500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第66回:這い回る蝶々


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 アオスジアゲハをつかまえた二人。この蝶々はトルコ石みたいな羽を持っている。とても速く飛び回るので、つかまえるのが難しい蝶々。
 はさみで根元からちょきん。羽と体は離ればなれ。
「これキレイねえ、アッちゃん」
「キレイねえ、ヨウちゃん」
 長い足で地を這う蝶々。その姿はひどくみじめだ。初夏の日差しが作りだす影がくっきり。
「ヨウちゃん、桃子って読んだことある?」
「ううん、何それ?」
「絵本」
「ふうん」
 地面を歩くようにできていないので、蝶々は動きのわりに移動していない。
 アッちゃんと呼ばれた子の母親には最近、若い恋人ができた。昼間から子供を放り出し、情事に勤しむ。何をしているかは、アッちゃんにまだ解らないこと。
「それ何?」
「お母さんの部屋にあったの」
 見る人が見ればわかる赤く太い蝋燭。二人は火遊びをはじめる。太陽の中で、炎は透明にたよりない。
「アッちゃん、それ、残酷」
 ぷくく、とヨウちゃんと呼ばれた子が笑い、アッちゃんもニヤニヤと笑みを浮かべている。ぽたり、ぽたり。蝋が垂れる。逃げようと這い回る蝶々。しまいに、二人は蝶々を封じてしまった。
「なんか粉、手についちゃった」
「汚いね、羽。捨てちゃおうか」



——綺麗でなくては意味がないでしょう
 カクテルライトのように光を撒き散らしながら彼女はいう。鏡を見つめ他のすべて
を犠牲にして、彼女は美しくなってゆく。タフタの艶。薄く透けるオーガンジーを幾
重にも重ねてアウラのように纏う。ゆるやかに揺れるフリンジ。
 積み重ねられた美しさは重すぎて、もう飛べない。彼女は美しさ以外のものを見よ
うとしなくなった。
 美しさはますます重くなってゆく。
 喰うという野蛮な行為のふさわしくない優雅な口元。細い繊細な手足。
——綺麗でないものは存在する意味がないでしょう
 彼女の目はぼくを映さない。ぼくの声は届かない。
 美しさが肥大していく。



男は、わき腹からの失血を片手で押さえながら夜の公園に辿り着いた。うずくまった街灯の柱の上では暖かい光に蝶が群がっていた。
成り行きで始めた運び屋は性にあったと思う。
夢を持って上京したはずが気がつけば混沌と欲望の街、歌舞伎町に流されていつの間にか夢を見失った。
その間ありとあらゆるものを運んだ。
シャブ、大麻、死体、臓器、現金
法外な値段は非合法さに比例して増してゆく。貯金もヤマを踏むにつれて増していった。
今夜の取引を終えれば、足を洗って田舎に帰るつもりだった。

最後の最後で依頼主に消されるなんて、最悪のヘタ打ちだ、浮き足立ってた。

腹部からの生暖かい失血は、患部に布切れを突っ込んでも気休めにすらならない。

あぁ、寒くなってきた。もうダメかぁ…内臓がやられてらぁ。自分が死者に近付いていくのを感じた

彼が街灯の下に横たわると、公園の黄色い砂が赤く染まった。
羽が焼けた事が解らずに這い回る蝶々が霞んだ目に映る。
飛ぶ事も出来ず、惨めに地面を這い回る蝶は、まるで自分の生き方のようだと薄れゆく意識の中で考えた。

お前は、死ぬなよな。
そう独りごちて、男は目を閉じた。



「ああ暑い。もっと羽を動かせよ。この野郎」
「旦那、手荒なまねはやめてくだせえよ」
 畜生。何で俺がこんなことしなきゃいけないんだ。俺の羽はこいつらの団扇じゃない。
「手抜きすんじゃねえよ。次はあっちだ」
 新しい客だ。俺は返事もせずにうつむいたまま後ろを歩く。
 いつまでこんな暮らしが続くんだろう。青空が見えているのにこの蜘蛛の巣からは抜け出せない。いつかまたこの羽で自由に空を飛びたい。

「何だあれ」
「えっ」

 一瞬のことだった。みんなが振り返ると同時に小さな鳥が蜘蛛の巣を突き破って行った。
 あたりは最初から何もなかったかのように静かになっていた。
 鳥を追いかけるように吹いた風に乗って蝶の羽だけが高く舞い上がっていった。



白い翅がひらひらと花弁の周りをめぐるのが見える。
燐分が春の陽に照り映えて、わたしの小さな目を射ぬく。
……うらやましくなんかないわ。いずれはわたしも舞い上がる。
こんなにも白く、つややかなわたしですもの。
深い眠りの後に広がる翅は、きっと彼らよりも大きく優雅なものとなるでしょう。
その日のために、絹糸の繭を編む。桑の葉がしきつめられた木箱の褥の片隅で。
わたしは夢見る天の虫。



「さっきからあんた一体なんなんだ、うろうろと……」
「あの、私のあれ知りませんか。困ってるんです」
「あれって」
「ほら、空をふらふら飛ぶやつ」
「もしかしてあんたの背中に付いてるやつか」
「あっ、忘れてました」

「ふう。動き回ったら疲れちゃいました」
「じゃ、じっとしてろよ」
「いえいえ、そろそろご飯食べに行かないと」
「おいおい、あんたちゃんと食べてたじゃないか。見てたぞ」
「あらら、そうでしたっけ」
「確かに食べましたよ、一昨日の朝、そこの咲きたて黄色いやつをうまそうに」
「そうですか。って、蝶々ってご飯、三日ごととかでいいんです?」
「知るか」

「いいから、じっとしてろよ。動き回ってくれるなよ」
「あははー。青虫の頃から私、落ち着きがないとかそそっかしいとかってよく言われてました」
「笑い事じゃないんだよ」
「怒るとお腹が空きますよ」
「逆だ。腹が空いてるから、怒りっぽくなったんだ」
「どうぞ! 何か召し上がってください」
「お前がうろうろ、うろうろ、逃げ回るから召し上がれないんだよ」
「えへへー。やだなぁ、私ってほんと落ち着きがなくて」
「ここは蜘蛛の巣だ!」
「あっ、忘れてました」

「てめぇはとっとと飛んでけ!」



幼い頃から私の周りを紅い蝶が常に旋回していた。頭上を気持ちよさそうに飛んでいた蝶は、やがて私が青年になると肩の辺りを涼しそうに飛び、中年と呼ばれる歳に差し掛かると腰の辺りをどこか淋しそうに飛んでいた。
そして今、蝶は畳に羽を擦り付けるように這い回っていた。幾分色褪せ擦り切れたその羽を不器用に羽ばたかせる蝶は今の私によく似ている。這い回る蝶の横で私は家族に看取られながら人生を回顧していた。蝶を見つめていると私の意識は次第に薄らいでいった。
気がつけば今まで積み重なっていた倦怠感はなくなり、体は綿のように軽くなっていた。これで終わりなのだという寂寞感が心に暗雲をもたらすと、どうにもならないという無力さがそこに雨を降らせた。そっと瞳を開いてみる。私を囲う見知った顔の連中は仮面を取り付けたかのように一同に悲しそうな表情をしていた。そんな影を落とした景色の中に一つだけ色鮮やかに映るモノがあった。件の蝶だ。先ほどまでとは違い煌びやかに空を舞っている。やがて静かに空高くへと飛び始めた蝶を追うように、私の意識も徐々に浮き上がっていった。蝶の羽から透けて射し込む午後の日差しは今の私には余りにも眩しすぎた。



翅の付け根の辺りをぷちっという感触がするまで針で刺すんです。するとどういうわけか飛べなくなる。モンキチョウ、クジャクチョウ、カラスアゲハ、他にも様々な蝶で試しましたよ。たくさん集めて並べるとね、翅の色が床一面に広がってむぞむぞと動くんです。それを見ると、俺はここまでやったんだなあ、って思うわけです。で、油をかけるんですね。悲鳴を上げて逃げようとしますが、ここであせっちゃいけない。どうせ飛べないんです。マッチを取り出して、擦って火を付けて、落とす。ここでしくじったら泣くに泣けませんからね。一つ一つ確認しながらやる。後はじっくりと見物です。炎と煙に巻かれて、転がりまわって、ぎゃあぎゃあ鳴き声を上げて、翅を崩して撒き散らす。それがひどく滑稽でね。だけど、たまらなく愛おしいんですよ。



 彼らの越冬は特筆に値する。
 繁殖期、初雪を切っ掛けに雄はいくつかの群れを成す。
 上空から見ると、白いキャンパスに己の姿を描いたかような群は、しばらくすると隣接の群へと突撃し、さらに大きな群れを成す。五百頭を超える巨大群同士が地上を蠢き、衝突・融合する様は怪獣映画さながらだ。
 これによって、成虫での越冬と同時に自然淘汰が行われ、最終的に群で生き延びた一頭だけが、春に羽化した多数の雌との間に子孫を残す。
 なお、現地の胡族では群を鱗粉転写した布を、死者への供物とする。



 真夜中、無性にコーラが飲みたくなり自販機へ行くと、一匹の蛾が地面に落ちていた。
 薄暗い明かりに照らされた蛾は、羽を激しくコンクリートに叩きつけながら暴れていた。
 
 気が付くと僕は、蛾を踏み潰していた。ふわりとした触感がサンダルの底から伝わってくる。
 足を上げ確認すると、それは蛾ではなく、蝶だった。

 なんだか少し、勿体無いような気持ちになった。



くすぐったいな。
僕が目を醒ますと、動き回っていた蝶が飛び立つ。
辺りは緑と織り成す色彩で眩しい。
眼下は焼け爛れた荒野と赤黒い空が広がっている。

終焉の日。
業火が全てを飲み込んだその日、僕はたった一人で地上に残っていた。
特異な体質に生まれ、皆に気味悪がられていた。
もう消えたいと思っていた。
『怖いよ……』
か細い声を聞いた気がして見れば、葉っぱについた小さな卵が人災に震えていた。
それが人の目で見た最期の光景だった。

僕は木や花を取り込んで、紡ぐ息から薄い光の膜を張っている。
あの時、無意識に力を放ってしまったようだ。

この緑は僕の命が果てるまでのもの。
籠の中に閉じ込められた蝶と僕だけの世界が静かに流れてゆく。



本を読んでいると話しかけてくる癖がある。
「美術教室に移る途中の廊下で、コンタクト落として困っていたときにね、通りかかった伊藤と暮葉とアイリンと戸田先生、それに窓から舞い込んできた名前も知らない蝶々が探すのを手伝ってくれたの」視線が絡む。
「それがそのときのコンタクト?」「蝶々がみつけてくれたんだー」ほあんと欠伸して寝転ぶ。
すうっと眠り込んだ恋人の寝息、聞きながら薄い詩集を開く。詩と彼女とぼくの、息が合ってくる。雲の影が丘を滑り降りる。
寝息の拍子が乱れ彼女の前髪にふわり降りた蝶々、ひとしきり額をうろついて、ふっくらした瞼の上にしっくり落ち着く。ぼくも眠気を催しうつらうつらして、夢の中から伸びてきた恋人の手を取る。
詩集は木陰にそっと置いて、連れ立って蝶々の夢に滑り込む。そこにからっぽの空間はない。風は、蝶々にとって柔らかい地形だから。ぼくらも繋いだ手を離して、宙空の丘を這い降りる。
人は一人では人々ではないが、蝶は一羽でも蝶々。蝶々の夢は意外に広くて色が変。
「その節はありがとー」「なにか手伝えることがあるかぁぁい」
告白したい? コンタクトに?



 小さくてんてんてん、蜜の痕。
 指で辿るとべたべた繋がるのが愉快で、お父様ともお母様ともお兄様ともはぐれてしまったのに、もうずっとずっと蜜の痕を追いかけている。
 おなかがすいたら手についた蜜をなめて、ぺたぺた蟻のように這い回る。
 頭には、お兄様に結んでもらった赤いふわふわのリボンが蝶々のように揺れている。
 いつからいたのか、大きな大きな袋を持った男のひとが前に立っていて、蜜はそこまで続いている。
 小さくてんてん、蜜の痕。



 今日も蝶々は、羽根を汚しながらずるずると這い回る。蝶々は飛ぶことより昼寝が好きだった。心地よく眠れる場所を探すのも好きだった。
 試行錯誤の結果、蝶々が得た絶好の昼寝場所は地面だった。ぽかぽかと照らされた地面にごろりと寝転がるとこれが気持ちいい。空からも地面からも暖かさを感じられる。ゆっくり目を閉じ、まどろんで、やがて蝶々は熟睡する。この瞬間、蝶々はとてつもない幸せを感じるのだ。
 息を潜め、葉に紛れるように生活するのは簡単だった。この蝶々にはそういう才能があったらしく、何も考えずただ隠れようとしただけでも群れの誰より長生きすることができた。殺されるまいとあれこれ策を講じた仲間は次々と死んでいき、その度に蝶々は嘆き悲しんだ。……らしいのだが、蝶々にその頃の記憶はないらしい。
 今日は日差しがおだやかないい日だ。蝶々は時折空を見上げながら、昼寝場所を探すべくずるずる這い回る。木の影が理想だが、奥に入りすぎてはそのうち寒くなるし、だからといって、日が射しすぎる場所もいけない。そうそう、時間が経つことも計算に入れなくては。

 蝶々は地面を這いまわり、空に憧れる蟻たちに舌打ちされる羽目になる。



 舞い落ちたけど木の葉でない。
 羽根はあっても燕でない。
 花へ向かうが蜂ではない。
 輝くけれど宝石でない。
 まったくもって、鰈の親戚ではない。
 それは泣かない。
 それは笑わない。
 電話をかけない。
 メールしない。
 眼鏡は似合わない。
 指輪をしていない。
 風に逆らえない。
 もう飛べない。
 のろのろとしか動かない。
 まだ死んでいない。
 もう長くない。
 誰も知らない。
 このままでいたくない。
 あなたに、それが言えない。



ルリタテハ……?(オオルリ、だっけ?)
瑠璃色は、あまりにも鮮やかにして、されどその蝶々は、羽を開くことはない。
六本の脚で、少しずつ歩を進める。
なぜ飛翔しないの、何故、羽を開かないの?
「ああして、地に滴った果汁を啜っているんだよ。」
どこかから、声が聴こえる。
「蝶々が吸うのは、花の蜜だけじゃない。動物の排泄物こそが、彼らの養分なのだ、お前も承知しているだろうに。」
そうだった、あの蝶が舐めとっているのは、まぎれもなく私の身体から沁み出した、液体。
吸い、舐めとりながら、その鱗粉は輝きを増してゆく。
蝶は私を吸い、私は、自身がその瑠璃に変容するのを感じている。
私のすべてが吸い尽くされたとき、果たして瑠璃色の蝶々は飛翔するのだろうか。
何処へ……?



「舞踏会に着ていくドレスがないの」とそこらじゅうで声がする。
 騒ぎ立てる彼女たちを踏まないように注意して、僕は窓に近づいた。錆び付いた鍵を回し、力いっぱい窓を押し開ける。湿っぽいカビ臭い空気の部屋に外の風が一気に吹き込んだ。
「まぁ、ドレスじゃない! きれい!」
 風と一緒に入り込んできた花びらに彼女たちは群がる。
「これで舞踏会に行けるわ」
「今、車を出すから。一緒に行こう」
 僕がそう言う間にも、彼女たちは開いた窓から勝手に出て行ってしまう。
「待ってよ」
 僕は慌てて窓を閉めたけれど、彼女たちのほとんどはもう外に出て行った後だった。
「どうして僕のこと待ってくれないの?」
 最後に残ったひとりを捕まえ、僕はその薄紅色のドレスを剥ぎ取る。彼女はぺたりと床にしゃがみこんだ。
「返して。私も舞踏会に行くんだから」
「僕と一緒に行くって約束してくれたら返すよ」
 そう言うと彼女は困った顔で僕を見上げた。
 嘘をついてもいいのに。僕のことなんてちっとも見てくれていないのに、どうしてこういうところで律儀なんだろう。おかしい。愛しい。
「ああ、もう。仕方ないなぁ」僕は彼女の手を引いて立ち上がらせて、取り上げたドレスを差し出す。
 弾けるような笑顔でそれを受け取った彼女の手は離さないまま、逃げられないように、飛べないように。



 舞い降りた蝶に、彼女は首をすくめ、朗らかな笑い声をあげた。
「昔から蝶に好かれるんです」
 甘い香りでもするのだろうか。白い首筋にとどまる蝶は美しかったが、まるでそこに口づけているようにも見え、ばからしいことに、私はかすかな嫉妬を覚えた。
 視線にそれが表れたのだろう。彼女は目を伏せ、手でそっと蝶を追い払った。
 
 義母が不調で、と告げれば、近所の人々は、彼女の不在を怪しみもしない。
 今日は隣のご主人が、退屈しのぎにと碁盤をもって現れ、二人して縁側に陣取った。
 いい天気だった。砂を入れ替えたばかりの庭は白く輝き、どこからか花の香りが漂ってくる。
 半刻ほど打っただろうか、不意に視界の隅を、ひらりと何かが横切った。
「おや」
 隣のご主人は手を止め、庭に目をやる。一匹、また一匹。
「すごいな、何事だろう」
 次々と砂地に舞い降りた蝶たちは、ゆらゆらと這い回り、やがて庭の片隅へと移動しはじめた。
 まるで彼女を引きずった痕跡を辿るかのように。
 
 手の平に降りてきた蝶をそっと握りこむ。はしゃいでいる隣のご主人も、じき何かに気付くだろう。
 妻は砂の下、今も甘い香りを放っているのだ。



 影を飼っていた。畑に迷うてきたのを捕らえ、手錠をかけて愛でに愛で、めくるめいていた。ところがとある月の夜、影はいずこへか消え去った、手首から先を残して。その甲にそっと口づける、身も心も狂おしく焦がれた。
 邸も畑も何も焦がれた。
 跡形はない。ただ影ばかり、月あかりの下いまもなお咲きほこる、追い追われる。



蝶が這う。地面に胴体を擦るようにして進む。咲き乱れる花々にむかって、必死に、進む。

蜜の、甘い匂いが漂っている。
命尽きようとする蝶。それを眺める男。
まるで——と、そこで思ってもいい。

蝶が這う。明日が無いことを知りながら。華麗な羽を汚しながら。
どんなに惨めでも、精一杯、這う。

這い回る蝶々になりたい——。そう思ったっていい。



翅だけをもぎ取ると答えるか花を絨毯のごとく蔓延らすと答えるか。



 羽根をもがれた蝶々達が弱弱しく地面を這い回っている。
 ブチン。
 又一匹羽根をもがれた蝶々が増える。
 ブチン。
 大きな瓶の中には色とりどりの蝶の羽根。
 ブチン。
 羽根をもがれた蝶々は醜いね。まるで別の生き物みたいだね。
 ブチン。
 そうして又一匹。
 痛いのは嫌?
 僕?
 僕は平気。
 母さんに両腕を折られた事があるよ。
 父さんにお腹を蹴られてお腹の中が変になった事があるよ。
 ……他にも沢山。聞きたい?
 そう。そんな事はどうだって良いね。
 ブチン。
 痛いのは平気。
 綺麗な物は好き?
 僕は好き。
 羽根をもがれた蝶々は醜いね。まるで別の生き物みたいだね。
 醜いものは嫌い。
 蟻。
 蟻が羽根をもがれた蝶を生きたまんま巣に運んでいる。
 生きたまんま食われるのかな?
 生きたまんま食われるのってどんな気持ちなんだろう。
 一体どんな気持ちなのかな?
 一体どんな気持ちなんだろう?
 分かる? ねぇ? 分かる?
 残酷? どういう意味か分からない。
 別にどういう意味か知ろうとも思わない。
 瓶の中には綺麗な物が一杯。
 この瓶が綺麗な物で一杯になったらどうするかって?
 まだ一杯になっていないから分からない。
 ブチン。



 星の中から星の中へ、飛び回る宇宙人。ひとりがこの星に食事にやってきた。すると宇宙人の重みで花がしおれる。また宇宙人がひとり。蚊が落ちる。ひとり。とびうおが飛べなくなる。ひとりひとりひとりひとり。犬が歩けなくなる。ひとりひとりひとりひとりひとりひとりひとりひとり。電子までぺしゃんこ。たくさんのひと。ついに星のすべてがひらべったくなってしまった。
 食事の終わった宇宙人がいっせいにいなくなる。
 残されたこの星の中身はがらんどう。
 薄い皮の上を羽のようなものたちすべてが層になって、ふうわりと、すれすれを這い回る。



 道を歩いていると蝶が落ちていたので、拾って標本にして弟に見せた。すると弟は目の色を変えて、「何てことをするんだ!」と叫んだ。聴けば蝶で一種の陣を描いて何か、を復活させるらしい。何か、は弟は教えてくれなかった、が、楽しそうなので参加することにした。
 まず蝶を捕まえた。それから飛べないように羽に虫眼鏡で穴を開ける。黒い焦げ穴は揚羽蝶の羽を汚した。道にそれを置く。弟曰く、ちょうど蝶が羽を広げたような格好でなければならないのだという。
 夜になれば自動的に事は済んでいるから、安心して眠りなよ、と弟はあどけない顔でいう。少しだけ不安だったので、眠れない。月を眺めに窓を開けると、どこからかいいにおいがした。階段を降り、庭に出てみるとよりそれは強くなった。夢なのだろうか。庭を出て家々を眺めた。いつの間にか空は明るくなっていて、ケーキよりも甘く、芳しいにおいが漂っている。——こんな世界があったのか。花はもう開き、身体を近づけていくとこたえられない至福が全身を流れる、どうしてこんなに世界がすばらしいものだと気づかなかったのか! 空を見ると、無数の蝶々が群をなし、朝日に輝いていた。美しい、朝だった。



 平方メートル、坪、エーカー、平方キュビット等単位は問わない。任意の1平方ユニットの面積を有する正方形に載せたときに過不足なくそれが消失するものは、マイナス1平方ユニットの面積を持つ正方形である。その一辺の長さは虚数単位をiとするとiユニットとなる。 
 虚数は英名を直訳すると想像上の数となる通り、iユニットは実在しない長さのようだが、その虚数の長さを有する生物がいる。それが虚数昆虫である。
 昆虫は動物として地球上で最も多様化し遂には虚の世界にまで到達した。虚数昆虫は虚のニッチを得てさらに多様化している。蝶の仲間では特にその翅の形態における多様化が顕著である。自然対数の底であるe枚の翅を獲得し、π本の翅脈を有する種が確認されている。その翅脈長は勿論iの掛かった虚数値である。eのπi乗がマイナス1であるように、この虚数蝶のe本翅のπi翅脈は負に帰しており、その霊妙な調和の美には圧倒される。
 このように(おそらく生殖のために)形態的には高度に多様化した虚数蝶類だが、残念ながら虚の空を飛びうる機能を有した翅を未だ獲得していない。彼らは誇示するかのように翅を広げて虚の地面を蠢行しているのである。



 一生馬鹿にされるままでよかった。地に腹ばいになり、ガンサイトを覗くたびにそう思う。
 徴用されてからレーザー手術を受けさせられ、眼鏡は必要でなくなった。代わりに十字に切られた照準が日常品になった。
 射撃が唯一といっていい取り柄だった。が、そんな技巧など遊技場くらいでしか役に立たない。そんな特技で英雄になんてなれるわけもない。そのはずだった。
 政府が北の半島を敵として開戦することを、誰も止められなかった。
「……は、帰ってこない」
 スコープの先で、階級章のついた軍帽が弾け飛ぶ。ボルトアクション。その音が、堪らないくらい心を乾かせる。
 脱皮だったと人は言う。けれども、羽根があっても飛べないのなら。
「二度と会えない」
 ボルトアクション。
 ちやほやされることなんて、まったく大事なことじゃなかったんだ。そんなことより、たった一人の。たったひとりの。
「ずっと、一緒に、暮らさない」
 それは心が苦しくて、悲しくて、どうしようもなかったときに唱えた魔法の言葉。奇跡を起こしてくれた魔法の言葉。
 ボルトアクション。薬室に新たな死を装填する。
 未来は変わってしまった。ぼくの一番のともだちは、もう。
「帰ってこない」



 単調なフレーズが繰り返されている。時折音調が変化する。他に音程のない雑音が続いている。
 音楽のようなものが途切れるとその雑音だけが残る。皮膚のたるんだ指がいらだたしげに真鍮色の器具に伸び、探査針を上げる。
 三角紙が開かれ、弱々しく肢を蠢かす蝶が引き出される。そっと胴体をつまんだ指はもっと優しく翅を引く。前翅を失った蝶が床に落ちてもがく。一頭のもがく音はかすかでも、その数の多さが音程のない雑音を作りだす。
 探査針の下で鱗粉が光る。単調なフレーズが繰り返される。

 何度かためらった末に指が一つの三角紙を取り上げる。三角紙には遠い国の名が記録されている。弱々しく肢を蠢かす蝶が引き出される。
 単調なフレーズと雑音にもう一つ、すすり泣く音が加わる。



奥のボックス席はスーツを着た三人組だった。
黒服に連れられると、ナンバーワンの葵がつやのいい顔をした男に腰を抱かれていた。
他の三人もナンバーに入るホステスだった。
これだけ集めるなんて、凄い客なんだと気がついて怖くなった。
振り返って黒服を見た。

びびっていると葵を抱いている男が話しかけてきた。
白痴めいた愛想笑いが精一杯だった。
どんな客か、この店に移ったばかりの私には分らなかった。

落ちた分はやるぞ。
男がテーブルに一万円札を盛った。
葵は興味がないように見えた。
なんだよ。いいのかよ。男は口を尖らせる。
さらに胸から分厚い財布を取り出すと、中身をぶちまけた。
こぼれ落ちそうだった。
風が吹けば。吹くはずなかった。
女たちの目がさぁ、あんたやんなよ。と言っている。
そのために座らせたんだからさぁ。と言っている。
男があごで促す。いいんだぞ。と。
私は一万円札の山に飛びついた。

躰が飛んだ、頭を踏まれた。
さぁ、行くかと男たちは腰を上げた。ホステスたちが見送りに立ち上がる。
いい匂いのドレスの裾が顔をかすめていった。きらびやかなヒールが見え隠れした。
私は床に這ったまま見送った。
絨毯は公衆便所とほこりの臭いがした。



 強引に招かれ取引先の社長宅に渋々行くと大きな壺を見せられた。結構な蒐集家で、白い地肌に蝶をきらびやかな釉薬でリアルに表現するそれは素人目にも見事。「あんたも壺のように白くてきれいな肌じゃ」との社長の声に現実に引き戻された。視線の色は男色家とは違い骨董に向けるものと同じだったので安心したが居心地は悪い。その時、壺に変化が。描かれた花にとまっていた蝶が一斉に舞い飛んだのだ。続けて壺の裏から表面を滑るように女性が顔を覗かせた。美しい。花の縮尺に合わせた背丈で小さく、壺の向こう側に半分身を隠したままこちらを盗み見ていた。頬が紅い。やがて艶やかな長い黒髪をなびかせするりと表面を滑り裏に引っ込んだ。「私の娘じゃよ」と社長。箱入りもとい壺入りとか聞いたところで気分が悪くなり気を失った。
 肌を何かが這い回る感覚で目覚めた。暗い。どうやら布団に仰向けになっているようだ。ぱたぱた、ぱたばたと肌に甘い刺激。複数だ。さらに誰かが寄り添い抱き着くような感覚。じっとりと湿っている。やがて下へ。ぬめる壺へ入れる気かもしれない。誰の思う壷だろう。黒い長髪が肌をちくちく刺激する。私の思う壷でもある。夜は、さらに——。



「あ。」
 あざやかに滑空する鳥を見てつい声をあげてしまったのだけど、
「ハハーン、巧いもんだ」
 思いがけず返事があってたまげた。
「でも私はチョウチョウのほうが」
 あ、ワタクシ旅の者で某と申します。腹が減りました。
 と、縁側に腰かけてずいぶんと図々しいが、ぼくなんかに話しかけるくらいだから、そんなもんかもしらん。
 残り飯で作ったお茶漬けを啜りながらようやく、よく見るとあなた少し変わっておられる、と不思議でもなさそうに言う。
「あー、なんと言うか、説明は面倒なんですが」
 へえ、と相槌。
「鳥人間、みたいな。いや、飛べないんですけど」
 へーえ。はっは。おもろい。
 何が。さっきの蝶云々のはなしに水を傾けると、
「あー、なんだかあの、ひらひら不安定な感じが、ああ、そんなものかもなあ、みたいな、だといいなあ、というようなところも」
 椀に残った汁をずるずる飲み干し
「友人はあちこち飛び回りよるんですが、私はこれこのとおり、ひらひらというより、ふらふら」
 はっは、と笑う。
 ご馳走様を言って、足が悪いのかカクカクと妙な動きで立ち上がった彼は、はっはっは愉快愉快といろいろを笑い飛ばしカクカク去ってゆくので、ぼくもハッハッハ。いまでもたまにひとりで笑って気持ち悪がられる。



 部屋をかこむ鏡が、私に似た私ではない私を産卵しつづける。
(空はずっと灰色のまま。時間が止まったみたい)。
 だけど、変化は私を追いかけてくる。下半身から滲みだした糞尿が、途切れながら、私の這った跡をなぞっているから。
 部屋の片隅に、切り落とされた私の足。あれはシンデレラの忘れ物。ガラスでできた物的証拠。(だって鏡に映らないもん)。周囲に広がる血だまりだけが、鏡のなかで一万の華になる。
 私は初めて私を見たときから私を捕まえたかった。美しさをもてあました私は軽やかに宙を飛び、伸ばした腕をするりと避けた。私は、私の羽が疎ましかった。
 完全な私の美しさが、弱さを求めたのかもしれない。私に似た像が浮かんでは消えていく鏡面に、飛べない私は囁く。「はやく私を捕まえにきて」。
 渇いた呼気は、酸っぱい蜜の匂い。私は硬くなる。うずくまる。サナギから繰りかえす。


 窓のない部屋。私はまだ、強さが邪魔なものだと思っている。
 リボ払いで買ったチェーンソーの紐を、私は引いた。回転する刃をぼんやりと眺めているうちチェーンソーでの作業は一日に二時間までという法律上の制限を思い出したけど、それでも躊躇するには長すぎるなと感じていた。



 数年ぶりに帰ってきたこの街では、もう地面の上を歩く人なんていやしない。誰も彼も、2Fコンコースから直結しているデッキを歩いて繁華なモールに消えていくんだ。あの“空中回廊”やら新しく建った大きなビルやらのせいで、ここから見える空もだいぶ削られちゃったね。好きだったのにな。
 デッキを行くひらひらとした人たちは夕焼けを反射するビルのガラスに映って、まるでディスプレイの中の動画ファイルみたい。華やかになったあたしの服も、そりゃあひらひらだよ。けど、それ言うんならどこ歩いてようがあたしたちはどうせ同じものなんじゃん。
 遠回りだけど、このまま実家まで帰るかんね。そんな浮っついた覚悟でひらひらしてるわけじゃないんだかんね。



 目の端をちらちらと這い回る蝶々に気づいていた。でも気づかない振りをした。
 羽虫ほどの大きさから蝶々に変わるまで時間は止め処なく流れていたのに、僕は知らない振りをし続けた。認めてしまえばよかったのかも知れない。そうすれば今のような惨めな気分にならなかったかもしれない。だが嘆いたところで何にもならない。そうわかっていた筈だった。
 
 ——網膜剥離ですね

 禿げた医師の宣告は僕に悔しさと喪失感をもたらした。その黒い感情が胸の奥を焦がしていく。

 蝶々はまだ、僕の目の前を這い回っていた。



 恋は、わたしの身体を切実にした。自分の体内に、こんなにも疼きが潜んでいるとは、知らなかった。彼を見た日の夜は、いつにもまして眠れない。あの声で、あの指で、身体中に触れて欲しい。
 いよいよどうしようもなくなると己の手を動かしはじめる。けれども、この指は木偶の坊だ。胸をつついても、腿を撫でまわしても、なんの慰めにもならない。
 彼は虫、とりわけ蝶々が好きらしい。
「大きくなったらカラスアゲハになりたいと思っていたんだ」
と言い、周りにいた友人たちにからかわれていた。
 それを見て、蝶々を手に入れようと決めた。山椒の葉から青虫を採ってきて、育てた。彼の名で呼び、餌は肌の上で食べさせた。そのせいで皮膚はずいぶんかぶれたけれど、構わなかった。彼が触れた証だから。
 まもなく彼は骨盤の右側あたりで蛹になり、そして蝶々になった。
 今夜も餌をやるために、わたしはベッドの上で膝を立てる。彼は乳首に舞い降り、脇腹をゆっくり伝い、そして蜜を吸いにくる。わたしの出す蜜がよほど甘いのか、彼は口吻を深く突き刺す。



 桜の花びらを四枚、土の上にうまく重ねて並べたら、かわいい桃色の蝶々ができたので、私は横にいる章子に見せてあげた。
「きれいでしょ、ママの蝶々」
「章子の作ったやつのがきれいだよ」
 章子は私に顔も見せずにそう言ったので、私はどれどれと章子の足元をのぞきこんだ。そこには、モンシロチョウの小さな四枚の羽が、うまい具合に重なって並んでいた。ほんとだ、きれい、そう言おうとしたとき、石ころの下敷きになっている蝶々の胴体に気がついた。けれど私は無視をして、地面にそっと寝かされた、章子の創り出した蝶々を見つめた。儚げに横たわるそれを風から守ろうとする章子の丸い指先には、ごみみたいな蝶々の足が一本、くっついていた。触覚も足も胴もない、真っ白な羽で作られた蝶は確かに美しかった。
「ほんとだ。章子の方がきれいだね」
 喜んだ章子が私の足に抱きつく。私の蝶々と章子の蝶々は、風にあおられて絡み合い、土の上を這うように消えていった。さ、帰ろっか。そうして無邪気にまとわりついてくる章子の手を握り直す。力を緩めることなく、しっかりと。



 永久に眠れる女郎たちの肩に彫られた蝶々が良い人を求めて皮膚を羽ばたいている。



僕達は、地を這い回る真黒な蟻。
ふと、空を見上げると、太陽の光を浴びキラキラ輝く美しい羽を羽ばたかせ自由に飛回る蝶々たちがいた。
「なんて、美しいんだ。。。」
僕達は、蝶が羨ましかった。
あの美しい羽が欲しい。自由に何処にでも飛んで行きたい。
僕達は願った。何度も何度もあの美しい羽がほしいと。
そして、とうとうその時がやってきた。
一匹の蝶が地に舞い降りたのだ。
僕達は、いっせいに蝶に群がり、両の羽を噛切った。夢にまで見た羽。やっとやっと手に入れた。
初めて間近で見た羽は、本当に美しく、僕達は、キラキラ光る羽を暫く眺めていた。
そして、気付いたんだ。
僕達は、羽が欲しいのでも、蝶が羨ましかったのでもない。ただ、ただ、憎らしかったんだ。妬ましかったんだ。
あの美しい羽が。花から花へ飛回る自由な蝶々たちが。
僕たちは、羽から、哀れな姿の蝶に目をやり、微笑みながら言った。
「君をずっと待ってたんだ。今日から君も僕達の仲間だ。」
蟻達が去った後、哀れな蝶は、己の羽の周りを何度も何度も這い回り思った。 ゛私は、まだ蝶なのか。それとも蟻の仲間なのか?゛
そして、今は高く遠い空を悲しそうに見上げ、やがて息絶えた。



 奥さんが窓を開けます。その腕は白いです。解き放たれた白い蛾が明りに誘われてまた部屋の中へ戻ろうとすると、ピシャリ! 奥さんは窓を閉めてしまいます。白い蛾はもう生まれた場所に帰れません。あの白い腕が故郷です。もう一度あの白に溶けてしまえるものなら、僕は白く大きな羽で空気を押して舞い上がる一匹の蛾になってしまっても構わないとさえ思うのです。強烈な臭いがします。アンモニアの混じったきつく甘い香りです。あの窓は浴室でしょうか? 意識が白く溶けてしまいそうな奥さんの体臭は、あの窓のあたりから漂ってくるのです。ああ! でも僕は蛾には成れません。意識の昼に閉じ込められて、夜は遠く、この地上からは一ミリも、舞い上がることだってできはしない。



ぼんやりと目の前を見てると、自然と動くものに目がいく。
なあ、そこの蝶々、せっかく芋虫の頃あの庭師の手を逃れて蝶になったのに、飛んで行かないのかい?いつまで土の上を這う?
「お嬢様、そのようなところに寝転がられていますと、」
この屋敷では若い、淡々とした声が耳に入った。顔を上に向けるとあの庭師が視界に入る。
「邪魔か?」
「はい、仕事が出来ませぬ。」
こちらの目を見て随分はっきり言う。だいたいにおいて、こいつはただの庭師なのに馴れ馴れしい。今も視線がずっと私の目から離れない。…止めろ。
「退く」
いたたまれなくなって私は立ち上がる。
庭師は「では」と言って私の手を取る。
その瞬間、高鳴ってしまった、心臓が。
庭師の少し驚いたような顔が珍しく刹那の間だけ見られたかもしれない。私は反射的に手をはねのけてしまったのだ。
続けてすぐに背を向け歩き出す。後ろから声が聞こえた気がして振り返りそうになったが、たぶん私の願望が成せる空耳だろう。それに今はお前にこれ以上言葉をかけて欲しくない。お前はお母様にも馴れ馴れしかった。なのに。
背後で庭師は微笑みを浮かべている。
地を這う蝶々、いつかこの庭から。



 わたしは醜い蝶です。
 この羽が茶色いせいで、人間には蛾と呼ばれています。
 わたしにも、あんな薄紫色の美しい羽が生えていたら……。

 あなたにお願いがあります。
 わたしの羽をもぎとってください。
 痛いのなんて我慢します。
 恐くなんてありません。
 
 ありがとうございます。
 わたしは、これから地べたを這い回って生きていきます。
 いつか生えてくるかもしれない薄紫色の羽を夢みて。
 いつか月夜の下ではなく、太陽の下を舞う蝶になる日を夢みて。



彼女は闇の中。罪の意識を孕ませた、見えない鎖に繋がれていた。
彼女は手を休めない。友達が欲しいから。逃げないで欲しいから。自分と同一であって欲しいから。
光が降る。足元に宝石が散らばる。
行き場を無くした蝶々。彼女は笑う。

「これであたしと一緒」

ずうっと此処にいられるように、必要の無いものはむしり取ってあげましょうね



 おらおら吸い込んじゃうぞ、とさっき掃除機でいじめたからだろう。邪魔をしてくるのがいい加減くすぐったくて、僕は雑誌を放り投げた。
 上体を起こして蝶のわきを掴み、ひょいと抱き寄せる。
「こーら」
 強く抱いてやると、蝶は足をじたばたさせた。
「邪魔ばっかりするんなら、足も食べちゃうぞ。ほうら、食べちゃうぞ。ぱくぱくぱく」
 ぱくぱくぱく、食べるふりをすると蝶はご機嫌になった。トシんちの駄犬(注1)にするように、毛の生えた体を大胆にかきまぜる。
 それから奴をすねではさんで寝転び、雑誌に戻った。
 しかし、まあ、すねに指はないので、蝶はまた僕の上をうろちょろし始めた。蝶のしつけってどうしたらいいのかしら。
 もう一度胸に乗せ、まんじゅう攻撃(注2)をしながら考えた。心地よい重み。この足をどうにかしたいんだけどね。でもなあ。
 なんとも言えないリズムで、蝶の足が僕の胸をたたく。眠たくなるほど気持ちいい。蝶もきっと、肉の感じが楽しくて、やっぱり気持ちがいいんだろう。


(注1)トシんちの駄犬 前に倒れそうな馬とびの馬、みたいな格好で伸びをする犬。
(注2)まんじゅう攻撃 丸めてぎゅっと力を加える。猫などに有効。



彼女は忽然と僕の前から姿を消した。
いや、その気配は感じていた。
まとわりつく長い髪を嫌っていた。
その店では短い髪は許されていない。
そのことに気づかない振りで事をすませていたのかもしれない。

その晩、僕は浅い眠りについた。
夢の中で、全身を蝶々が這い回る。
絹のように柔らかな羽は彼女の唇のように優しく僕の体を愛撫してゆく。
上から下へ、下から上へ。
全身にはげしい恍惚感。身悶え、絶頂でハテル。

ぼんやりとした不快な目覚め。
手の中の違和感。
羽の折れた美しい蝶々の死骸。



彫った覚えのない刺青が右の腿に現れた。さんざん痛めつけた身体ではあったが、意図的につけたしるしなど忘れるわけがないのに。じっと見つめているとどうやらそれは生きているようで、呼吸に合わせて触覚が揺れている。縮れた翅を微かに数度、動かしたかと見るやすぐに力をなくし大人しくなってしまった。こちらの視線に強ばっているのだろうか。
痛みも痒みもなく特に不具合があるじゃなし、しばらく意識しない生活を続けたのだが、トイレに立った際つい目がいってしまった。しかしそこにはもう何もいない。痕跡すらない。慌てて鏡の前で調べると、肩甲骨の間にとまっていた。さてはこちらが油断している隙に移動したらしい。
それからも二の腕、胸、足の甲とあちこち動き回っているのだが、一度も移動する瞬間にお目にかかってはいない。このところ艶を帯びて立派に伸びてきた翅をなぞって、飛び立つときに思いをはせる。そうして震えるような予感に苛まれながらこの蛹が食い破られる日をただ待っている。



 私は蝶々と呼ばれているけれどもそれは私の舌につけられた名前であって私の名ではない。私は男に買われた女だ。
 私の舌がひらひらと舞うように巧みに動くのと、飛びきり赤い色をしていたので男はそんな名前をつけた。子供じみていて笑えたけれどもなぜだか私もその気になった。一度も飛んだことはないというのに。一度も飛んだことがないゆえに。
「蝶々」
 男に呼ばれれば私は舌を出す。男の肌も性器も甘いと感じるようになったのは私の舌が蝶々と呼ばれるようになってからだったかどうだったか。記憶は危うい。私は何人もの男の甘い肌と性器を舐めるけれども、果たして私の舌を蝶々と呼ぶ男の肌と性器が甘いのかどうかは判らない。
「蝶々」
 男は私が別な男の肌を舐めるのを眺めながら自慰をしている。