500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第40回:二人だけの秘密


短さは蝶だ。短さは未来だ。

「君が大量破壊兵器を隠し持っている、ということにしよう」
「また俺が悪者か」
「その点はすまないと思っている。しかし世界的に見て既に君のひょ」
「わかっている。ちょっと言ってみただけだ」
「本当にすまない」
「謝る必要などない。俺が求めるのは富のみなのだから」
「安心してくれ。決して損はさせない。もちろん身の安全も保証する」
「名声はお前ものだ」
「ありがとう」
「我々の利害は見事に一致している。お前は最高のパートナーだよ」
「世界は私たちのためにある」
「神さえも我らの前にひざまずく」
「アッハッハッハッハ」
「イッヒッヒッヒッヒ」



ヨハン・グルト・ヴィットゲンシュタイン博士は、朝起きて一番初めにする髪の手入れをしているとき、そのブラシに多くの抜け毛がついているのを見て溜息をついた。博士の長くて真っ直ぐな髪は若いときからなによりも自慢のものであった。
私も年を取ったものだ。きょうが十年に一度のあの日であるというのに。博士は首を何度も振りながらもクローゼットに向かい余所行きの背広に着替え始めた。

アスク・ナゼア・マンスフィールド女史は、朝起きて一番初めにする歯磨きをしているとき、不意に涙が零れ落ちてきた。女史の白くて輝く歯は、若いときからチャームポイントのナンバーワンだったのだ。それがいくら磨いても、もうその黄ばみが落ちない。
私も歳をとったものだわ。きょうが十年に一度のあの日だというのに。女史は涙を拭くとお気に入りのワンピースに着替え、襟元に思い出の淡い紫のスカーフを巻いた。

細い野道を博士は歩いた。遥か向こうからこちらに向う影がある。
女史は野道を歩いた。遥か向こうからあの人の近づいてくる影がある。
きょうこそ違う何かが起こるだろうか。二人の胸には、同じ思いが詰まっていた。



いつも其処にいくときは、早朝だ。新聞配達の中学生もまだこないうち。裏山の山道を梢を掻き分けて登っていく。其処を見つけたのは三ヶ月前。古い神社の跡取の僕は、毎朝の辛い祝詞の稽古のあと、気分を変えるためにこの場所にやってきた。サボタージュというやつだ。神社裏には注連縄を張った細い山道がある。300年前から結界を張って出入り禁止になってる。言い伝えでは妖怪の世界に繋がっているんだと。爺ちゃんからは絶対入るな、入ると神隠しに遭うぞ、と脅かされていた。いまどき誰がそんなこと信じるかってんだ。
バールでかんぬきをこじ開けた祠の奥には古井戸があった。其処を覗いたら何が見えたと思う?あいつ(彼?彼女?オスでもメスでもないかもしれないな)は僕と同じように向こうからこちらを覗いていたんだよ。理由なんて何にも無かったけど、僕には何故か分かった。そいつも学校サボった悪ガキだってこと。紫の空に赤い雲。首らしい場所から三本の触手の様な眼柄が突き出ているそいつは、初めて目と目が合ったとき、お互いに吃驚したんだ。何故か分かっちゃったんだな。お互い吃驚してたまげたこと。昔の人は妖怪だと思い込んだんだろうけどね。今だって宇宙人見たなんていってもべたな冗談みたいに思われるだけだけど。・・・お互いの本や写真を毎日の様に見せ合うことが続いてだなあ・・・文字が何を表すか位は何とか分かってきたんだな。今度、僕の大好きな彼女の写真を見せる約束をしてるんだよ。男女とか彼女とかあいつなりに理解したらしい。あいつは大事な****の写真を見せてくれるんだって、眼柄をくねらせてた。あいつが照れるときは必ずくねらせるんだ。三ヶ月もすれば分かってくるよ。そう、あいつは僕のまぶだちなんだから。
友達と二人だけの秘密・・・・・・



 ねえ、あなたはもうご存知? ……うふふ。じゃあ、あなたにだけ教えてあげる。二人だけの秘密よ。絶対、内緒にしてね。
 みやびに飾られた縁の中に映る襖の隙間から、足を崩して座る和服姿の姉が二重まぶたの瞳で鏡台を覗き込み、優しく人差し指で触れながら話し込んでいるのが見える。
(……姉上)
 弟は、密かに懸想する実の姉の奇癖に愕然とした。
 見てはならないものを見てしまった気がして、心がきゅんと絞めつけられられたが、何となく甘いしびれも走る。
 相変わらず話を弾ませている姉から目をそらすことができないまま、それでも気付かれないよう、後ろ手でそっと襖を閉めた。これ以上覗いてはいけない気分になったからだ。
(絶対、内緒にしておかなくちゃ。二人だけの秘密にしておかなくちゃ……)
 もう一方の手に持ったみやびなものを二重まぶたの瞳で覗き込んで一つ肯くと、静かにその場を後にして襖に人指し指の穴が開いた自分の部屋に戻っていった。
 そして、今度は姉が立つ。鏡台には、艶色に満ちた笑みを浮かべるもう一人の彼女が映っていた。
 血は、争えない。



Pは知っている。“休め”をすれば、Rになることを。
Rは当然それを知っている。しんどい時、Pに代りを頼むから。
知らなかったのは他の24人とあなた。
秘密を見破る魔法の言葉を教えましょう。
SECRET
「気をつけ!」
SECPET



 森のなかで出会ったのは熊じゃなくて、だれのものかわかんねー耳。人間のものだなってことがわかる程度であとヒントなし。解かれることをなんっちゃ望んでないその問題にあたしはちょいむかついたが、まぁいいやって開き直る。
 そいつはきれいなかたちしてて、ピアスの穴なんってもんもない。健全な耳。てか片耳しかない時点で健全でもなんでもねーんだけど、それはそう、なんとなく。
 あたしはその耳をポッケに入れて歩きだす。軽い罪悪感。でも、んなことはものの数歩もテクテクすれば忘れるってもんで、家に着いたときには罪悪→好奇心に変わってた。
 部屋にこもって耳を調べてみるが、やっぱわかんねーもんはわかんねーなって思う。これは性別どっちの耳だ? やわらかいし、なめらかだし、なんかやらしー。この耳の主は死んでんのか? って思ったんで試しに吹きかけてみた、あたしの貴重な二酸化炭素。
 そんとき耳がぶるぶるって震えてあたしめちゃ感動した、生きてる! この耳生きてるよ! って叫びたかったけど、その気持ちひと息に飲みこむ。 あぶない、もうすこしで階下にいる家族に気づかれるとこだった。やべぇ、やべぇ。
 でもなんでこのこと隠す必要がある? ってふと疑問。あたし、なんも悪いことしてねーし。森を歩いてたら片耳と出会いました、ふしぎな出会いでしたってだけなのに。
 ちくしょう、なんもかんもわかんねー!!
 とりあえずあれだ、黙ってたよう。なんてまた軽い罪悪感。罪深き多い少女って複雑だねーって、聞いてんのかどうかわかんない耳にのんきにも語りかけ、ごめんねしばらくおねんねしててってことで、あたしは耳を引きだしのなかに入れる。



中学生の頃、あなたと私は恥ずかしくて、誰にも知られないように恋人同士になった。それでも二人で買い物に行ったり、花火を見たり、ちょこんと手を繋いで歩いたり、公園でわたしの作ったお弁当を食べたりしたのだけど誰にもバレなくて、しあわせだったはずの私たちはちょっとしたことでケンカをしてから少しずつギクシャクしてしまって、付き合いはじめて半年で、やっぱり誰にも知られないで、年を越さないまま別れた。それからあなたも私もなぜか二人のことは話さないで、私たちの思い出はずっと秘密のまま。今度中学にあがる娘を眺めながら、私は一人でそんなことを思い出していた。



助けて、と君は縋りついてきた。怖い奴が捕まえに来るの。もうそこまで来てる。
君が怯えるので、僕は君と地下室に降りた。どんな奴がどうして来るのか全然わからなかったが、とにかく力になりたくて。
僕の家の地下は石の土台に厚いコンクリの壁。中は狭い部屋と通路に区切られ、重い鉄の扉で閉ざされている。元は倉庫だったが、長らく使われていない。
ここに隠れてれば大丈夫。誰も入って来られないよ。僕がそう請け合っても、君は安心しなかった。だめ、通路は通れるし扉は開くわ。あいつが通れないようにしないと、あたし捕まっちゃう。
君が泣くから、僕は通路にがらくたを積んで封じ、扉には鍵を掛けた。
でも、もう大丈夫、と言っても、閉じられた部屋でまだ君は泣いた。だめ、積み上げられるなら退けられる。扉だって鍵があれば開いちゃう。
僕は鍵を古井戸に捨て、物置からセメントを持ち出すと、扉を丹念に塗り込めた。どこが扉だったかわからないくらいに。
今度こそ大丈夫、もう誰も入れないよ。僕が言うと、壁の向こうから啜り泣きが遠く聞こえた。ほんとに? ほんとに大丈夫? あなた見張っててくれる? あいつを追い払ってくれる?
うん、必ず。
そう答えてから僕は、ずっとここで暮らしてる。余所の人達に聞かれても、理由は教えない。怖い奴に知られてはいけないから。
もう長いこと泣き声も聞こえないが、僕はずっと君を守る。君がここに居ることは、二人だけの秘密。



 わたしたちは暗号で交換日記を書いている。ふつうの文と文との隙間にさりげなく「愛してる」とか「好き」とか「あなたなしではいられない」と書く。それを見つけて、またその横に「あたしもよ」「あなたがいないとさみしい」などと書き込んでいく。そしてさらにそれを見つける。わたしたちがあんまり楽しそうなので、交換日記に参加したいというクラスメートが現れた。わたしたちは彼女を仲間に入れる。けれども彼女には暗号を教えない。わたしたちは交換日記を続ける。「愛してる」「あたしも」「あなたとこうやっているとたまらない気分になる」「触れあいたい」「してもいい?」
 ある日、彼女が、落書きは消しといたから、と言って、わたしたちの暗号日記を全部消した日記を返してくる。残ったのはどこにでもあるふつうの交換日記。授業の感想。先生の悪口。昨日見たテレビのこと。
 わたしたちはさらに暗号を難しくする。彼女に見やぶられないように奥深く。「愛してる」「あたしも」「あたしたち以外の人は要らない」「いっそのこと」「いっそのこと」。わたしたちは今日も交換日記を続ける。



 いつまでも夢の中に沈んでいるのは、現実のあなたに申し訳なく思ったりもするのだけれど、目を瞑った暗闇の中にあなたがいる限り、私は決して目を覚まさない。
 あなたと暗闇の中を泳ぐと、並んでいるだけで頬が赤くなり、私は無駄だと知りながらも髪で頬を隠してみる。けれどあなたはやっぱりちゃんと顔を覗き込んでから、頬を撫でて、首筋から肩、腕、手首、指先へと長い指を滑らせる。
 向き合い、抱き合い、絡み合い、繋いだ手からあなたと私が重なる、腕からあなたが私の中に入り込む、四本の足が二本になる。侵食、融合、瞳までが溶け合い、ふたりが完全にひとつに混ざって、私はあなたが見えなくなる……あ……私の内側であなたが弾け、思わず瞼が開いてしまう。そこには現実のあなたがいて微笑んでいる。「おはよう」
 挨拶を返して身体を起こすと、シーツが汗で湿っている。私は名残惜しさから片目を瞑って半分だけ暗闇の中に潜ってみると、あなたは人差し指を唇に当てて悪戯そうな笑みを浮かべていた。現実のあなたも片目を瞑っているから、私も人差し指とキスをした。



とかなんとか言いながらこんなところで語っちゃってー、ホラホラ



 扉を開けると、彼女がやさしく出迎えてくれる。にこにこしながら、「待ってたよ」と声をかける彼女に、僕は言葉以上の意味を勝手に汲み取って、出かかった返事を飲み込んでしまう。
「世界には君と私だけしかいないね」と彼女は言うが、もちろんそれは間違いで、世界には60億の人々がひしめきあっているし、僕はそれを知っている。でも僕は「そうだね」と彼女に話をあわせる。彼女にとって世界とはこの白い部屋のことだし、彼女にしてみれば、ここの外に60億もの人がいるなんてことのほうが嘘なのだ。
 そうやって彼女と一緒にいるうちに、僕は、実は彼女の言っていることのほうが本当で、人間なんて僕と彼女の二人だけなんじゃないかと思う。思いたくなる。誰もいない、静かなこの白い世界の中で、ずっと彼女の横に座っていたいと願う。
 でもそんなことはできない。別れの時はしっかりと訪れる。彼女はここから出られないし、僕はここを去って、60億の人々がいる世界へと戻らなければならない。
 しかし外に出ようとして、僕は彼女が正しいことを知る。この部屋に出口はない。世界ははじめから二人だけだったし、これからも二人だけなのだと気づく。



 年代物だという理由で黒い森に移築された灯台と元・灯台守りの俺は、テキスト片手に始めた気象観測のデータを中央に売って生活している。
 『嵐が過ぎたら二人だけで会って下さい』
 その日の深更。雲一つない夜空と僅かに満ち淀む月の光が晴晴と眩しい。俺は右掌を宙に掲げて月の光を遮る。小影。町から歩いてくる人影。きっと、待たされ人の彼女だ。あれ違うかな。良かった、彼女だ。
 赤い眼をした彼女は眉尻をまるで威嚇する魔猫の尻尾のように、ピンと立てていた。「この、人でなしメ。私だけにしか許してないと言ってたのにダワサ!」と罵る彼女を強く抱きしめる。「ごめん」
 「嘘つき」「嘘つき」「嘘つき」「キスし。」
 深いくちづけを侵す。と。
 彼女の口唇から睫毛ほどの小さな銀針がザラザラと俺の中に流れこむ。刹那、血の味にたじろぎつつも受け入れ、俺は黙ってゴクゴクと銀針を飲み込む。千本なんてあっという間だ。そんな間しかこうしていられない事なんて、ないだろ。夜空を、仰け反って、月を見上げた。
 そろそろだ、俺は。密かにママから貰っていた銀難除けのお守りを握りしめる。
 計測器を月が満ちる以前から見守っていた。乱雑な波線だった人狼曲線が、蒼白い記録紙上にひとつのおおきな弧を描き出す。



 わたしは秘密を握り潰す。利き手に包んで、思いっきり。爪が掌に食い込むから痛みが走って、力んで震えるこぶしから血が筋を引いてしたたり落ちる。
 そうして秘密は、傷口から体内へともぐり込んで広がっていく。血流に乗って、胸の鼓動に押されて。わたしの全身が秘密一色に染まる。さらには、木の根が大地から水分を吸いあげる様子、その逆回転みたいな感じで、足の裏から秘密が大地に流れ出して、土中に果てなく拡散していく。
 この世界に秘密が染み渡っていく。
 まもなく、地球上のあらゆるものが、わたしの秘密を含み持つようになるに違いない。
 だから聞いて。どこにでもある。秘密はあらゆるところに偏在します。だけど、それは未だにわたしの、それからきっとあなたの、二人だけのもの。
 波間に放ったビン詰め手紙みたいな感じ。わたしは、秘密があなたに届くまで待つことにしよう。いずれ必ず、凸と凹が完璧に合致して鍵がカチャリと開くように、秘密の受容体を持ったただ一人のあなたが反応してくれると信じます。
 おそれずに吸収して。わたしと共有して。そして、知ってしまったことに死ぬまで取り憑かれて。



カッちゃんとぼくは二人で博物館に行ったのだけど、「さわらないでください」って書いてあった恐竜の骨にぼくはついつい触ってしまって、そしたらなんか変な音がして骨がぷらんてなって、どうしようって横を見たらあわててカッちゃんがそれを直そうとしたんだけどやっぱりだめで、結局骨が一本ゴトンて落ちちゃって、立て続けに尻尾の方がガラガラ崩れた。近くに人はいなかったんだけど、「げ。」って、一瞬顔を見合わせてから、カッちゃんとぼくは走って博物館を逃げ出した。
ぜーぜー言いながら
「きょうりゅうのほね、こわしちゃったね。」ってぼくが言ったら、カッちゃんは
「どうせホンモノじゃないからいいんだよ。」
「え?そうなの?」
「そうなんだよ。それに、おれたちがやったなんてわからないだろうし。だれにもいうなよ。」
「いわないよ。ばれたらやだもん。」
走ったから二人とも汗をかいていて、それからカッちゃんとぼくは、なんだかめちゃくちゃ青い空の下で、「あちーあちー」て言って、恐竜の骨のことなんか忘れたみたいに、夏休みの宿題とかどこに遊びに行くかとかの話をして、さっき買ったアイスを食べながら並んで歩いた。



「予定日は来月よねえ。」
「はい。来月の20日です。」
「楽しみねえ。」

隣のおばさんはちょっとおせっかいだがいい人で
身重の妻は特によくなついている。
既に身寄りのない僕達にとって
彼女はまさに近くの他人という間柄だ。

いまどき
このご時世に
いとこ同士の結婚を両親は強く反対した。

筆頭だった僕の両親が事故で亡くなり
悲しむ間もなく彼女の母も
持病でほどなく他界した。

彼女の父親は既に鬼籍の人で
もともと他の親戚との付き合いなどなかった僕達は
二人きりでひっそりと結婚した。


もう誰も、知る者もない。
全て秘密。二人だけの。



オードブルはサーモンのマリネだった。ベビーリーフのサラダが
その上に乗り、ハーブが散らしてある。
老紳士は、はーと言いながら皿を見回し、ありがとうございます、と
一礼をした。向かいの令嬢は、微笑ましそうに紳士を見たあと、
わたしに笑顔を向けた。
親子だな。漂う雰囲気がよく似ている。
紳士は少し猫背。先に届けたビールを、時折おいしそうに飲んで
いる。

スープはオマールエビだ。色白そばかすの、令嬢の口許が美しい。
飲み終わる頃になると、ふたりの間にさみしげな空気が漂う。
紳士は肩を落とし、令嬢は口をつぐんだ。

メインディッシュは、ふたり揃って平目のポアレ。白ワインソースの
魅力的な香りが拡がる。
紳士はまた感嘆のまなざしを皿に向け、ありがとうございます、と
頭を下げた。
いえいえとんでもございません。
心の中で、ちょっとちぐはぐなせりふをつぶやきながら、わたしも、
負けないくらい頭をさげた。
場は再び和む。令嬢に微笑みがもどり、紳士の話し声が少し大きく
なった。

デザートは洋梨のタルトにガトーショコラ、そしてカシスのシャーベット。
カプチーノの泡も今日は上出来。食事の最後を楽しんでもらえたかな。

ほどなくしてふたりは席を立つ。店を出る間際、紳士は令嬢に向か
って、お母さんをよろしくね、と言った。
ふたりは別々の車で帰った。



「ぐみの実落ちる陽だまりの午後」
「ぱらつく雨に煙った夕べ」
「蝶番がはずれたままうち捨てられた扉を潜り」
「丁子の香たゆたう廊下。その先に見えるものは」
「紅蓮の池を渡る一艘の舟」
「巴里の夕暮れの」
「群青色の調」
「牌」
「π」
「パイプオルガンが震えた礼拝堂。後列で眺めた天使」
「パズルは解けない。もう何年も凍ったままで」
「ぐずぐずしてると置いていくよ」
「ちょっと待ってってば」
 青い星影を縫って無辺階段で追いかけっこする子等。ルールは二人だけの秘密。



「いろいろ考えたんだ」と彼は言った。「そしてある結論に至った」緊張しているようだった。「試させてもらえないだろうか」
「いや」彼がわたしの手首をつかむ。「何をするの、やめて」わたしは抗う。「恥ずかしい」
「恥ずかしい? どういうこと?」
 上手く説明できない。「誰かに見られているみたいで」
「誰も見ていないよ」
「でも」わたしは目を激しく動かす。「視線を感じるの」
「気のせいさ」彼は改めて両腕に力を込め、わたしを押し倒す。「ここにいるのは僕たちだけなのだから」
 彼が覆い被さってくる。土はしっとり湿っている。草が首筋や脇腹をくすぐる。顔のすぐそばに花が咲いている。赤い、小さな花。黒い蝶が蜜を吸っている。ひどく秘密めいた行為に思える。わたしたちを見ていたのは花? それとも蝶? ううん、違う。もっとずっと強い意志があったもの。彼の肩越しに見る空は眩しい。わたしは目を細める。あ。自然と声が漏れる。あ。雲が次第に形を変えて。ああ。雲の切れ間に見た。あ。れは。
 神様!
 汗を浮かべ息を荒らげるアダムの背を、太陽が照らす。



 蝶々さんの言うとおりでした。
 あなたが去ってから、みつきたち、むつきたち、年が巡ってようやくわたしにもわかったのです。あなたは決して帰ってはこない。露の向こうに消えたまま、ふたたびわたしを抱くことはないのだと。
 すぐ戻る、とあなたは言いました。でも、すぐとは一体どのくらいなのでしょう。とおか、ひとつき、それとも十年? もしもわたしが樹であったなら、十年も瞬きの間なのでしょうか。けれどもわたしは花、咲いて散るだけのみそらです。永久には待てないのです。
 ひみつの約束はするものではないよ、と蝶々さんは言いました。もちろん蝶々さんはあの時から知っていたに違いありません。あなた、でもわたしはひみつにしておきたかった。あなたとわたしの恋、いえ、わたしのあなたへのはかない恋を、だれにも知られたくなかったのです。
 わたしの時は尽きようとしています。悲しくはありません、ただ、あなたがわたしを忘れてしまったこと、わたしが忘れられる花でしかなかったことがはがゆいのです。
 それゆえにわたしは綴ります。あなたがわたしにしたこと、してくれなかったことを、せめてもの命のあかしとして綴らずにはいられないのです。



 どちらが傷つくのか分からない。どちらも傷つくかもしれない。今日のために用意したナイフを隠して。明日に続かせるための痕跡を残すために。
 乾いた土がサクサク鳴る。用水路の水面に蛙が飛び込み波紋が広がる。少年は手を伸ばす。少女は払いのける。ざらざらの上を歩く。さらさらの道を行く。少年は少女と混ざりたいと思っている。少女は少年を殺したいと思っている。
 少年は立ち止まる。少女は立ち止まらない。少女は蔑む。少年は追いかける。少女は逃げる。少年は捕まえる。少女はもがく。少年は倒す。
 少女の唇を奪う。少女の鼻汁を吸う。少年の目には少女は少年だった。少年の目には少年は少年だった。少年は叫びながら暴れる。少年は言い訳しながらコマを進める。少年は何も言わず台を叩く。
 ざらざらの道を行く。さらさらの上を歩く。少年は少年と混ざろうとしている。少年は少年を殺そうとしている。ポケットに手を伸ばす。ポケットをまさぐる。濡れた体がサクリと切れる。力尽きた手が落ちて波紋が広がる。
 どちらが傷ついたのか分からない。どちらも傷ついたのかもしれない。今日は蝶のように飛び去っていく。明日は切り裂かれた痛みではじまる。



空気が動かない。金魚鉢の底に閉じこめられたような息苦しさ
を感じながら、わたしは目を覚ました。
横になったまま、雑然とした室内を見回す。

いた。まだいた。あの金色の巻き毛。
背すじを伸ばした後ろ姿が、白いカーテンに向いている。
小さなスツールに腰をおろし、何時間もそのままの格好をして
いたかのように、じっとして動かない。
巻き毛の上に、タバコの煙が漂う。ブルーグレイの、きれいな
色だ。
わたしは、その煙が、層になってゆっくり天井にのぼっていくの
を、見るとはなしに見ていた。
タバコの灰が長くなるたび、白い腕が、まるで重力がないみた
いに、透明な色ガラスに伸びる。

彼女はタバコを吸わない。タバコの匂いが好きなのだと言って
いた。だから毎日、十本のセーラムを燃やすのだと。
不思議な人。
日本的な顔立ちに、派手な金髪に染めた巻き毛はへんだ。
それでも、化粧をしないことが、魅力に思えるくらいの美しさが
ある。
昨夜の雨宿りで出会い、結局一晩話し通した。何の垣根も持た
ない彼女に、わたしの垣根も消えた。

巻き毛がゆさりと大きく揺れ、彼女が振り向く。
またね。そんなふうに軽く微笑むと、籐のバッグをつかみ、部屋
を出ようとしている。
もう会えないな。わたしは思った。



 目の奥に青さが染みる大空で、トンビたちが喉を鳴らして泳いでいる。
 葦の生い茂る沿道。娘は紺色のワンピースの裾を摘まみ風と遊んでいる。二人きりの貴重な一日。一番のお気に入りを着て会いに来てくれたことが無量に嬉しい。俺は額に汗をにじませてハンディカムを回し続ける。
 娘が学校で習ったトンビの歌を晴やかに口ずさむと、彼らは優雅なリズムで連なり、空へ続く階段に変わった。娘は喜び、白いミュールを脱ぎ捨てて素足で階段を翔け上がる。俺もカメラを構えて後を追う。
 柔らかそうな天使の足が右へ左へホップステップ。くすぐったげなトンビの羽が左へ右へメロウクッション。通りすがりの大観覧車、カプセルの中へドロップイン。誘われるような天使の手のひら、真昼の立影、クイックジャンプ。観覧車はゆらりと回り、娘の一つ隣に着地。急いでカメラを構え直す。
 娘は俺の方に手を振ると、バレッタを髪から外した。知らぬ間に伸びた髪が華やかに舞い上がる。バレッタは空にそっと投げられた。一羽のトンビがそれを咥えて娘の前に舞い戻る。恭しく翼を畳むその彼を、娘はカプセルの中に迎え入れ、
 パスン
と扉を閉めた。
 観覧車は地面に着くまで回り続ける。



 何、お前、なんで、俺が美幸を好きなことを知ってるんだ。なんだと、余計なこと言うなよ。ぶっ殺されたいのか。いいか、このことは、誰にも言うな。言ったら、お前、死ぬぜ。何時間も苦しんで、目から鼻から口から、真っ赤な血を噴き出しながら、悶絶して死ぬことになるぜ。知ってるだろ、俺の呪いは、抜群に効くんだぞ。
 だから、いいか。俺が美幸を好きだってことは、黙っとけ。二人だけの秘密だぞ。そうか、分ったか。よし、もう行っていいぞ。絶対に誰にも言うなよ。呪いをかけたぞ。
 ……ふう。あの野郎、これだけ脅しときゃ、大丈夫だろ。しかし、なんだな。美幸ちゃんかわいいよな。余計な邪魔者が入らないうちに、告白しちゃおうかな。そうだ、善は急げ。明日、告白しよう。うん、そうだ、それがいい。

 翌日、美幸の悲鳴が校舎中に響いた。彼女に告白してきた男が突然、目から鼻から口から真っ赤な血を噴き出しながら悶絶を始めたのだ。



「あ。」
横で煎茶を飲んでいた婆さんが急に声をあげたので
「おう、どうしたぃ?」
爺さんが尋ねると、
「立った立った茶柱立った。」
と婆さんは嬉しそうにはしゃいだ。
「そりゃあいいこったけど、お前それを俺に言っちゃあ御利益がないじゃねえか」
爺さんは呆れたようで、しかし、少し楽しそうで。
「いいんですよ。夫婦なんだから。御利益御利益なむなむなむ…」
「なにわけのわかんないこと言ってやがんでぇ。」
爺さんと婆さんの間に茶柱の立った湯呑みが一つ、縁側の二人はしばらくそのまま、そうやって時間は過ぎていく。



「聞いた?聞いた?聞いた?アイツ、アレでアレしてついにアレされたって」
「マジ?あの黄色いアレでしょ?ヤヴァくない?アレをアレしたらアレでソレじゃん。ヤヴェヤベェ」
「そう。そう。そう。だからさ、アイツとかアイツも警戒しちゃって。でも、アレよりは全然アレだって。人生変わるらしいよ」
「なに?もしかしてお前やっちゃったの?アレ」
「違う。違う。違う。アイツらからきいたの」
「へぇ〜、やっぱアレなんだ。アレげだもんなぁ〜。アレとか絡んでるし」
「でしょ。でしょ。でしょ。だってアレだもの」
「アレで思い出したけど、そういや俺アレ買っちゃった」
「アレって、前から欲しい言ってたアレ?うっそ〜!で、で、で、どうなのアレって」
「持ってるだけで満足?みたいな。やっぱイイよ。アレ」
「うわっ。なに?その優越感、ムカつく。ムカつく。超ムカつく」
「でもホラ、アレって他のアレと違ってやっぱアレじゃん。すっとねぇ」
「そういや、こないだアレの時アレしなかったよね」
「なに?その唐突な・・・すんごいヤな予感すんだけど」
「ウフフ、アレがないの」



 弟の臍からにゅうっと白い花が咲いた。弟はお風呂に入るのが好きじゃなくて、臍のごまもそれはすごいものだろうとは思っていたけれど、まさか花が咲くとは思わなかった。お父さんとお母さんは大騒ぎだったけれど、弟は、
「これは何の花だろうねえ、お兄ちゃん」
 と云うだけだったし、僕も、臍から花が咲いたらますますお風呂に入るのが大変だろうくらいにしか思わなかった。弟が腹を出して歩けばたちまち蝶々が寄ってくる。
 お母さんは発狂寸前で、偉いお医者様を捜し出して手術することになった。手術は大成功、弟は以前の姿に戻ってしまった。
 その夜お父さんとお母さんはビールで乾杯をし、僕らもその横でジュースで乾杯の真似事をした。
「本当によかったわね」
 と、お母さんはとても嬉しそうだった。僕らはうなずき合いながらジュースを飲んだ。
 本当は臍の花がなくなってしまったことを残念がっていることや、乾杯しているジュースが「臍の花の蜜ジュース」であることは黙っておいた。



 小説家に、漫画家にも例があるから誰も不審を抱かない。ぼくと君が二人で一人だということに。一緒に二人の名を共有していることに。ひとびとは勝手に想像をめぐらせている。二人はとても円満なのだ、とか、実は冷えきっている、とか、口もきかないらしい、とか。
 ひとびとはほんとうのことを知らない。知る必要もない。
 ぼくは今でも君のことを想っている。傍に君を感じている。だから。僕には思い出せない。いつから君はいないのか。君がほんとうにいたのかどうかも。
 ぼくはずっと君を想っている。君はぼくの傍にいる。ぼくの傍に、ほとんどぼくの裡に。ほんとうのことになど興味はない。これからも、ぼくは二人で生きてゆく。



一緒に地軸の端っこ持って、
10センチほど動かしたね。



食事中もずっと手をつないでいるわたしたち。
 本当は、十本の指がこんがらがって、ほどけなくなっただけというのは、はずかしいからナイショなのです。



千鳥足でその中年男は僕の前を歩いていた。黒メガネによれた帽子。擦り切れたジーンズ。ゴム草履。ふらふらきょときょと挙動不審なことこのうえない。ふいに男は辺りを見回した。僕に気づき一瞬ハッとしたが、すぐににんまりと笑った。男は懐から扇子を取出し自分を煽ぐ。風がさらさらと男の身体を崩し始めた。足元から風に乗って男が壊れていく。やがて男は笑いながら僕に片目をつぶってみせると、扇子と酒の匂いを残して消えてしまった。



 秘密、とはペットのようなもの、この五十年のうちにすっかり我々になついて、決してそばを離れようとはしない。ペット、それでも他人様にはずいぶんな珍種と見えるらしく、興味津々で手なづけようとする御仁もいたにはいたが、なぁに、私たち夫婦が持ち得た秘密といったら、年月の積み重ねにより脳味噌に刻み込まれた互いの匂いや体の皺、悪い癖やら些か恥ずかしい嗜好、ツキに恵まれない時期に見せた精神の乱調とか、その程度にすぎず、他人様が盛り上がれるようなものはない。
 寧ろ、二人に残された時間ももうあとわずか、いつ終わるとも知れぬ今、こうして双子の思考みたいに同調してしまっている感覚、意識の流れ、言葉たちが、片方が消えた瞬間にどう変容してしまうのかという恐れ、薄くなるのか、虫食い穴が開いてあちこち飛ぶのか、スパリと切断されたように虚ろな半身だけが残るのか、どのみち耐えられそうになく、片方が消えると同時にもう一方も笑顔で後を追うことになるだろうという確信、これは私たちにとって秘密ではなく口に出して確認する必要すらない思いだが、しかし他人様にはおおよそ話せぬことであり、つまりはこいつが最も珍しいペットかも知れなかった。



2人→4人→8人→16人→32人→64人→128人→256人→512人→1024人→2048人→4096人→8192人→16384人→32768人→65536人→131072人→262144人→524288人→1048576人→2097152人→4194304人→8388608人→16777216人→33554432人→67108864人→134217728人→268435456人→536870912人→1073741824人→2147483648人→4294967296人→



ワタシと貴男とでひっそりと、いつまでも続けた交換日記

僕とキミだけのタイムカプセルを埋めたあの庭

キミが見張りを、僕が万引きをしたあの店

ワタシが追い立て、貴男の見つけた古井戸に落ちて行ったあの仔犬の悲鳴

僕とキミとが水着もないまま、生まれた時の姿で泳いだあの満月の夜の湖

そして、

“僕”と“ワタシ”が同一人格であること。



ベッドで二人、まるくなって、ゆっくりと、世界の外へ。



月曜日、カズエとおれは誰にも告げずに千葉の海で泳いだ。火曜日、ニコとおれはみんなに内緒で花火を見に行った。水曜日、ミシェルとおれは二人だけで新宿に飲みに出た。木曜日、フォウとおれは原宿の町を手を繋いで歩き回った。金曜日、コーリャとおれは人気のない道で強く抱き合った。土曜日、ロゼッタとおれは夕暮れの川原で軽く口吻した。日曜日、今日、ナナとおれは激しくお互いを求めた。カズエとおれは明日遊園地に遊びに行く予定で、明後日はまたチヒロと会うのだが何をするかまだ決めていない。 どの女も、おれとは秘密で付き合っている。



「これは二人だけの秘密。他の誰にも話してはなるまいよ。
 話したら、その命、貰い受けに来ると心しておくがいい。」

「そう言って雪女は去って行ったんだ。」
若者は妻に言った。

すると妻はとたんに表情を変え、こう呟いた。
「とうとう約束を違えたね。」
その表情は恐ろしくも悲しそうだった。
隣の部屋では、坊がすやすやと寝息をたてている。

「約束を違えたら、その命、貰い受けると告げた。忘れちゃあおるまい。」
雪女に姿を変えた妻の声は、あまりに切なく響く。


「ほうらみろ。」と若者。
「はっ?」
「そうだと思っておったのさ。だいたい『お雪』なんてぇこてこてな名前、
 気付くなという方が無理ってぇもんだろうがよ。」
「はあ・・・」と雪女。
「な?だから、おらぁ約束を違えちゃあいめえ。これは、『二人だけの秘密』、だ。
 他の誰にも話しちゃあいねえよ。」

そう言って、若者はにやりと笑った。



彼は唇をよせてそっと口止めした。
うん、だれにも言わないよ。絶対に。



 一人暮らしを始めたコウが記念にパーティを開こうと云ったのは、夏休み初日のことだった。みんながはしゃぐ中、私は一人そんなのいいよと意地を張り、どうしてきっと愉しいよ、というコウの笑顔に結局反論するすべを失ってしまった。
 部屋には引っ越しのあとのごたごたがそのまま残っていて、裸足の足裏は歩くたびに埃を踏みつけてちりちりとした。コウが案内する前から、めいめい裸の炬燵を囲んで騒ぎ出す。
 隣においでよ。スナック菓子を抱えて黙りこくったままの私に声をかけてくれたのは、やっぱりコウだった。
 9と9、13はここ。
 裸の炬燵に並べられたトランプと、それらをめくってゆくコウの陽に灼けた手。私はむっつりと黙りこくってスナック菓子をつまみながら、その手の動きを追っていた。
 凄いやコウ君。記憶力抜群。
 褒められるたびコウは調子づいて身を乗り出し、身を乗り出すたび私のむっつりは増してゆく。
 ハートのAは角のここ……。
 ふいに、コウの膝と私の膝が触れ合った。思わず脚を引っ込めかけ、結局とどめる。膝頭は暑熱にのぼせて熱かったけれど、コウは素知らぬ顔をしていた。
 めくったトランプはスペードの7だった。



 都内の銀行でOLをやっている私は精神的な理由で休職中であった。今日はいつもより目覚めの遅い朝をむかえ、オレンジジュース片手に日課のメールチェックをした。メールが1通きていた。
『Dear成美』この書き出しは親友の智花だ。『あの男殺しておいたから』
 私の寝ぼけた脳は一瞬にして覚醒した。慌ててテーブルのリモコンをつかみTVをつけた。
【昨夜未明、都内マンション駐車場で銀行員の……】
 背筋も凍るような寒気が走り、再びメールを読みはじめた。
『成美にあんな軽薄な男は似合わないよ。あの男は殺されて当然だ。それに成美には私がいるじゃない……』
 私は殺された男と近々結婚の予定で、いわゆるマリッジブルーというやつで智花に相談していたのだ。
 私と智花がどうやって知り合ったのかは忘れたが、小学生の頃からの友達で互いに秘密を共有しあう仲だった。当時から智花のやりすぎるとこに頭を悩ますことがあったが、まさか人を殺すなんて。
 とりあえず私は智花にメールをうたなければならなかった。これが今彼女と連絡が取れる唯一の手段だった。私もいつもの書き出しでメールをつづりはじめた。
『Dear成美 あの男を殺したって嘘じゃなかったでしょ?』



テレビでみんなが君を探してる。
僕が君を食べたことは、内緒だよ。



昨夜も、悪癖に導かれて双眼鏡を覗いていたのです、我がベランダから(略)向かいの高層マンション、その一室から、いつものように明かりが(略)会社勤めをしているらしい、若い独身女性(略)七階という高さに油断してしまっているのでしょう、彼女はカーテンも閉めず(略)何か月もの間、毎夜毎夜、彼女の生活を覗き見るうちに僕はだんだん(略)あの男の姿を、はじめて彼女の部屋に認めたのはいつだったでしょう(略)僕の胸は激しく(略)汗ばむ手で欄干を握りしめ(略)しかし、昨夜は少し様子が違って見え(略)口論しているようにも(略)彼女の頬に涙の筋が(略)不意に花瓶を掴むと、おもむろに彼女は男の頭に(略)動かなくなった男を引き摺って(略)僕は慌てて部屋を飛び出し、駐車場へ向かいました(略)彼女は、赤いクーペの後部座席に、必死に男を押し込もうとしているところで(略)僕は言いました「(略)彼女は(略)そして僕は正義のヒーローになって、悪と戦い地球を守って(略)「危ない!」と彼女(略)ティラノサウルスの攻撃を避けながら(略)数百億の光が(略)抱き締めて(略)口づけて(略)「いつまでも元気で」(略)僕はきっと忘れない(完)



あの一瞬、光の速度を超えたから、きっと誰も知らない。



 わたしたちは上手くやっていたのです。わたしと彼と彼女は、とても上手くいっていました。恋愛関係はありません。恋なんて、他人同士がするもの。わたしたちの親密さはそのような感情を必要とせず、これまでは隠し事さえありませんでした。そう、これまでは。
 彼と彼女が二人だけの秘密を持っていたことを、わたしは知ってしまいました。わたしたちの仲でそれは不可能なはず。いったい、どのようにしたのでしょう? いいえ、そういう問題ではありません。方法や内容など、どうだって構わないのです。わたしを除け者にした、それが許せない。
 だから、わたしは決意しました。二人を殺してしまおう、と。もちろん、わたしだけのうのうと暮らせるとは思っていません。わたしも命を絶つ覚悟です。非力なわたしが人を、しかも二人も、殺すのは困難だとお考えでしょうか。ご心配には及びません。彼と彼女はどこへも逃げることができないのです。だって、彼らはわたしの心の中に住んでいるのですから。



 ……愛を試したなんてつもりは、まったく無かったのに。
 そうつぶやいた男の右肩には、携帯型の回転射出式ハリセン煩悩マスドライバーが担がれていた。
 足元にはハリセンと、みずみずしくも艶やかな唇をわななかせているかのようにわずかに開いた、むせるような色香をたたえている女性が着衣を乱して気絶し、身を横たえている。
 男は何をするでもなく、ただ両肩を落としては、失意に打たれるがまま身動きもせずに女性を見続けていた。
 嘘に約束でこたえた誠実な男はそれきり、何もしゃべらなかった。
 二人の間に何があったのか、誰も知らない。



 七年前のあの日の流れ星は、夜空に蒼い軌跡を残した。
 星が消えてしまった辺りから僕はしばらく視線が外せなかった。そこに大切な言葉が隠されているかのように思えた。けれども大切な言葉は、いくら探してみても、ついに見つからなかった。
 僕は、すぐ横に座る遼子に視線を向けた。二人の目と目が合った。遼子も僕とほとんど同じ動作をしていたようで、それがお互いわかったものだから、僕たちはどちらからともなく微笑みあった。微笑みは絡まりあい絡まりあい、星空に昇って溶け込んだ。
 まだ春浅い海辺の丘は、冷たい潮風を僕たちのところまで届け続けていた。
 その次の日、僕は東京の大学に進学するために故郷を後にした。遼子は地元の短大に進むことになっていたから、僕たちはその日を境に離れ離れになった。
 七年なんて、あっと言う間だった。大学を出て、仕事にも慣れた。今、故郷に向う列車に揺られながら、遼子は流れ星からの大切な言葉をあの日みつけていたのだろうかと考えた。僕のポケットの中に忍ばせたこの小箱は遼子にどのように映るのだろうか。
 小箱には流星をあしらったブルーダイヤの指輪が秘密の言葉を詰め込んでそのときを待っている。



 それは恋。
 あたしはあなたを知っている。あなたが毎日辿る道と、毎日見ている風景を知っている。その風景の中にあたしが映っていることを知っている。
 あなたは毎日あたしを抱いている。あなたは瞳の中で、あたしの服を剥ぎ取り、素肌の上に指を滑らせている。誰も口付けたことのない唇を味わい、誰も触れたことのない場所を探っている。あなたの瞳の中で、あたしは淫らに身体を開いている。
 あなたはあたしを知っている。あたしがあなたを見ていることを知っている。あたしの瞳の中に、あなた自身の欲望が膨れ上がるのを見ている。あたしの奥に燃え揺れる想いを弄んでいる。
 通り過ぎるあなたが、あたしに言っている。お前を犯していると。
 犯して欲しいと、あたしは言っている。吹きすさぶ風の中で荒々しく、身を斬る氷よりも冷たく。
 飛び去る風景のただ一点だけ、一瞬だけがあたしとあなたを繋いでいる。名前も知らない、住んでいる土地すら知らない、ただ電車からあなたがあたしを見るほんのひとときが、あたしたちのすべて。
 あたしたちは恋をしている。



ふと見上げた月が、大丈夫だよって囁いてくれる。
だから僕は生きていけるんだ。