500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第135回:熱くない


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 熱くない1

「愛はいわゆる鉛でね、天秤なんか乗せたら大変よ」、と少女はため息まじりに言った。
「重さが釣り合っていれば良いんだろう」
 少年が返すと、少女はまたため息をつく。そんなにため息をついては幸せを吐き出し尽してしまうのではないかと少年は心配した。
「そういう物理的な話じゃないのよ、一方通行じゃあ意味がないって言っているのよ。あなた、熱したフライパンに氷を乗せたことないの?」
 心底呆れる、というように少女は言うが、少年は「そんな変なことしないよ」と困り顔で返すだけだった。何が目的でそんなことをしようと思うのだろう、としか思えない。
「…どちらかだけ過剰なんて、許されないのよ。これだから男って」
 理不尽に会話を終わらせて少女が踵を返したので、少年は慌ててその右腕を掴んで止めようとしたが、触れた右腕があまりに熱かったので思わず言葉を失った。少女は一瞬だけ「しまった」というような顔をしたが、すぐにいつもの無表情になって「…冷たい」と悪口のように言った。それを聞いた少年ははにかんだ。
「そうかな、大して温度差無いよ」



 熱くない2

とある飲み会にて。『石焼きカルビ』なるものを頼んだ。ほどなく店員が直径20cmほどの平らな石をお盆に載せて運んできた。店員は素手でそれをテーブルに置いた。(おいおい、その石ぜんぜん焼けてないじゃないか)と胸の内でつぶやく間に、店員はその石に『熱い』と書かれたお札を貼った。その場にいた全員が「熱い」と思ったとたん、石はジュワジュワと熱を発しはじめた。「こちらで肉を焼いてお召し上がりください。焼き過ぎないのがコツです」と店員は立ち去った。石から充分な熱気が伝わってくる。俺は誘惑にかられてお札をはがした。すると石は瞬時に熱を失った。



 熱くない3

 星は小さく青く始まるも、膨張と共に温度が下がり、最後は赤色巨星として老いる。人の一生も似たようなものだ。青春から遠ざかるほどに、大事件にも心を動かなくなっていく。
 通勤電車の熱気にすら慣れてしまった私は、何か心躍るようなことはないだろうかとネットを拾う。

「今、火星が熱い」
 インドが飛ばしたのはびっくりした。全部で5機だっけ? 先月には彗星も近づいたらしい。でもローバーの映す火星は寒そうだ。

「今、国境なき医師団が熱い」
 そうだ支援しなくっちゃ。使い捨て防護服が一式1万円だって? 日本に上陸する前に抑えて欲しい。もしもと思うと寒気がする。

「今、株価が熱い」
 素人を大火傷させて、フェッジファンドだけが儲かる仕組み。醒めた目で素寒ぴんにはならないぞ。あ、でも日本全体は懐が寒くなりつつあるのか。

「今、火山が熱い」
 西ノ島と思いきや。なんで無人ヘリ飛ばさなかったんだろう。寒くて中止になる前にやりようがあったのに。

「今、川内が熱い」
 どうせ出来レース。こっちはごまめの歯ぎしり。事故が起こった場合の対策となると、お寒いお寒い。

 冷えきった時はこれしかない。
「今、風呂が熱い」
 いや、こちとら江戸っ子。このくらいでは…。



 熱くない4

「ダメじゃ、それに触ったら!」
「ビ、ビックリしたぁ……。いきなり叫ばないでよ、おじいちゃん。大丈夫だよ、これ電角でしょ?」
「電角? とにかく、消したばかりの電球に触ったらいかん! 大火傷するぞ!」
「だから言ってるじゃない、電球じゃなくて電角なの。デ・ン・カ・ク」
「なんじゃ、その電角っちゅうのは?」
「去年、法律が変わったでしょ。 白熱電球と区別するためにLEDはすべて角型になったのよ。丸くなければ熱くないの。わかった?」
「なんだかよくわからん。エルなんとかって横文字を出せば誤魔化せると思って、年寄りをバカにしとるじゃろ?」
「なによ、親切に教えてあげてるのに。嘘だと思ったらそれ触ってみてよ、おじいちゃん」
「そんなことできるわけないじゃろ?」
「だったら私が触ってみるから」
「だからやめろと言っとる。火傷するぞ」
「じゃあ、おじいちゃん、触ってみて?」
「それはできん」
「じゃあ、私が」
「それはいかん」
「じゃあ、そこで笑ってるお父さん」
「えっ、俺? 俺は……」



 熱くない5

 男の鼻は広がりがあって高く、私の好みだ。私はその鼻に触れる。男の唇は厚みがあって大きく、私の好みだ。私はその唇に触れる。男の首はその体格に比して細く、ゆるやかに肩へとつながる。男の肩は適度な筋肉を持ちながら丸みを帯び、なだらかに腕へとつながる。私はその流れていく肉に触れる。男の胸に頬を押しつける。薄く生えている胸毛が私の唇に触れる。男の臍は横長で深く、その下から陰毛へとつながる。私は男の陰部に頬ずりをする。その形が、匂いが、私の好みだ。
 男の身体の上に脚を開いてまたがる。男のそれを自身の陰部へと導き入れる。男の名前を呼ぶ。その肌の上に横たわる。口づけをする。
 男は動かない。私の名前を呼ぶこともない。その目を見開いたまま、微動だにしない。すでにその熱はない。やがてその形も匂いもなくすだろう。
 冷たい息を吐いて、冷たい身体で抱きしめる。私の愛はいつも男の熱を奪う。そうして私は男の熱とともに生き続ける。
 幸せだ。



 熱くない6

「うわっ!超熱くない?これ」
「マチ、猫舌のクセにホットコーヒーとか頼んだからだよ」
「マッサン、コレ熱クナイヨ」
「なんで片言?」
「アレだよ。サチコの連続テレビ小説ブーム」
「熱クナイ?熱クナクナイ?熱クナクナクナクナイ?」
「何回言った?」
「マッサン、日本語、トテモ難シイ」
「わたしに言うなよ」
「本編では主人公の名前ね」
「エリー、冷マス。フーフー、シマス」
「いらないよ」
「サチコなんだから、『サチー』ぐらいにしとかないと」
「サチー、幸、薄ソウ」
「見た目通りじゃん。っていうか、いい加減、フーフーしなくていいから」
「マッサン、モウ熱クナイ。熱クナクナイ?熱クナクナクナクナクナクナクナクナイ?」
「熱いのかよ!」
「ユウコ、数えたの?」
「お約束だし」
「ユウコサン、数エルノ、ヨクナイ。ノリガ大事。スゴクスゴク大事」 「めんどいわぁ・・・ぬるッ!」



 熱くない7

 彼女のコーヒーはだいぶ時間が経って、美味しさを失っていた。それでも執筆の間にときどき口をつけている。温かいうちに飲まないのは、苦いのがダメだからなのか。かといって砂糖を入れることもない。
「明日で一年経つね」
 不意に彼女は手を止め、うつむき加減でつぶやいた。顔が近い。私はきょとんとする。さて何から一年経つのか。二人の誕生日や記念日とは違う。
「あなたが帰ってきた日から」
 ああ、そうか。私は一度おかしくなって入院し、またここに戻ったのだ。二人の関係はリセットされた。原因は熱いコーヒーだった。彼女にかけられてしまい、異常な高熱を発してしばらく療養を受けたのだ。
「もう熱くないね」
 彼女は私の動力源を撫で、よし、と言うと、私の体で文字を打ち続けた。私は彼女の指に触れ、想いを慎ましく映し出すだけだ。



 熱くない8

 画像検索したところ、こいつらしい。
 〔野生のすっぽん鍋〕
 日本経済が立ち直らなかったため、多くのすっぽん料理屋が廃業した。老舗の味が染み込んだ鍋は引き取り手が付かずに廃棄の憂き目を見、同時にほとんどの養殖池ですっぽんが放置された。
 九十九神となったすっぽん鍋が、脱走したすっぽんと出逢って意気投合し合体したのが由来。何が両者を惹きつけ合うのか、その生息数は少なくないと言われている。
 くつくつ煮える見た目に反して熱くない。一部の富裕層が今だに希求する若さ、健康、おいしいもの、そんな欲望自体まぼろしであったかのように冷めた目で眺める市場を映しているとも、熱くない鬼火と同じとも考えられている。

 なるほど。しかしそんな物の怪が白昼近所の貯水池の畦草を踏み分けて出てくるとは思いもよらなかった。鍋底に四肢としっぽが生えていてぶんぶく茶釜みたいだ。湯気の中にスープに浸かった甲羅が見える。熱くないというので、甲羅を押してみようと指を伸ばした。
 うん。熱くない。
 けど、噛むじゃないか。



 熱くない9

「ということはつまり、寒い、ということなのかしら?」
君はちょっと気取って言った。
同棲する部屋の、テーブルをはさんで二人きり。
不意に君は、テーブルの上の熱した鉄板に手を

本能が働いた。
すんでのところで手首を掴む。

笑う。
「いやね、貴方。私がどういう人か、知っていて?」

知っているのを分かっているのに言うのだ。
今日の君はなんとも意地らしい。

君はそれに手を置いた。

じゅっ、と、焼ける音がする。
変わらず微笑んでいる。
指がぱち、ぱちと音を立てる。蠢く。

君が手のひらを焼いたその、ほんの数秒が、
何分にも何十分にも感じられた。

感覚を知らない君。
いつもどこかふわりとしている君。
感覚がないということは
どんな感覚なのだろう。

僕には、わからないよ。
口を開く僕に、首をかしげる君。
背中でも、殴ってやろうか。
少し驚いた様子。

その顔がもっと見たくて、
僕は君と同じように、
スイッチをつけたままの鉄板に手を置いた。

君を、少し真似するように、言う。
「……寒い、ということだよ。」



 熱くない10

 木喰の里を見に行こうと友達にレンタカーを運転してもらい、東京の町田から山梨の身延に出かける。
 レンタカーは雨中、だんだんと細くなる山道をぐるぐる回る。「ネットで出したそんな略図では良くわからない」「あの間道から登るんじゃないか?」「ちょっと先に道の駅があるから尋ねてみよう」訊いても誰も知らないというが「やはりさっきの細い脇道が怪しい」と言い合い引返す。なんら表示の出てない、軽自動車の車輪がぎりぎり乗るような細い坂道をぬかるみにタイヤを空回りさせながら、ようよう木喰の里微笑館に到着する。
 パートらしいおばちゃんが照明を入れてくれ茶菓子まで出してくれる。無料だ。小学校の教室より小さな展示室に入ると木彫りの仏が五つほど安置されてて、全てにレプリカとの説明書きが添えてあった。
 ぼくたちはガックリきたものの、磊落に逞しく生きた木喰上人らしさがあるよなあ!ファファファと笑い、記念館を後にした。
 その日は近在の下部温泉郷に泊まる。宿所の湯舟に身を沈めるとボイラーが故障してるのかというぐらいのぬるさに驚く。当地の鉱泉は低温が特徴だとのことで、また肩を透かされた気分がした。



 熱くない11

「むあ。痒い」
 と体をくねらす当人の現状はというと、なんと火炙りである。
 はじめはこんなではなかったんだけどなあ。

 発端は、なぁんだかアタシどうにも熱くならないのよぅー、という投げやり且つ冗談のようで切実な彼女の告白で、もうちょっと加えるなら、「僕がいつか君を熱くしたげるので恋人となろうそうしよう」などと迂闊軽率を口にするような好きにもなれない男に身を委ねてみちゃったことにあるのだが、断っておくけれど、別にそれが幸せか否かの判断を我々が下しても仕方がなくって、ただ、あんなになってしまうのは端から見ていて怖いなとも思う半ば神の視点。

 消し炭になった彼女の上で脱け殻となった彼はできうる限りの想いを全うしたんだろうか、羨ましいような気もせんでもないようなするようなしないような、
「ひふぁ。ちょっと、こそばいてー」
 と恥ずかしそうに悶え燃える彼女の声が耳に残っている。
 そんなに怖くもない。
 ただ、友達がひとりいなくなっちゃったから寂しいよ私は。



 熱くない12

 もうすぐ届く。あれが……南極で凍らせた羊羹が。
 というのは、妻が寝込んでしまったのだ。熱があるという。指一本触れない間柄ではあるが、本人がそう言うんならそうなんだろう。南極で凍らせた羊羹で頭を冷やしさえしなければ助かる、と言い張るので放っておいたが、一週間経っても二週間経っても全然起き出す気配がなくて、寝ているだけの人間に食事を提供する役目が面倒くさくなったのだ。それで、思い切って南極で凍らせた羊羹を注文することにした。特注になるかと思ったが、高級和菓子屋の通販で、ちゃんとそういうサービスがあった。高いが、まあ最期くらいいいだろう。残りは俺が食べるし、彼女の口座に相当の額が入っていることも知っているから。

 もうすぐ持ってくる。あれを……南極で凍らせた羊羹を。
 根気よく寝ていれば、いずれ夫はそうするはずだと思ったのだ。やっぱりね。どうせ高いお金をかけたんでしょう、ご苦労様。一箱用意しておいた熱さま○―トをおでこにのせて待つ。

 南極羊羹熱は、静かに蔓延してきている。その最も特徴的な症状は、熱が出ないことである。



 熱くない13

「少し汗ばむくらいの陽気に包まれ、9月中旬並みの気温となるでしょう」
 天気予報の伝える通り11月って割には確かに暖かい。夜のニュースでは異常気象を特集していた。今月に入ってから「9月並」はもう既に十日以上だとか。
 一方、11月は真剣に悩んでいた。
「俺さ、11月でいる自信なくなったよ。だから9月になる」
「ちょ、ちょっと待てよ。窮屈だってば」
 9月の中に11月が強引に潜り込もうとしていると、お祭り好きな春から夏までの面々がこぞってニヤついた。
「お、楽しそうなことやってんじゃん。オレらも入れてくれよ」
 するとにわかにざわつく年始めの連中。
「ぼくら本当は夏に憧れていたんですっ」
 あっという間に1月から11月までが9月の中に入った。
「君は来ないのかい?」
「私は結構です」
 12月は静かに拒絶する。
「祭なんだからハジけようぜっ」
「放っておいてください」
 かくして翌年は66月が11ヶ月続き、迎えた暮れ。12月は大好物のトラピストクッキーを食べながら手紙を読み返す。
『おかげで息子の誕生日を無事に祝えました』
「歳暮……マリアか」
 その日はこの年一番の冷え込みとなった。



 熱くない14

 サイコロがある。
 振る。
 コロコロ転がって出た目の数は、1。のようで、少し違う。
「だって、目ではなくて、口だもの」
 そしてサイコロに一口で食べられる。

 中は真っ暗。でもなく、外の光が上からも、横からも入ってくる。内側からぐいっと押せば、ごろんと転がる。
「んんっ」
 上面からの光の加減で機嫌がわかる。否、変わる。『3』は案外に世話焼きで、まめに色々と寄越してくれる。
 時々、いたずらで光の差し込み口に手を突っ込む。『6』なら、もぞもぞとするだけであまり怒られない。ただ、
「もう……ね、熱い?」



 熱くない15

幽かな光が瞬いて消えた。
「あ…蛍」思わず口に出してしまった。
「ちっがーう!」即座に否定された。
わかってる。今はそんな季節じゃないしそんな場所でもない。
ベッドが軋む。笑っているらしい。暗くて見えないけど。
「ひどいな」
「…だってぇ」
多分上目づかいでこっちを見ている。
どこからか甘い香。これは…キンモクセイ…だっけ?
「これは銀木犀、金木犀のはもっと甘ったるいの」
そうだ、君が集めていたのは白い花だった。あちこちに撒いて叱られてた。
テーブルの上、バスタブの中、子供部屋、それから…。
この季節はいつも、家中この香で一杯だった。
樹は窓のすぐ近く迄、枝を伸ばしていて…。
「思い出した?」
「…ああ」
じわりと闇に滲み出す焔。
思い出したのは僕だけじゃないね。この家もだ。
君の貌が照らされる。揺らめく赤と黒。
「こわい?」
「…」
君の大切な人形が、絵本が、オルゴールがまた燃えている。あの日と同じに。
壁紙を舐め尽くした炎が床を這って来た。
赤い舌をちらちらさせながら鎌首を持ち上げて僕達のいるベッドをのみ込もうとしている。
「大丈夫。こうしていてあげるから」
抱きしめられて僕は眼を閉じる。懐かしい香に沈んで、感じるのは…。
「ね」



 熱くない16

 あなたには熱を感じる器官がない。たとえば熱したフライパンに掌を押しつけても何も感じない。焼かれていく実感のひとつもない。そのため幼少時には入院したこともある。
 この性質を生かそうとあなたは消防士の職に就く。上司の一人から辞めた方が良いと言われる。炎を怖がらない奴にゃ消防士は務まらねぇよ。あなたは当然納得しない。
 初の現場で少女が一人取り残される。あなたは単身飛び込む。炎の海を突っ切って少女の下へと駆ける。抱きかかえて窓から飛ぶ。少女は九死に一生を得る。あなたは全身を焼かれて死ぬ。
 それから一ヶ月後に少女は焼身自殺する。なぜそんなことをしたのかあなたは問う。彼女は笑って答える。かかえてくれたあなたの全身が、炎のように熱かったから。



 熱くない17

 NASAの人材募集をホームページで読んだ俺は、さっそくメールを出した。
すぐに連絡は来ず、もう一ケ月だなと思いながらコンビニに行くためドアを開けると、黒ずくめの男性が二人、立っていた。その男性は名刺を出した。
「寒川さんですか?」
「そうですが」
 俺は名刺を受取りまじまじと見ると、名前の上に小さいローマ字でNASAと書いてあった。直接来るとは思わなかった。
「早速ですが、宇宙研究所へ来て頂けますか?」
「今、すぐですか?」
「ええ、時間がないので」
 俺は無職で、両親は他界しているし、どこにも迷惑はかけない。すぐに用意をし、その二人と黒のセダンに乗った。会話はなく、2時間程で着いた。
 大きな銀色のドーム型の建物だった。中に入ると二人の日本人が俺を待っていた。そうして俺を実験し、合格するとすぐに宇宙空間と成層圏との間に打ち上げられた。
 この所、太陽の活動が活発になり、フレアから出る電波を抑える人柱が必要になったのだ。俺は、特殊能力を身に付けて生まれて来た。熱さを感じず、降り注ぐ宇宙線を遮断する電波みたいな物を体から発する事が出来る。一ヶ月、勤めを果たし地上に戻ってくれば、その後は困らない。さあー、頑張るか。



 熱くない18

 近頃、妻がちょっと変だ。変というか、やたらと神経質になっている。神経質っていうのは度が過ぎなければきちんとした生活を送るのに役立つのだけれど、ワイシャツに皺一つなくピシッとアイロンがかけてあったり、床が埃一つなくピカピカに掃除されていることの恩恵よりも、僕は妻ととる夕食がひどく億劫である。
 妻の料理は、旨い。出会ったころに食べさせてもらったものから旨かったし、正直胃袋を掴まれたような結婚だ。
「今日はエビのマカロニグラタンよ」
 チーズがフツフツしているうちにとスプーンを持ったところで妻の言葉。
「あなたはどうしていつもそうなの」
 妻によればグラタンを味わうための最適な温度は65℃で、それより高いと舌が熱に鈍ってしまい、「正しい味を十分に感じ取る」ことができないらしい。冷めていくグラタンを前に、素材の味を最大限引き出すために行った調理過程を聴き、妻のお許しが出てやっと食べ始める。確かに染み渡る旨味。口の中を火傷することもない。
 食事を終えると妻は無言で食器を洗う。それは丁寧に。気にはなるが声をかけないままテレビのバラエティ番組に視線を向ける。特に面白いわけでもないけれど、笑っておく。



 熱くない19

赤い蛇口を捻ると流れ出てきた金魚たちは、瞬く間に洗面器を埋め尽くした。
隣に座っていた爺さんが、おもむろに自分の洗面器を頭上に掲げて、ひっくり返した。
何匹もの赤い金魚が、爺さんの頭や背中に当たり、下に落ちる。
爺さんの周囲では、すでに何匹もの金魚たちが、タイルの上でてちてちと跳ねている。
よく見れば、一匹だけ黒い金魚が混じっている。
爺さんの真似をして、私も洗面器を、頭の上でひっくり返す。
ぬらりとした、それでいて意外なほど硬い金魚の鱗が、私の体を叩く。
ひんやりとしていて、案外心地良い。
タイルに落ちた金魚たちは、爺さんの周囲の金魚と合わさり、列をなして跳ね進み、排水溝へと消えて行った。
タイルの上では、黒い金魚だけがてちてちと跳ね続けていた。



 熱くない20

 翼の生えた妻は満月の晩、飛んで行ってしまうので困る。カヌーで漕ぎだし島々を巡っては妻を追い求める。妻は必ず迷子になってしまうのである。
 月明かりに照らされた島で、まず妻を見た人がいないか捜す。島には本当のことしか話さない人と、本当のことを話さない人しかいない。まずは相手がどちらの種類の人なのかを見極める必要がある。だから静かに質問をする。そして相手の答えがどんなものであろうとも礼節だけはわきまえていないければならない。
 そうしたやり取りを根気づよく、島々を巡っては出会う人すべてに繰り返す。空が白んで来る頃になってようやく妻を見付けることができる。
 妻は自分がどうして満月の晩、飛んで行ってしまうのかまるで憶えていない。カヌーに揺られながら心配していたのだと伝える。妻はいつも泣きながら謝るのでどうしても許してしまう。



 熱くない21

 ギリギリ抉るように痛む米神――。
 緊張で張り裂けそうな心臓――。
 焦れったい程むず痒い乳首――。

疲れ果てた身体を苛む、規則正しい吸啜音が耳障りで憎らしい。

(……本当に食い意地の汚い子って嫌!)

 文字通りの宝物の我が子が、無心に母乳を飲んでいる。(ったく、いいご身分だな)
すわらない首を支える左腕は、動かしたくても動かせない。(痺れを通り越して石だよ石)
もう1時間も授乳してるのに、いつまでも終わる気配がない(もういい加減にして!)

 シャカシャカと空いた右手で握る哺乳瓶を、怒りにまかせて激しく縦に振る。マイペースなこの子の所為で、キチンと測った適温のミルクはいつも温くなってしまい、飲ませようとしてもイヤイヤと拒絶して飲みやしない。
いつからか粉ミルクを用意するのに、湯冷ましより熱湯の量を多くして調乳するようにしたのは私の生活の知恵。

 ようやく、乳首から口を離し上目遣いで視線を向けてきた。哺乳瓶を傾けて口元に押し付ける。まだ飲み足らないのか、早く寄越せと言わんばかりに両手を哺乳瓶に必死で伸ばしてくる。

「ほーら、熱くなーい、熱くなーい、熱くなーいー」

鼻をひくつかせた顰め面に溜飲が下がる。
母は悪くない。



 熱くない22

 一塊の群衆が騒いでいる。
 街頭で、緩い隊列をなして練り歩き、口々に激しい呪詛を、罵倒を、陵辱を叫んでいる。
 穢多。天誅。皆殺し。
 普通思っても公に口にはできないような言葉を、白昼堂々、公衆の面前で。
 警官は小競り合いに距離を取る。為政者は事なかれコメントでお茶を濁す。これが平時における通常の自由の行使だと誤解しているからだ。
 それに違和感を覚える多くの人々もまた、異議申し立てすることの煩わしさや身に降りかかるかもしれない危険に二の足を踏み、胸の奥に仕舞い込んだまま、幾重にも遠巻きにそれを見守っている。

 まだ熱くはない――誰もがそう思っている。だが沸騰は一瞬だ。



 熱くない23

「今度の発明は凄いぞ」
 そう言ってハカセが差し出したのは、ネコ型ロボットだった。
「いったいこれが何です?」
「まあ見ていろ」
 そう言ってハカセはネコ型ロボットに淹れたてのコーヒーを舐めさせた。
『熱いニャ!』
 そう言ってネコ型ロボットは全身の毛を逆立ててふしゃー。
「な? 飲み頃が分かる」
 そう言って得意げなハカセを尻目に、私はネコ型ロボットを窓からぽいと捨てた。

「今度の発明も凄いぞ」
 そう言ってハカセはまたもネコ型ロボットを差し出した。
「いったい……」
「まあまあ」
 そう言って私をなだめたハカセは、ネコ型ロボットを私の頭の上に乗せ某イケメンアイドルの写真を差し出した。
『熱いニャ!』
「ほぅら、君がこんなアイドルなんぞに熱を上げて見合いを断ってばかりいるのがこのネコには……ああっ、何をする」
 そう言った博士を尻目に私はネコ型ロボットを窓からぽいと捨てた。

 その後、町では夜な夜なネコの盛る声が絶えず聞こえたという。
『熱くないニャ』
 その町はネコであふれかえったが、住民はネコを見ると絶えず冷たいミルクを出しているらしい。おっさんもおばちゃんも子どもたちも。