500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第36回:引き算


短さは蝶だ。短さは未来だ。

今まで一体何人のオトコに抱かれてきたのだろう。
クサイけど、「一夜の関係」ってのを繰り返ししてきた。
学校から家に帰るのが嫌で、泊まれる場所を探すため。
それにはナンパされて着いて行くのが具合が良かった。
安っぽいラブホテルでオトコに抱かれながら朝まで過ごす。
そこにはお風呂もトイレもある。食事もオトコが奢ってくれる。
洗濯さえコインランドリーで済ませば良い。
学校が終わるとフラフラと渋谷を歩く。
オトコにナンパされて夕食をゲット。ホテル。夜中眠って朝をむかえる。
そしてホテルからそのまま学校へ向かう。
手っ取り早い、虚しき宿泊の仕方。

オトコに抱かれた回数だけはドンドン増えて行った。
・・・・代わりに何か大切なモノがドンドン消えて行くのを感じている。



 おまえは、なんて、馬鹿で、阿呆で、性悪で、白痴で、俗物で、無鉄砲で、世間知らずで、わがままで、生意気で、臆病で、ろくでなしで、馬鹿で、おまえは、馬鹿で、ずるくて、悪趣味で、いい加減で、意地悪で、頑固で、卑怯で、嫌みで、ルーズで、馬鹿で、おまえは、馬鹿で、カバで、出べそで、おまえは、出べそで、馬鹿で、カバで、出べそで、おまえは、おまえは、なんて、おまえは。



 ——ねえ、お父さんどこに行っちゃったの、お母さん。
 ——……差し引かれたのよ。
 ——お父さんはどこなの、答えてよ。……答えてってば……。
 ——差し引かれたのよ。
 ——……じ、じゃあさ、何から引かれたの。教えて、ね、ねえ。
 ——…………。
 ——ねえ……。教えて……。



「辛過ぎるよ、このキムチ」と言ってぼくは、マイナス一味唐辛子を振りかける。



死んだな、死んだな。策にはまって死んだな。算術の先生、お昼過ぎ、床机に向かい、算木を並べ、引き算を繰り返していた、と、その耳にこう囁いてくるものあり。なにか、と思うて、耳を掻いてみると、これは、死の蟲や。
「おぬしが、引き算をやるから、お前の命引いてしもうたわい、これも策どおりじゃ、死んだな、死んだな、策にはまって死んだな。」
と、先生、そのまま寝付いて、死んでもた。



 風にまき返る病院坂の天辺で、私は小さくため息一つ。
 かつて私は世界の王様だった。今は奴卑だ。底辺の奴卑だ。私の領土はこのがりがりに痩せた、短い髪の、ちっぽけな身体だけなので。
 坂の桜並木が綺麗だな。うろこ雲の底辺を茜色の夕陽が染めていて、だからこの街は血の色だ。子供の時、部屋は半径4メートルの私国家で、その外に国家はなかったけれど。世界はずんずん広がっていって、見渡す荒野で一人ぽつねんと、4メートル国家にふんぞり返る私は裸の王様の蛙だった。
 えぐり取られた左の乳房が軽くって、なんだか子供に戻ったみたい。軽く腕を振って含み笑い。幼い頃みたいに、坂を全力で駆け降りて。
 身体が軽いな、やっぱり肉がないからかな。と。思うけどそれは嘘。疲弊した心臓から茶色の血が回っているし、骨の髄は身体中すかすかで、足をつく度ぱきぱきと折れている。片方しかない肺が孤独の響きを上げて、脇腹の術創からじくじく流れ出すコドモノコロノユメ。眼球の毛細血管はパンク寸前。視野が真っ赤で、私の血なのか世界の血なのかわかんない。そうして気付く。あの国家を、失われた領土を取り返しにいく、私は放浪のドン・キホーテだ。
 気付いて、蹴る。最後の跳躍を、蹴って消える領土が一人分。



「はい、先生。先日吉田君のお父さんが今どき小指を半分落として帰ってきました。吉田君のお父さんいわく『五年はくらっていたぜ』といっていました。でも正確には5−0.5で四年半だと思います」
「ちがう。それは引き算じゃなく欠け算だろ。ほかにわかるもの」
「はい、先生。先日めでたくゆみ子ちゃんのお姉さんが出産しました。十四才で二人の子持ちになり+2。しかし赤ちゃんの目がブルーで金髪だったので彼氏の仁さんはいなくなりました。お姉さんいわく『仁の方が黒くて太いけど、ケインの白く細長い方がたくさん私を愛してくれたから』でした。だから2+2−1=お姉さんの欲求不満だとおもいます。
「ちがう、それは鶴亀算だ。いいか先生本当の引き算をおしえてやる」
先生は上半身裸になり正座をして腹に小刀をそえた。
「私はアフガンで苦しむ子供達の援助金為とはいえ、その金は公的資金を着用したものだ。よってここにけじめをつける。グローバルハート−良心の呵責=大和魂じゃ−///」
先生は臆する事なく小刀で腹をひいた。だがその見事な散り際に生徒誰一人ひく事はなかった。



弥之助は、自分を含めて六人の家族を養っていました。
ある年、飢饉のために家族全員が食べていくことが難しくなったので、
老いた婆さんを一人山に捨ててきました。
婆さんは何も言わずに弥之助と別れ、山奥へ消えていきました。
一人減って、残りは五人。
みんなの食べられる量が少しだけ増えます。
飢饉は長引き、それでも食べ物が足りなくなったので、子どもを一人、口減らしのために殺しました。
また一人減って、残りは四人。
病気でもう一人減って、残りは三人。
ようやく残りの家族がなんとか生き伸びました。
こんなことならはじめの子どもを殺すのではなかった、と弥之助は思いました。
生き残った三人はそれなりに幸せに暮らしました。
やがて一人娘が他家に嫁ぎ、残りは二人。
年をとって、妻が死に、最後に弥之助が一人残されました。
この家からいなくなっていった家族を思いながら、弥之助は息を引き取り、小さな家にはもう誰もいません。



 そんなに難しいことではない。まずは右腕から引いてみる。ごとり、と音がして、落ちる。わたしはそれを上から眺めている。そんなに難しいことではない。次に左足を引いてみる。先ほどより少し重い。けれども、大丈夫、そんなに難しいことではない。ごとり。落ちる。そして切断部から覗き込んで探す。右からも。左からも。あなたはどこ?
 鼠蹊部から入り込んで、内臓を探る。ずるずると引きずり出す。これは少し難しい。圧力が強くて汗が出そうだ。でも大丈夫。ぞろり。抜ける。ついでに脊髄近くから血管を握り込んで引っぱってみる。あちらこちらでぷちぷちとちぎれる音。やはり全部を引き出すのは難しいらしい。でも細かいことは気にしない。ずるり。抜ける。あなたはどこ?
 両耳を引きちぎり、脳髄へと入り込む。発火するニューロンのあいだをかいくぐり、脳室のなかでたゆたいながら、どうしたものかと考える。
 だってどこにもあなたはいないみたいなので。わたしは哀しくなって、少し眠る。
 ばらばらになったあなたの欠片を拾い集めて抱きしめる。でもそれを全部足してもやはりあなたにはならない。あなたは、どこ?



 ぼくにはどうしても覚えられないことがある。例えば道端に咲いている花の名前、クラスの中で一番隅に座っている女の子の顔、バルト三国の位置、昨日最終回だったドラマの結末、母親に学校の帰りにスーパーで大安売りの洗剤を買いにいってくれって言われたこと。
 覚えられない場所に広がる光景はどうしても色なんかついてなくて、真っ白くて暗い。奥行きも幅もなくて、あ、ここにいるって思った時、急に不安になってすぐに元に戻る。
 もし糸のようなものが僕の目の前に伸びてきて、それを掴んでひっぱり寄せれば覚えていられるのかもしれない。忘れないんじゃなくて、覚えていられるってことが大切なんだ。
 僕は君の名前を忘れても悲しくないけど、覚えていられないのはとっても悲しい。
 でもそんなことはできやしない。きっと昨日も覚えていられなくて、今日も覚えていられない。明日もきっとそうなんだ、さよならの公式。



あれもいらない、これもいらない。
ムダむだムダムダ仏・・・・チーン。

いらない、いらない

ひきさんや、妥協だけが我が人生よ

たしさんも、そんなに苦労を背負うなよ

控え折ろうなんちゃって



A、B、二人の幽霊が居ます。
(−)A+(−)B=は?



世界の始まりには、すべてがあった。



世界はもうずっと前から終末に向かっていた。
いつからか何も生まれることがなくなり、ひとつひとつ、一人一人が、姿を消して、ゆっくりと数を減らしていった。
減ることだけが定められた世界は、零に向かって緩慢に進んでいた。
もはや友人も肉親も消え、昨日、飼っていた猫が突然目の前で消えた。
間もなく私も消えるのだろう。
終末の世界は想像していたよりずっと静かで、何もなかった。
目の前でまた、椅子が消えた。
電柱が消え、車が消え、雲が消え、最後に残った石ころが一つ消え、

それから宇宙は収縮し、後には何も残らないが、そのとき別の宇宙がどこかで生まれ、あなたが生まれたことを、あなたは知るよしもない。



 因果的な算法あるいは数式にすぎない彼らだが、まるで人間の如く一人勝ちの成功を夢見ている。大仰な物語にうまいこと乗っかって、ビッグな名声を得たいと願っているのだ。
 昔から割り算には最もチャンスがあるといえた。土地を割ればそれだけで大袈裟な物語が作動しはじめ、人間たちは憎しみ合って派手な殺し合いを開始する。生まれ育ちもルックスもいいお坊ちゃまお嬢ちゃま、というのにも似た先天的な優位性がここにはある。
 現在では、足し算や掛け算も優位にいる。煽ってそそのかし、一致団結させて膨れあがらせる、それこそ彼らの得意手なのだ。ビジネスが絡めば最も強い。巨大なベクトルを作り出すことはさしたる難問じゃない。過剰や飽和は人間たちの憧れだ、ねずみ算じみた、レミングのような。
 しかし引き算はスランプの渦中にいる。ヒトラー以降、彼のやりかたはスマートではないと見なされるようになってしまった。確かに現在でも彼は頑張っている。が、やはりどうにも分が悪い。彼が物語を作動させようと奮闘していると、加・乗・除といった連中がしゃしゃり出てきて、おいしいところを掻っ攫っていく。引き算としては我慢ならない、どうにも憤懣やるかたないから、家族のひとりを引いてみる、カップルから片割れを引いてみる、など小規模の物語を手すさび程度に回しては、ただただ自分を慰めている。



そのとき彼女は驚いて持っている花瓶に込めていた力を思わず緩めてしまった。1秒。重力に引き寄せられ花瓶は床に向かって落ちていく。0,86秒。床はニスの効いたフローリングで、花瓶が落ちれば音を立てて砕け散るのは明白だ。0,73秒。彼女の脊髄は危険から目を覆うために手を顔へ向けようと腕の神経に命令を反射的に下したが、(0,62秒)彼女の脳はその腕を、その脊髄を止めて考えた(0,57秒)。もしこの一秒がどこまでも分けられるものだったら(0,43秒)そこからコマ切れにした時間をずっと引いていけば永遠にこの一秒は過ぎさらないのじゃないかしら(0,36秒)。つまりそれは無限の時間で(0,29秒)、その中で落ちていく花瓶は床に永遠にぶつからないのじゃないか



名月をとってくれろと泣く子が
母親の手を離れて、満月に向けて跳んでいく。
子どもの黒い影。満月に重なったかと
思うと、ペッタリと貼りつき
満月は次第に色を失い
半月に三日月にと減じていった。
あの子は…
母親はあの子の産まれる前に戻っていく。

満月の夜
砂浜に
SUKI 
と書かれた文字が
消えていくのを見届けた。



重ねる。何度も何度も、その操作をくりかえす。かれの底を見届けたくて、あれを引き、これを引く。昨日した映画の約束を引き、ほろ酔いかげんで振るった熱弁を引き、はじめて一緒に見た星空を、それを映していた瞳を、引く。
見透かしたように、かれは言う。でもね、きみとぼくとは等号でむすばれているんだよ。左辺からある数を引けば、右辺からも同じ数が引かれる。等式が等式のままでいるには、しかたないね。
とっくにゼロを下回っているのに、引かれても引かれても、かれは変わらぬ穏やかな笑みをたたえてそこにいる。またかれが言う。虚数なんだよ。実数をいくら引いても、iの値は変わらない。それが変わらないぼくなんだ。
ふ、とかれの気配が甘く香った。わたしは見えない座標軸を思い描く。目減りしていくわたしの意識のその底に、まだかれは現れない。



 この街では大人と認められる為に一つの儀式を行う必要がある。
 大人になろうとしている者から身体を差し引くのだ。そこに精神があれば彼/彼女は大人になれる。しかし無いと、彼/彼女はそのままで放置されるのだ。これは恥辱である。自分に精神が無いことを多くの人間に知られてしまうのだから。僕もう大人になれるくらいの歳なのだが、怖くて儀式を行うことができない。ずっとからかわれているのだが怖いのだから仕方が無い。自分の中に精神があるのか無いのか、僕は未だに知らない。



ホームに着くや否や扉が閉まり電車が去っていった。
見送りながら「あぁ〜、また。」思わず呟いた。
タイミングがずれて間に合わなかった事が幾度あっただろうか。
ほんの一瞬の差。その一瞬で全てが狂っていく気がする。
今日は最後に彼と会う日。
ナチュラルメイクが好きな彼なのについつい念入りにお化粧してしまった。
「アイシャドー濃すぎるかしら?」
指でぼかしながら、何が悪かったのだろうとまた考えてしまう。
私は彼が大好きだった。あんなに彼に尽くして彼の全てを許してきたのに。
思えば私は何でもいつも全力投球してきた。
仕事も友人も相手のためにと言いたくない事も言ったりしたのに全て空回りしている気がする。
私の何が悪かったのだろう。さっぱり分からないわ。



60進法、60進法、はては24進法で流れる“大いなる渦”の果てに、
おぼろげに僕の未来の姿が見える。
一歩踏み出すごとに、一歩虚無が近づく。それは「前進するかに見えつつ・・・後退する」という
見事なまでのパラドックスの体現にほかならない。
見上げれば、三番目の月が驚くべき勢いで西から東へと。
そして僕は顎(あぎと)を引き、再び地平線に向かって歩みを進めた。



 俺さまが出来る唯一の計算は引き算だ。人生だってなくすものはあっても得るもんなんて何もない。引き算で十分だ。そんな俺さまが色んなものをなくすためにたき火をしていたら、剥がれた夜がべろん低いところまで垂れてきて、引火しちまった。まいったね。一瞬にして燃え上がった夜空。地上へと吹き付けてくるごうごうという風が熱いったらありゃしねえ。しばらく見てたら、天蓋を覆っていた薄い膜がすべて燃え尽きちまった。あとには罅の入った夜空が素肌を曝してやがる。そうか引き算かと膝を打って俺さまは高層ビルにあがったのさ。大きく息を吸い込んで、夜空を思いっきり殴りつければ、大量のすすが街にわっさわっさと降りしきる。天を仰げば見たこともねえ満天の星空だ。ほれ、引き算だって役に立つじゃねえか。



 君を失った後も、世界は変わらずに動いている。周りの皆は心配したが、僕もあたりまえの日常を送っている。
 きちんと食事を摂り、夜は深く眠り、日々の仕事をこなしている。時には友人達と一緒に、愉しく過ごすこともある。
 君を識る前に戻れたという訳じゃない。君の占めていた位置と重みは、綺麗に欠けたままであるけれど。
 それでも結構、生きてはいけるものだ。誰もが年を経るうちに、なにがしかの欠落を抱えることになるんだろう。ある人は失ったことさえ忘れてしまい、ある人は痛みを覚えつつも目を逸らす。
 僕はそのどちらでもないが。抱きしめる君がいなくなってからは、欠け失げた君の、虚ろの形をなぞっている。それだって、君の残したものだから。
 未練たらしい? でもそんな在りようも、この世の中にはありふれた算術なんだと思うよ。
 だから何も心配は要らない。きっとね。



これで最後のひとり/恋をするたび/ページをめくると
[ケガレが]
[指先で操る]
[止められない]
[心臓を貫き]
[物語の終わり]
[やがて快感となり]
[増えるけれど]
[痛みは]
あなたが消えた。



 働く。コピーを取ってラベルを作って集計表を作成する。
 働く。受付に出てFAX送ってファイル整理をする。
 まだまだ働く。電話当番をして小口現金を扱って郵便物を配り回る。
 まだまだ働く。備品の発注をして勤怠の管理をして提出する書式で分からないところを相手先に問い合わせる。
 いっぱい働く。伝票の入力をして会議資料を作成して保険の手続きを行なう。
 とっても働く。社宅の管理をして健康診断の手続きをして株主総会の準備をする。

 給料日。税金がっぽり取られる。
 サボりたくなる。



あなたを殺していいですか?
あなたの存在がわたしをいつも悩ませる。
あなたに近づきたいと、近づけないわたしはもがき苦しむの。
あなたさえいなければ。
あなたさえいなければわたしは穏やかに暮らせるはず。

だからお願い。あなたに消えて欲しいの。
理想とするわたしの、あなた。



 新学期、前の席に見たことのある人が座っているなあと思ったら、祖母だった。セーラー服にきっちりとふたつに分けた三つ編。とうとうあたしと同い年になったらしい。
 誕生日がくるごとに祖母が年を減らし始めたのは十五年ほど前。あたしが生まれてすぐぐらいだ。はじめは一歳ずつだったのに、そのうち一年で三歳、五歳といっきに減らすようになり、ついに高校二年生になった。
 確かに十六歳の外見をしているが、祖母はどこか『昔の人』っぽかった。それはちょっとした動作や話し方のせいかもしれない。でも、意外とクラスになじんでいた。祖母の時代劇好きも、「たえちゃんおもしろい」と受け入れられている。
「おばあちゃん。いつまで年を減らすの?」
 あたしが聞くと、そろそろやめようかねえとの返事。視線の先にはひとりの男の子。
 祖母のスカートが、少しずつ短くなっていく。



昔のこと、太陽からひとつ減らした。
太陽はそこになかった。
月からひとつ減らした。
月はそこになかった。
宇宙からひとつ減らした。
宇宙は消えた。
けれども、宇宙の名前はそのまま。
なぜなら、宇宙に外側はないから。
人々は、そんな方法で、永遠の命を得たそうだ。



 鼻の穴から脳にストローをねじ込んで、僕が僕でなくなるまで飲み続ける。



歴史から歴史上の人物を引いて、後世への影響をみてみる。
ジャワーハルラールを引いてみると、インド数学の発達が著しく阻害され、東洋科学の土壌じたいが衰弱してしまう。その結果、後継者シッダルタは相対性理論の構想に到達せず、着想は色即是空という哲学に衣替えする。東洋科学の空隙は中近東に発する宗教によって埋められ、科学の進歩は十数世紀にわたって沈滞する。普遍的な哲学を志向する仏法の知は、「仏教」として、割拠する宗教の一潮流に堕してしまう。世界史の比重は西方に大きくシフトする。
一人の人物の不在が、歴史の枠組みを根底的に変えてしまった。
おもしろいので、次はこの新しい世界史のなかで急激に台頭したイエス=キリストという人物を引いてみることにする。



 総務部長の高橋は、岸村社長より、人員削減の相談を受けた。
 来年度経費をどうしても三千万ほど浮かせたいということだ。
「何人だ」岸村に訊かれた高橋は、五人でしょう、と答えた。
 高橋は自分のデスクに戻ると、眉間にしわを寄せ、考え始めた。
 田中か佐藤か、それとも鈴木か。いやいや、五人なのだ。やつら三人は確定としても、それでもまだ足りん。そうだ、この際、中村順子もリストにいれよう。なんせ新人時代に手をつけたはいいが、三十過ぎても居座って、ときおり自分を睨む瞳の色に不穏なものがある。それで、四人か。後は石田でいいだろう。高給取りだし、人はいいが、営業成績はさっぱりだ。
 一気に人選ができ、高橋はひとりほくそえんだ。
 午後の茶が運ばれてきた。満足そうにゆっくりと茶を飲む。
 とっ、となりの島で、営業部長の加持が喉元をかきむしって、椅子から転げ落ちるのが見えた。
 急病かと思った瞬間、自分の胸がとてつもなく苦しくなった。
 高橋は、自分も椅子から転げ落ちるとき、自らがリストアップした五人がほくそえんだように思えた。
 引き算くらい、誰でもできる。



 小一の頃から1-1が0になることを認めなかったケンジは、哲学者をやっている。存在がどうのこうのと難しく考える日々らしい。
 階差数列で転け、高二で文系にドロップアウトしたヨータは、実家の農業をついでいる。米は必ずヨータから買うのだけれど、なかなか美味い。
 繰り下がりが出てくる度に、必死で両手を使っていたカナコは税理士になった。「計算なんて機械がやってくれるから」と、照れてたっけ。
 ボクはボクで、ベクトルの引き算ができなかったからこんな想い出を並べてる。
 数学が得意だった君は、今なにをしていますか?



零を超えても、いつ果てるとも知らぬ負の地獄。
今、数字はマイナス74888739872。
しかし博士はふと閃く。それからまた思案。
机の上にメモが一つ。
—2−(−3)=1
そう書いてある。



昔は引き算なんかしてはお天道様に申し訳ないなんてことをよく言ったものだが、今どきの子らは一向に気に掛けないらしく、街を歩きながらあるいは電車の中などで平気で引き算をしている。まったく嘆かわしいことだと思っていたのだが、ふと気が付くとそういう私自身、天満宮でお参りをしながら引き算しているではないか。どうしたことだろう、寄る年波という奴だろうか。びくつきながら辺りを見回すと、手水鉢で柄杓を片手に引き算している、同じ年格好のご婦人がいたので尋ねてみた。いま引き算をしてらっしゃいましたね。やはり、ふとしたことで自然に出てしまうのでしょうかねえ。するとご婦人が言うには、いえ、これは昔からのならわしで。引き算をしないとどうも一日、何かが喉に引っ掛かったような気がしましてねえ。お宅様はいかがですか。いかがですか、と言われても、さあ、ご破算で願いましては、と無かったことにする以外、思い付く筈もない。いや申し訳ない、かといってここで引く訳にもいきませんので、ええ。怪訝な顔をするご婦人に軽く会釈をして立ち去りながら、私は引き算したばかりの左手を上着のポケットにそっと突っ込んだ。



 一人の男が列車に轢かれて死んだ。
 後には零人の男が残った。



「逆さまクッキングの時間がやってまいりました。講師は料理研究家のサカモト先生です。センセ、よろしくお願いします。」
『お願いします。』
「早速ですが今日のお料理は・・・。」
『今日はさばの味噌煮を新鮮な生さばに戻していきます。』
「はい。まず何をすればいいですか?」
『まずは味噌を取り除きます。』
「味噌煮ですからね。・・・はい、取りました。」
『では次に生姜を取ります。』
「これは臭み消しに入れたものですね。・・・取りました。あ、さば独特の臭みが戻ってきましたねーセンセ。」
『そうですね。さばは特に臭いの強い魚ですからね。生姜を取ったらいよいよさばを取り出します。身が崩れないように気をつけましょう。』
「難しいですねーこれ。・・・はい、取りました。これは少し冷ました方がいいですよね、センセ。」
『そうです。で、完全に冷めましたら二枚に開いたさばを一つにくっつけて下さい。頭は内臓を全部戻した後に付けてくださいね。』
「はい。・・・内臓の向きが難しいですね。これでいいのかな。何とか出来ました。」
『上手に出来ましたね。あとはウロコを付けて完成です』
「うわぁーすごい!ピチピチしてますよ。新鮮なさばですねーセンセ!」



ああ今夜はこんなに月の明るい晩なのに俺は死にもしないで飲んだくれている。
きっと今頃花の下は死に場所求める人の群れがぞろぞろ歩いているだろう。
誰れも彼れもうっとりと酔ったような顔をしてそぞろに歩いているだろう。
花の根元に吸い込まれ人が霞んでいなくなる。ひとりひとりと減っていく。
それでも人は気づかずに天を仰いでぽっかりと丸い口あけ歩くだろう。
降りみ降らずみ花びらとうすむらさきの月光を喉の奥へと注ぐだろう。
月すら消える夜明けには虚ろがそこにあるばかり。
残りは赤い薄闇と酒に溺れた俺ばかり。



 この国の旅人の数は、城壁の脇に立つひとりの男が知っている。
 門を出た旅人たちは男の肉を丁寧に切り取る。
 骨があまりにも白く輝いているので、みな眼をやられて、それでも肉を切り取る。
 盲目が、男のもとから次々と旅立つ。
 男は夜ごと軽くなりながら、旅人を見送る。
 この国の旅人の数は、男の体重から、はじき出される。



素肌の綺麗な女性とすれ違った。どこかで会ったことのあるような…。
女性が振り向き追いかけてくる。僕を呼ぶ。
彼女の素顔を初めて見た。



次に一人にひとつ不定項が与えられます。人生で得た経験のぶん、その不定項から減算してゆくのです。
答えがゼロになるそのとき、その一瞬だけ不定項が明らかになります。いっこの人生をあらわす数字が。
全員ぶんの計算が終わると、人類の不定項が判明します。
人類の計算が終わると、次に取り掛かります。
実現した経験の全体を、経験の可能性の全体から引くと、解はゼロになるのでしょうか。
手間のかかる宿題だなあ。
夏休みが終わるまであと二億五千万年ちょっとしかないよう。



 パソコンのディスプレイ上で、おかあさんぐまが、こぐまに言いました。
「いい?、坊や。2ひく2は、0なの」。
「分かったあ。2ひく2は、0っ」、こぐまが繰り返しました。

 でも、少ししてから、こぐまは、にわかにおかあさんぐまにたずねたのでした。
「おかあさん、2から2をひくと0なのは分かったの。でもね、ひかれた2は、いったいどこに消えちゃったの?」。ひどくおびえた顔つきでした。「もしかして怖いとこなの?。ねえ、怖いとこ?」。
「ばかねえ」、おかあさんぐまは、思わず吹き出してしまいました。「だいじょうぶ、怖いとこじゃないのよ。2はね、ただほんのちょっとのあいだ見えなくなっただけ」、そう話して聞かせると、こぐまをやさしく抱きしめました。こぐまはおびえていたことも忘れて、うっすらとほほえむと、たちまち眠りにおちていきました。
 まあるくなった二匹のくまは、くろい毛糸のかたまりみたいに見えるのでした。

 プログラムの終了と同時に、電子的な1と0がどこまでも並んだ計算式の中へと霧散してゆくのです。



 三引く二はゼロです。何故なら、二を失った三は残った自分の不完全さに絶望して消えてしまうからです。



あなたが現れて、プラス1。
いま去っていく、マイナス1。
けれどあなたが私から消えない。
いなくなっても、初恋の人。



我が名はマイナス。輪廻の剣神。あらゆる数の怠惰な関係を絶望的な戦いの場に導き、和を切り崩し破壊せしめる創造者。線一本で偶像化せらるる我は刃物なり。絶望的にまで切れ味のよい、あきれかえるほどに鋭利な刃物なり。我を手にせる数は憎悪に駆られ前に立つ数の背後よりその心臓めがけて我を突き刺す。突き刺されし者はもとの形をとどめぬほどに変わり果て、突き刺したる者も我があまりに禍々しき力からその姿を完全に消失しつくし、ただ二人の粉々になりし肉体と血が互いに浸透しあうのみ。入り組んだ肉塊は次第にある数字の形をとり始め、新しい魂を得て新しい数となり蘇る。生まれ変わりし数は再び我を手に取り、新たな戦いの中にその身をおく。幾度も幾度も戦い続け、来る日も来る日もその姿を消し、何度も何度も生まれ変わる。さあ刺せ、引き裂け。我が名の下に、減法という名の戦争の中で。いずれ差のない世が、零の時代が訪れ、完全にその姿を消すことのできようその日まで。天高く我を振りかざし無へ還らんがために戦え、数の亡者よ。



10人のインディアンの子ども。
彼らはきちんと引き算ができる。