500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第136回:スイングバイ


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 スイングバイ1

 それは、はにかみのほんの一瞬にこぼれた「ふ」であった。

 自転車は坂道を駆け下りていた。急いでいたわけじゃない、それよりも喉がかわいていた。坂下の左手にコンビニが見えた。快調に坂をすべり、手前まで差し掛かった。ブレーキをかけるべく指に力を込めようとした、その時だった。
 ふと見たコンビニの入口に、蜂女がいた。浮いていた。
 蜂女は「ふ」に似た顔で「ふ」とはにかんだ。
 ブレーキを放棄して自転車は加速した。
 確かに見えた。確かに聞こえた。網膜に焼きつく「ふ」。鼓膜に貼りつく「ふ」。加速を増す前輪・後輪。
 自転車は飛んだ。


  ○ふ○


 流れ去る幾千もの景色の果てに、コンビニに辿り着いた。
「いらっしゃいませー」
 中へ入ると蜂女がいた。浮いていた。「ふ」に似た顔で、「ふ」とはにかんだ。
 喉がかわいていた。



 スイングバイ2

いい?切り刻んで煮込むの。
大切なのは原型を留めないこと。
わかった?
じゃあ
ここから
  は
   が
  ん
  ば
 っ

ね。

 タ

 が
 で
  き
   る
    の
     は
      こ
       コ
        マ
         デ
          ェェ
             

んなこと言われてもなぁ
ああっもう見えないし…。



 スイングバイ3

―あの女にだけは、とられたくなかったんです。

「だから、彼女をあいつに?」

頷く女。その後しばらく、双方無言。
……それを破ったのは、女の方だった。


―あのひとには、言い知れぬ魅力がありました。
どうにも、惹きつけられて。
だから。だから……

言葉につまって、涙を流している。


「彼女」と「あいつ」、二人に想いを寄せてしまった「女」。
「あいつ」が「あの女」に惹かれていくのが。それだけは、それだけは耐えられなかった、「女」。
これだけを一般的に見れば、「女」は十分加害者だし、「あいつ」は十分被害者であった。
でも「女」に独特の、トラジックな香りを感じてしまう。
それは、ヒステリックで、常識からかけ離れており、世間からは『わがままだ』と片付けられてしまうような気持ちであるのに。
僕が男だからだろうか?
「女」の涙に、惑わされているだけなのか?
答えは出ない。
女の言葉が、ぐるぐると脳内をまわっていく。

そうして、それが惑わされているからだと、分かっていても僕は
「女」と「あいつ」、どちらを哀れに思えばいいのかを、ずっと考えていた。

それにも、答えは出ない。
出ない。

答えは出ないのだ。


気づけば僕は、「女」のことしか、考えられなくなっていた。



 スイングバイ4

 帰り道。角の佐藤さん宅からカレーの香りが漂ってきて、ハラヘリータとハラペコリーナは足を速めました。
 夕焼け小焼け。
 公園を出たとき早歩きだった二人は香りに引き寄せられて加速し、今は駆け足。佐藤さん宅の角で曲がってさらに加速、お家が見えた次の瞬間には二人とも食卓についていて、ぺろりとお夕飯を食べ終わっていました。
 ママの作ったお夕飯は量も品数も十分なものでしたがハラヘリータとハラペコリーナには足りず、二人はまず冷蔵庫の中身をぱくぱくと食べてしまいました。ママは二人を叱り、けれど二人はまだ足りなかったので今度はママをぱっくんと食べてしまいました。それでも足りない二人は、今度はお家をばりばりと。まだまだ足りなくて隣家、まだ、さらに隣家、もっと。町を食べつくしても食べ続ける小さな二人の膨大な体重は強い引力を持ち、二人の口に世界が流れ込んでこれがブラックホールの誕生です。その周回軌道を太陽が廻り始めたので天動説が復権し、時空間が歪んでしまいました。
 神様は二人に暴食の大罪を背負わせた佐藤さん(悪魔)にゲンコツを喰らわせました。悪魔の目から小さな星が散って、きらきらとてもきれいです。



 スイングバイ5

 徹夜で飲んだ朝帰りの千葉駅で、一年前に別れた元カノを見かけた。
 紺色のスーツに身を包み、黒髪をまとめている。颯爽と改札を抜ける後姿を、俺は思わず追いかけた。
 総武線東京行きホームへ上がる階段。揺れるうなじとタイトスカートの御御足が俺の心を奪う。
「あいつ、こんなに奇麗だったっけ?」
 あの頃、俺達はまだ学生だった。あれから彼女は就職したのだろう。ホームに着くと、その姿は白い電車の中に消えていく。
「えっ、特急?」
 千葉から東京までの間、特急でも快速でも時間はそれほど変わらない。メリットは乗り心地だけだ。つまり、それだけ経済的に余裕があるということ。
「俺はまだこんなことやってんのに」
 飲んでばかりの自分が情けなかった。差をつけられてしまった。だからどんな会社なのか見てやろうと思った。
 幸い彼女が乗ったのは自由席。通路側に座る彼女の後姿を眺めながら、俺は三つ後ろの席に深く腰掛けた……

「お客さん、終点ですよ」
 ヤバい、つい寝てしまった。彼女もすでに居ない。それ以上に俺を驚かせたのは車窓の景色だった。
「こ、ここはどこですか?」
「南小谷ですよ。長野県の」
 深々と降る雪に、やはりすれ違う二人だったと俺は思うのであった。



 スイングバイ6

 特定物件--
 公社住宅でそう呼ばれているのは、変死や自殺者が出たいわくつき物件のことである。家賃が3年間半額になるというので、霊魂の類を信じない俺は即座に飛びついた。
 三角の公園が隣にある、首都郊外の古い団地。無信心者の俺でも最初は慣れぬためビクビクしてたが、仕事は忙しいわ帰ったら寝るだけの生活に追われ、恐怖は雲散していった。そのうちに前入居者は元大学教授で、孤独死したらしい事を同棟のおばさんの話で断片的に知る。窓から見える公園の亀石を眺めながら、その孤独死した老教授のことに思いをはせる日もあった。亀石には神通力があるとの噂があり時々蜜柑などが供えられてるが、その謂れは新参の俺にはわからない。
 
 2年ほどたったある日、終電で帰宅したら着信履歴の出ない電話に1件の留守電メッセージがあった。
 「○○さん、私です△です、ご無沙汰してますう、わかりますか、△ですう」
 老婆の声だ。たまにある間違い電話の一つだ。でも俺は何だかそれが老教授の遠い遠い昔の恋人だった人の、痛切なメッセージのように思えたのだ。

 △さんに届けと、俺はリビングのサッシを全開にし、遠目に見える公園の亀石に「あなたの声は、私が教授に代わり聞き届けました」と心の中で叫んだ。



 スイングバイ7

 彼女は孤独だった。
 もしかしたら「孤高」の方が適切なのかもしれないが、ずっとそばで見てきた立場からすると「孤遠」と書きたい。つまり「孤独」は、物理的に一人だけ存在している状態を表す名詞ではなく、心理的に一人だけで存在を定義できる状態を表す名詞なのだ。
 たまたま、出席番号順の席で隣だったから。
 そんな理由で中学入学から20年近く、だいたい年に一度のペースで新しい男に引き合わされ、「わたしの親友」と紹介されてきた。
 まるで林檎のごとく男へ惹かれ落ちていく彼女に、周囲は「ビッチ」的なラベルを貼りつけたがる。が、男を替える度に女っぷりと女社会のヒエラルキーを上げていく彼女は、光速を越えんと加速に耐えているよう。
 彼女は常にいつも遠い。と、気づいたので、古い歌のように彼女から離れると決めた。
 誰も皆、手を振っては暫し別れなくてはならないのだ。



 スイングバイ8

俺の息は火。馴らしたサックス片手に、しこたまブーストかけるぜ。
……私は雪だるま。超低周波で始まる旅は、誰にも見えない聞こえない。

マルス野郎の脇腹つつけば、コントラバスの重低音が魂に心地よくバイブする。
……氷片の闇を歩き回り、長い下積みの末に、ようやく冥界から這い上がる。

地球にとんぼがえりでハイタッチ、あとはぐんぐん加速する。
……海を渡り天を超え土を振るわせ木を奏でて、音程を駆け上がる。

そう、周期と周波数、鼓動と音程は反比例するんだ。

ビーナスちゃんの甘く高い歌声に、メロメロになりながらクイックターン。
……後からついてくる弟たちがベースをかき鳴らし、次第にクレッシェンド。

火と水の2オクターブ間を激しく上下するコーダ。
……地球を取り巻いて、生命の息吹きを確かに届けるために。

スイング、快感、スイング、快感。昇天のリズムに、俺たちは朝まで酔い痴れる。



 スイングバイ9

 ピアノの前に座り、彼女は集中している。これから始まる演奏のなかに、彼女のすべてを解き放とうとしているのだ。傷ついた過去も、傷を癒してくれた優しい手も、すべて彼女のはるか後方に消え去りつつある。誰のものでもない自分ひとりの旅が、この夜から始まる。客席は暗がりに沈んで静まり返っている。ダウンライトがステージを白くはじけさせている。さあ、アッチェレランド。



 スイングバイ10

 国際宇宙ステーションでは、海王星の方向からの電波を頻繁にキャッチしていた。宇宙人からの通信だと、宇宙でも地上でも大騒ぎになり対応が話し合われた。
 その宇宙船は惑星の引力を利用したスイングバイ航行で、日に日に地球に近付いてくる。それまでは惑星の写真ばかりだったが、木星でのスイングバイ後、直接、コンタクトを取って来た。
「われわれは、危害を加えない。燃料が少なくなったため、補給の間、宇宙ステーションに接続したい」
「どこから、来たのですか?」
「われわれは、大マゼラン星雲サンザー太陽系の第8番惑星から来た」
「何をしているのですか?」
「惑星の調査をしながら、地球型惑星を探している」
「分かりました。接続を許可します」
 暫く経って、その宇宙船は宇宙ステーションにゆっくり近付き接続し、小さなパネルを太陽の方向に向けた。補給の間、その宇宙船の乗組員達は、地球の状況を我らに聞き、筒状のアームを出し、地球を観察しているようだった。
「接続のお礼だ」
 物資を搬入する場所へ小さなカプセルが運ばれてきた。それを受け取ると、その宇宙船は金星の方向へ飛び去って行った。
 そのカプセルには、宇宙戦艦ヤマト 古代進艦長と書かれていた。



 スイングバイ11

 ミナモトヨシコは細い目をした暗い表情の可愛げのない女だけど、なぜか男を切らしたことがない。彼女の良さはあたしにはわかんない。はっきり言ってブスだと思う。なのになぜかみんなあの子のことが気になって仕方がない。変なの。
 近づいたのは好奇心があったから。あんた、どういう魔法使ってんの、どうやったらそんなふうに次つぎに男取っ換え引っ換え出来るわけ?
 ミナモトヨシコは歪んだ顔で笑って、わたしはなんにもしてないよ、ただ向こうから寄ってくるだけ、それですぐに離れていくだけ、そう言った。あなたもおんなじだよ、勝手にわたしに興味をもって近づいてきて、そのままどこか遠くへ行っちゃうんだよ。
 確かに彼女と一緒にいるのはあまり楽しくない。申し訳ないけど、あたしもさっさと彼女から離れようと思った。前のグループに戻るのは面倒くさいなと思っていたら、気になっていた男の子から声をかけられた。おつきあい開始。ラッキー。
 ミナモトヨシコはわたしが離れても平然としていた。今は前のグループの女の子たちが近寄って声をかけている。変なの。



 スイングバイ12

 師走に走るのは坊主ではない、主婦だ。
 動かない夫と動き回る子供達の手綱を操りつつも、大掃除とおせち料理の支度に追われる『絶対に倒れられない24時間』を、気力体力財布の残高を計算しながら数日間突っ走るのだ!
 『ゆく年くる年』が始まる頃に、夫と子らが炬燵で待つ卓上へ熱々の天麩羅蕎麦を置いたら、ようやっと本年度の仕事納めだ。へとへとに力尽きて空きっ腹に急ぎ蕎麦を掻っ込もうとすると

「お母さん、今年もお疲れ様」「お母さん、いつもありがとう」「お母さん、いつまでも元気でね」

 かけがえのない家族の笑顔と労いが疲れた心身に沁みて、来年への意気込みが湧いてくる。主婦業はあまり評価されない孤独で地味な仕事だが、家族の思いやりと暖かな声援があれば毎年巡る一年の苦労なんてなんのその、それこそ宇宙の果てまで行けてしまうエネルギーを貰って年の瀬を乗り切り振り切り、母ちゃんは新しい年に向かってダッシュで加速し駆け抜ける。
 海老天の尻尾も食らいつくした頃、時報が0時になる。あけましておめでとう、今年も頑張るよ!



 スイングバイ13

 仮面舞踏会で目の合った女性の眼差しは情熱的ですっかり見とれてしまいねっとり視線を絡めて二度とほぐれなくなりロンドに合わせて右に流れて周りの景色は振り向く紳士に驚く婦人、カクテルを運ぶボーイに楽師、果てはシャンデリアにアラベスクな壁紙、そしてカーテンや窓の外の風景などが流れ流れて右に右に加速し加速し加速し加速しそれでも止まらず……。
「だから戻らなくてはならないのさ」
 密林を分ける男は背中越しに話す。ぽ~んと放るような言い方だ。
「見えない愛を確かめるために」
 一緒に冒険をする道化の衣装で仮面を被ったよそ者は、蝶の舞う中迷うことなく真っ直ぐ愚直に密林を分ける。



 スイングバイ14

 私は、貴方の目に映る文字、文字の連なり、とるに足らないこの話であるから、実体はなく、しかし物理的でなく質量・引力を持つものでもある。私や、貴方のそれぞれの引力には質の違いがあり、すべて同様には作用しないから、単純でなく、私の体のごく一部が貴方のごく一部に強い引力を持つこともある。

 時間が空いたから余談をする、と国語教師が白いチョークを用い、聞いたことあるようでないような言葉を書き、図を描く。
 かいつまむと、別の物体の引力によって加速または減速する作用のことであるらしい。

 この挿話は、何と、どう引きあうか。

 私は貴方に、どう作用するだろうか。
 貴方は私に、どう作用するだろうか。
 私たちの引力は、お互いに届くだろうか。
 隣り合う・並列する・散在する物語・文章・文字は私に、彼らに、どう影響するだろうか。

 貴方に引力が届いたなら、もしかしたらそれだけで、私も、貴方も、彼らも、生きているといえる。
 少しずつ、進む方向や速度を変化させながら。
 そうやって擦れ違う。



 スイングバイ15

「ルシファーでスイングバイして天国へ」
 ルシファーとは明けの明星のことだ。ありふれた金星スイングバイの太陽周遊というツアーも洒落て見えるね。リヨンのサン=テグジュペリ宇宙基地のゲートはロダンの彫刻を模したもので、アナウンスいわく「アトンシオン、シルヴプレ。このゲートをくぐるにあたって、お手持ちの希望はすべてお捨てください。繰り返します……」
 グオーンと床が動いて、否応なく機内に吸い込まれ、機体は真っ直ぐ地獄へ飛び込む。ぐんぐん降りた擂り鉢の底で、氷漬けのルシファーは周りの空間を引きずりながら、ゆっくりと回転していた。そこに落ち込まないように……絶妙の舵取りでグインッとスイングバイして反対側からビュンと飛び出す。
 あっ! 丁度地上へ抜けるあたりで、あれは火球じゃないか! と思う間もなく引力すれすれに引っ掛けられて、機の姿勢がずれてしまって、このままでは虚空に放り出され……
 たまたま、近くの大根畑で農夫がこの様子を見ており、引いた大根の先っぽで突いて我々を正しい軌道に戻してくれた。メルスィー!! あとは天まで一直線!



 スイングバイ16

 真夜中、低い天井を見つめて、少女は願い事とは無縁に遠ざかる星の欠片の軌跡を追う。