この透明な壁は、なかなかやっかいだ。確実に俺を閉じこめて放しやしない、そのくせ見えないんだから気にするなよ。なんて知らん顔してる。透明で、隙間もない檻。水も、食いものも、下手すりゃ草だって石だってある。朝と昼は明るいし、夜は暗い。生き物の住む、一つの立派な世界だ。創った奴は檻をそう呼んで、申し分ないだろうと付け加えた。それこそ詰まらない冗談だろう?
だから俺は逃げ出してやる、光も住み処も、それが(そう所謂世界ってやつが)創られたものだって知ってる、透明でそこにないような壁だってちゃあんとよじ登れることも知ってる。だから俺は何度だって試みる、掴みどころのない壁に張り付いて、背中にしょってるモンも重かったりするけど、登るんだ。
でもな、いつだって、あと少しってとこで何かに突き飛ばされる。檻を創った奴が気に食わないんだ、俺が檻だって気づいて逃げ出そうとしてるのがしゃくなんだ。だろ? お前は俺の為に上等な世界を創って、そこに俺を放り込んで、嬉しいんだ。でもお前は俺がここを檻だって知っていて、そこを逃げ出したいことは一生分からないだろう。それが、一番重要なことだっていうのにさ。
ぼくの彼女ウミィ・ダードルはどっか遠い国から来たらしい。たぶん貧しくて庶民にはお菓子なんか縁のないような。
「これな〜に〜」好奇心と食欲の旺盛な年頃のウミィはいつもぼくの部屋に来ては宝さ菓子をしてぼくを困らせる。
「あ・んっ、んんっ、みず……」
「え、こら、飲み込んだのか? それガムだよっ、チューインガム!」
「がむぅ?」
「そ、食べられねえの、ただ噛んで味わうものなんだ」
「ただかんだじわー??」
彼女は日本語もできるからその点だけは楽させてもらってるけど、まだ時々はそうもいかなくてぼくの下手な英語が必要になってくる。
「I mean、こうやって口に入れて、chewするsweetsで……」
「Oh OK、わかった! こうやって口に——」
ウミィは四、五回ガムを噛むと、……ぼくの口にくちびるを重ねてきた。
「チューする!」
その瞬間、ぼくらのくちびるはひとつになった。
で、ねちりとして離れない。タコみたいな口の形をしたまま彼女がぼくの口の中で言った。
「How sweet!」
というと貴方、死にたくなったんですか?
生きるのが馬鹿馬鹿しく思った、なるほど。
では貴方でも生きられる方法をご紹介します。私はいつもこの方法で、死ぬのをやめていますから。
簡単です。死ぬために自分で自分を傷つければいいのです。
あぁ、刃物等の道具を使ってはいけません。床や壁も駄目です。麻酔なんて言語道断です。あくまで自分で傷をつけるのです。
一番簡単なのは、やはり指に噛み付くことでしょうね。血が出ようが骨が出ようがお構いなしに噛みます。噛みちぎるくらいのつもりでやると、より効果的です。
薬指とかお勧めですよ。仮にちぎれても、所詮は薬指ですし。その後生きるにも、たいして影響ありませんしね。
引っ掻くとかもいいんですけど、あんまりやると指の骨が折れてしまうので気をつけて。もしやるなら、爪が剥がれる程度が良いですね。
すると、人間なんですからやっぱり痛いです。死ぬためにこんな痛い思いをしなくちゃいけないんです。つまり死にたいと思わなければ、こんな痛みは感じなくて良いんです。ほらね、死ぬのが馬鹿馬鹿しくなったでしょう。
どうせ惰性で生きているなら、痛くない方が良いじゃないですか。違いますか?
何か気がかりな夢から目覚めると、俺はおかしなことになっていた。固い甲羅の背中を下にした寝姿だった。甲羅が邪魔で起き上がるのも一苦労。おふくろはそんな俺を見て「なんて情けない子だろう!」と泣き叫んでは、水差しとか林檎とかを投げつける。避けようにも手足は鈍く、頭を隠すので精一杯。手も足もでない。弟は疎ましそうに一瞥すると、ネクタイを締めて出社していった。
街を歩けばみな視線を逸らす。こいつはいい。甲羅があってもなくても、どちらにしろ視られないなら同じこと。この中はひんやりと湿っていて、心地よく秘密めいた場所だ。待ち合わせのレストランで入店を断られた。「動物の入店はご遠慮願います。」確かに俺は人じゃない。けれど俺の腹は柔らかい、甲羅を脱いだら生きてはいけない。仕方ないので携帯で彼女を呼び出して。ホテルに現れた彼女は、俺を見て閉口一番「なにそれ。あたしを馬鹿にしてんの? そんなじゃ抱けもしない。」言い放ち鑿と鉄鎚を取り出して、俺の甲羅に打ちつける。「生き場がないなら。」彼女は赤い唇を大きくあけて「あたしの中で生きなさい。」剥き出しの俺をぱっくりと飲み込む。こんな生き方もありかなあ、と彼女の中で俺は全身かめになっていく。
おみかの最初の奉公先は瀬戸物問屋。店の六、七人ほどの奉公人達を取り仕切るのは女将だった。
女将は厳しく、日頃から怒鳴る小突くは当たり前、へまをすれば大きな分厚い掌で、容赦なく横っ面を張られた。おみかはその度土間の隅まで跳ね飛ばされ、背中や頭をしたたかに打ち付けた。打ち身は痣になって翌日翌々日まで火照り、おみかはいつもどこかしらの痛みに堪えていた。
夏のある日、おみかは蔵で大きな瓶を見つけた。口が開いてどっしりした形、子供の腕では抱え切れないほどの大きさで、売り物にしては古ぼけている。
何を入れてるんだろ、と思い、手をかけて覗き込んだ。だが中は空で、土の肌の底に暗がりが蟠るばかり。
がっかりしたが、瓶の縁の感触は、手の痣に冷たく優しかった。と、暗がりを覗くうち、思い付いて、おみかはそろそろ頭を突っ込んだ。身を縮め潜り込む。思った通り、背や尻や腿に当たる感触がひいやり心地よかった。大人だって入れそうな広さで、狭苦しくもない。中は静かで、怖い女将のことも、やりかけていた仕事も、みんな遠くへ行ってしまったようだ。もうみんなどうでもいい——
何やってんの、と、声が聞こえた。大きな手に掴まれ、引き上げられる。こんなとこで眠っちゃだめだよ。体が冷えるじゃないか。
声は呆れながらも、笑いを含んでいた。年嵩の女中のお亀だ。驚き怯えるおみかを立たせ、背をそっと叩く。あんたはまた別のをお探し。これはあたしのなんだから。
かめかめと言ったって、こんなかたいものかめやしないよ。
「みんな死んでしまえ!」
と言った途端に彼以外の世界中の人たちの体が破裂する。ひとりぼっちになった彼。酸鼻極まる光景に呆然とする。この非日常的な事件を忘れようと冗談でも考えてみるが、どれもつまらないものばかりしか思い浮かばない。
みんなをこんな目に遭わせておいて、なんも考えていないんだったら、ひっこみがつかないぞ。
白日の、じっとしていても汗が滲む河原で声を掛けられた。彼に会うのは久し振りの事だったので、誰だか解らずに本当に戸惑った。
彼は裸で川に浸かっていた。確かに今日は夏日だが、その振る舞いは彼の慎ましいイメージに反している。しかも案外着やせする質なのだな、とその体にさりげなく目を走らせておもう。
勧められるまま、僕も足を水に浸した。足の裏の熱がさらさらと流れてゆく。マッサージがてら、河原の石で土踏まずも刺激した。
いろんな石で試していたら、そのうちのひとつがみしりと割れた。彼のみじかい悲鳴で、僕はそれが何かを悟った。謝るより早く、彼は僕をなじった。
一体、何を着て帰ればいいんだ。
彼は甲羅のかけらをかき集めながら、あからさまにムッとした顔をする。こんなところに脱ぎ散らかす方も悪いとはおもったが、黙っていたら彼は甲羅を抱えて行ってしまった。
彼の去りしなに、かけらがひとつ転がり落ちた。僕は、その背中を呼びとめようとして気付く。
なんて呼んだらいいんだろう。
ああ、重い。
俺の背に女房こどもが乗っている。
いっそ甲羅ごと捨ててしまいたいけど、人情、そうもいかない。
俺の上に女房、女房の上にガキが乗っかっている様はなかなか可愛いが、ああ、しかし重いな、とも思う。
それから俺はまたのそのそと動き出した。
この前、大型ディスカウントストアで大昔に地球を背負っていた亀が税込みで三百五十円で売られていたのを見ました。
僕は近づいて「どうしてそんなに安いんですか」と聞きました。亀は「最近誰も見てくれないから、つまんなくて売られようと思ったんだよね」といって隣を指差します。
そこには『亀の調理法』という本が置いてありました。でも百科事典みたいに分厚くて、一万五千八百円もしました。とても僕には買えそうにありません。なるほど。だから亀を安くしたのか。
お店から出てきたときには亀はいませんでした。本もありません。
今は西から太陽が昇っています。
うみがめは卵を産むとき、産まれてくる子どものために涙を流すと言われている。
本当のトコロは、エサを取る際に体内に入った海水を眼窩(がんか)から排出しているに過ぎない、
と言うことを、僕は雑学として知ってしまった。
・・・そんなことを何故か思い出しながら僕は今“彼女の上”を泳いでいる。
僕のかめは、もうじき僅かな“白い精”を産み出すことだろう。
そして僕はきっとその瞬間、涙を流すことだろう。
「これは、涙なんかじゃないんだ」と自分に言い聞かせながら。
二〇〇四年春、国民年金問題に噛み付いた議員がいた。
これはいけると思ったのだろうチャンスだったのだ。
確かに、自分が未納だとバレルまは…。
かめ かめ かめ
常に相手に噛み付いていなければ政権は取れない。
未納者に未納三兄弟と馬鹿にし、まだいると豪語した。
かめ かめ かめ
噛んでる自分が噛まれてる。
かめ かめ かめ
かめ かめ かめ
かめ かめ かめ
もっと、噛めと叫ぶ議員にシラケル国民
桜の花が開いただけじゃ
安心出来ない
二回押さないと十分後にまた鳴る
目覚まし時計じゃないが
春の雪はフラッシュバック冬眠
北のかめはお寝坊さん
おかめさんが笑ってるんだ、ほら、能面にあるだろ、ほら。あれがさ、笑ってるんだ。どこで?俺の口の中だ、よく見てくれよ、ほら、どうだ、喉ちんこの下に、大きな顔が、お多福な顔が、見えるだろ。おかめさんだ。
うひっ!
引っかかったな、おまえの顔は、丸呑みだ。
この前、食った、おかめさんは、実に美味かった。その上、俺の食物探しに協力してくれるとは、親切な奴だ。
だが、もうクビだ。
今度は、おまえが俺の喉ちんこの下で、他の奴を食うのを手伝うことになるんだよ。
おまえは美人だから、俺は食いはぐれることなど、無いだろう。
ずるるるるる、ずっ。
え、何?
今、忙しいんだよ。急いでるんだって。用事なら後にしてくれよ。
何、歩道に白い亀がいる?
そんなん、後でイイだろ。
え、コンビニで一休み?
うー、ちょっとだけだぞ。寝過して時間に遅れるみたいなことは、ごめんだぞ。
あ、今週号のマンガ雑誌が出てる。そういや、まだ読んで無かったよな。ちょっと、立ち読みするか。
……。
…………。
え、急いでたんじゃなかったのかって。
おお、そうそう。出発だ、急ぐぞ。
幸い、車は混雑してないな。
え、何?
車道に白い亀がいるって。
宇佐木〜。今、亀なんてどうでもいいだろ。
俺達は亀と競争しているわけじゃないんだ。
日が沈むまでに戻らないと、俺達の身代わりになった親友が殺されるのだぞ。
「私、亀じゃないわ」
どんくさいって意味で言ったのかしら。
私、スポーツ万能だし、スタイルもいいし、顔つきも凛々しくて美人よ。
でも彼ったら、私が亀みたいだから、別れようって。
彼って、大学のゼミでも目立たない、優しいだけの(そこがイイとこなんだけど)地味な子。はっきりいって、私の方が格上よ。
それなのに、何でまた別れようって……。
まったく、分からないわ。
「ほら。そうやってにらむように見つめて何も言わない。まるで殻にこもるみたいにさ。ちょっと気に食わないといつもそう。ボクにとってストレスなんだよ」
びくびくしながらも、彼は言いきった。
私は、何も言い返せない。無言で彼を見つめる。
「ほら、また」
それだけ言って、私の視線から逃げるように背を向けて去っていった。
「殻にこもってるのはどっちよ」って言いたかったけど、言えなかった。
もう一度見つめて欲しいのに、どうすることもできない。
手も足も出なかった。
わたくしは亀である。生粋の亀であるので、生まれた時から亀の姿をしてゐる。或る時わたくしは人間の子供に捕縛され、そして瞬く間に甕のなかに投入されてしまつたのである。亀が甕のなかに居る、なんと面妖なことであらうかとわたくしは思つた。
しかしながらなかゝゝ甕のなかは快適なのであつた。ひえゞゝとした感触が心地良ひのである。わたくしは甲羅のなかに潜つた後、甲羅にこもつた熱と甕の底の冷気の混合を堪能した。しかしそのうちわたくしは空腹を感じた。こうなると出なければいけなひ。しかし甕が直立してゐる現状、それは叶わぬ希望とゐうものである。そこでわたくしは必死になり甕の内側面に体当たりをした。甕は倒れ、わたくしは外に出ることができた。
しかし甲羅に罅が入つてしまつた。完全に甲羅が割れると亀は死ぬ。これは理由を必要としなひ絶対真理である。甲羅のなひ亀は死んでゐるのである。即ち、もうこれ以上同じ真似はできなひとゐうことである。しかし翌日わたくしは再び子供に捕縛されてしまつた。甕もまた再び直立してゐた。わたくしは再び甕に投入されるその刹那、底無しの闇を見、そのなかに入りたひと強烈に願う自分に困惑してゐたのである。
手を。足を。頭を。自分の内に閉じ込めて、誰にも会わず誰にも会わず、うつらうつらと目を閉じて、甘く発酵した夢を啜るだけで生きていけるよう、私をきつく紐で縛って、部屋の隅に転がしておいてください。
ボクは昔から足が遅い。足が遅いという事は運動全般全て駄目だという事だ。
運動音痴? 運動なのに音痴とはこれいかに、だけれど、いわゆるボクはそれ。だからみんなには亀だ亀だと馬鹿にされる。
幼少の頃一度、亀は陸では遅いけれど水中では速いぞと言い返した事がある。でも、ボクは泳げなかった。運痴はなぁにをやってぇもだめっだめっ。酷い屈辱であった。
ボクのアダ名は陸亀になった。
しかし、そんなボクを馬鹿にしていた皆はもういない。
亀は万年生きる。ボクは長生きだったのだ。
でも、昔の思い出を語る者はもういない。一人ぼっちはちょいと寂しい。
冬眠から覚めた亀は手足、尾、首を思いっきり外へ出して伸びをしようとしたがそれが伸びない。ぐっ、ぐっと手足、尾、首に力を入れるのだが何かにつっかえているようで伸びない。かたい甲羅につつまれて考えるにどうも寝ている間にどこか岩場のようなところにはまってしまったらしい。山椒魚ほどじゃないにせよそれなりに悲しくなったのだろうか、亀はへこんだ。へこんだことを周りに知らしめたいのか亀は首、喉、目、口、鼻の順に自らを自らの肉の中にうずめてみる。凸型に突き出る頭を凹型にうずめる営みだ。頭をうずめるうち目が口が鼻が裏返り身体の内側を向き、息はできなくなり、視界は真っ暗になった。ところが完全に甲羅の中に頭が逆さ向きに入ったとき、ふと息苦しさは消え、暗い視界をちらりと見覚えのある花びらが横切り、肌には懐かしい暖かさが感じられて、春が来たようだ。目が覚めて、またひとつ歳をとったことに気付く。
みんなのかめは、にゅうっと長い首を伸ばして起き上がる。ところがぼくのかめときたら、ろくろっ首ではなく戦国武将が入っているものだから、いつまでたってもカタカタいうだけだ。ぼくはろくろっ首が良かったのに、おじいちゃんは「やはり本格的なものが良い」といって、戦国武将にしてしまったのだ。
ぼくは武将の首を捨てに行った。竹やぶに投げ捨てると、武将は「トトミツケタリシヌコ!」と何度も繰り返した。ぼくは空っぽのかめを抱えて逃げた。急に悪いことをしたような気になったが、それと同時にわくわくしながら、首屋へ向かった。ところが首屋のおやじは「本格的なかめにろくろっ首なんか入れられない」といって聞かず、結局ぼくのかめは空っぽのままだった。
何日かして戦国武将を捨てたことが親にばれ、しかたなく竹やぶに戻った。いくら探しても首は見つからなかった。泣きながら竹やぶをさ迷っていると「トトミツケタリシヌコ!」と声がした。見上げると若竹のてっぺんで武将の首が揺れていた。
「かめ、って十回言ってごらん」井上に促されて、松野は指折り数えつつ「かめかめかめかめかめかめかめかめかめかめかめかめかめ」と正確に十回繰り返した。
「じゃあね。夏目漱石、我が輩はホニャララである。さて、ホニャララってなーんだ」と続けて井上が質問してきたが、松野は即座に、猫だろ、って解ってしまった。とは言え、かめに釣られて、カモ、とマルクス兄弟の映画タイトルと勘違いすることを期待されているのにも感づいたし、またどうせだったら裏をかいてネコからひねってタチと答えてやろうか、とも考えた。脳内ではそこまで瞬時に知悉したものの、結局のところ気のちっちゃな松野は思わず「あ、あー。えっと。か、かめ」などとそのまんまを口走ってしまったのだ。「なーに言ってんだよ。答えになってねーじゃん、意味分かんね」と井上に嘲笑された。
悔しさと不甲斐なさが身に染みた松野は祈った。「俺を、もっと気丈な、動じない男にしてください。お願いです、かみさまァ」
すると、「あーい。呼ばれて飛び出るううう」とか言って、中空からドローンと、かめさまが現れた。
「お前がそこで勘違いしてどうする」と呆れた松野だったが、気がちっちゃいもんだからやっぱり口に出しては突っ込めないのだった。
もう忘れたが、どこかの砂浜であった事は間違いない。子供に虐められていた亀を助けたら、案の定、竜宮城へ連れて行かれた。亀の背中にしばらく乗ったまま、ぼけっとしていたら、今にも朽ち果てそうな二階建ての木造アパートの前にいた。亀は階段を上がり、二階の一番奥の部屋の前で四肢を止めた。風で吹き飛ぶんじゃないかと思う位の薄っぺらいドアの横、部屋番号を示す簡素なプレートの下に、相撲部屋のそれと見紛うばかりの堂々たる筆使いで竜宮城と書かれた大きな看板が掲げられていた。亀がドアを開けると四畳一間の畳敷きの空間に乙姫がいた。二人と一匹、首と膝頭を擦り合わせるようにして畳の上に座った。乙姫は俺が亀を助けた事に対して丁重に礼を述べた。もてなす余裕はないが好きなだけいてください、と乙姫が言うので、とりあえず俺はここで暮らす事に決めた。俺は終日、竜宮城を留守にする事の多い乙姫と亀のために炊事、洗濯など家事全般をこなした。しかし、ある日を境に乙姫と亀の姿が忽然と消えた。数日後、いつものように掃除をしていたら押入れの奥に玉手箱らしき物を見つけた。紐を解き、蓋を開けてみると、煙の代わりに滞納家賃請求通告書なるものが出てきた。翌日、俺がたまっていた半年分の家賃の支払いを済ませて竜宮城に戻ると、看板が消えていた。俺は空いた所に薄っぺらい自分の表札を代わりに掛け、また一人で暮らしはじめた。
競作かめを仕掛けたのは自由題の白うさぎ。
かめはかめの中に埋もれて身動きがとれず、
かめのあたまの上をうさぎがぴょんぴょん。
競作うさぎを仕掛けたのは逆選王のかめ。
やってくるうさぎたちをパクパクかめかめ。
血だらけになったのは自由題の赤うさぎ。
クラスにセルマンという渾名のいじめられっこがいた。
彼はいつも殴られ蹴られ全身アザだらけだった。
ある日、晴天を見上げながら下校していると、霧の町の道の先にセルマンがいた。
帰宅も同じ方向なので後をついていくと、セルマンは空手道場に入っていった。
ガラス窓から中を窺う。
道着姿のセルマンが瞬くあいだに蹴りを放つ。
正拳から汗が飛散するたびに時間が止まる。
静から動、動から静。地球のような絶え間ない円運動。
気がつくと、隣にセルマンがいた。
頭上には月が輝いている。結局稽古が終わるまで見入ってしまっていた。
「おまえ空手やってたのか」
「うん、3歳からね」にやりと白い歯を見せるセルマン。
「だったら、なんでイジメられてるんだ?やり返せばいいじゃないか」
「そうだね。これを使えばアイツらを懲らしめられるね」
黒帯をぐいと持ち上げ、そう言った。
強い意志のこもったその目が、街灯に照らされて眩しかった。
翌日、セルマンは黒帯で首を吊った。
もう誰も、彼に手も足も出せない。
甲羅、こんな重いもの要らないと思ってた、ずっと。
ごとり。
捨ててやった。
ほうら、こんなに身も心も軽くなった。兎に角のろい、だなんてもう言わせない。
のそり。
どうだ、前よりも早——前に進んでない。
そうか、こちらが俺だったのか。
世界で一番足の早い亀を捕まえに行ったのだが、追いつけなかった。
落ちている!と思ったら、甲羅だった。
俗に言う「ヌケガメ」のようだ。一部方面では社会問題化しているという。
「トータスとタートルの違いを忘れた子どもたちが!」
なんてご老体がたは言うのだけれど、「ヌケガメ」するようなカメにとって重要なのは、どこで生きたかではなく、どう生きたか。だから、彼らは甲羅を置いていくのだ。
落ちていた、ほんのり苔生す甲羅をちょっぴり砕き、そのカケラを自分の甲羅に貼り付けた。
甲羅が二重になれば、冬眠しなくても済むのかなぁって、実は本気で考えてたりもする。
やっと兎も到着した。 「やっとかめ」 どうやら彼は名古屋出身らしい。
「永遠に続く亀の塔って知ってるかな?」
知らないよ、そんなの。
「アキレウスは亀においつけないって話は?」
それも知らない。
「それじゃぁ、浦島太郎に、兎と亀は知っているでしょう?」
うん、知ってる。
「日本人は科学的な思考を排していながら、おかしなところでは確りと現実を見据えていたんだよ。この事がよくわかる絶好のサンプリング対象が亀だ」
意味わからないよ。
「兎と亀のストーリーを述べなさい」
〜割愛〜 お暇でしたら、どうぞ、この際思い返してみては?
「そうだね、誠に間の抜けた話だ。じゃ、つぎ浦島」
〜割愛〜 ボケ防止に効果てきめん、どうぞ頭の中で浦島太郎の壮大な人生を思い描きください。
「浦島説話の方を説明するとは……まあいいか。兎と亀の場合、どちらも交換可能で、必然性に欠けていよね。浦島の場合は、多少立つ瀬が残っている。勿論、亀のね。君が説明した二つの話と違って、私が例に挙げた二つは亀でなければならない必然的な理由が在るんだ。私が言いたいのは、亀とは古く変わらないもののメタファーとして起用されていたってことさ。じつに興味深い研究テーマだと思わないか」
時間、むだにするよ。
…………
………
……
…
「その意見、いや予知は正しかった。君の退屈そうな様子が手に取るように解るよ」
意味もなくオメデトウだね。
「苦笑した君は勝ち組だ」
年上の彼女の部屋にいる。彼女は薄着でベッドに座っているが、別段誘っているという様子でもない。彼女はひとつ溜息を吐くと、私を見た。その視線は私を囲い込もうとでもするようだった。そして彼女はひとこと、「私を噛んで」とつぶやく。それからすぐ、首を振って、「忘れて」。忘れられるわけがない。
私は彼女の隣に座って、何かをしようと思った。しかしどうしたらいいのかわからない。いきなり彼女を噛んでも仕方ないだろう。そんなふうに逡巡していると彼女は突然私を押し倒した。急展開である。私は彼女の眼を見ることができない。そして彼女は私の首筋に唇を触れさせ、私の耳元で囁くのだ、「噛め」と。身体が、震える。
私は彼女の首筋を噛んだ。強く強く噛んだ。彼女の首筋から血があふれ出て、私の顔を濡らす。私は噛み続けた。私は彼女のことが好きだった。だから噛んだ。彼女が私に頼んだことだったから。
甕を壊しちゃった。
僕は、そう呟いて、家中を走り回った。
どうしよう、ママに叱られる。
と、そこに妖精さん。
僕が、甕になったらいい、と言う。
もちろん僕は、うんと言う。
僕は甕になった。
とそこに、男の子。
僕を持ち上げ、手を滑らせて、落とした。
僕は、薄れゆく意識の中で聞いた。
どうしよう、ママに叱られる。
山羊は溺れ、魚は干乾びる。
適量入れておきなさい。
例えば「亀」と変換すれば、デートの最中ふらりと入ったペットショップで、彼がゾウガメ見た途端になんか琴線に触れちゃったらしく飼いたい飼いたいって大騒ぎしたことを思い出す。貴重な生き物らしくって数十万円するもんだから、お金貯めてプレゼントしようにも遠大な計画になりそうで私は諦めちゃったし、やがて彼自身どうでもよくなっちゃったみたいだったけど。
例えば「甕」と変換すれば、別の変換「蚊め」を伴って記憶が蘇る。私たちが同棲してたアパートで、隣室に住んでる人がベランダにおっきな甕を置いてて、水を張って睡蓮を浮かべてて、それって風流のつもりかも知れなかったけどボウフラの温床になってた。夏場、寄り添いながら寝てるふたり、耳元でぷんぷん飛び回るちっちゃな吸血鬼を潰そうと振り回した私の手が、間違って彼の頭ひっぱたいちゃったりして
「あっあっごめん。もぉお、蚊めぇ」なんて。
そんな夜には結局ふたりとも目が覚めちゃって、特にやることもないもんだから汗水垂らして幾度も抱き合った。例えば「噛め」と変換すれば、彼は、そう、ちょっと変態っぽいのが好きだった。「痛くしてーっ。血が滲んでも気にしないでっ」とかってね。
ほら、どんな文字列をどんなふうに変換したって、いくらだって彼につなげて思い出せるよ。でも、だからどうしたっていうんだろ。なんだっていうんだろ全く。こうしてうっかり思い出に浸ってしまうと、あとからひどくつらくなるのに。私の馬鹿、早くも胸が痛くなってきてるじゃん。
私は暗い中にいる。
体を縮めて、狭い空間に広がる闇に潜らせた。
頭上の穴から少し光が入ってくる。
穴は頭がやっと通るような小さなもので、私はここから出ることができない。
問題はない。
私はここが好きなのだ。
暗い中に身を置くのが好きなのだ。
とても落ち着く。
気が向いたら、頭をのぞかせて外を眺めることもできる。移動するのは面倒だが、その気になれば人と話すことも出来なくなはない。
悪くないじゃないか。
突然ガツンという大きな音がして、軽い衝撃が来た。
音だけが変に反響してやかましい。衝撃が連続して起こり、頭に響く。
何がしたいのか、誰かが外から叩いているらしい。
だけど無理だな。
ここはなかなか頑丈に出来ているんだ。
このうるさい音さえ気にしなければなんて事はないんだ。はは。
ほっといて眠ってしまおう。おやすみ。誰だか知らない人。
大音響の闇の中、私はさらに体を縮めてつるりと壁を指でなぞり目を閉じた。
マコトが、翔太に、亀になれと命じたのは、昨日のことです。
「亀になれよ。」
「えっ。」
「なれよ。」
「なれないよ。」
「なれるよ、なれよ。」
その夜、翔太は亀になりました。
まただ、そう呟いて、男は、翔太亀を掴んで、星を歩いて帰っていきました。
次は、マコトが亀になる番です。
キャラメルが溶けきるまで、ただただ舐め続けた。
まほうつかいが くしをこびとにかえました。くしとは かみをきれいにする くしのことです。くしはべっこうでできていましたから こびともべっこうでできています。きらきらしていてきれいです。まほうつかいは こびとをひとしきりかわいがると ねむってしまいました。
こびとのまほうが とけるじかんになってしまいました。こびとはゆっくり くしにもどっています。まほうつかいがおきてきました。それをみたまほうつかいが ふたたびまほうをかけました。すると くしになりかけていたこびとは そのまままえにたおれました。まほうつかいはねぼけています。こびとはかめになりました。きらきらしていてきれいです。まほうつかいはかめをひとしきりかわいがると ねむってしまいました。
かめはぺたぺたにげました。うみへでて かめはほんとうのかめになりました。ちいさなかめはたべものをたべておおきくなりました。おおきくなるとりょうしにつかまってしまいました。からだはたべられてしまいました。こうらは にられてきれいなべっこうのくしになってうられました。べっこうのくしをかっていったのは まほうつかいです。
右で15回
左で15回
健康のために
数年ぶりに帰郷した、その帰りだった。絵に描いたような田舎道で、絵に描いたようなバス停。1日に4本しかやってこないバスを待って、もう半時間も佇んでいるのだった。都会とは縁がない地だとはいえ、いい加減のどか過ぎると思うことに、直ぐ脇には小川があって、メダカやサワガニ、ミドリガメまでもが目に付いた。
「もしもし、かめよ、かめさんよ——」
ふと、思い出した童謡を口にする。
「はい?」
隣を見ると、いつの間に現れたのか老婆が一人、こちらを向いているのだった。
朝、日の出とともに、水くみ女がかめを満たして入室する。女主人は気怠げに体を起こし、その白い手でかめの水をくみあげ、顔を洗う。透明な水が、腕を伝うにつれ、女主人の肌が溶け出していく。かめのなかにからだをそそぎこみ、女主人の姿は消える。
水くみ女は、女主人が溶け込んだ水で、ふきんを絞る。柱、棚、窓、ベッドの足、すみずみまで拭き終わると、女はかめのなかの水を半分だけ入れかえ、その水で洗濯を始める。シーツを洗い、カーテンを洗う。カーペットを洗い、クッションを洗う。すべてを洗い流すと、もう日が高い。水くみ女は新たにかめに水をはりなおし、ひなたに据え置く。洗い終わった女主人の白いドレスを、かめにひたす。水くみ女は食事を作りに部屋を出る。
日が落ちる。一日の仕事を終えた水くみ女は、あたたまったかめのなかからドレスを引き出す。ドレスのなかから、濡れた女主人の腕が伸び出す。水くみ女は女主人のからだを傷つけないように、やんわりとドレスを抱きとる。水くみ女の腕のなかで、女主人はゆっくりとからだを取り戻す。「来客はあった?」「いいえ、おくさま」。二人の一日は、こうして終わる。
「さやかちゃん。僕ちゃんのかめを可愛がってくれたらTVに出してあげてもいいのだけどなぁ」
私は15歳のテビューしたての新人アイドルだ。
いま某TV局のディレクターにTV出演と引き換えに難題が突きつけられたのだ。
でも、僕ちゃんの『かめ』っていったいナニ?
亀:やっぱり男ってガメラとかそうゆうのが好きなのかなぁ?
瓶:実は怪しい宗教団体の信者で瓶とか壷を崇拝していたりして?
メカ:一昔の業界人らしく逆さ言葉を使っているとか?メカフェチってこと?
ちん○:やっぱり予想最有力。亀頭って言うぐらいだし
私の頭でグルグルと一見関係ない物たちが回りはじめた。
「っで、どうなの可愛がってくれるの?くれないの?」
「全部イヤ!」