まぶしくて、まぶしくて。
目を開けることもままならないほど眩しい。
まぶしすぎる世界は、闇の世界と一緒。
何も見えない世界の中で、
私を導いてくれる。
手、声。
それがあったなら、ソレは神の手に違いない。
現実には触れることのない、手。
聴くことのできない、声。
タカタタカタと銃を連射する音が、さして響きもせず鳴り途切れ、途切れてはまた鳴る。
タッタカタカタ、タカタッタ。
むかしむかし町内の児童マーチングバンドが、ちまい隊列を組んで通ったことを思い出す。それから手押し車に手をかけひこひこ歩くばあさん。雨宿りの女学生。走りまわる男子たち。さびれた本屋。いかにもな不良少年。おじさんこの大根安くならないかしら。
タタタタタタタカタ。
映画館に行くにはここ、銭湯ならそこの通りを入る。まずいと評判のラーメン屋の店じまいは覚えているが、この音のはじまりはいつだったか。
タカタタタカッタタカタッタ。
あっちの端のお稲荷さんが銃撃されたのはかなしい事件だった。
タタッタタタッタ、タタッタッタ。
なんでこんなになっちゃったのか。
タカッタ、タタカッタ。
考えてもしょうのないことだけど。
タカタ。
タカタ君とあの子の相合い傘はまだ残っている。
タ。
何かがすっ飛ぶような音がして、彼らの上の天井が僕といっしょにぐわんぐわんと崩れなんもかもを潰す。
ちんどんやの、ぷえんと鳴らす音の思い出が頭に響く。
タタン。
破けた天井からはじめて空を見た。
さばさばした気分で僕の息の根は銀天街といっしょに止まる。
噴水がある石畳の広場や通りを石の建物が囲む。田舎の小さな街だが、不思議と都のように整っている。上空には厚い雲。重く垂れ込み、街を闇に包んでいる。
街は、常に暗い。朝も、昼も。
突然、ターンと銃声が響いた。馬のいななきが続く。
音はすべて、建物の中から。ぐるりと街のすべての建物から響いているのだから厚みと奥行きがある。
やがて、軽快で躍動感あふれる音楽が鳴りはじめた。
ヒヒーン、パンパン、パーン。
同時に、街の中心にある広場の噴水から一条の光が天に向かって放たれた。厚い雲に疾駆する幌馬車とそれを追う盗賊団の騎馬の群れが映る。
住民は皆、外で空を見上げている。瞬きも身じろぎもせずに。
光条の元が一つの目玉であることを、住民達は知らない。噴水の水が少ししょっぱいことも、当然。
住民は皆、肛門から口まで鋭い刺のような一本木にそれぞれ貫かれたまま銀幕を見上げているのだから。幹は石畳を破っている。
林立する座席に、空きはない。
折りしも訪れた旅人もまた、口を開けて天を仰いだ瞬間血しぶきを上げ着席することとなった。
満員御礼神話。
目玉はやがてSFモノを投影する。遠い眼差しに、気付く者はいない。
この街の年間の交通事故数は同程度の人口を有する他地域より有意に少ない。
全住民の宝くじ当選金額の合計を人口で割った値は世界4位だ。
80歳以上のメンバーで構成されている野球チームがある。
美しい夜空百景に入っている。
そして、この街で親切に出あう確率は多分、他より2割は高いはず。音の聞こえない僕はこの街でそう実感した。
この街には神様がいると思う。天地を創造するような神様ではないけれど、力は弱くとも優しくみんなを見守っている、そんな神様に違いない。証拠となるちょっとした奇跡を集めていると、いつかそこに姿が見える、そんな気がして僕はいつも小さな奇跡を探していた。
でも、あの「死のサイレン」が現れてから、大好きなこの街は侵されていった。街の人々がその音を耳にして、どんどん斃れていったのだ。耳を塞いでも体から振動が伝わり、結局鼓膜も振動してしまう。みんな、この街には神はいないと絶望している。
しかし、死のサイレンは僕には無効だ。あれを毀すのはこの僕だ。このために神様はこの街に僕を置いたんだ。
奇跡はある。僕は今なお鳴り響く死のサイレンを求めて、無音の街を突き進む。
商店街の真ん中で、人の尻にシールを貼り付けて廻る少女が言った。
「君たちは選ばれた戦士よ」
君たちというのは、僕と、禿げた中年男と、金髪の不良と、本屋の店員らしき眼鏡っ娘。みんなの尻には、割れた卵みたいなシール。かなりテキトーな人選だと思う。
はぁ、なに言ってんのこのガキとか笑っている不良を、女の子は無視。水鉄砲並みのちゃちな銃を配って、「これで神様を倒しなさい」
不良、抱腹。中年も、「お嬢ちゃん、お家はどこかな」なんて頭を撫でてる。
僕も呆れた。空想から、現実に戻れないバーチャルの弊害。さぁ帰ろ、と自転車の鍵をはずしていたら。
赤。光線。それが不良の腰を貫いて、横切った。途端、上・下半身がズルズルとずれていって、そのままどさり。
つづいて、赤い光線は中年男の首筋を通り、ころん。眼鏡っ娘の首筋を通り、同じくころん。商店街を禿げ頭と眼鏡が転がっていく。切口からは血や臓物が溢れ出てきて、あー、人間の体っていろいろ詰まってるんだなとか事態を呑み込めずに阿呆になる僕。
「ほら。神様」
少女が指差した先から、はっきりと感じた。さっきの赤い視線を。
「うわぁぁぁ!」
僕は視線に向けて発砲する。
水が出た。
信仰心を浴びて生きる神様は、既にその大半が死滅していた。何せ時代は宇宙世紀だ。宇宙へ飛び出した人々はメッカを見失い、天国へは放射線とデブリが交差する真空空間だったと知る。浪漫のへったくれもねェ。聖書は焚書の憂き目に遭い、偶像崇拝も打ち壊しが続いて廃れた。「天とか上って書いたのは失敗だったなぁ。せめて次元の概念を教えておけば」多次元空間、うんとブルーの奥底で、痩せ細ったロン毛の神様が呟いた。嘆き見下ろす低層次元には、火花のように散る移民ロケットが映る。
メジャーな神様が死んで、生き残ったのは八百万の連中と、疫病神くらいだ。
「死神ンとこに小僧が生まれてよォ。宇宙葬の死神らしいぜ。何光年もホトケさんの回収作業で走り廻らなきゃイケねェ、ったァかわいそうになァ」
青白い馬が一声鳴いたが、終末を迎えるのは人か神か。
銀天街には神様がいてそこに行けば願いが叶うという。
街の片隅で膝を抱えて座っていると、ある人はお腹が空いたら食べなさいとパンをく
れた。
ある人は寒いならこれを着なさいとコートをくれた。
ある人は寂しい時にはこの子と一緒に遊びなさいとお人形をくれた。
この街は優しい人ばかりだけれど、神様ではなかった。
季節はずれの銀色の雪が舞い、穏やかな陽光が降り注ぐ朝、その人は私の前に液体の
入った小瓶を差し出した。これを飲んで安らかにパパとママの所に旅立ちなさい、そ
う言って去っていった。
やっと願いが叶うことに私は感謝の涙を流した。
薄れていく意識の中、ある人があれは神様ではないよと去りゆく黒いシルエットを見
ながら教えてくれた。
でも、私にとっては神様でした。
ここが僕の部屋ね。そしたらこれがわたしの部屋。ずるいよ、そんなに大きいの。だって、お人形やお洋服でいっぱいなんだもの。僕だって。おもちゃでいっぱいさ。ここでママがお料理ね。ハンバーグかな。スパゲッティがいいな。ここでパパがお庭仕事ね。そんなに広いとパパ大変。だいじょうぶ、パパはなんだってできちゃうんだ。ふふふ。そうだね。そうだよ。屋根は赤だね。赤だよね。白い壁で、お花でいっぱいだね。いっぱいだね。
雪はいつから降り続けているのか。廃墟を砂糖細工のように変えてゆく。地面が揺れる。カブトムシが来たよ。カブトムシだ。にげなくっちゃね。にげなくっちゃね。
ふたりは朽ちた壁の陰に隠れる。装甲車は、二人の雪上のおうちを跡形もなくして、去ってゆく。
いっちゃったね。いっちゃったよ。パパもいっちゃった? ママもいっちゃった? そうかな。そうかもね。きみもいつかいってしまうの? 知らない。あなたもいつかいってしまうの? わかんない。それでもさ、あそこに、あそこにゆくんだよね。またあえるよね。あそこであおうね。あおうね。ふふふ。あそこでね。
きらきらととめどない波たちの間から、一匹の魚が踊り出る。水のない所で跳ねる体は頭を上に、開けた口から透明で丈夫な糸が更に上へと伸びている。振った尾から水滴が散って、海へと帰った。たゆたうボートの上で、男は伸ばした親指と人差し指で体長を測った。
縁に腰かけたまま、あくび半分にすがめた目でそれを窺う。
からんとベルを鳴らして扉が開かれると、薄暗い所から白に黒ぶちの猫が、お待ちしておりましたと言わんばかりにすっと迎え出、ナァナァと鳴く。クーラーボックスから魚を空になっている皿にのせてやると男は、下ろしていた荷物を抱えて奥へと入った。
普段やってくるここの客らより余程つややかなその毛並みをじっと眺め、ふいに顔をあげた猫に睨まれる。
ジャージの二人連れがだらだらと通りを歩く。片方が、携帯をつついている。ストラップがみっつ。
「明日って小テスト」
あぁあとうめき声、その後ろをついて行くことにする。願いごとは、あのストラップみたいなもんかも知れんと俯き、にやりと笑う。こんな時間に押しかけたら友人はやっぱり嫌がるかな、しかし花が咲いたら夜桜見物には行きたいな、なんにせよ定休日というのはいいもんだなと、そんなことを思いながら、日暮れ時、神様はまた街を留守にする。
どんよりとした重い雲で埋まる空を眺めている。もうすぐあの雲から、大粒の雨が落ちてくるだろう。そしてこの薄暗い街は、降りしきる雨音で灰色に染まるだろう。けれどもその直前、雨が落ちかけるその瞬間、曇天には全面にうっすらと水の膜が張る。その膜は銀色に光り、この地上の、なんの変哲もない街を映し出す。銀天に、街の似姿が出現する。目をこらせば、その銀色の街に立つ、自分の似姿を見つけることもできるだろう。ぼくは目をこらす。神はどこにおわすのだろう。この地上にはいない。そんなことはもうぼくはよく知っている。でなければぼくは、こんなに哀しみにうちひしがれてなんかいないはずだ。あちらの街には神がいて、ぼくの似姿は神の恩恵を受け、笑顔を見せているだろうか。
天をにらみつけるぼくの顔の上に、雨がぽつぽつと落ち始める。雨粒は大きくなりながら、ぼくの顔を濡らし始める。天上の街は、いま溶けて流れた。ぼくはここで、ずぶ濡れになりながら、自分の足で立っている。神がいてもいなくても。ぼくは、ここに、います。
ぼくは雨のなか、駆けだした。まだぼくには、この街でできることが残されているから。
ここはとある無人駅、人ごみから離れた静かな山里。
今ここに一人の天使、いや悪魔が舞い降りた。ほらっ噛んでたガムを柱に付けてタバコを吸い出した。って違う違う、いらいらバタつかしている足元ほらっ見てみて。
青蛙が潰されている。そして、行き先を邪魔する小石は蹴飛ばし街道を飾る看板どもを壊しまくる。さらに、ポイ捨てしたタバコの火は燻ぶり火の道をつくり上げた。
静かな山里は焼け野原となり、わずかな人々も消えてしまった。
しかし、悪魔はやりおった。まず腹が減ったので焼け野原に落ちていた焼き芋を食った。
これは美味いと無人駅で売り出したら大評判、忽ち噂が広まり駅は有名になった。
やがて真似する奴が店を構え、一人二人と人々が集まりひとつの商店街が出来上がったのだ。そして静かな山里はにぎやかな町となり、日が暮れると街道を色鮮やかな電飾が光り地上の天の川を誕生させた。
時計は時を刻む、だが星屑たちは永遠に輝いていた。その先には今も尚忘れられる事無く祭られる小石がある。そしてその横にある札にはこう書かれている、「この小石にてタバコの火を消すべし」消した後に浮かび上がるものこそ神である。
「見て見て! ゴッちゃん、今日もスゴい格好で歩いてるお」
「お客さん『ぎんてんカード』は?」
「蛍光灯蛍光灯!」「指さしちゃいけません」
「え〜、またコロッケ高くなったの?」
「ムラハゲにまた怒鳴られたぁ。超わけわかんなくなくなくない?」
「電車行っちゃうって!」
「なまんだぶつなまんだぶつ」
「タカハシさん家の次男坊、自殺したんだって」
「待ーてー!」
「アーケードの雨漏りも直せないんだから、ここも長くないね」
「魚って目が怖くて」「あのプルプルが美味しいのに」
「おじさ〜ん、これ虫食ってるから百円まけて」
「買って買って! ママ! ねぇ、買ってったら!」
「ヤヴェ、触っちった! 宝くじ当たっちゃうんでね? 俺」
「明日、ヤマちゃんだけ六時半集合だから」
「ニャー」
「貴方の幸せを祈らせてください」
「どうよ? あそこ」「全然ダメ。一時間で二万溶かした」
「鬼あり得ないって。イトウ部長の加齢臭」
「おおっ、ゴッちゃん! 一杯引っかけてかないかい?」
アーケードが大きな通りに分断される場所では、神様も歩行者信号の青になるを待って、横断歩道をおそるおそる歩いて渡るという。信者の皆さんも、青空の下では加護はないので、くれぐれも車には轢かれないようにしてください。神様が轢かれていたら、救けてあげてください。
つい最近までコーヒー屋だったはずの軒下に大きな赤提灯が下がっていた。
惹かれるままに暖簾をくぐった店内は意外と賑やかで、六、七人の客が酒を酌み交わしている。
「いい店やろ、ここ」
カウンター席に座ると、並びで飲んでいた男が脂の乗った笑顔で聞いてきた。俺は相槌を打つ。
「この街もこんぐらい元気にならんかねぇ」
「昔はそんな時代もありましたね……」
「パーッと祭りでもやったらええやん」
「夏祭りに秋祭りに盆踊り大会。客足は年々減る一方です」
「新しいモンを取り入れてみたらどうや?」
「五年前に一度コンビニチェーンが来たんですがさっさと撤退していきました」
「ほうか……」
「俺も家業は継がずに都心の会社に就職するんです」
「……そいじゃあわしらもそろそろ出て行く頃合いかねえ」
彼はどこか寂しげに遠くを眺めていた。
翌週になってあの通りへ行ってみると、例の店舗は雨戸を下ろし、「たから船」と書かれていた提灯の代わりに「閉店します」の張り紙が埃を被っていた。
結局、彼はこの街を出て行ったのだろうか。しばらく経った今でも、俺は名前も聞かずに別れた中年男のえびす顔を忘れられずにいる。
手を引かれて歩いていた。少し年上の、見覚えのない少年だった。
大きな商店街だ。店先には音楽が流れ、いたるところに花が飾られている。灯りは煌々と通りを照らし、大勢の人が行き交う気配がする。
なのに誰もいない。どんなに見回しても、私と少年以外、動くものすら見あたらない。
ふと見上げれば、空も変だった。夜だというのに一面の銀色で、細かな粒子が光を弾きながら、渦を巻いて流れていく。
ひかってる、と呟くと、少年は、ああ、とため息のような声を漏らした。
「怖いか」
すこし、と頷く。
「でも、きれい」
「そうか」
なぜか不安は感じなかった。少年の手は熱くて気持ちいい。街の灯りはどこまでも続いている。
そのままずっと歩いていけそうな気がしたのに、何個めかの交番の前で、少年は立ち止まり、手を離した。
「さぁ、もう帰れ」
そう言って私の顔の前で、ぱん、と手を叩く。次の瞬間、少年のいた場所に、驚いた顔のお巡りさんが立っていた。背後を大勢の大人が歩いていた。
子供の頃の話だ。夢だろうと人は言う。
空が奇妙に明るい夜には、今でも時々、雑踏の中に少年の姿を探す。こっそりと手を打ち鳴らしてみる。
月齢と日の出日の入時刻を、担当者の名前とともに黒板に記入する。月齢や時刻を正確にわかる者は、閉ざされたこの銀天街では俺一人だ。
今日の担当は、トラキチ。目がギョロりとしているジィさんである。銀天街にやってくる前は、盗賊をしていたという噂だ。安物の重たい機関銃でもぶっぱなしていたのか、年老いた今はすっかり耳をやられている。今は四日に一度、ここにやってきて「太陽と月の上げ下ろしと、時報の鐘を撞く」のが奴の仕事だ。
「月」は月齢に合わせて用意してある。日の入り時刻丁度に「太陽」を外し「今夜の月」をあげる。銀天街の空、巨大アーケードの天井に。
トラキチは年寄りとはいえ腕力があり、おまけに背が高いから仕事がスムーズだと評判だ。耳が遠いのも、銀天街に響き渡る巨大な鐘を撞くのには好都合だ。毎日の担当者が皆トラキチのように有能だと、俺も少しは楽なのだが……。
俺か?銀天街の太陽と月と時刻を司る俺は「神様」と呼ばれている。親が付けた名前は、もう忘れた。
男が指笛を鳴らすと、その音の矢は猛烈な速さで西へとカッ飛んでいき、街のはじっこで暮れかかったままの太陽にぶつかって「ドンッ」と鼓の音が響いた。つづけざまに男が笛をはげしく鳴らす、応えて鼓が威勢よく返す、祭囃子が街ぜんたいに響きわたる。
「神様を呼びもどすためさ。元々はな」と、男は言った。「昔は、そりゃあ美しい夜空が見られたそうだよ」
この街の夜が失われてからずいぶんと経つ。
「名残たぁよく言ったもんだよ。それとコイツもな。じいさんのじいさんの代から受け継いできたワザさ」
そう言ってまた勇んで笛を鳴らす男の顔に得意気の色がうかがえた。
夕やみにそまる通りをぶらぶらと歩く。出店がならび、人声も活気あふれ、じつににぎやかだ。
「おにいさん、りんご飴おひとつどう?」
売子の年若い娘に声をかけられた。もらおうかなと言うと娘はにっこりとした。
「お祭、たのしんでってね」
ぶらぶらとするうちに通りを過ぎた。つと見あげれば、じつに美しい茜空だ。久方の帰郷であったが、この街に自分はもうお呼びでないのだなと思った。口にしていたりんご飴を放り上げる。一番星くらいはいいだろう。耳に遠く、祭囃子がおどっている。
この街へ来て一週間経った。貧しい生活の中、僕のためにと母が貯めてきた路銀を無駄遣いするわけにはいかない。鳥居をくぐり、夜空を見上げと、小さい人魂が思い思いの動きを見せている。体内の陰陽を意識して、両手の間に力を籠める。そのうちに、少し桃色がかった魂が、僕の前に降りてきた。君は僕と一緒に行きたいかい? 問うと、彼女——僕にはそれが女性だとわかった——は小さく震えた。肯定だ。彼女は僕の両手の間に飛び込んだ。くるくると舞う姿は、歓喜に満ちている。僕は彼女を掌に掬って、一気に飲み込んだ。見た目とは裏腹に、温度はさほど高くない。胸の中央が熱くなる。新しい魂を取り込んで、僕の身体も喜んでいる。僕はもっと強くなる。もっと強く。
命を終えた人間の魂が辿り着く場所。神々はそこで、人魂と合一して霊力を高める。より強い神は、より多くの賽銭に与れる。
言うなれば本当の都市伝説だった。それはある日の26時にネット上に現れ、いつかの27時にかき消えた。作って消した神様は、ゲーム作りが趣味の一青年だ。今日もカフェの奥でノートパソコンを枕にしていて、こちらを見つけて呟いた。
「メールなら簡単なのに……」
「あれは黙ってるのが下手だからね」
痛い目にあっても神様は、まだネットを愛している。言うだけタダなのはネットの長所で、大きな短所だ。
「銀天街で隠れんぼ」は、誰でも自由に作り変えられる無料配布のゲームだった。どこに何を付け足すかも、自由に増やせた。多くの面白いゲームができた。多くの残酷なゲームができた。人々は互いの所属をなじるゲームを作った。誰も知らないうちに、神様の所属もなじられた。落書きばかりが街に増えた。いびつに膨れ上がったゲームをクリアすれば、願いが叶うなんて伝説もできた。
神様はゲームを消した。ウイルスを作り、洪水を起こした。リセットボタンは付けていなかったのだ。
誰かの「銀天街で隠れんぼ」をいくつか、今も神様は箱舟に隠し持っている。コーヒーを冷ましてぼんやり黙って、硬い枕越しに誰かと遊ぶ夢を見ているのだろうか。
「彼氏ができますように」
海の畔にある縁結びの神社でお参りしたのは先月のこと。
願いは叶い、初デート。
ゆらゆら揺れる波間の上に彼と二人。手漕ぎボートに乗りながら、海の上で静かな時を過ごしていた。
「この世界に僕たちしかいないみたいだね」
彼は嬉しそうに笑う。
その時だった。数えきれないほどの海の生物が水中から飛び上がってきたかと思うと、太陽に向かって泳ぎ始めたのだ。雲ひとつない空は、やがて魚で埋め尽くされた。
私は小さな悲鳴を上げるも、彼は「あっちにはマグロの集団がいるよ。ウミガメも気持ち良さそうに泳いでいるね」などと驚きもせず、空を指差しては楽しそうに眺めている。
天空では、魚たちが風に流されることなく自由に泳いでいた。たまあに魚どうしが鈍い音を立てて衝突したりすると、私たちの頭の上に雨のように銀色の鱗がキラキラと舞い落ちてくる。
彼は「大丈夫かい」と、私の頭を優しく撫でるように鱗を払いのけてくれた。自分の頭上にも積もっていることなど気にもせず「これで大丈夫だよ」と傘を広げて、私を守ってくれようとするのだ。
あぁ。私は、この人のこと本気で好きになってしまうかもしれない。
たとえ彼が、あの神社の神様だったとしても。
魚市場から少し南にいくと猫町銀天街です。不況の波にあおられて、にゃあにゃあ猫が闊歩していても、お客さんは猫より気まぐれで何も買いやしないのです。
シャッターが閉まってしまった店舗が多くなったものの、隅っこのほうにひっそりと恵比寿様が祀られています。参拝者の居ないときにはこっそり魚市場で釣りをしているみたいです。鯛がかかると竿がびゅんびゅん引くのでとても楽しいですしね。そういうわけで恵比寿様は時々本物の鯛を抱えています。釣った魚は猫たちに頼んで店々に運んでもらっているそうです。本当は小判を配りたいらしいのですけれど、猫たちにその価値は判らないのです。小判を配っていたなら閉店する店もこれほど多くは無かったかもしれないのにね。
アーケードも古びてすっかり寂れてしまった商店街ですが、信心からかあるいは魚の匂いに引かれるのか、人通りならぬ猫通りばかりが前にも増してしまいましたにゃあ。
夕方から夜にかけては銀天街が最も人で溢れ返る時間帯だ。人の数の二倍の足が東西銀緯路と南北銀経路を行く計算だ。歩きづらい。
あ、猫さんだあ。
本当だねえ。
こら人間、手を伸ばすな体を抱くなひげを引っ張るな。私を誰だと心得る。
人間の腕を逃れて路地に篭るとやっと安心して毛繕いができる。行き交う人の足を眺めながら、そういえば今宵は新月かと思い出した矢先に背後より、
「こんばんは」
「よお小僧」
裸足の小僧がにこにこと立っていた。小僧は穴の空いた布を頭から被り、足の爪は黒く汚れている。しかしこれでも神なのだ。
小僧は私の隣に膝を抱えて座る。往来を人の足が行く。大きな足に小さな足、愉快な足取りに哀愁の足取り、様々だ。
「ここからは民の生活がよく見える」
「そうだな」
空を見遣ると銀天街を覆う紗に星が透け始めていた。遠くでドン、ドン、と太鼓を鳴らす音がする。
儀式が始まる。紗に透けた星星は中央の銀の池に身を宿し、小僧は網で星を掬って人間に配るのだ。その星には交通安全、学業成就の効があるという。
「行ってくるよ」
「ああ」
小僧が路地の奥に消える。ドン、ドン、と太鼓が鳴る。往来を人の足が行く。一様に左から右へと流れてゆく。