500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第52回:隣りの隣り


短さは蝶だ。短さは未来だ。

退屈な古文の授業中、僕はうつ伏せて寝る振りをしながら、ちらりと隣に目を向けた。そこにはクラス……いや、学校一のマドンナ、藤沢舞ちゃんの横顔がある。
 彼女は僕の視線なんかには気がつかない。瞬き一つせず黒板を見つめ、先生の話に耳を傾けながら、細く色の薄い字で授業の内容をノートに書きとめていく。
 何の変哲もない授業中の光景を盗み見る事で、僕は他の男に対する優越感を覚え、春爛漫の恋心を満たし、幸せいっぱいの一日を送る事ができるのだ。
 ——あぁ、可愛いなぁ
 相手は学園一の人気者。かたや僕は、普通も普通、平均ど真ん中ストライク男。一般的常識に照らし合わせてみれば、釣り合う釣り合わないの話どころか、ほんの僅かな見込みさえみつからない不遇な片思い。
 でも、見ているだけ。それだけでいいんだ。
 その時。
 僕の視線に気づいて……ふっと、はにかみながら微笑み返してくれた。
 隣の席の藤沢舞ちゃんではなく、
 隣の隣、伊藤健太、性別男、柔道部在籍、身長百八十オーバーのものすごく漢らしい笑み。それも、頬を少し赤らめて、目を逸らしては僕を見て……目を逸らしては……僕を。
 何故だろう。
 背筋が冷たくなった。
 隣の隣は危険なのだ。



 って、佐藤さんだったっけ?
 えっ、なんだって?
 ? ロタンシ・シクガ・ミツナ・シギネミ・……ンペンタウョチ・ノナキス?
 っか!
 覚えきれねぇよ。おまえよくそんな長たらしい名前覚えてんなっ。

 などと、妻と会話していたのであるが、私が特定したものを、それ、として妻が認識しているということは恐ろしいことで、それはつまり、あれが私であってもかまわないのと同じで、これが私であってもかまわないのと同じで、そんなあ
んなと考えていくと、すべてが私であってもなんら問題がないのと同じことのように思えてきて、そうなると私である私は希薄になるばかりで、つまりもっとつきつめていくとなにもないことと同じと言い換えてもよいかもしれなくて、つま
りその特定された、あれ、について思考され、書かれたものはその意味が、砂塵舞う空に紫の太陽かぼちゃ(ようするにここにならんでいるものはすべてというわけなのだが)かもしれなくて、

 などと、くだくだ思考していると、
「ねぇ、聞いてんの! 夕飯、とんかつでいいのっ?」
 と妻が叫んだ。
 
 で、妻の姿を探してみると、この部屋にはいなくて。
 するとおまえはどこにいるのさ?



 全6戸、2階建て木造アパートの一室で男はウォッカをバヤリースで薄める。隣室の玉音放送がうるさいので壁を叩く。叩くほど音量が増すので仕方なくチャイムを鳴らすが反応はない。見ればドアは少し開いていて、隙間には新聞拡張員が脱ぎ捨てたシグマのスニーカーが挟まっている。ドアを開けると刺激臭が鼻を刺す——カーペットは檸檬のカビだった。その先にあるのは書留を誤配をした郵便局員の撲殺死体。死体を足の甲で転がすと床に孔が空いている。覗いてみると階下では抱き鯉を背負った男が愛人の上に乗っかっていた。恍惚とした愛人と目が合ったので死体を戻し、男は部屋へ戻った。スクリュードライバーを飲み干した男は少し気が大きくなって、さっきの情事をもう一度窃視したくなった。騒音は止んでいる。生唾の音に注意しながら死体を転がして孔を覗くと、今度は抱き鯉が愛人の下で情死していた。彼と白目が合ったので死体を戻し、落ちていた受領書に押印すると郵便局員はお辞儀をして去っていった。封を切ると玉音放送が始まった。



 その重厚な響きは「チェロのための夜想曲」の母となったが、これは後日の話。
 隣の平行世界から越してきたばかりの彼女は、少し顔がしょうゆ臭くなった夫がまたも同じ罪を犯しているのを見て、激情に流されたのだ。
 って、またじゃない!
 それ、私の!
 いやん不潔!
 とか言いながら、いつもの癖でチェロを振りかぶって三閃。夫がごくごくと口をつけてラッパ飲みしていたアミノ酸飲料のペットボトルはかくしてころがり、いかにも燃焼しそうな中身をぶちまけたのだった。キッチンの床に広がる血液に混じって逆流したため、たった今、夫の体が二十一グラムほど燃焼し減少したのは豆知識だ。
 いかに平行世界といってもやっぱり隣程度じゃ大差無いのよねぇとため息をつき、仕事を終えたチェロをハードケースにしまいこむ。思い切ってソース顔くらいにならないとなどと窓越しの欠けた月に夜想するのも、いつもの癖だ。
「ただいまー」
 玄関の声に反応し、彼女は自分に見つからないように、すばやく平行世界移動の準備に取りかかった。足音がキッチンに近づいてくるが、彼女は俊敏だ。見つかることは無いだろう。
 彼女にとって反復横跳びは、昔取った杵柄。



 はじめて君に会ったとき僕達は中学生で、その頃から君は可愛かった。言えなかったけどね。ふたつずつくっついて教室に並んだ机で隣りになることはなかったけど、通路をはさんで隣りになったことはある。やった、と思った。でも僕はろくに話しかけられなかったし休み時間になると君の友達が間に入ってくるし、隣りというよりもうひとつ向こうにいる感じで、ちょっと遠かった。
 高校も同じだった。こっそり喜んだ。こっそり小踊り。同じクラスにはならなかったけど。二年の夏休み明け、一番仲の良かった友達に彼女ができた。三人でいるとき君は彼の向こう、隣りの隣り。
 僕は専門学校に進んだ。彼女は予備校通い、彼氏は大学進学。まあ、そうそう会うこともなくなった。少しありがたかった。
 何ヶ月か後に偶然出会った君は彼と別れていて、そのときはそんな話とかそうでない話とかして。
 中略。
「おとうさんはやく」
 呼ばれて後ろからのぞきこむ僕の隣りには、誕生日ケーキに三本立てたロウソクの火を吹き消す娘がいる。
 僕と反対側、娘をはさんで隣りの隣り、君は僕と声をそろえて「おめでとー」「おめでとー」、ニッコリ微笑んで、これから三人で君の作ったケーキを食べるのだ。
 うん。



 喩えるならば、数年ぶりに電話を掛けてきた親友とまでは呼べない同級生。
 或いは、その同級生に誘われて行った居酒屋のやたら話に絡んでくる大将。
 或いは、その飲み会に遅れて参上した一度だけキスした事のある女友達。
 はたまた、盛り上がったその夜も終りに近づき酔い覚めにとザブザブ洗い流して自虐的に話し掛けた鏡に映るヨッパライ面。
 つまり多少の緊張感は要するが苦笑いは共有できる距離感なのだ。
 席に戻ってジョッキに手を伸ばす。全部飲み干すつもりだったが思い直して少し残す事にした。そんな無意味な拘りも多分そうなのだろう。



なんでも、それはそれは大そうな御方が近々御出でになるらしいと云う事で、城下は色めき立っていた。元より噂好きは民の性、やれ上様に縁の御方である、いや舶来の客人である、将軍様ではないのか、手前が聞いた処では、と流言羽子の如くに飛び交った。飛びも飛んで諸隣国にまで届いたものだから穏やかではない。仔細を突き止めよ、事によっては好機、他国に後れを取るな、と差し向けられた忍隠密の者共も、各々の命の下、密かに火花を散らし合う事態となった。果たして件の御方の正体巡り城下ぐるり一帯表に裏に光に闇にあらゆる伝聞と刃と思惑とが入り乱れ、二転三転と双六の如く、七転八倒、苦汁を舐めるという有様も多々であったが、結局の処は何方様であるのやら、明らかとはならずに振出に戻るという始末。そうこうしている内に本日、いよいよ御見えになるとの事である。きりきり舞った忍隠密、野次馬、物見遊山の面々、皆一様に、その御姿のしかと認められるのを、今か今かと待ち構える。そして、
 告げる太鼓の音。

ドドンッ

 お隣り様の、となーりぃ——

ドドンッ



ど引うっし越てせな!の引かっ知越らせな!い隣がに、住隣んので隣るのお住ま人えは、隣引のっ住越人せが!気引にっ食越わせな!いひらっしこくあ一っ日、中おわまめえいどてこいかるら。入いっずてれき事た件。にあなっる、の何でをはすなるいんかだとや心め配ろだよ。やおめやろ何。やけら警様察子。がだお誰かかし警い察。を警呼察ん?でおくいあ、っど助うけしてた。大た丈す夫けかて?た声すがけ途 絶 え た 。



あたしの生まれた国。
となりは君の生まれた国。
そのとなりは友人の生まれた国。
未来に続く。

あたしの生まれた国。
となりは海。
そのとなりは想い人がいる国。
過去に戻る。

両方を見つめながら
あたしは真ん中で笑う。



 デートの待ちあわせにきっかり五分遅れてきみが来る。『待った?』声がなんだかステレオに聞こえて、見上げると。きみの隣りにきみがいた。きみはぼくの向かいに座り、アイスコーヒーをふたり分頼む。ぼくはどっちのきみに話しかければいいのか戸惑うばかり。
 『それじゃ行こうか』。両の手をきみにとられ、ぼくはきみにはさまれ移動する。ぼくはばらばらに話しかけてくるきみに曖昧に相づちを打ちながら、さらにきみの隣りを盗み見る。きみの隣りの隣りにもきみがいた。
 「きみ、なんで増えてるの?」たまりかねて聞いたぼくに。『あたしだけじゃないよ』。
 問われてひょいと後ろを振り返ると。ぼくの後ろにはたくさんのぼくがいた。
 往来にもかかわらず、たくさんのぼくたちは躊躇せずにたくさんの君たちを抱きしめていて。
 ぼくはそれにやきもちをやきながら、隣りのきみを抱きしめてみた。
 抱擁するぼくたちの団体からはぐれたきみが、ぼくのほうを向いて、「あなたなんか嫌い」とつぶやいた。そんなこと言われても。



 夏は白いTシャツが眩しい。もちろん白いYシャツだって眩しいのだけれど、長谷川さんちの次男坊とか、Tシャツの時の方が筋肉質に見えて、高校の制服って着痩せするんだよなぁ〜なんて思って、じゅんとしてクラッときて、なんというかまぁ、午前中から一人で慰めちゃったりするわけで。
 結婚して3年もすればダンナにトキメかなくて、なんだか男子中高生が喜びそうな「団地妻」に成り下がってることは否定しない。しかもオカズが長谷川さんちの次男坊や工藤さんちのトシ君や佐々木さんちの・・・アレ?これじゃ頭の中、男子中高生と同じレベル?
 まぁ、気持ちイイからいいんだけど。
 あっ、あ〜、窓、網戸だ。なんで中指挿れてから気づいちゃうかなぁ、そゆこと。聞こえちゃうかなぁ。窓開けてれば聞こえるかなぁ。長谷川さんちの次男坊にまで。
 向こうは向こうでアタシをオカズにしてて、アレやソレとか妄想して、って、やっぱこれじゃマンマ「団地妻」かッ。



 尚之は転勤以来一ヶ月ぶりに家族水入らずで夕食を過ごした。妻が珍しく早めに帰宅したことを、息子は声に出して大喜びし、彼はお守りから少しの間解放された。簡単でいいと言ったのに妻は手の込んだ料理をつくり、尚之も一人で飲むよりビールが進んだ。息子が寝た後、教育費のことや妻の車を買うことについて話した。そして、おそらく付き合っていた頃以来だろう、二人で風呂に入って背中を流しあった。妻は子供みたいにはしゃぎながら、湯船の中で尚之の顔をじっと見つめていた。
 寝室で三人並んでいると、天井のほうで小さな物音がした。妻を呼んだが返事がない。代わりに天井で目玉が二つギョロリと開いた。襤褸布を身にまとい、腰から下が大根のように伸びて天井に張り付いていた。
「夜中に邪魔して悪いな」
 尚之は声も出なかった。
「あそこのガキが煙草を吸いはじめてよぉ。ったく、煙たくてたまらない」
 高校生の子供がいるのは二つ隣りだ。
「隣りに行けばいいじゃないか」
「隣りは誰も住んでないんだ」
 襤褸の懐から干物を取り出し、汚い歯で噛み千切った。
「……なんだ、お前も寂しがり屋だな」
「だな」
 そいつは雑誌を読みはじめ、しばらくすると消えていた。



「これ、あげる」
 どんぐりをもらった。わたしと違って、髪が長くて、かわいいゆいちゃんがくれた。
 大事なものは、家の角を曲がって、外壁とブロック塀の隙間に埋める。
 スコップを突き立てたら、かすかな音をたてて、何かが崩れた。黒く湿った土に、白い骨が混じっている。二年前に死んだミイ猫の小さな頭蓋を掘りぬいてしまっていた。
 わたしは土を戻し、場所を移る。スコップでその隣の柔らかい土を掘る。細くて長い黒髪が出てきた。慌ててまた土を埋め戻す。お父さんも、何かこの辺りに埋めているみたいだから。
 ゆいちゃんの髪みたいだったけど、ゆいちゃんは昨日、どんぐりをくれたからだいじょうぶ。
 お母さんはこの三日間、いないけど、浮気しているはずで、髪は茶色。
 五歩ぐらい離れて、キッチンの窓の下あたり。雑草に覆われた堅い土を掘る。かっ、とスコップが強い衝撃と共に止まって、鍵が出てきた。何の鍵だろう。もしかして、天国の鍵かな。そうだったらいいな。
 鍵をポケットに入れて、替わりにどんぐりを埋めた。土をかぶせると、何も見えなくなる。どんぐりから芽が出るかな。座って見ていても、草の葉一本、動かない。天国の扉を探しに行こう。



隣りの隣りはのとなりのの隣りは隣りと隣りとなりとなりの隣りはのとのとなるなり。



 僕は小さな情報誌の記者をしている。今流行のフリーペーパーってやつだ。今回僕の担当する企画は『隣の隣』。東京のあちこちで色々な人の声を拾い歩くのだ。
 先ずは中野の人気ラーメン店『麺生き生き』のオーナー岩田さんだ。電話での感じはガンコ者って雰囲気だったけど…。
 「『隣の隣』ぃ?」四角い顔の岩田さんが眼をむいた。「ホント冗談じゃないよ。スープの味なんかパクリだよ。オレが開拓して浸透させたんだよこの味は!それをパクッただけじゃなく、いけしゃあしゃあと隣の隣に店出しやがって。しかも何だ、あの安い値段は?!うちを潰す気か!」
 ありがとうございましたとおじぎをして急いで店を出た。こんなの使えないよ。次が巣鴨で着付け教えてるふささんで、その次が蒲田の工員の鈴木君か。

 ふう。すっかり夜になっちゃったよ。最後は江戸川のダーツバーの常連の久美ちゃんか。
 「隣の隣は大好き。20狙って18に入ったり、19狙って17キャッチしたり。すごく得した気分」
 使えない…。何言ってるか分からないし。選んだテーマが悪かった。にこにこ笑顔を前に、〆切が恐ろしい僕だった。



 おい、そこのオマエ。
そう、オマエだよ。こんなことしていいと思っているのか?
よってたかって一人をイジメて何が楽しいんだよ。みっともないだろ。いつも同じことばかりして、個性が無いなぁ。
 自分より強いものは向かわずに弱いものにしか向かわない。もう滑稽を通り越して憐れだね。他にやることはないのか。あ、ないからそんなことしてるのか。毎日暇みたいなんだね。ご愁傷様。


って隣のヤツが言ってたぞ。



 彼と彼女は互いに意識しているんだけど、二人ともどうにもシャイで、だから会う時はいつも三人で、間を取り持つ様にしているんだ。どこそこの店に入りましょうとか、あの映画が面白そうとかね、会話もそう、いちいち俺を通す。ダイエット中なの、髪型変えたんですね、うちのお母さんたら、飲みに行ったら酔っぱらいが、そうそうそう。何の伝言ゲームだこれ。こないだなんてさ、公園のベンチで休むのに、やっぱり真ん中に座ったら、二人とも、俺の手を握ってくるんだよ、互いをちらちら見ながら、恥ずかしそうに。俺は買い物カゴか。ラブラブ熱伝導師か。あのな。お前ら、いい加減にしろってんで、きのう彼の方の家に三人で集まって、ビール開けて程々に酔わせたところで、そっと抜け出してさ、外をブラブラしてたら、猫が月見て鳴いてたんで、缶コーヒー買ってそのまま自分ちに帰ったって訳。さっき彼から電話があって、ちゃんと付き合う事になったってさ。やれやれ、肩の荷が下りた。
 それでさぁ。
 いや、その、何だ、ほら、俺たちもそろそろさ、ちゃんと付き合っても、いいんじゃないかな。うん、好きだよ。
 って、伝えてください。



 暑い暑い夏の日曜。暑い暑い夏の午後。
 フローリングにゴザをひいてお昼寝タイム。
 僕の隣りでは優香が眠っている。優香は僕の娘で、妻に似ていてとてもかわいい。まだ1歳になったばかりだ。
 すうすう寝息を立てて、静かに眠っている。
 その更に隣り。僕の隣りの隣りでは彩香が眠っている。彩香は僕の妻で、僕はひと目でこの人を好きになった。結婚してから2年が経った。
 何か寝言を言いながら眉間に皺をよせ、うんうん唸りながら眠っている。
 日頃の育児疲れのせいなんだろう。優香の面倒を見ながら家事をこなす彩香を想像して、顔が緩んでしまう。幸せだなぁと思った。
 暑い暑い夏の日曜。暑い暑い夏の午後。
 ゴザの上で川の字になってお昼寝タイム。



 まず、君の部屋から出る。それで隣人の部屋に入る。
 その直後にそこを出て、また入りなおす。
 これを幾回かくりかえして、リコーダーの音が聞こえたら成功。
 君の部屋の扉をあけると、なぜか真っ黒な部屋につながっていて、そこで希薄な子どもが「G線上のアリア」をリコーダーで吹いている。
 「どうして」と言ってくるが決して言葉を交わさず、見たらすぐに扉を閉じること。



 うーん、何だろう。皆目検討つかないので辞書をあたってみることに。
 広辞苑を開くと、「臀〓」(となめ、〓は口偏に占)すなわち、トンボの雌雄が交尾して互いに尾をふくみあい、輪になって飛ぶこと、となっていた。
 ひと足早い秋の情景が脳裏に広がる。ウロボロスも孤独じゃなかったら、あるいは世界は変わっていたのかもしれない——そんなことをぼんやりと考えながら、ひらがなの「の」の字を書いていた。



 あら。ま、珍しい。ホント、あそこの息子さんが外出なんて。もういいお歳なのに働いてらっしゃる気配もないし。ですわよねぇ、一体何をしてらっしゃるのか。まったく、いい若い人が真っ昼間からねえ。そういえば、そこの公園で年長組の女の子がくさくて若い男性に声を掛けられて手を掴まれそうになったって。いやいやいや。まさか。いくらなんでもそれは。うーん。……まあ、大きな問題になってないわけですしねぇ。そうですわねぇ。そういえば……。え。いえね、たまに外出する時はいつも同じ紙袋を持ってるでしょう。ええ。あれ、何が入ってるんでしょう。そういえば。ねぇ。きっと、私たちには想像もつかないような……。あっ。え。あれ。ああっ。すれ違った女の人が落としたサイフを拾って声を掛けて……。あ。息子さんが謝ってる。あれ、きっと怒鳴れてるんでしょうね。ええ、「汚い手で触らないで」って。汗くさいですものねぇ。……でも、みかけによらず親切なこと。そうですわねぇ。ちょっと、私たちで影ながら応援してあげなくちゃ。そう、それ。そうしないと彼女もできそうにないものねぇ。無職でくさいですから。あ、こっち見た。紙袋に手を突っ込みましたわよ!



 耳の中に吹き出物ができた。最初は小さかったから害もないとほっておいたのだが、ある日突然しゃべりだした。
「隣りの隣り」
 吹き出物は女の声でそう言った。
 驚いて指で触ると「うふふふふ」という笑い声がして、指先が痛んだ。どうやら噛み付かれたらしい。まったく何するんだ、吹き出物のくせに。そう思っている間にも吹き出物は「隣りの隣り、隣りの隣り」と繰り返す。当然ながら、耳の中なのでひどくうるさい。いらいらした俺は、耳掻きでぎゅっと押しつぶした。吹き出物はプチっとつぶれて、黄色い膿が飛び出した。
 翌日、目が覚めると吹き出物は元に戻っていた。そいつはまた「隣りの隣り」と言っている。うるさいうるさい、だまれ吹き出物。俺は即座にそいつを押しつぶした。
 耳鳴りのように聞こえていた声がやんでから、隣りの隣りって何なんだ、と俺は初めて疑問を抱いた。
「隣りの隣り……隣りの隣り……?」
 自分でそう繰り返しながら、玄関のドアを開けると、2つ向こうのドアの前に女が立っていた。
「うふふふふ」
 隣りの隣りの女は笑った。



 鼻を赤で丸く塗る。
 もちろん、ボールみたいな付け鼻なんかしない。
 これで出来上がり。上手く描けたけれど。
 鏡の中の顔はあごが大きめでパーツは小ぶり、でもバランスは悪くないし鼻のラインもわりと気に入っている。さあ急ごう。代々受け継がれてきた衣装に着替え、もしゃもしゃのウィッグの縁を両手で押さえて行列に走り込む。
 ぶっつけ本番のパレードはあたふたと出発。愛嬌をふりまくわたしの隣りの隣り、トランペットを吹くシンちゃんがまっすぐ行進している。その横目の端にカラフルなわたしがちらりちらり、だけど澄ました顔してバンドの音に夢中みたい、本当にちゃんと映っているのかどうか、どうも自信ない。
 綺麗に飾られた門をくぐって前夜祭会場のグラウンドに帰りつく。夕日が頬をオレンジに染め、体のでこぼこを浮き彫りにしている。クーラーボックスからお茶を取り出して紙コップに注ぎ分け、お盆に載せて配りながら同級生をかき分け、あと二個になったところでたどり着く。おつかれさま!
 へぇーピエロじゃんって、そのまんまだよシンちゃん。真正面に立つの久しぶりで照れるけど、フェイスペイントに隠れてる今のわたしを見つけ出してほしいんだ。



 隣の部屋では生きて帰ってきた夫を喜んで迎えた妻が盛んにベッドを痛めつけている。隣の隣の部屋では骨になって帰ってきた孫を抱いて爺さんがもの言わずうなだれ続けてる。爺さんに囲碁を指南してもらっていた僕は徴兵検査で係の男に鼻で笑われ、戦場へは行けないでいる。爺さんは孫を亡くしてからは、僕が訪ねても何も言わずドアを閉める。薄い壁越しに隣の部屋の妻の歓びの声が響いてくる。痛めつけられているベッドはベッドなりに壁に向かってやけっぱちな八つ当たりを繰り返している。爺さんは僕を孫の替わりとは見てくれないのだろうか。僕も戦場でそれなりに生死の境目を走り回ったなら、抱きついてくる女でも現れてくれるのだろうか。少なくとも爺さんは孫の生死にかかわらず、帰ってきた僕を笑顔で迎えてくれただろう。こんな時だから山積みにしてある本の最下層から『戦争と平和』を取り出して読もうとしたが、本が雪崩れを起こして僕の部屋を滅茶苦茶にした。隣の夫婦は一時ベッドを痛めつけることをやめたが、すぐに再開された。僕はどさくさに紛れて出てきたエロ本で一人遊んだ。明日爺さんにこれを持っていってやろうと思いついて、すぐに打ち消した。



 彼にはAという友人がいる。親友というわけではない。頻繁にメールの交換をするでもない。だが何年間を置いても連絡すれば前と変わらぬように接してくれる。
 Aと知り合った頃の友人の結婚式に呼ばれればAがいる。結婚式の主役が変われば自然呼ばれる友人の顔ぶれも少しずつ変わるものだが中には必ずAがいる。スピーチを頼まれる役ではないが呼ばれている。
 Aの親友は誰だったかと思いかえし、言われてみればいなかったと彼は唇を結ぶ。しかしAの急死を知って驚き駆け付けた者は多く、連絡をとってきた者はもっと多い。Aのような人間になりたかったと彼は葬儀場を振りかえる。
 Aは香典袋の中身を見通して鼻を鳴らし、つぎに彼の心のうちを見通して大袈裟に首を傾げ、口元だけで笑う。そして、もう一度鼻を鳴らしてから上に上にのぼっていく。



 ボスニア・ヘルツェゴビナの隣国、セルビア・モンテネグロの首都ベオグラードの隣町に住むシュロチェンコ・シャロシュコビッチ氏の一人息子であるフルシチェホフ・シャロシュコビッチ氏の子供、つまりシュロチェンコ・シャロシュコビッチの孫にあたるシャシェフスキー・シャロシュコビッチちゃん(二歳)は、初めてお父さんの名前を呼ぼうとして舌を噛んで死んでしまった。



 三人掛けのソファーの一番右でお茶を飲みながら一人でテレビを見ていると、そのうちに家の猫が、でっぷり、といった具合に横でくつろぎはじめる。ああ、また太ったかなこいつ、と見やるとその向こうに何かいた気がしたが、何もなかった。そりゃあ、そうだ。茶を啜った。
 翌週の金曜も、同じ時代劇を見ていた。のそのそっ、と猫が隣りに座る。すると、心なしソファーの一番向こうも沈んだ気がする。誰もいない。予告が終わって、やはり猫の向こうでソファーが浮いた感じがしたのも、たぶん気のせいだと思った。
 次回は大型の台風が直撃して放映中止。猫は来たが、何もなかった。
 次の週になるとまた、ソファーの左端が少し沈んだ。
 面白いので今度からテーブルに二人分のお茶を用意してみた。
 四週目くらいに一度湯呑みがカタンと鳴ったきりで、結局彼はなかなか口をつけなかった。
 最終回は実に面白かった。見ると、いつ飲んだのか、彼の湯呑みのお茶がなくなっていた。彼がどこかへ行く気配がした。
 次からは新番組が始まったが、彼は来なかった。お気に召さないんだろう。また番組が変わればもしかして、と席一つぶん離してテーブルに並べておいた温いお茶をぐい、と飲み干した。



 ちぎれた腕が森の池に落ちる。ほんのひととき、掌を開いて睡蓮のように浮かんでいたが、すぐに泥の中に沈んだ。腕は泥に埋もれて根を張った。やがて芽を出し、茎が伸び、腕を地上に持ちあげる。木洩れ陽もとどかない池のほとりで風にそよぐ葉は髪に、茎は胴体と手足になった。
 近くに住む子どもが水浴びにきて、白い人を発見した。白い人は少年に抱えられて上半身を起こしたが脚は地面にめり込んでいてそれ以上は動けない。
「ゲームをしよう」
 男は裸だったので、子どもに家からトランプをもって来させた。
 最初の勝負で白い人は子どもの身ぐるみを剥いだ。
「これでは小さいな。お父さんの服をもっておいで。それまで君の服は預かっておくよ」
 少年は服といっしょに食料を抱えてきてまた勝負を挑んだ。男が勝つと少年は何度でも裸で帰っていった。翌日も、その翌日も。一週間もすると子どものものはすべて白い人の所有物になり、少年は小屋を解体し、夫を亡くした母をつれて、男の元へ引っ越した。もちろん母親も彼も白い人のものだったから。
 少年は白い人の傍らに丸まって眠った。母が話しているのが誰なのか、彼はもう知らない。
 やがては村中が白い人の所有物となり、ここに移り住んでくるだろう。



 サークルダンスはクラスごとに踊るんだけど、ぼくらだけべつに踊るんだ。テナガは手が長すぎるから、まざると輪がゆがんじゃうんだって。だからテナガだけが集まって、校庭の隅で小さく回っている。
 ぼくの両どなりには女の子。でも手をつないでるのは男の子。輪が大きくなっちゃうから、ひとり飛ばして手をつなぐんだ。もっと大きくなってもっと手が伸びたら、となりのとなりのそのまたとなりの女の子と手をつなげるのかな。先生は男の子と女の子でひとつの輪になりましょうっていうけど、ぼくらの輪は本当をいうとからみ合った二つの輪なんだ。
 音楽が速くなる。音楽に合わせて回転も速くなる。ぴたっと止まって手を上げる。驚いた鳥たちがいっせいに飛び立つ。ぼくらの輪は小さいけれど王冠みたいだ。



 熱熱の蕩ける味噌チーズ・オムレツを熱熱のまま食べさせたくてアパートの隣室のドアをノックする彼女と、涎を垂らしてドアを開ける僕の姿を、あらかじめ、細めに開けておいたドアの陰から僕は覗いていた。



 とある住宅街の一軒家で、高田義雄が「となりのとなり」というダイイングメッセージを残して死んだ。死因は腹部を刃物で刺されたことによる出血死だった。事件の担当になった刑事の本堂剛司は、そのメッセージを確認すると、すぐさま右隣りの隣りに住む景山啓介と、左隣りの隣りに住む藤崎守を事情聴取した。何しろ「となりのとなり」と書かれているのだ。犯人はこの二人のうちのどちらかに違いない。
 ところが彼らにはそれぞれ完璧なアリバイがあり、本堂剛司は頭を抱えることになった。他に手掛かりとなるようなものは何も残されていない。そこで今度は右隣りに住む間宮勇作と、左隣りに住む戸塚成文に話を聞くことにした。だが間宮勇作は痴呆の始まった老人でまともに話を聞ける相手ではなかった。残った戸塚成文に話を聞くも、彼はまるで何も知らないという。本堂剛司は深く溜息をつき、がっくりと肩を落とした。
 だがこの時、本堂剛司は知る由もなかった。この戸塚成文こそが高田義雄を殺した犯人であり、二人が昔からの古い付き合いであることを。そして彼が高田義雄から多額の借金をしていたということを。そしてそして彼のあだ名が「となり」であったことを……。



 電車に乗っていた。
 右隣りは人が一人座れるくらいのスペースがあってその先には汗だくのおじさんが座っている。
 左隣りりには女子高生。携帯でメールでもしているようだった。
 プシューとドアが開き、何人かが降りて何人かが乗ってくる。
「あっ、ヒロミ」
 左隣の女子高生が声を上げる。
「あっ、ヨウコ、この電車なんだぁ」
 ヒロミと呼ばれた制服の女の子が僕の右隣に座りながら言う。
 それからは僕を挟んで女子高生の会話が続いた。
 僕が降りる駅まであと20分。



全員整列。俺たちは一列並ばせられました。そして、両側の手をお互いしっかり握ることを要求されたのです。
そしてみんなの気持ちをくっつけて、星の中に住む魔女さんと電信を開始するのです。
ぴりぴりとしたムードが皆の脳味噌にたまって、俺は小さく微笑みました。
みんなのムードが手に取るように分かってきたのです。俺の右隣にいる菊治が鼻血を滴らしはじめました。
俺は汚いなあと思いました。こいつの隣の朔子ちゃんに俺は惚れていたのです。
電波が流れ、脳味噌を軽く焦がしました。みんなの脳味噌にたまった電波が一気に放出されるのです。
それが宇宙を突っ切り、その中に潜む無数の星に接近を開始しました。そして魔女さんとの結合です。
電波は僕らの方に向いて降りてきました。
魔女さんの電波が俺たちのからだの中にたまっていくことは確実でした。それがみんなを包み込むのです。
そして俺たちは盛大に焦げました。俺たちの身体はボロボロに焼け焦げて、俺たちの列はみんな後ろに倒れ込みました。
朔子ちゃんの身体にに俺は置きあがり、近づいていきました。
俺は朔子ちゃんの眼球を外して、すっかり硝子の玉になっているそれを少し焼け焦げた頬に擦りつけてました。
魔女さんの笑顔が浮かびあがりました。



「オイ、醤油とってくれ」
「なんで私に言うの、お母さんに言えばいいじゃない、隣にいるんだし」
「ああ、そうだったな、じゃあ母さん。咲子に醤油を取るように言ってくれ」
「咲子。父さんが咲子に醤油を取るようにって」
「だからなんで私に醤油を取らせようとするの!母さんが隣にいるんだから母さんに頼みなよ!」
「よし、分かった。じゃあ母さん。タカユキを隣りの後藤さんのところに使いにやって、後藤さんに咲子に醤油を取らせるように電話で説得させてやってくれ」
「はいはい。タカユキ。父さんが隣りの後藤さんのところに行って後藤さんに電話で咲子にお父さんのために醤油を取るように言うようにって」
「うん!いってきまーす!」
「なんでそうなるのよ!」
「お、電話だ。咲子、お前にだぞ」
「咲子ちゃん、家庭の問題だから私は口を挟みたくないんだけどね、お父さんのためにお醤油とってあげることはできないかしら…」



 ゴミ!そう叫びながら、ママは毎日ボクを殴る。ぼこぼこにされた後、決まって家から追い出されるけど、ボクは謝りながら扉を叩いたりしない。罰として腹を蹴られるからだ。マンションの中庭に下りて、ママがタバコを吸いにベランダへ出て来るのを待つのが一番安全だ。メンソールの匂いがしてから千数えて帰ると、ママの嵐も収まっている。
 でも今日は、ママより他所のベランダが気になった。たまに見かける女の子を、茶髪のおじさんが捧げ物のように抱き上げて出てきたからだ。おじさんは女の子を手すりの向こうに差し出すと、笑いながらゆさゆさ動かした。『何するんだよ!そこは三階だぞ!』
 ぐったりした女の子は、一度だけくぅっと声を立てた。思わず踏み出してボクはぞっとなった。目が合っても、おじさんは女の子を上下に揺さぶるのも、楽しそうに笑うのも止めなかったからだ。『ママよりイッてる』ボクは震える足で、階段を駆け上がっていた。
 夜ベッドの中で痛む腹を押さえながら、ボクは鳩そっくりに啼いた女の子のことを考えた。相談できる大人なんて思い付かない。たった二軒隣りの距離なのに、まるで深い谷を挟んでいるみたいに、ボクは無力だった。



 隣りには隣りがありませんでした。
 だから隣りの隣りにも隣りがないのです。



 真ん中に坐る友人の背中で、そろり、手を握り合う。



 同じアパートに途轍もなく迷惑な若夫婦が住んでいる。
 夜中に口論の末に大乱闘。かと思えばサカリの如き喘ぎ声。殆ど毎日だ。
 朝も油断出来ない。嫁は余程のウッカリ者らしく、黒焦げの煙と悪臭で嫌でも目が覚める。それが隣室でないから尚更腹が立つのだ。隣は空室でそのまた隣が震源地。苦情も言えないまま憤懣は募るばかりであった。
 
 そんなある日、同年代の男性が石鹸片手に訪ねてきた。
「この度、隣に越してきた者ですが…」
 挨拶の後、扉を閉じて数秒堪える。
 
 ダハハハ、隣だってさ!



ジョイスボルヘスカルヴィーノって中学生が万引するラインナップではない。「どっから来た」「隣りの隣り」わざわざ万引しに七光年旅してきたんか。うちらの法律では裁けないから本持たせて送還。なにが起こってるの隣りの隣りで。
隣りに聞きにいく。隣りの神P。空間にダウンロードされた天然ソフトウェアで視野が広い。記憶が赤方偏移するぐらい広い。「迷球の深層で神聖言語発掘したって」「書いた物語が真実になるやつ?」「名作を書ければね」「無理。文芸の伝統断絶してるし。あっちの神まだH?」「ええ。同一座標に住んでるけど今はLって名乗ってます」私はLの自宅縮潰星睡槽の近傍に転移。空間がむっちり歪んでソファのように座れる。似たようなテーマの本を並行して読む癖がある私は、鞄に入れて持ち歩いていた高橋源一郎『一億三千万人の小説教室』保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』まとめて睡槽に叩き込む。これでも読んで粛々と文芸復興するがいい。アニー・ディラード『本を書く』も送り込みたかったけど、版元品切重版予定なしなので持ち帰る。
店に戻り棚から売り物の高橋保坂を抜いて「この二冊で言及されてる本急いで仕入れて」って文芸担当者に渡す。事務所に腰を落ち着けて消灯。瞑目。知らん限りの物語のなかで現実であって欲しい物語はどれだろうと考え始めるとたちまち閉店時間で蛍の光。



今日もいい声で鳴いてやがる。チビのくせにいちょまえだぜ。
シバか・・。あいつら巻いたしっぽがやけにかわいいんだよなあ。棒みてえなオイラのしっぽが情けねえ。
隣のプードルは相変わらずツンケンしてるし、あー、あいつと友だちになりてえなあ。
お、飯の時間か。こういう時にゃまたかわいい声出すんだよな。オイラどうまねしたって出やしねえ。まぁこれだけ図体でかくなりゃ、どうしたって太い声になっちまあわな。
ハメ板の隙間から時々やつの足の先っぽが見えるけどよ、ツメなんかがまた愛嬌あんだよこれが。飯ねだってシャカシャカ床叩く時なんざ、たまんねえ。
ところでプードル姉さんよ、飯食ったらたまにゃおしゃべりしねえかい?・・ああそうかい、また無視かい。姿が見える、唯一の仲間だってのによ。
気にならなあ。生まれて2ヶ月だっつうシバ君。今度オイラとあいつを、一緒に散歩に連れてってくれねえかな。パグだのチャウチャウだのとばかり一緒でよ、いい加減飽きるぜ。そんでもまぁ、この年になってもお払い箱にされねえだけマシか。
あれ、なんだよこんな時間に。おっさんシバ君のケージ開けるぜ。お、何回か見かけた親子連れ。そうか、売られていくんだな。あーあ、会えねえで終わっちまうのかよ。おーい、こっち見てくれー。くそー、オッサンの背中がまたじゃましやがる。おーい。おーい。達者で暮らせよー。
・・・・。空いたケージ、今度はどんなやつが入ってくるんだろな。



 彼女の隣に私は座る。
 彼女の手を握る。彼女の心は握れない。
 彼女の服を脱がせる。彼女の心は見られない。
 彼女の胸を割り、心臓を取り出す。これは彼女の心ではない。
 私は心臓を食べる。血の匂いがとごった部屋で、ばらばらになった彼女の隣で眠る。私の体に彼女の体が吸収される。
 白い骨の隣で、私は鏡をのぞきこむ。手を伸ばす。指先が冷たい固さにこつんと当たる。
 再び腕を伸ばす。こつん。
 鏡の奥に行けない私は、鏡の前でゆるやかに踊る。
 鏡に映るのは、私一人。その傍らに白い骨。
 踊る手つきで、私は私の胸を切り開く。あふれる赤い洪水の中に、小ぶりのトマトに似た心臓が浮かび出る。ここにも彼女の心はない。立っていられなくなって、膝をつく。血がはねて、鏡は何も映さなくなる。どこにもないそこ。そこにあるはずの心。
 どこにもない心は、初めからどこにもなかった。そう思ったとき、体が硬直した。傍らの骨が衣と化して上からかぶさってくる。私は赤と白の自動人形になって起き上がり、鏡の裏側に回る。



 僕たちは同時にドアを開ける。反対側のドアから部屋に入る彼女はやっぱりかわいくて僕は思わず微笑んでしまう。
 真っ白い壁。立方体。空っぽの部屋。
 ここで僕たちは何時間も語り合う。面白い本があるんだ。飼ってる猫がもうかわいくて。学校は楽しいけれど授業が退屈。昨日見た夢がすごく怖かった。友達とケンカしちゃって。バイトが大変でさ。ビリヤードやったことある? 風邪引いて大変だったの。大好き。大好き。
 そして僕らはキスをする。力を込めてぎゅっと抱きあう。愛しあって愛しあわれて、幸せすぎて僕たちは笑う。大声で一緒に笑いあう。
 このままずっとこの部屋に居たいけれど、やっぱりそれは出来ないから僕たちは今このときを最大限に楽しむ。彼女の顔を、声を、匂いを、色を、どうか忘れてしまわないように。
 疲れた僕たちはいつの間にか眠ってしまう。目覚めた時にはすでに壁がグレーに染まっている。
 最後にもう一度だけキスをして、じゃあまた1年後。
 そして僕たちは同時にドアを開ける。



それくらいの距離が丁度いいという。



 隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣の、隣、つまり二十件先のお宅の郵便物が僕に届いた。届けに行くには面倒な距離だ。そこで僕は一件ずつ隣に渡して貰えるよう頼んでみた。もう半年以上前の事だ。未だ郵便物は届いてないらしい。
 受け取るはずの人が自分宛の葉書が回っているそうだがそんなものはもう見たくもないのだと言っているらしい。
 郵便物をとめているのは隣の隣の隣だろうか、それとももっとその先のお隣さんなのだろうか。いつしか掲示板に貼られた『最近のトラブルについて』の張り紙が破れ落ち、住民が誰もいなくなり、建物の取り壊しが決まった今でも、僕はその事が気掛かりで仕方がない。郵便物の行方を、僕はどうしても突きとめたい。だから僕は、今日もどこの家に郵便物があるのかと訊ね回っている。



 隣りの隣りの隣の隣に不要な仮名在りとなりりとなりぬ。



 ここ最近、妻がひどく怯えている。なんでも霊の気配を感じるんだとか。もちろん私は霊など信じていないので、初めは馬鹿にして取り合わなかった。ところがあまりに妻の様子がおかしいので、私はやむなく妻を病院に連れて行った。

「先生、妻が霊の気配を感じるとか言って毎日ブルブル震えているのです。特に夜中がひどくて、まともに眠れないみたいなんです」
「ふむ。ええっと、奥さんというのは……」
「ええ、こいつが私の妻です」
「なるほど。ふむ。ふむ。ストレスの影響かもしれませんな。まあ、お薬を出しておきましょう。これできっと夜も眠れるはずですよ」
「助かります。ありがとうございます、先生」
「ところで」
「はい?」
「キミの奥さんよりも、その隣りの女性の方がずっと顔色が悪いみたいなんだが」