インド土産の象の神様は、彼の部屋で埃をかぶっている。
うっすらと鈍く光沢を持つそれを、私は「ちょうだい」と、ねだった。
彼は「いいよ」と、いとも簡単に私に差し出した。
彼に片思いだったあの頃、私は彼のインド滞在中の物語を、笑いながら聞いていたっけ。
彼の冒険は終わったみたい。
あの頃は、この象も毎日ピカピカだったのに。
絵を描くのが好きで、スケッチブックを持ってよく外に出かけた。
ある日、道ばたで拾った象を家に持って帰ったら、母さんに「もとの場所に戻してきなさい。」と言われた。
がんばったけど、やっぱり無理だった。
母さんには勝てないもの。
隠すには大きすぎるし。
誰かともだちがもらってくれるんじゃないかと思いついて象を連れていったら、ともだちは喜んだけど、おばさんたちは喜ばなかった。
象を連れてもとの場所に行くと、それを見ていた人に、「動物を捨てちゃだめよ。」と叱られた。
どうしていいかわからなくて、わたしたちは止まった。
象によりかかったら、持っていたスケッチブックを落とした。
ぱおおん、と象がないた。
そしたら象が分裂して、小さな象がたくさんできて、
ぱおん。ぱおおん。
絵本に出てくるみたいな水色の象たちは歌いながら列をつくって、ひとつずつスケッチブックに飛びこんで、たくさんの水色の象の絵になって、わたしは急いでそれを家に持って帰った。
母さんにはもう何も言われなかった。
それからわたしはたまに、母さんにばれないように、スケッチブックから象を出していっしょに遊んでいる。
リーン。
ガチャ。
「あの、犬の死骸は燃えるゴミですか?」
「は?」
「犬の死骸は燃えるゴミの日ですよね?」
「犬の、死骸ですか」
「そうですよ、犬の死骸です」
……。
「あのですね、犬の死骸は、市では回収してないんです」
「はい?」
「犬の死骸は、回収してないんです」
「じゃあ、猫の死骸は」
「は?」
「猫の死骸は、燃えるゴミの日でいいですよね?」
カチン。
「……猫の死骸は、肉と皮とに分別してください」
「え?」
「肉はよく血を抜き取ってから、燃えるゴミの日に」
「……」
「皮は三味線になりますから、資源ごみの日に」
「ああ、なるほど」
一瞬の後、
「じゃあ、亀の死骸は」
「甲羅は必ず分別を。これも市では回収しませんから」
「なるほど、だいたい分かりました。でも、分別はとても面倒ですね」
「面倒でも必ず守ってくださいっ!」
「は、はい。分かりました。ご丁寧にありがとうございました」
「どういたしまして。でも、明日は大型ゴミの日ですから、犬も猫も亀も捨てないでくださいね!」
ガチャン。
しかし、そう吐き捨てた直後に感じた胸騒ぎは、翌朝現実のものとなる。
捨ててあったのは、象の死骸。しかも。
「あの野郎、象牙を分別してやがる」
海水でくるむように林檎を洗い、たゆたう波で火照った体を潤す。それが海に囲まれたこの島の人々の姿であり、豊饒の海は変わらぬ象徴だった。
「この島の海は一年に一度灰色に色づくね」
少年は潮風に舐められて膝頭まで赤く染め、隣に立つ老人を仰ぎ見た。
「そうだ」
しゃがれ声の老人はこの島の長だ。彼はすでに何百年も歴史を見てきた。少年は誰よりこの長を愛していた。潮風のすべてを、長はその皺ばんだ頬で受け止める。老人の皮膚に刻まれた数々の溝には秘密めいた思い出が納められているのだと、少年は固く信じていた。
「海が灰色に色づくのは象を捨てたからでしょう」
期待した答えは得られない。少年はそれを百も承知で、何度も同じ問いを繰り返す。
「豊かな島は昔、象の栖処だったんだ。それを疎んじた人間が殺して海に捨てたに違いないんだ。ねえ、海が色づくとき、知らない地形が浮かび上がることがあるんだよ。あれはきっと海底古代都市だ。象を捨てた所為で水位が上がって都市は沈んだ。この島はわずかに残された一部なんでしょう」
長は笑った。やはりその顔の溝を紐解くことは困難だ。
「海は好きか」
代わりにそう訊ねられる。
「好きだよ」
「目の前に広がる海がもしひとつ残らず消えてしまったらどうする」
「……島じゃなくて。海が消えるなんて考えられないよ」
長はまた、笑った。そうして今年も海は色づく。
象は日に日に小さくなっていった。二週間前には3メートルほどあった丈が一週間前には人間の子供ほどの丈、そして今は小指のつめほどの大きさしかない。檻、というより虫かごに入った象を見て、飼育員は小屋での出来事を思い出す。
象はえさをとるとすぐに小屋で横たわり、朝になると一回り小さくなって出てくる。異変に気付いた飼育員がある日小屋の中を覗くと、象は確かにそこにいるのに、それを捉えられない。小屋は当然暗闇で象の姿は見えないのだが、臭いはする。息遣いも聞こえる。だが象の形が捉えられない。こんなことは初めてだった。後ずさりした飼育員の足が踏んだ枯れ枝の音がむなしく響いた。
頭を振って飼育員は仕事に戻る。えさの時間だった。えさ箱を担いで戻ってくると、虫かごに象はいなかった。西日が沈んだ。飼育員の目には何も映らない。臭いも、息遣いも感じないが、飼育員には今やっと象がわかる。えさを食べ終えた象が静かに、圧倒的に横たわっていることを、象の胃袋の中でこの上なく感じるのだ。
雑踏の片隅、壁に背をあずけ、待っている。行き交う人とざわめき。
ふと、手に滑り込んできた紙の感触。はっとして、顔を上げる。人波を探す。けれど髪の先か、コートの端か、揺れる残像だけ。
再び壁に寄りかかり、改めて手にした小さな二つ折りの紙を開く。ノートの切れ端に走り書きの文字。
“象を捨てる”
……暗号か。二回その文字をたどり、三度その言葉をつぶやき、それから余白に書き込んでみた。
ZOU WO SUTERU
しばし考え、並べ替える。
ZERO WO UTUSU
ゼロを映す。無を映すもの——
思い当たる場所があった。隣街の加見野に、何も映さない水鏡があるという。次の行き先はここか。
と、答えが出たところで、もう一度、紙片を見直した。
“象を捨てる”
まさか、鞄に入っている手のりゾウのぬいぐるみを捨てよ、ではないと思う。だからといって、先程の解読が正しい根拠も皆無だが。
それをゲームと称するならば、プレイヤーが選択した瞬間、世界は動き始める。その解答に採点者は不在のまま。
記された言葉をポケットにしまい、一歩、雑踏に入り込む。加見野へ。
ピグマリオンは象を捨てた
人になる 像
「総員、退かぁぁぁァァァ〜んっっっ!」
「そんな。もうアテナ2nd(セカンド)は宇宙に沈むしかないのっ?」
「脱出ポッドへは居住区の女・子供を優先させろっ!」
「マーちゃん、早く」
「ママ。動物ビスケット落としちゃった」
「代わりにいくらでも買ってあげるから。マーちゃんっっっ!」
「あなた、大変。通帳は持ってきたけど、印鑑を忘れたわ」
「所詮、アテナ艦内での通貨でしかない。虚像だよ。通帳も捨てて行こう」
「なあ、おっつぁん。西の奴がいねぇじゃねぇかよ」
「おい。ジョー、よせ。戻るんじゃない」
「でもよう、おっつぁん」
「西はあれでしっかりした奴だから。な、急ごう」
「艦長、艦長も早く脱出の準備を」
「ワシはこの艦と命運を共にする」
「放せ! まだエンジンルームの檻にはアイツが残ってるんだ。ぼくが助けに行くんだ」
「勇気と無謀は違うもの」
「放せったら! ……アテナーーーーーッ!」
宇宙世紀0079。
この年。ぼくは、ぼく達は大きなものを失った。
たくさんの人が泣き崩れ、絶望し、天を仰いだ。
でも、ぼくは違う。ぼくは将来、艦長になるんだ。そうして、みんなを守るんだ。
もう、いつもかぶってた子供じみた帽子はいらない。
ぼくはそっと、大きな耳と長い鼻がついた「手塚治虫帽子」を捨てた。
「象を捨てようかと思うの」
「いきなり何を言ってるの?」
「実は象を飼ってたのよ」
「どこで?」
「家で・・・」
しばらく沈黙が漂う。
彼女は沈黙に耐えられず一人で喋り始めた。
半年前に家に帰ると、いつの間にか象が居たらしい。
最初何事か分からなかったけど、とても大人しい象で一人暮らしで孤独感に苛まれてたから象でも一緒に居てくれるならいっかと思ったらしい。
「意外と可愛いのよ。」
「じゃ、何で捨てるの?」
「だって、大きくて部屋を占領されちゃうのよね」
私は呆れて彼女を見つめた。
「じゃ、象小さくすれば?」
彼女はぱっと明るい顔をして嬉しそうに手を叩いた。
「そうよね、どうして気づかなかったのかしら。小さければいいのよ!」
(ばっかじゃない)私は小声で呟いて彼女と別れた。
次の日、彼女から電話が掛かってきた。
「昨日ありがとう。今はちっちゃな象と一緒で快適よ!」
私は目を丸くして思わず聞いてしまった。
「どうやって象を小さくしたの?」
彼女は、くすくす笑いながら「内緒」と言って電話を切った。
それ以来、彼女と連絡が取れない。
お陰で、今度は私の頭にも象が住みついてしまった。
ねえおまえ。
いったいどこへ捨てろと言うんだろうね。こんな大きなおまえを。
銀の月が、サバンナを行く小山のような象と、か細い老人のシルエットを浮かび上がらせていた。老人は片手に杖、片手に引き綱。近くの丈高い繁みの中に豹が潜み、ときおりその目が赤く光って見える。象は歯牙にもかけず、ゆっくり歩み続ける。
ねえおまえ。
許しておくれ。でも嫁が言うのさ。たくさん喰う割に役立たずだって。
白いターバンの下の黒い顔が哀しみに歪む。象は小さな目で前を見据えたまま、鈍重な歩を進める。恨むでなく。嘆くでなく。
ねえおまえ。
疲れただろう。休み休みでいいんだよ。
象の歩みはむしろ速まったように見えた。老人の白い服の裾がはためく。衰えた足がもつれる。痩せた顔の大きな瞳はますます大きく見開かれ、鼻から口から荒い息が漏れる。豹は顔を上げ、そろりそろり匍匐前進で彼らをつけて行く。やがて象の足取りは明らかに小走りになっていった。地響き。千切れ舞う草々。立ち昇る砂ぼこり。象が非力な老人を引きずるシルエットを、月明かりが追いかける。それを豹が追う。
ねえおまえ。ねえおまえ。
これは本当に、私がおまえを捨てるための旅なんだろうね?
父さんはいつだって言うことが唐突だ。
「おれはもう鼻は使わないし、水浴びもしない、草も食わずに肉を食うぞ、肉を」
なんて言いだしたからぼくもふざけて言い返してやった。
「なんだいそりゃあ、どうせ使わないなら鼻なんかちょん切っちゃえばいいじゃない」
すると父さんは
「うむ、そうだな、それもいいかもしれん、ぶらぶら邪魔くせえ。耳もでかくてパタパタうるさいし、大体にして体がでかすぎるんだ、もっとコンパクトになりたいねコンパクトに」
だって。呆れるね。
こんなだから母さんが出てってしまうのだ。
「父さん、それはもう象じゃないですよ」
「うむ、おれは象をやめる」
付き合ってられないね、と思ってぼくは眠ってしまったのだが、それ以来父さんの姿を見ていない。
叔父がシベリアから戻ってきたのは十数年前だった。舞鶴に着いた叔父は案外と血色も良く、迎えに行った祖母達を驚かせた。大学で研究者を目指していたという話だが、その夢は諦め今は田舎町で教師をしている。
酔うと苦しかったシベリア抑留の話を始める。しかしこの話だけは誰にも語っていない。酔った挙げ句の作り話だと思われるのが嫌だったのだろう。
どうして元気で恙なく戻って来られたのか教えてやろうか。真っ赤な顔で話しかけてきた。マンモスって知っているか、俺達はそいつのお陰で生き延びれたんだ。
理由はこうだった。元兵士達は腹を空かしたままで針葉樹林の中で働かされた。監視をしているロシア人達も飢えていた。不思議なことに、その森には何度もマンモスが現れた。凍った泥土を掘り返すと氷漬けの肉と毛皮が姿を見せる。日本人もロシア人も、ソビエトの上官の目を盗んで象を喰い。毛皮と牙、骨までも持ち帰り利用した。象には捨てる所なんて無かった。叔父は、ロシア人にも良い奴はいるんだよ、と話を締め括った。シベリアの森の中で男達が象を囲んで笑っている。僕以外の、誰にも語られなかったお伽話。
ジャッキー・チェンは、借りた象を返さないぞ!
気をつけろっ!!
前日に出さないで下さい
ぼっ僕は今、せっ背中が重い。
いっ一歩ずつ足を、はっ運ぶごとに、やっ奴の大きなお尻から、ぜっ全体重が僕にのしかかる。
そもそも、君がわたしを背負うことになったのは君が神にお願いしたからでは?
数日前、僕は確かに神に祈った。《神さま、どうか僕を強くしてください》
なっなのに何故?
そんなことは知らん。わたしが聞きたいぐらいだ。
おっおまえに聞いとらん。
「スーちゃんみぃぃっけた。」
げっ哲子。
「なにしてんの?」
みっ見ればわかるだろ。
「ふ~ん。あいネ、今日ルイ君とデートするの。」
あいって誰だよ、おっおまえは哲子。て・つ・こ。それにルイってあれか、がっ外国人かよ。
「しらな~い。じゃあねスーちゃん、それっ面白くないよ。」
あいちゃんは君の彼女かな?
・・・。
ルイ君はきっと日本人だね。今時の外国人はそういう名前はあまりつけないから。それに寧ろ、んっどうしたスーちゃん君。
おれはスーちゃんじゃねぇ、好希だ。ちくしょう英治まってろよォ。
さてと、わたしはどうしたものか。ここはどこなんじゃ。
感官と音がした。イヤホンから流れる大音量のガレージパンクを無視して、空気の振動を許さない金属音が感官と音を立てたのに気付いた。イヤホンをはずす。隣の部屋からはテレビの音が聞こえる。隣人の笑い声も聞こえる。部屋の隅で巣を作る蜘蛛の動く音は聞こえない。耳をふさぐと、感官という音はより金属的に響いた。耐え切れず音の一端を両手でつかむ。熱い。一気に抜く。集、と音がして長い、工事で使うような金属印象が飛び出した。その熱い棒状の印象を振り回しそこらに叩き付ける。元、元贋と音がする。息切れしながら金属印象を見ると、それはもう形を失ったただの印。はっとして後ろをみれば細い紐で結んであった音のパイプが頭の上に観殻管と崩れおちるところだった。
「象は忘れない」というミステリは誰の作品だったか。それは忘れても、自分が象であることは忘れない。
象の墓場は象牙取りの密猟者が広めた出鱈目だというが。ではここは? 幾多の捨てられた象がうろつき、捨てた者が貼りつけた笑みを浮かべまた捨てていく。
「じゃあ、また来週」
返す言葉を掻き集め発声するまで、待たない背中。いつもそうだとまた一つ皺が増える。言葉が出なくなり四肢が利かなくなっても怒りの色は忘れない。それだから捨てられるのだ、と胸の中で小さな声がするが、家を守った正当な報酬がこれかという憎悪の澱がそれを潰して消し去っていく。
表現する言葉を失っても、私たちは決して忘れない象の群れ。死して皮を残すどころか牙も残さない、残さない事が私たちの復讐。茄子漬の塩の配分も、統治下の生活も、あの子の小さい時の思い出も同じように全て皺の下に呑みこんで。
歌が聞こえる。調子の外れた旋律と、表の陽射しに似合った馬鹿のように明るい象使いの声が聞こえる。
「そうそう、タネさん上手ねえ」
象を捨てた象の解き放たれた笑顔。
出来る事ならば自分も象を捨て去りたいと憧れながらも。
象を捨てる者たちの末路を見届けたいと願っている。
まー君、ほら急いで。
お引っ越し、今夜のうちにしてしまわなくちゃならないんだから。
お荷物、まだいっぱいあるのよ。
まー君たら、またそんなゾウのぬいぐるみなんて。
ダメよ、持っていけないの。
(ごめんなさい、子供がちょっと)
言ったでしょ。
向こうのお家は、今のお家よりずっと小さいの。
ゾウさん持っていっても置いておくところがないの。
ね。分かるでしょ。
ダメよぉ、そんな瞳で見ても。
持っていけないものは持っていけないの。
分かって、ね。
まー君は賢い子だから、分かるよね。
ママを困らせないで。
お願いだから。ね。
そう。
そこに置いて。
そしたら、次に来る人がきっと可愛がってくれるから。
ね。
ほんと、まー君は賢い子ねぇ。
ママ、嬉しいわ。
(もういいわ、車を出して。見つからないように。くれぐれも、誰にも)
その絵本を読んだあとのお昼寝の時間、ぼくが見る夢はいつも決まって夜の砂漠。
きらめく褐色の肌の少年になって、ぼくは、アフリカゾウの背に揺られてるんだ。
砂を踏むリズムがゾウの足どりから伝わってきて、ずっとずっと、西へ向かう旅は続いてた。オアシスで水浴びをするぼくらの姿をネズミたちが眺めてたね。
そのうちこの長い散歩に飽きてしまったぼくは夜空に、星座に手を伸ばして、あれこれ組み替える遊びを始める。傑作が出来上がったと思うと、いつの間にかゾウはどこにもいなくて……途方にくれた僕は一人でずっと泣いているんだ。
目が覚めるのは必ずそのときで、悲しいんじゃなくて後悔する涙で枕は濡れてた。
涙のほとんどがそうじゃないかなって思う。
今、実家の物置をひっくり返してもあの絵本は見つからない。タイトルだって思い出せないし……。
探し疲れて眠ってしまったぼくの隣で、息子が、違う星空の夢を見てる。
ぼくが何の夢を見たかなんて、忘れてしまった。
人は誰も自分だけの象を飼っている。各々が手前勝手な「像」を持つことによって世界を歪めている。私たちは「象」を捨て、自由な「人」に戻らねばならぬ。
という意味を込めたタイトルだが、実は、ずいぶん悩んだ。悩んでいるところへ妻がやってきて、「人=像−象」という数式(?)を書いてみせた。彼女はミューズである。
そういえば、息子は小学校のテストで「印象」の読みを「インドゾウ」と答えていた。なるほど確かにインドを「印」と表記する場合もある、と私は納得させられた。しかし私はこれを正解にしろと言うつもりはない。学校には学校の都合があろう。私は私の都合でこの物語を書いた。息子はまだ象を飼っていないのかもしれない。
最後になってしまったが、編集の峯岸氏にはいろいろとお世話になった。(それが彼の仕事だと言ってしまえばそれまでだが、とりあえず)礼を述べたい。今後もよろしく。
そして、本書を少しでも気に入ってくださったあなたに、ありがとう。
2004年10月1日、花散る午後 著者
休日でも市立の自然史博物館はひっそりとしている。人気のないエントランスには巨大なナウマン象の骨が飾ってある。骨格標本の肉や皮のことが前から気になっていた。最初から存在しなかった骨以外の部分のことだ。復元図はかって大きな象がこの街にいたことを示している。レプリカが太古を主張するためには骨の形を取らなければならなかったのかも知れない。では象の形は何処へ行ったのだろうか。実は、捨象され、姿を晦ました象の形は博物館の中を散策しているのだ。
古い背広にレトロスペクティブなネクタイを締めて、ニコニコと昆虫や植物の標本を眺めている、E氏にあったのはやはり人気のない昼下がり。小さな子供に丁寧に説明をしている姿は童話の中の理科の先生か、昔懐かしの博物学者の風情。なんでも良くご存じですね、というと照れ乍ら、ここは自分の家(うち)の様なものですから、と笑って答えた。
E氏に会えるのは僕と幼い子供達だけらしい。形のない象はそんな風にして博物館を散策している。E氏に会う度にそう想える。古い型の背広が移動した後には、いつも油で磨かれた木の床の匂いがする。コンクリートの建物の中を懐かしさが歩いていく。
そんなことしたら、支えを失って、亀の甲羅の上に落っこちて、みんな、壊れちゃうよ。
1万年ほど、シベリアの永久凍土の下で眠っていた彼女は知らない。
その昔、彼女を追い回した生物のなれの果てが、永久凍土の下から彼女を掘り起こし、彼女の細胞から彼女を複製したことを。
彼女の複製は、ほぼ彼女そのものだが、彼女とは少しだけ違ったことを。
牙の長さが左右で異なっていたり、右側の耳だけが極端に小さかったり、鼻の代わりに尾が長くなったりしたことを。
彼女の複製たちは、誰もが1週間ともたずに死んでしまい、シベリアの永久凍土の下に次々と遺棄されたことを。
今は彼女もシベリアの永久凍土の下に戻され、眠っている。
だから彼女は知らない。彼女の周りで眠る少女たちが皆、彼女の複製であることを。
象を連れて町を歩く。象の足取りはおもい。捨てられることを知っているのだ。
町長が変わって新しい条例ができた。キリンは飼ってもいいけれど、象はだめになった。噂によると町長は象アレルギーらしい。象を見ると鼻がむずむずして三日間くしゃみが止まらなくなり、症状がおさまるころ鼻が少し伸びている。個人的でまったく勝手な理由だ。町長の鼻なんかどんどん伸びればいいんだ。
大きな川を越え、森を抜け、月夜の草原にたどりつく。そこには二十頭ちかくの象がいる。みんな捨てられたのだろう。ラッパのような悲しい鳴き声が夜空に響く。僕の象がゆっくりと仲間の元へ歩いていく。月明かりに浮かぶ草が揺れる。象が振り返る。黒く光る目で僕をじっと見る。やがて諦めたようにふたたび歩き出す。
僕は草原から離れられず、いつまでも象を見ている。
「バイオリンは嫌いです。」
窓枠に腰掛け、ぼんやり月を見ながら老婦人は言った。
「簡単に人を魅了してしまうから。」
私は黙っていた。
「あの人は好きだったんですよ。この無伴奏。」
彼女は続ける。
「終戦近くの南方で、あの人象の世話をしてたんです。軍が調達してきた象が駐屯地にいてね。サーカスあがりで、人になれてて大人しかったから、労役に好都合だったらしくて。あの人獣医の資格を持ってたんで、係に選ばれたんでしょう。手紙には象のことがいつも書いてありました。でも、戦況が厳しくなると、部隊は移動しなきゃならなくなったそうで。何日もの行軍に、象なんて連れて行けないわけなんです。処分の話が出た。あの人了解するはずないですよ。上官説得して、地元に捨てる話にもってったんです。村に知り合いがいたんで、象を引き取って、働かせながら面倒みてくれる約束をとりつけてね。軍は現地人との接触禁じてましたから、夜中一人の行動だったらしいです。それで部隊が出発する朝、あの人は象を捨てに行った。その帰りなんです。誤射にやられたのは。皮肉なもんですよね。終戦後部隊の人が話してくれました。象の鳴き声が、遠くから何度もきこえてたそうです。」
この部屋で飼うには大きくなり過ぎてしまったので、かわいそうだが象を捨てることにした。だからと言って子供が小犬を川原に捨てるような無責任な真似はしたくない。それが大人と言うものだ。そこでゴミの日に出すことにした。だが、象なんて捨てたことがないので何曜日に出したらいいのかがわからない。分別はあっても分別のことはよくわからないので役所に聞いてみることにした。
「すみません、ぞうを捨てたいんですけど、何曜日に出したらいいんでしょうか?」
「燃えるようでしたら火曜日か金曜日、燃えないゴミでしたら月曜日にお願いします」
「燃やせば燃えるとは思うんですが、今のままだと燃えにくいと思います。そういうものって月曜日に出した方がいいんですよね?」
「そうですね。大きさはどれくらいですか?」
「えーと、高さ一・五メートルくらいです」
「それじゃあ粗大ゴミになりますね。センターに連絡して引き取ってもらって下さい」
なるほど、大きさで考えればその通りだ。
しかし、僕が粗大ゴミセンターに電話することはなかった。センターのお知らせにはこう書いてあったのだ。「生物は燃えるゴミ」と。
後ろ手に鍵を閉める。かちゃり。意外に大きな音がして、彼女は慌ててこちらを見る。
いやいや大丈夫、何もしない、鍵を閉めるなんて東京じゃ当たり前でしょ。
それはそうね。
まあ適当に座ってよ。
六畳一間にはベッドとテーブル。クッションがふたつ置いてあるのだけれど、彼女は床ではなくベッドに腰掛けた。僕はグラスとミネラルウォーターを用意する。
で、何の話だっけ?
ゾウを捨てるにはどうしたら良いのか。
ゾウって?
動物の。
へーいつ拾ったの。
昨日。
ミネラルウォーターに水道水で作った氷を浮かべるのに矛盾を感じながら、それでも可笑しな話の前にはいくらか正常かもしれなくて、グラスをふたつテーブルに載せた。それから壁を背にクッションに座って、彼女を見上げるような構図になる。
それじゃあ硝子瓶に入れてしっかり封をして、東京湾に落とすのさ。そうすればきっと。
きっと?
流れ流され潮に乗り、南アフリカの恋人に巡り合えるはずさ。
もう限界だ、とても逃げ切れそうもない。これだけあちこちに象を連れた男の手配書が出回っているようでは。
取りあえず食料を調達して隠れ家へと戻った俺を、アイツは鼻を上げて迎えた。
「コラ、そんな真似をするんじゃない、誰かに見られたら終わりだぞ。町中は俺たちの手配書でいっぱいだ。象を連れたお尋ね者なんて俺たちの他にいないんだからな」
俺のその言葉を聞くと、アイツはしばらく何かを考え込んでいたようだったが、突然突き立ててあった斧の刃を目がけて自分の鼻の根元を叩きつけた。次の瞬間血しぶきが上がり、アイツの鼻が顔から離れて宙を舞った。
私には、自分があの人の重荷になっていることがわかっていた。けれど私はあの人から離れたら生きては行けない。私は考えた、どうすればあの人といっしょにいられるのかを。手配されているのは象を連れた男。そこで私はこの鼻を切り落とすことにした。そうすれば私は象でなく豚に見えるだろう。あの人といられなくなることに比べれば、象を捨てることなど私には何でもないことなのだ。
長くて密度の濃い僕のまつげを駱駝のようだと少女は笑う。彼女が自宅のプールで飼っている鯨は、時々狭い水の中から浮かび上がって悠々と空を飛ぶ。それを彼女は自慢にしているが、その鯨と言えばあと五センチ小さければ鮪になっていた中途半端なもの。
僕の象は世界でいちばん鼻が長い。彼女の鯨になんか負けないはずだったのだが、象は歩くたびに長すぎる鼻を自分で踏んで、でんぐり返りをする。それを見て少女は笑う。あなたたちそっくりね。
僕は思い切って象を捨て、首を振らずに歩ける鳩で勝負する。完璧な鳩を見た彼女は、地味すぎるわと鼻で笑う。
捨てられる象は、とてもさみしそうな目をしている。捨てる役の人たちはみんな、その大きな瞳を見て、たまらなくさみしくなってどこかへいなくなってしまう。目をそらそうとしても、象の前に立つと、いつのまにか象の瞳をじっと見つめている自分に気づく。気づいたときにはもうさみしさから逃れられない。
そういうわけで、僕が今度の象捨て役に選ばれた。象の前に立って、鼻を手に取り、所定の位置まで連れていってください。あなたには簡単な仕事ですよ。そうは言っても、僕は象なんてさわったこともないのだ。
象のいる所まで連れていってもらった。ほらそこに象がいますよ。言われるまでもなく、なにか巨大な生物の存在が感じられた。これが象なのだろう。たぶん。
さて、ところで鼻はどこだろう?
つきそいの人はとっくにいなくなっていた。途方にくれていると、暖かいものがほおにふれた。僕を慰めてくれる、穏やかな暖かさだ。思わず手に取って。
そのとき何かが目に飛び込んできた。目に? ありえない。しかし次の瞬間、僕は悟る。象に感謝し、同時に呪う。僕がはじめて見ることのできたそれ、僕のよく知っている涼しい感情。
王様の命により、屈強な2人の家来が象を捨てるため、都を後にしました。
国は予てより飢饉のため食糧難に喘いでおりました。王宮で飼われていた動物たちも、
あるものは殺され、またあるものは食料とされてしまいましたが、
象だけは“神獣”として都の中で殺すことは出来なかったのです。
さて、都からも随分と離れ、家来たちはいよいよ象を置き去りにします。
「捨てられる」との気配を察知した象は“芸当”を披露して許しを乞おうとしました。
家来の1人は高く上げた象の鼻にすくい飛ばされ、天空の彼方へ消えてゆきました。
家来の1人はそれを見て気色ばみ、刀を抜きましたが、象が慌てて土下座をしようとした際に、
折り曲げた前足により踏みつけられ、瞬時に人間としての姿形を失いました。
今に伝わるこのお話しですが、特にみなさんへの教訓はありません。
のろま、と呼ばれる少年が居た。口数が少ない所為か太り気味の所為かは知れないが、町じゅうの子供たちはそう囃し立てからかうことを遊びとしていた。中でも富豪の娘はことにのろまを虐げた。
「のろま。どこへ行くの」
新しい服を仕立ててもらった帰り道、娘はのろまと行き逢った。からかい半分声をかける。
「象を捨てに」
のろまはぼそぼそと返事をする。娘は唇を尖らせた。のろまは手ぶらで、薄っぺらな服を着ているだけなのだ。
やっぱりこいつはのろまなんだ。
娘は唾を吐き、満足して、仕立ててもらった服を着て褒められる自分の夢を見た。
翌日靴を拵えてもらいに出掛けた娘は、またものろまに行き逢った。
「どこへ行くの」
「象を捨てに」
のろまの返答は変わらない。
のろまがふい、と町から姿を消したのは、そんな問答を一箇月も続けた頃だったろうか。至福の表情を浮かべたのろまが温かな土に埋まっていたとか、あるいは川に流れていたという噂を聞くが、真偽のほどは判らない。
おろしたての靴下に脚を通しながら、娘は思う。
なぜのろまは嬉しそうなのだろう。あの頃頻りと口にしていたショウとは、一体何のことだったのだろう、と。
夕焼けに染まる街をただ眺めていただけのはずなのに、気がつくと傾いた廃ビルの隙間に挟まって、あなたは身動きが取れない。はるかはるかはるか彼方に見える地上で,人々はごま粒のごとく小さい。見上げるとあなたの上には象が同じように地上を寂しげに眺めている。あなたも象もいったい何故こんなところまで上ってきたのか。地上では誰かがあなたたちに気がついたのか、ごま粒が寄り集まってくる。大きく手を振ってあなたは声を張り上げるが、音に共鳴してビルの壁がぽろぽろと泣くばかり。夕焼け空はますます美しく、あなたも象も等しくあかね色に染め上げる。地上のごま粒はいつしか黒い絨毯のようになって、こころなしか中心が盛り上がっているように見えるけれど、あなたの足下にはまったく届かない。象が身動きをして、夕日が陰った。あなたは象を引っ張り出して、ごま粒のまっただ中に投げ入れる。
気がついたら象を飼っていた。
私自身は別に問題ないと思っていたけど、やがてそれは逃れようのない事実として突きつけられる。
帳簿を見たら家計が食費に圧迫されていた。
私自身はそれでもかまわなかったけど、やがて家族は私にひとつの苦しい決断を迫るようになる。
仕方ないから捨てることにした。
私には死ぬほどつらいことだったけど、やがて私はその巨体とさよならすることに成功する。
鏡を見たら私の顔はげっそりとしていた。
家族にはまたエンゲル係数がと止められたけど、やがて私は健康回復とストレス解消に間食を再開する。
気がついたら豚になっていた。
そこには象というものがあり、それが何であるか分からなかった、極楽鳥という踊りがあるが、それよりはすばしっこいかもしれない火喰鳥、まぁ、そういったことを合わせて考えれば、ガーデンに浮かび上がった、何かの首百個あたりも、何であるか知れるというもの。男は笑いながら手淫をする。すばしっこいほどの鬱陶しさで、九官鳥は木の上で逆さに止まって腹包みをうち。それがやがて時間になる。時間とは何か、隠れ家だ。象の首だ。失格か。さてどうした、それがどうした、それならそうとやってみるがよい、牛めら。火喰鳥め。火喰鳥は嘘を解き放ちはばたく。となって象であるらしいが、それで象とはなんだと、百の首に聞いてみるが、さて答えたが、よくは分からぬ。象を捨てるこれを実行したものは道化師である。おじさんは山を登るが、はてさて、滑ったり転んだり。自分が何をやっているか分からない櫛。籤のように引いてみればいわばそれは石であり、腐れきった象である。それが掌の上で、ぐわるらりぐわるらりとおどる。危機、何やらすべてふくめたとて、視界は象の腹ばかりだ。そして、何とは分からず。さてどうしたさてどうしたと、首を振り、象を捨てた。
そうだ、モロッコへ行こう!
「汝の仇敵を愛せ」・・・そんな日曜学校ではるか昔に耳にしたような言葉が
覚束なげに脳裏に導き出され、キーを叩かせる。いよいよ作品のヤマ場だ。
「観念したかのように」「悪党は目を伏せ、オレに引き金を引けと」
「殺すことが解決になるのか、憎悪の果ての答えがこれだったのか」
次第にペースを掴んで来たワタシの背後から不意にディスプレイを覗き込んだ妻が、
「あなた、今回の競作で捨てなければならないのは“憎悪”じゃなくてよ」とぽつり。
あれぇっ、何処でこんがらがっちゃったんだろ。
それにお前、どうしてそんな悲しげな目を。
そうこうしてる間に、刻限の午前0時は目の前。
エサ代がかかり過ぎるので象を捨てることにした。しかし普通に捨てたのでは人目に立って仕方がない。そこである作戦を立てた。
夜半、象を連れて私は家を出た。向かったのは近所でも正直者と評判のA君の住むアパート。その外階段の手すりに象をつなぐと、私は一人で家に戻った。
翌朝、我が家の呼び鈴が鳴った。ドアを開けるとA君と警官が、その後ろには昨夜置き去りにした象が立っていた。警官が言う。
「この象をアパートの前で拾ったそうなのですが、こちらの象ではありませんか?」
「えぇそうです。突然いなくなって心配していたんです。ありがとうございます。よく届けてくれました。是非お礼をさせて下さい」
「それはよかったですね。普通お礼は拾った物の十分の一なんですが…」
「そうは言っても、この子の十分の一を切って差し上げる訳にも行きません。どうでしょう、この子の十分の一分、借りということにしておいていただけませんでしょうか」
「そうですね、そういうことでしたら」
これをあと九晩続けた結果お礼は象一頭分となり、象の所有者は私でなくA君となった。
午前五時の朝焼けに一日の終わりを眺める。じくじくと滲む空は錆臭く、歩道は乾いて酸っぱい。白々と細い線で描かれた街頭は不確かな輪郭。軋む窓辺に映る途切れた電車の音。歪んだ象は腰に巻き付きからまりし、囚われた痛みは手を伸ばして空を仰ぐ。傷の苦さを愛おしみかき抱けば、象が鋭い爪をたて新たな傷を増やす。全身が生臭い朝日に染まる頃には、聞き飽きた喧噪が歌うアスファルトの唄。窓を閉じカーテンを引けばもうなにも見えない。収集車が象を集める音がする。
まだ憶えてる。重力に抗おうと二本の前足を突っ張るものだから、崖の中腹がざしざし削られて、勢いよく砂煙が舞い立ったのだ。
そうやって滑り落ち、私たちから遠のいていく花子の姿を、涙で滲む視界のうちに見つめていると、やがて砂煙の中に浮かぶ灰色の輪郭が薄くなりはじめた。
「墓場に還ってく」と夫。「ああして、人間は誰一人として知り得ない、象だけの墓場へと向かうんだ」
花子の巨体は徐々に霞んで、いつしか消えた。最後に耳鳴りみたいな遠吠えだけ残って、それも静寂に掻き消されたら、そう、もう、きれいさっぱりと。
「きみの思い出も、胸の痛みも、もうすぐ一緒に還ってくから」夫自身も涙を頬に伝わせながら、私の腕に触れてくれた。「大丈夫」と。
彼が告げた通りだった。
数時間で、悲しみの輪郭はぼやけ、胸の痛みも体中に散るように薄れて、今の私は、記憶も含めて完全に花子を失ってしまうという、新たな寂しさに苛まれている。
だからこうして焦燥しながら記すのだ。この文字だって、書き留める端から輪郭を失い、墓場へと還ってしまうんだろうけど。それでも、花子のイメージをどこかに繋ぎとめられればと虚しく願いつつ。急速に霞む記憶を引きとめながら。
飼っている象を谷底に捨てることにした。田宮のやつにあんなことを言われて引き下がる訳には行かないのだ。だが俺は信じている。きっとコイツは谷底から帰って来ると。
そりゃあ田宮の飼っているライオンが自力で谷底から這い上がって来たのも事実なのだろう。だからと言って、象にはそんなこと出来る訳がないというあの言い草は何だ。確かにライオンは百獣の王と呼ばれているが、本気で闘ったら象の方が強いのは明らかではないか。普段大人しいからと言って力がないと思ったら大間違いなのだ。それを田宮にわからせてやるためには、コイツを谷底に落として、上がって来る姿を見せてやるしかないのだ。
ところが象を谷底に捨てるのは容易ではなかった。いくら命じても自分から飛び下りようとはしないし、それならばと押してもびくともしないのだ。そこで助走をつけて体当たりをしようと後方から走り寄ったら、アイツはすっと横にずれてしまった…。
谷は下から見上げると意外と深いようだった。とてもアイツのいる所まで登れそうにない。仕方がないので俺はアイツを捨てることにした。谷の上に。
彼女は、僕の部屋から出て、それきり戻ってこなかった。
僕は泣かなかった。
代わりに象が残った。
象はすでに大きくて、いつの間にか部屋に住みついていた。彼女がいなくなって部屋は広く自由になったはずなのに、象がいるせいか、快適でない。狭いので、僕は象のお腹の下で眠るしかなかったが、彼女のことばかり考えてしまう。もう、いなくなったのに。
やっぱり、象のせいで気分が滅入ってしまうのに違いない。放っておいてもいなくなる気配はなく、何日かして、僕はようやく象を捨てることにしたが、大きすぎて扉から外に出せなくて、仕方がないので部屋ごと捨ててきてしまった。
象には、彼女の名前がついていた。
少し涙が出た。
部屋にはそれきり戻らない。
僕の後ろで、象の欠片がひょこひょこと付いてくるのを、今は見ないふりをした。
二人だけの秘密を守れなかった彼は魔法で熊に変えられてしまう。彼を見て人々は言う。「蛾食うや落ち葉帰来」どういう意味なのか、彼にはわからない。違う、危害を加えるつもりはないのだ。そう伝えたいのだが彼が発する声は人々にとってはただの恐ろしい音でしかない。やむをえない、と彼は思う。熊的人間と人間的熊の違いを理解できる人物を探そう。元の姿に戻る方法を見つけることが先決だ。早くしなくては冬が来る。熊であれば冬は眠りの季節である。どういう感じなのだろう冬眠とは。冬眠。その響きに甘美さを感じるのは人間だからなのか、熊だからか。眠りから覚めたとき、はたして自分が人間であることを覚えているだろうか? 疑問符が一瞬にして蛾に変じ目の前を飛ぶ。「蛾食うや落ち葉帰来」という言葉に引っ掛かっていた彼はその蛾を捕え食ってみる。すると落ちた葉は鮮やかな色を、散った花は甘やかな薫りを取り戻す。芳香に誘われた蛾を彼は次々と食う。午後が午前に、彼は人間に、果ては象になる。人間以前は象であったことをたった今まで忘れていた、と彼は己を恥じ、象を捨てずにすんだことを人々に感謝する。
男の子は走っていた。今日は近くの公園で楽しみにしていたお祭りがあるのだ。人通りがだんだん増えてくるにつれて、足が速まった。
お祭りには色々な店があるけど、お小遣いは少しだけ。彼はまずどんなものがあるのか見て回ることにした。
池の近くでピエロが子供たちに風船を配っていた。彼もその列に並んで風船をもらおうとしたが、数には限りがあった。ちょうど彼に手渡されたところで風船はなくなってしまったのだ。
すぐ後ろに並んでいたのは少し年下の女の子だった。自分には風船がもらえないとわかったその子は、涙が出る前の……あの顔じゅうがじわりと緊張する感覚に耐えているようだった。
彼はそれを見てなぜか自分の風船を女の子に渡してしまった。彼女は笑顔になってぺこりとお辞儀をし、風船を持って母親のところに走っていった。
すぐ後ろにいたピエロが頭をなでてくれたとき、彼は自分がさっきの女の子と同じ表情をしているのに気付いた。
少しだけ、涙がこぼれた。
男の子が眼のあたりをこすって上を向くと、風船がいくつか子供たちの手を離れて空に昇っていくのがぼやけて見えた。そこに描かれた伸びてゆがんだ象の顔は、泣いているように思えた。
帰りしな、玩具屋の前のガチャガチャへ引き込まれる。硬貨を入れ、幾分の懐かしみをもってレヴァを捻る。カプセルには白い象。余りに小さいから泣き声もか細いくて、ちーちー甲高い。透明と赤、二色の玉を割ったらば象はみるみるソファくらいの象になる。声も幾分と太く大きい。駄目。こんなの飼えない。引き取って貰いたいのだが玩具屋は閉店して久しい風だ。
しかたなしに象の鼻から息を吹き込む。象はゆっくり象くらいの大きさよりも大きな象になる。鳴き声は野太く二の腕が痒くなるほど大きい。鼻の先っちょを縛る。何だか鼻が少し短いから両足で頬の辺りを蹴り押して両手でもってぐいぐいと鼻を引っ張ってやると、なるほど象らしい形の象になる。
象の顔を撫でると柔らかい。膝を折り曲げ腹這いになり、象も鼻で頬を撫で返してくる。でも、どうしても今は一緒に住めないのだ。意を決して象を持ち上げる。
軽くトスしてから右手で大きく打ち付けると象は空へ向かって飛んで行き、すぐ見えなくなる。きっとこれからじわじわと縮んでいき、象はどこかの女性のお腹の中に吸い込まれる。そうして、いつしか人として生まれ変わるのを待つのだ。いつか一緒に暮らせる筈だ。そう思う。
コンビニへの道を歩いていた。ふたつめの角で象に会った。
「コンニチハ」
いつものように軽く会釈して通り過ぎようとすると、今日の象は声をかけてきた。
「あのー、お願いがあるんですけど…」
大きな耳をやたらバサバサする。乱れた髪をなでつけながら聞き返した。
「なんでしょう」
象は体のわりに小さな目をショボショボしながら言いにくそうに言った。
「えーと、あのー。僕を捨てていただけないでしょうか」
「でもわたし、あなたとつきあってもいませんよ」
象は大きな体を一生懸命ちぢこまらせる。小さな山のようだ。
「ええ。でも、だれかに捨ててもらわないと僕は自由になれないし。結婚もままならないんです」
「その、だれか、がわたしである必要はあるんですか」
「…すみません。ないです」
うつむいたまま去っていく大きな背中を見て一瞬迷ったが、どう考えても象を捨てるなんてわたしには荷が重すぎる。わたしは象の100分の1の体重しかないのだ。
あなたを捨てる日が来るなんて思ってもみなかった。だって小さいときからずっと一緒だったから。転んで泣いているときも。友だちとケンカしたときも。給食を食べ切れなくて困っているときも。円らな瞳であたしを見下ろし長い鼻で頭を撫でながらいつだってそばにいるよと励ましてくれた。あなたの存在にどれだけ慰められたかわからない。これからも一緒にいたかった。なにも変わらないと思っていたのに。ああ。あたしは列席者に向かってブーケを投げる瞬間あなたを捨てることに決めたのだ。教会の鐘と重なるように耳の奥で生前の母が口ずさんでいた童謡が甦る。その歌声に送られてゆっくりゆっくりと歩み去る大きな後ろ姿。祝福のライスシャワーはあなたへの餞。
でも捨てたはずのあなたはあの日完全に消えはしなかった。あたしの目のスクリーンに薄く淡く象の形は張り付いたまま。きっといつまでもいつまでもこのまま。
ああ、なんて綺麗。こんなにたくさんの星を見たのは初めてです。
あの時、あなたは道端で倒れていた私を助けてくれました。
私を連れ帰って物置に入れると、鼻に包帯を巻いてくれました。
狭い物置の中、私の横で眠るあなたを潰しはしないかと思うとなかなか寝付けなかったけれど、私はこのうえなく幸せでした。浅い眠りの中で、私は背の高い男の人になって、あなたとデートする夢を見ました。
でも、ご両親は私があなたの家で暮らすことを許してはくれませんでした。しかたがないです。
それにしても、こんなにたくさん林檎を持ってくるなんて。私、よろけているあなたを見てちょっと笑っちゃいました。ああ、もう泣かないで。あなたのせいじゃないんですから。
あなたは私の鼻の先を持って、小さく「さようなら」って呟きました。
さっき、流れ星が見えました。私、願い事をしたんです。だから、もう大丈夫です。
山を下りていくあなたが見えなくなったら、私は林檎を埋めます。そして長い長い眠りにつきます。
寂しくはないです。今度目覚めた時には、きっとあなたに触れることが出来るから。あなたと同じ、しなやかな二本の『鼻』で。
「ねぇ、僕、聞いたんだ。
僕、もうすぐ捨てられるんだ。
このサーカスじゃ、もう、ゾウはいらないって。
団長さんがそう言ってるの聞いちゃったんだ。
そんなのってひどいよね。
僕、今までがんばったんだ。
ムチで叩かれても我慢したし、
ちいさな玉にも乗れるように頑張ったし。
そんなのないよね。
でも、僕はここが好きなんだ。
ここにずっといたいんだ。
僕がゾウだからいけないんだろう。
だったら、僕はもうゾウでいたくない。
ゾウじゃないものになりたいよ」
「ゾウじゃなければいいんだな」ピエロが言った。
ピエロはどこからか大きな鉈を取り出して、一度、二度、三度、振り下ろした。
ゾウの顔から、長い鼻と大きな二つの耳が無くなっていた。
「これで君はゾウじゃない」ピエロは言った。誰もが幸せになりそうな笑顔で。「そうとも、君はもう、ゾウじゃない」
「これで僕はもうゾウじゃない。だけど、いったい何になったの」
「なんだそんなことも分からないのかい」ピエロの笑顔が歪む。「『ゾウの死体』じゃないか」
頭がぼうとして何もよく聞こえない。
眠い。眠いんだ。眠ってしまおう。
安らかに。いつまでも。
僕がソイツを拾ったのは、泣きたくなるような霧雨の降る夜。
ソイツは、外見は象なのに、僕の胸ポケットに収まるくらい体が小さかったんだ。
ウルウルと潤むソイツの瞳に見つめられて、なんとなく放っておけなくなって、家へ持って帰ったんだ。
ソイツはミルクを器用に鼻で吸い込んでは口にうつして飲む。鼻から飲めば早いのにそうもいかないらしい。
そんなある日、ソイツが「パオーン」と一声鳴くと、その後にちょっとだけイイコトが起こることに気がついた。実家からの差し入れが届いたり、隠した場所を忘れてしまったへそくりを発見したり。
いつからか少しずつソイツが鳴く回数が増え始め、イイコトもちょっとどころではなくなって、、、だけどイイコトに比例するようにソイツの体が少しずつ大きくなっていったんだ。
今やソイツの体はりっぱに象といえるくらいの大きさになった。これ以上大きくなることを考え、僕はソイツを捨てる事にした。
トラックで、ソイツを拾った公園まで連れて行く。
別れを告げてトラックに戻ると、こちらを見ているソイツと目が合った。
悲しそうな声で「パオーン」と鳴いた後、少しずつ体が縮んで、胸ポケットサイズに戻っていくソイツが見えた。
どうぶつビスケット、って、覚えてる?あなたは象が好きで、いっつも象ばっかり先に食べるから、ライオンとか、キリンばかりがいつも残りました。あなたはそのときまだ2歳で、象が好きなお姉ちゃんとよくけんかしたね。お姉ちゃんは、やっぱりお姉ちゃんだから、ときどき我慢してあなたに象をあげましたね。えらいえらい、っていって、頭をなでてあげると、うらやましそうにお姉ちゃんのことを見てたね。それであなたのこともなでてあげると、とてもうれしそうな顔でお母さんのことを見てくれたね。お姉ちゃんはもう高校を卒業して、大学に入りました。一人暮らしをしています。今日はいい天気なので、公園のベンチで久しぶりに、どうぶつビスケットを食べたけど、どうしても象だけが食べられませんでした。ブランコに象を積み木みたいに積みました。風が吹いて象の塔は崩れました。お母さんはそのまま帰ってきました。明日は雨だそうです。
神は彼の願いを聞き入れて、人にしてあげた。
その間、2500年余り。肩が凝っているようだ。
ふと空を見上げると、靴を洗った泡だらけ。こんな日は、何だかいろいろぽい捨て日和。
がらくた入れのような自分の部屋から、いるものだけ選んでぽいぽいぽい。
まんがにHなビデオに洗濯機に掃除機。ベータのビデオデッキはいらないから取っておく。
ほら、そうするとがらくた入れはずいぶんきれいになったでしょ。
いつの間にやら天気も晴れ晴れ日本晴れ。
だってぼくが捨てたのは象だもの。
長い鼻伸ばして雲を食べてる。
やれやれ、ひと仕事片付いた。
だけど何だか虚しさも。心にぽっかり大きな穴。
だもので片付いた部屋の中から、本を一冊取り出す。
「資本論」。
本を開くと、中からまんがやHなビデオや洗濯機や掃除機が……。
そうそう、彼女も出てきたよ。
もう、何もいらないね。この世界に用なしさ。巨象よ、ごめんねさようなら。
……でも彼女、「たまには手伝って」って。
壊れた水道の蛇口から、雫がぶるぶると震えながら滴り落ちる。
ピ チャン
静寂の中、赤茶けた飛沫を上げて音だけが反響する。
瓦礫と化した薄暗い部屋の中では他に何も動くものは無い。
ただ部屋の角の暗闇に、小さなひどく離れた黒い瞳を寂しげに揺らしてうずくまる巨
大な影があった。
主人はいない。
主人はいなくなった。
その瞳から涙がひとつこぼれ落ちた。
身重の母猫が迷い込んできたのは4日前の夕方だった。招き入れて飯を食わせたのは、俺が無類の猫好きだからに他ならない。だがこの状況はどうしたことだ。か細い声で鳴く仔猫達の間で、それは旨々と乳を吸っている。象だ。どこからどうみても象だ。まだ首も据わらない仔猫達に混じって、長い鼻を左右に揺らし4本の足を広げて立っている、灰色の仔象だ。俺は猫好きだが象好きじゃない。そもそも象が好きか嫌いかなんて考えてみたこともない。そりゃ飼ってやったっていいが、今の大きさがこうだからって大きくならないとは限らない。飼ってみました部屋より大きくなりましたじゃ、俺は迷惑防止法か何かで確実に逮捕されちまう。大体、猫から生まれた象なんて得体が知れなさすぎるじゃないか。捨てよう、捨てちまえばいい。まだ小さいんだからすぐにカラスの餌食になってしまうだろう。よしんば成長したにしても野良象が巨大化したのにすぎない。オレの責任にはなりっこないんだ。まだ頼りない肩のあたりをつかんでダンボールに詰め、川原へ向かう。蓋を開けると、眠っていた仔象が目覚めてオレを見上げた。そして一声「にゃあ」と鳴いた。なんだ。ネコじゃねえか。じゃあ捨てるのは止めにしよう。なにしろオレは、無類のネコ好きなんだからな。
本屋から出たら、象を連れている知人を見かけた。
こんな昼日中に迷惑な奴だと声をかけると、どうやら象を捨てに行くところだという。
あんまり彼がしょんぼりしているので、私も仕方なく一緒について行くことにした。
「そんな目で俺を見るなよ。」
道々彼は寂しげに象に話し掛けている。
とうとう町外れの河原に着くと彼は笹舟に象を乗せ、泣きながらそっと川に流した。
「ルイード、さあ行こう。」
私の言葉を合図に、象は静かに立ち上がり、歩き始めた。
大通りに出ると人々はおしゃべりをやめ、我々をさっと避けた。遠慮のない視線が突き刺さる。
我々が出れば、この街に象はいなくなる。街はそれをお望みだ。
いつから人々は象を疎むようになったのだ。象が何をしたというのだ。そんな疑問をぶつけられる相手も、もういない。
街を出て、砂漠を越えた。冷えた月明かりは私と象をひとまわり小さくさせた。河を渡り、森を見つけ、私と象はそこに留まった。豊かな森だった。象は鼻を使い薪を集め、私は象の背中に乗り果実を集めた。
いつのまにか私は白髪になり、足を痛め、象の背中から降りられなくなった。
「ルイード、出かける時がきたようだ。」
森を抜け河を渡り砂漠を越えた。やがて見えてきた街の明かりで、私の胸はいっぱいになった。
「ああ。ルイード、あれが私たちの故郷だ。」
街に入ると、大歓声に包まれた。
神はうっかり手を滑らせて、地球を支える象を一頭捨ててしまった。
案の定、地盤がグラグラ揺れだした。残った三頭の象が一斉に悲鳴を上げる。
神はすかさずマウスを動かし、象をゴミ箱から元に戻した。
螺旋を滑り落ちる夢を見た。その奇妙な空気の感触とともに目を覚ます。私は、回転と同時に手足がバラバラになるような恐怖を味わっていた。いやな夢だ。
夢の中ではいつも、そこから逃げたい逃げたいと思っている気がする。現実には、特別な不自由もないかわりに、はっきりした満足もない。ただ漫然と日常をやり過ごすばかり。
だがどうだ。一旦心の蓋を開ければ、次から次へと想念が湧き起こり、それに自分自身が追い詰められていく。無益で生産性のない思考の連鎖に。
無頓着で愚かな、愛すべき大人になれたら、つまらない疑問など持たぬ人間になれたら、どんなに楽だろう。
生きていくうちに、わたしはいろんなものを拾いすぎた。物品、関係、そして感情。心の遣り場も既に手狭だ。すべてをそぎ落とし、すべてを捨て、もう一度母の胎内からやり直せたら。・・いやそれも違う。突き詰めれば、私は、私の姿を、気配を、皆否定したいのだ。私がいることによって生じる現象、自分自身の印象、それら存在が、視覚的・感覚的に生み出すもの一切を取り払ってしまいたいのだ。誰にも、どこにも、何の影響も与えない旅人になれたら、どれ程軽いことか。・・・・
ああ。出口なく巡る考えは、今日もわたしを無意味に疲弊させる。これが、夢の中で滑り落ちている魂の螺旋なのかもしれない。
象を捨て去る作業も、まだ当分終わらない。
いよいよもって限界だ。下の部屋から足音が大きいと苦情があったそうだ。ペット禁止のこのアパートで象を飼っていることが大家にバレるのも時間の問題だろう。早く何とかしなければ。しかし、動物園に知り合いはいないし象を引き取ってくれるような奇特な人にも心当たりはない。となると方法は一つ。捨てるしかないのだ。子供の頃に見た川原の子犬のように。
だが捨て象はペット管理法の五十二条で禁止されている。だから象に見えないよう手を加えなければならない。象といったら、特徴的なのはまずその耳だ。この大きな耳は、折りたためばいいだろう。耳の折れ曲がった犬はよくいるものだ。それから長い鼻。このままではちょっと無理がある。かと言って切るにはしのびない。そこで紙テープのようにくるくると巻いてみた。丸めた鼻。おや? これは、蝶の口にそっくりではないか。そこで折りたたんだ耳を広げてみた。その耳に模様を描き込み、体を緑色に塗ると、どこから見ても立派な蝶が出来上がった。
これでよし。そう思ったが、やはり捨てに行くことは出来なかった。あろうことか、その大きな蝶はアパートのドアを通らなかったのである。
パパの背中を、腑抜けた様に視ていた。
もう会わないかもしれない。
玄関で、私の名前を呼んで、
「じゃあ、行くから」
と、いう声が無駄に張りがあって、私は
「じゃあね」
と、冷たく答えた。
ママは、さっさと仕事に出ていってしまっていたのに、誰にも遠慮する必要なんて無かったのに、なんでパパに、
「行かないで」と、言えなかったんだろう。
パパが浮気した事なんて、大した事じゃないし、ママが馬鹿みたいに騒ぐのも醒めて視ていた筈なのに。
私は、パパが動物園で買ってくれた、掌に乗る小さな象を捨てた。
ゴミ箱が、倒れた。
そして、もう一度捨てようとした象の小ささを握り締めて、私は息が止まった。
ぞうさんがきました。おはなの先っぽに、ちょこん、とピンクのカバンをひっかけて。
「ちょっと迷子になっちゃったのよう。少しだけお邪魔していいかしら?」
わたしはぞうさんとお話できてうれしいので、どうぞどうぞとお部屋に入ってもらいました。大きなおしりがドアにひっかかってこわしちゃったのには、ちょっとドキドキ。
「ああら、ありがとうね……ふう、お嬢ちゃんは小さくていいわね」
ぞうさんは、生まれたときに住んでたアフリカのお話をしてくれました。ライオンさんやチーターさんに追いかけられたり、水がなくて大変だったり、あまりいい思い出じゃないみたい。
わたしも生まれたところを思い出します。おひっこしの前に近所に住んでたアイちゃんのこととか、ネコのミレちゃんが死んでしまったことを考えたら、なぜか涙が止まらなくなりました。
「あらあら……」
お父さんが帰ってきて、ぞうさんが泣かしたのだと思って、追い出してしまったけど、わたしは涙が止まらなくなってどうすることもできませんでした。
ぞうさんの悲しい目が忘れられません。
いつか、忘れていったピンクのカバンを返してあげたいです。
そしたら、今度は一緒に暮らしたいな。
カタチを捨てることにしたの。
思いとか、発想とか、目に見えないものだけでワタシだってわかってくれる人、
何人いるかな。
ちょっと不安。
友だちだれもわかってくれなかったりしたら、どうしよ。
でもでもやっぱり確かめたい。
あなたも一度捨ててみてよ。
あなた考え方変わってるから、きっとみんなすぐ見つけてくれるわよ。
有象は粗大ごみです。
無象は形而上ごみです。
分別収集に御協力ください。
飼い慣らされた象達が重石になって、私たちをすっかり縛り付けている。
固まって動かない象を捨てれば、そのたびに私たちはきっと、もっと自由になれる。
もうちょっとだけ、高く飛べるはずだ。