雨の降る国 作者:白縫いさや
猫を抱いて、宿の二階から空を見上げる。灰色の雲が空を覆い、絶えることなく雨粒が降り続けている。風はない。窓枠で切り取られた四角を、ちっぽけな雨粒が上から下へ落ちる。その彼方には、山の稜線とほんのり白い空。
宿の娘は、あそこから晴れが来るんです、とそばかすいっぱいの頬を緩ませて笑った。
宿の主人は、あそこから晴れが来るのですよ、とたるんだ腹を隠しながらニッと歯を見せた。
宿の女将は、あそこから晴れが来るんだよ、と水の筋が走る窓の外を見遣りながら微笑んだ。
しかしこの三ヶ月、私は晴れを一度も見たことがない。それでも彼らは、たびたびああいう風に言っては笑うのだ。
うとうとと船を漕ぎ出した私に、腕の中の猫が、にゃお、と呼びかける。
ああ、そうだね。きっと晴れは来ないね。
頭を撫でてやると、猫は眼を閉じもう一度鳴く。その猫の頭に置いた手の甲に頬を乗せる。私も眼を閉じる。
次に眼を開けたとき、私と猫はこの国の住人になっている。一人と一匹で、ずっとこうしている。
ここは雨の降る国。
おいしい水 作者:はやみかつとし
タマサカ山から流れ出るせせらぎの水を汲んで君に届けに行った。首が肩に沈み込んでいって終いには頭が裏返ってしまう病気に効くんだ、とじいちゃんに教わったからだ。
物干し竿の門をくぐって見つけた君は、もう鼻の上あたりまで肩口にうずめて、でも陽のあたる濡れ縁に腰掛けて投げ出した脚はいつもとおんなじで。健康的ですべらか、ちょっと触れてみたいな。
すると見透かした君はもごもご。え、何て言ったの? しばらく聞いてるうちに慣れてきた。
——また。よけいぬぁ。おせっくゎいね。
でも、君は一途に思い詰め過ぎだから、も少し力抜いて成り行きを楽しんだほうがきっといいよ、って水を差し出すんだけど、あ、そんな状態じゃ飲めないよね。少しずつ、掛けてあげようか。
——むゎたむゎた。ほうやってこなくゎける。ふけべ。
そしてまた君は一段と深く首を沈める。声がもわんもわんと反響しはじめる。早く手を握らなきゃ、と思うけど、お日様がちょっとジリジリ暑いからぼくも一口水を貰う。
はじらい 作者:瀬川潮
抜けるような青空の下、みずみずしい黄色と緑が映える。畑のひまわり一万本は、さんと高くしろしめす太陽に向かって首を巡らせている。
ふと、小学生二人。「こっちこっち」と畑に入ってきた。
ひまわりは二人の身長よりもはるかに高い。
「ね、ここなら誰も見てないから」
陽気に言う女の子。とても明るくご機嫌だ。男の子は遠慮がちに「うん……」。彼女がまぶしいのか、目を薄く細める。
ほほを染め、両目を閉じる女の子。祈るように両手を胸で組み、ついと爪先立つ。
一歩寄る男の子。
甘い体験は、せいたかで緑一杯のひまわりで囲まれ、誰にも見られることは無いだろう。
が、やはり高鳴る鼓動で胸が詰まるのか、天を仰いで息をついた。
その時、彼は見た。
万のひまわりが一斉にふいと空を向き、太陽がすっと白い雲に隠れるところを!
雑音 作者:木村多岐
おれの頭のなかに、虫がはいり込んでしまった。始終ぶんぶん飛び回るので、やかましくてかなわない。
先日、山歩きの際に耳に飛び込んだやつを放っておいたのがまずかった。本当は山になんて行きたくなかったのに、何故行ってしまったのだろう。魔がさした。ほんの気紛れだったのに。
虫は細かな羽音をたて続け、いつも突然大人しくなった。そして、忘れかけた頃にまた盛んに動きだす。あんまり頭を揺らすと、虫が驚いて余計に手に負えなくなるので、おれは毎日そうっと歩いた。
目を閉じて、穏やかに呼吸していると、あるかなきかのかすかな重量が頭蓋骨をくすぐるのが解る。おれはその感触を辿りながら眠りに就く。
よく晴れた日だった。その日、虫は朝から途切れ途切れに羽を震わせ、とうとう何もいわなくなった。
静寂のたてる音は深く、それからおれは眠れないのだ。
[優秀作品]不可侵 作者:はやみかつとし
切り立った崖の怪我はひどいのですか、と聞いた端から大地は黄色く干からびていく。コンドルの背中から一瞥して別れを告げる。