500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第88回:名前はまだない


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 名前はまだない1 作者:ガーリック

お世辞にも広いとは言えない部屋。
私は一人ぼっち。
昨日までは。

今よりはもう少し広い部屋。
私は「彼」と一緒。
これは先週までの話。

お世辞にも広いとは言えない部屋。
ここには「二人」。
今日初めて知った。

なんだか、怖くなった。


私の中の「だれか」。
名前がまだない「だれか」。
お願いだからいなくなって。
もうこれ以上、「彼」のことを思い出させないで。

「彼」が私に残した傷が疼き、名もない「だれか」が語りかける。
——悲しいこと言わないで?
「私」は「彼」と「あなた」によって、生まれたのだから——


お腹が膨れてきたような気がする。
時々記憶が飛ぶような気もする。
ストレスからなのか。
「だれか」がいるからなのか。

——私にとって、あなたはずっと、「だれか」。
あなたには名前はあげない。絶対に——

「だれか」に罪はない。でも、「だれか」は「彼」とつながる。
名前はあげない。これは、最後の抵抗だから。



 名前はまだない2 作者:水蜜桃

 視点が山を越え谷を這い、ビル群を抜けて病院に入り込み、ベッドの中の少女をとらえる。
 今ぼくが見ているのは、六道のうちの一つである人間道だ。

「初江王さぁん」
 秦広王の間延びした声が、僕の意識を引きずり戻した。
「はい、今日の死者リスト」
「ありがとうございます」
「あんまり六道を覗きすぎると、閻魔王様に怒られちゃいますよ」
 あなたもしょっちゅう地獄道を覗いているくせに、と言おうと思ったけれど、また前のように言い争う羽目になる予感がしたのでやめた。秦広王はくすりとわらって立ち去った。

 彼女は治る確率が低い病に侵されている。本人はそれを知っていて尚、見舞客や両親、看護婦に曇りのない笑顔を見せている。
 けれど、彼女が深夜に一人で泣くのを、ぼくは知っている。
 そして、その強さと弱さに自分が惹かれているのも、ぼくは知っている。

 いつからか、早く彼女に会いたいという気持ちと、生きて人生を謳歌してほしいという気持ちが、ぼくの中に同居しているようだ。

 死者のリストをぺらぺらとめくる。もちろん、彼女の名前はまだない。
 病死であれ寿命であれ、いつかは彼女の名前が載る日が来る。
 その時、ぼくはどんな気持ちでいるのだろうか。



 名前はまだない3 作者:三里アキラ

 チューブとコードだらけの身体。画面には弱いながらも波形。8月9日。



 名前はまだない4 作者:三浦

 彼氏が狸をつれてきた。
 ホイーゥという耳慣れない鳴声に誘われて道端の段ボール箱をのぞき込んだら黒っぽい犬なのか何なのかわからない生きものがいて、そこに、

 この子をお願いいたします 名前はまだありません 母

 と書かれたメモ用紙を見つけるとそのまま立ち去ること難しく、それで、と彼は私を諭すのだった。
「なに食べるの?」
「とりあえずドッグフード買ってきた」
 名無しの狸はもりもり食うのだった。
「名前きめた?」と私。
「ううん」
「じゃあ二人できめようよ」
「俺がつけるよ」
「…………まぁ、拾い主ですからね」
 それから一月がたとうというある日、私たちのアパートを見知らぬ女性が訪ねてきた。
「この度は息子が大変お世話になりまして」
 福田福子と名のったその人はそういって未だ名無しのドッグフード好き狸をちらっと見やった。
 狸を引き取りにきた、というのが訪問理由だというので、二つ返事でそれに応じた。ここ一月の彼氏の狸に対する執着を思ってのことだ。
 結果、狸の切れ目が縁の切れ目、ということに。
 ペットのいる生活が恋しくて猫を飼った。漱石、とつけた。
 数日それで呼んだが、ぜんぜん懐かないので名前は取り消すことにした。



 名前はまだない5 作者:青島さかな

 今日も南の方へと電子の海を泳ぐ。南の電子帯は暖かく、ふらふらというかゆらゆらとしている。北の都市型電子帯よりも僕はこちらの海の方が好きだった。流行は東から西へ抜け慌しいのと古いのとで、中央は人が多く何もかもが半端で嫌いだ。
 飛び込んだ先では同じように泳ぐ人たちが、まにまにとしている。僕も気ままにやらやらとしようと思ったのだけれど、今日の南海は雰囲気が違った。よく見ると人々はくらくらというか、いっそらるらるだった。このようなねるねるな状況は非道くさりさりだ。
 ツイてる。僕はこの現象を良く知っている。これは間違いなく彼の仕業だった。とても臆病な彼は人恋しい癖に、人に触れるのがとても厭なのだ。だから自分の存在だけを示そうと、酔風を送る。この酔いにも似た、アップテンポな風に身を任せ、彼を感じる。彼の仕草や心や声や視線の波の数々の中を泳ぐ。
 彼はそこにいる。だけれども誰も気にしない。



 名前はまだない6 作者:五十嵐彪太

 「さぁ、名前を教えておくれ」
 カンバスに問い掛ける。若く美しい婦人像は応えない。つまり、完成していないのだ。絵は完成すれば、必ず名乗る。
 マーガレット。僕は想い人をそこに描いたつもりだった。肖像画を描く技術には自信がある。愛情も劣情もありのままに筆に込めた。それなのに描かれた女は無言のまま。彼女を知る人は誰しもこれはマーガレットを描いたものだと言うはずだ。けれど当の絵が何も言わないのでは、どうしようもない。これはマーガレットに一見、似ているだけの絵であり、マーガレットの肖像画ではないと、絵は主張している。
 僕は再び筆を取る。どうしてよいのかわからないので、暗い色ばかりを盛り付ける。
「名前は?」
 無言。
 一筆毎に名を訊ねる。絵は応えない。
 マーガレットのはずだった婦人が暗澹たる油絵具に埋もれていく。それでも絵は名乗らない。
 ついに陽が暮れてしまった。
「新作の肖像画、完成を見たかと思いきや、崩壊を始める」
 創作ノートに記すと、まだ触れたことのないマーガレットを想いながら、欲望を激しく吐き出した。カンバスに白い汁が飛び散った。これ以上どう侵すことができようか?



 名前はまだない7 作者:山崎豊樹

「そ、総理!」

「どうした? 選挙中だぞ! こんな忙しいときになんだ」

「み、ミサイルが発射されたということです!」

「慌てるな。せいぜい日本海に落ちて終わりだろ?」

「そ、それが……すでに国内に侵入していまして、都心に接近しております!」

「な、なんだと! で、名前は? ピカドンとかテポリンだかいう名前がついていたろう?」

「え、えーと、名前は……名前はまだありません!」



 名前はまだない8 作者:ハカウチマリ

 二重身にとって替わられてしまった私。



 名前はまだない9 作者:人観柚爾

 仕事柄早く起きるのが常だけれどもやはり朝は苦手であって、無理に早く起きるなど(毎日行っているが)身体を壊すのではないか、といったつまらない不平と共に身体をおこす。
 ぼうっとしたまま身の回りを綺麗にして仕事場である自室の机に(正確には椅子である)座っても、頭は慣性が働いて依然と鈍いままである。
 そんな状態でパソコンを立ち上げてメールを確認してみれば胡椒を少しかけすぎた程度の愚痴を混ぜた長めの他愛もない話であったり、ほかにも仕事が関係しているものやあるいは全く関係の無いスパムまで入っていて、
 「ふう……」
 や、
 「やれやれ……」
 などと(今回は後者である)呟いてからコーヒーを一口含んでみると、たちまち甘酸っぱい幻想からやや苦めの現実へと反転し、朝の清々しさというものを教えてもらった気になる。不思議の国のようなものである。
 気づいたようにブラインンドを開けて見ればちょうど日が昇ってきたところで、自分の中の活性化委員の仕事率のよさによる、とまた意味のないことを考える。
 つけるほど詩的な感情は持たないしつけたところで何の利点も持たない。
 しかしながら、今日くらい気持ちがいい朝だったら名前をつけてもいい、と思う。
 例えば——

 「名前の要らない朝、とか?」
 いやはや、名前はまだなくてもよかったか。



 名前はまだない10 作者:ぶた仙

 それを何と呼ぶのか知らない。その名を尋ねるべき相手もいない。ただわかっているのは、それが人から愛でられていることと、私の最も古い記憶において、既に百本を越えていたということのみだ。
 人は枝と呼んでいるようだが、意思で動かせるものを枝とは言わない。だからといって何かを触る為に動かすわけではないのだから、触手でもない。腕が一番近いと思うが、言葉の誤用のような気もする。
 手っ取り早いのは自分で命名することだ。どんな名前をつけてもクレームが出るはずはないが、その前にまず私自身の名前を決めるべきだろう。それすらしていないのは、意思疎通の出来る同胞のいない状態で、名前に意味があるかが疑問だからだ。
 せめて私を認識する者がいるなら話も変わろう。だが、唯一の希望たる人間ですら見込みは薄い。ニューラルネットワーク以外の非線形フィードバックシステムである知能回路をいまだ知らぬ連中に、私が思念を持ち得るという仮説を望んではいけない。
 人が私に気づくのはいつのことだろう?
 人が私の体の全てに名前をつけてくれるのは、いつのことだろう?



 名前はまだない11 作者:葉原あきよ

 お母さんが再婚して、あたしには新しいお父さんができました。三人の生活も慣れないうちに、今度はきょうだいができることになりました。
「男? 女?」
「男の子だって」
「名前は?」
 そう聞くとお母さんは困った顔で首を振ります。
「ないの? だったらあたしがつけていい?」
 お母さんは隣りに座るお父さんを見ました。お父さんは大きくうなずいて、いいよと言ってくれました。
「ただし、男の子だからかっこいい名前にしてくれるかな」
 あたしは力いっぱい返事をします。
「もちろんだよ! だってあたしのお兄ちゃんになる人だもんね」
 そう言うと二人はにっこり笑ってくれました。
 お兄ちゃんは明日お父さんの前の奥さんのところからうちに引っ越してきます。それまでにかっこいい名前を考えないとなりません。それとも会ってから考えた方がいいのでしょうか。
「顔は? かっこいい? お父さんに似てる?」
「あんまり似てないかな」
 お父さんは実はそれほどかっこよくありません。だからお父さんに似てないんだったらお兄ちゃんはかっこいいのかも、と明日がますます楽しみになりました。



 名前はまだない12 作者:風未

 この蒸し暑い日に、モモは涼しい顔でアールグレイを飲んでいた。独特の香りが室内に広がる。
「暑くないの」
 唸るような声で非難する。モモのティーカップからはわずかに湯気が立っている。
「だってアイスティーだと香りが逃げちゃうんだもん」
 モモは当たり前のような顔をして言った。それに、と諭すように続ける。
「夏こそ熱いものが食べたくならない?」
「いや、無理」
 俺はキンキンに冷えたラムネを流し込んだ。
 こんなことですら、俺たちは意見が一致しない。

 俺たちは好みも価値観もまるで違っていて、一緒にいること自体不自然だった。それでも適度な距離を保ちつつ今に至る。
 単純に相容れない存在ならまだ楽だっただろうけど、面白いから簡単には離れたくない。ときどき面倒だけれども案外楽しい。
「そうだ。モモ、大福ー」
 ラムネと一緒に買ってきたそれを揺らすと、モモの表情が明るくなった。
「食べるっ」
 弾んだ声に思わず口元が緩む。モモは甘いものが大好きだ。

 アールグレイと大福とラムネ。有り得ない組み合わせだって構わない。
 だって、俺たちがそうだから。
「夏目、なんで嬉しそうなの?」
「さぁね」

 この感情に、名前はまだない。



 名前はまだない13 作者:きまぐれおっさんロード

私たち出会ってどれくらい?
ああっ
あどけない彼の返事に耐えられない私は・・・。

今日はやけに積極的だな。男は狼狽える感情を抑えその身を彼女へ託した。
いままでに無い官能に男の本能に火が点くと
いいわよ
女は体を捩じらせ男にその美しい武器を眺めさせた。

そしていま僕はここにいる。
ママの体温を感じてその愛情を受け継いでいる。
幸せそうな声と音だけが液体の振動を伝って僕には聞こえる。

生命の誕生はその輝かしい光の先にある。
いま、新しい命が生まれた。



 名前はまだない14 作者:凛子

 昨夜はよく眠れなかった。こんなことは子供の頃の遠足に行く前の晩以来かもしれない。理由は、あのときとは正反対なのだけれど。
 早く起きたこともあって、まだ早いとは思ったが二時間前には会場入りした。ライバルたちは誰も来ていない。気合いの入り過ぎかもしれないけれど、この会社に入社できるか否かで、私の運命が左右されると言っても過言ではないのだ。

「次の方どうぞ」
「はい! よろしくお願いします」
「名前は真田さんでよろしいでしょうか?」
「さなだではなくて、まだと読みます」
「真田菜依さん?」
「はい。名前はまだないです!」



 名前はまだない15 作者:六肢猫

 明暗の後で庭に落とされたものを見て、今度はそう来たかと思う。
 そこから先は料理に似ている。
 閃き、五感、時には第六感。
 糸口について思い悩む間も、腹を空かせて庭で鳴いている気まぐれな連中は待ってくれない。
 ごそごそと台所を漁りながら考える。
 確か食わせちゃ駄目な物があったな。
 料理の手順も大事だし、盛る量だって気を遣う。
 にゃあ、の一声二声に急かされ、いつの間にか糸口が勝手口に変わっていることもしばしば。
 卵が先か、鶏が先か、ええい、今はどっちも家にはないぞ。
 焦燥のままにどうにか盛り付けを終えて縁側に皿を出すと、連中は一斉に群がってくる。
 一瞥しただけで食わない奴、黙って食う奴、食った後でにゃあにゃあと鳴く奴。
 そんな様子を見て、どうせ黒いのは毛並みだけじゃないんだろ、と毒づきながらも、料理の評判に一喜一憂する。
 作ったのが俺だとは教えてやらないし、わかるもんか。
 最後まで皿を舐めていた奴が、ふと俺を見上げて鋭く鳴いた。
 料理の名前?そんなの本当はまだないよ、と答えると同時に、庭に落としておいたままだったあれを素早く銜えて駆けて来る。
 畜生!と思う間もなく再び明暗が黒蝶に誘われる。



 名前はまだない16 作者:瀬川潮♭

「愛です」
 ぷ、と隣に立つ女性は笑った。
「ご、ごめんなさい。お気を悪くなさって?」
「いいえ」
 どこの令嬢かは知らないがどうやら私に興味を持ったようだ。「じゃあ」と別のテーブルに移ろうとするとついて来た。先回りして、カクテルを手にすると私に差し出す。
「怒らないで下さいね。私、男性の方で『あい』って名前の人と初めて出会ったので。やっぱり、愛情の『あい』なんですか」
「ええ」
 立食パーティーに飽きていたこともあり、冷たく答えその場から逃げた。

「愛さん、先日以来ですね」
 別の立食会で例の令嬢と会った。
「いえ、私は世界です。愛は先日手に入れたので」
「そうですか。……残念です」
 令嬢は頬を染めていたが、肩を落しその場を去った。

「世界さん。ごきげんいかがですか?」
 後日、例の令嬢と会った。頬を染めとてもにっこりしている。
「これは。またお会いしましたね」
「ふふっ、よかった。今回はまだ世界さんなんですね」
「さすがに、なかなか。……そういえばまだお名前をうかがってなかったですね」
 今日はまだ飽きていない。改めて聞いてみた。
「私は、貴方です」
 とてもとても、にっこりしている。
「決めたんです。……私は、アナタ」



 名前はまだない17 作者:侘助

 色々調べてみたけれど、よく分からないのでとりあえずやってみることにした。
 蒸留器はないので、実家から送られてきた圧力鍋をクローゼットから引っ張り出した。精液はバイト先でいっぱい手に入るから、お客や店長にバレないように集めてきたのを入れてみた。ハーブが必要という説明もあったので、キッチンにあったタイムとかローズマリーとかオレガノとか入れてみた。おしゃれそうだから、ミントもちょっと入れてみた。
 40日間腐るまで放置するらしいのでそのままほっといてみた。ロバの糞で覆うとかいう話もあったので、途中で置き場所をトイレに変えてみた。
 何日たったかは覚えてなかったけど、フタを開けてみたら何だかよく分からないものがあって、プルプルしていた。馬の胎内で保管するらしいけど、温度がよく分からないのでコタツを付けて、温度設定を「弱」にして中に入れてみた。
 人間の血をエサにするらしいから、最初は指を切ってちゅぱちゅぱ吸わせていたけど、やっぱり痛いから生理の時のナプキンを貯めておいてあげることにした。
 時々楽しそうに、にぱぁって笑うんだけど、もちろんこいつにはまだ——



 名前はまだない18 作者:yuika

 「よろしくお願いします」
その一言で簡潔に紹介を済ませた季節外れの転入生。
人好きのする笑顔のせいで、ホームルームが終わると興味津々にクラスメイトたちと一緒にその周りに集まった。
出身地、誕生日、好きなもの、血液型など一つ聞いてはメモ帳に丁寧に書き込んでいく。
次第にメモ帳の記入欄は黒く塗りつぶされていき、ほとんどを埋め終わったころちょうどに十分間の休み時間が終わりとチャイムが鳴る。

 大抵次の授業の最中にそのメモ帳を見て満足げにするのだが、今日は違った。
ふとあることに気付く。
「あ、名前だけ書いてないや。ここだけ書き忘れちゃったのかな?」
空白の名前欄。



 名前はまだない19 作者:まつじ

 ぼくは、山下清志なのだそうだ。
 両親が付けたのだから、まず間違いない。
 はじめにことわっとくけども、漫画や小説ではないのだから、ちょっとした親の願い以外にとくに清志に意味はなく、山下にいたってはもはや何が何だか、ところであの文豪の小説に出てくるあのあいつは、なんだって二言目にあんなことを言い出したのか理解に苦しむ。
 まあいいんだけど。
 そんなに大事かソレいま言うことか。とは思った。
 とはいえ、山下清志が便利なのも確かで、ああ山下さんちの、などなど世間的には非常に分かりよい。
 かりそめのものだが、使い勝手は悪くない。
 人間、の中の、山下清志。
 のように、愛だ恋だその他もろもろがそれぞれ、別の呼ばれ方をしたら面白い。
 たとえば山下ピエールとか、ハイエロファントグリーンとか、裸の大将とか。
 いかん、話が逸れた。
 結局何が言いたいのかって、山下清志はぼくであって、ぼくでないということです。
 気にすることじゃないと分かっちゃいるけど、もうちょっと、うまいことぼくをあらわす名前があるはずと思う。
 そういう意味でなら、例の奴の台詞にも共感できる。
 死ぬまでに考えとくので、戒名のかわりにしてください。



 名前はまだない20 作者:紫咲

ノートは女の子の名前で一杯だ。
「照れるところじゃないよ」
僕が言うとアキは照れて、机めがけてシャープペンの頭とお尻を交互に連打した。

「決められない。恥ずかしい」
「美美美と書いてびゅーてぃふる。街街街と書いてめとろぽりす」
「もっと普通の名前はないの?」
「ない。二文字はもう残ってない」

役所のパソコンで確認済みだった。
アキは両の手のひらを返して天井を見つめた。蛍光灯は白く、白くないところがない。

「誰かに会うたびにあたしは名乗らなきゃいけないのよ。
おはようございます。今日からわたしは美美美です。これからもよろしくお願いします。どうか笑わないで下さいどうか面倒くさがらないで下さいどうか・・・」
「今さらごねても仕方ないだろう。抽選に落ちたの君なんだから。もう一人のアキさんと交渉するっていう手もあるけどまあ。無理だろうね」
「ねえ」
これから元アキになる彼女は座っていた椅子をお尻で弾きとばし立ち上がると僕の手首をつかんだ。
「なんであたしがこんな目にあわなきゃいけないのよ」

検索の便利さと効率を守るという名前のもと、重名禁止法は施行された。
重複した名前を持つ全ての者は、命名庁の監督により抽選を行う。
抽選からあぶれた者は改名しなければならない。まだない名前へと。

「はあ」
新名登録票を書き終えた美美美は、さっきまでの取り乱しが嘘のようにさっぱりとしていた。
そして意地悪な声で僕に訊ねた。
「ちなみに」
あなたはなんて名前になったの。



 名前はまだない21 作者:影山影司

 いつか何かが、空の向こうからやってきたら、きっとヒトは、それを理解する概念も喪っているだろう。

 文明の完成によりヒトは死を亡くした。
 優秀なDNAをワンパターン採用、タウンには同じ顔をしたヒト達が、違いの無い猫を連れて歩く。猫もヒトもアルビノによって色素を欠いているので、皆、一様に白く、ほのかに赤い。

 喫茶店で相席したヒトが30562547号室に住むヒトだろうと、ACFERGRTS区のヒトだろうと違いは無い。かつてのヒトにとって、重要であった個体の概念だが、ヒトは個体差を生む先天性要素であるDNAの統一が完了している。脳を刳り貫いて仕込んだ通信装置が、記録と情報処理を行うタワーの共有データバンクと繋がっている。これによって後天性要素も、無い。
 蓋骨、と名づけられたタウンの空を見上げる。休む事無く青っ白い光を発する、惑星を丸ごと覆う頑強な合金壁だ。いつかあの空の向こうから何かが、やってきたら。ヒトは何だと判断されるのだろう。

 隣のヒトが見ている光景が見える。
 喫茶店のヒトが珈琲を口に含んだ熱。
 撫でる猫の毛並みの柔らかさ。
 全て感じる。
 蓋骨の光の下、ヒトは誰も何も言わずに歩く。



 名前はまだない22 作者:東空

「うちの会社ってホント頭悪い」
洋平はうなだれる。月曜朝の営業会議。今朝つるしあげられているのは石川だ。怒鳴り散らす社長と凍りつく石川。ほかの営業部員たちは、通夜のような顔で下を向いて時間が過ぎ去るのを待っていた。

会議が終わるとすぐ、外勤鞄を提げて洋平は営業に向かった。アポはあったが、注文の見込みは少ない。うなだれたまま駅への道をたどる。県道の交差点の信号は赤になりかかっていた。押しボタン式だが、押してもすぐに青に変わったためしがない信号だ。洋平は舌打ちしたが走る気力もなかった。たどりついた洋平の手は、操り人形のようにボタンに伸びたが、何か柔らかいものを押してしまった。
左手の方を振り返った洋平の目に、すらりと伸びた白い腕を慌ててひっこめる女性の姿が飛び込む。洋平の脳内で何かが弾けた。世界は割られた鏡のように砕け散り、女性の姿は無限の乱反射を繰り返す。我知らずのけぞる洋平。驚いて洋平を見つめる女性。目を離すことができない洋平。

信号が変わる前までは影さえなかった新たな感情が洋平の心をとらえていた。



 名前はまだない23 作者:白縫いさや

 親方さまに拾われてから早三ヶ月、みんなあたしに良くしてくれるけれど、ときどきあたしの方をちらりと見て目を背けるのが気になっていた。
「ねえ親方さま、あたしはここにいちゃいけないの?」
「馬鹿言っちゃいけねえ、おめぇはおれたちの大事な家族だ」
 親方さまはがはははと笑いながらあたしを抱き寄せる。その汗臭いぼろ服にぎゅっとしがみつく。
 みんな名前を持っている。親方さまは、親方さま。料理頭は、料理頭。小間使いたちは、寝床の、厠の、厩の、という冠をつけて区別される。けれどあたしに名前はなくて、みんなお前や小娘と言って呼ぶ。それは名前ではない。名前が欲しくていっぱい仕事を探したけれど、この小さな共同体で余ってる仕事などないからあたしの名前はいつまで経っても見つからない。
 例えば火事になったとする。みんなは逃げる。おおおい、と名前を呼び合い無事を確認しあう。けれど名前のないあたしは誰にも呼ばれることなく死んでしまう。
 姫さまは泣きじゃくるあたしの背を擦って、大事なのは名前の有無じゃない、と慰めてくれる。でもそういうことじゃないの。そう言おうとするが嗚咽に飲み込まれてしまい結局何も言えなくなる。



 名前はまだない24 作者:海音寺ジョー

 シャム猫のテツは他所者で、フラリとこの町にやってきたのは半年ほど前じゃったか。
 風来坊(ヨタネコ)にありがちの、欠けた耳、半つぶれの片目、身体にも無数のキズ跡が痛々しかった。テツの青い目は際立って美しいが、毛皮がボロボロなため異常な迫力だけが伝わり、美しさは冷たさにしか感じられない。
 テツはいつでもヨタモノのタマリ場である微塵団地で日なたぼっこをしているか、若い雌のケツを追っかけていた。

 そんなテツがこないだドジを踏んだ。
 人間の餓鬼を、この町に呼びこんでしまったのだ。
 こんなこたあ74年前、三毛猫のサンジが酔いどれの三文詩人を連れてきちまって以来の大事件、きわめて甚大な不祥事じゃったよ。

「こりゃ、すごい…猫の町だ!」
 眼鏡の少年は、狂い声で叫んだ。
「猫町って、ホントにあったんだ」

 おいテツ、困ったことになっちまったじゃねーか

 このバカ

と、周りの大人たちはテツを糾弾した。

 テツはほうほうの態で何とか子供を人間の町に連れ帰すと、その後バツが悪くなったのか、団地の一室に閉じこもっちまった。
 そして何時の間にか、いなくなっちまった。

 えっ、寂しくなったかって?さあな、こういう気持はなんて言ったらいいんじゃろうな? 



 名前はまだない25 作者:松浦上総

 はるかに見える東山。山の端染める薄墨を、滑ってはねる朧月。
 
 大原川を遡る、小さな橋を過ぎし頃。祇王の眠る寺に似た、草生の竹林に足止める。
 笹の葉ゆらす風の音は、小督が爪弾く想夫恋。赤土照らす月光は、細く険しい金の道。
 私は、身重を引き摺って、濡れた落ち葉を踏みしめる。この子と命を絶つのなら、建礼門院に仕えたる、四人の侍女の墓の前。ずっと前から決めていた。
 杮葺きの寂光院。霧に抱かれる鐘楼は、此岸の景色の見納めと、ゆるり石段上りきる。
 ふと見上げれば、さっきまで、朧にかすむ月覆う、雲はどこに行ったやら。
 まん丸お月は、毬のやう。闇夜にはねる毬のやう。毬のやうな望月見つめ、生きたい生きたいと腹をける、この子のために刃を捨てる。
 
 この子の名前は何としよう。それは、月が教えてくれた。



 名前はまだない26 作者:@ki

「そんな悲しいこと、僕の前では二度と言わないでください」
 まさか、一歳下の後輩からそんな風に言われるとは。名付し難い感情が渦巻いていたが、決してそうと気取られないよう、容子は「ごめん」と、おどけた様子で肩を竦めてみせた。
 オーケー。彼とは今後一切、紋切型の付き合いで済ますようになるってだけのこと。別段驚きも嘆きも悲しみもしない。もちろん私だって自分の主義主張を他人に押し付ける趣味はない。ただ一人でいたい時に突然電話してきて、無遠慮に押し掛けてきては必要もない発話を散々促したのはそっちじゃなかったろうか。押し付けがましく持論を得々と語る身振り手振りはもうね、一体何様のつもりかと、
 
 冒頭からひと息に書き殴って、ふと。それまで忘れていたことに思い至ったけれど気にせず続きに取り掛かる。だって取るに足らない、ごくごく些細な問題に過ぎないのだ。
 あの社交的で人当たりが良く、けれど忌々しいほどに憎たらしいその顔、決して不細工ではないものの凡庸の域を出ない、それでいて茶目っ気があり抜け目なく他人に取り入るあの表情、声、言動すべてがありありと、一分の隙もなく細部まで思い描ける確かな像として定まっているのだから。



 名前はまだない27 作者:我妻俊樹

ひざに載せたまま自動車学校になりそこねている交差点に夏草が繁る。向こう側が見えない。そう文句を垂れながら、ねじがゆるんだように立ち上がる私の影。影の喉元に深々と埋まるナイフの柄の浮き彫りを、誰かのゆびが離れることさえ寂しい夏がある。私と夏は同時にひとつの名前で呼ばれるべきである。



 名前はまだない28 作者:sleepdog

 新しい友達というか弟みたいなものができた。まあ一緒に暮らしてるんだから、半分家族と言えなくもない。親の許しは一応もらっていて、基本は私に任せきりだが、それなりに気を配ってはくれている。どうも太陽光だけで生きてるみたいだから食費も気にしなくていい。
 ただ、まったく言うことを聞かないし、何もしない。背中のタグには名前を呼べば何でも命令できるとあるのだが、拾いものだから肝心のそれがわからないのだ。一日三個思いついた名前を言うことにしているが、それがもう二ヶ月も続いている。
 ときどき着替えをしていると、そいつはピクッと微妙な反応をするのだが、そういう時はますます言うことを聞かなくなる。少し落ち着いて膝枕をしながらクーラーを弱めると、いつものようにテレビが見たい、コーラが飲みたいと言い出した。
 今日三個目のチャレンジをするが、やっぱりコーラコーラと言うだけだった。



 名前はまだない29 作者:銭屋龍一

 のくせに、ニックネームだけあんだよな。

 あん? 何だって? 名前をつけてくれるってか。
 おうおう。ええじゃないの。ええじゃないの。やってもらおうじゃないの。つけてよ。つけてよ。ん? つけた? で、なんて名前?

 あっ、ちと待って。こりゃだめだわ。う◎こが出たくなった。
 ちょっとトイレね。

 ・
 ・

 ああすっきりした。
 んで名前は?
 えっ、もう渡してたって。
 ああ、トイレに流しちゃったよ。

 あっ、怒んないで。
 待ってよ。待ってぇー。

 我輩は◎である。



 名前はまだない30 作者:砂場

ねえ、あれは「mokusei」でしょう?
それで、あれ。あれが「io」っていうんでしょう? それとも「europa」かしら。ねえ、ママ?

いいえ、それらの名前はもうないの。
誰も呼ぶ者がいないのよ。

そうなの。かわいそうだわ。
あたしが呼んでもだめ?

呼ばれなければ、起きていられる。
どこにでも行けるし、私にも会える。

あたしみたいに?
「mokusei」はママに会った?
あたしは「mokusei」?

それに起きていれば、こうやっておしゃべりもできる。

「mokusei」としゃべりたいな。

あなたが「mokusei」なんじゃなかった?

ママはなんにも、いいえ、あんまり、答えてくれないのね。

名前が欲しい?

ううん。思いだした。ママ、あたし、「tikyu」ね?
違うの?
呼んでくれないの、ママは?

もうすぐよ。もうすぐまた呼ばれるようになる。
おやすみなさい。
良い夢をみてね。



 名前はまだない31 作者:わんでるんぐ

 丸い河原石は、打つと澄んだ音がした。
 わぁは良い石を見つけたな、と誉めると、わぁも気張って名を付けてくれ、と俯せのくぐもった声で励まされる。わぁは背中の痣が疼くのか、と問えば、わぁは痣読みだけを心配すればよい、と糸の声で答える。
 生のあるうち、わぁたちには彼我の別がない。
 地から湧くのか木から落ちるか、名も無く父母もなく、草木や風のように散り散りに生き、出会えば互いをわぁと呼び合う。死患いの痣が浮いたわぁに出くわすのは希なことで、その痣を読むのは、わぁたちのいっちの大事だ。痣を読み解き名を定め、遺され物の石へ刻むと名石ができる。それを野や山へ知られぬように据え、つれづれに愛でて廻るのがわぁたちの慰めだ。何より痣を読み違えないのが肝要で、わぁたちは野を見、山を聞きして理を得、名を残すための石を探すのに日を過ごす。
 わぁは水も通らぬ細い息を聞き、痣を睨む。これはヒデリだ。日干しになった河原の土そっくりだ。こんな名では、折角の名石が、雨乞いの里人に山狩りで暴かれて、田に転がされることもあるやもしれぬが、送る名に善し悪しはない。
 わぁの息が細くなる。わぁがヒデリになるのを、わぁはじっと待つ。



 名前はまだない32 作者:尾矢湖呑

「……以上、卵が先という結論になります」
 きょうの理科の課題は「卵が先かニワトリが先か」。どうやら結論は卵が先になりそうだが、僕は反対だ。しかしチャイムが鳴って、理科の時間は終わった。
 国語の課題も「卵が先かニワトリが先か」。僕は答えた。「突然変異でニワトリが誕生したとき、その卵を産んだ鳥を、仮にナワトリと名づけましょう。ナワトリは卵を産みます。ナワトリのタマゴからはナワトリが生まれます。通常は。ところがある日、ナワトリの卵から突然、見たこともない鳥が生まれました。人々は驚き、この鳥に名前をつけます。ニワトリと。そしてニワトリは卵を産み、そのタマゴからはニワトリが生まれ……そして今に至るのです。まとめましょう。ナワトリ→ナワトリの卵→ニワトリ→ニワトリの卵。つまり、ニワトリが卵より先という結論になります」
 チャイムが鳴り、国語の時間は終わった。
 社会の課題も「卵が先かニワトリが先か」。誰かが何かを答えている。このクラスメートの名前は知らない。他の誰の名前も僕は知らない。僕の名前は何だろう。僕は議論に集中しているふりをしながら「早く名前を呼んで」と心の中で呟いた。しかし先生は出席簿に手を置いたまま、それが開かれる気配は全くない。



 名前はまだない33 作者:楠沢朱泉

「ご主人様!今日こそ付けてもらいますよ」
 近づいてくる甲高い声に、青年は読んでいた本に視線を落としたまま嘆息した。
「何度言えばいい?私はお前の主人ではないよ。それに、私にはセンスがない」
「そう仰ると思って、今日は候補を考えてきました。古風に花子はどうですか?それとも、洋風なパトリシアとかの方が好きですか?」
「お前は私に名前を付けられるという意味がわかっているのかい?」
「もちろんです。名前を付けていただければ、一生ご主人様に仕えることができます」
 青年は中指で眼鏡を押し上げた。
「そこまでして主従関係を築きたいという気持ちがわからないな」
「私は助けていただいた時からあなたをご主人様とすると決めたんです」 
「そんなことを言われたら、どれだけの妖の主人にならなければいけないことか」
 青年はそこで始めて顔をあげた。目の前でヒラヒラの服を着た小学生低学年程度の少女が両腕で名前辞典を抱えていた。一見ごく普通の少女であるが、奥の鏡に映っていないことから人間とは異なる存在とわかる。
 青年は再び嘆息する。
「それ以前に、その姿をどうにかしてもらわないと。ロリコンに間違えられるのはごめんだよ」



 名前はまだない34 作者:加楽幽明

 君と逢うのは、今日で三度目。よそよそしく告げる君の上の名が、もどかしくてぎこちない。だけど僕らの間にはまだ見えない膜が張っている気がして、本当は伝えたい君の呼び名は喉の奥で噛み潰してしまうんだ。



 名前はまだない35 作者:立花腑楽

 多分、最初は、適当なのが思いつかなくて暫定的にそうしたのだと思う。
 きっとご主人さまも、ほら、その後、色々忙しくってさ、それについて考える暇が無かったのだと思う。そう信じたい。

 結局、私は勇者「ああああ」のまま、魔王を倒し、世界を救った。今は凱旋帰国の真っ最中だ。空を見上げ、私は「早く早く!」と祈りながら歩いている。

 ラスボス——魔王か。あいつが、
「汝の名前は、汝が今ここで流す血で以て、我が玉座に記してやる! かかってこい「ああああ」よっ!」
 とか言ってた時には、大笑いしてしまった。あの時も大概だったが、問題はこれからだ。

 故郷に戻った私を待ってるのは、エンディングに向けて収束する素敵でシリアスなイベントの数々である。王様に褒められたりとか、ヒロインに告白されたり。
「ああああ」のままで。
 一番の恐怖は、母親と再会した時だ。
「あああっ……私のああああよ」とか大まじめに言われたら、もうどうしてくれよう。色々と台無しだ。
 気付け、ご主人様。メニュー画面のオプションに、「名前変更」のアイコンがあるはずだ。だから……早く。早くしないと、エンディングムービーが始まったら、入力不可の状態になっちまう!



 名前はまだない36 作者:空虹桜

 女には必ずひとつ嘘をつく。たいていは一晩だけの関係だから、囁かせるための偽名がそれに当たる。
 なのに今、隣に座る女に名を告げることもできない。使い慣れたいくつかの偽名や本名ですら口にできない。
 最初の一目から、もう顔を見ることもできず、ただ女が手持ち無沙汰で弾くグラスを魅入るだけ。思考さえまとまらない。



 名前はまだない37 作者:脳内亭

「出ていけ」と彼女が怒鳴った。「そっちが出ていけ」と俺も声を荒げた。痴話喧嘩が掴み合いにまで発展しかけたとき、「おう、そこの」と何者かの掠れた声で呼び止められた。二人して声の方を向いた。
 猿がいた。
「ズバッといえばね」そいつは部屋の片隅に正座して、頬の髯をさすりさすり言葉をつづけた。「猿が喰うもんなんだ」
 先の掴み合いは、そのまま互いを抱きよせる形へ変わった。猿は正座のまま、気難しい顔で腕を組んでいる。彼女の様子をうかがうと、訳の分からぬ恐怖からかひどく青ざめている。俺は彼女の肩を支え、気を振り絞って猿をにらみつけた。
「ま、なんだな」しばらくの対峙の後、不意に猿が口をひらいた。「カスミ喰っても腹はふくれぬ、カスミの腹がふくれるばかりってな」
 そう言うと猿はだしぬけに大きくゲップした。すると何故だかこっちもつられてゲップしてしまい、急速に身体の力が抜けて彼女と二人その場にへたり込んだ。
「ごちそうさん。邪魔したな」そう言い残して猿は消えた。
 それからすぐに彼女の妊娠が判明し、結婚、無事に男子を出産するに至ってから、十三日目の今日。猿に似た我が子の顔に、俺は未だ決めあぐねている。