やあ、面白いことが始まったぞ、とガラス球を覗き込んだ誰か。
ガラス球の中には、火を初めて使った猿。やがて群れを成して集落が出来、徒党を組んで街ができる。
もっと楽しいことを、もっと新しいことを。
ガラス球の中では石で家を作り、蒸気の力で車を転がす。
狭くなった大地を離れて海を越え、新しい土地にまた街ができる。
もっと楽しいことを、もっと新しいことを。
ガラス球の中では鉄の箱が空を飛び、電気が夜も明るく照らす。
街は賑わい、糸のほつれない、縫い目の無い服を、皆が着ている。
もっと楽しいことを、もっと新しいことを。
ガラス球の中では海が四角く囲まれて、山も四角く削られた。
皆が等分に区分けされた部屋の中で、寝そべって毎日を過ごす。
ガラス球を覗いていた誰かは何も言わなくて、不意にガラス球をむんずと掴み、頭の上まで持ち上げて、ぽいと手を離した。
かしゃんと言って割れたガラス球。
ガラス球の中では狂ったようにボタンを押しつづける猿。
何度押しても誰も来ない。何も出ない。
人間を作った誰かはぷいとどこかへ行ってしまった。
初めに降ってきたのは、樫の実のつぶてだった。よけなくてもたいした痛みはないので、僕はそのまま進んだ。
次に降ってきたのは栗のイガだった。これにはいささかまいった。つば付きの帽子が、その攻撃から、なんとか僕を守ってくれた。
僕はまだ進む。次は雨が降ってきた。靴には穴があいているのに、雨は地面をびしびし叩き、長い間勘弁してくれない。
それでもぼくは進む。進み続ける運命だけが、目の前にころがっているのだ。このことに僕は、とまどいもしない。従うことが、今はとても楽しい。
次に降ってくるものはわかっている。雨があがったら、空には無数の星が出る。そうなれば、降ってくるのは流れ星だ。それならいくつ降ってもかまわない。願い事はたくさんある。ひとつひとつに、託して歩こう。
僕は進む。進み続ける。なぜ進まなくてはならないのか、なぜ立ち止まれないのか、本当はもうよくわからなくなっている。でも、それでいい。その理由は、なぜか知りたくない。星が降るのを待ちながら、僕はひとり、ただひたすら前に前にと進む。
〜 今では還俗(げんぞく)した、とある男の語る少年期の物語 〜
忘れもせぬその日の未明、私はパチパチと何かの爆(は)ぜるような音に目を覚ました。
がば、と上体を起こせば、障子ごしに赤い光がチラチラと大きく蠢いている。
「本堂が燃えている!!」
障子を開け放った私は、むんむんと吹き付ける炎風から顔を背け、
もつれる足で本坊の出口へと奔(はし)った。
既に本堂が中央に聳(そび)える、池のほとりには兄弟子たちが集まり、
池の水をバケツで汲みかけたり、庭の砂利を投げつけたり、と
効果の余り期待出来ぬ消火活動を行っていた。
ふと傍らに眼を遣(や)った私は、いつも泰然とした言動で頭の上がらない住職が、
へたりこんで静かに落涙している姿を認めた。
日ごろの説法では、
「人生に迷いはつきもの、しかし我々仏の徒弟は、決してとまどってはならぬのだよ」
と優しく、かつ厳しく教え諭してくれた彼の唇からはその時、
こんなか細い悲痛な叫びが漏れ聞こえて来たのである。
「春画が・・・儂(わし)の春画が・・・」
「お待ちのお客様、ご注文お決まりでしたらお伺いいたします」
「え、ええっとえっとぉ…、え、笑顔、ください」
「はい。笑顔ですね。かしこまりました。お一つでよろしいでしょうか」
「あ、はい。……あぁっと、えと、今ここでじゃなくてですねぇ…」
「はい?」
「それ、笑顔、お、お持ち帰りしたいんですけど」
「はい。そういたしますと、お客様にカメラ等ご持参いただきまして、そちらでご撮影という形でしたら、お持ち帰りになることが可能です。ただし、その場合、笑顔提供者への肖像撮影許諾料といたしまして、相応の金額が別途発生いたします。具体的にはそうですね、大体この程度か、と。また、それとは別に肖像プライバシー権に関する契約書を…」
「あ、あ〜、や、やっぱいいです。言ってみただけですんで…。…すみませんでした」
「あら、お客様?」
「は、はい?」
「店内でしたら、大丈夫なんですよ? 笑顔お一つで0円になります」
「いいえぇ。いいんです。もう」
近所に男子高ばかり三校もあるせいで、この店にはたまに今みたいなお客様がある。でも、ごめんなさいね男子高生諸君。そういうお客様に対してのマニュアルも、うちは完璧なの。
「願いごとは何かな?」
盲目の魔法使いが問いました。
「世界中で1番の金持ちになりたい」
1人の大人が答えました。
「叶えよう」
大人は事業で大当たり。一国の王以上の大金持ちになれました。
「望むものは何かな?」
盲目の魔法使いが訊きました。
「ぬいぐるみ!」
1人の少女が答えました。
「与えよう」
魔法使いは魔法をかけてありとあらゆる全ての動物をぬいぐるみに変えました。
「望むものは何かな?」
盲目の魔法使いが言いました。
「夕焼けが欲しいな」
1人の幼童が答えました。
そこで魔法使いは太陽をひょいっと捕まえるとビンに入れて蓋を閉じ、幼童に贈りました。
途端に世界は真っ暗の夜闇。
嘆き声を上げる人々の中、戸惑わぬのは盲目の魔法使いだけ。
宿命という名の乗客を乗せ、回転木馬は廻り続ける。
突然に別れた貴方と会った。突然のコトなのにとまどいもせず「元気?」なんて…ビックリして思わず「元気です!!では。」なんておじきをしてその場から足早に立ち去ってしまった。歩きながら「もう忘れてたと思ったのに案外平気じゃなかったんだな。」なんて思ってセンチな気分になったりして…。「今度会ったらとまどいもしないで話でもしよ…」そんなことを考えてタラタラ歩いてたら、またバッタリと貴方に会ってしまいそうで急いで駅の階段を駆け下りた。
「お茶ちょうだい」
と言うと、妻は言われた通りにお茶を持ってくるけど、このお茶、出涸らしだね、ダメだよ、新しいのに替えないと。新しいお茶を煎れてね。いや、もう慣れたけど。
「お腹が減った」
と言うと、妻は何かしらの料理を作ってくれる。特にリクエストのないときは、あり合わせの食材でなんやかや作るからすごい。すごく料理が下手だったのに、随分うまくなったもんだ。
「馬は旨い」
なんてダジャレを言うと、妻は「面白いですね」と言う。顔が笑ってないよ。ちょっと前までは、どうしていいのかわからない顔くらいしたのに冷たいなあ。いや、平気よ。
「好きだよ」
と唐突に言うと、妻は「私もあなたが好きよ」と言う。僕は、そこで困ったような顔をする君が大好きだったのに、なんて無表情。そんなんじゃなかったのに。
いや、そういう顔をするように、今の君はできていないんだし、仕方がないね。もっとお金を貯めてそしたらそういう顔ができるようにしてもらってもいいね。そうしよう。でも、今はまあ仕方ない。
「君が好きだよ」
もう一度言うと、君はやっぱり「私もあなたが好きよ」と表情を変えないで答える。
いや、慣れた慣れたもう慣れるよ、もう平気、普通普通。
「見てろよ!」
と、あいつは太陽を背にして叫んだ。
僕はプールサイドに座って、高さ5メートルの飛び込み台の上に立つあいつを見上げた。
あいつは両足をそろえ、両手を耳につけるようにピンと伸ばし、一呼吸置いて、プールに向かって飛び込んだ。イルカのように弧を描く。上がった水しぶきは控えめだった。
水の底からあいつが飛び跳ねるように浮上し、息を深く吸ったあと、大きくガッツポーズ。
「見てたか!」
僕は迷わず拍手をした。
お帰りなさい。えっ?話なんてあとにして、一緒に見ない?掃除したら出てきたの。懐かしいわよねぇ。もう20年も前になる。 3月生まれだから、17歳なんだよ。この写真。若いなぁ。あなたと結婚するなんて思いもしなかもの。この頃はただずっと片想い。
憶えてる?学祭の衣装作りでわたしと二人っきりなったことあったでしょ。あれ、アキコもナツキもみんなで、あなたと二人っきりにしよって・・・あの時どうしていいかわからなくて、一言も喋れなかった。いっぱいいっぱい喋りたいことあったのに、声が出なくて。懐かしいなぁ・・・
どうして掃除したと思う?この写真から何度も季節が巡って、もうわたし37だよ。アキコとの不倫だって、ナツキとの不倫だって、そんなこと知らないはずないじゃない。それ以上言わなくても離婚してあげるわ。愛してるもの。
本当はイヴの夜がよかったのだけれど。
贅沢は言うまい。その日は彼は仕事、その代わりとして今夜時間を割いてくれたのだ。
「どうした?」
「ううん、何でも」
キャンドルに照らされた彼のオレンジ色の微笑みは、私の心の澱まで溶かしてくれる。
そんな穏やかな気持ちが、サラダを半分食べたところで何処かへ飛び去ってしまった。
「どうした?」
私の変化を察したのだろう、彼の声音もさっきとは違う。私は、そっとフォークの先端で、お皿の上のレタスの陰を指し示した。
そこに糸くずにも似た緑色の生き物を認めると、彼は自分のサラダのお皿を差し出し、私のものと取り替えるように言った。
どうするのだろうと見ていると、彼はフォークのお尻で器用に虫をお皿の端に寄せると、何事もなかったかのように食事を再開した。
「ねぇ、お店の人には言わないの?」
「ここで頭を深々と下げられたりしたら、周りの人が何かあったと思うだろう? そうしたら食事を楽しめなくなるんじゃないかな」
そうだ、彼のこんなところが好きだったのだ。私は改めて彼への想いを噛みしめていた。
旦那を殺して庭の端に埋めました。何も知らずに息子がその上に種を植えました。
次の日芽が出ました。彼の死体の養分のせいだと思いました。
嬉しそうに芽を見つめる息子に言いました。「この下にはね、お父さんがいるのよ」
息子はとまどいもせず、「じゃあお父さんのおかげで咲くんだね」と言い、沢山水をやりました。
何の花が咲くかは分かりませんが、花が咲けば私はその花を抜くと思います。
虹色の花まで、あと少しだった。
きこりの息子が立つ崖から、珍しい花が咲く岩肌まで5メートル離れている。下は千尋の谷。
それは百年に一度咲くという伝説の花。持って念じると、心の底からの純粋な願いであれば叶い、花びらの色が消えるまで何度でも叶えてくれるのだ。
彼には片思いの少女がいる。街の名士の娘で、内気な女の子だ。不治の病で入院している。
「虹色の花、見てみたいなぁ」
頬を染めての言葉を聞いた彼は、花があるという険しい岩山を目指した。手に入れば、彼女の病も治ると信じて。
そして、ボロボロになりながらも辿り着いたのだ。
彼の跳躍力は、約5メートル。ためらいもせず、跳んだ。
しなる体が日の光の中、弧を描く。
届いた!
一輪握ったが、彼は落ちた。
落ちながら、とまどいもせず願った。
花は手から離れ風に乗った。
「今日は天気がいいから」と、少女は病室の窓を開ける。ひょう、と風。舞い込むは虹色の花。
予期せぬ出来事に喜ぶ少女。突然、吐血するがとまどいもせず、願った。
「私の想い、届けて」
花の色は消え、少女は二度と動かない。
かわりに病室の窓から虹が伸びた。
きらめく光彩は弧を描き、岩山のすきへと届いた。
ある朝、僕はヒバリの歌をうたっていた。
ある朝、僕は絵の具をぶちまけたような原色世界を落ちつづけていた。
ある朝、僕はあったかい土の中でじっと時を待つさなぎだった。
ある朝、僕は月の上から裏返った地球を眺めていた。
ある朝、僕は大声で笑う女の子の周りのやわらかい空気の中にひそんでいた。
ある朝、僕は速さを追求して弾丸のように飛び跳ねるトビウオだった。
ある朝、僕は虹に腰かけて甘すぎるバームクーヘンを食べていた。
ある朝、僕は誰かが覗き込んでいる宝石の中で歪んでいた。
ある朝、僕は消滅した世界でただ一匹消滅し損ねた猫だった。
つき合い始めてからかなりの時間が経っても、俺と彼女には肉体関係はなかった。機会が全然なかったわけではない。彼女も同意の上で場を設定したことも何度もあったのだが、その度に間が悪く、彼女にはお客サマが来ていた。今度こそはと意気込んで来た今回の旅行でも、食事のあと先にシャワーを使いベッドで待つ俺にシャワーから出て来た彼女が言いづらそうに言ったのは、
「ごめんなさい。始まっちゃったの」
という聞き慣れた言葉だった。
またかと思ったが、そういうことなら仕方がない。その日も何もせずに寝ることにした。
翌朝俺は、そっと彼女より早く起き出した。いつも決まって俺よりも早く起きる彼女の起きぬけの顔を見て、不首尾に終わった分の埋め合わせにしてやろうと思ったのである。
すやすやと寝息を立てる彼女のその鼻の下、顎先、頬には、あってはならないはずのものが、俺と同じように青々と浮いていた。
まさか、彼女は実は男だったのか。
そう気付いた瞬間、これまで偶然を装ってでも関係を持つことを彼女が拒否し続けて来たことに納得が行った。そして女である彼女に俺が惚れてしまった謎も解けたのである。
ごめんね、なんとなく私わかってはいるんだ。
今から勝手にドキドキしてたり。
でもちゃんと言って欲しくて。この前から何度もためらうあなたに「どうかしたの?」って少し急かしてみたりして。
きっと大丈夫だから、だからさ、思い切って言ってみて。
驚かないから。嫌じゃないし。
そしたら私まよわずに返事をするから。
だって私あなたがすごく好きだから、まようことなんか全然。
それでさ、これからもずーっとまっすぐ愛し合っていけたらいいな。なんて、違う話切り出されたら私、逆にとまどっちゃうかもしれないけどさ。
とまどいもしない。今日君に打ち明けます。僕がカツラであることを。今日こそと決意を決めて…もうとまどいもしないぞ!!ムムム…
荷の言いも照れくて蝉を井戸まとい楽し超すと秘いなら待つニウトン火照ったなあ
男の妻が男に言った。「昨夜一晩考えたの。やっぱり私達、離婚しかないと思う。」
男の上司が男に言った。「キミ、明日から来なくていいよ。意味わかるよな?」
近所の子供が男に言った。「あのね、おじさんには近づくなってママが言ってた。」
路上の占い師が男に言った。「あらやだ。あなた顔に死相が出てるわよ。」
医者が男に言った。「余命一年です。お気の毒ですが。」
警察が男に言った。「お前は完全に包囲されている。」
野良犬が男に吼えた。「バウ!ワウ!」
男は思った。
「で?」
ふとっちょのおかみさん、子だくさん。ふとっちょの影を引っかけてやぶっちゃった。
ふとっちょのおかみさん、子だくさん。とまどいもしないで痩せ・中肉・肥満の子宝を物色して、ためらいもしないでぺたんこに伸して影の代わりにくっつけた。
ふとっちょのおかみさん、それでもまだ子だくさん。
とある真夜中——。
博士はついに新薬『とまどいもしない』の開発に成功した。『とまどいもしない』は文字通り、どんな状況が起ころうと”とまどいもしなくなる”薬である。
「こりゃ世紀の大発明じゃ」博士は興奮した様子でそう言った。おそらく、この薬を欲しがる人間は山のようにいるだろう。初デートに挑む青年、本番に弱い受験生、リストラに怯える中年、病院で検査結果を待つ老人……。
博士は沸きあがる好奇心を抑えきれず、早速、自らの体で薬の効果を確かめてみることにした。ゴクリ——。飲んで間もなく効果は表れた。高ぶる気持ちがすうっと和らぎ、心の邪念が消えていく。博士は思った。「嗚呼、まるで波のない海のような心境じゃ」
その時、悲劇が起きた。博士の飼い猫が机の上にあったコーヒーを倒してしまったのだ。そして無残にもコーヒーは、薬の製造工程を記した大切な研究ノートの上にこぼれ落ちた。
だが博士はとまどいもしなかった。まるで他人事のようにその光景を眺めては、「これこれ」と優しく飼い猫の頭を撫でた。研究ノートはみるみるうちにコーヒー色に染まっていく。
飼い猫が申し訳なさそうにニャア、と鳴いた。
波の音が聞こえた。白い家。白い壁。ノイバラが絡みつくフェンス。君は笑っている。朗らかに時を楽しんでいる。立ち上がると君の形に光がこぼれ、ふり返りふり返り歩くその後ろでは、春や、夏や、秋のかけらが、どれも明るい色をして舞う。
今は君のいない風景。見ないふりをしようとすればするほど、一つ一つが目にしみて、胸が苦しくなる。
いれたてのコーヒーの匂いは?焼き上がったキャラメルパイの匂いは?いったいどこを漂っているのだろう。
喜びながらたたく、小さな掌の音は?階段をかけ下りる時の、癖のある足音は?いったいどこまで昇っていってしまったのだろう。
あの頃へ行く乗り物が突然目の前に現れても、僕はとまどいもしない。そしてそれに乗ることを、ためらいもしない。なのに。
触れたくても触れられないガラスの向こうの絵は、切符が買えずに立ちつくす僕を、しんと静かに見ている。すべてを閉じこめ、すべてを放ち、今も、静かに見ている。
——人々がまだ広大な海の広さを恐れていた時代に、海の向こう側に思いを馳せる者がいた。その者は海の向こうへ行こうとしていた。
誰もがそれは無謀な行為だと思ったが、その者は「いつかは誰かが向こう側へ行くだろうが、どうせなら自分が最初に行きたい」と言った。
そして、その者は海の向こうへと旅立っていった。
——人々がまだ空高い雲を見上げていた時代に、雲上から見下ろす風景を夢見る者がいた。その者は雲の向こうへ行こうとしていた。
誰もがそれは無謀な行為だと思ったが、その者は「いつかは誰かがその風景を見るだろうが、どうせなら自分が最初に見たい」と言った。
そして、その者は雲の上へと旅立っていった。
——人々がまだ星々とは手が届かない存在だと思っていた時代に、遥か遠い星を目指す者がいた。その者は空の向こうへと行こうとしていた。
誰もがそれは無謀な行為だと思ったが、その者は「いつかは誰かがそこへ辿り着くだろうが、どうせなら自分が最初に辿り着きたい」と言った。
そして、その者は空の向こうへと旅立っていった。
——人々がまだ遥か銀河の外へ行く術を持たなかった時代に……
神に愛されてるとハッキリわかったから、僕は思い切り飛んだよ。
それきり世界は止まったまま。
締切後三日目、発表はまだ。
「戸、窓、芋、竹刀」
そう書かれた紙を見ながら、勇者はひどく困惑していた。
……この暗号は魔王を倒すための重要な手掛かりだ。だが何度読み返しても、さっぱり意味がわからない。戸と窓はともかく、芋と竹刀には一ミリの接点もないではないか。まさか竹刀で魔王を倒せということでもあるまい。
勇者が途方に暮れていると、仲間の一人がこう言った。
「あたしゃね、芋に秘密があると思うんスよ」
「芋に?」勇者は思わず聞き返した。芋に秘密とは、なんたる盲点だろう。
「詳しく聞かせてくれ」
「魔王はきっと、芋が苦手なんスよ」
なるほど、と勇者は思った。
だが「戸」や「窓」はどうなる?「竹刀」だって未解決のままだ。すると仲間は言った。
「大事なのは、いつだって一つだけなんスよ」
勇者はその言葉に妙な説得力を覚えた。……そうだ、俺はいつもアレもコレもと手を出して、結局すべてが中途半端に終わっていた。今大事なのは芋、芋だけなのだ。
やがて魔王の元に辿り着いた勇者は、魔王の前で芋を喰らった。これで魔王は震え上がるに違いない。勇者の顔は大いなる自信に満ちていた。
魔王はゆっくりと立ち上がると、とまどいもせず勇者を殺した。
数字が反乱を起こす。
彼ら彼女らは誰ひとり、引かれることを、割られることを、怖れない。たとえマイナスになろうとも、割り切れなくなる危険にも、ためらうことはない。
とめどない減少に、人類は、人類だけが、希望を失い途方に暮れる。
人類の絶えた世界で穏やかな眠りに就くことを思えば、数字たちは、とまどいもしない。
ある風のない日のことです。森の小道を、おとうさん、おにいちゃん、おとうとくんの三人が連れ立って歩いておりました。
先頭がおとうさん、次がおにいちゃん、いちばん後ろがおとうとくんでした。
森の奥で、ふとおにいちゃんたちが気づくと、おとうさんの姿が見えなくなっておりました。でも、おにいちゃんは、慌てませんでした。このところ、おとうさんたちの様子がおかしかったので、もしかすると今日当たり捨てられるのではないかと思っていたのです。
「おとうとよ、僕たちは捨てられたんだ。でも、心配はいらないぞ。こんなこともあるかと思って、僕がちゃんと・・・って、おい!」
見ると、おとうとくんは、おにいちゃんが目印のためにと道の途中途中に置いて来たお菓子を拾って食べていました。
「お前、それは帰りの道がわかるようにと僕が置いて・・・さては、みんな食べちゃってたんだな。あーもう、どうするんだよ」
取り乱すおにいちゃんを気にも留めず、おとうとくんは、ずんずんと歩き始めました。
「どうしたんだよ、どこへ行くんだ」
おとうとくんの進む先には、来る時に捨てたお菓子の包み紙が点々と転がっていました。
知人が何者かに殺されたという。警察が来たが、俺が捕まる理由はないので普通に応対してやった。この前俺と知人が会っていたという情報があって、一応、話を聞きに来たのだそうだ。とりあえず、ひととおり被害者の話と俺との関係なんかを訊ねて警察は帰っていった。
「あまり驚かないんですね。」
「ええ、そんなに親しい間柄でもなかったですし。」
会話の途中のやりとりを思い出す。実際、それほど話す仲ではなかった。死を聞いて悲しんだり、驚いたりするほどの人間じゃなかった。ろくな男じゃなかった。人の弱みを握って脅してくるような屑だ。そうか、死んだか。死んで当然だろう。そう、当然だ。やっぱり死んでいたか。念のため証拠を消しておいて良かったな。それにしても、あの男はどこで俺が昔こどもを殺したことを知ったのだろう。男を殺せば済むことだから、焦りもしなかったが。警察が訊ねてくるのも予測できたことだ。しかし、あれは少し戸惑って見せた方が良かったかな。変に勘繰られても困る。これからは気を付けなくてはな。
ああ、何か面白いことはないかな。
修学旅行以来二度目の東京。けれど前回は移動のほとんどがバスだったので、地下鉄に乗るのは初めてだ。地下鉄に乗るだけだったらまだしも、JRとの乗り継ぎもある。それでも昨日一度大学まで行ってみたし、何しろ一時間以上の余裕がある。これなら間に合わない訳がない。そう思っていたのに、駅に着いた途端予定がいきなりパーになった。
アナウンスが、人身事故による電車の不通を報じていたのである。
駅員さんに詰め寄る人もいる。慌てた様子で電話をかける人もいる。朝のラッシュ時でもあり、この駅から出ているのはこの路線のみ。バスによる代替輸送があるらしいが、遠回りになり時間が倍くらいかかるようだから、みんなが右往左往するのも当然と言えよう。
そんな中、わたしは彼に電話をかける。
「うん、うん。じゃあバスで出て、そこからまず地下鉄に乗っちゃって、そのあと、うん、うん、うん、わかった、ありがと」
教えてもらったルートを使えば、初めの予定とそう変わらない時間に会場に着けそうだ。
持つべきものは、ミステリー、それも時刻表トリック好きの彼氏である。私を殺そうとさえ、思わないでいてくれたらね。
「こりゃあ聞いた話なんですがね、むかしむかしどっかの国に泣きも笑いもしねぇ男がいて、この男がまあ世間から心のない人でなしの畜生めなんて影で言われまして、ひどい話ですよ、で、ある日そこの町で、ある人が殺されちまったようだと、ところがこのお人がさあ大変くだんの男の奉公先の旦那様だ。まあ普段っから周りに良く思われていない男にお役人も目を付けるわけで、ひどい話、男は旦那からつかいを頼まれて主人が死んだことを知らねえで帰ってきたところにこのお役人だ。旦那が死んだと伝えるとまあ男は例のごとく泣きも笑いもしねえ。いや、笑うのはいけない。それが命取り、どうにも怪しいてんでハイお縄を頂戴、ところがその後本当の犯人が捕まったてありがたーい話」
「やはり貴様が下手人だな」
「いやだから違いますのでこのありがたーい話を引き合いに」
「屋敷の宝が盗まれたことに驚くでもなく、嘘の話をでっちあげてこちらを丸め込もうとするあたりますます怪しい。あ、懐から宝が見えるじゃないか。お縄頂戴」
「いやこれは違うんですよ。これもまた聞いた話なんですがね…。」
あたしがゆっくりと顔を近づけると、彼女はそっと目を閉じた。
そのまぶたの色を確認してから、あたしもそっと目を閉じた。
「ありがとう」
小さくそう言ったけれど、彼女には聞こえただろうか。
顔にぽつりと雨を感じ、俺は傘をひろげた。この傘はコンビニの傘立てに何本もあるビニール傘の中から適当に選んだ一本だった。うすっぺらい黄色。この傘が本当は誰のものなのか、なんてどうでもいいことで、もしかしたら自分の物をちゃんと引いているのかもしれないな。なんて少し思うだけ。
雨で肩を濡らしながら駅へと向かう。いつもの待ち合わせ場所で、彼女が笑っていた。彼女は傘に隠れた俺に気がついてない。傘を閉じた俺にも気がついてない。
どうでもいい。もしかしたら彼女はもう自分のものかも。なんて少し思っていただけ。
だから別にとまどいもしない。同じ様な傘はいくらでもあるから。
ひとつがふたつ、ふたつがよっつ、自動的に、機械的に、規則的に。
概念もなく、意識もなく、よっつがやっつ、淡淡と、まっすぐ、まっすぐ。
複雑化、多様化、分岐して、かちかち、コ・エンザイム、螺旋が。
半分と半分だった時から、まっすぐ、ただ、定められた道を。
三十八億年、惑った道の、最短を確認して、ひたすら、光に。
意志でなく、意識でなく、しかしがむしゃらに、ひたむきに、
光に。最後のトンネルを抜けて、前へ、前へ。
おめでとう、最初の声は、歓喜のファンファーレ。
「豆腐っぽい牛」
「塩っぽいヘラ」
「マヨネーズっぽいさだまさし」
「わたぼこりっぽい視線」
「くちびるっぽいニワトリ」
「西条英樹っぽいアナゴさん」
「あれ、よっちゃんたけちゃん何やってるの?」
「とまどいもしないごっこ」
「そう」
「何それ」
「言葉で相手に動揺させられた方が負け」
「今は何々っぽい何々でやってるの」
「ふうん」
「正太郎くんもやる?」
「なかなか面白いよ」
「うん、じゃあやる」
「片栗粉っぽいカメハメ波」
「チョンマゲっぽいもたいまさこ」
「…えーと、ダンシングオールナイトっぽい岡田真澄?」
「おお、正太郎くんシブいとこ突くねえ」
「もんたよしのりかー」
「いやー、もたいまさこもなかなか」
「それじゃあ、お麩っぽい御家人斬九郎」
「「シブいねえー」」
気象予報士たちが一列になって空を見上げていた。そこはビルの屋上で最低限の視界は確保している。他の場所から見下ろされることもない。屋上の扉が重い音をたてて開くと気象予報士たちがいっせいにそちらを向いた。スーツの男が入ってくる。
「予報官さまだ」
「しっ。誰かに聞かれたらどうする」
まるめた天気図をチラつかせて、予報官は言った。
「明日は休日だ。わかっているな」
「はい。雲は多めですが、お出かけ日和になるでしょう」
「朝晩雨のパラつくことがありますが、広い範囲で強く降ることはありません」
「一時的に強く降ったとしても、洪水の心配はいりません」
「よろしい」
気象予報士の誰もがどこか「息のもれる」ような喋り方をするのは、鎖骨の直下に一対の鰓が口を開けているからだ。気象協会の掟にしたがって、たとえ女性でも胸元の大きく開いた服を着ない理由がこれでわかったことだろう。鰓を隠さなければならない。
「ではそういうことで」
予報官はもったいぶって頷くと、入って来たときと同じように出て行った。
明日がどんな天気だろうと、大丈夫。われわれは気象予報士なのだ。もし大洪水が来て陸地のすべてが水没しても、われわれにはこの鰓がある。
わあ、みんなよくがんばったね。あんな難題おしつけられたのに平気な顔してこなしてきちゃうんだから。
でも、それこそあたしが予期したとおりだよ。みんなの実力なんてお見通しさ、みたいな。
それにひきかえあたしなんてほんとだめだよね。中途半端ばっか。くっそ〜、いつか「おう」って言わせてやりたいなあ。
直子はNのことが好きだった。友人たちは背が高くてハンサムな彼で羨ましいと言うけれど、直子が好きなのはNの外見じゃない。
Nは高学歴で一流企業にも勤めているけれど、そんなのも関係ない。
直子が好きなのはNの口もとのホクロ、それだけだった。
だから——
「ずっと騙してきたけど、本当のこと言うよ。じつは俺、女なんだ」
Nがそう告白してきたときも一言ですんだ。
「あら、そうだったの」
——戸惑いもしない。
あたしはあのひとが好き。好き、はあたしの問題だからあのひとがあたしを好きでないことは別にかまわない。かまわないけれど、好きでないものが傍にいてもあのひとは幸せじゃないから、困る。あたしの好きとあのひとの幸せと、どちらが大切か考えてみて考えるまでもない。初詣のお願いはずっと前から決めてあった。
あのひとが幸せでありますように。
あのひとを幸せにする人がちょっとあたしに似てるといいな、なんて考えはすみっこに押しやる。
待ち合わせはデパートの前。携帯電話の着信音。二十分ほど遅れるという連絡。自動ドアの前に立つ、自動的に開く。エレベータの前に立つ、上を向いた矢印を押す。扉が開く、自動的に開く。箱に乗る、上昇する、チンと音が鳴る、扉が開く。エレベータを降りる。目の前に本屋。店内を物色する、目当ての本が見つかる。レジに持っていく、支払う、店を出る。トイレに入る、用を足す、エレベータに乗る、エレベータを降りる、デパートを出る、腕時計を見る。十五分。周囲を見回す、人はいない、気づけば君もいない、誰もいない。
シミュレータが終わる。宇宙人はふむと頷く。演算の海から生まれた平均男性の平均的行為は、少ない時間の中でいくつもの文明的機械を使いこなしていた。それも意識することなく自然と迷うこともなく。宇宙人は一度、身体を震わせると手元に置いておいたマニュアルを一読してから、モニタの電源を切った。宇宙人は鈍い動作で部屋を出て、マニュアルを片手に部屋の鍵を閉める。マップを見ながら自室へと戻りながら宇宙人は思う、この星は厄介だぞと。
トーマが日本にやってきたのは一週間ほど前だ。恋人を殺した三人の日本人マフィアを追ってきた。
公園の噴水前のベンチで、中国人の情報屋を待った。真っ青な空に噴水の白が鮮やかだった。
約束の時間から五分ほど過ぎた頃、
「あなた、トマ?」
スタジアムジャンパーの男が声をかけてきた。頷くと、三人のうちの一人、榊が市内にいると言った。マンションの名と部屋番号を告げて、男は去った。
トーマはその夜、榊を殺した。
翌日、こんどは時間ぴったりに、情報屋はトーマの隣に腰を降ろした。
「トマ、山口も市内」
トーマは山口も殺し、数日後にまた情報屋と接触した。
「わかったか?」
「わからないことはないね」
「どこだ?」
「土井もしない」
「そうか」
トーマが立ち上がろうとすると、情報屋は悲しそうな顔をした。
「でも、半島」
シナイ半島だった。ちょっと遠いので、断念した。
「ハイヨ、チャーシューメン薄味くん玉ノリ」
カウンターに、どん、と、置かれたドンブリを前にして、ゆみ子は途方に暮れた。
時給の高いアルバイトではあったが、いざ仕事が始まってみて、その理由がわかった。そのラーメン屋では、とにかく、麺の固さだの味の濃さだの乗せる具だのの組み合わせがやたらと多かったのだ。しかも四六時中混雑して気の休まる間がないと来た。
『確か入り口横のお客さんだったような・・・』
ゆみ子が躊躇していると、空きドンブリを下げて来たパートのおばさんが、
「何だい、どのお客さんだかわかんないのかい。新人はしょうがないねぇ」
と、チャーシューメンのドンブリをむんずとつかみ、すみのテーブルへと運んで行った。
『サスガだなぁ。あたしも早くあんなふうにできるようにならないと』
そう思いながらおばさんの後ろ姿を見送るゆみ子の耳に、おばさんとお客さんとのやり取りが聞こえて来た。
「ちょっ、おばさん、俺塩だよ、塩!」
「ありゃごめんなさい。アハハハ」
「おばちゃん、それこっち。俺だよ、俺!」
なるほど。大事なのは誰の注文だったかを憶えていることではないようである。
出版記念パーティの席上で、評論家が挨拶の最中に突然、倒れた。
偶然その場に居合わせた刑事が駆け寄る。評論家の背中に刺さったナイフは心臓まで到達していたのだろうか、すでに呼吸をしていない。刑事はステージから離れた場所で酒を飲んでいた小説家に向かって言う。「あなたがやったのですね」
小説家は、平然と、乾杯をするようにグラスを高々と掲げる。「ええそうですとも」
小説家は逮捕され、評論家の遺体が運び出される。ゲストたちは何事もなかったかのようにパーティを続行する。
出版社勤務の夫に連れられ初めてこの国を訪れた女は戸惑った。「どうして? どうして誰も、何故、とか、どうやって、とか問わないの? どうして誰も、驚きも悲しみもしないの?」
夫が答える。「この国では、ミステリーがまったく売れないんだ」
DJマイクさん、こんばんは。「雨の日に聴きたい一曲!」ということで、私はオレンジブルーの『とまどいもしない』をリクエストします。この曲は、私が高校時代に付き合っていた彼がよく口ずさんでいた曲です。卒業を境に彼とは別れてしまったけれど、この曲を聴くと今でも彼を思い出します。
——OK!彼に届くといいね!ラジオネーム”イルカのペンダント”ちゃんからのリクエストで、オレンジブルー!『とまどいもしない』!Here we go!
突然の雨 降り出した午後
だけど僕らは とまどいもしない
Singin' in the rain たとえ世界が壊れても
Dancin' in the rain 君がいるなら構わない
ずっとその手を 離さないから・・
一瞬、時が止まった気がした。僕は不意に我に返ると、慌ててカーステレオのボリュームを上げた。……紀子だ。そう直感した。”イルカのペンダント”は、僕が紀子の誕生日に初めてプレゼントしたものだ。そして僕が大好きだったこの曲。
もう一度あの頃に戻れたら、僕はこの曲の歌詞のようにきっと紀子を離さないだろう。若すぎた恋の脆さを想うと、胸の奥が小さく痛んだ。乾いたアコースティックサウンドが切なく響く。
僕は込み上げてくる懐かしさを振り切るように、強くアクセルを踏んだ。
前から歩いてくるのが初美だと知って、僕は少なからず動揺した。
初美とは大学一年の夏に知り合い、すぐに交際を始めた。だが卒業時まで続いた二人の関係は、一瞬にして途切れた。原因は僕だ。他に好きな人ができたのだ。そして一方的に別れを告げてから、初美とは連絡を取っていない。
あれから三年。風の噂で初美は勤務先の同僚と結婚したと聞いていた。僕は僕で新しい恋人とは半年も続かなかった。
「偶然、久しぶり」そう声を掛けると、初美もこちらに気付いていたのか、少しはにかみながら「元気?」と聞いてきた。
「相変わらずだよ。初美は?」
「今、もう結婚してるの」
「知ってる。仲間から聞いたよ。おめでとう」
「ありがと」
「じゃあ、急いでるから」
「うん」
初美は前よりずっと綺麗に、大人の女性になっていた。僕から別れを告げたこと、初美はどう思っているのだろう。あれから僕は自分という人間を深く憎んだ。初美を裏切ったこと、大切なものを手放したこと。
でも今、ほんの少しだけれど救われた気がする。初美は新しい道を、新しい人と歩んでいる。突然の再会に初美が少しもとまどいもしなかったこと、それが初美の三年前に対する答えなのかもしれない。
すぐに裸になる女だなんて失望したって? 終わったあとでよく言ったもんだ。まあ何と言われようがかまいやしないつもりだけれど。
随分とあたしに幻想を抱いていたんだね。生娘だとでも思ったの。そうじゃなくても恥じらいくらいは見せてほしかったって。
勝手なことばかり抜かしやがる。ああ怒っているわけじゃあないさ。安心おし。
でもね、あんたに失望されるほどあたしは落ちちゃいないつもりだよ。
あたしだって、昔はうぶだったんだ。
彼女はちょっと酔っていた。
「神様はきっとものすごく我侭よ」
足取りをふらつかせて、振り向いた顔は泣き笑いのような表情。
「自分勝手な子供みたいに、気に入らない玩具なんてひとかけらのとまどいもなく壊してしまうの。どう?」
「どう、と言われても」
僕はどう答えていいかわからない。何か哀しい過去でもあるのだろうか、と思ったりもしてみる。
彼女はぼくより少し年上で、会社の先輩だった。忘年会の帰り。ふたりで歩くのもはじめてなら、こんな無防備な姿を見るのもはじめてだった。いつもはきりりときつい視線で僕の書類のミスを発見する名人なのに。
「そう考えたら、何だかほっとしない? 自分たちがここにまだ存在してるってことに」
きっかり3秒、僕は彼女の顔を見つめていた。意味がわかるまで3秒もかかったってことだ。
そしてその3秒が過ぎたあと、彼女はやおらぷっと吹き出し、軽やかな足取りでタクシー乗り場へ向かっていった。
とりがの鳴きごえ響きわたり
まどべの少女は籠を開けた。
どれみふぁそらし、とりは唄い
いきなり空に飛びたった。
もう帰ってこないだろうと
しょうじょはすぐにわかったけれど
なみだもみせず、とまどいもせず
いつまでも空のかなたを眺めつづけた。