500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第129回:おはよう


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 おはよう1

 彼女は全ての時空に遍く存在するので、彼女の全てと遍く等し並みに交際するには多大な労力が必要となる。遍く全ての彼女にハグを? 遍く全ての彼女とセックスを?
 いや、そのまえにすべきことがある。挨拶だ。目覚めとともに目蓋を徐々に開き、その隙間から一瞬でも彼女の姿がちらついたのを目にした瞬間。挨拶をしろ!「おはよう」
 彼女は笑顔で挨拶を返してくれる。だが、彼女の声を味わう余裕は私には微塵もない。
 「おはよう」「おはよう」「おはよう」「おはよう」「おはよう」「おはよう」「おはよう」「おはよう」「おはよう」「おはよう」「おはよう」「おはよう」……
 彼女の後ろから後ろから彼女が彼女が彼女が微笑んで微笑んで微笑んで微笑んで挨拶を挨拶を挨拶を挨拶を挨拶を返して返して返して返して返して返して……
 私は点滴で最低限の栄養と水分を摂取しながら、疲労に負けて次の睡眠に入ってしまうまで、全力で能う限り遍く全ての彼女に等し並みにただ起床の挨拶をのみ繰り返すおはようおはようおはようおはようおはようおはようおあようおあようおあようおあようおあようおやおうおやおうおやおうおやす――……



 おはよう2

忙しそうな炊飯器の匂いに起こされた。
暗がりでぐずぐずしている目覚まし時計の頭をこづく。
まとわりつく夜から脱皮すると背骨がキシキシと伸びていく。
生きのいいカーテンは飛び跳ねて空に明るい波紋が広がる。
冷たいくしゃみをする台所で真っ先にじゃれつく水道水。
やかんの愚痴に急かされながら笑うめだまやきを着替えさせる。
やがて、寝ぼけた足音がパタパタやってくると、いつもとおなじあいさつ。



 おはよう3

 呼びかけてみたら君はもうそこにはいなくて。よくあること、きっとまた半周くらい先を歩いてるんだろう、と自転方向に駆けて行ったのだけれどやはり君はいない。どうやらいつもと違う方向に出掛けたようだ。でも何処へ?
 見回して、それから一呼吸する。そして、すべての朝はすべての方向に明けていくことができるはずだから、ぼくはありとあらゆる方向に呼びかける。無数のおはようが乱反射し、世界は真白い光に塗り潰される。おはよう。



 おはよう4

 早朝、乱暴なノックで目が覚めた。甚だ不機嫌そうであろうこちらなどお構いなく一枚の紙を鼻先に突きつけた。
「見てくれホームズ、このおかしな電報に叩き起こされたんだ」
 叩き起こされたのはお互い様だが、たしかにおかしな電報だ。本文は「シキュウレンラクサレタシ」差出人は「オハヨウ」それだけだ。
「至急連絡すべき相手にも心当たりはないが、差出人の名前がまた、なんのつもりなんだか」
「うーむ。ワトソン君、これは四人での連名を表しているのかも知れないね。たとえば、小田、原田、吉田、内田」
「あいにくと日本人に知り合いはいないね」
「ファーストネームかも。オリバー、ハンフリー、ヨーダ、ウーピー」
「ゴスペルを歌う尼僧にも知り合いはおらん」
 ヨーダはスルーなのかい? 口には出さずにハドソン夫人の淹れてくれたミルクティーで流し込んだ。そのとき天啓のごとく答えが閃いた。
「わかったぞ、ワトソン君。差出人は君に名乗る必要もないほど親しい男だ。そして早朝に電報を送るすまなさと挨拶を兼ねて「おはよう」と付け加えたのさ。差出人はズバリ僕だよ。昨夜、厄介な依頼が電報で来たものだから、君に手伝ってもらおうと配達夫に託したんだ」
 
 依頼人のメアリー・モースタン嬢の控えめなノックが聴こえた。



 おはよう5

はじめオールの音だと思ったのは鞦韆で、漕いでいるのはウェディングドレスの家内だった。
小舟は月光の下、水面を覆う蓮の群落を切り裂くように進む。鞦韆を漕ぐと前進するらしい。力学的にあり得ない仕組みだが、それを眺めている私も水の上の蓮の上を歩けるはずもなく、空中に視点しかないのは夢だからだろう(そう思ったときに目覚めればよかったのに)。
「あげ損ねた贈り物を別の人にあげたことある?」揺れる家内の質問は夢をみている私宛てか虚空を見る目が私の目と合う。「ないよ」と答えると家内はべーっと舌を出して、ああこんな愛嬌のある表情は久々に見たなあ舌がちょっと長すぎるけど、と思っている内にぐんぐん漕いで元気よく遠ざかって

翌朝、寒冷地仕様の二列のアルミのカーテンレールが撓んでいた。そこに家内が、ぶら下がっていた。もう揺れていなかった。

そうだ、電話しなくては。
119番いや110番か。指が、震えて。
右耳に呼出音が降り積もる。
ああ。
朝会えば必ず挨拶していたのに。初めてしそびれてしまった。
意外に待たせるなあ。
左耳にいきなり、鳥の声が響き渡るのは今鳴き始めたのか今聴こえ始めたのか
「もしもしこちら110番警察本部事件ですか事故ですか」
「おはよう」



 おはよう6

「おはようって言うと溶けちまうのさ」
「なにが?」
「夜が、だよ」
そう言って昔、父さんが笑った。

「おはようって言うと溶けちゃうんだってさ」
「知ってるよ。”夜が”だろ」
「違う。・・・夢よ」
そう言って君が、哀しそうに笑った。

だから僕は言ったんだ。
「おはようって言うとさ、」
「なぁに」
「今日がはじまるんだよ」
「もう。あたりまえじゃない」
「違うよ。よーいドンって一緒に今日をはじめられる最強の合言葉なんだよ」
そう言うと君が、嬉しそうに笑った。



 おはよう7

 目覚めると、隣に蜂が寝ていた。
 美しい蜂だった。おはようと声をかけたが、もう死んでいた。
 カーテンの向こうで日が昇り、蜂の影が急に濃くなった。
 起き上がり、カーテンを開け、窓の外を見た。雲がゆっくり流れていた。窓に映った私の胸には、小さな穴が開いていた。手足も冷たくなっていくし、もうすぐ私も死ぬのだろう。
 ゆうべのことは何も思い出せなかったが、きっといい夜だったのだと思う。



 おはよう8

 言葉を光に乗せる。
 目を覚ましたとき伝わるように。
 君の世界が広がるように。


 銀河の海
 に溺
   れる。


 私が 今
   送る
 のは。


   別れ 
 では
  なく 。



        届け。



 おはよう9

 振り向くと坂田金時がいた。幼名を金太郎というらしい。
 黒いスーツに身を包みすらりと立つ姿ではあるが、鉞を担いでいる。
「今日は遅刻をしないようだね。感心感心」
 黒縁眼鏡を整えながら言い、職員室に入っていく。あれでも物理教師だ。なんでも物理で解決しようとするので私の苦手な教師の一人だ。
 予鈴が鳴り、1時間目。
「じゃあ今日はこの悪夢と格闘してみようか」
 数学のメフィストフェレスが首刈り鎌を持ち替えにやにやして言う。本人は「契約に忠実なる者」と呼んで欲しいらしいが。
「何、簡単な悪夢だ。方程式を使えばたちどころに解決するだろう」
 悪夢だ。
 何でも方程式で解決しようとするので私の苦手な教師の一人だ。
 予鈴が鳴り、放課後。
「この書架は整理不要よ。禁帯出のものばかりだから」
 司書の先生が言う。名は確か、おおは……。
「それ以上はダメ」
 先生はにこやかに言う。
 私は空行や空欄の多い大辞典を手に、それ以上考えるのを止めた。
 大辞典は日々、空行や文章中の空欄が増えている。
 私は、司書の先生が好きだ。



 おはよう10

 少女は果て無き夢の中に居た。そこでは少女はウサギといっしょに幽径(ユウケイ)を行く。不思議の国へと旅立つのだ。物語もウサギも待ってはくれない。ひとたび立ち止まると少女はアリスではなくなってしまい、ただの少女に戻る。苗字はありきたりで、決して物語の主役にはなりえない平凡な少女に。人気者の兄の影に隠れた、「鈴木くんの妹ちゃん」という脇役でしかない存在に。
 春の薬(ハルシオン)を飲んでも、いずれは目を覚ます。であるからしてこれは続かないお話。色のない春風に頬を撫でられ、目を覚ました少女はまどろんだ意識の淵で記憶に残ったワードを掬い上げる。
「鈴木くんの妹ちゃん・ウサギといっしょ・待って・春の薬・ユウケイ・であるからして・続かないお話・色のない春風に……」
 そして最後に、おはよう、と呟いた。



 おはよう11

 こえが聞こえてくるんです。
 天井から、四方の壁から、そして畳の下から、もう寝ようかという時にいつもそれは聞こえてきます。幾十ものこえが、いろいろバラバラに折り重なっているので、何を言っているのかはわかりませんが、たぶん、私に話しかけているんだろうと思います。
 お母さんに相談しようか。そうも考えました。でも、笑われるか怒られるかするに決まっている。だから毎晩、ただ黙ってこえに耳を傾け、眠ります。よく眠れます。
 朝は、しんとしています。ためしに壁や畳をコンコンと叩いてみても、うんともすんとも言いません。天井は、まだ叩いたことないのでわかりません。部屋をぐるっと見回し、「おはよう」と呟いてから、私は朝の準備に取りかかります。
 この日は、とっても疲れていました。帰宅して、ごはんの後すぐにバタンと寝てしまいました。騒がしいのに気づいて起きてみると、もう真夜中でした。私は初めて、こえに向かって「おはよう」と言いました。
 バラバラだったこえが、パタパタと畳まれていく。ついに一つとなったこえは、ほがらかに言いました。
「おはよう。おまえをさらおう」
 それから。
 恋に落ちました。
 いってきます。



 おはよう12

 だからあなたはもう二度と目覚めることがないのだと言われた。
「君は誰だ」
「さあ?」
 彼がとぼけて首を傾げる勢いでシルクハットがずるりと滑る。この世界がおそらく僕の見る夢であって現実は他にあるということを僕は自力で悟らなければならなかった。
「もう二度と戻れない世界を現実と呼んでいいのかな?」
 うるさい。
 念じたが彼は消えなかった。少なくとも明晰夢ではない。
「ただし」茶目っ気を多分に含んだ口調と共に彼が人差し指を立てる。「あなたには眠りにつく自由がある」
「寝たらどうなる」
「夢を見る。夢の中で夢を見て、その夢の世界で眠ればまた次の世界の夢を見る。重力が働いているんだ。登ることは不可能でも、落ちることは無限にだってできる」
 彼は辞書を差し出した。あなたに一切の救いを禁じる書物だと言った。
 僕はページをめくる。どこからか風が吹いて紙の端がぱたぱたとなびく。僕はめくる。めくる。ひたすらただひとつの言葉を探す。めくる。探す。めくる。めくる。めくる。



 おはよう13

 孤島の砂浜に二人。太陽が落ちてゆく。夕日を背に、砂浜に二人。波打ち際に足跡、消され、足跡、また消される。彼女はひらひらとしたワンピースのまま海へ走りこんだ。そのまま魚となる。彼もそれを追いかけ魚となった。赤かった空は群青から闇に染まり、白い満月が光を纏って浮かんでいた。
 銀色をした二匹の魚たちは夜の中をはぐれずに泳いだ。それはまるでダンスでもしているかのようであり、二匹の軌跡は絡み合って縺れ、銀色の糸を編んだ。運命の糸は赤色ではないらしい。糸はうたかた、海面に細かな泡が弾ける。満月も次第に西へと傾いた。風はなく音もなく、時だけが流れてゆく海。
 明けない夜は黒に閉ざされ、世界には二匹だけだった。広い海の小さな二匹は思う存分はしゃいだが、やがて一方は力尽きてしまった。細い骨のカルシウムが強い酸化で輝いたとき、もう一方はその尾で屍を跳ね上げた。骨の欠片は波間で砕け。それはとても小さな光だったのだけれど、橙色が水平線に現れたとき明けない夜が明けたのだ。残された魚は海の深くへ潜っていった。その言葉は口にしたくなかったから。それがさよならになるから。全てが眠っていた、幸せだった夜を抱いて。



 おはよう14

「おはよう、ずはいん!」
「おはよう、ずはいん!」
 朝の道場に元気な声が響く。締め括りの掛け声だ。しばらくすると、稽古を終えた若者達が道場から出て来た。
「今日の稽古も難しかったな」
「えっ、全然難しくなかったじゃない。ポン吉、あんたって運動音痴?」
「うるさいなあ、ポン子が天才なんだよ」
「あんな簡単な変身術の応用ができなくて、どうすんのよ」
「大丈夫。男子生徒に化けるのだけはできるから」
「男子生徒だけって、あんた、今朝習ったことを実践しないつもり?」
「ああ、おいらは勘弁だね」
 なんて不真面目な。ポン子はポン吉を睨みつけた。
「ところでポン子、化ける時に逆立ちするのって何故なんだ?」
「えっ」
 ポン子は絶句した。
「あんた、朝の掛け声を何だと思ってたの? 『尾は陽、頭は陰』って先生の教えの基本じゃない」
「あれってそんな意味だったのか」
「あ、あんたねえ」
「やべぇ、遅刻しちまう」
 ポン子の嘆きを遮るように、ポン吉は逆立ちして男子生徒に変身する。
「ちょ、ちょっと待ってよぉ……」
 ボン子も慌てて逆立ちし、食パンを咥えた女子生徒に変身した。



 おはよう15

今から、旅に出ます。長い長い旅になるでしょう。
暑い日や寒い日。向かい風の強い日もあるでしょう。
雨が降ったら、雨宿りをします。
怪我や病気をしたら、休みます。
困っている人を見かけたら、何か出来る事がないか、聴いてみます。
お腹が空いた時は、食糧を調達します。
楽しい時には笑い、悲しい時には泣きます。
どうにも道が分からなくなる事も、あるかも知れません。脇道に逸れる事も、あるでしょう。
でも、歩き続けます。止まったままでは、旅は終わりません。
旅の終わりは、日常の始まり。
誰かと「おはよう」って声を掛け合う日常生活に戻るまで、旅の辛さと貴重な日々を楽しもう。



 おはよう16

日本海に沿って北へ歩くと、ある場所で、海へ迫った崖のすぐ下にコンクリート造りの四角い小屋が建っている。漁師が物置にしているようでもあるが、この建物は永らく廃屋である。
夜ごと、この小屋から船を出し、漁火をたいて釣をする者がある。年老いた仙人、いや、仙人くずれといおうか、歯は抜け、体中の肉という肉はしなび衰えて、魚の体液を吸うように飲んで生き永らえているのである。
ある晩、最後に針に掛った魚には、大きな、ヌメヌメとうねる生き物が吸い付いていた。目もなく鰓もなく、丸い口を魚に吸い付けており、魚の方はすでに死んでいた。生き物は、引離した手にも吸い付こうとしたが、干涸びきった手には小さな跡がついただけだ。
仙人はこの得体の知れぬ生き物に何とも分からぬ親近感を抱いた。日の出前の薄明かりのなかで、かすれた声でこの生き物に「おはよう」と言ってみる。歯もなく舌も唇も衰えきった口で発せられる言葉は、さほど多くはない。

毎朝、漁から帰った仙人は、上げ潮の海水で満たされた地下室の暗い水面に釣果を投げ、「おはよう」と声をかけてから眠りにつく。くらい水のなかでは、円口類が泳ぐともなく、たゆたっている。



 おはよう17

 南極調査隊の幼馴染みから送られてきた隕石は、珍しい物だった。拳ぐらいの大きさで、振ると中に液体が入っているような音がした。俺は計測後すぐに割って、中身を培養液で満たしたシャーレに分けて入れた。
 何も変化がないまま、一ケ月、二ヶ月と過ぎて行った。その間、4と5のシャーレには刺激を与えていた。それでも何も起こらない。
 一年が過ぎた頃、5が突然、緑色になった。俺は生命誕生かと期待したが、緑色をしたカビにも見えた。そして生ごみが発酵したような嫌な臭いがした。それからは変化が激しかった。ボコッボコッと泡が出来ては消えていく状態が一ヶ月間続いた。二ヶ月目、泡が生まれているのには変わりがなかったが、あらゆる色に変化し始めた。
 その状態のまま、また一年程が経った。培養液の色が半透明になった日の朝、俺がシャーレを観察していると突然、大きな泡が培養液を持ち上げ始めた。数時間かけて十センチ程の人間のような形になった。そして口のあたりから「おはよう」とこもった様な声を発し、一瞬でシャーレに沈み二度と動きがなかった。



 おはよう18

 くったりと混ざり合った世界に、目覚めなさいとの声がこだまする。コダマ。行ったり来たり。遊んでる風に。それが仕事、それが仕事。歌う風に。リフレイン。音の階段、上ったり下りたり引っくり返ったり。上はどこ? 太陽はまだ深くに沈んでいて、光は届かない。夢の中では光より遅い音が先に届くんだなぁ、と考える、あなたは夢を見る。
 家族も眠っているし、小鳥だって眠っている。朝のミルクティーもまだそれぞれ、砂糖入れの中に潜って、水道管の中に横たわって、冷蔵庫の牛乳パックの中に散らばって、ティーバッグの中で押しくらまんじゅうをしながら、ぶらんと下がったマグカップ、立ったまま隣のヒトに背もたれて眠るティースプーン、目をつむっている薬缶、しんとしたガステーブルに火はまだ生まれていない。夜勤中の規則正しい時計はとんとんとんと時を刻み、世界はとんとんとんと伸びていく。境界線をたずさえて、順序を持ち込んで、目、覚、め、な、さ、い、と声がする。あなたは夜の次へと進んでいく。



 おはよう19

一人が独りでなくなるための 合理的かつ効率の良い『人間関係合成戦略』
まあ要するに、攻守を問わず相手さんに打ち噛ます『かめはめ波』ってとこだ



 おはよう20

 うっかりしてた。驚きすぎたから、僕は君が人間だってことすら忘れちゃったみたいだ。ごめんね。
 イチからきちんと説明すると、長すぎて君が眠ってしまうかもしれない。あっ、でも、もしかしたら、その方がいいかもね。一時の迷いみたいな君の気持ちは、案外一晩眠れば忘れてしまうらしいから。僕にはわからないのだけれど。
 端的に言えば、僕たちは眠らない。生まれてから死んでも、火葬しない限り起き続けるから「興津」。名字なんてそんなものさ。
 「おやすみ」は言うよ。うん。火葬する時の手向け。RIPみたいなものだね。そもそも、死にまつわる文化の大半は、僕たちの風習を取り込んだものらしい。
 ともかく、眠らない僕たちの間では絶対に交わさない挨拶を、僕たちは人間文化から輸入したんだ。驚きの最上級として。そういう概念というか感覚があまりに斬新で、僕たちの価値体系が揺らいだから。だって、なにと比較して「早い」んだい? ただ繰り返される「朝」に過ぎないのに。
 だいぶ話が逸れたけど、僕は君に驚かされて嬉しいんだ。本当だよ。「おやすみ」を言ってもらう日まで、何度も朝の挨拶を交わしたい。父と母のように。



 おはよう21

 人工衛星は、停電したら一発で死ぬ。だから、太陽電池の使えない日陰期間はバッテリーが上がらないようにするのが地上管制の仕事だ。過去最長の日陰を抜けた時、どこかにいる仲間たちに向かって、私はこう呟いた。

 火星が地球に近づくのは、決まって地球が後ろから火星に追いつき、追い抜く時。だからコンタクトの始まりはいつも明け方だ。地球に潜入した某タコ族にとって、二年に一度の母星への挨拶は、やっぱりこれだ。

 太陽光で表面が温められると、ようやくガスが噴出し始める。それは彗星に眠るかもしれない原始生命が目覚める時だ。数十年に一度、生まれたばかりの声なき声。

 冬はずっと夜で、夏はずっと昼。そんな南極で春を待つ皇帝たちは、孵ったばかりの雛に餌を与えつつ、妻が戻るまでじっと立ち続ける。

「おはよう」
 がんばったね。あとは任せたぞ。

 遠くから、近くから、声が聞こえる。それはなすべきことをなした者の大きな安堵。