500文字の心臓

トップ > 自由題競作 > 作品一覧 > 第08回:タカスギシンタロ選


短さは蝶だ。短さは未来だ。

ローズティー 作者:よもぎ

 (おかえりなさい)出張から戻った私を迎えた妻の口からピンクの薔薇がこぼれ落ちた。旅行かばんを受け取りながら妻が訊ねる。(お風呂にする?お食事?)黄色とオレンジの花びらが廊下を舞う。とりあえず私は頭を冷やす。動揺を押さえるようにシャワーを浴びる。いつもと同じ妻の笑顔。しかしあの薔薇は何だ?
 キッチンへ戻る。食事の準備ができている。テーブルを挟んで冷えたビールで乾杯。妻が(あぁ)と深く息を吐く。その途端、深紅の薔薇がぼとり。私は恐る恐るそれを摘まみ上げる。(何?)妻が怪訝な顔をする。見えていないのか?いや、なんでもないよ、この肉ジャガ美味しいね。妻が話をするたびに薔薇がテーブルに広がる。空白の時間を埋めるように無言の時間を恐れるようにたわいのない話をしつづける妻。彼女の口から吐き出される彼女には見えない花。見慣れた食卓を薔薇の花が埋め尽くしていく。あり得ない情景。だがいつか見たような奇妙な予感。いつものように妻が紅茶をいれる。
 リビングで二人、並んでテレビを見ていた。妻が握りしめたカップに白い塊が落ちる。瞳から白い薔薇を流しながら「ごめんなさい」とつぶやく見知らぬ女がそこにいた。



天体肺活量 作者:庵之雲

 右腕が痒くて目覚めると、バンドエイドが貼ってある。いつの間に貼ったんだろう? 剥がしてみると、ぴょこッ。芽がとび出た。二枚の葉っぱが握手するように合わさって90度首をかしげている。つっつくと、ぱかッ。浮き輪のバルブみたいに開いて、しゅわわわッ。すごい勢いで空気が洩れだした。あわてて息を吹きこむと、同時に中からすごい肺活量でギューと吸われた。ぼくはきゅっとしぼみ、入れかわりにきゅっ、ふくらんだお月様が屋根を壊してポーンと夜空に跳んで停まった。



記憶 作者:佐藤あんじゅ

 耳元で雑言を吐く声が聞こえる。やめてくれ、と口に出して言う。すると、今、自分は一人家の狭い書斎にいたことを思い出す。指折り数えてみる。そう言われたのは、もうかれこれ半年も前のことではないか。今となってはたいしたことではない。
 再び、耳にささやく甘い香りを漂わせた声。やさしく耳を舐めている。私は微笑み、ふふっと声を出してしまう。すると、あたりは味気ない本に囲まれた、見慣れた書斎に戻っている。指折り数えてみる。あれからもう三年は経っていた。名残惜しく、再び呼び起こそうとするが、同じ現実感をもってはあらわれない。
 しばらくすると、再び耳に舌なめずりする感覚が戻ってきた。私は、これだと思い、けっして声を出してはならないと心に誓う。目を閉じる。それは少し続いた後、突如止んだ。目を開けた。愛猫が窓から逃げていった。



我慢できない流れのまえに我慢することだけが取り柄の男がいること 作者:たなかなつみ

 形を変えながら流れている黒い塊は、妙に冷たい流れを発していて、さわりたくないと思うのがふつうなのだろうけれども、わたしは迷った。手をさしのべたのはおそるおそるだ。何か決心とか、そういうものがあったわけではない。ただ、なんとなく。いつの間にか。そんなもんだと思う。
 塊に飲み込まれ始めたわたしを見て、タカハシは笑った、ような気がした。きみならいつかそういう問題になるようなことをしでかしてくれるような気がしていたのだよ、という、そういう目をしていた。わたしはタカハシに、ごめんね、と言った。たぶん、これからタカハシがこうむらなければならないもろもろのことについて。タカハシは始末書を書くだろう。タカハシは観察結果を書くだろう。タカハシはわたしの家族に弁明に行くだろう。でもそんなことはもうどうでもいい感じ。気持ちいい。そう、気持ちよくなってしまったのだ。わたしは塊のなかで流れにのって形をなくして。そんなもんだったのだ。だからタカハシには、ごめんね、と言った。タカハシはため息をつきながら、書類を書く。そう、ほんといいやつだから、タカハシは。



ふたまた 作者:峯岸

 あなたの前にもう一人のあなたが現れる。どちらのあなたがあなた自身なのか自分でも分らなくなくなってしまう。
 あなたはあなたを見つめる。あなたたちは途方に暮れる。あなたはあなたに話し掛ける。あなたはあなたを憎む。あなたはあなたを殴る。あなたはあなたに咬み付く。あなたはあなたから逃げる。あなたはあなたを追う。あなたはあなたを許す。あなたたちは握手をする。あなたはあなたに微笑む。あなたたちは綾取りをする。あなたはあなたに相談する。あなたたちは逆立ちをする。あなたはあなたを急かす。あなたはあなたを拒む。あなたはあなたの首を絞める。あなたはあなたを怖がる。あなたはあなたをつねる。あなたはあなたを迎え入れる。あなたはあなたにプレゼントを贈る。あなたはあなたを裁く。あなたたちはキスをする。あなたたちの前にもう一人のあなたが現れる。あなたたちは踊る。



儀式 作者:タキガワ

 2本、揃えてたてた線香の煙がほそく立ちのぼる。
 とるとるとまっすぐ、たまに波打つ。不意に薄く途切れる。ひとすじの白い匂い。
 高く伸びたそれは、君のかたちにまるく沿う。
 総てが尽きてしまうまで、目をそらさずに見てた。