500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第21回:ゆらゆら


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 言葉の壁を乗り越えるのだ。
 最高の技術者たちが世界中からこの因縁の地に集まった。
 エゴとエゴとがぶつかり合う。steel、木材、ασβεστησζ、verre、磚、лёд、adobe。最高品質の建材を慣れ親しんだ技で組み上げて、一段また一段と着実にプロジェクトは進捗した。
 そして、一同が息を呑む瞬間が訪れた。
 誰の設計図とも一致しない塔がひとまず完成していた。



いましも点から天になろうとしている超高温・超高密度の宇宙の状態。



かぜにゆらゆら
こころがゆらゆら

あっちにゆらゆら
こっちにゆらゆら

ぼくにむかってたくさんのてがのびてくるよ

あっちにゆらゆら
こっちにゆらゆら

かぜにゆらゆら
こころもゆらゆら



ゆらゆらと揺れ続ける景色を見ながら僕は自分が蛤の夢の中に取り込まれてしまったのだなと言うことに気付き焦りと不安に駆られて走り出すが空気は全く以てねばっこくってなかなか前に進めないので仕方がないから空を飛ぼうと試みるものの薬屋の屋根にも登れないほどでそうこうする内に何だか人がいっぱい僕の周りに集まり始めて泥棒とか人殺しとか放火魔とかペドフィリアとか××とか○○とか笑いながら僕のことを罵り始めてとてもじゃないけどこれでは捕まってしまうと僕は藻掻きながら泳ぎながらその場を逃げ出し何とか従弟に匿って貰ったのだが「お兄ちゃんは僕のことが好きなの?」とかなんとか迫られたあげく母親に見つかってしまったので怯えながら割腹自殺しようとしたところで目が覚めた。



「ピクニツクにいこう」あなたはさう云ってくだすつたのでした。
さうして今日、秋晴れの空の下わたくしたちはあの渓谷を散策してゐます。
目に染みるやうな紅葉は以前と少しも変わりません。
なのにあなたは何故黙つてゐるのでせう。
(あの噂は本当なのでせうか)
ああ、この吊り橋おぼへています。
あの時はわたくしがあんまり怖がるのであなたはわたくしの肩を抱いて渡つてくださつたのでしたね。
今日はわたくしをおいて一人で行つてしまふのですか。
(あの噂は本当なのでせうか)
立ちすくむわたくしに気づき、あなたは手をさしのべてくださいました。
あなたの手を握り、あなたの背を見つめ。ゆるゆると吊り橋の中程まで来た時、
あなたは不意にわたくしを振り返りました。
「あの噂は本当なのでせうか」
あなたの目がゆらゆらと揺れました。
あなたの手がわたくしの手を離れ、吊り橋が揺れました。
秋晴れの空がわたくしの視界いつぱいに拡がりました。
わたくしの脇から天へ向つて紅葉がざあと流れてゆきました。
それがわたくしの秋の日の思ひ出になつたのでした。



ゆらゆらと揺れる蝋燭の言霊じっと観る。時たまきゅきゅっと上に引っ張られる。息を止めても漏れる呼気に振り回されていた蝋燭の言霊がきゅきゅっと上に跳ねる。ばあちゃんが言った。「死んだ爺ちゃんがわしをよんどる。」幼い僕は蝋燭を消して泣いた。「ばあちゃんは死ぬな。」 



遠い水面から、月の光が静かに降ってくる。
今日は満月。青く発光する天井に、白い光が丸くにじんでいる。
海の底。ゼリーに閉じ込められた、永遠の静寂。
彼女はサンゴに守られて眠るのです。
傷つく恋はもう、はやらないからね。
過去の記憶が彼女から溶けだし、泡となって水面にのぼっていく。
たゆたう水に身をまかせるように、ハチミツ色の髪が揺れる。
ゆらゆら。ゆらゆら。
出口のない安全な場所。だれも彼女を迎えに来ない。置いて行かない。真綿のようにやさしく包まれて、やがてそれが少しずつゆっくりとしめつけてきて、息ができなくなっても。
人魚はまどろみつづけるのです。
ゆらゆら。ゆらゆら。



「今日はゆれてるなぁ」
「ああ」
 オッサン二人。見つめる先は同じ。
「昨日はさっぱりだったからなぁ」
「ああ」
 真っ赤な鼻でも、彼らは違いのわかる男たち。
「ゆるゆるでゆれゆれでゆらゆらだなぁ」
「ああ」
 どうやら今夜は雨が降りそうだ。



「誰か灯りを」
 影から差し出された曼珠沙華を、女御は受け取る。
 長く、闇路に迷い、供と離れ、暗夜を恐れ、鬼笛を聞き、そこで漸く女御は自分の立場を知る。
 女御が手にした華を空に掲げると、辺りは淡く浮いた。
 「やはり、」
 曼珠沙華に照らされたそこは、狂うるう花の群生地だった。
 風も無いのに、ゆらゆら、揺れる。
 なぜなら、それは人の腕だから。揺れて女御を誘うから。
 このまま朽ちて華となるか、雌しべと指切りげんまんして、昔の約束を守って生き長らえるか。
 しかし、女御は灯りを得て、偶々、夜の帳を見つけてしまう。これで、実地よりも広く見せていたのだろう。女御が手を伸ばすと、やさしく天鵞絨の布が受け止めた。
 そっと幕を捲る。

 一瞬。
 陽だまりで風に揺れる家族連れ。

 それだけで眼が焼け爛れた。
 女御は悲鳴を上げて、蹲って、頭を床に打ちつけて、小指を噛み千切って、叫び声を天井にこだまさす。
 こんなにも圧搾。
 「見なさい。だから無理だと言っただろう」とあざ笑う。

 それで、目覚めるまで、この中。
(または、両手で耳をふさいで、ただ、昇る紫煙を見つめ続ける)



 不規則な間を置いて子どもたちが淵へと跳び込んでいる。ちょうど屋根くらいの崖から、たいして深くもない淵に跳び込む。夏場、子どもたちには格好の遊び場だ。親たちに禁止されていないところをみると、事故があったこともないのだろう。「おーい、兄ちゃんもおいでよ」弟たちが呼ぶ声を無視して、俺はせせらぎに足を浸して待っている。俺も子どもの頃には跳び込んでいた。確かに昔は。
 周囲の木々の緑色に染まった淵の表面はいつも小波に覆われている。それが何かの拍子に静止することがある。水が完全に澄んで、底の小石まではっきり見えることがある。それがいつやってくるのかは、わからない。ある日偶然、その時に出くわした俺は、淵の底に一人の女を見た。万葉風の服を着た女は、ただ虚空を見ていた。髪が水に揺れ、長い袖口もゆらゆらと。いや、あれは鰭だったのか。沼の主? そんな伝説は聞いたこともない。見直そうとした時、小波は立ち、淵はいつもの風景になってしまった。
 それから俺は淵への飛び込みはやらなくなった。沼の主についておじいに訊くこともしていない。ただ、時々ここに立って、小波が消える瞬間に出会えないかと待っている。



 九時をすぎると、駅へむかう車内に乗客は誰もいない。ガタン、ガタンと朝より軽い車体がゆれる。また一つ、停留所をすぎていく。どこにも止まらないバスは快調に走る。道はいつもかわらない。駅へ、駅へ。
 バックミラーごしに視線を感じた。赤いカバンをもった彼女は毎晩駅へむかう。駅から深夜の列車にのって、もう家には帰らないつもりでいる。
 と、大きくバスがゆれて、彼女はカバンだけをのこして消えた。それを腰の曲がった老婆がひろう。彼女は野菜を売りに毎日駅へむかう。土色に汚れた手に赤いカバンは不釣り合いだ。彼女はためらいながら手をのばす。
 そうして赤いカバンは僕に手渡された。僕は毎日駅へむかう。日に何度も何度も。ゆらゆらとあらわれた白い腕に肩を抱かれた。バスが駅をすぎていく。



白いわたぼうしたちが舞い降りた月光の夜、僕は伝説の男を待っていた。
タイムマシンが静かな時を2つ奏でた後、ギシリギシリと生き音が聞こえてくる。
僕は暖かい羽の隙間から2つの大きなクリスタルを輝かせ体制を整えた。
すると、オレンジ色に光るキャンパスにゆっくりと黒い絵が現れた。
その黒い絵を辿って繋がっている双子の主を追うと、噂どおり赤い衣をまとい、白き大袋を抱えた男がいた。
ドキドキ、ドキドキ。
揺れる光ではっきりと見えないその顔には、やはり立派な白いゲレンデが蓄えられている。
ドキドキ、ドキドキ。
「サンタだ、サンタさんだ」僕は堪えきれない緊張を解き放って飛びついた。
「残念でした」振り向いたその顔は、揺れる光と影によってより一層恐怖を演出し、その時僕は…。
ドキドキ、ドキドキ、……。
僕はそれ以来ロウソクに火をつけた事が無い。



ゆらゆら揺れた
そして
男と女は

ゆらゆら揺れる
そして未来は
あらかじめ
測り知れない
ゆらゆら揺れて
時は過ぎ行く



見上げると、ビルの縁でやじろべえが動いている。
驚いた僕は階段を一気に駆け上がり、屋上に辿り着いた。
フェンスの向こう側にいたのは黒髪の少女。
彼女は前後に大きく揺れながら、僕に色々と質問をする。
「なんでここに来たの」
「だって揺れてたから、その、君が」
「なんで揺れているのだと思う」
「わからないよ、そんなの」
「私も。こんなことしながら誰かと話すとは思わなかったわ」
そう言うと彼女は初めて顔を上げ、無邪気な笑顔を僕に向ける。
僕は頭が真っ白になり、その後の会話を覚えていない。
そして気付くと朝焼けの中、僕は彼女にこんな事を言っていた。
「君のとなりで揺れていいかな」
すると、彼女は綺麗な笑顔を見せて答えた。
「だめよ。片側が重くなりすぎちゃうもの」
彼女は素早く後ろに傾いて消えた。
ぼくはのろのろとフェンスに駆け寄って下を見る。
地面には肉の塊。そして、ビルの中ほどで千切れたスカーフが揺れている。
僕はフェンスを飛び越えた。そして、何度も揺れながらスカーフを見つめ続ける。
と、突然、背後からけたたましい音がする。
僕はゆっくりと振り向き、目の前で息を切らせている女性に冷え切った視線を投げかけた。



 いつものように目を覚まし、これが夢ではないことを知る。ぼんやりと、遥か彼方の水上を見上げる。どれくらい長い間空気を吸っていないのか、覚えていない。肺の中は水でいっぱいだ。静かに揺れる太陽を見つめては、陸地に帰りたいという願いが激しく襲う。
 私は体を硬直させ、今、空気中にいるんだと思い込もうと試みたが、たいていはうまくいかない。死のうかとも思ったが勇気がない。あるいは永遠に眠りつづけることが可能かもしれないと思い、やってみたが、しばらくすると口の中に水が溜まり、そのせいでまた目を覚ます。
 いたるところに仲間が散らばっているので、私はそのうちの一人に近づいてみる。彼は、魚のように口をぱくぱくさせて言った。
「空気が欲しい。たぶん二度と手に入らないだろうが、何よりも欲しい」
 みんな同じだ。私たちは水の流れに身をゆだねる以外、どうすることもできないのだ。時折、風の匂いが運ばれてくるように感じるのは気のせいだろうか。



 ゆらゆらと、ゆらゆらと。
 おれの体躯(からだ)は波間を漂ってゆく。

 崖から海面に飛び込む寸前に背中を撃たれたようだが、今は海水の冷たさで痛みは殆ど感じない。そう、水の冷たささえも・・・。

 仰向けになった姿勢でたゆたいながら見上げれば見事な満月。

 月の位置からすれば、おれの向かう先はどうやら・・・祖国の方角のようだ。
 それが分かると急に瞼が重くなり、おれはゆっくりと眠りに堕ちていった。



 昼間勢いよく石を蹴り飛ばしたことが原因で、その晩私の家に幽霊がやってきた。
 女の幽霊だった。ミホシと名乗る。
 痛かったのよねぇ、と恨みがましくミホシは言い、ちゃぶ台の上に件の石を落とした。そして、そのままうちに居つく事にしたらしい。あたり屋幽霊だ。
 ミホシは百年も前に”好いた男の裏切りを受け”た末に死んだのだ、と主張する。買い置きのおやつにはすぐに手をだし、私が恋人と交わす睦言を、ニヤニヤと傍らで聞いていたりもする女が、そんなしおらしい理由で死んでしまうものか。
 いつもの習慣で、私はベランダで夜を過ごす。ミホシは気が向けばついてくる。今日のお供は、一通の手紙。この場所からは、見慣れた住宅群の灯りしか見えない。
 友人の活力に満ちた近況は、なぜだか私を心許ない気持ちにさせる。
 幻よりも儚いミホシの気配が、ベランダの手摺にまとわりついている。私は黙って腕を伸ばした。
 多分このまま一生涯、やりすごすことも可能だろう。何も生まず、どこへも行かず、ただ息をして。
 深くあたたかな闇が、私たちの周りには揺蕩っている。 



 I wish I were a bird ...
 みかんの中、収穫の秋のような女の子が右向け右に駆上り、海に向かって両手を拡げる。英語教室のCMだ。制服の後ろ姿をゆらゆら被害者の波は頬杖をついて見ていた。ふ。みかんを消す。そっと家を出た。目深にかぶった帽子が波の顔を隠してくれる。
 道の右手は右向け右で腰の高さに壁がある。3mほど下ると、波がゆらゆらされた砂浜だ。潜水艦にいる魚を想った。海風が吹き上げる。自分が潜水艦に居り、奄美の島歌に帰れないことを理解したときから、波は忘れることを覚えた。痛み悲しみと一緒に、思い出も心の奥のひき出しにしまい込んだ。それから24年、波は潜水艦に生きた。結婚、魚。それが波の現実。なのに今さら。
 連日みかんでゆらゆらについての意見が飛び交う。奄美の島歌じゅうが波や魚達のために怒り悲憤する。ありがたいことだ。だがとても恐ろしい。潜水艦は波たちを少なくとも人質として扱った。だが奄美の島歌は。彼らは生贄を欲している。ぶるり。体を震わせた。
 ♪うしろの正面だ〜あれ。
 波は見た。右向け右に駆上る自分の後ろ姿を、うなじに揺れる三つ編の髪を。あはははは。収穫の秋たちの笑い声が風に乗って通り過ぎ、泡のごとくに虚空に消えた。



「ほら、おみやげ」
照明を落とした高層マンションの一室。ボクはライトアップされた水槽に放たれた。
「わあ、きれーい。透明でちょっとだけ白くて、まん中にピンクの星がある。…クラゲさん、だよね?」少女が目をきらきらさせて言った。できるだけ光るよう、ボクは精一杯、裾をひらひらさせた。
「そうだよ、ゆみは何でもよく知ってるね。」にこにこしていたパパが真面目な顔になって言った。「パパ、出張で明日と明後日帰れなくなったんだ。家政婦さんには来てもらうけど…」
「うん、大丈夫だよ。ゆみ、もう年長さんだもん」ボクから目を離さず、ゆみちゃんは言う。
「そう、じゃあよく頼んでおくから」ほっとしたように言ってパパはシャワーを浴びにいった。ゆみちゃんが水槽のガラスを突っつく。「きれいね、ほんと。」ボクはできるだけきれいに見えるよう、ゆらゆら揺れた。ごめんね。ボク、ほんとは偽物なんだ。「癒し系玩具」なんだ。ほんと、ごめんね。
 でも本当は、ゆみちゃんはみんな知ってる。だから、クラゲは何を食べるの、とか、ママはいつ帰ってくるの、とかをパパに訊いたりしない。
「あなた、ママが着ていったスカートにそっくりだよ、クラゲさん」



白雲風に乗りて晴天を行く、源平合戦の地に男座して波を只一視する。
気まぐれ漁師が現れ、男一声するも、爺の耳に念仏。
我乱心を静め再び一声するも、老漁師に犬言葉、思想違伝で年寄りの冷や水の行い。
我乱心せず只波を一視する。
老漁師動く時我目覚めたり、手首を持ちて小舟へ走る。
我一礼小舟奪う、爺只口開直立。
時経ちて、離れる我舟に爺大声する。
爺先の行い謝るも、願い届かず舟帰らず。
諦めて待つ事数刻、潮流に乗って舟近づきたり。
我舟降りるも千鳥足で姿晦ます。
時が経ちて漁に出る爺、離れ小島にて決闘あるも知る。
「あの、バガボンドが」爺一言。
沈黙一静、只舟は平然と海を漂う。



「誰か灯りを」
 影から差し出された曼珠沙華を、女御は受け取る。
 長く、闇路に迷い、供と離れ、暗夜を恐れ、鬼笛を聞き、そこで漸く女御は自分の立場を知る。
 女御が手にした華を空に掲げると、辺りは淡く浮いた。
 「やはり、」
 曼珠沙華に照らされたそこは、狂うるう花の群生地だった。
 風も無いのに、ゆらゆら、揺れる。
 なぜなら、それは人の腕だから。揺れて女御を誘うから。
 このまま朽ちて華となるか、雌しべと指切りげんまんして、昔の約束を守って生き長らえるか。
 しかし、女御は灯りを得て、偶々、夜の帳を見つけてしまう。これで、実地よりも広く見せていたのだろう。女御が手を伸ばすと、やさしく天鵞絨の布が受け止めた。
 そっと幕を捲る。

 一瞬。
 陽だまりで風に揺れる家族連れ。

 それだけで眼が焼け爛れた。
 女御は悲鳴を上げて、蹲って、頭を床に打ちつけて、小指を噛み千切って、叫び声を天井にこだまさす。
 こんなにも圧搾。
 「見なさい。だから無理だと言っただろう」とあざ笑う。

 それで、目覚めるまで、この中。
(または、両手で耳をふさいで、ただ、昇る紫煙を見つめ続ける)



遠方より押し寄せる白い波頭に洗われながら、
私は海の中へ潜り込むように歩を進める。
入ってくるなと拒む水の力が前進を妨げ、
引き返せと指の間を砂が流れて体勢を崩そうとする。
それでも私は歩を止めない。
聞こえてくる声に耳を貸さない。
海流と血流が混ざり合って私の耳の底で轟き始める。
その状態になったとき、初めて私は、
たゆたいながら海にその身を委ねるのだ。
頼むから私を飲み込んでしまってくれと。



ゆらゆら..ゆら...ゆらゆらゆらゆら.....ゆらゆら...
波にもまれて揺られてゆく。くらげじゃないわ、私は人間よ。
男どもにさんざ弄ばれて川に捨てられた。
ただ一時の欲情のために、、、ひどい。
私の人生はあまりいい人生じゃなかった。父は呑んだくれ、母は利己主義者。やっと両親から逃れ、自分の幸せのみを築こうとしたのが去年。働きながら英会話教室に通い、かなり上達した。このまま努力を続けて、明るい未来が待ってるはずだった。
それをあの獣たちが無残にも踏みにじった。もっともっと生き続けて幸せになりたかったのに。



 足もとがふらつくのは、初めてヒールの高い靴を履いたせい。景色が傾いで見えるのは、初めて眼鏡を外してコンタクトをつけたから、たぶん。
 そんなふうにあたしの名前を呼ばないでよ。ビール飲みながら、そう呟いてみる。
 呼ばれるたびにゆらゆら揺れる。あたし。あなたの妹になったり、お母さんになったり、愛人になったり。そしてときには、まったく見知らぬ他人のように。
 あなたの瞳に映るあたし。あたしの知らないあたし。あなたの肌に触れたがるあたし。
 友人が笑いながら渡してくれる写真。歪んだ映像の。これもあたし。
 でもあたしに名前をつけてくれたのはあなた。
 裸足で立って、視力の足りない目で、ぼやけた世界を感じることだって、しようと思えばできる。母が買ってくれた鏡台の。歪んだ鏡像の。これもあたし。そしてあたしには名前がない。もう誰も、あたしの名前を呼んでくれない。ゆらゆら揺れる必要すらない。
 そうなの? 誰かあたしの名前を呼んでよ。なんでもいいのよ。呼ばれた名前で返事をするから。そういうものだから、恋なんて。