[優秀作品]鉛 作者:なつめ
彼の喉元が急に重くなった。鉛のかたまり。なんで鉛なんだろう。彼はぼんやりと思う。よくわからないが、それでも自分の喉元に生まれて重くのしかかるのは鉄でも銀でもない、にぶく光るねずみ色の鉛のような気がするのである。彼はもう何度となく、時節生まれるこの小さなかたまりを呑み込んできた。ある時は両親の喧嘩だったり、ある時は友人の裏切りだったりした。
この鉛のかたまりはなんなのだろう。呑み込んだかたまりはどこへ行くのだろう。自分の内で融けて再び自分の血肉となるのだろうか、それとも、自分の奥底に、こつりこつりと溜まっていってるのだろうか。どちらにしても、自分はもうだいぶん重くなっているはずである。その鉛は、呑み込むより他にしようがないんだろうか。
いま目の前には心から思っていた人のなきがら。「男なんだから、泣くな」父親の声、小学校の先生の声、大勢の声が交錯する。でも確か、心から思っていた人はそんな事は言ってなかった。
いつもより鉛は大きすぎて、呑み込むには無理だった。彼は慟哭した。肺を震わせ声を、涙を絞り出す。今まで血肉となり、あるいは溜め込まれていた鉛のかたまりが、少しづつ吐き出されていく。
庭の千草 作者:はやみかつとし
ちょっと見ぬ間に一坪ばかりの庭の隅に鬱蒼とした杜ができていて、祠まである。
終わらない仕事 作者:春名トモコ
ぽっかりとあいた穴を見て彼女はうんざりする。大きな穴から大量の光がもれていた。
穴を埋めるのが彼女のしごと。濃紺色の泥をこね、端から少しずつ塗り固めていく。境目が分からないように、慎重に、ていねいに。
穴をふさぎ終わるのに半月かかる。その間、一日も休むことがない。
しごとを終えると彼女は力尽きて深い眠りにつく。働いた時間と同じだけ眠り続ける。昼も夜も絶え間なく。昏々と。
そして夢から覚めると、またぽっかりと穴が。
「もう!」
いつか彼女がしごとを投げ出せば、月はいつまでも満月のまま。
最初で最後 作者:マンジュ
皿に盛られた苺の中に、ひと際鮮やかな色をしたものがあった。
摘み上げて食べたらねっとりと吸いつくような弾力が残った。
それは彼女から落ちた唇だった。
最初で最後のキスだった。
何度そう思ったことか 作者:きき
東の空に、へたな舞台小道具のような黄色い月がひっかかっている。わたしはひとり車を飛ばす。
飛ばしすぎて、このペースは危ない、そう思った時、カーブで車体が大きく外側に膨らみ、危うくガードレールをこすりそうになった。こんな時にブレーキは禁物。遠心力に体をあずけ、アクセルを戻してハンドルを握り直す。
・・・危機は脱した。急に心臓の鼓動が早くなる。
相変わらずとりすまして光る月は、冷淡でもなくやさしくもない。見ていたのかどうかもわからない風情で、さっきまでと同じ速さでついて来る。
何を考えていたんだっけ・・。そうだ、彼女への手紙の文句だ。2年近くもの間、出したくて出せなかった手紙。頭の中で、何度もしたためては書かずに終わった、何十通もの手紙。
彼女は、まだ返事を待っててくれてるのかな。
わたしには間断なく続いていた思考も、表現することがなければ、他人、それも、その間ずっと会うことのなかった人間には、まったく意味をなさない。
埋まっていた時間と、空白の時間。それを出会わせた時、空白にどのくらいのものを流し込むことができるだろう。・・・
家に着いたら、月を窓枠に引き入れ、今夜こそペンをとろうと思う。