地面から両足を浮かせて立つ
唐突ですが、「怪談」は超短編になりうるでしょうか。「怪談」というものはときに500文字に満たない分量で語られ、さらに、聞き手の想像に多分に依存するジャンルです。となると、これは超短編とかなり肉薄しているように思えます。
ところが、この両者は意外にもあまり交わるところがないのではないかと、僕は感じています。その違いというのは何だろう、といろいろ考えていたのですが、一番の違いは「現実」との関わり方、ではないかと思います。怪談というのは「語る」ことがとても大事です。「語り手」というものは、怪談において現実と物語を橋渡ししてくれる保証人となります。聞き手はあくまでも現実という地面に片足をおきながらそこに侵入する異界に耳を傾けるのです。「現実が浸食される恐ろしさ」「現実の中に紛れ込む異界の奇妙さ」そんなものたちは、現実が語り手の存在によって保証されることによって「リアル」なものとして聞き手に届くのです。
怪談ではどういう因果で起きたか、あるいはどういうメカニズムで起きたかは聞き手の想像に任せられますが、どういう状況で起きたのかは詳細に語らなければなりません。それこそが寄りかかるべき現実となるからです。いっぽうで、超短編ではどういう状況で起きているのかさえも、読者に想像させてしまうことが多いと思います。この「現実」が超短編にとって、邪魔になるのです。
僕は怪談に必要である「地面に片足が」の部分が超短編には不要だと思っています。超短編において「現実」なんてものは題材のひとつにすぎず、寄りかかるべき地面ではないのではないでしょうか。もし、この足を地面に付けたままだとしたら、そこから足を浮かせてしまう行為こそが、超短編への飛翔ではないかと考えるのでした。
さて、今回は結果的に、ずいぶんたくさんの作品を次点に回すことになってしまいました。面白くなりそうで、でもあと少し何かが足りないなあと思った作品ばかりでした。おそらく他の選者なら採っただろう作品もたぶんたくさんあることかと思います。
というわけで、そんな次の選者は、肉体的超短編女のたなかなつみです。
誤作動 : 佐藤あんじゅ
> 木で作られた人形のおもちゃだった。
タイトルが良いですね。タイトルに「誤動作」とあって冒頭「おもちゃ」が動き出す。この動きそのものが誤動作めいている。ところが、世界は突然に炎上し、僕はなぜか後悔に苛まれてしまう。どこからが正常動作で、どこからか誤動作なのか。良い作品だと思います。
うつろな視線 : 雪雪
> 目覚めると私の胸の上で
これは怪談と超短編の違いをわかりやすく示した例のような気がします。「目覚め」「生首」「両手を打つ」「見下ろす」出てくる言葉は怪談にもなりそうなのに、こう作ると怪談とはとても言えない作品になります。何がどうなって「両手を拍って」しまうのかは全くわからず、いったい視点が何処にあるのかも定かではない。しかし、逆にそれが魅力になっているのです。 ただ、タイトルは再考の余地があるかと思いました。
森の洗濯バサミ
「洗濯機」を取り巻く道具をそのまま別の所に填め込んだ作品でしょうか。冒頭以下、設定から自動的に作られている感が先に立ってしまいました。
誕生
冒頭の「誰が仕組んだのか」が効いてます。が、「朝まだきの薄明の中」という表現の内容の薄さが後半を少し弱めている気がしました。
かがみ
良くできた話ですが、小さくまとまってしまったような気がします。
宇宙
面白いのですが、いろいろな要素が入りすぎているような気がします。バラしたら数個の作品になりそうです。
鹿を飼う少女
主従関係に「鹿」を持ち出してきたのが面白いです。あとは、主従逆転の飛躍にもうすこし魅力があれば。
雪
1行作品。面白いイメージですが、ここまで短いと「12/25」と「白」と「雪」というイメージが重なりすぎる点が気になりました。
暗中の飯
「何かしら飯を食っている」ままで終わって欲しかったです。
トマト
金魚
いずれも引用が冒頭にある超短編でした。この短い物語の冒頭に引用をくっつけてしまうと、引用の占める割合がかなり大きくなります。引用の中味もまた物語であるので、物語の焦点がぼやけてしまうように思います。どちらも引用をあえて付けなくても、面白かったのではと思います。
(今回、いくつか作品を受け取ったとき句読点が半角カナになっていましたが、これは投稿時からそうだったのでしょうか? もしそうだとすると、インターネットでは半角カナは文字化けの原因となりますので、投稿時にはお気を付けください)