四分ノ二、四分ノ二、四分ノ三、四分ノ二、四分ノ二、四分ノ三、四分ノ二、四分ノ二、四分ノ三。
鴎の羽ばたきが風で揺らぐ。港の茶房でジャズが沸いている。粉腸で巻いた海老が赤い。タールが雨降り後の水たまりに艶やかな虹を描く。船倉ではネズミが乾涸らびている。革命の旗は未だ上陸の見込みなし。
四分ノ二、四分ノ二、四分ノ三、四分ノ二、四分ノ二、四分ノ三、四分ノ二、四分ノ二、四分ノ三。
松ヤニは富裕階級の体臭。プリンスオヴウエールズの嗜好品。下品なる高貴。足音が崩れてゆく。
沸いているジャズの壷から真っ赤な海老の胴体に向けて熱い、薄暗いタールが注がれる。口にはネズミの死骸、尽きせぬ阿片市場からの伝令情報。発砲!発砲!返還は嘘だ。返還は嘘だったのだ。
泡の消えた茶杯はかく沈黙せり。老いたる髭男の百年の愚痴を残して。
生ぬるい春の夜に死んだ彼女の部屋が、この大きな都市のいたるところに少しずつ、残っているらしい。迷い込んだ廃屋の中、ベロアのソファに座る老婆が指を広げる。「部屋はどこにでもある。生きていても死んでいても」。誰も彼女と会ったことはなく、誰もが彼女の思い出を語る。捨てられた鳥かご、突き当たりの廊下、人気のないサンルーム。都市のあらゆる部屋に彼女の痕跡を見つけ、ひとは彼女の思い出を語る。気の狂った医者が人々の記憶を取り出して、それを繋ごうとする。彼女はひらりと身をかわし、あとかたもない。彼女は記憶ではなく部屋そのもので、それは都市の至る所にある。ひとはみずからの住む部屋にこびり付いた彼女の思い出を棒読みするだけで、思い出を語った気になる。終電の車内アナウンス、うらぶれた商店街、溜まっていく留守番電話。この都市に渦巻く言葉にも彼女は居ないが、この都市は彼女の部屋。彼女の姿は、あとかたもない。
あ、海の匂い、と思う。
人混みで、今すれちがった人の香水だろう。あわいさわやかな香り。潮の生ぐさいようなべたつくような香りとは全然ちがう。でも、この香りにふいに出くわすとき、わたしはいつも海の匂いだと思う。
思い出す海は、真夏曇った蒸し暑い日の海だ。
白い木綿のワンピースを着た、まだ少女のようなその人はわたしの手を引いて波打ちぎわをどんどん歩いた。その人は話さなかった。わたしが砂に足を取られて転びそうになっても振り向かなかった。わたしはどうしただろう。まだ小さかったし、たぶんぐずって眠ってしまったとは思うが、おぼえていない。ほんとうにあったことなのかどうかもわからない、記憶の断片だ。その人が香水をつけていたのか? おぼえていない。そんなことわからない。
わたしが父母と呼んでいる人たちがほんとうは祖父母なのだと、いつのころからか知っていた。誰もわたしに言わなかったし、わたしも誰にも言わなかったが。
ただ、今でもときどき街なかで海の匂いに出くわし、そのたびに立ち止まってしまうだけだ。
カシュカシュシュカシュと押す度に、小さな穴から広がる黄色くて見えないしゃぼんだま、私は瞳を閉じて息をする。
シュンと現れては消えて、空に無くなり損ねたものたちはキュルルルル私の体にしがみ付く。
最初はカシュで花畑のように伝わったのも、今では胸元飾るブローチを作るので精一杯。もし最後の花びらがなくなったら、この瓶はどこにしまっておこう。引出しの奥? ビスケットが入っていた缶の中? ポケットに忍ばせておく?
どうしようと迷っていたのを思い出しながら、あの頃より大きくなった掌の上に小瓶を乗せる。頭をカシュと押すと花の代わりに、喜びながら香りを楽しんでいた小さい私が見えた。
かららららら。風車が鳴る。空色の小さなそれは、ぼくの手作りだった。
君が風に攫われてから、どれだけ時間は過ぎただろう。ほんの昨日のことにも感じるし、遠い昔のことのようにも思える。君がいなくなったのは幻だったのかもしれない。そう思うくらいに曖昧だ。もしかしたら君がいないこの世界を、ぼくは曖昧に感じているのかもしれない。
君はぼくの造る風車が好きだったから、ここを通ればきっと止まっていくだろう。
だからぼくは風の通り道にこいつを置いて、今日も君を待っている。かららららら。
感じるままに決めたのだ。肌こそが最も精確な感知器なのだ、分析器なのだ、表示器なのだ。
加速せよ。一気に最高速に届け。その時、風と身体とが同じ沸点を指し示す。
キンチョールのにおいを知らない。スプレーしようとした瞬間、悶え苦しむ虫の動きが頭をよぎり指を止めてしまう。可哀想なわけではなく単に気持ち悪いのだ。触角といい節のある手足(全部足?)といい・・・。で、どうするかというと、箒やちりとり、新聞紙等で必死に外へ出す。向ってきたらどうしよう。ドキドキするが潰せば死骸の処理が気持ち悪い。やはり出て行ってもらうのが一番だ。嗚呼、テレパシーが通じればいいのに。危害は加えません。出て行ってさえくれれば。そして今向き合っているのは、見た事もない程大きなゴキブリ。
ついに使っちゃう?キンキョールのスプレーに指をかけてみる。玄関はあっちですよ。私はあなたを殺したくないんです。カサカサッ。突然ヤツは動き出した。ドアに向って。まさか通じた?すると振り返り、頷く様に触覚を上下に揺らすじゃないか。
出て行ってくれるの?またもや揺れる触角。すごい!!興奮した私は思わず手を握った。
プシュー!
発射されるスプレー。キンチョールってこんなにおいだったんだ・・・
いつの間にか僕は、その懐かしい色だけを追っていた。
看守の話では、最後までこの実験に耐えられたら刑期が短くなるという。けれど、今の僕にはそんなこと、もうどうでもいい。
香りをすべて色に変換する機械——そうはいっても、たとえば黒く澄んだコーヒーの香りは、僕にとって藍より青い蒼。難しいことはよくわからないけど、人によって何色に見えるかは違うらしい。
そんなわけで、瞬く間にいろいろな香りを嗅がされた僕は、極彩色の世界でその懐かしい色を見つけた。僕にはその色を形容する言葉がない。だから、懐かしい色。
気がつくと、僕の周りはその懐かしい色で溢れていた。
そしてその色は変わった。瞬時に朱く赤い血の紅に。あの時、あの瞬間、あの部屋を塗りつぶした、祖母の血の色に。
意味のない言葉が僕の口から溢れ、明滅する視界ではあの色とこの色が、混ざり、溶けあい、限りなく黒くなる。
手を伸ばし、僕の意識はその色を抱きしめようとしたけれど、僕の躰はヘッドギアを無理に剥がした。溢れた脳漿の色で、僕は我に返った。
懐かしい色はあんなに早く紅くなったけれど、ゆっくりゆっくり香りに戻る。
色も香りも形がないから、結局僕は抱きしめられない。
奇妙な眺めだった。
僕の右手の小指だけが、どんどん老いさらばえてゆくのである。
椿油を擦り込んでも、手の美容体操を試してみても、全く効果がない。それどころか、日に日に小指の老化は激しくなる一方だった。
本当にどうしたものか。今では骨まで細くなって、薄い半透明の皮膚がはりついているばかりだ。そのうちに朽ちて、ほろりと落ちてしまうのかもしれない。
妻が、こわごわと僕の小指にさわってきた。ひんやりと潤んだ感触が伝わってくる。もの言いたげに、妻が唇を歪ませる。妻の唇は、こんなに色褪せていただろうか。重なる指は、こんなにつめたいものだったか。
傍らで子供が泣き叫ぶので、僕はうまく記憶をたぐることが出来ない。
やわらかい指だった。その指と、僕はゆびきりをした。そして。
あなたは大好きな蕎麦を注文する。初めて入った蕎麦屋なのだがすこぶる評判が良い店で、以前からずっと楽しみにしており、わざわざ腹を空かせてやって来たのだ。
店員が蕎麦を持って来る。しかし蕎麦の上には刻んだ葱が大量に乗せられている。あなたは葱の匂いが大の苦手でどうしても食べられない。店員に文句を付けるのだが、その蕎麦を食べ切らないと新しい蕎麦は持って来られないとぴしゃり、断られる。腹の虫が鳴く。周りの客はうまそうに蕎麦を食べている。
蕎麦に乗った葱を時間を掛けてすべて取り除いたあなたは、改めてその蕎麦の香りを味わおうとするも葱の強い匂いが残っており、蕎麦の香りがまったく判らない。
鼻を摘んででも蕎麦を食べようとするのだけれども、やはり葱の匂いに堪えられず一口も口にする事が出来ない。空腹に堪え兼ねたあなたは再び店員に頼み込むのだけれども、もうその日の蕎麦は終わってしまったと、すげない返事を聞く。
しかたなく、蕎麦湯を頼む。器に蕎麦湯を注ぐと中に刻んだ葱が浮んでいる。あなたはその葱を箸でくるくる掻き回している。
あの街へ行ってしまったきみを捜して、ぼくの部屋は温度計で溢れている。今日もきみの姿は見つからない。
ゴミ処理場の煙突が灰いろ煙をせっせと吐き出しているその彼方から、夕暮れが近づいてきて、ぼくは落ち着かなくなる。音も立てず部屋に忍び込んでくる夜の匂いがぼくは嫌いだ。ひややかに夜は部屋をゆっくりと宥めて眠りにつかせようとするから。
冷えてゆく夜の底に、きみの住む街がかすかに揺らめいて現れ、そして、消えた。
冷たい温度計に囲まれてぼくは丸くなって眠る。
その街は華氏68度に存在する。
うつむいて歩いていた。
不意にあのひとの声がした。
顔を上げた。ただ湿った闇だけが続いていた。
声はいつまでもぼくを包んでいる。
寝床まで連れて行き、それにくるまって眠った。
さてさて、お立会い。
さあ、ここに出でたる男の子。
美形も美形、あまりにも良き容貌にて近寄るものが無きほど孤高の美少年。
他に秀でる者が無きなれば、他の者を愛すことは無きこと至極当然。
鏡の中に映りいる見目麗しき小人に、そっと頬寄せ吐息を漏らす。
そんなチョー自己愛イケメンを四面鏡張りの部屋に入れまする。
さすればこの少年、壁に現る秀麗な姿にすっかり心を奪われる。右向き左向き角度を変えて、うっとりとポーズをキメ始める。
自分自身のあまりの綺麗さに悦に入り、たらりたらーりとフェロモンを出す。
そのフェロモンを濃縮して瓶に詰めたのがこの香水。
世界中でセレブが愛用されておる、皆様御存知『ナルシスト』という訳だ。
これをモテナイ男に一吹きして街を歩かせる。さすれば、あれという間にカワイイ娘が群がり寄って来る。
一人が二人、二人が四人、四人が八人だんだん増えていく。八人だったのが十と六人、十六人が三十二人、三十二人が六十四人、瞬く間に倍々になっていく。
今まで女の子にバイバイされていたのがウソのよう。
モテてモテてモテまくるそんな香水『ナルシスト』。
遠慮は無用だ、さぁ買っていきな。
彼女が初めて買った香水はレールデュタンだった。
大人になった気分で、とっておきの時にふわっと吹き掛ける。
その香りに包まれ、これからの時間を想像するのが楽しみな少女だった。
香水の名前の様に時が流れ、彼女は全てが色褪せて見える大人になった。
彼女は微かな香りを感じた。
「香水付けているの?」
「そうだよ、初めて会った時から付けてる。気づかなかった?」
彼はそう言って彼女を抱きしめた。
「その香水、私には合わないわ」彼女は呟いた。
彼は寂しそうに彼女を見つめた。
香りの微妙な変化を楽しめなかった彼女は時の流れを悔やむだけの老婆になった。
思いがけない場所で、子供たちが集まってくる。どの顔ものっぺらぼうで掌を押しつけるとふわふわと冷たい。いつも子供たちの名前を間違えて怒られる。わたしは顔に掌を押しつけて、その感触を覚えようとする。
「違うよ、匂いなんだよ」
子供たちの誰かが言った。
眼を閉じて、息を吸い込むと、子供たちのあたたかい吐息はみんな少しだけ違う匂いがする。
そうか、そうだった。ごめんごめん。
目を開けると誰もいなくなって、その場所がどこにあるかも思い出せない。
掌にある残り香を頼りに、わたしはまた、子供たちと会える日を夢想する。
トマトの瑞々しい赤色の中で、いつもの君がまどろんでいた。変わらない君の声が迎える。やあ久し振りだね。そろそろ来る頃だと思ってたよ。
ぼくは黙って君の隣に腰を下ろす。君だって声だけでぼくを見てはいないから、これで良い。ただ静かに視線の先を追って、君と同じものを見るだけだ。
ここで君と逢うのは夕方だと決めていたから、ぼくはわざわざ遠回りして、土の下の根からやってきたのだった。茎を通って、葉の中へも寄り道してきた。そこでは光合成のすべてが展開されていて、目の前で酸素が出来上がる。いつもながら見惚れてしまったよ。
けれどそれさえも今の景色には及びはしない。
果肉の内側から眺める世界は、常に赤いフィルターが掛かって素敵なんだ。特に夕日はトマトと呼応して、どこまでも赤くなる。トマトが赤で満たされて、零れていくような錯覚。すべての根源たる赤の楼閣、世界の中心にぼくらはいるのだ。
太陽が落ちたらそのまま就寝。明日こそは君よりも早く目を覚まして、ぼくは旅立つ。
それでもここから僕が出て行くことに、やっぱり君は気付いてしまうのだろう。そうしたら振り返らないで、いつも通りに背中で声を受け取ろう。
「青臭いその香りが抜けたら、トマトの中へまたおいで」
悲しいくらい君は、いつまでも君のままなのだから。
息が詰まりそうだった。たくさんの人に囲まれている。ここはどこだっけ?学校へ向かう朝の電車の中だ。
お母さんの鏡台からこっそりくすねてきた香水を洋服のポケットから取り出し、しゅっ、とひと吹き隣の知らないおじさんの背広の裾にかけた。おじさんは気づかない。バラに似た濃厚な香りに、もわんと包まれる。バラ園のベンチに一人腰掛けている自分を思った。たくさんの腕や尻はすぐ近くにあった。
おじさんは一つ前の駅で降りてしまった。電車はさらに混んできた。ランドセルの中をがさごそと探す。彼にもらった香水ビンを取り出した。ハート型のボトルがかわいく、とても気に入っている。どこに振りかけようかと考えていたとき、電車が揺れた。香水ビンは手からすり抜け、転がり、足元に見えなくなった。探すが見つからず、涙が溢れ出てくる。近くにいた暗い色のスーツを着た男の人が「おじょうちゃん、迷子なの?お母さんはどこ?」と隣の太ったおばさんと困った顔を見合わせている。たくさんの困った顔がこっちを見る。そのとき、お姉さんのミニスカートの下に落ちている香水ビンを目の端に発見した。くるりと向きを変え、しゃがんで手を伸ばし取り戻すと、困った顔の大人たちに向かって吹きかけた。突如、彼らの目はやさしく潤み始めた。愛で満たされたのだった。
冬の六時すぎはもう真っ暗で、仕事帰りの電車の中、わたしはパスケースに入れている青い紙を眺めている。
「この空を吸い取ったんだ」
よく晴れた秋空の下、彼の手にはハガキ大の水色の画用紙。不器用な手つきでそれを半分切り取り、わたしにくれた。
その青い紙は、見つめているとすうっと透明感をおびていく。すると目の前が薄い光の膜をおおったようにまぶしくなり、あの時のめまいをおぼえるような秋空が降ってくるのだ。
新鮮な風が車内に吹く。どこからかキンモクセイの香りがする。甘い匂いは、心を二年前の秋に連れていく。
空があまりに高く、彼はまぶしそうな目で穏やかな笑みをうかべていた。すべてが光って見えた。甘ったるい花の匂いばかり飲み込んで、好きと言いたかったのに言えなかった。
降りる駅についた。秋空が消える。冬のつきさす風に首をすくめた。まだ消えないでいるキンモクセイの香りと、甘い痛み。今でも時々思うのだ。
彼もわたしを好きだったかもしれない。
ふいにライラックが香った。
「おかえりなさい」
「ただいま」
香水はもう残り少ない。しかし少なくとも今、バラバラのわたしはたったひとりのわたしに戻って、彼女とともにここにいる。
くん、と鼻を、冷たい断面におしあてた。
この石は父の形見だ。表面はガラスのよう、深い緑色をしている。一見、宝石のようにも見えるが、たいした石ではないらしい。
なんだろう、しっているような‥。
緑色の石からは、なんともいえない匂いがした。
なんの匂いだろう。思いだそうとしているのに、とりとめのないことばかりが浮かんでくる。
あれは、子どものころ。母に内緒で、父とよく行った喫茶店。父はいつもわたしにクリームソーダを注文してくれる。母がいると、こうはいかない。
小さなわたしはわくわくしながら、真っ赤なチェリーをほおばる。口にひろがった、香料の味。笑っている父が吐く、タバコの煙。緑色のソーダ水が、チリチリとのどを流れていく。
あ、
お父さんの匂い。
目の前がぱっと、明るくなった。
どうして忘れていたんだろう。とてもなつかしい匂い。
私は目を閉じて、石に顔を近づけた。
くん。
‥あれ。
あんなにもはっきりとしていた形が、ゆらぐ。
本当にこんな匂いだったかしら。
クリームソーダのような色をした石が、じっとわたしを見つめている。
‥本当にそんな父親だったかしら。
電話が通じない どこにいるのどこにいるの 夕日がビルのむこうに沈む さみしいさみしいさみしい 今すぐここへとんできて 茜空に金色の傷口が開く 飛行機雲
あの人がくれたアトマイザーはポケットの中 指を触れ、ゆっくりと思い出す
スペインの赤い丘 一本の樹 それがわたし 地図には載らない でも飛行機乗りたちはわたしを目印に谷を越えてくる 丘の上は風が強くてわたしの枝はいつも激しく揺れている あの高さからは見えない ただ夕空を背にわたしの影が見えるはず ここからではプロペラの音は聞こえない 雲にかくれて機影も見えない 半月の傍ら、一番星 いえ、あれは飛行機からの合図 今日も無事谷を越えたよ、って わたしたちは出会ったことがない けれどわたしたちは親友だった
やっと出会えたのだ
だいじょうぶ 一瞬、姿を見失ってもここにわたしがいる あなたはそこにいる わたしたちは親友だ 丘の上にいたときもビル街で一人立ちすくんだときも
わたしがひとりぼっちだったことはない
目には見えなくても 空には満天の星
たいていの人は嘘が仕草に現れる。例えば鼻を掻いたり、瞬きが増えたり。だから、これまたたいていの人は他人の嘘を見破ることができる。
亜子さんは嘘が香るのだという。“良い”嘘は梅の花、“悪い”嘘はゴムタイヤの臭いが香る。
ある男性同僚は、いつも亜子さんの知らない香りを放っていた。
「スズランに近い、淡い感じのにおいなんだけどね」
1年近く、亜子さんはそのにおいを探し回ったという。山で。海で。家で。街で。
「でもなかなか見つからないのね。しかも、ちょっと仕事でトラブっちゃって」
気合いを入れ直すための買い物でのことだ。いくつかの香水を店員に勧められていて、はたと亜子さんは思い出した。
「知らないフリも、嘘は嘘なのね」
亜子さんは中学時代に転校した想い出の君である、件の男性同僚と結婚した。
「『Remember ME』っていうんだけど、勿忘草の香りなんだって」
出産を機に、嘘が香らなくなったという。
「この話、旦那には秘密よ」
亜子さんの隣で、一歳になる彼女の娘は自分の鼻をつまんだ。
言わないのも、嘘らしい。
それははっきりとしたかたちを持たないもの。けれどたしかに存在する。
ふわふわとしたそれはいつもどこかを浮遊する。たとえば部屋であったり街であったり地下であったり。ようするに、どこでも。
それは匂いのみを有する。胸がとてもしめつけられるような香りを。そこからわたしたちに恋することを思いださせる。
匂いだからだれかの体にうつる。その匂いを嗅げば、わたしたちはその人を運命の人だと思う。その人が見せる仕草、発する言葉、移す行動。たとえその人の欠点だとしてもわたしたちにはわからないだろう。
けれどそれがわたしたちに思いださせるものは恋することであって愛することではない。
匂いは時間とともに薄れ消えていく。完全になくなるとわたしたちは目がさめる。そのときにその人のことをまだ運命の人だと思えることができたなら、はじめてそこから愛することが許されるのだ。