カレーを作るのだ、と彼は言う。
私はへえ、頑張ってね、と適当に相づちを打つ。別に私は彼がカレーを作ろうと作らまいと関係ないのだ。
世間話にしては相手も自分も楽しくならない話だ、と薄い感想しか持たなかった。
彼は次の日、カレーを作ったのだと言った。
私は、へえ、美味しかった?と昨日の会話を思い出さずそう相づちを打った。私にはどうでも(以下略
彼は、笑う。美味しくなかったよ。
失敗でもしたの、と特に深く考えず。だって、どうでもいい。
でも、カレーってルーと切った野菜を入れて作るだけよね?と、聞く。
無かったんだ、と彼は言った。
何が、と聞く。早く、早く会話が終わらないかしら。
「スライムが」と言って、彼は大声を上げて笑うと、私を持ち上げた。
だから、今日もう一度作るよ。そう言って、買い物かごの中へ。スライムと言われた事が、多分一番腹が立つ。
虹野郎はネジ子さんにねじれた想い滲ませている。水軍曹は微塵となって散ることを自ら望んでいる。さざ波猫はささ身を失くしてさめざめ鳴いている。
虹野郎は午前の二時にネジ子さんを待ち伏せた。水軍曹は勝利の美酒には程遠い向こう見ずの剣を抜いた。さざ波猫は散々の空腹にも耐えさくさくと歩いた。
虹野郎はにんじんをぶら下げネジ子さんににじり寄る。水軍曹は無情の弾雨にミミズのようにのたくる。さざ波猫はさすらいのなかに元の主の幻を見る。
虹野郎はネジ子さんに嫌われ人間に絶望した。水軍曹は短い生の最期に群青を見上げた。そこで見たものはかつて傍らにいた撫でるような声のさざ波猫。
虹野郎は人間から逃げようとにんじんの尻尾を切り落とし二次元に迷う。ねじれた虹の束が旋回しささくれた球根を描く動画のBGMは『サージェント・ウォーターズ・ロンリー・ハーツ』唄はサザン・クール・キャッツ。
虹野郎から逃げた翌日ネジ子さんは八百屋でにんじんの脇のたまねぎを買う。帰りに魚屋の前で三々が九尾のお魚くわえて駆ける猫を見る。台所に立ちたまねぎを微塵切りにしながらネジ子さんはさめざめ泣いている。
「実が食べたくて皮を剥いても剥いても、いつまでも皮ばっかりな野菜って、なんだ?」
僕と先生が喫茶店の奥の席でなぞなぞを考えていると、
ぱし〜ん!
誰かの頬が打たれる音が聴こえた。
首を捻じ曲げて窺うと、静まりかえった店中のほぼ全員が僕たちの隣りの席をチラチラと見ている。そこでは、男の人が頬杖をついて窓の外に目を向け、その姿を女の人が、それはもうとてつもなく恐ろしい顔で睨みつけていた。
先生が人差し指をこめかみの辺りで伸ばし、鬼の角のポーズをしながら、なぞなぞを出す。
「鬼の面を頭の上にのせている野菜って、なんだ?」
隣りの席の男の人が小さく舌打ちすると席を立ち、お手洗いのほうへ歩いていった。
僕は細いストローでひたすらジュースを吸い上げる。そして、ようやくジュースを飲み干した僕は先生の手を引っ張って店を出ようとしたところで、隣りの席の男の人と鉢合わせしてしまった。
先生がなぞなぞを出す。
「斬られたほうより、斬ったほうが泣いてしまうような野菜って、なんだ?」
慌てて先生の手を引きながら、その口調がいつもより少しだけ真剣だったのが、僕は気になった。
十三歳の誕生日に少女は脱皮を繰り返す。
蝉のようにぺろりと脱ぎ去ってしまって、背中に裂け目を残した抜け殻が産まれる。柔らかい抜け殻は空っぽの体内に空気と意思を詰め、軽やかにダンスする。
ぬらりとした皮膚が乾くと、休む間もなく少女は再び脱皮する。レプリカがまた産まれる。繰り返しを繰り返し、最後の脱皮を終えた少女は膝を着いて、ぐったりと肩で息をしている。そんな動けない少女の周りを十三体のレプリカが手をつないであざ笑うかのように踊っている。じっと地面ばかりを見ていた少女——いや、もう少女とは呼べない。彼女の瞳には強い意志が宿っているのだから——の息がやがて整ってくると、ゆうらりと立ち上り、彼女はレプリカたちに視線を送る。
目が合うとそこに籠められた意思の強さにレプリカたちは取り乱し、逃げ惑い、最終的にはマトリョーシカのように一つ前の内側へと順々に逃げ出して、ばらばらだった少女の意思が重なっていく。そして乳白色となったひとつの意思を、彼女の新しい意思が貫く。
力を失ったレプリカを一枚ずつ丁寧に剥いでいく。そこにはもう意思の欠片すらない。何もないことを確かめた彼女は、いつの間にか流れ出した涙と一緒に少女たちを飲み込んでいく。
たまねぎにおいで
その涙をかくしたければ
たまねぎにおいで
そのうすっぺらい皮をやぶりたければ
たまねぎにおいで
そのしろい色をセピアにかえたければ
たまねぎにおいで
その苦味を甘さにしたければ
たまねぎにおいで
そのすべてをくにゃくにゃと軟らかくしたければ
たまねぎにおいで
たまねぎにおいで
たまねぎは拒まない
たまねぎにおいで
たまねぎにおいで
たまねぎに
おいで
虹色の鳥が「ウェルカム」と挨拶をする。
鐘を告げる鳩時計は時間を遡り、壁に飾られたモダンな鏡は思わず目を細めてしまうほど自分が小さく映っている。
友人に聞いた雑貨屋はノスタルジックな雰囲気と不可思議な物に囲まれていた。
手近にあった本を取る。中は真っ白だった。どのページにも何も書かれていない。捲っている内に目が痛くなり、涙が出てきた。
「この本は?」
「そちらは『オニオン氏の心』ですね。ああ、よろしければそれ、頂けませんか」
店の主——風見鶏が拭おうとしている私の涙を指差した。
「構わないが……」
その言葉に風見鶏の表情が輝いた。礼を述べるなり丁寧に青い小瓶に涙を入れ、ランプに照らして嬉しそうに眺めている。
「それをどうするんだい」
「ええ、ちょっとした“夢”の材料にしてまして」
奥から持ち出してきた箱の中には、同じ青い小瓶が整然と並べられていた。
「涙を提供下さった方にご希望があればお届けしているんです。人が零す涙は千差万別。仕上がりも様々です。ちなみにこちらはオニオンさんによる涙ですから、うーん、面白いことになりそうですね」
「ほう」
私は風見鶏に宛て先を教えた。
たまねぎ占いをしてみた。
上に十字の切り込みを入れて、適当にめくってみる。
山田さんとつき合える、つき合えない、つき合える、つき合えない、つき合える……。ぱりぱり、ぱりぱりとめくるうちに、これ以上めくれない中心へたどり着く。つき合……つき合えない。
芯に爪を突き立てて、さらなる芯を取り出した。これで無問題!
さっそく山田さんに告白した。
「ごめんねぇ、私たまねぎくさい人って好きになれないんだぁ」
「人生とはたまねぎのようなものだ」
「その心は」
「剥いても剥いても中身がない」
すぱん、ぱかんと音を立ててたまねぎが弾けていく。俺は籠からたまねぎを取り出し、大きく振り被り、投げる。時速90kmのたまねぎは金属バットで的確に打ち返され、すぱん、ぱかん、と弾け散る。振り抜いた金属バットの先から汁が滴る。
「だから、こんな糞みたいな人生はひとおもいにぶっ壊してやるのがよいのだ」
「悲しいな」
「生っ白い指で辱められ続けるより可愛いもんさ」
明け方、俺たちはフランス料理店からたまねぎを盗んだ。納品の隙を狙った。何故そんなことを、と聞かれたら俺たちはこう答えるだろう。たまねぎとラベリングされたダンボールが五箱もあったんだ、仕方ない。
俺たちはたまねぎを投げ、打つ。世界のどこかで大量のキャベツがトラクターで踏み潰されている。ごぼうでビリヤードをする奴だっていた。
すぱん
ぱかん
すぱん
ぱかん
すぱん
キン!
「あ」「あ」
八十九個目のたまねぎが空を突き抜け飛んでいく。泥のついた薄茶色がたちまちブルーに溶けて消えていく。ぶっ飛んだ奴だったな。ああ。
俺たちは涙が止まらない。たまねぎが目に沁みる。
樫槐榎桜松柊桃杉椿欅梅柏桂。
十三本の異なる樹木で円形に囲まれた薄黄色い荒れ土に、差し渡し三尺ばかりの二つの穴が九丈離れてあいていた。
一方は地の底の国に、もう一方は水の国に続くといわれていた。ただ、それは言い伝えなので、男は大して信じてはいなかった。
男が槐に近い方の穴に頭大の巨礫を落とすと、ぷふん、とさほど遠からぬ位置に音がした。もう一方の穴で同じ事をすると、遠くで微かに、ちや、という音がする。
槐傍の穴に男は桶を投げおろした。桶には三十丈の縄が付いていた。縄を使い切らないうちに桶は止まった。男は器用に縄を操ると、穴の底から何かを汲みあげた。
桶の中には溢れんばかりの、キツネ色に柔らかく炒められた野菜片。
タイミング悪く降り出した雨に帰路を急ぐ。まだ家には少しあるけど鞄の中のプレゼントを手と眼で確認する。ねえ、君は憶えてるかな、初めてデートしたときのこと。
銀色の指輪を準備して鍵を取り出すと、家の中から僕の大好きなカレーの香り。
今日うちのクラスに転校生が来たの。どこかの国のお姫さまだっていうから、とっても楽しみにしていたのに、髪の毛はぼさぼさだし、肌は薄汚れていてぱりぱりだし、足は泥だらけで、おまけに臭かったの。あたしたちの期待を裏切った罰に、取り巻きたちに命令して、叩いたりひっかいたりさせてやったんだけど、泣き出したのはその子じゃなくてあたしたちのほう。変なの。転校生の肌はひっかき傷で皮がめくれていたから、懲らしめてやれと思って剥いてやったら、その下からつるつるの白い肌が出てきて、あたしたちはびっくり仰天。ねえ、やっぱりこの子、お姫さまなんじゃないの、とかみんなが言い始めるから、むかむかして、さらにその肌をひっかいてやったら、またつるりと剥けてしまったの。あたしは涙を流しながら、どんどん剥いて剥いて、気がついたら教室には、その子の白い肌がいっぱいぺらぺらと残っているだけだったの。あたしはそのぺらぺらをまとめてゴミ袋に詰め込んで、家庭科室で切り刻んでスープにしたの。みんなで食べた転校生はとっても甘くておいしかったけど、あたしたちのお腹のなかにおさまっちゃったこの子は、今日はどうやっておうちに帰るのかしら。
たまねぎよ。私は無知だった。お前が4000年以上も昔から、その身を投げ打って、人々を助け、励まし続けて来てくれていた事を、私は知らなかった。あのヘロドトスさえも、お前の偉業をその「歴史」に書き残し、近代ヨーロッパでは、「疫病よけのお守り」と信頼され、イギリスでは「一日一個のお前は、医者を遠ざける」とまで言われている。その類まれなる能力は、駆虫、殺菌、防腐、発汗、利尿、解毒作用、血栓防止、抗ヒスタミン作用(アレルギー対策)、血管をしなやか且つ丈夫にし、血管病(脳血栓、心筋梗塞、高血圧)の予防、改善に役立ち、血糖降下作用すら持つ。その上、心の病まで癒してくれる鎮静作用。香りは殺菌作用をもち、ビタミンB1の吸収と利用効率を上げる能力は、体力・気力を高めてくれている。そのお前の長年の自己犠牲と強い使命感に、感謝を込めて料理人は、お前を切り刻む時、無意識にも涙してしまうのだろう、食するものに代わって。私は、これからはお前を嫌わないこととする。お前の人類愛の心に報いるために、わが身のメタボリックを戒めるために・・・・・・・。私は臭いと苦味が苦手であった。すまなかった。
遠いいとこのこうくんをはがすと、中にこうくんの弟のしょうちゃんがはいっていた。
しょうちゃんをはがすとしょうちゃんの妹のゆうちゃんが入っている。あとはだいたいわかるよね。どんどんどんどんはがす。
てっちゃんのなかのきいちゃんをはがして、まだ生まれたばかりでふわふわのだいくんをはがす。すると、その中にはまあるい涙の種があった。
やった、これでぼくにも弟妹ができるかも、って嬉しくなった。だけど、種に触れたら、そのとたん、ぱちん。
種がはじけて、あとからあとから涙がぽろぽろこぼれてくる。
あとからあとからぽろぽろぽろぽろ。明くる朝まで涙は続く。
その日の午後、干涸らびたこうくんたちにいっぱいの風をはらんで、ぼくの船は大海原へ旅立つ。
涙より脆くて白い。
あなたは彼の皮膚をはいだ。桃色の肉が見えたのは一瞬で、その桃色は滲みだす血潮で赤く染め上げられた。傷ついた果実が果汁をたらすように、彼は液体を垂らす。もうやめて、もうやめてと叫ぶけれど、あなたは手を止めてくれない。床に広がった赤は世界のどこかの地形を描いた。
あなたは彼の体に手をかけ、ぺりぺりと一枚の肉を剥がした。そして、いつから置いてあったのだろう、見たこともないほど大きな皿に、彼の肉を次々と並べていく。薄い肉が白い皿を透かした。
私が泣きだすと、あなたはきょとんとした顔で私を見た。
だってこうしないと、火が通らないじゃない。生のまま齧って、辛い辛い、目にしみるって泣き叫んだのは誰だっけ?
あなたは彼を玉ねぎだと言う。私は彼を恋人だと言う。
あなたは困ったように微笑む。私は困って泣く。
作りかけのシチューがふわりと香った。
一年目は「枯れてるから駄目ね」と言われて落とされた。
二年目は「腐ってるから駄目ね」と言われて落とされた。
そして今日が卒業検定三年目。
「古いから駄目ね」と言われて落とされた。
憎い。
この手のひらサイズの茶色の物体が憎い。
足元に堆積する画用紙は、俺を助けちゃくれない。
描いては投げ、描いては投げ・・・折れたパステルを拾う気力も尽きた。
何もかも嫌になり万年床に勢いよく転がると、ひらりと舞った一枚の絵。
—たまねぎ。
これがたまねぎ以外の何に見えるって言うんだ。
あの女は何で俺を毎年毎年たまねぎ一個でこんなにも悩ませるんだ。
ぐるぐると思考するうちに眠りに落ちて、あやしい夢を見た。
たまねぎ切ったらモスクが割れた。
モスクの中からモスラが出てきた。
俺はモスラがモスクワ出身だということを理解した。
—不意にドアの開く音で目が覚めた。
そこにはあの憎々しい女教官が立っていた。
驚く俺を尻目に携帯カメラのシャッター音が鳴る。
「あなた、なかなかいい絵を描くじゃない」
意味不明な発言に困惑する俺の視界を液晶画面が遮った。
「・・・あ、たまねぎ」
奇妙な偶然か、散乱していた画用紙は床一面の大きなたまねぎの絵となってフレームに収まっていた。
「競馬場の観客席のような音がするなぁ」
網の上、端まで焼けて肉汁が溢れんばかりに盛り上がる特上カルビを裏返しながら言う。
この焼肉屋は炭火焼きではないのが珠に傷だが、タレが良い。ボトルや容器に入ったものではなく、店員が持ってくる。日保ちしないもの、ということだ。いろいろ入っているようで、まろやかさというか舌に乗った時の存在感は他店のそれをしのぐ。しかも、肉のうまみと競合せず見事な調和で滋味を引き立てる。腹の据わりがいいとはこういうことを言うのか、食後店を出てからの充実感と幸福感が増すのがポイントだ。焼肉の良さは店を出た後にあると俺は信じている。舌先だけで焼肉を味わう事勿れ。腹の底で味わうべきだ。
「いやいや。パチンコ店で玉をドル箱に入れてる音でしょ」
友人は国産和牛の特上ロースをひっくり返す。網模様に焼けた表面がまたとない食品美を見せる。立ち上る白煙。香りがなんともたまらない。
「競馬もいいけどね」
「パチンコもいいさ」
歳を重ねようが本質は変わらない。失った金ばかりが膨らむ。
膨らんで膨らんで膨らんで、それでも膨らむ。
根っこは同じ。同心円。
二人とも食うのは肉ばかり。甘い煙に、目に涙。
肉じゃが、グラタン、ハンバーグ。
あたしの作るものは玉ねぎが使われることが多い。
丼もの、かきあげ、マリネ。
でもそれだけ使える食材ってことだよね。
ちゃんぽん、野菜炒め、シチューにカレー!
人気モノだな。
いただきます、で十分もすれば無くなっちゃう料理たち。毎日毎日タマネギ刻んで、すっかり両手がネギ臭い。一日みじん切りしても三日は消えてくれないものだもの。しつこいったらないわ。
昔はよく泣いたけど、今はそれを若いと思うだけ。
家族のため、彼氏のため、結局今日も自分のために、茶色い皮を剥く。
「大きな玉ねぎの下で」なんともベタな入場テーマで、ヤツがリングに上がる。武道館での選手権。今日こそヤツを、この底が丸見えの底なし沼に沈めてやる!お前がワルツでくるならワルツを、ジルバでくるならジルバを踊ってやる!ロックアップからフライングメイヤー。俺はセオリーの首四の字ではなくサッカーボールキックを放つ。二発目はキャッチされ、ドラゴン・スクリュー。立ち上がった俺はコーナーに振られる。サルト・モルタルで幻惑。水平ドロップキックでヤツを場外に。トペ・レベルサを放つ。ヤツは受けきる。一足先にリングに戻った俺に、ヤツはスワン・ダイブのニールキック。俺はかわして、その場飛びシューティング・スター・プレス。今度はヤツがかわしコーナーに上る。死んだふりをしていた俺はヤツを捕まえて、雪崩式の魔豹バックドロップ。チャンスだ!!ヤツの両手をロックする。ここで迷いが生じる。初期のロビンソン式の頭から落とす人間風車か、ロックを浅めに膝をつくタイガー・ドライバー91か、それとも前田式風車固めかで迷う。その隙を突いて腕を抜いたヤツが浴びせ蹴り。ヒット。俺は寝てしまう。レッド・シューズ・ズーガンが三つマットを叩いた。
「ヨシハルは飲むようになったなぁ」
父はつぶやいた。私は生返事でグラスのビールを口に運ぶ。
半年ぶりの帰省なので、私はそんなに変わらないと思うのだが、父から見ればそうなのだろうか。耳まで赤くなった父を見て、熱燗をつぎ足すものの、あまり量は進まない。
父はだいぶ酒に弱くなった。いつも実家の土産と言えば、重かろうとなんだろうと日本酒の一升瓶だった。しかし今回は、帰省前に電話口で母から、お菓子とかでいいよ、と言われたのだ。
父とふたりの静かな食卓に、母が野菜炒めを持ってきた。父は酔った手つきで箸を伸ばし、たまねぎをころんと取りこぼす。筋ばった手は、しみもずいぶん増えたような気がした。
風呂場では、いずれこの家を継ぐ兄とその小さな子供たちが楽しげに騒いでいる。上の子がこの春には小学生になるらしい。
一年一年少しずつ枯れていく父を見ながら、私はグラスを空にする。何となくビールの味が重くなり、父がうまそうにいじる熱燗を、ほんの少し、私もなめてみたくなった。
「奥さん、たまねぎはいかがですか」
「あら、いろいろあるわね。どれがいいのかしら?」
「これなんかどうです。このたまねぎはヨトウという品種で、剥いても剥いても芯がないというか情けないというか怒りで涙が出てくるたまねぎです。どうですか、これ?」
「いらないわ」
「じゃ、これなんかどうです。このタマネギはチャイナという品種で、剥けば剥くほどいかがわしい薬品の匂いで涙が出てくるたまねぎです。煮ても焼いても食べれませんが、安さでは天下一品です。どうですかこれ?」
「買わないわ」
「じゃ、最後にこれなんかどうです。このたまねぎはソウリという品種で、剥いても涙は出ないので、料理しやすいたまねぎですよ」
「いいわね、おいしそうだし」
「でも、ひとつだけ、食べる時に問題が......」
「食べる時に?どうなるの?」
「それがですね、奥さん、食べ過ぎるとですね、暴言を吐くようになるので、気をつけて下さいね」
土に頭という頭が連なって埋まっている。その筈なのだけれど今一つ判然としないのは自分の頭が土に埋まっている為だ。果たして本当に一人きりでないのかどうか。何も見えない。
夜中ともなれば片思いの彼女ばかり頭に思い浮かぶ。頭は土に埋まっている。彼女が今この瞬間、見知らぬ誰かに抱かれているのだろうという根拠のない空想が圧倒的な確信をもって迫る。彼女は、彼女の事を何とも思っていない下らない相手に抱かれている。自ら抱かれている。しかし自分はと言えば頭が土に埋まっているのである。
堪え切れなくなり思い切って頭を大きく引き抜く。周りには目もくれず足で自分の頭を踏み付ける。飛沫。強い薫りがするからこれは嫉妬の塊を踏み潰したと見做す。途端、足許から海が広がる。巨大な渦潮を伴いリヴァイアサンが周回している。冷たい渦に巻き込まれ自分の人生の全てが支配されてしまい以降の何もかもが決定されてしまった事を知る。リヴァイアサンの咆吼は彼女の漏らす切なげな吐息だ。
いつまでも形の無いものを持て余ます。時おりどこかへ頭を埋めようとするものの、もう嫉妬などない筈なのだから頭を埋める必要がない。およそ頭を再び土に埋める事は決定されてはいない。胸が灼ける。やはり強い薫りがする。
世界中がぼくのためだけに泣けばいい。
てなことができるんじゃないかと思ったのは、ぼくにのこったわずかな本能のようなものかもしれない。
何の悪いことをしたのか知らんけども兵隊につかまって死刑を宣告されたぼくは、ともだちになったばかりの女の子が見つめるなかで体じゅうを切られることが決まっていた。
火あぶりじゃなくてよかった、となぜかほっとした。
焼かれるのは、いやな気がした。
逃げられないなら切られるのがいい。
わっはっは。と、ぼくは笑った。
笑うな。と、執行人がいう。
この世を歩きはじめてから数日でこの有り様だもので、ぼくはもうなんか人間というものに落胆していた。
こんなもんか。
わっはっは。
なんで処刑を公開するのか。
わっはっはっは。
意味わからん。
はっは。
どうして人間になりたいなどと思ったのだったか。
笑うな。と、執行人がいう。
さあさ、世紀の見世物だ。死刑の人の姿が消えるよ。
格子状の刃が、すとんとおちる。
ぼくの成分が風にはこばれ、みんなを泣かせる。悲しまなくてもいい。
ただせめてあの子が泣くのが、別の理由ならいいと思う。
たちまち魔法がとけて、切りきざまれたぼくの小さなかたまりだけがのこるはずだ。
メリーゴーランド。
勿論、たまねぎは幾種類かの文脈の中にある。たまねぎ畑ですくすくと立派なたまねぎに育っていく文脈。少し思い込んで剥いても剥いても皮であり最後には何もないあら空しいというのをやろうとする所に横からそれは葉である、さつまいもが根でありじゃがいもは茎であるようにと誰もそんなこと訊いてない的指摘をされる文脈(実のない話)。かぼちゃの代わりに出張り魔女をしてシンデレラに冷蔵庫で冷やしておいたから十二時までは保つよでもご覧中身がこんな風に切り抜いてあるのだからそれ以上は滂沱としてとても乗って帰れなくなるからよくよく気を付けるんだよと言わしめる文脈。みじん切りカラメル色炒められカレーに入れられて跡形なくお玉でくうるくうると掻き混ぜられている文脈。あるいはクリームシチュー。跡形ありで。くうるくうる。虎はバターになった。マーガリンは?
が、やはり前述したようにメリーゴーランドではないかと思う。くうるくうる。つまり屋根の形が主に、そんな感じ、で。それに生の常温のたまねぎを切ると三分間だけ音楽が鳴るのも、たまねぎがオルゴールだからではなくてメリーゴーランドだからだとしか思えない、私には。
飴色に煮込まれた木の廊下が、匂いもさせずにぼんやりしていた。奥の畳は藁のようになって、少し寂しそうだった。
障子を開けた秋の庭に日が差し込んで、空がとても遠かった。俺は不思議と平静の気分で、ちょいとあぐらをかいてみた。
目線こそ昔と同じに低くなったものの、部屋も庭も小さく思う。麦藁ぼうしが夏を惜しむような目を畳はしていて、きっと俺もそうなのだろう。
尻が冷えたので、勝手を忘れた家をまたうろついた。見慣れないものが増えていたが、箪笥の薄い埃を払い、とうとう祖母の普段着を取り出した。顔をうずめたが、箪笥みたいな臭いばかりした。
よく炒められ、煮込まれた箪笥なのに、自分の匂いを忘れたのだろうか。木の取っ手を撫ぜて、箪笥の隣の空間をメジャーで測った。
伯母が一番はじめだった。いとこが産まれて、ますますスープの量は多くなり、もちろん薄くはならなかった。俺達は廊下を転げまわり、障子を破り、犬と庭で穴を掘った。
ほんの少しにごって、甘く、温かかった。
何もかもメジャーで叩き起こさなきゃいけない。使わないものを分別して、道具を運び込み、ネット環境も整備する。今度は俺が水になって、煮詰まったスープを溶きほぐすのだ。
あと百三十七のかわを剥かれたらおまえは消えて無くなってしまうと言われた。
誰に?
神様に。
みんなみんな僕のかわを剥いていく。
その度に世界は幸福になっていくんだって、お母さんは言った。僕の三十五番目のかわをむしり取りながら言った。
みんなが幸福なら僕だって幸福だ。そうじゃないことなんて、何かある?
僕が知らないだけかな。
最後の一枚になったら、誰も僕のところに来なくなった。
それを剥がしたら世界は不幸になってしまうって、お父さんは言った。僕の百三十六番目のかわをむしり取りながら言った。
みんなが不幸なら僕だって不幸だ。
でも、そうじゃないのかな。
神様にきいてみたいな。
もう誰も来ないうすっぺらな僕のところに、最後に現れたのは神様じゃなくてきみだった。
「ねえ」
僕は初めて言葉をはなす。
「ねえ」
僕はきみを見る。
そのとき、きみはなんて言ったんだっけ。
ずっと昔のことだから、もう覚えてないんだ。
教えてくれないかな。
ねえ。
神隠し。男の子と女の子の二人でするものだ。
隠したい奴を選ぶ。良心が痛まない奴がいい。悪い奴、ヘンな奴、親が金持ちな奴。
みつけた。あいつ。でかくてまぬけそうな男子。そう、奴は雄牛。
さっそく反対側の性別、女の子が雄牛の近くへ寄っていく。 チラリズムがわからないから。直接抱きつく。肌に触れる。まさぐる。雄牛はなにが起こったかわからない。
安心して。
女の子は優しくささやく。その後ろから男の子はそっと近づく。女の子の髪のにおいと肌の柔らかさに、雄牛の身体がひび割れてくる。
男の子はその割れ目に手を差し込み、引き下ろす。皮が剥ける。あとは自然と剥がれていく。
やがて雄牛の母親が自分の子を探して自転車でやってくる。
ここで大きな子どもを見ませんでしたか?
小さな子どもにも丁寧に尋ねてくるほどうろたえて。二人は首を横に振る。横には老人が独りうなっている。本当はお母さんお母さんと呼んでいる。だが母親は雄牛に気がつかず、顔が判別できなくなる黄昏を恐れるように、西へ西へと行く。
二人は仲良くおうちへ帰る。
跡には干乾びた中身と、その皮が散らかっている。雨でも降れば流れる。
ピキューン。ピキューン。
光と音の数だけ人間が消える。
二○××年、彼らは世界中に現れた。
突然現れた恐怖の権化は、世の中に死と混乱を巻き起こした。
大きい球根の身体に、人間の手足を生やした謎の生物。腕毛が生えたその手には、未知の銃が握られている。
ピキューン。ピキューン。
銃が人にむけられ光線を放つと、人間はたまねぎになった。人間が減ってたまねぎが増えた。
ピキューン。ピキューン。
彼らの問答無用で迅速な攻撃は、一切の反撃の隙を与えない。すね毛の生えた足が練り歩くと、たまねぎの数はどんどん増した。
理不尽で不可思議な暴力の前に、なすすべのない人々はただ逃げまどう。
そんな中で、ふと誰かが声をあげた。
「こいつら食べるぞ!」
つられて誰ともなく食べ始める。
彼らは怯んだ。
こうして大阪から広がった食い倒れブームの狼煙は、瞬く間に世界中に広がった。
食べる。食べる。苦い。
ある者はカレーに、ある者はスープにして食べた。またある者は、そのまま食らいついた。涙を流しながら。
食べる。食べる。辛い。
人が減り、たまねぎが増えて、そのたまねぎをまた食べる。
こうして世界の食料危機は解決した。
今日、彼と別れたんだ。
どこにも寄らずに、帰り道、一人で歩いて家まで帰ってきた。
それまでただの抜け殻みたいにね、ぼうっと歩いてまるで夢遊病者みたいだって自分でも思っていた。
そうして今、自分の部屋にいる。
抜け殻よか、石膏像みたいにしていたけれど、5時のアラームで引き戻された。親は今日は遅いから料理しなくちゃ。
台所で冷蔵庫のものを確認して、野菜炒めでいいやと適当に決定。
ピーマン、人参、あとじゃがいもでもいれてね、たまねぎも使ってみようか。いろいろとりだしてから、すぐに調理に取り掛かった。
たんたんたん、と包丁で切っていく。
リズミカルでも、なんのビートも感じさせない、そんな音が一つと私が一人。
それがやたらと私を虚しくて、悲しくして、悲しくなった途端に今日のことが思い出されて、涙が出てきたよ。
そんなうちにドアが開く音がして、母が帰ってきた。
「急に早く上がっちゃって。……あら、どうしたの?」
「え? ……あぁ、たまねぎのせい」
曇った視界で切ってたらみじん切りにしちゃったよ、たまねぎ。野菜炒めなのに。
最後に残しておいたイカリングが実はオニオンリングだったと言い捨てて出奔した。実のところ理由などどうでも良かったのだろう。冷めてくたりとしたフライの衣と、油の臭いの充満する家が嫌になったのかもしれない。
家事はしないと公言する人だった。長く伸ばした爪を派手な色に塗り、しみひとつない手をしていた。だからあの時は異例中の異例。西日が差すキッチンで私たちは野菜の下ごしらえをした。おそらく六度目の仕事を辞めたときだ。でなきゃあんな時間に家にいるわけがなかったし、夕飯の支度を手伝うなんて珍しいことも言い出さなかったはずだから。
これが苦手なのはね、境目が分からなくなるからなの。いつも気がつくと剥きすぎてしまってる。
よどみない口調とは反対にのろい手の動きを止め、ぽろぽろと涙を零し出す。
どこまででやめればいいか、分からなくなるのよ。
振り向く私に、泣いているのはたまねぎのせいだとそっぽを向く母は、涙を誘発する成分は切ったときでなければ揮発しないということを知らない。
別に全部剥いたっていいよ。みじん切りにするから。
その後みじん切りにした分はどうしたのだっけ。包丁を手にしながら、今度は私が泣く番だ。
「たまねぎに気をつけろ」
鬼船長は突然そう言った。
意味不明。だが、恐くて訊き返せない。とりあえず厨房に行く。
「せ、船長が言ったのか?」
料理長は蒼ざめて過去のメニューを調べ始めた。最高でない料理は一つもなかったのに。
倉庫番に訊くと、
「鼠!」
あわてて猫型ロボットを取りに行く。
医務長は薀蓄を傾ける。
「血栓を予防し、睡眠を促し、便秘に効く。大昔は壊血病予防にも……」
延々と続くので、途中で逃げ出した。
庶務のオールドミスは、
「なによ、私の髪がタマネギだって? え、船長がそう言ったの? ふふ、私って罪作りね」
誰もがこんな調子だ。船長が鬼になるのも仕方あるまい。
嘆息していたら副船長に叱られた。
「混乱を撒き散らす場合か!」
そうだった。地球着陸まであと半日、誰もが大変な時だ。私だって最後の船外活動が迫っている。正直にわかりませんと言って殴られるべきだった。
ブリッジに戻ると、鬼船長が放射線モニタの前にいた。強く反応しているのはバン・アレン帯。宇宙服なぞ役に立たぬ危険地帯だ。地球を幾重にも包むようなその姿は、ドーナツ状と言うより……
「バカ、たまねぎも知らないのか」
だが、口調は優しい。乗船して初めて胸が熱くなった。
スパニエル星人との戦時中、たまねぎが市場から消えた。
犬型異星人の奴らにとって、たまねぎを原料としたアリルガスは死の兵器なのだ。軍は、たまねぎ農家を買収し、収穫物を全て供給させた。軍需物資として。
そんなわけで、たまねぎは、闇ルートを通じてしか我ら庶民の口には入らなくなった。たまねぎ無しのカレーの味とは、斯くも貧弱なのかと、あの時期に初めて知った。
しかし、それも過去の話だ。たまねぎのお陰で、圧倒的勝利を収めた我々は、着実に戦後復興を遂げている。地球に残った敗残兵達が、未だ散発的なゲリラ活動を続けている様子だが、それもそのうち終息するだろう。
ギィ……。
ドアが弱々しく開く。突然の闖入者は、フラフラと、倒れ込む様にカウンターに辿り着いた。
毛だらけの長い耳と口——スパニエル星人のゲリラ兵だ。負傷している。血に濡れた手が、救いを乞うように、二度三度、カウンターを掻いた。助からない傷だなと、俺は思った。
「何か飲むかい?」
「ギブソンを……パールオニオンは抜いてくれ」
末期の一杯だ。飾りの無い酒では寂しすぎる。俺は、オリーブに串打ち、
「マティニじゃ駄目かね?」
そう聞こうとしたら、彼は既に事切れていた。
もうお別れよこんどこそ本当にさようならさようならこっちをむいてさようならさようならさようならさようならさようならさようならさようならさようならさようならさようならさようならさようならさようならさようなら涙が止まらない。
今日は母さんの葬式だから、刻んでハンカチに忍ばせておくの。
「陣中見舞いにはなにが欲しい」と訊ねるといつものように無愛想な声で「たまねぎ」のひとことだけが返ってきて通話が切れた。
え、たまねぎ。いま、たまねぎっていったよね。なんでだろ。まさか急にオニオンスープが作りたくなったわけでもあるまい。
ちょうど通りかかったお弁当屋さんの店先で籠にたまねぎが山と積まれていた。
「ひとつ80円」とあり、「産地直送」と赤で大書されていた。背後のボードには手がけた人と畑の写真が貼られ、栽培へのこだわりまで記されている。ソフトボールくらいの大きさで、丈も詰まっていた。
ふたつ買い求め、袋に入れて、自転車で河原へと急ぐ。シオンは不機嫌そうにガムを噛みながら、製作にいそしんでいた。
「でかした」満足げにうなずく。「皮だけがいる。人形の着物をこれで染めるんだ。実はおまえにやる」
実だけ渡されてもな。「今日の夕飯だけど、カレーとハンバーグどちらが食べたい」
皮をむきはじめたシオンはこちらを振り返りもせずに即答。「ハンバーグ」
「よし」ならば、ひき肉を調達してこよう。ふたたび、自転車のペダルをこぐ。風が吹いてきた。空は快晴。自然と口笛が出た。
なんで泣くんだよ。
泣きたいのはこっちのほうだ。
僕を覆っていた鎧を、会う度にいつも君は、
1枚ずつ、ペロリペロリと剥がしてゆく。
その度に僕は、君にソロリソロリと気を許してしまうんだ。
誰にも見せやしなかったツルツルで真っ白な僕を、
とうとう見せてしまったというのに、どうしたというんだ。
君は黙って、ペロリペロリとまだ僕を剥がしてゆく。
泣きながら会う度に君はペロリペロリとまだ僕を剥がしてゆく。
なんで泣くんだよ。
泣きたいのはこっちのほうだ。
もう鎧なんてつけてないのに。
もうそれは、生身の僕なのに。
もうこれ以上は、やめてくれ。
僕がいなくなっちまう。
君の前からいなくなっちまう。
・・・・わかった。
君の泣いてるその理由。
僕をなくしてしまうからだな。
それを前から知っていたからだな。
それでも君はやめられないからだな。
わかったから、もう泣くなよ。
たまねぎが、いきなりしゃべり出した。
「お前なんかに食われてたまるか。誰が貴様の血液をサラサラにしてやるかよ」
子供に聞かせる嘘話のように、手足を生やし、まな板の上でたまねぎは、立っていた。クララでもないくせに。俺の意識は? あぁ、ちゃんと保っていた。頬をつねったが、普通に痛い。
常識的に考えるとおかしいが、最近アルバイトで疲れていたので、幻覚だろう。よし、解決。超常現象は知らないフリをするが一番。
とりあえず、今夜のカレーで使うため、たまねぎを切ろうとした。
「何をしやがる。貴様に食われたくないって言っただろ。当たるか、そんなの。い、痛っ。貴様、フェイントを入れやがったな」
入れた。しかし、目がすごい痛くなった。
「はははっ、アリルプロピオンなめんじゃねぇぞ。ばーか、ばーか」
人は怒りで笑いが込み上がると初めて知った。野菜に馬鹿にされれば、嫌でもそれを知る。沸騰しすぎた脳みそは、限界点を超えて逆に冷静になる。
「まじか。悪いな、風呂を沸かしてもらえるなんて。おっ、いい湯だな。人間のくせにやるじゃないか」
脳みそがある人間様をなめるな。そう思いながら、俺はたまねぎを鍋で茹でていた。
料理をしていて玉葱が欲しかったので妹に頼んだら
レインボー★たまねぎというものを買ってきた。
サラリーマンが路上販売してたらしい。その名刺には
「超たまねぎ開発秘密結社 EBARA」の文字。
どこがレインボー?と切ってみたも中身はいたって普通だった。
安心してスープに入れて味見をするとまず最初にカレーの味がした。
次が味噌、そしてバシル、キムチ、醤油と続く。
そういう7色かと理解した時にはスープは台無しになった後だった。
その翌日、妹に玉葱を頼むとまたその会社のたまねぎを買ってきた。商品名は
ゴールデン★たまねぎ。皮を剥くと今度はネーミングどおりの黄金色の実がでてきた。
なんて悪趣味なんだ!と包丁をたまねぎに振り下ろしたら刃がぽきっと折れた。
ふざけるな!と同封してあったチラシをつかむと
「ゴールテン★たまねぎ これぞ本当にEBARA黄金の味」
と書いてあった。この秘密結社EBARA、本社は大阪だった。
そのまた翌日、妹は新発売だというたまねぎを買ってきた。
商品説明に書いてあった言葉は
「未来型たまねぎ★タマネギーター I'll be back」
妹からたまねぎを手渡されるとごそっと動いた気がしたので、
そのまま無言でごみ箱に捨てた。
「オニオンリング好きだねぇ」
店員下がったの見計らって、他愛ないこと口にしてみる。
「旨いじゃん。新たまの時期だし」
「不味くないけど」
「こっちってさぁ『生ラム』ばっかだけど、実家帰ると『味付け』だけがジンギスカンでさぁ」
沈黙怖いんで先を促す。あっ! ジーマーミ豆腐あるんだ。へぇ〜。マニアックだなぁ。なんて、メニュ見ながら。
「なもんでぇ、高校の遠足ん時なんか、肉屋に火と肉持ってきてもらって、昼間から公園でジンギスカンしたりすんだけど」
「ジンギスカン遠足」
花見でも月見でもジンギスカン! の人たちの考えることは恐ろしい。
「うん。で、当時の担任が『生で食べると辛いのに、火を通すと甘くなるから不思議だ』とか」
店員がジョッキとウーロンハイとお通しとオニオンリング(!)を運んできたので、ジーマーミ豆腐を頼む。絶対チンしただけだ。オニオンリング。
「で、オチは?」
間が悪くなったけど今ひとつ盛り上がんないし。
「俺らの関係も、もうちょい熱して、こう、甘〜く」
「つまらん」
ひとつ抓んでケチャップ浸しがぶり。いろんな味がすこしずつ口の中で広がって、でも、自然の甘さが統べる。
美味しい。
雰囲気込みだけど。