500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第81回:黒い羊


短さは蝶だ。短さは未来だ。

僕の家は腐っている。
呼吸を繰り返すたびに、僕の肺は黒ずんで崩れて行く。けれど、それはやはり僕の幻想で、現実の僕はまだ腐って死んだりしない。
足音が聞こえる。
今日、僕は殺されるのだ。ずっと前から、それが分かっていた。
兄さんと父さんは、この家にもういない。腐りきる前に、二人は家を出て行ったのだ。僕を置いて、僕だけを置いて、出て行ったのだ。
アンタノセイヨ。
僕が生まれてから、仲が悪くなったのだという。そして、僕もその通りなのだと分かっている。
ドアが、ゆっくりと開いた。
僕は目を閉じ、耳を塞ぎ、わからないふりをした。
きっと、僕は生み直されるのだ。この身体は生贄として神に捧げられて、僕の魂は清浄な腹に宿ってまた生まれる。
そのために、僕は一度死なねばならない。生んだ人の手によって、もう一度再生される。
冷たい感触が、首に纏わりつく。
息が出来ない。
息ができなくなれば、これ以上醜く朽ちてゆくことはなくなるのだろう。それは、ある意味では良いことなのかも知れない。
やっと、この汚い身体から離れられる。
これが最後なのだと眼を開けて、神様が泣いていることに気づいた。



 ねえ君、おぼえているかい?いつか見たはずの、あの青い空。
 すべてが止まったあのとき、君の祈りだけが闇にひびく。
 あのとき、誓った約束。君は、もう忘れてしまったの?
 翼が欲しくはないかい?この街を捨てて旅に出よう。
 闇に染まる羊かぞえて、遠い朝を待つ。ちがう、あれは羊じゃないよ。迷える魂さ。
 弱い自分を捨てられたとき、きっと、日はまた昇るから。

 ちいさな、その手に握った。昨日の夢、それとも遠い未来。
 姿を映す鏡は、黒い闇に染まり、時を止める。
 黒い羊、あれはきっと、僕らが流した涙。二人ゆれる鏡の中に光差し込む。
 力のかぎり、走り続けよう。だから、なにも怖くない。

 命尽きる、そのときまで、光もとめて。黒い羊、消えたあとに、涙も消える。
 
 日はまた昇る。



 黒い羊から、予告状が届いた。
 何億もする宝石ばかりを盗む怪盗の名。毎回、予告状というふざけたものを警察に送り、盗みを実行する愉快犯。
 黒い羊はお遊びなのかもしれないが、我々は自分の首を賭けているのだ。絶対に監獄にぶちこんでやる。今回の獲物は、資産家として有名な富豪Tの金庫で眠っている宝石の軍団だ。全部で、国一つ買えるかもしれないらしい。
 地獄の門のようにそびえ立つ金庫の扉。それを前にして、俺と数百名の部下達は監視として配置についていた。これだけの人数がいれば、下手な行動は出来まい。
「あ、実は僕、黒い羊なんですよ」突然、部下の一人が、正体を告白した。「あ、俺も俺も」「すいません、私も」「てへっ、僕も」「俺もだよ、あははっ」「おいおい、俺もだよ」 気がつくと、この日のために集めた数百名の部下全員が黒い羊と挙手した。俺は、意味不明な事態に数秒固まる。その数秒の間、目の前は真っ暗になった。比喩ではなく、現実だ。どうやら、ブレーカーか何かを落とされたらしい。
 明かりが点くと部下は全員消えて、金庫も開けられていた。中には、一枚の紙だけが入っていた。
 ■あの中の黒い羊は、アンタだったね。■



 世界遺産ツアーの最終地で人を乗せた羊の長い列を目撃した私は一目でその愛らしさに夢中になり、すぐさま現地のガイドをつかまえてあれはなんなのですかと質問した。
 ガイドは平坦な市街地の遥か彼方を指差しながら「むこう、マムヌ、高い高い山、あります。羊、そこ、いきます。むこう、つく、また、もどってきます。一週間する、また、マムヌ、いきます。それ、ずっと、くりかえします」とへたくそな英語で(これはありがたかった)教えてくれた。私も乗ってみたいな、と言ったらいなされた。
「羊、だんだんよごれます。さいしょ白。おわり黒」
 なるほど。確かに車が行き交う大通りのその真ん中を進んでいく羊たちの姿は総じて汚れている——薄く砂をまぶしたようなやつらからキッチンの油汚れみたいなやつらまで——汚れるのはきっと、羊の背に乗っている人たちがみんな土気色した不潔そうな人たちだからなんだろう(若い男女もまじってるのにねぇ)。あんなのに必死につかまれたんじゃあ、そりゃあ真っ黒になるでしょう。
「黒い羊、死ぬ羊」
 それは気の毒に。
 私が恋人への土産に気の毒な羊がプリントされた黒いTシャツを購入したのは、言うまでもない。



「いい加減、休ませてほしいよなぁ」
 蛇鉾を支えにもううんざりだと狭い石橋に座り込む。下の川は屠り落としたばかりの死体が流れている。今まで何人を流したか。
 ごほっ、とむせた。全身に染み付いた生々しいにおいに息が詰まったのだ。
 そこへ、新手。
「また来やがったよ」
 狭い石橋の上、蛇鉾を支えにまた立ち上がる。仁王立ちする姿は悪魔そのもの。殺到した人々をざっくざっくと刺し殺した。
「休ませてほしいよなぁ」
 幾重にも幾重にも重なった上に、新たな血を浴びる。何度浴びようがすべて吸い取ってしまうのは悲しい体質。広い荒野の狭い橋で長物を自在に手繰りながら、かつての柵の中を懐かしむ。白かった。
「汚れちまったよな」
 ごほっとむせながら、また新手を屠る。舞い散る血。
 今となっては、なぜ遁走したのか分からない。最初に浴びた血が羊飼いの少年だったことだけ、覚えている。
——好きだった。
 今なら少年の気持ちが分かる。
 逃げようとする人々を切り殺し血を浴びながら、思うのだった。
 人々の死体がどうなるかは、知らない。



 残業を終え帰宅すると手紙が届いていた。海外からの船便だった。差出人はドレスデンの劇場となっていた。丁寧に黒い封蝋でシールされ、羊の紋章が押されている。まさか招待状でもあるまいにと思い封を切ると、案の定、奴からの手紙だった。
 奴から手紙を貰うとろくな事がない。ご多分に漏れず、中身は病床で俺の顔を思い出したの一文と、細君によって綴られた、異国で倒れた男の最期を告げる報せだった。
 俺は早々に役者になる夢を諦めたが、お前は声楽家になる夢を諦めきれず、折角入社した上場企業を退職してまでドイツに渡った。近年やっと端役でオペラの舞台に立てるようになったと言っていたのではないか。俺の手の届かない場所へ行ったと思ったら、お前、今度は俺の声すら届かない場所へ逝ってしまったと言うのか。冗談も大概にしろ。
 何も言えず、俺はラックからラフマニノフのCDを出し「ヴォカリーズ」を再生した。本当は俺が死んだ時に、葬式でお前に歌って貰いたかったんだぜ。
 俺は奴が駆け上っていったであろう星空を見上げた。
 月はまだ傾かない。



 やっと手に入ったの、毛糸。そう、黒い羊の。予約して、何ヵ月待ったっけ?
 六日前に届いて、大急ぎで編み上げて、すぐに達也にプレゼントしたの。もちろんマフラー。すっかり暖かなっちゃって、もうマフラーなんて季節外れだけど、たっくん、すごく喜んでた。こめかみがひくひくしてた。
「さっそく、巻いてもいい?」って訊くから
「早く早く!」って、おねだりしちゃった。
 首に掛けるとすぐに、ぐっとマフラーが絞まった。達也、みるみるうちに顔が真っ青になって……。あっという間の出来事だった。
 黒い羊の呪い、効果バツグンだよ?祐子も試してみなよ。



「らくがきじゃないの、ぬりえしたの」
 その子は色とりどりの羊の絵を見ながら言った。保育所の所蔵する絵本。
「だってしろくろだったんだもん、かわいそうだったんだもん」
 子供の発想は面白い。大人じゃとても思い付かないようなことを平気で言い放つ。そこが面倒でもあり、楽しみでもある。だから保育士になった。子供は大好き。
「この赤いのは?」
「ママ」
「青いのは?」
「パパ」
「この水色は?」
「おとうと」
「ピンクは?」
「あたし」
「緑は?」
「しょういちくん」
 笑顔で、カラフルな羊たちを解読していく。
 と。
 中に真っ黒な羊をみつける。
「この、黒いのは?」
「それはパパのおんなのひと」



 メリーさんは羊飼いの娘です。ある日、お父さんから預かった大切な羊の螺子を締め忘れていたせいで、羊は解体して666匹の小さな犬になってしまいました。逃げていく666匹の犬をメリーさんは必死に追いかけて、なんとか444匹捕まえました。メリーさんは444匹の犬を大鍋に押し込んで煮詰め、とろとろにしました。とろとろになった444匹の犬を捏ねて、メリーさんはお父さんの羊とそっくりな羊を作ろうとしました。
 完成した羊は、222匹の犬が足りなかったので一回り小さくなりました。そして、メリーさんが一生懸命捏ねすぎたので真っ黒になってしまいました。水に触れるとどろどろに溶けてしまうので、洗って綺麗にすることはできません。
 メリーさんが家に帰ると、一回り小さくなって黒くなった羊を見たメリーさんのお父さんはかんかんに怒りました。かんかんに怒ったメリーさんのお父さんは、力任せにメリーさんの螺子を緩めました。螺子を緩められたメリーさんは解体して、1999匹の羊になって逃げて行きました。



 あの子は気付いていたよ。だけど何も言わなかった。あの子はそういう子なんだ。
 みんなお前を怖がってたよ。お前は滅茶苦茶してたからね。そんなお前の命令だもの、そりゃみんな言う事はきいたさ。口も固かった。でも、そんなのは続く訳はないんだよ。今回の事がなくたって、すぐ引っ繰り返っただろうよ。お前だってずっと無茶は出来ないだろ。簡単に爪弾きさ。
 でもね、あの子が我慢していたからそうはならなかった。お前はあの子をいじめさせてるつもりでも、本当はあの子に守られていたんだ。だけど、もう守って貰えない。それを忘れちゃいけないよ。あの子がいなくなって、お前は身ぐるみを剥がされたんだ。お前は、弱くなったんだよ。弱くなって初めて、本当に強くならなきゃならなくなったんだ。
 どんなに踏みつけにされても、あの子はずっと胸の中は変わらず真っ白でいられたんだ。すごいと思わないかい。お前にはお前なりの理由があったかも知れないけど、そんなのは通用しないよ。お前はもう一人きりだからね。自分で自分を一人きりにしたんだよ。
 お前は気付いてなかったんだね。あの子は、お前の事が本当に大好きだったんだ。お前は、弱くなったんだよ。



 あおぞら。雲は一つもありません。
 ですが、ゆうちゃんは大きな雨傘をひろげていました。傘をさしたゆうちゃんは自分の足元を見ています。なんとなくおどおどしているようです。
「変な子」
 そんな声がゆうちゃんの耳に入りました。ゆうちゃんの顔が曇ります。
(今日はおばあちゃんが天国に行く大事な日)ゆうちゃんは傘の柄を強く握りました。(雨が降ったら神様が来れないし、おばあちゃんが天国に昇れなくなるんだ)
 ゆうちゃんが手にしているのは、さすと雨が降らなくなる傘です。呪文を唱えながら渡されたおじいちゃんの傘なのです。実際、あれだけ降っていた雨が傘をさした途端に、ぴ、と止んだのでした。
 雨が止んだらもう傘は要りません。でも、この傘を閉じたらまた雨が降るでしょう。ゆうちゃんは自分でも変な格好だと思いながらも傘を閉じられませんでした。
「どこにでも変なヤツが一人はいるもんさ」
 そんな心ない声を耳にして、ゆうちゃんはしゃがみ込んで泣き出してしまいました。
 開いた傘が包みこむようにゆうちゃんの姿を隠していました。



 大学で過激な思想に気触れたお兄様は、勘当同然で家を出た。家名を汚す奴など、もう息子でも何でもない、と息巻くお父様は、近頃事業も投機も上手くいっていないので余計に苛立っているよう。新しく入ってきた女中に手をつけては口止め料を握らせることを繰り返すので、我が家の資産は目減りするばかりだ。
 婿をとることが決まったお姉様も、その婚約者の弟と通じているのが露見するのを怖れてか、いつからか私と口をきかなくなった。お母様が「実の姉妹じゃないの、仲良くなさいな」と仲裁に入るも、実際に血が繋がっているのかどうか怪しいものだ、と心のうちで笑ってしまう。さすがのお母様も、私のお腹の子の父親を知ったら驚くのだろうか。
 この家の者たちはまるでお兄様が最初から存在しなかったかのように振る舞う。私が忘れてしまえばそれきり、痕跡すら消されてしまうのだろう。
「革命……」まだ膨らんではこない腹部を撫でながら声に出してみる。私には学はないけれど、お兄様が行動を起こすより先に、この家が崩れ去るだろうということだけは分かるのだ。



 今夜もまた雨雲が、悲しい夢を連れてくる。



 黒い羊は歩いていく。生まれた群れから離れて、遠くへと。
白い毛皮の大人たち。彼の見た目を忌み嫌う。
ヴぇーー、という鳴き声と、ぞりぞりという毛剃の音を背後に聞いて、彼は歩く。毛が使えないから食用にと考えていた羊飼いも、その痩せこけた身体と真っ黒な色を嫌っていたから、見逃した。
 いつか黒い羊の群れが見つかっても、そこは彼の故郷ではないのに、彼は歩く。

 途中で出会った黒い群れ。彼より小さく、飛んでいた。ぎゃーぎゃーと騒いで彼を追い立てる。光りも透けもしない彼の毛は、その鋭いくちばしでむしられることはなかったが、彼は小さく傷ついて、また長い道のりを歩きはじめた。
 次に出会った黒い群れ。彼より大きく、毛が短い。低い声でモオーとほえる。違う場所では人間を、跳ね飛ばそうと大暴れ。貧相な体に力をこめて、彼はすぐに逃げ出した。
 最後に出会った黒い群れ。後ろ脚だけで立って胸を叩く。その威嚇に、ここも違ったと向きを変える彼に、群れの子どもがまとわりついた。驚いて身体を振って回したら、子どもはきゃっきゃと喜んだ。
 ずっと歩いた黒い羊。ゴリラの巣の木の根もとで、今日も眠る。



「煙草一本もらえねえか」
 部屋でくつろいでいると、羊が話しかけてきた。
 卓上の箱を確かめる。残り二本しかなかったが、まあいいやと羊の口へ持っていき火を点けてやる。羊がゆっくりと煙を吐き出す。するとその煙が、頭上でぷかぷか羊になった。あれ、じゃあ吸ってる方は?
「ぬけがらさ」
 なるほど。確かに生気もない。吸いかけの煙草をぬけがらから奪って自分でくわえる。フゥーッと、せっかくだから煙たしてやる。頭上で羊はずいぶんともこもこだ。
「ウールなら取れねえよ。それよりコーヒーもらえねえか」
 ブラックで良ければ飲むといい。ストローあった方がいいか、とキッチンから取ってきて、また口へくわえさせる。ちゅるちゅる吸って羊は真っ黒になった。雨雲みたいだ。
「降らねえよ」
 降られても困る。
「そんじゃあ、あばよ。俺はさすらいのニコチン野郎だ」
 どっかで聞いたような台詞を残して羊は消えた。
 最後の一本に火を点ける。ぬけがら、何かに使えないもんか。



 群れに一匹黒い羊が混じってしまって、と言われて本当にそんなことがあるのかと出向いてみたのだけれど、ほらこいつですと示されたのを見れば麻紐のような薄茶色をしている。ほつれ気味の毛並みはお世辞にもつややかとは言えないが、ようやく牧草も枯れ尽くした初冬の平原で、その毛色はむしろ溶け込んで見えるくらいだ。
 「混じったって、どこかから紛れ込んだの?」と訊けば、そうではないと言う。この一帯で放牧されているのは彼の群れだけだから、ある日気がつくと一匹だけそういう毛色になってたってことらしい。群れの中から生じたのならそれは自然なことだし、そもそも黒くもないのだから構わないでしょう、と言うと、白でないのは黒と同じです、と答える。そう言われて見渡すと、確かに彼の群れは一点のくすみすらない純白の羊ばかりで、それはまるで夏の入道雲を陽に照らされた側だけ見ているかのようだ。
 白と一口に言ってもさまざまだし、人によって好みもあるから、と言ってはみたけれど、彼は思い詰めたように唇を結んでから一言、でも白じゃなきゃだめなんです、と呟く。あらためて群れを振り返ると、平原でそこだけハレーションのように色が飛び、背景から浮き出して見えた。



 白い羊の牧場に一頭だけ黒い羊がおりました。毛も肌も黒い若い羊です。色が違うだけで、白い羊と餌もなにも変わりません。牧場の主人も変わらずに接していました。
 ある朝、みんなの水飲み桶が壊されていて、そばに黒い毛がありました。黒い羊にはおぼえがなく、桶のそばには白い毛だってたくさん落ちていたのですが。まわりの冷たい視線を感じた黒い羊は、夜のうちにこっそり牧場を出ました。戻る気はありません。
 月夜の晩でした。黒い羊は丘を越えてその向こうをめざしました。そこには黒い羊ばかりの牧場があると聞いたことがあります。
 丘の洞窟のそばを通りかかると、狼の集まりに出くわしました。黒い羊は岩陰に隠れます。夜の闇が黒い姿を護ってくれます。狼たちは明日の夜に、白い羊の牧場を襲う計画を話していました。
 静かに黒い羊は丘を下りました。戻らぬと決めたはずの牧場に戻り、主人にこのことを話しました。主人は大急ぎで取り餅の罠を仕掛けました。
 狼たちは罠にかかり、毛皮にされて売られてしまいました。
 黒い羊は、いまも白い羊の牧場にいて、夜の見まわり隊長となり、みんなと仲良く暮らしています。



 真っ白なあのふわふわの毛は、目立ちすぎるから。
 残された山の中で羊達はそれぞれ、狼の腹の中、泥棒の懐の中、森の外へと消えていった。事の起こり、事の終わり、羊飼いの全財産、残った羊の白い毛を、一筋も余さず黒く染めあげる。死にまみれた仲間達の、たらたら流れる血で赤黒く。1匹の羊は闇に紛れ綱で繋がれ、羊飼いの目も行き届き、平穏に暮らした。
 けれど根まで黒く染まった羊の毛は使えない。染めることもできず、匂いも酷く、それは雄で乳もでない。与えるエサは尽き、丸かった胴が削ぎ落ちる。日々の糧、羊飼いの羊よ。なんのためにあったのか、なんの役にたつのか、育てる意味がもう判らない。
 黒い毛を刈って肉と骨を断ち半分を干し肉に、半分は薄く切って夕飯にした。野菜と一緒に鍋で焼く。黒いタレにつけ、いただく。最後の一匹は羊飼いの腹の中に納まった。寒々しい夜空に白い煙がたつ。美味なるラム。温かいジンギスカン。芯から冷える夜を慰める。迷える子羊はもういない。迷うことはもう、ない。
 黒い羊は血の味がした、肉の味でなく。



 人の顔見て「メーメー」言ってんじゃねぇーよ。どうせ二言目には「旨そう!」だろ? なんだ、お前らバカか? バカなのか? ええ? 間違って手紙喰っちゃうぐらいのバカか? って、それはヤギだってぇの! 漢字なら「山」が付くんだよ。山。ノリツッコミさせんなや。いくらIQ低くても、それぐらいわかんだよ。
 だから、人の顔見て「メーメー」言ってんじゃねぇっつーの。な後ろ回り込んで囁いても、見えてるし聞こえんだよ。ウールマークなんか付いてねぇっての! バカにすんなや。伊達や酔狂で角生やしてんじゃねぇーんだぞ。こんにゃろー。
 だ〜か〜ら〜、えっ? 「メリー」? 捻ってきやがって! ちげぇーってんだろ。「ドリー」でもねぇよ。「だっちゃ」って、わかりにくいんだってぇの。いい歳こいてラムなわけねぇーだろが。マトンだよ。マトン。マ・ト・ン! そもそもサフォークじゃねぇーし。あと群れてっからって、人のこと「ビビり」とか「厄介者」とか言うなや。これでも結構繊細にできてんだよ!
 だから「メーメー」じゃねぇっての。せめて「ベ〜」と鳴け。「ベ〜」と。ビブラート効かせてな。ベ〜



 黒い羊を育てるには、まず、けがれを知らない真っ白な子羊を用意する。そして、永遠と正しさを吹き込んでゆくんだ。世の中のありとあらゆる正しさを、丁寧にひとつひとつ吹き込んでおくんだ。事前にすることといったら、そのくらいのもので。あとはじっと変わりゆく様を見届けるだけ。
 正しさだけでは生きていけないからね。必ずどこかで現実を知るんだ。その瞬間、白色が黒く変化する。多少、個体差があって、灰色のままでいるものや、真っ黒になるものもいる。稀に、ごく稀に、真っ白なままのものもいるけれど、そいつは弱い。すぐに消えていってしまう。子どものままでは生きていけない。白いままでは生きていられないんだ。



正しい教育によって国際競争における日本の位置を高める事は、国および関係諸機関の果たすべき最大の使命である。教師の資質の問われる昨今、学級経営と学力指導の両方を一教師に求める事は困難であろう。学校の評価が試験結果並びに進路に強く依存している事を考えるならば、教師は学力指導に専念すべきで、故に学級経営の簡易化が急務である。
特定生徒に対する徹底的差別により集団が鎮静化する事は、経験的に広く知られている。弱者に人権は存在しない。

……公には存在しない通達だな。校長以上で、しかも真意を理解出来る者しか読んではいけない。君のように読解力の無い教師は特にね。
 学力なんてどうでも良いんだ。欲しいのは、企業や政府にとって善良な羊となる生徒だ。黒い羊を白く染める調教、その為の独裁教育なんだよ。だからスケープゴートは白羊から選ばなくちゃならん。白を黒と言いくるめてこそ秩序が保たれる。
 君は愚かなことをした。本物の黒い羊を選んでしまったんだからな。マスコミ沙汰となり、皆が困っている。心的傷害も立派な傷害罪だ。
 まあ一度の失敗にめげないで頑張ってくれ。今度は君が黒い羊だ。檻の中を経験すれば立派な教師になれると言うぜ。



 羊のやつは、今日も黒い顔を窓枠に乗せている。ビロードのような瞳はしんと深い夜の色。顔や手足だけでなく、もこもこの毛まで黒い。羊は笑わない。部屋の中には青ざめた水の匂い。羊の目に映った空は暗い色。その丸い空を見る。丸い空に鳥が泳いでいる。羊がゆっくりと目を細める。空が半分になる。羊の目の前で、手をぱちんと打ち鳴らす。羊は驚きもしない。なぜなら、顔も手足も毛も黒い羊には心がないのだそうだ。なら、そうだな。羊の真っ黒なもこもこの毛を、真っ白に染めてやれば驚くだろうか。もしかしたら笑うかも知れない。
 けれども、黒い毛を真白く染めることができる染料が見つからない。



今日も一日、机だけを見てた、クロイヒツジ。
呼ばれることに慣れてるんだ、本当の名前じゃないけど。
本物の孤独を知ってるから、嫌な感情だってあたしの存在価値に変えて走るよ。
腕時計の針、3、2、1。
チャイムの音であたしは解放される。
丘の上へ行ってオレンジ色の街を見ると、今日がリセットされるような気がして、あたしは自転車を漕ぐ。
早く、早く、夕日が落ちる。
息を切らせて長い坂を上ると、いつも誰もいないはずのそこに、綿飴売りに群がる女の子達がいた。
女の子達は銀貨と引き換えにブルーやピンクの綿飴を手に入れて、丘の向こうへ歩いて行く。
お客がいなくなるのを待って「そこ、あたしの場所なんだけど!」って言った口は黒い綿飴に塞がれた。
見た目と同じ苦い味。
「昨日と違う今日になっちゃったじゃない」って言ったのが理不尽なのはわかってる。
でも「明日もきっと違う今日になるんだ、そうやって世界は出来てるの」っていう返事はズルい。
ムカッときて、自転車を押して坂を下りようとして—振り返ったら綿飴売りはもういなかった。
明日も一日、きっと机だけを見てる、クロイヒツジ。
だけど何だかちょっとだけ、人間に戻るのも悪くないような気がしたよ。



 何かを叫ばれたり囁かれたりしてその羊は黒くなる。何かとは悪意のある何かだ。羊の黒色はそのまま悪意を体現している。黒変した羊毛を刈り取る男がいる。男は羊毛を加工し、様々な種類の衣類として世界中に輸出する。着心地の良い上質の衣類として一定の評判を得る。裸になった羊はやがてまた毛を纏う。男は悪意によってそれを再度染め上げ、そして出荷する。少しずつ男の悪意は世界に拡散してゆく。
 ある時男が唐突に死ぬ。残された羊は餌を求め小屋を出る。羊の通る道には黒い染みが足跡として刻印される。羊は各地を旅し続ける。様々な人や動物と出会い、様々な餌を食し、そして一つの恋をして羊は娘を腹に宿す。その頃には人類は絶滅している。世界が薄暗く変色を始め、影響は羊たちにも及ぶ。出産直後に羊は死ぬ。娘は真っ白の体で数ヶ月を父親と共に過ごす。父親は死ぬ際に遺言を残す。遺言を頼りに娘は点々と連なる黒い染みを発見し、それを辿り始める。一歩踏みしめるたび、染みは娘の体に吸収されてゆく。やがて娘は小屋を見つける。そして黒く染まった体を横たえ静かに闇と同化する。



 羊が一匹羊が二匹羊が三匹羊が四匹羊が柵を跳びこえる。羊が五匹羊が六匹羊が七匹揃いも揃って羊は同じ象牙白(アイボリー)。羊が八匹。羊を数えるなら一頭二頭だろと言う声がする。いいんだ夢の中いやまだ半睡状態のこの空間では羊の大きさはミニチュアサイズの九匹十匹十一匹。黒い羊が跳んだ時、緑の草地を裏返し長閑な昼空をつんざいて銃声一発。羊を撃て。ライフルの銃身は長い。森の梢に届くほどだ。この瞬間に同じ銃爪を引く一万人その中の芥子の一粒となって眠りに落ちる。生ぬるく腐った野菜畑で処刑される百万人が一斉に吹きこぼす血の泡に夜の帳が落ち海に沈み泡泡泡に包まれながら、声を聴く。王子様、戴冠式の準備ができました。成功したのかよクーデター。民族浄化のギャグセンスは偉大だ。余り物を処分すれば残った物の一部がまた余り物になる。不純物は恥垢の味がするってかこのおしゃぶり野郎。人殺しを面白がる奴らの頭の中にはミミズがいっぱい詰まっていてもう戻らない世界の空疎な言葉を片端から呑み込んでモルヒネ打って切り刻まれる拷問よりも快い魔法の糞を垂れ流しているのだろう脳内麻薬中毒の羊ども、黙れ。



 薄曇りの昼さがり、レストランを出ると、黒い羊が直立で歩いているのを見た。折り目正しく黒いジャケットを着て、黒いカバンをさげ、とことことやって来る。近くで見ると確かに生の羊だったので、私は思わず後をつけた。
 羊は人で賑わうオープンカフェに立ち寄ると、コーヒーを注文し、カバンから真っ黒い紙を取りだして読みはじめた。新聞紙のような大きさだ。遠目では何が書いてあるかさっぱり分からない。そのうちスッと前足を上げて、誰かに合図した。ラフな格好をした直立歩行の黒ひょうが現れ、仲睦まじく談笑した後、ひょうに会計を払わせていた。
 続いて羊は自転車店に入り、黒い自転車を買い、それに乗って軽快に走り出した。私はそこで追うのを諦めたのだが、翌朝、郵便受けには真っ黒い新聞が届いていた。手にして見てもやはりただの黒い紙だ。これが新聞だと思ったのは新聞の折り方であるからに過ぎない。早起きなレストランの店主によると、黒い羊が黒い自転車でこれを配達していたらしい。
 それから一週間後、テレビの画面が何をしても真っ黒になった。町の事情通であるレストランの店主によると、黒い羊が黒いハシゴで電波塔に登っていったということだ。



「だいたい角が無いのにな」
「見間違えたんだろ。寝ぼけてたんさ」
「今年もまたその話?」
「『寝ぼけてた』! だってそれこそがうちらだっていう証拠じゃないの」
「耳かも知れない」
「え? 何の話?」
「角と見間違えたもの」
「まあ、ヤギ連中じゃないのはよかった」
「そんなに似てないと思うけど」
「はは。あいつらじゃ、じいちゃんへの手紙、食べちゃうからね。そこはさすがに間違えないよ」
「そもそもトナカイやヤギに煙突掃除ができるわけない!」
「できるさ」
「なあに?」
「できるけど、俺らほど上手くはできない」
「いいえ」
「ああ?」
「私たちほど上手く手早く完璧にはできない」
「まあね」
「ていうか、まだ?」
「おじいさん、遅れますよう」
「まだあ」
「ぐずぐずしてると先行っちゃうぜぇ」
「おじいちゃあん!」

 めええ、めええと彼らは鳴いた。
「おお、おお、ここにいたか、お前たち。雪の中じゃ見つけ難くってかなわないよ。ソリはあっち、ほらほら、元気だね、いいことだ。さあ、そろそろ日が沈む。始めるとしようかね。今夜も煙突掃除、頼りにしているよ」
 ぴかぴかの衣裳を着たおじいさんが、準備を終えて、おっこらしょとソリに乗り込む。では、出発。



 さようなら、を頭のなかでくりかえしています。というはなしを誰にきかせるわけでもありません。
 「めぇ」ともなけないわたしは、脳みそにむかってひとりあれこれをはなしかけるので、誰かがこのはなしを知ることがあるとすれば、きっとわたしの脳みそのかけらだかが、どこか転がりおちるかしたということでしょう。
 なんて、そんなことがあるでしょうか。
 わたしはむかし、とてもわるいことをしました。
 なにをしたのか覚えていないのは、あのひとがわたしをこのようにしてから、ひどくわたしがぼんやりするからです。
 そのひとは、いきているもののなかにわたしを行かせます。
 わたしのすがたをみとめると、たちまち意識も記憶も思い出もなにもかもをなくします。
 さみしくて、空想をします。
 たくさんのなかまたちといっしょに、みんなを目覚めるための眠りへ連れてゆく白いわたしのようすを、脳みそにはなします。
 わたしはこれから先もいろいろをしなすのでしょうか。
 わたしが消えたら、誰かがかわりになるのでしょうか。
 いつか誰かが、わたしを知るでしょうか。
 何度くりかえしたことでしょう。
 さようなら。さようなら。さようなら。
 わたしのかわりが、まだやってきません。



 もこもこひつじ くろひつじ
 ぽーんとさくを とびこえる

 朝、目が醒めると枕元にこんな紙切れがあった。
 私たちの黒い羊を巡る旅が始まる。

 交番で私たち黒い羊を探してるのと言うと、動物は落し物と呼ばないよと言われた。大人はモノがわかってないと私たちは憤慨し合う。
 やはり、大人なんかに、頼っては、いけなかったのだ。
 目配せし合い頷くと、私たちはポーチにレモンキャンディを入れて西へ行く。野良猫や烏に道を尋ね、鯨の背を借りて海を越え、鷲の翼で山を越え、ずっと白い空の遠くへ行く。日が暮れ夕方になると冷たい風が頬を撫で始める。私たちは茜色に染まったひつじ雲の背に飛び乗った。ひつじ雲が鳴く。もこもこに寝転がっているとだんだん空の色が濃くなる。やがて星空の海に変わりおおぐまとこぐまが姿を表した。金銀砂子を散らした川は空のずっとずっと遠くまで流れ行く。
 私たちどこまで行くのかしら。どこでもないところへ行くのよ。なら正義の国だったら良いな。
 くすくす笑い合う。
 もうすぐだね。もうすぐ。もうすぐ! そう、もうすぐ!
 うつ伏せになって前を向いてみると、彼方にきらきら光る虹色の柵が見える。私たちはきゃっきゃと喜び合う。



「テレビが壊れた」
 同僚が笑顔で彼にそう呟いて、翌日蝶のように姿を消した。

 遊星が大地に挨拶を交わす三日前。
 彼は会社の近所の踏切の前にいた。
 人の心はどす黒いのに、夕刻の鳥は皆に別れを告げて飛び立ち、空と建物は茜色で染まる。
 彼はポケットにある希望をまさぐった。
 あったのは五十円玉。
 銀色を見つめると、中央にある秘密の穴で世界を覗いた。
 希望は砕け散り、ぐりんと歪む。
 彼には見えた、世にも恐ろしく醜い世界。
 絶望が壊れたリモコンをこちらに向けて、ボタンを押しながら「こんにちは」と醜悪に笑う。
 カンカンカン——。
 警報機が鳴って遮断かんが未来を遮った。
 彼は遮断かんを撫で、素早く潜り未来へ踏み出す。
「人生はクソだ」
 線路の中央で過去を吐き捨てた。握り締めた銀色の希望を天高く投げ捨てる。

 四秒後。鉄の塊が彼を殴って光よりも速く未来へと導く、その僅か一秒前。
 対面の遮断かんの向こう側に黒い羊が立っていた。彼を凝視する漆黒を身に纏った羊。
 そして彼は見た。黒い羊のその眼を。
 青黒く濁った奥にある絶望の真理を。
 黒い羊の深く澱んだ宇宙は、彼の魂を捉えるとそのままぐにゃりと引きずり込んだ。



 黒い羊の出現確率は、パチンコのプレミアムリーチ並みに低いと聞いていたのだが、その晩は如何なる星の巡り合わせだったのか。
 確か、1038匹目だったと思う。
 もちろん、数え間違いがあるに決まっているから、もしかしたら1037匹目だったかもしれないし、1040匹目だったのかもしれない。でもまぁ取り敢えずそのような数だった。
 ようやっと眠気がさばりついて来たところの、不意の登場だったものだから「おっ」と思った。
 そいつは、他の白い羊どもみたいに、悠々と柵を跳び越えるなんて、牧歌的な真似はしなかった。漆黒の弾丸みたいな勢いで、柵を突き破ってきたのだ。
 柵のこっち側では、1000匹ほどの白い羊の群れが、入道雲みたいな塊となって、まくまくと草を食んでいた。そいつは、柵を突破した勢いそのままに、その群れに突入する。 たくさんの白い羊が、パッカーンと景気よく宙へはじけ飛んで、まるでブレイクショットみたいだと思った。
 めへ、めへ。めへ。
 空一面に「めへ」が鳴り響き、喧しくて眠れそうにもない。結局、何しにやってきたんだ、あの黒いのは。さては安眠妨害の妖精か。



 骨が見えるほどに抉れていた傷口は、姉の手の下で、みるみる塞がっていった。僕は喜んで駆けだしたけれど、僕を見つめた姉の顔が、哀しげに歪んでいたのをよく覚えている。

 狩りは唐突に始まり、それ以上に突然終わった。
 僕が駆け付けた時、姉はひとり、村はずれの牧草地に立っていた。
「——の」
 暗雲と茜の入り交じる、暗く美しい夕暮れ。姉の姿だけが、くりぬかれたように白い。
「群れのようだわ」
 膝丈ほどの草の間、それらはたしかに、眠っている家畜のように、静かに蹲っていた。
 焦げ臭い匂いが満ちていた。そこかしこに散らばる得物も、ほとんど原型を留めていない。落雷。けれどあまりに不自然で容赦のない惨状。姉の力でも治すことはできない。
 何かに魅入られた美しい女。
 彼らは考えてはいけなかったのだ。それが何であるかなど。

 口元に薄い笑みを浮かべたまま、姉は両手で顔を覆った。濡れて冷え切った姉の身体を抱きしめる。
「僕がいる」
 震える背を撫で、耳元で何度も囁く。

 僕だけ傍にいる。