闇夜の往来を、裳裾を汚し、女が一人さ迷っている。
『あの男、今頃は、どの女に添うて居るのか』
煮える身内に、男の手付きが甦る。
と、額に二つ開いた傷から、短い角が、じりじり伸びる。
頬まで裂けた口の、細い牙が、きりりと軋む。
だが、いくら身を焦がしても、つり上がった目に、金が奔ることはない。
夜叉に成るには、恨みも想いも、まだまだ足りない。
見事、邪の道、鬼の道に堕ちるほど、性根が定まっていないのだ。
生成り女は仕方なく、閨の睦言の代わり、終の一言、薄情男のせせら笑いを、
今宵こそ聞き届けねば、と、闇の底、行き惑っている。
「できちゃったみたい……」
「うそ! ご、ごめんっ」
とある居酒屋での会話
「何だかんだ言ってもあれだな、うん、俺はやっぱりレアがいいな」
「そうか、でもオレはハンバーガー派だな」
「いやいや、やっぱりカルビでしょう」
「お前ら、ユッケを忘れてないか?」
「和牛最高ー!」
こうして夜は更けていく・・・。
ムムム、おいおいおい
オイとは何だ
はずかしながらね、イキルて漢字をド忘れしちゃってね
今ちょっと手が離せないな、口で説明するけどいいかい
下手に手を出されるより有り難いね
ウシって漢字があるね
牛だな
線引いてそいつを地面に立たせるね
なるほど線を、あ、わかった、でも少し真ん中が出過ぎだ
そこはうまいことやっとくれよ
やっつけとこう、む、ムムム
何だ
この字の由来が気になった
勤勉だね
で
知らないよ
知らないことないだろう
ないものは出ない
いや、何かあるだろ何か、何かないか何かないか、さあさあさあ
煩いね、うーん、出しゃいいんだろう出しゃあ何かしら
お、出るかい
えー、あー、あれだ、さっき牛の話をしたね
されたな
生きるて漢字の中の牛は頭がでかいだろう
うむ、下の線がちっちゃくなってら
角がでかいわけだ
なるほど
牛の角てのは相手をイカクしたりする
へえ
これが人間でいえば見栄というものに通じる
通じますか
通じるんだよ、つまりだ、多かれ少なかれ他よりも大きく見せよう抜きん出ようとするね見栄みたいなね、生き物の業みたいなものをね、この字は表してるんだね
へええ、単純だが奥が深い
それが生きるてことだよ
咄嗟の嘘にしちゃよくできてる
てめえ
宅配便が届いた。ラベルに生ものとあったので早速あけると、それは恐怖だった。半透明で、少しいびつな、何と言ったらいいか、裸で、ビニール袋にも入っていない。箱の底で、腹からはみでた腸が元の場所に戻ろうとする時のようにゆっくりと蠕動している。まさかこんなものだとは。今まで死んだ恐怖しか扱ったことがなかったので知らなかった。
はっきりわからないうちに恐怖はわたしの中に入り込んだ。
恐怖はすべての色を変え、細胞のすみずみまで浸透すると、わたしはもうわたしではなかった。服が体に合わなくなった。部屋のいつもの場所にいても落ち着かない。
冷や汗がでる。ただ脈をとるといつも通りだ。息もしている。
こんなことをしてはいられない。
世界はバセドー氏病の暴れ馬のように目を飛び出させ、汗をかき、疾走する。入れ代わり立ち代り、実体のない映像だけがめまぐるしくわたしの前を通り過ぎる。
「まるでつんぼの映画鑑賞会だ」
わたしは苦々しさのあまり誤配された郵便物を破り捨て、差別用語を呟く。
もう今ここを生きられない。わたしはその瞬間まで確実に続く、長々しい死を生きはじめた。
濡れ鼠が干してある。
ギラギラ太陽の下、ぼくは箸と皿を持ってすべり台の脇に立っている。もうずいぶん待っているが、なにひとつ落ちては来ない。いや、来た。やっとひとつ真っ黒な肉が! だがそれはぼくの手前で火を放ち、炎のかたまりとなって鉄板を転がり落ちていった。下方で何者かが火のついたままそれを食べた。ウェルダンに人がいない理由がわかった。
斜面を登っていく。ミディアムの看板のあたりでは人が群がっていて、滑り台に近づくことさえできない。しかも肉はほとんど落ちて来ないのだ。
さらに登ると滑り台は建物の中に消えていた。建物の中では肉の解体作業が行われていた。あろうことか、そこでは箸と皿を持った人が張りついていて、出来るそばから肉を食べていたのだ。これでは肉が流れてこないわけだ。
建物を抜けると、丘の頂上は広大な牧草地となっていた。転々と草を食むイキモノタチ。もはや空腹は限界だ。
「いっしょに狩りませんか」
近くにいた女性に声を掛けると、彼女は小さくうなずいた。直感的に、この人と結婚すると思った。肉のウェディングケーキ、肉のウェディングドレス、肉のブーケ、肉の指輪。肉! 肉! 肉! ぼくらは手をつなぎ、草原を走りだした。
世界の端っこが崩れました。からからと積み木が崩れるような音を聞きながら、何事にも無関心な錬金術師は眠りにつきました。
星の終わりに心を痛めた占星術師は自分の占いを信じられず、何度もやり直しました。得られる結果は同じでしたが、愛する人が地割れに飲まれたことを知ったとき、優柔不断な彼は眠ることができました。
大都市の路地裏には死霊術師が溢れ、彼らは死者の魂を集めていました。ある人の良い死霊術師は、魂が詰まった瓶を飲み干すと胸に希望を蓄えて眠りにつきました。その真夜中、大都市は静かに滅びました。
世界はたった一つの場所を残して全て崩れました。
三人は地面が無数にひび割れているたった一つの場所に集まり、途方もない作業を始めました。錬金術師は決して枯れない樹の種を創り、占星術師は天の動きを支配し、死霊術師は大地に無数の魂を吹き込みました。
数え切れない程の月日が経ち、三人の体が無くなった頃、そこには森ができあがっていました。中心には清らかな泉が湧き、明け方にはミルクのように深く白い霧が立ち込めます。
ある朝、とくん、と心臓が鼓動するように湖面が揺れました。そよ風が霧を掻き分け、辺りを明らかにするとそこには、
東京。とは言え、奥地に入ると、深い森が累々と続くド田舎も未だに残っていて、はるさんはそうした東京都西多摩郡、家と家とが40mずつ離れて建っているような山間で暮らしている。
縁側に座って向こうを見やる。木々に埋め尽くされた中をバイパス道が抜けているから、ときおり緑の合間をぬって人工的なきらめきが輝く。でも実ははるさんはそんなもの見ていない。産まれてから今までの72年間、彼女のうしろ側に堆積した時間を、なんというか、ひとつの高速振動する弦として見ている、或いは聞いているのだ。
弦は震えて唸り、伸びやかにサステインし続ける。はるさんはじっと座っているが、決して虚ろな目つきはしていない。
もうこの世にはいない比較的有名だった音楽家がかつて、ザ・ビッグ・ノート「宇宙はひとつの音だ」というイメージを幾度か描いた。それはそうなのだ、弦の振動はこの宇宙に変換できるし、またはるさんの72年間にも変換できる。彼女は縁側で自らの過去を見つめ、同時に世界の全てと響き合う。はるさんはひとつの倍音としてサステインする。
そして後藤(あくまで後藤だ。以上でも以下でもない)は目を閉じ、ヘッドフォンでその振動に聞き入っている。
愛する智沙ちゃんから「料理を食いに来い」との内容の電話を貰った。即刻間髪を入れず瞬きする間も惜しんで直ちに食べに行かないと翌日もれなく鼻先にストレートパンチを貰うことになるので、僕は膝を含めた全身をガクガク固有振動させつつチャリンコを必死に飛ばしてチバリーヒルズの中心にあるグリーンマイルを目指す。
重くて馬鹿デカい玄関扉が開いた途端、満面の笑みの智沙ちゃんに挨拶代わりのボディーブローを計七発打ち込まれてから、嫌味で不必要に広いリビングに通された。
「待ってね、今作るから」
という声を追いかけて恐る恐るキッチンを覗くと、ギョロリ目玉で得体の知れない深海魚が発泡スチロールの上にどっかりと乗っかっていた。程なく深海魚のしんちゃん(仮名)は単に水を張っただけと思しき深鍋に投げ込まれた。
「さあ、食べて」
サイケデリックな前衛芸術を前に煙草を燻らせて微笑む智沙ちゃんは、拳をパキポキしながら僕が全て平らげるのを待っている。箸を動かすのも忘れて智沙ちゃんの顔を恍惚として見入っていると、不意に右フックwith煙草の火が左顎に炸裂して、僕はジャッキーチェンのように椅子から転げ落ちた。
しんちゃんは、見事なくらいに生煮えだった。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
お父さんお母さん、私は家を出ました。
始発の電車に乗り込んで思うのは、あなた達の期待に添えない自分へのわだかまりと申し訳無さです。
少し私は挙動不審かもしれません。朝日を浴びながら私は人少ない電車で少し震えていました。
でも、開放感があったのは事実です。
これから東京に向かいます。
お父さんお母さん、私が本気で書いた置手紙を見るのはあと1時間半ですね。
あなた達が目覚めた時、腰を抜かすかもしれませんが私の生き方を否定しない様祈ります。
ねぇ、それでどう思ってるの・・・?
と、私は問う。居酒屋のがちゃがちゃした風景にあなたは溶け込むかのよう。
・・・だまってるの?
ねぇ、私なりに考えてこの場所で聞きたかったの。2人の思い出の場所。
生ビール390円のこの店で、仲間と騒ぎ過ぎて店の人に怒られたこともあったけど、2人で意味深に微笑み合うきっかけになった場所だもの。
この店を選んだ私の気持ちを察してくれてるのかしら?
ぬるいビールを飲み干したあなたは
「一緒に住むかー」と辺りの雑音を消す様に言った。
2人で「生ジョッキ2つ追加」と声が合わさったので、ゲラゲラ笑った。
暗がりはけっして怖るるべきものではない。生暖かな空気と貼りつくような窮屈さは逆に心地がよいくらいで。まだ誰でもない誰かは、長考、微睡みながら森羅万象を学ぶ。
剥がれた鱗の痛み然り、破裂寸前まで空気を含んだ肺然り、光の屈折の仕組みと皮下に潜んだすぐには姿を見せない病的なメラニンと。海鳴り。海原。草原。キャサリンという名のハリケーン。あるいは誰にでも訪れるジレンマやトラウマや何やかや。オリオンと蠍の勇姿とか。何マイルもの海底で魚たちの塒になっている黄金時代の海賊の執念の宝も。
知らないものは何ひとつとしてなく、ただ、いずれは思いだせないほど奥深くにうずもれてしまうだけのことで。それを憂えるほどにはまだ急激に心も病まず。
時折、かかる呼び声とゆっくりとたわむ壁に驚いて冴え冴えと目を瞠るが、すぐに静まってしまうので、誰でもない誰かも再び微睡み、長考、森羅万象を復誦する。
けれどもうじき。
「こんなに濡れているのよ」
彼女はたくし上げたスカートの中を弄った右手の中指を抜き取ると、僕の唇に塗りつけた。粘膜から滴る体液は、彼女の奥底に秘められている欲望に魅入られた獰猛な野性を予感させた。
僕は彼女を抱き寄せると首から耳元へと唇を這わせる。
「ダメよ、こんなところで」
彼女は僕の両腕を掴むと優しく引き離し、そして挑発するような眼差しで言ったのだ。
「誰か来たら大変でしょ?」
僕は熱くなりかけた感情を鎮めるように吐息を二つすると、首を傾げるように頷いた。
給湯室でのささやかな情事を終えた彼女は、何事も無かったかのようにグラスを五つトレーに乗せて歩き去った。残された僕はしばらくその場に立ち竦み、男の悲しい習性が治まるのを待たなければならなかった。
デスクに戻り、一列向こうの席の彼女をチラッと覗き見る。同僚と談笑する横顔はさっきとは異なる唯の小娘であった。
ベランダは三十九度、室内は二十八度です。汗で粘つく皮膚に刃先を入れて、押し返す弾力よりも強く押し入れて、その下の血管が破れたら、熱い流れが指先に至って、手がすっぽり真っ赤になるでしょう。ぱたぱた、雨の降り始めのような音を立てて滴るでしょう。
きのう、恋愛映画を観ました。若くして死んでしまう主役に恋をしました。わたしは主婦です。映画のサントラをレンタルしています。
サントラを聴くと、あっさり泣けます。そのまま床に倒れます。寝転ぶと見えます。ベッドの下には、わたしそっくりの人形が入っています。小さな手をつかんで狭い隙間から引き出すと、腕が肩のところで切れています。足を一本、次に胴、頭、また足、腕。全部出して、組み立てます。人形の小さな目が活き活きとわたしを見ます。そのとたん、わたしは問いをつきつけられます。わたしはここで何をしているのでしょう。生きるのをやめたくなります。
見開いた、瞬きを忘れた目から、涙がぱたぱた膝に落ちます。今日の帰り道、夫は牛乳を買って、その時カードを出して、ポイントをためてくるはずです。ポイントカードを持っていってと頼んだのはわたしです。わたしは出迎えて、牛乳は冷蔵庫の中へ、カードは冷蔵庫の上へ置くはずです。わたしに期待されている役割は以上です。
夫が帰ってくるまであと六時間と二十分あります。わたしはわたしの代わりに人形を殺します。腕をもぎ、足をもぎ、胴を踏みつけます。血の代わりに涙が人形を濡らします。ぱたぱた。ぱたぱた。ベッドの下へ蹴りこみます。これでわたしは死んで、明日も大好きなサントラを聴くでしょう。
北海道もなかなか暑いべ? お盆あたりなら36とか7は行くけど、案外それでも内地の人間には涼しいってか?
ひゃ〜。ウチのばぁーちゃんなんか30度越えたぐらいでもう「こわい」「こわい」言ってるのに。あっ、おねぇーちゃん! こっち生2つ。
そうそう。なんか内地じゃジンギスカン流行ってんだって? 息子がさ、せっかく東京から遊びに来るんだから、本物食わせてやれってよ。なんもだ。気にすんな。気にすんな。
来た来た。ハイハイ。どうもどうも。とりあえずこっちのセットで、えっと・・・若いから、2・3人前ペロっと食べるしょ? なら、4人前と。それとあとこっちの、そう高い方のソーセージと、あとこの刺身盛り合わせも。そうそう。この人内地の人だから、ウんマいのにしてね。
なんも違うって。生ラムはジンギスカンじゃねぇの。だいたい羊なんか生ったら臭いし、じん麻疹出るし、腹壊すってなぁ。ハハハ。生でいいのは野菜と魚とビールだ。
したっけ、はい。かんぱーい!
生だけに「なまらウマい」って? 昼間っからしばれること言うなや。
誰かに受け渡されたような気もするし、そうでなかった気もする。
ここにある。
ある、ということはこの一瞬だけの真実なのに、私には《時間》がある。あるような気がする。
昨日からこうしていたような気もするし、唐突にここにいるような気もする。
今のつづきに明日があるような気もするし、あってもなくても今は関係ないような気もする。
生かされている?
そんなことを言って自分自身を引き受けることを投げ出したくない気もするし、それはそうかもしれないという気もする。
自分のなかに波打つものがある。わかるのは波打っているというそのことばかりで、いつから波打っているのか、波動は一定なのか変化しつづけているのか、波を動かしている原理は何なのか、何もわからない。ただそれは、自分の力ではない。そういうものだから、いかようにでも解釈をつけることはできる。始源や根源や統一的な原理に結びつけて理解しようとする人は後を絶たない。だがどれ一つとして真理ではない。そればかりか、波を見失い、乗れなくなるのだ。
ほら。
この波が一番高いときに、私も波頭を蹴って跳んでみよう。
明日は知らない。ただ今は一番の高みに届きたい。それだけしか思わない。
生きた肉と生の肉。どちらを先に食べるべきなのだろうか。
生きた肉は鮮度では誰にも負けないが、いかんせん血が回りすぎている。
生の肉はすぐにでも食べられるように加工済みだが、少しばかり鮮度に不安が残る。
そんな風に考え込んでいたら生の肉の鮮度がさらに落ちてしまったので、しかたなく生きた肉を食べることにした。
鮮度が落ちた生の肉はペットに与えることにした。
翌日、帰りに肉屋によって生の肉を買って帰る。
こうして、また生きた肉と生の肉が揃った。
さて、どちらを先に食べるべきなのだろうか。
——ミイラには興味ないの
僕の捧げたドライフラワーは一瞥もくれずに拒まれた。
——きれいなのに
——いやあね。それ以上変わらないものはちっともきれいじゃないわ。
部屋の床一面に小さなガラス瓶を並べ白い花を差す。それはいつもの変わらない儀式。ほの白く、花のなまくびたちが上目遣いに僕らを眺める。いつもの光景。
でも一日で腐って落ちるよ。夏だしね。夏でなくっても。
今日もまた、最高気温を更新したらしい。
抗うことによってしか貴方を讃えることができないのです、神よ。
明け方に水を飲みたくなって、暗い台所に入った。
——シャッシャクシャ
誰がいる?
——シャッシャク
近づくと、丸い背のまま振り向いた。ガラス玉に似た透明さで、目が薄明にちらりと光る。米を洗っているのは祖母だった。
祖母はついとまた背を向けた。明日のごはん、炊いとかなあかんやん。
忘れてた、ありがとう、と云って寝室に引き返す途中で、祖母はとっくに亡くなっていたことに気づいた。それから、振り向いた顔が、祖母とはたいして似ていなかったことにも気づいた。
* *
女たちが米を洗う。家族のために、毎日毎晩、米の粒をシャクシャク磨く。冷たい水を流して、シャッシャと洗う。そうした女たちの残像が、明け方三時の台所に、米洗い婆として現れるのかもしれない。窓からの白っぽい薄明かりと、料理器具のつくる複雑な影が絡み合って、何度も取られた同じ姿勢が、同じ場所に現れる。
水が流れる。米の上を水が流れる。
白い濁りが水中の糸となって立ち上がり、浮んで、流される。シャッシャク、日々が流れる。
天頂を少し西に動いただけの太陽は、120年分の命を背負う者にも容赦がない。自転車を、こいで、こいで、今日も休めない。蝉の亡骸を引っ張ろうとする蟻の大群、轢かれた鳥に群がる銀蝿。そんなものを見ながら、ペダルにエネルギーをのしかけていく。
う。まただ。薬剤が不自然に枯らした草は、異臭を放って嗅覚を襲う。息が苦しい。自転車はこがなくてはならない。死の漂う風景の中を、足に一層の力をこめて走り抜ける。
田の稲はどうだ。畑の野菜はどうだ。生き生きと、楽しげなくらいに緑だ。すべてを覆う炎天の青と、遠い山の紫に、挑むように明るい緑だ。
日射しは更に強くなる。くらくらする程熱を帯びる空気を、わずかに風を作りながら、割って進む。誰も待っていない道を進む。背負った命は、ペダル一踏み分ずつしか減らない。捨てることもできない。西の地平はまだ遠いが、移動する小さな影を連れて、また自転車をこぐ。
死に対する組織化された暴力。
ぐいっとひねられた蛇口から飛び出して、水は充ち満ちた笑みをこぼす。つられて笑う土の子供等は曇りなく、菩薩の様に身を委ねる。堅固な執行人の顔の刃は、自らの使命をただ黙々と。対して鍋は豪放に熱く、その下の炎はどこか憂鬱な面持ちで。
子供等はどこまでも、姿を奪われ、微塵にされてもなお優しい目を投げかける。炎は己の業を呪うも、堪え忍び密かに涙する。
換気扇が回っている。天高く、やんやと踊る、それはもう快活な程に。さて。
手を、あわせて
いただきます。
死のうと思っていた。
眠剤一瓶すべて飲み干すつもりであった。
家族や友達は悲しむだろう。彼なんて一生立ち直れまい。でも、もうこれ以上は無理。限界なのだ。
もし、この旅立つ少女を咎める者がいるのなら、そいつに問う。
−生って何?−
誰も私を納得させる答えなんて持ってやしない。私の死は、おためごかしの偽善者への復讐でもあるのだ。
最初に五錠飲んだ。胸が異常な速度で高鳴った。
次にまた五錠。−これでやっと解放される−そう思ったら、とても安らかな気分になれた。
「ああ、しまった!」
先日、彼に夏物のワンピースを買って貰ったのを忘れていた。水色の水玉模様がとても可愛いやつだ。一度も着ないで死ぬのは何とも心残りであった。
トイレに入って喉の奥に指を差し込む。よじれるような嘔吐感。醜悪な咆哮とともに薬を吐き出した。
息ができないうちに二度目の嘔吐。涙と鼻水が止め処なく流れ落ちた。あまりの苦しみにオシッコまで漏らしてしまった。
尚も嘔吐は続いた。−助けて!−心の中で叫んだ。
皮肉なことに私は自殺の理由であった疑問に対する正答を嫌というほど味わっていたのだった。
風が強かった。
柵にもたれながら、ふと下を見る。光が溢れ、まるで生き物のように、絶え間なく車が行き来している。建物の隙間を走る風にかき消されて、辺りはバカみたいに静かで、耳障りな会話も、うっとうしい着信メロディも、ここには聞こえない。
空に近い場所。僕はときどき、ここに来る。
空に溶け込めたら、気持ちいいだろうか。
ひんやりと冷たいステンレスから手を離して、向こう側に飛び立てたら、僕は楽になれるだろうか。
そんなことを、いつも思ってしまう。
両手を大きく広げて、全身に空気を浴びて、吸い込まれそうな青さを見上げながら。落ちるまでの、少しの時間。
あと一歩。あと一歩踏み出すだけで、僕は消えられる。
——それなのに、どうして震えが止まらないんだろう。
むかし、文鳥が私にピーナツを三個要求してきた。理由を訊くと、一個は昨日に感謝するため、一個は今日を生きる活力を得るため、一個は明日への備えとして食べるのだという。結局今日生きるための三個じゃないかと問い質せば、それでは豊かさが実感できないと諭された。私はふといじわる心がはたらき、形のよく似た憂鬱の種を一個混ぜてみた。文鳥がどんなふうに食べるか観察する。すると憂鬱の種をかぎ分け、それをよけ、一個を半分に割って今日と明日用にした。それを毎日続けた。お互い頑固だったが、やがて文鳥が空腹でことんと死んでしまった。私はひどく動揺し、硬直したくちばしに取っておいたピーナツを押し込んだが、二度と目覚めなかった。死顔は泣きたくなるほど安らかで、豊かさの信条を捨てぬまま眠りに就いたのだと知った。明日用のピーナツは甘く香ばしく希望に満ちていた。それが一握りほども残ったが、私はもはや巣箱のように空っぽになっていた。
僕は半べそをかきながら、何処か遠くからポロポロと転がり出て来るのであろう丸いぐにゃぐにゃした物体を肘で潰し続けた。
はみ出した白い骨血の臭い鉄の錆に擦りつける唾液に雑菌白血球と闘い破れた傷口から膿が吐き出される腐臭に群がる蝿の啄ばむ肉にこびりついた毛細血管って、手、てっきり起き上がるものだと思ったから。捉えられないけれど自分の魂が二センチほど肉体からずれているのがわかる。手を伸ばす、手を伸ばす、背が伸びた足が痛い目の血だまり固まってほくろみたいだね。それでも届かないあばら骨、えら呼吸するくらいにまでキリキリで、膨らんでるのかそれとも被災しているのか、誰か起こせよ、「朝だよ」と言えよ。むちちちち憤怒ぼあらぶらーおぶらびえー。あびらぶれー。
並木道を自転車で駆けていると、頭上を、ワシャワシャ鳴く蝉が次々と木から飛び立っていった。小便をまき散らしながら。全てかわしたつもりだったけれど、ズボンの膝が濡れていた。
翌日同じ道を通ると、今度は蝉の死体がいくつもいくつも転がっていた。昨日はしゃぎ過ぎたせいで、命を縮めたのだろうか。同じ蝉とは限らないのに、そう思った。頭上では生き残りがまだワシャワシャと。地上では、もはや鳴けず、飛べず、小便も出来なくなったものがポツポツと。全てかわしたつもりだったけれど、パツンと一つ、蝉の潰れる音がした。
僕はまた君らを踏み潰したくはない。蝉よ、生きてる姿をまき散らせ。子供たちに狩猟の魂を呼び戻させろ。虫籠の中と土の上だけが君らの墓場だ。アスファルトの上に転がることはない。
(だけど夜中僕が家路に着く時、気付かぬままに、いくつもの蝉の死体を踏み潰しているのかもしれない)
気鬱の病で塞いでいると、猫が散歩の誘いに来た。
ぶらぶらと歩くうちに、花輪のある家の前を通った。霊柩車が出発した後、近所の女たちがわらわらと集い、鍋や椀を持ち寄って立ち働き出した。ビールケースを運んできた酒屋に、こっちに運んでおいてえ、と張りのある声がかかる。
「いいもんだろ」と猫が言った。
「ああ」と答えておいた。
なおもぶらぶらと歩くうちに、病院の前を通った。タクシーがとまり、若い男が凄い勢いで飛び出して私にぶつかった。
「すみません!」
男は転んだ私を引き起こし、口の中でもごもごと、もうすぐ生まれるって連絡がきたんです、と言い、言い終わらないうちにまた走っていった。
「いいもんだろ」と猫が言った。
「ああ」と答えておいた。
見上げれば青い空に、蜻蛉が二匹飛んでいる。
《ゆんゆん》
『ダメだってば。ちゃんと付けてよー』
「チッ、今度は中年夫婦の湿布の貼り合いかよ」
男は落胆し、すぐに周波数を切り替えた。
《ゆんゆんゆん》
『できちゃったらどうしよう…』
「ビフナイトでも付けとけよ。チョコくらい黙って喰え」
男は煙草を揉み消し、再度周波数を当てにいく。
「おーい!次はお前の番だぞぅ!おーい!」
詰所のドアをノックして青年団が急かす。
「はーい!いま行きますよぉ」
勢いよく出て行った男とすれ違い、青年団の二人は目を合わせた。
「アイツ、またやってたのか」
「だな。この無線、壊れてるのに」
「つーかコンセント差してないし」
「ハハハ!まぁ一杯やろうや」
男は鬼の面と藁の衣装を身につけて、暗がり中を宙に放られたトカゲのように駆け抜けて行った。
「わるいごはいねがぁぁっ!」
詰所では青年団の二人がすっかり出来上がっている。
「いま…なんか聞こえたよな?」
「…いや?なにも」
「気のせいかな…」
「だな。まぁもう一杯やろうや」
《ゆんゆんゆんゆん》
壊れた無線は次の生をキャッチしていた。
「最近息子が入院したのよねぇ」
そんなアナタに朗報です。当社の生命保険ならもう大丈夫。万一の時にもしっかり保障。
「でも、別に必要ないし」
いえいえ、この時代、何が起こるか分かりません。備えるに越したことはないですよ。
「でも、高いんじゃない」
なんと! 月々僅か九百円。一日あたり約30円です。
「じゃあ保障はどうなのよ」
一泊二日の入院からトータルにサポート致します。資料でしたらこちらをどうぞ。
「おいそこのお前、地獄まで来て勧誘するとはいい度胸だ」
人と、人の形をしたものとに、見境なく声をかける婆さんがいた。婆さんの9人の息子と、9人の娘と、9人の拾い子と、それらの子供、孫たちの名前を呼ぶのだが、もはや人の顔の区別のつかなくなった婆さんの呼ぶ名前は、誰一人正解に突き当たることはなかった。誰のものでもない名前を呼ぶ時もあり、その名前は、新しく生まれてくる婆さんの孫や曾孫に付けられた。
道端の地蔵に婆さんが声をかける時だけ、いつも亡くなった爺さんの名を呼んでいた。その中でも一番のお気に入りの地蔵の下で、冬の朝婆さんは冷たくなっていた。せっかくだからそこに埋めてやろうと穴を掘ると、昔の人骨が出て来た。それはひょっとしたら爺さんかもしれないし、あるいは婆さんに関わりのあった他の人かもしれない。または、昔ここらでは地蔵の下に死者を埋める風習があったのかもしれない。
ともあれ、婆さんの死後も生き続けるものらは、自分の足下に誰かが埋まっているような感覚をぬぐい切れないまま、それからを過ごした。やがて婆さんの子孫の誰かが、かつての婆さんと同じように、人と、人の形をしたものとに、見境なく声をかけるようになった。その頃には、かつて婆さんが埋められた地蔵がどこの地蔵であったか、覚えているものはいなかった。
サンキューベイベー!
熱を帯びて乾いた喉を絞ってもう一度叫んだけれど、掠れて歪んだ声は途中から裏返って、重く滞った空気に吸い込まれてしまう。天を仰いでへたばった俺の目の届く限り、メンバーも観客たちも、もう皆寝ちまったらしい。
楽譜はどこにいったんだろう。慌しいセットアップ、古代の水道に杭を打ち込んだ。構うもんか、維管束は過去の遺物、生きているのは皮と梢に過ぎない。そして世界は生者のものなのだ。噴き出す水を合図に果てしないライブは始まった。甘い痛みが胸郭を突き抜け、声は体の内から空間へ反響していった。一人また一人ユニゾンが力を増し、どれが俺の声だかわからなくなった。なんで音楽? もてたいからよ。そうだろ、至純の動機さ!
汗が飛び散り、水浴びをした。消えるものは失われ、残るものだけが歴史になる。あの瞬間の全ては楽譜には収まらない。噴水も今は勢いを失って黄色く粘りつき、眠り込んだ仲間を浸して滲んでいる。しどけなく脱ぎ捨てた衣もどこかに吹き払われ、潤んで水色に透き通っていた翼も褐色に古びている。さて、俺もひと眠りしよう。世界樹の枝を風が渡って木洩れ日が揺れ、葉ずれの音が遥か彼方へ誘っている。
深夜に訪ねてきたのは見知らぬ男だった。僕が扉を開けると、男は何も言わずにずかずかと玄関に入り込んだ。
「ちょっと、あなた誰ですか?」とっさに男を両手で押し留め、僕は聞く。
「俺はあんたの親父の友達だ」男の酒臭い息が僕の顔に吹きかかり、気持ちが悪い。
「父は今いませんが、どういったご用件で?」
「いない? って、ここにいるじゃねぇかよ」
いるはずがないということはわかっているのに、僕は内心ぎょっとした。それを抑え、「だから、いませんって」
「んなはずねぇだろ。今、俺はあんたの親父を連れて帰ってきてやったんだから」
「は? 父を?」
酔っ払ってて幻覚でも見てるのか。こうなったら父の友達という話も怪しい。僕はうなずいた。
「わかりましたから、とにかく、帰ってください」
「ほらよ。あんたの親父、確かに送り届けたぜ」
男は僕の手に箱を押し付けて去っていった。両手に乗るくらいの発泡スチロールの箱だ。『生物』と書いたシールが貼ってある。
僕は男を追いかけることも忘れ、慌てて箱の蓋を開く。ドライアイスの煙が流れ出す。丁寧にビニールに包まれているそれに、僕は見覚えがあった。
「きちんと埋めたはずなのに……父さん」
はたして自殺は罪か否かなどと思い悩んでいたがどうにもとろけるように暑いので考えることもやめてふて腐れていると「さあ見て行って生きが良いんだからホント」などとうるさいので薄目を開ける。すると「本場直送、死後半年ほやほやの生ける屍だよ」と陳腐な売り文句を吐くいかにも胡散臭い売人の猫背と通行人のさながら曲がった鼻を押さえながら肥え溜めのそばを遠巻きに通るの図が目に入った。
どの顔もみな貧乏臭い。無駄な努力さと腐る。
「下さいな」
再び目を閉じようとすると鈴が鳴るような肥えいや声が聞こえたので見ると程よく醗酵したよぉぐるとのように真っ白な肌に美しい容姿の品良く熟れた和服美人が立っていた。臭い立つような色香に心臓が高鳴ってるよどうやらお買い上げだ予期せぬ出来事に思わず肩がずるりと下がっちゃったね死んだ甲斐というか生まれた甲斐があったというもの。
毎度ありぃと売人が包むがちょっと待て。「天地無用」じゃねぇだろ張り紙はよ。
特にすることがなくて、怠い夏だった。
垂れ流していたテレビでは、ラーメン特集がやっていた。
好きだね、ラーメン。
なんて誰にともなく思ってみたりする。
ラーメンか。
腹が減ったな。
中身のない冷蔵庫を開いて、生ラーメン、とプリントされた袋を手に取った。
唐突に、生がそんなにえらいのか、と思った。
生ラーメンとか生ソバだとか、どうしてかメン類しか出てこないけれど、うちで炊いた米だって生米(なままい)だし、野菜いためだって生野菜いため、変だけど確かに生野菜いためなのだよな、それがフツウなのだよなと、立ったままひとりで考えをめぐらせていた。
あけっぱなしの冷蔵庫から、つめたいくうきがながれてきた。
つくえの上に置いたラーメンの袋を、しばらく見ていた。
これはほんとうに生といえるんだろうかとか考えていた。
ボーっとしていただけかもしれなかった。
そうやって見ていたら、袋のうえの生という字が、なぜか墓みたいに見えた。
外で、大勢のセミがやかましく鳴くのが聞こえた。
「なまら生麦生米生卵!」と生意気なナマケモノが生々しく訛りながら言った。
……特に意味はないようだ。
——生まれてから、一度として全力疾走を知らない。
男が目指すよう課せられたのは、ただ、100メートルを史上最も速く走ること。
ゆえに禁じられた全力疾走。それこそは、筋繊維を危険にさらし、体組織の寿命を削り取る。
許されるのは一度だけ、適切負荷と訓練仮想が彼の身体と精神を最高潮に仕立て上げたその時のみ。
21歳4ヵ月3日、正午。そして男は走り出す。足が踏みしめるのは鍛錬器具でなく路面、頬を流れるのはありのままの空気、軋む身体という情報でさえも真。
史上最速にして恐らく絶後、ゴールラインを駆け抜ける。
喉には血の匂が立つ。軽い嘔吐感。空が青い。どれも何故こんなにも鮮やかなのか。愛しい。愛しい。
全感覚器を開け広げ、男は連れられるまで味わっていた。
この錠剤のどちらかが「永遠の生を手に入れる薬」。どちらかが「ここで生を終わらせる薬」。
どちらも小さくて白い糖衣錠。丸くて頼りない錠剤。見た目で違いは判らない。
このどちらかを飲まなければならない。
悪化するとひどく苦しいという病気に侵されている。苦しみながらも生きるか、苦しむ前に死んでしまうか。
苦しいのは嫌だ、死ぬのは怖い。でも、このまま苦しんで死んでしまうのはもっと辛い。
目の前の白衣の老人はじっと私のほうを見つめながら「決められないかね」と言った。
責められたような急かされたような気がして慌てて「決めました」と言ってしまった。
錠剤を口に含み、白湯で流し込んだ。意識が遠くなっていった。
消え行く意識の中、老人の声が聞こえた。
どちらも同じ毒薬じゃよ。契約書どおり、君の遺産は全てわしの研究に使わせてもらうよ。
私は永遠にこの老人に憑いて呪い続けることに決めた。
タイニー、四列、同窓会。ちっちゃな彼女がビール飲んでる僕から数えて右に四列。せせえ。好きだったなあ、その八重歯。「生もう一丁」、ほっとけよ、ほや。僕の首はビールを飲む。ネクタイがジョッキに刺さってストローになって首の周りがアルコール、ヘイ!「砂肝あんまり焼けてないよ!」カシスオレンジ飲んで気取ってるなよ。両手でグラスを持つ真似は止めよ、それといちいち相槌打つな。思い出したー!
電車の中で定期券を落とした。拾おうとしたら周りにいたサラリーマン達が先に拾ってくれた。連携プレーで定期券をパスしあうサラリーマン達。電車から出られないじゃないですか。返してください。そのころ彼女は生徒会長をしていた。
首から噛みついたのが先ず。それから鎖骨に歯を当て、まま、ちろちろと。肩に差し掛かってからが中指の爪までを順々に。ふっ、と意もない笑みの様な悲鳴、悲鳴の様な笑み。じじ、と滲む滴玉の、鮮魚に差す醤油を匂わす豊饒、矛盾にも飴玉にも勝る甘美の情を満たす。
私は、女体といえば貴方のものにしか興味を抱かない。一途と呼ぶに聞こえは良いが、そんな易しいものでは無い。果たして目も呉れず、移り気の生じる胸も無く、寧ろ痛み焦がれるのは、ただ貴方のその、薄い胸にである。細い尻にである。以下連綿と述べるに限りの無い貴方の姿態にである。憐れ、と想う程に、阿呆の様に群がり戯れ、触れない処は無い。口づけない処は無い。
私は、ある種の変態であると想う。
臍を芯に、左へ渦を、緩急に描く。腹の満ち干に呼応し、指は潮を嗅ぐ。ぐるりと翻し、尻上の窪み、から背骨への一本道、指は外さない、蝶よりも芋虫。項を食む。折返し、復路。一本道は、帰りの方が長い。
今、貴方を引き裂き、外気に触れ湯気も立つ程に露な子宮を前に、私はうっとりと舌を溶かす。
土の色も植生もとりどりの、方形の大地が整列している。地平線の果てから果てまで。
星々の管理者たちが視察に訪れる。二万年の会期のあいだ、ぽつりぽつりと。森のごとき人、塔を孕む人、そして色のない虹の人も。
大地の色が区切れる境界のあたりでは、はじめて出会うけものたちが交配し、一代限りの微妙な生き物を、いろいろと生む。
常駐の園丁に娘があり、彼女は毎夜みる出口のない迷宮の夢を書き残す。娘はむすぼれた物語をひもとくように歪んだ歩廊を歩く。始まったときすでに終わっている物語たちを、うろうろと読む。果てしない彷徨の夢日記とともに、娘は成熟する。
ある夜、前触れもなく娘は迷宮を抜ける。突如開けた景色に抱き留められて、彼女は呆然と佇む。空から、付けられる前の名前たち。うつらうつらと雪のように漂い、娘は夜着の襟元をかき寄せる。
ひと区切りの大地のひと隅で、穏やかなけもの、風の中に娘の分子を嗅ぎあてる。瞳孔が、かっと開く。血液が狂おしく知覚器官に殺到する。毛が隣の毛を弾きながら逆立ち、うろたえた黒蚤たちが跳び散る。
けものは、声で虚空を、薙ぎ払うがごとく咆哮する。月がおののいて立ち止まるほどに。
そして走り出す。星に落ちて行く星のように。
またもや。
闇夜の虫たちが一斉に啼き止んだ。
風すら吹くことを忘れるこの瞬間が、なによりも怖い。
静寂。
怖さは血流に乗り、脳から頸動脈を経由して心臓を啼らす。トクンと一度啼らす。
その音がが気取られないように、わたしは息を詰めた。
なにに気取られてはならないのか?
静寂。
そう、静寂を壊してしまうことが怖い。
まるで心臓のように、肺が酸素を求める。
この闇夜も、おそらく息を詰めているに違いない。
音たちが出口を求める。
静寂。
気付くと息が啼り、肺に酸素が満ちていた。
遅れて啼きだした虫たちはまもなく死んでしまうだろう。
次の季節は、静寂を壊した間抜けな人間にだけ訪れるのだ。
風も戻って優しく啼る。
もうすぐ、夏が終わる。
これまでも牛は重力に縛られてこそ生きていられるのだと考えられてきたが、このたび牛自身の言葉によってそれが証明された。「現状こそが真実の私である。しかし逆に言えば今の私はただ真実の私であるだけであり生きているとは到底言い難い」牛は無重力状態でそう述べたのである。その直後、大気圏突入に失敗し、牛は炎上してしまう。
「それでわれわれはこうしてごちそうを食べられるというわけだ」
「肉汁がしたたっているね」
「感謝しなくちゃな」
「だれに感謝すればいいんだろう」
「重力と、大気に」
「生かろすはお日さまをめざしたから星になったんだって」
「牛は牲になるために生きているのさ」
「いただきます」
「いただきます」
彼がいなくなって3日が過ぎた。私はいつものように8時に起きて彼の存在を探す。
例えばベッドに残る温もりとか飲みかけのコーヒー、煙草の匂い。
彼はいない。そう思って、今日も一日が始まる。
窓を開けるとレースのカーテンが少し揺れた。今日は少し肌寒いなあ、そう思うと同時にくしゃみが出た。
彼がいなくなってから、彼を待つことだけが私の仕事になった。それは仕事であり私の生きているただひとつの理由なんだろうと思う。
炭酸の抜けたコーラを一気に飲み干す。カーテンが揺れて私の髪がゆっくりなびいた。ただそれだけ。ただそれだけのこと。
我が家には、無駄に殺生好きな子がおります。
あまりにも異常なものですから、
母と二人でひた隠しに育ててまいりました。
そして私は、小さな生命が好きなものですから、
犬や猫、金魚などさまざまな物を飼っておりました。
けれどもどれも皆、その子に殺されてしまうのです。
そんな中、やっと私が隠し通してきた
ハムスター(メス)が子供を出生しました。
その子らの父親は、当の昔に我が家の子の餌食になっておりました。
我が家の父親と同じように、まっぷたつな最後でした。
さて、その子らがだいぶ成長したときに気づきましたが、
死んでしまったハムスター(オス)にそっくりな
——それこそ、ブチ模様まで一緒な——
ハムスターがいたのです。
そう、それは転生というものでしょうか。
まったくもって瓜二つな子でした。
あまりにも似ているものですから
死んだハムスターが好きだった生クリームを与えてみたところ、
やはりやたら好んで食べるのです。
私は嬉しくなり、やたら厳重にその子らを育てました。
しかし、やはり父親と同じ運命をたどって
行かなくてはなりません。今、私の手の中でその子は
その結末を待ち受けているのです。
周りには知ってる人知らない人がずらりと並んでベッドに横たわる僕をじっと見つめている。みんなの瞳の奥に宿る闇の濃さで僕は自分がもうすぐ死んでしまうことを悟る。
だから僕は最後に一つだけわがままを言うことにしたんだ。
「お魚……食べたい……」
それを聞いた母さんは病室を飛び出していった。誰も何も言わない。時が静かにすぎる。
その時。
突然バーンと派手な音を立てて母さんがドアを蹴り破った。
「お魚持ってきたわよー」
そう言う母さんの両手には抱えきれないほど巨大なマグロ! びちびちと波打つマグロ!
「さあお食べなさい」
でーんと差し出されたまだ生きているマグロ!
どうせ死ぬんだと僕は力を振り絞って思い切り噛みついた。中トロ大トロが溶けて僕の体を満たす。吹き出る血をごくりと飲み骨をバリバリと噛み砕いて僕は猛烈な勢いでマグロまるまる一匹を食べきり、勢いよく立ち上がると母さんに抱きついた。
医者が「奇跡だ」と呟く。みんなみんな号泣している。
そして僕たちは声を合わせて叫んだ。
マグロ! マグロ! マグロ!
透明なガラス瓶の中で、一匹の蛍が黄緑色の目映い光を放っている。少年はしばらくそれを不思議そうに見つめた後、瓶の中から蛍を取り出し、その柔らかな腹を無邪気に引きちぎった。——ブチッ。でもそこにお星様はなかった。二つにちぎれた蛍の残骸は、醜く黒ずみ光らない。どうして、ねえどうして。少年はなんだか恐くなって泣いた。世界から消えた一つの小さな光は、しかし少年の中に何かを残した。
「こういう道筋。ほら。(と、線をぴっぴっと引いて、地図を描く)」
「んー。この突き当たりって肉屋さん?(と地図の道筋の、「牛」の字で言うと二画目の終端を指す)」
「いや、肉屋こっち。この上んとこからずーっと来るとね、ふたつの十字路とひとつのT字路があるでしょ。その、ふたつめの十字路を曲がらなくっちゃ。(「牛」三画目の終端を指す)」
「そっか、こっちか。(続けて、「土」の字で言うと最後の画を指で擦って)ここらへん、お墓だっけ?」
「うん、墓地。そう。(それから「ノ」の字のところを指して)で、ここはね、ほら、池のふちに出る小道。知ってるでしょ。釣り人たちが並んで竿突き出してる。春になると、鮒のノッコミだとか言ってさ」
「あー。ところで、私の質問、まだ覚えてる?」
「や。ごめん。病院か。えーと、病院。(と地図をひととおり、ペンでなぞって思い
出しながら)そう、間違いない、ここだよ、ここ。(と、示してから、顔を上げて)しかし病院て。お前、どっか悪いわけ?」
「あ、いや。私ね。あの。(急に真顔になって)カムアウトします。赤ちゃんができたみたいなの」
(ふたり見つめ合って沈黙。やがて男が涙ぐんで鼻をすすりはじめる)