500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第43回:これでもか


短さは蝶だ。短さは未来だ。

 とにかく走った。一歩ごとにあたしの中にいるあいつに「これでもか!」と悪態をつきながら走る。憎らしいことにあたしの中に居るあいつは笑いながら「まだまだ」とせせら笑う。その声だけを頼りに限界を超えた体を動かす。横を見る余裕がないのでわからないけど、隣に居るあいつも同じような状態だろう。あいつの中に居るあたしはさぞや憎らしい顔をしているに違いない。
 とにかく走る。ひたすらに走る。これでもかといわんばかりに走る。
 コースは存在しない。ペースも存在しない。あいつより速く、あいつより前に!
 そう思った瞬間に体が動かなくなって倒れる。気力を振り絞って前を見るがあいつの姿はない。きっと横で倒れているのだろう。
 あたしは聞く。「これって青春?」
 あいつは答える。「そうかもしれないな」
 卒業間近の、よく晴れた日の、これでもかといわんばかりの青春の軌跡。

 ──さて、いったい私は誰と走っていたのだろうか?



女は男の写真を破る。何十枚、いや何百枚という写真を狂ったように無造作に、時折奇声を上げながら破る。一通り破った後、女は小さく息を吐く。一拍置いてまた女は破り始める。今度は細かく、どこまでも細かく破る。
写真の男はこの女によって丁寧に切り刻まれる。女は漠然と破り続けるが破り終えた後の喪失感を知るにはまだ早い。無数の写真の破片が雪みたいだとそう思ってまた破り続ける。



 猫ふんじゃった、猫ふんじゃった、猫ふんじゃ、ふんじゃ、ふんじゃった、ここまでしか知らない。猫ふんじゃった、猫ふんじゃった、私が止めると、猫ふんじゃ、ふんじゃ、妻の命は、ふんじゃった、戻らない。猫ふんじゃった、指が、猫ふんじゃった、痺れて、猫ふんじゃ、頭が、ふんじゃ、蕩けて、ふんじゃった。あの女は本当に、猫ふんじゃった、どこかで聴いて、猫ふんじゃった、いるん、猫ふんじゃ、だろうか、ふんじゃ、言う通り、ふんじゃった、やるしかない、猫ひっかいた、猫かみついた、猫とんだ、ちった、うそぶいた、次の電話は、猫ねんねこりん、まだ鳴ら、猫ねんねこりん、ないのか、猫りんりん、りんりこ、こんころりん、指が、ねこひんじゃった、ずれる、ねけひんじゃった、たのむ、んじゃ、んじ、たのむ、んじょっだ————銀盤は櫂を漕ぐ。奴隷船の櫂を漕ぐ。新月が嘲り、細波が五羽の雛鳥を溺れへ誘う。身は崩れ、椅子も撥ね、未だか、未だかと指が哭く。鎖の奏でが夜霧に煙る。



 私は長い物語が好きなのです。本は分厚く、巻数は多ければ多いほど良い。
 結末という物語が収束すべき一点に向かいながらも、いつまでも物語が続いて欲しいと願う、アンビバレントな感情がもたらす酩酊感。これに勝るものはありません。
 そう言うと、彼は大変立腹した様子でした。彼が、短い物語を書く人だったからかもしれません。
 そんなある日、家を埋めつくさんばかりの大量の本が、彼から送られてきました。添えられたメッセージには一言。
“未曾有の大長編、完結す”
 彼がいかにしてこの物語を書き上げたのか、そんな瑣末はどうでもよいこと。物語が目の前にある以上、私には読むという選択肢しかありません。
 私は最初のページをめくり、それからひたすら読み続けました。
 ただ、ひたすら。
 そうして、どのくらい月日が過ぎたでしょうか。
 まだまだ果てしなく終わらない物語に陶然としながらも、本から顔を上げて一息つく時、その遙か彼方にある最終章の最後の言葉に思いをはせる一瞬。
 そんな時、挑戦的でありながら、それでいて半ば自棄のような彼のつぶやきが、聞こえてくるような気がするのでした。



 橋の上から河原を見下ろしたら、中学生だろうか、学生服を着たもの同士が何やらののしり合っているのが目に入った。かなりの剣幕で怒鳴り合っているようだったが、私の背後をひっきりなしに車が走っているので、何を言っているのかまではわからない。
 様子をうかがっていると、一方がもう一方を殴りつけた。殴られた方が重心を崩し、片膝をつく。すぐに立ち上がったので、これは当然殴り返すだろうと思ったがそうではなく、一歩踏み出すと、ただ顔を突き出した。
 その顔を、もう一人がまた殴る。殴られた方は、よろめくものの、また顔を突き出す。そんなことが何度となく繰り返されているうち、耳が慣れて来たのか、途切れがちに言葉が聞こえるようになった。
「これでもか、これでもだめなのか」
 そしてまた一方がもう一方を殴る。
「これでもか、これでもか、これでもか」
 一方的に殴り続ける合間から、聞こえる声。
 流石に止めさせた方がいいのではと思ったが、私が河原に下りることはなかった。河原からこんな言葉が聞こえて来たのである。
「これでもか。これだけ殴らせてやっても、お前まだ気が済まないのか」



最近みんながうるさいので土の中に潜ることにした。あれしろこうしたほうがいいのって、ああうるさい、ほっといてくれ。さあ潜ろう。その先には静かで安らかな世界が待っているのだ。小さなスコップ片手に掘って掘って掘り進んで、やっと体が入るくらいのところで、でっかい石にぶつかった。面倒なので、無理矢理体を縮めてぼくは土をかぶった。意外に居心地がいい。やれやれ。と思いきや一息つく間もなく、モグラが頭にぶつかって「いてーな。じゃまくせえ。」と文句を言う。じゃまなのはお前だ。追っ払って一眠りしようと目をつむると、突然すごい音がして土の中が激しく揺れた。何かの工事か。がまん、がまん。すると頭を何かに引っ掻かれて、気付くと頭の上の土がない。見上げると、うちのバカ犬の後ろで、母親が冷たい目をしている。どうも、ぼくの安息できる場所はこの世にはないらしい。右手に持ったスコップを使ってあの世へ飛んだ。これで落ち着ける。と思うと「お前、最悪だな。」今度はでかい図体のおっさんがぼくを見下ろしている。俗に言う、閻魔さまだ。やれやれ。仕方がないので、まだ右手に残っていたスコップを使ってぼくはあの世からまたどこかへ飛んだ。



子供たちには行き場がない。失ったのではなくあらかじめ失われていたのだ。芋を洗うようにごった返した大部屋に転がされ、大人の目の届かない隅っこで何も言い出せないまま強請られつづける。受け止めてくれるひとなんていないから似た境遇の仲間と連れ立って、コンビニの監視カメラをかわしながら今日のお楽しみをゲットする。夢を持て、と偉いヒトは言うが、どんな夢を? かれらは大それた望みなんて持っていない。ほしいのは、ほっとできる小さな居場所。ハグしてくれるおっきな大人。それを望んだからって誰かから何かを奪うことなんかありえないのに、かれらはまた片っ端から奪われてしまう。そして奪った連中が売りさばくキラキラしたラベルのジャンク菓子をポケットに滑り込ませ、もう一度手を突っ込んで確かめると、子供たちはちょっとだけ慰められた気分になる。だけどまたすぐアイツらから逃げなきゃならない。たたかう気にはなれない。明日の自分に会いつづけることに疲れきって子供たちは微睡む。



 A国の大統領にB氏が当選した。就任演説で彼は持論・C国侵攻の決行を公言した。
 これを聞いた世界中の人々は立ち上がった。次の日曜日、あらゆる国・あらゆる都市の人民は、A国とB氏に異議を唱え抗議を示すべく、街頭へ繰り出した。同時多発ピースウォークである。
 正午すぎ、異様な騒がしさが気になってカーテンの隙間から外を覗いたB氏は、思わずコーヒーカップを落としてしまった。
 大統領官邸を数え切れないほどの人間が取り囲んでいる。同系統の色の服でそろえた人々が幾重にもなって囲んでいるそれは、蚊取り線香を思わせた。線香の先は、幾つにも分かれながら州を越え国境を越え、やがて世界中のあらゆる市町村へと繋がっていた。全ての道が、人で埋まっていた。その日屋内にいたのは、地球上で新大統領とその側近だけだった。
 正面にいた、主催者と思しき男が拡声器を手にした。
「こ、」



宗助はこれではイカんのだよと云いながらまたレゴのばけつをひとつひっくりかえして赤の六凸ブロックをよりわけて隣りの山に積み増していったが既に富士山の高さを超えていた山の頂上には人が一杯で汁粉屋などもあったので宗助はさらに大きな声でこれではイカん!これではイカん!と繰り返している。



好き。貴方が好き。超好き。触りたい。愛してる。おしゃべりしたい。とっても愛してる。一緒に観覧車に乗りたい。上向きのまつげが好き。同じ空気を吸っていたい。ヨボヨボになっても好き。鼻が曲がるぐらい臭いワキガも好き。絶対好き。抱きしめて。毛深いのも好き。クマみたいなのはもっと好き。ぷよぷよしてて好き好き。死んでも愛してる。貴方を想うだけでホント幸せ。キスするときの不細工な顔も好き。殺したいほど愛してる。内臓とか食べちゃいたいぐらい好き。魂なんか絶対手放してあげないんだから。いやんなるぐらい好き。貴方のライフヒストリ暗唱できるほど愛してる。世界の中心でもハチ公前でも叫べる。自分より好き。目くそまで愛してる。貴方に一目惚れ。グッチよりコムサより好き。すべて好き。信じらんないぐらい大好き。振り向く瞬間とかたまんない。生まれる前から好き。精子の時から愛してる。貴方が望むなら宇宙だって滅ぼせる。サイケデリックなファッションセンスも好き。干し芋より好き。あきれるほど愛してる。名前も声も耳の穴も足のサイズも好き。ホント愛してます。言葉じゃ足りないほど大好きです。全部で愛してます。それから、それから——



早朝。
開店と同時に“売り子”はいつものように頭を上げ下げし、客に媚びへつらう。

やがて、にこやかな表情の内に焦りがにじむ。

何故、店を覗いてくれないの。
何故、気前良く買い上げてはくれないの。

既に正座をした足の感覚はなくなりつつあり、
彼女の脊椎は静かに悲鳴を上げ始めた。

そして、ついに。

彼女の頭部が胴を離れて店先に転がり、そばの観光客がわっと飛び退く。
ドーナツの幅が更に広がる。

誰かが店の奥に向かって叫ぶ。

“たべや人形の首が外れたぞ!”



 この件については、是非とも連合組織会長の助力を仰がなければならない。さもないと、うちのような北海道の弱小企業には生き残る道が無い。だが、会長の手元には有り余る程の現金がある。金で動かすことは不可能だろう。しかも書画骨董等の所蔵品も金を使って趣味に沿うものはあらかた手に入れてしまっているし、持っている土地もいい場所ばかりと来ている。どうすれば会長を動かすことができるのだろう、どうすれば…。ただ一度、会長が納得したのは、菓子折りの底に敷いた小判を差し出された時らしい。それも、小判自体に喜んだのではなく、時代劇がかったやり口が気に入ったらしい。そうなると…。

 ようやく会長との面会が叶ったが、会長は、
「いくら積んでも、首を縦には振らぬぞ」
と、口をへの字に結んでいる。だがその言葉こそ、こちらの望んでいたものなのだ。
「いえ、折角ですから、いくら積んでもなどとおっしゃらず、中の黄色いものを改めるだけでもお改めになって下さい」
「黄色いものとな。二番煎じは効かぬぞ…」
 会長が蓋を上げ中を一瞥、そしてにやり。
 どうやら、最上級の雲丹を用意しただけのことはありそうだ。



 ぼくは、朝を見たことがない。
 父さんが子供のときに朝はなくなってしまったのだそうだ。会ったことのないおじいちゃんは父さんと同じ発明家で、お父さんにまた朝を見せようと色々な研究や発明をしたのだけど、結局、何もできずに死んでしまって、だから次は父さんが朝を作ろうと決めたんだと、いつか父さんがぼくに教えてくれた。朝の空は青いんだということを教えてくれたのも父さんだった。
 それでも、あんまり何度も失敗するから父さんに、もう諦めたらどうかと言ったことがある。 
 父さんはそれから何日かあとに死んでしまった。事故だった。
「いつか、おまえに朝を見せたいんだ」
 と、ぼくの質問に、目を合わせないようにして答えた父さんみたいに、今はぼくがいつか、君に朝を見せたい。駄目でも駄目でも、これでもか、これでもかと、おじいちゃんや父さんと同じ口癖を言いながら、いつかぼくが朝を作る。そうして、ぼくたちは見たことのない青い空を、ふたりで並んで見上げるんだ。



振られて苛立つ気持ちでやけ食い宇宙丸呑みゲップが星屑シャワーで午後七色の雨降って点々落ちて夕日が沈んで赤色燃えるタンカー沈没油が浮かんで海原絡まる回想火にくべ弔う煙は灰色広がる曇天雨粒固まり重いが降らずとどまる思いに振り向く空には星星広がる宇宙



これでもか

 約束はやむを得ず破られなくてはいけない。
 秘密の通信は暴かれなくてはいけない。
 待ち合わせにはアクシデントがなければいけない。
 密会は関係者が偶然見ていなければいけない。
 相思相愛の者は意地を張り合わなければいけない。
 でなければ引き裂かれなければいけない。
 トラウマは語られなければいけない。
 敵味方は判り易くなければいけない。
 そして裏切る者には相応の末路が待っていなければいけない。
 しかし共感できる裏切りならばその限りではない。
 幸不幸はもっと判り易くなければいけない。
 されど理不尽な不運に見舞われた者の救済策を忘れてはいけない。
 教訓はもっともっと判り易くなければいけない。
 特に反社会的な題材ならば判り易い社会正義を散らばしておかなければいけない。
 伏線の回収よりも流れのダイナミックさを重視しなければいけない。
 仄めかし隠喩暗喩は出来るだけ控えなければいけない。
 だが意味ありげで実は意味の無い言葉はその限りではない。
 むしろやるならば徹底的に謎を重ねて議論を呼ばなければいけない。

ディレクター「こんなもんですかね」
プロデューサー「そんなとこだろ」



「ね、ね、あれ、何だろう?」
 ビルの谷間から覗いている正面の大通りに、何だか大勢の人がひしめいている。歩行者天国で大道芸でもやっているのだろうか。
「行ってみようよ、面白いかもよ」
 言われなくても、このまま進めばそこに着く…とは言わずに、ただ「うん」と答える。
「本当に何だろうね。並んでるのかなぁ」
 近づくに連れて、その人の塊の様子が見えて来る。確かに、雑然としてはいるが、列の形を成し少しずつ進んでいるようだ。
「ほら、やっぱり。ね、混ざってみようよ」
 止しなよと言う間もなく、由美子は列に横から入ってしまう。私も会釈をして続いたが、割り込まれた形になった人たちは並はずれて寛大なのか、特に怒った様子はない。
「十円カレーみたいなのかなぁ?」
 列の進みは遅い。それでもこれだけの人を並ばせているものとはいったい何なのかと考えていると、前方から紙が回って来た。
「何だろう、メニューかな? 注文を決めておけば、少しは早く列が進むってことでさ」
と、笑いながら由美子はその紙を取った。
「消費税増税絶対反対。私たちの声を国会に届けましょう…って、うーん、これデモか!」



 コレデモカはニワトリに似ているがハトの仲間である。鳴き声が「コレデモカコレデモカ」と聞こえるところから名づけられた。「コレデモカ」は現地の言葉で「空腹」を意味する。人々はコレデモカが「コレデモカコレデモカ」と鳴くたびに面白がって食物を与える。これをコレデモカは面白いように食べる。人々はますます食物を与える。コレデモカはいくらでも食べる。だからコレデモカはどれも丸々と太っている。太り過ぎて飛べなくなってしまったものも少なくない。体が重いため地上でも動きが鈍い。容易に捕獲できる。捕獲されたコレデモカはコレデモカな人々の胃袋を満たす。



 いつの頃からだろう、気がついたら青白い顔した幽霊に付き纏われるようになっていた。
 大枚はたいて評判の神主さんにお払いを頼んだけれど駄目だった。
 遺体を捜し出してお弔いをしてみても駄目だった。
 やけっぱちに塩を撒いても駄目で、引っ越してみても気がついたらそこに居る。
 悪霊退散家内安全交通安全安産祈願合格祈願大願成就学業成就身体健全駄目だった。
「もう知らない! 好きなだけ付き纏え!」
 とうとう手立てがなくなってやけになってそう叫ぶと、途端にぷちっとどこかへ消えてしまった。



 ここまで散々にぶちのめせば素のおまえが現われるに違いないと思っていたのに、残ったのはもぬけの殻のシャツが地面に一枚。
 そいつに向かってもう一発、おれは渾身のトーキックをお見舞いする。捲き上がる砂埃に目を凝らし、息を切らしておまえの残像が浮かび上がるのを待ち続ける。



これでもか!と思いながら生地をこねていたら、クビになった。
これでもか!と思いながらスパーリングの相手をしていたら、クビになった。
これでもか!と思いながら愛していたら子供ができた。
これでもか!というほど今、幸せ。



 気取りくさった指の一本一本に真っ赤なカギ爪をつけてやる。無愛想な黒い服の上からぼいんぼいんと巨乳を飛び出させてやる。頭は当然バーコードハゲだ。しかも矢が貫通している。目には丸眼鏡、お上品ぶった鼻の穴はぐりぐりと大きく、酷薄そうな唇の上下に山なりの分厚い唇を描き足し、そのあちこちから乱杭歯を覗かせる。とどめは額に「肉」の字だ。もうひとつおまけに口からの吹き出しの中には「屁のつっぱりはいらんですよ!」と絶叫調の文字を入れてやるからな。

「あなた、さっきから何を考えてるの?」
「別に」

 妻と初めての海外旅行。ルーブル美術館の中、世界で最も有名な絵画の前にて。



「ある男の飼っていた猿が腹を空かしたあまり主人をぐつぐつと油が煮えたぎる大鍋に突き落とした。主人は服ごと空揚げになったが生焼けで、どうにも食えない。隣の家の主人が猿をゆでた蟹と生魚で(蟹は甲羅がかたく、魚は生で、どちらも食べられない)庭におびきよせ、鍋にぶちこんで、空揚げにして食べた」
「猿は美食家だったんだな」
「人間は口にはいるものなら何でも食べる」
「食えないやつだ」



雨上がり。まだどんよりした雲が空を塞ぎ、その隙間を押し分けて
差し込む朝日に、もみじがはにかむように葉を赤らめています。
今年初めて見た紅葉です。もうそんな季節なのですね。

ススキの穂も出そろい、毎日風とおしゃべり。アワダチソウは、
わがもの顔に視界のあちらこちらを埋め尽くします。道路には、桜
の病葉が散り始めました。蓮は、薄桃の花びらが、上品な蕾を作っ
ていたのが嘘のよう。今では茶色い実が、幽霊の化石のように伸び
上がっているばかり。栗のイガも、いつの間にかすべて落ちました。

そして晴れた日の夕方には、雲が、それは見事な茜色に染まります。
刻々と色味を変え、やがて無彩色になっていく空のドラマを眺める
のは、本当に久しぶり。暑い時期には忘れていたことです。

秋はやってきました。静かに、確実に、降りてきました。これでもか
これでもかと、私を取り囲み始めました。私はただ、3年前の記憶が
よみがえる季節の到来に怯えます。

冬はいらない。冬が来る前に、どこかに逃げようかとも思いました。
でも。
今年は向き合います。去年とは違う自分を試したいのです。
これはわたしの小さな決意。見守ってください。

           神無月中浣                多鶴子



アナタと秋の海を観に行ったのは、もう3年前。

私達が出会ったあの日、あんまり会話がギクシャクし過ぎたから、話の流れに乗った勢いで、「今度、一緒に海に行こうか」なんて、少しお愛想に私は言ってみた。
「じゃあ、今から観に行こうよ」
彼は、意外にも微笑んだ。そういう彼は車なんて持っていない。でも私は、行動しようという彼に恋を感じた。

2人ともお金が無くて、各駅停車の電車で着いた、朝日を浴びたヌルイ砂浜を裸足で歩いた。
あれから私は、彼に「今度は砂丘が観たい」「雪原が観たい」・・・と、これでもか、という冗談めいた要求をしているが、彼はいたって普通に笑い、相変わらず、「いいよ、行こう」という。
勿論、各駅の電車で。



 夕食を作ろうと包丁で豚のもも肉を切り分けていたら、突然まな板の上からもも肉が飛び出した。捕まえようとしても、細かくされたもも肉は床を這いずり回ったり、壁に張り付いたり、近付いてくる蝿を食べたりしてなかなか捕まえることができない。
 やっと全部集めたときにはもう日は暮れていた。こんな生意気な肉は懲らしめてやらなければならないと、フードプロセッサーでひき肉にした。すると今度はクラゲのようにプカプカ浮いて逃げ出す。手で抑えようとしても、指の間からぐにゅりと逃げて、窓から外へ出る。
 それを見ていた野良犬がミンチをパクリと食べた。思わぬご馳走に満足していたら、そいつのお腹がパクリと割れて、中からひき肉の入った内蔵が出てきた。
 私はその内臓を取り押さえ、沸騰していたお湯にドブンと入れた。これで新鮮なソーセージの出来上がり!
 ちょっと腐ったチーズの臭いがするけど、食べられるならいいよね、これでもOK!



「行かないで」
 高い天窓から月が照らすホールで、男の背中に白いドレスの女性が抱きついた。
「父様が軍に除隊金を払ってくれたの。あなたが魔族との戦いに赴く必要は無いのよ」
 軍服にマントをまとい剣を帯びた男は、女性の止める手に優しく手を重ねた。
「前線で戦友がまだ戦っている。仲間を見捨てることはできない」
 振り向き、女性の目を見て言う。
「そんな。私達、婚約したじゃない。 軍に戻るのなら守備隊として私を、この街を守って」
 言われて、男は女性を抱き寄せた。
 長いくちづけを交わす。
 やがて、月に雲がかかったようで、薄闇が二人を包んだ。
 すっと、女性から離れる男。
 目を開く女性。
 男は、すでに玄関扉に手を掛けている。
 女性の泣き声は、扉の閉じる音にかき消された。
 男が戦地で傷つき記憶を失い、魔族が地上を支配するのは、これより三週間後の話となる——。





Forever Fantasy X−2
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 悔しい、悔しい、悔しい。
 心の中で叫びながら、私は荒野で一人手を動かす。
 手に力は込めない。ブラシとはいえ、地中の化石は容易に傷付くからだ。
 代わりに、真一文字に引き締めた口に、かがめた背中に、曲げてしゃがんだ両足にありったけの力を込める。それでも、憤りは収まらない。

 畜生、畜生、畜生。
 ひとなで、ふたなで、みなで。
 優しく、丁寧に、繊細に、へばりついた石塊をなで払う。
 歯をくいしばったまま、上腕筋を振るわせたまま、お腹に力を入れたまま。
 どうして、撤収命令が下った。どうして、資金援助が打ち切られた。どうして、発掘をやめなくちゃならない。
 ここに、眠ったままの化石があるのに。

 ひとなで、ふたなで、みなで。
 リーダーたちは、抗議に行った。
 私はしゃべれないし、現場から離れたくないのでついて行かなかった。
 だからここで、無言の主張をする。
 どうして、どうして、どうして。

 ひとなで、ふたなで、みなで。
 やさしく、やさしく、やさしく。
 頬を熱いものが伝ったが、力を抜かない。
 荒野の地平線に、日が沈む。
 負けない、負けない、負けない。
 私は、ここに、骨を埋める。



 風が唸る。しっかりと握りしめられた拳の甲が光を放ち、淡く輝く刻印が浮かびあがる。精緻な機械の如く流麗な動作でもって、拳が振り抜かれる、刻印が爆ぜる。圧倒的な衝撃が墓石を襲うがそれは崩れない。表面に刻まれた墓碑銘に亀裂は走らず、乱れもしない。術師は眉ひとつ動かさず、連続して左の拳を振るう、刻印が爆ぜる。それでも墓石は倒れない。術師は淡々と、回ってきた作業をこなすように両の拳を交互に繰りだす。日が暮れたが、墓石は倒れない。月が夜を泳ぎ星が瞬く夜空の元、術師は延々と墓石を殴り続けたが、傷ひとつ与えることができなかった。
 千億の月日が流れた。隕石が墓石とその前で白骨を晒している術師を直撃した。粉塵が舞い上がり、塵芥が空を覆う。最早、地上に日光は降り注がず、速やかに氷河の時代が訪れた。術師の骨は隕石に押し潰され方々に散ったが、墓石は無傷で残った。吹雪が墓石を抱きしめる、極微の氷の礫が墓石に刻まれた墓碑銘を塗り固めてゆく。五百文字弱の墓碑銘は容易く雪に埋もれ、表面は白一色に塗り固められた。
 墓石はそれでも倒れない、その心臓はまだ脈動している。



 コーヒーにも様々な種類がある。ブレンド? アメリカン? オーレ? ラテ? いや、私が言っているのは、そんな、濃いだの薄いだのミルクがどーだのこーだのというような、飲み方に類することではない。アイスとホットとをあげて、違う種類だとは言わないだろう? え? 違うって? いや、まぁ、それならそれでもいいや。ともかく、そうだとしたら、今言っているのはそういう飲み方の違いによる種類のことではなく、コーヒーそのもの、豆そのもののことなのだ。
 コーヒーの代表と言ったら、その数ある種類の中でも、モカだろう。コーヒー発祥の地の豆であり…といった薀蓄を披露するよりももっとわかりやすい例をあげようか。
 よくお菓子にもコーヒー味というものがある。だが、コーヒー味と呼ばない場合、その味はまず間違いなくモカ味と呼ばれている。ケーキにしろクッキーにしろ、コーヒー風味のその味はモカ味で、決してコロンビア味やブルマン味ではないのだ。例えばこのキャンディー。これもモカ味だ。口にすると、コーヒーの代表であるモカの野生を感じさせつつも気品のある味が舌の上に広がって…って、なんだ、これは! これでモカだって?



あ、いらっしゃい。
あの、外に“これでもか”って。
はい、やってますよ。
じゃあそれを、あ、値段は。
じゃあ50円。
じゃあ、って。
ご注文は以上で。
あ、はい。
かしこまりました、
少々お待ちください。
はい。
お待たせいたしました。
わっ。
どうも。
早いですね。
ええ。
…これ。
何か?
ティーバック。
はい。
これは。
はい、セルフサービスとなっております。
ははあ、セルフサービス。
です。
全然色が出ないんですけど。
もっと、ホラこうビチャビチャと。
わあ水が飛びましたよ水が。
あ、じゃあ飛ばない程度にジャブジャブ。
自分でやりますよ、じゃぶ、じゃぶ、苛々しますね、じゃぶ、じゃぶ、…あ、やっと色が出てきた。
やりましたね。
でも薄い。
ええ、少々薄くなっておりますね。
で、これは結局。
実は。
実は。
モカなんです。
モカ!
ええ。
いま飲んだけど、これでモカですか、このお湯みたいのが。
ぷぷ。
なんですか。
モカなんです、ぷぷ。
何なんですか。
だから、これでモカ、これで、もか、ぷぷぷ。
ああー…。
これでも。
…こういうことよくやるんですか。
ええ、わりかし、たまに殴られますけど。
でしょうね。
なかなか楽しいですよ。
すいません、普通のコーヒーいただけますか。



蛇口をひねる。ひねる。ひねる。蛇口をひねる、私。ひねる。流れる溢れる。地球の水をすべて吸いとってしまうの。独り言は存在してすぐ水音にかき消された。蛇口からはまだゴウゴウと水が流れている。



これでもコアラは
       り
       き
       っ
ことりにめがけて
       



の   零時に
レコードを
        田 
  でかい音で 園 で 
           、
できるだけ遠くまで
     足
     中
    で
    も

 もうしぶんなく
   ゃ
もうれつに流し続ける
   に
   もうすぐ

   か
かぼそい穴があく
   な   り
   く   か
   今   え
   日   す
   も



 可愛い孫(僕のことだ)がどんなところに住んでいるのか見てみたい。そう言って、じいちゃんが田舎からやって来た。駅で待ち合わせた。大通りに出るなり、
「これデモか」
 と、じいちゃんは人の多さに驚いていた。田舎にはデモも歩行者天国もないから、政治とコーヒーにだけうるさいじいちゃんは、デモの方しか知らなかったというわけだ。
 僕の部屋に着いてすぐ、じいちゃんは手を叩いた。開いた手の平で虫がつぶれていた。
「これでも蚊」
 じいちゃんはあきれたように言った。田舎の蚊はもっと武骨でたくましい、都会は人間も蚊も軟弱にしてしまう、と。
 苦笑しつつ、何か飲む? と僕が尋ねると、かばんから豆を取り出して言った。
「これでモカ」
 そんなじいちゃんの、今日は命日だ。



ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・ツルルー・・・


なぜ出ないの??
居ることは分かってるのよ。



 年に一度しか逢えない人に恋をしています。

 寂しさが極まると、無理にでも別れることを試みたりもします。
キライなところを探して、傷つけられた言葉を憶い出して。
 それは年に一度の逢瀬イヴの行事になってしまったのだけれど、逢って、これでもかほど愛し合ってしまうと、すっかりどうでもいいことになってしまうのです。

 今年こそは、明日こそは、別れることができるのでしょうか。
 いいえ、わたしは本当に、彼と別れたいのでしょうか。



暴れてる子

「これでもかっ!!」
と、くすぐった
ところで

やめる訳もなく

喜んで
また暴れるだけ

そんな所も

可愛いとさえ
思えてくるのが

不思議だ

そしてまた

「これでもかっ」
と繰り返す

お互い
可愛いもんだ



 ぶーん。ぶーん。
「何かさあ、いーかげん頭に来るよね」
「そーそー、明日も七時から練習だから、早く寝ないとバテちゃうって言うのにさ」
「電気点けたら見つけられるかなぁ」
 ぶーん。ぱちり。
「どこにもいないねぇ。どこ行ったんだろ?」
「姿が見えないねぇ。カーテンの裏かなぁ」
「でもさ、音もしないんだから、それだったらこのまま寝ちゃえばいいんじゃない?」
「そだね。じゃあ電気消すよ」
 ぱちり。ぶーん。
「何でさぁ、電気消すとまた出て来るんだろ」
「やっぱり夜行性なんじゃないの」
「飛んでてもいーけどさ、羽音立てないで欲しーよね。だったら寝れるのにさ」
「でも、知らない間に血を吸われてるってのも、何かねー。気味悪くない?」
「何言ってる。羽音がしてても、血を吸われるのって、知らない間じゃない?」
 ぶーん。ぶー…ばちん。
「お、取れた?」
「取った、取った…って、あれ? 何、これ? こうもりみたいな羽してて、尻尾が2つに…」
「本当だ。これって、これでも蚊?」



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「見とれ〜!俺が勝ってみるからな!!」
そう叫んだのは、私の彼氏だ。
これでもか、という程、顔が真っ赤に染まっている。
「無理しちゃだめだからね」
「あぁ、わかっているさ。絶対勝つから、心配はするな」
…絶対勝つ、と言い放つ事ができる彼氏は何かとてもかっこよく見える。
のろけとかそういうものじゃないよ?言っとくけどさ。
でもきっと、他の人にはのろけに聞こえちゃうんだろうなぁ。
私は何気なく、目が合わずとも彼氏を見ていた。
「お?おまえ、何見惚れてるんだ。俺、そんなにかっこいいか?」
「なっ、何言っているのよ!見惚れてなんかいないわ…(照)」
…ううん。。彼氏の言う通り。。私、見惚れていたわ。見惚れていたのよ。
これでもか、という程。



手袋もマフラーもコートもみんな奪い取って、それでもなお私は言う。
「寒い」
困ったように彼は首をかしげ、とうとう帽子も脱いで私にかぶせる。
「そんなこと言ったって君は僕の服こんなに着ているのに。これ以上どうすれって言うんだい?」
公園で、真っ暗な中でぼぅっと仄かにうかんで見える雪が綺麗。
なんでわからないのかなぁ。
言わせてやろうと頑張ってるのに。
こんなに私は待っているのに。

貴方の腕で暖めてくれれば、手袋もマフラーもコートも何もいらないの



 私が気持ちよく寝ていますと、突然口の中にゼリーのような物が押し込まれて、びっくりして目を開けるとぷよぶよした半透明の物体が私にのしかかっていました。驚いたことにどうやらそれは生きているらしく、私の口をねじ開けて中へ入ってこようとしていて、慌てた私は咄嗟に近くにあった熊の置物でそのぷよぶよ物体を横から殴りつけました。ぷよぶよは怯んだのか私から一旦離れましたが、また襲いかかってきたので、何度も何度も殴ったのですが、でもだめなのです。ぷよぶよはぷよぶよしているから、手がずぶりと中に入り込んでしまうのです。それで今度は包丁を取ってきてざすざす切りつけました。体液が吹き出て、それでもぷよぶよは切った端からくっついてしまい、もう頭にきた私は灯油をぷよぶよにざばざばとかけてライターで火をつけました。さしものぷよぶよも火には弱かったらしくどろどろに溶けてしまって、それはよかったのですが、家まで燃え始めてしまい、仕方なく私は窓から逃げ出して、星空の下で端から燃えていく家を眺めていましたが、いつの間にか服がぐしょぐしょに濡れていたせいで私は風邪を引きました。



 お誕生日おめでとう、と、ママが言う。
 要らない、と、少女は答える。
 お誕生日おめでとう、と、パパが言う。
 要らない、と、少女は答える。
 どうして、と、お兄ちゃん。
 私はお花畑が欲しかったの。少女は答える。だってそれは一輪しかないじゃない。
 まあまあご覧よ。ね、これは立派な花畑だから。
 お兄ちゃんは微笑んで、すっ、と手を伸ばす。
 合わせ鏡の向こうで花が咲き花が咲き花が咲き花が



 新作を拝読し、感激して再びペンをとりました。『象を捨てる』のときには「泣けない」「象が出てこない」と失礼なことばかり書いてしまいましたが、今度の『シマウマの帰還』は「これでもか、これでもか」とばかりの展開に涙、涙の連続でした。それに、これを読むことによって『象を捨てる』をとてもよく理解できたんです。まるで魔法にかかったみたい! もしかしたらこの小説はわたしのために書いてくださったんじゃないかしら、なんて(だとしたら二人だけの秘密ですね)。
 特に感動したのは、「白黒が反転してもシマウマはシマウマだ」というセリフです。そうなんですよね。世界が逆さまになったって、わたしはわたしなんですよね。とても勇気づけられました。
 そして、何といってもラストのどんでん返し! まさに「これでもか」といった感じです。びっくりしました。まさかあんなことになるなんて! いい意味で裏切られました。だって、きっと悲しい結末なんだと思っていたから……。
 次もまた「これでもか」というような、せつなくて泣ける、でもハッピーエンドの作品を期待しています。

 追伸 もしよろしければ、お返事をいただけませんでしょうか?



 勘弁してください勘弁してください、と私は、土下座して額を床に擦りつけた。いや、擦りつけるなんて甘い甘い、ごんごんと繰り返し叩きつけて見せていたのだ。すぐにおでこの感覚がなくなって、なんだかゴム鞠みたいに弾みはじめて、と同時に瞼が垂れ下がってきて視界が狭まったから、顔面の上半分がたひどい負けかたをしたボクサーのように内出血でぶよぶよになっているに違いないと判った。なおも床に叩きつけて弾ませるうち、頭部といわず上半身全体がぼたんぼたんと跳ね返らないくらいに柔らかく緩んできて、やがて私は床の上にスライム状に広がりはじめたのだった。それでも許しのひとことは貰えず、マゾヒスティックに上半身を震わせ続ける私はどんどん液状化して床一面に薄く伸びて、狭い部屋に数ミリの厚さでもって溜まってしまった。で、絨毯に吸収されたり、建て付けが悪いこのビルの隙間に沿って流れて、床下へとぽたぽた滴り落ちながら、それでも、勘弁してください勘弁してください、と詫び続けようとはしたけれど、たぶん声は出ていなかった。実のところは、もうどうだっていいや、という気になりつつあって、そのうちモップを手にした年寄りが近づいてきた。



目が痛い。
おおい。二階の女に呼びかける。
目薬が一滴、落ちてきた。

まだ目が痛い。
おおおおい。二階の女に呼びかける。
豆腐が一丁、落ちてきた。



 僕は花が好きだ。花の近くにいると、気持ちが落ち着く。寝る時も花の陰で静かに眠りにつきたい。僕には夜にふらふらと出歩く趣味は無い。人の注目を集めたいわけではないから、外に出る時には出来るだけ目立たないように気を配っている。騒ぎながら動き回って、自分がここにいると喧伝するような趣味も僕には無いのだ。食事も動物性のものではなく、もっぱら植物性のものを取っている。子供の頃は動物性の食事を取っていたが、大人になってからはそんなこともなくなった。花が好きなのに植物性のもので食事を取っているというと奇異に感ずるかも知れないが、そんなことはない。僕はある種の連中のように草の葉や茎をばりばりと齧ったりはしない。僕が好むのは花の蜜である。それと関係があるのか、僕の身体は大きくは無い。女どもよりも小さいが、男は別にそれで構わないのだ。
 普通僕らの仲間が持たれている印象と言えば、「昼の間は隠れているくせに夜になると何処からか現れぶんぶんと音を立ててうるさく飛び回り、気付かないうちにこっそりと人間の血を吸う」というものだが、そんなのは女どもだけである。例えあなたたちの考えているものとは違っても、僕もこれでも蚊なのだ。