テレフォン・コール 作者:はやみかつとし
ネットワーク経由で各地からフォンの香りを収集する。亜光速航法でも互いに往き来するのに数十年かかるほど広い範囲にコミュニティが散らばってしまったこの時代において、文化的相互翻訳可能性を維持する、これはそんな試みのひとつなのだ。香りの伝送ならば、解像度が比較的高くデータ量が嵩むといっても、量子通信で数時間あれば受信できるので全く問題ない。
それにしても何故フォンなのか。われわれが食い意地の張った種族だから、というのも一つの回答だろうが、むしろ複数の由来のものを簡単に混ぜ合わせられ、しかもそこから新しい共通のものを引き出すことが容易だからだろう。これが言語作品や音楽ならそうは行かず、一瞬にして文化闘争になってしまう。私たちが求めるのは争いではなく調和、そう、美しく響き合った多数の声が織りなす合唱のような調和なのだから。
さてそろそろ、かなりのコミュニティから情報が集まってきた。調合シミュレーションも始まっている。風味に新しい伝統を付け加える、至高のひととき。
どこか星空の遠くでお腹の鳴る音がする。
あたたかさ、やわらかさ、しずけさ 作者:テックスロー
同じ病室にいた私たちは、よくポイ越しに太陽を見ました。金魚すくいなどしたことのない私たちは、これは光をろ過するものだ、と言って、暑い日には太陽に、不安な夜は蛍光灯にかざして、強すぎる光をろ過したものでした。
夏が秋に代わる一日、晴れた日。私はもう誰もいなくなったベッドに向けて、太陽の光をポイでろ過して集めます。私たちはろ過された光をひらがなでひかりと呼んでいました。はっきり確かめたことはないですが、私たちの中ではそれはひかりでした。
夜が来て、病室は少し寒いです。ひかりを集めたベッドに移動し、枕に顔をうずめて、寝ます。ひかりの匂いを吸い込んで、寝ます。
夢の樹 作者:はやみかつとし
あなたがその樹に夢見られているとき、枝という枝の先すべてにあなたが灯る。すべての時の突端に立ち、世界に対して露わになる。
時は、目に見えない速さで膨らむ。樹は世界をまるごと飲み込みながら、しずかに育っていく。すべてのあなたが、一つの眠りを眠る。
ロココのココロ 作者:はやみかつとし
寸詰まりボディのレールバスが世界最短のトンネルに入りそして出てくる。軽快で規則的なレール音。その一瞬の変調。
麦茶がない 作者:たなかなつみ
四六時中、薬缶いっぱいの麦茶を炊いておくのは、幼い頃からわたしの役目だった。冷めた麦茶を作るのを忘れると、鬼のように怒られた。体力仕事の職人が出入りするうちの家では、年がら年中、冷えたお茶の消費量は凄かった。お茶が途切れないように定期的に空いた薬缶に麦茶を煮出す。間に合わずに打たれたことは何度もあり、辛い日々だった。
大人になったわたしは、今の夫と結婚した。お茶を入れるのはわたしの役目ではなく、夫はお茶がないと言って激怒することはない。わたしは幸せな結婚をしたのだと思う。
それって今の夫でなくてもよかったということではない? と友人は言う。今時お茶が入っていないからって怒る人間はいないでしょう、と。そうかもしれない。けれども、麦茶が薬缶に入っていなくても構いませんか? というわたしの問いに、そんなこと気にしないよ、ではなく、お茶ならぼくが入れるよ、と言ってくれたのは、今の夫だけだった。
今日もわたしは帰宅して、麦茶が入っていない薬缶を台所で見つけて安堵する。夢のような生活。今日も夫を罰することができる。わたしは幸せだ。
気体状の学校 作者:テックスロー
愛とは何か。哲学や宗教の話ではない。化学的に言うと愛は愛素という元素から構成され、元素記号はLを用いる。愛素は常にほかの元素との化合物として存在し、分子結合L2や、単原子Lの形では存在しない。したがって自然界において純愛を取り出すのは不可能とされており、化学者の間でもその存在自体についていまだに議論が交わされている。
愛素を含む化合物として代表的なものが二酸化硫黄SO2とメタンCH4をある条件下で反応させた際、メタン中の水素原子H三つが愛素Lに変わることで得られるSCHO2Lである。無色無臭だが化合物中の愛素に敏感な人は甘酸っぱさを感じることもある。毒性は極めて強く、めまい、動悸、頬の火照り、不眠などを引き起こす。また、集中力の一時的な、顕著な低下も特徴の一つとして挙げられる。自然界で確認できる例として冬の朝、「寒いね」と言って笑って追い抜いていくあなたの白い息、夕日に染まる音楽室であなたを思いながら一人練習するアルトサックスの音色、今日で卒業のあなたに何も伝えることができなかった私のため息に含まれていることが分かっておりもうだめです。また会いたい。
一夜の宿 作者:氷砂糖
山に薪刈の翁と嫗がありました。雪の日、翁は薪を売りにゆく途中で、一羽の鶴が罠で暴れているのを見つけました。周囲には点々と赤い血。可哀想に思った翁は鶴を罠から逃がしてやりました。
寒い日でしたので薪はよく売れ、翁は白米を買って嫗のもとへ帰りました。白米で粥を作る嫗に、翁は鶴を助けたことを話しました。嫗は良いことをしたので薪が売れたのでしょうと云いました。
戸を叩く者があります。翁が開けてやると美しい娘が立っておりました。親が亡くなり、会ったこともない親類を頼ってゆく途中、この雪で道を見失ってしまったと云います。確かに外は激しい雪で、翁は娘に泊まってゆきなさいと云いました。嫗は娘にもうすぐ粥ができるから早く火に当たりなさいと云いました。
温かな粥を啜る娘に、嫗は蕪の漬物を出してやりました。暖まった娘の頬は桜色になり、春が来たかのようでした。食べ終わると翁は粗末ながらも布団を出してやり、娘は疲れからか、すぐに寝入ってしまいました。
朝になるとすっかり雪は上がっており、日に雪が眩く輝いておりました。翁は娘に町までの道を教え、娘は深く深くお辞儀をしてから翁と嫗のもとを去ってゆきました。
永遠の舞 作者:はやみかつとし
1ではなく、はじめに2と3があった。
2と3は5をつくり、
5と2は7を、5と3は8をつくり、
2×3が6をつくった。
4は、2と2で表すこともできたが、神はそれを好まなかった。
9は、3×3で表すこともできたが、神はそれを好まなかった。
2と3の和、積、差を組み合わせることで、それらは表現できた。神は満足した。
1は。
この世界をつくる最小単位であるはずの1も、2と3から再帰的に結論された。
だから、世界は一様な1の集積にはならなかった。
2と3の永久運動が産み出す多様性の爆発的な増殖こそが、世界となった。