄りのバス停が同じ以外、何の繋がりも無い僕らだけれど、その関係が妙に気に入っていたんだ。
きみは制服に身を包んで、今年で卒業するのかな。

朝も早かったから、僕に寄りかかってくる時もあったんだ。男なら、みんな嬉しいって思うことじゃないか。
僕にしか見せないような笑顔で、おはよう。そんなことくらい、考えたっていいじゃないか。
雨の日は、同じ傘に入って、少しだけ顔が近くなって、ドキドキして。妄想の中くらい、きみと仲良しだっていいじゃない。
この、僕にとって特別な時間のバスに間に合うために、目覚ましをたくさん買ってたっていいじゃない。
今日は、三月七日なんだもん。

僕の見たかった色んな顔を、きみは、きみの一番大切な人に見せるんだろうなぁ。
そんなこと思うとちょっと悔しくなっちゃうけど、きみは知らないことだ。
きみにとって、なんでもなかった日が終わって、新しい何でもない日々が始まるだろう。
僕の気持ちは顔も見せずに、やっぱりきみは、いってしまうんだろうな。



 この家を出て行くと聞いて、靴を隠したり夜中に物音を立てて騒いだりしたことは謝る。けれど僕のことを分かってくれるのは君だけだから。
 昔はよく二人だけでかくれんぼをしたね。どんなに上手く気配を消しても君は絶対に僕のことを見つけてくれる。そのことを当然のように思っていたけれど、いつの間にか君はそんな遊びをする年じゃなくなった。僕だけがずっとあの頃のままで。
 今までになく寂しそうな顔を見て、それでも往生際の悪い抵抗を試みたけれど、もう無駄みたいだ。だったらせめて伝えたいことがある。
 僕は君みたいに喋れないから、いつもの手段をとることにしよう。壊れたおもちゃのピアノ。それをぎこちないリズムで鳴らす。
「き・み・は・い・って・し・ま・う・け・れ・ど・も—」
 君との間でならそれで通じるはずなのに、どうしてか今日に限って一番言いたい言葉に使う音が出ない。長い年月の間に劣化した弦が切れてしまったのだろうか。それとも一昨日八つ当たりしたせいか。
 僕の最後の言葉を待たずに、君は無理やり笑ってさよならを言ってしまう。



 花車な腕、白い骨の覗く断面はまだ塞がりきっておらず生々しく美しい。
「毎日可愛がってくれたら嬉しいわ」と君は言った。「私の忘れ形見」
 壇上のギロチンに頸をかけられた君を好奇の眼差しで見つめる観衆は数知れないが、その言葉が誰あろう僕に向けられていることに間違いはない。僕は君と手を繋いで、今しも君が処刑されるのを見守っている。
 夜に紛れて逃げようと僕は言った、けれども君は聞かなかった。「罪と罰は呼応しなければならないわ」
 まんじりともせず、僕は哭きに哭いた。翌朝君は僕に片腕を差しだした。君の手の甲には雀頭色の小さなほくろがあって、それが可愛らしいと前に褒めた。君はとても恥ずかしそうに笑い、その手でシーツを引き寄せると裸の胸を蔽った。
 差しだされた腕は濃い血のにおいに包まれ、君の顔は青白かった。けれどもかつてないほどに神々しかった。
「心配することは何もないのよ。すべてはあなたしだい」
 ギロチンの刃が振り下ろされ、君の頸が宙に舞う。



 首位チームの優勝マジックは五を切ったが、俺たちは景気のいい話から見離されてる。監督やフロントはこの試合じゃなくて、来年のチーム編成や契約更改の査定を見てる。
 キャッチボールをしながら、俺はブルペンの向こう、マウンドに視線を遣る。
 彼は俺より六歳年上だ。ドラフト上位でプロ入りしたものの、なかなか芽が出ず、セットアッパーとして開花したのが遅すぎた。既に一度他球団で戦力外通告を受け、テストを経てうちに入団した。中継ぎ同士、ブルペンでシュートの握りを教えてもらったり、他愛のない雑談で盛り上がったりした。
 今年は思う通りのピッチングができず、球団が今日をラストチャンスと見ていることは俺も感じてた。
 遊び球を交えつつツーストライクに追い詰めて、決め球のスライダーを投じる。しかし相手の四番打者はバットを鋭く振りきり、ボールはレフトスタンドへ消えた。
 内線電話を切ったコーチが俺の名を呼んだ。ピッチャー交代。重苦しい気持ちでマウンドに上がると、彼は微笑んでいた。するべきことを成し遂げた人の表情だった。
 現役を引退した後も野球に係る仕事に携われる人はほんの一部だ。俺に硬球を渡してベンチへ戻る人の背筋は潔かった。