500文字の心臓

トップ > タイトル競作 > 作品一覧 > 第58回:富士山


短さは蝶だ。短さは未来だ。

別に、自殺つもりはなかったのだけれど、樹海に迷い込んでしまった。いや、迷い込んだ、というのは正確ではない。好奇心で自ら足を踏み入れたのだから。結果、迷ってしまったわけだが。
今日で4日目。ミルクキャンディで生きている。ずっとそれで凌げる筈はないので出られなければいつか死んでしまうのだろうが、ここは居心地の悪い場所ではない。暗く湿った空気は私に似合っている。と、思う。
立ち止まってミルクキャンディをひとつ。気付けば水色のワンピースの裾は何ヶ所か裂けて、泥が跳ねて茶色く染みが付いている。可笑しくなって大声で笑うと、私が世界の中心になっている錯覚に陥った。すっかり気分が良くなった私はドナドナを歌って歩き続ける。
世界の中心で、大声で、ドナドナを。死ぬまで。
例え、此処から出られたとしても。



 静岡出身で無駄に背が高いので、彼はクラスメイト達から「富士山」と呼ばれ揶揄されていた。いかにも即物的な渾名であったが、彼は確かに背丈のみならず富士山のように寡黙で穏やかで、どれだけ馬鹿にされても動じないという、ある種の器量の大きさを備えていた。その為、彼らは何かにつけて彼を嘲笑し、八つ当たりをし、ストレス発散の玩具にしていた。それでも彼は何も言わなかった。
 ところが、事件は唐突に起きた。それは燦々と太陽の照りつける夏の午後、ちょうど水泳の授業の時だった。プールの水面に映る彼を指差し「逆さ富士」とケタケタ嗤った奴がいたのだが、なぜかこれに彼が激昂した。これまで散々罵倒されても動じなかったはずの彼であったが、この日この時、彼の中で何かが弾けたらしい。 
 彼は額に一瞬、大沢崩れのような皺を走らせたかと思うと、猛烈な勢いでそいつを押し倒し、そのまま馬乗りになって顔面を拳で殴打し続けた。突然の出来事と恐怖に、呆然と立ち竦むクラスメイト達。そして担任の教師が慌てて止めに入った時、彼は全身を返り血で真っ赤に濡らしていた。真夏の光線に反射し鋭く光るそれは、彼らに熱いマグマを思わせた。
 ——富士山噴火事件。この話は後に都市伝説化したとかしないとか。



 とおくとおく旅してきて違う空気違う空の色違う木々違う草花違う土の色違う装束違う言葉違う歌声違う肌の色の真っ只中にどっぷり浸かり故郷を失くした空虚と身軽さを味わおうとしているのにいつでもどこにいても視界の端っこに映るあの山が僕をそうさせない。
 僕は僕のことを嫌いな僕のことをたぶん嫌いなんだと思う。



 花を摘む。
 薄い花弁が細い指先で揺れる。咲きつづける儚い花はあしたになれば散ってしまうから。花は摘まれるために首をさしのべている。
 たなびく春霞。遠近に鈍い響き。
 行軍する足音が近づいてくる。少女はふりむかない。靴音はそのまま遠ざかっていく。また、別の方角から足音。くりかえしくりかえし。来ては去る。この山は兵士でいっぱいだからと名づけられた山。峰も谷も軍靴の音で満ちている。けれど山の主は兵士ではない。
 少女はふりむかない。
 少女はひとの悲しみや苦しみには目もくれない。ただ、あしたになれば散ってしまうから。花弁の薄い花を一心に摘んでいる。
 遠近に鈍い響き。



 晴れている日には車窓から、ほんの上の部分だけ、おぼろに富士が見える。登ったことはない。実際は遠く離れた場所に私は住んでいるので。それでも気づけば奇妙な親近感を抱いているのは、日本人の心、霊峰富士と持て囃されるからか、いや、たんに通勤の朝に何度もそのおぼろな姿を見てきた所為か。たとえほんの上の部分だけでもその山色を喜ぶべきか。子供じみていると自嘲しながらも結局私は毎朝富士の臨める窓際を死守している。
 昨晩、妻と喧嘩になった。二十数年連れ添って初めての大きな諍いだった。とどまることを知らずに私を非難しつづける妻を、私は途中からただぼんやりと眺めていた。妻が私にこれほど激しく反撥したことはかつてなかった。
 なぜこんな危ういことになったのだろう、私は考える。車内は混雑している。人いきれにいらだつ。思わず舌を打つ。車窓から富士が覗く。今日は晴れだ。
 てっぺんだけのおぼろな富士。ふと、一度は夫婦であの富士に登っておこうと思い立つ。そうだ、登らなければならない。天命を得たように、私は何かを掴みかける。
 そして、電車は富士を通り過ぎる。



長い長い道のりだった。
這い登ってはすべり、這い登ってはすべり、ようやくてっぺんに着いたかと思ったら、ころころと穴の中に転がり落ちた。
あたりは真っ暗だ。きっとDarekaに会える。そう信じていたのに。
膝を抱えて待つ。頬杖をついて待つ。寝そべって待つ。
待って待って待って。そうしてまた待って二百年。
Darekaはまだ来ない。見上げればぽっかり青い空。
ため息をついたら、すぐに氷の粒となって僕の頬に落ちてきた。
神様はほんとに気まぐれだ。



 職場の同僚のコロボックルが、退職することを私に伝えに来てくれた。
 入社以来、本当にお世話になりました。
 私たちは会社の片隅で乾杯をした。牛乳をちびちびとやりながら、彼は晴ればれとした顔で笑った。
 いやね、ワタクシやっと見つけたんですよ。
「何をですか?」
 眠るために目を瞑るとね、瞼の内側に白い稜線が見えていたんです。子供の頃からずっと。その山をね、見つけました。
「山」
 ええ。この間あなたと行ったでしょう、出張。新幹線からね、もう窓いっぱいに。で、その時これはおぼし召しだろう、と。
「おぼし召し」
 きっと、あそこで誰かが僕を待っているんです。
 彼のちいさな足音が遠ざかっていった。私は目を閉じて、それを聞いていた。
 瞼のうらに、私にも見えた。でもそれは彼のくちびるを湿らせていた、牛乳の靄でしかなかった。



どっかんどっかんどっかーん
どっかんどっかんどっかーん
どっかんどっかんどっかーん

いつも綺麗だからって
ずっと静かだからって
たまには怒っていいじゃない!

どっかんどっかんどっかーん



 朝からカップラーメンというのは、どうだろう。
 戸棚をあさると、古いコーンフレークが出てきた。
 一つまみ、口に入れる。湿気ていた。牛乳もろとも、皿にぶち込む。
 そういえば昔は、コーンフレークに夢を見ていた。家のご飯は、いつも和食だったから。
 今じゃ、惰性の非常食だ。
 牛乳をすすりながら、汚れた服を蹴って窓への道を開く。
 外はよく晴れていて、遠くの山がはっきりと見えた。
 お皿に乗っけたプリンみたいな、そんな形を、まだ、していた。
 そういえば昔は、本気だった。周りの大人の言うことなんか、ちっとも聞きやしなかった。
 ハンバーガーを食べながら、あいつと二人、夢を叶えに行くはずだった。
 あいつのアトピーは、どうなったのだろうか。
 そういえば昔は。

 富士山はどこかに行ってしまって、きっともう、帰ってこない。



 波の音しか聞こえない。
 そこにはただ空と海しかなくて、あとは私たちふたりだけ。
 さっきまでの景色は、一瞬で足もとに沈んでしまった。
 この国の一番高いところで、私たちは見ているしかなかった。
 いつの間にか触れていた左手が、酷く温かかった。
 空と海はどこまでも続いていた。
 どこまでも蒼くて、どこまでも碧かった。



 百人でおにぎりをつくっていると、日本一高いところから彼女がまた声をかけてきた。退屈だからそろそろ噴火しようかとぼやくのだ。
「これから百人でピクニックというのにそれは困る」
 と返すと、彼女はますます不機嫌になり、熱いものをぺっと吐いてよこした。大きなビルがみるみる溶けた。まわりは動揺し、あれをなだめるのは幹事のつとめだ、とぼくを責め立てる。その間にも白米はどんどん炊きあがる。めしを握る手にも力がはいり、やがてあたり一帯は、ほかほかのおにぎりで埋めつくされた。
 彼女はものうげな流し目で問いかける。
「いま噴火したら焼きおにぎりになるかしら?」
「そうだね、一瞬ね」
「——ダイアモンドにならないかしら?」
「それはきみの加減次第だよ。だけど、チャンスは一度きりだ」
「そっか、不器用なのに」
 ややあって、彼女は噴火を断念し、また千年の美しい歌をうたった。それを聞きながら着々とピクニックの準備をする。千年後の幹事よ、もうおにぎりは使えないぞ、心したまえ。



 カウボーイにくちづけられてサムライは爪先から頭頂まで桜色に染まる。くちづけたままシンボルに触れられると逞しい左腕に抱かれた背筋を電流が走った。今や真夏のごとく熱い身体のほぼ中央に位置するシンボルはもともと最も突起した場所であるが毛深い右手の愛撫を受けてますます隆起したように感じられる。カウボーイは粘っこい唇をようやく離したかと思うや否や今度はサムライのシンボルにくちづける。先端に開いた穴を舌先で刺激されサムライは身をよじって喘ぐがとうとう耐えきれずどろどろとした液体を噴出させる。全身が震えた。季節外れの大雪に見舞われたみたいに一瞬頭が真っ白になる。カウボーイが囁く。いい加減おれのものになったらどうだ。まだ熱の冷めないふとももを撫でられながらサムライはただ曖昧に微笑む。ちっ。カウボーイは舌打ちすると罵りの言葉を吐き散らしいくばくかの富をサムライから乱暴に奪って勇ましい態度で立ち去った。もはやシンボルは初冠雪に凍えるように縮んで見えサムライの心を木枯らしが吹きぬける。



実は全部ベニヤ板のハリボテだったらザマミロと思えるのに。

ちくしょう。



 気付いている人はあまりおりませんが、実は大きな漏斗なのです。
 閻魔様がこぽこぽ注いだ魂が、透明になって空の向こうへぽとぽと滴り落ちていきます。



——この戦いが終ったらと考えたのは一瞬だありえない樹海は燃えつき代りに植えた桜の木々が満開となり散り落ちた花びらが渦を巻いて我らの頭上に降りかかろうとも戦争は終らない今ここで死なずば以降延々とその不快な事実を生き続けることになる
——御免だ
絶え間なく崩れる砂でできた円錐形のずり落ち地獄急斜面を登りつめる為の幸運の種が我々には欠けているそれは生まれながらに臍の中に備わっているものだ持たざるものは待たざるままにサラリーマン兵太郎トリガを引くと超高速振動して襲いくる銃弾を悉く切り裂く刀身銃を振りかざしゴミ同然投げ出された死体を跨いで幸福の幻影に白く輝く雪の頂き曙の色に染まる山肌も今朝限りだ友よさらば
——突撃!
機銃掃射ダダダダダダッ
脱兎
のごとく逃げ
遅れ
倒れた同僚を置き去りにして
敵も味方も同じどちらも傾斜を育む戦争の惨禍が日々の糧
避け損ねた銃弾が頭頂部に狂気の穴を穿つ
魂はそんなものかと自分が死ぬのを見ていたが爆風が踊らす腸がまだ体と繋がっているのに砂だらけの地面に内容物を撒き散らしているのがなんとなく少し嫌だった
紙飛行機の美しい稜線脆い足場に立って敵の前線を鼓舞するバトンガール
救いを求める視線に晒されつついつも露な彼女たちの脚に微細な残骸が落ちて貼りつく音もなく



あたまを海の上に出し四方の浜を見下ろして海鳴り様を下に聞く富士は日本唯一の山
文部科学省唱歌(2042年)



「つぅかぁれぇたぁあ」
「うるさいわね、もうすぐよ」
「まだぁ?」
「もうすぐ」
「ユキちゃん、七時三十八分だよ。あと八分」
「ふぅん。でもぉ、ぜんぜんみえないぃ」
「見えなくてもちゃんと近付いてるの」
「ぜんもんどぉはんたぁい」
「あ、サキちゃん寝ちゃってる」
「ねたらしぬぞぉ」
「あははは」
「構わないの。もう。あんたたちも寝てよ」
「もぉすぐつくのにぃ?」
「あ、あっちの窓だ。見える!」
「わぁ……。でもぉ、なんでのぼるのぉ?」
「どっか行きたいって言ったのあんたじゃないの」
「やまのぼりしたいってはいってないけどぉ」
「日本一の山に登らせてやろうって親心よ」
「どうしてお父さんは来ないの?」
「お父さんは、登った事あるのよ」
「いつぅ? だれとぉ?」
「帰ってからお父さんに聞きなさい。ほら次降りるよ。バスの時間があるんだからさっさとして。サキも起きて」
「ううーん、着いたぁ?」
「もう着くから。ほらユキも荷物」
「はぁあ。つぅかぁれぇたぁあ」
「あんた、それしか言えないの」
「ねぇえ、なんでのぼるのぉ?」
「あはは。どうせ降りるのにね」
「あんたたちを黙らせるためよ」
「うぅわわ、はんざいはんたぁい」
「あ、サキちゃんまた寝てる」



「いいんッスか? 燃やしちゃって」
「帝に意見してんじゃねぇーよ。いいから燃やせ」
 男の嗜みで三十一文字綴ったものの、帝に涙は似合わねぇつーか、女に捨てられっぱじゃ帝の名が廃るつーか。いや、泣いたことは泣きましたけど。認めますよ。だって、あんないい女、それこそ月まで行かなきゃいねぇわけだし。かといって未練タラタラじゃ、下々に示しつかねぇし、そもそも生きる意味ねぇし。だったら、燃やしちまえ! と。
「帝ぉ〜、火ぃなかなか消えないッスねぇ」
「だから燃やしたんだっつーの」
 なんのために駿河くんだりまで来て、クソ高ぇ山登ったと思ってんだ? 百年だって千年だって万年だって燃え続けなきゃ、意味ねぇだろうが。
「って、やっぱ未練タラタラか? 俺」
 悔しいけど、お前のいる月は一段と綺麗だ。



 一見なだらかな山容に、何万人の素人が騙されただろうか。
 日本最高峰の正体が見えたのは、八合目辺りだった。酷使した足は石になり、携帯酸素を使っても呼吸が苦しい。それにこの寒さだ。さっさと五合目の愛車に引き返したかったが、小学生がヘッドランプを揺らし身軽に登って行くのを見ると、無性に悔しくなった。残り僅かじゃないか。
 御来光を目指す人の列が、重い足取りで礫を踏み鳴らし目の前を通り過ぎる。交錯する光の中に埃が舞って、山は今でも噴煙を上げているようだ。
「お疲れですね」
「はぁ、甘く考えていました」
 背後からの呼びかけに振り向いたものの、電池のへたりかけたライトでは声の主は捉えられなかった。
「これをどうぞ」
 闇からぐいと突き出されたのは、煤けた小さな壷だった。何をくべたのか、柔らかい香りの煙が薄く立ち上っている。一嗅ぎすると、体がふっと軽くなった。
「香とは、また古風な」
「いえ、これは不死の薬のなれの果てでして」
 笑いを含んだ声が答える。
「流石は天の妙薬、千年焼いてもこの有様で。業落しに、こうして人助けに使っているのです」
 言うが早いか、気配は風と消えた。下りもお願いします。そう頼む間もなかった。



『どれくらい時は過ぎ・・・東京灯台の灯りを背に・・・鳥が、帰ってこない(未訳含む)』
 蒸気船・幻想汽号の航海日誌の一部を写したメモを頼りに、俺はこの樹海まで辿り着いた。
「それで、十日分のサバイバルキットを詰めたフル装備を背負い、黄金の碇を探しに来たんだ」 森の中で出会ったのは、白い水兵服を着てラッパ銃を構えた少女だった。左手のフレミング・ガンを向ける暇もなく、両手を挙げて降参するしかなかった。「何ですか、オマエは?」という問いに答え、
 突きつけられた銃口を避けようとした時、少女は翡翠色の瞳を細めて耳を尖らせた。
 一瞬。
 俺が銃身を掴むのと少女が引き金を引くのは、同時だった。空気が爆ぜる。散弾がわき腹を掠めた。少女は後ろにステップ、ふわりと空へ舞い上がる。「飛んだ!」
「飛ぶ? ココはドコです?」
 樹海。
 言葉は泡になって消えた。潮水が口の中に浸入してきた。空中に漂う船影に「浮上」していく水兵服が見えた。
 ぶく。さようなら、水兵のリーベ。彷徨いつづける原子の方舟を守り、安住の地を探しているんだろ。
 俺も耳を澄ませた。あのオウムの鳴き声は幻なんかじゃないと思う。ぶくぶく。



彼女はいまでも若くきれいだ。ずっと崩れつづけているから。



 世界一になりたかった男がいた。成長するに従って「世界タイ記録でいい」「日本一でもいいかな」「なんなら日本タイでも」とその夢はだんだん小さくなっていったが、思いはずっと胸に秘めていた。さくらんぼの種飛ばしなんていう謎の競技にも挑戦した。
 富士山登山を思い立ったのは会社の同僚から「日本一の山に登ったぞ」と聞かされたから。身近な所にあるじゃないか。彼はいそいそと登山の計画をたてた。日程も決めた。
「よし、今度の土曜だ」
 当日はひどい霧だった。僅かな先も白くて見えない。しかし彼は止めようとしなかった。足元は火山灰なのか、もろくて歩きづらい。服はじっとりと重く湿っていく。けれども彼は登山道のロープだけを頼りに少しずつ少しずつ登っていった。初めての登山だった。
 どれくらいかかっただろうか。登山道が終わった時、彼は幸せだった。間違いなく日本一、いや世界一の幸せを感じている。達成感で目頭がじわっと熱くなった。彼は感動している。まだ後ろの看板——ようこそ双子山へ——は見えていない。



 「これからは、でっかい世界に眼を向けるんだ」
 それが父の口癖だった。物心ついたころから、幾度聞かされたか知れない。
だが父は毎度、今初めて口にする言葉のように眼を輝かせて語るのだ。
「日本は狭い。そんな中で満足してるようじゃだめだぞ」
 それから僕の頭をぐりぐりとかいぐる。その大きな手からは、いつも日なたの土の匂いがしていた。

 あれから40年。思えばずいぶん遠くまで来たものだ。
担いできたモッコを下ろし、すっかり固くなった肩をまわした。
今日は久々の晴天だ。眼下をのぞめば、流れる白雲の狭間に下界が青くかすんでいる。
刺すような風さえも、陽ざしの中では心地よい。
——見えるかい、父さん
 すでに亡い父に、僕は心の中で呼びかける。
——もう少しだよ
 あと1cm土を盛れば、富士山の標高はチョモランマに並ぶ。世界を制する日は、もう目前だ。



彼は、銭湯のペンキ絵に生涯をささげた。
実に2000余にのぼる富士山を、北海道から九州にいたる湯船の上に描いてきた。
中でも、朝焼けの富士山は、彼の代名詞でもあった。
いや、もちろん、知っている人など極わずか。
銭湯のオヤジたちと、職人仲間だけである。
が、その筋では一頭抜きん出たものがあると、誰もが認めていたのだ。
そんな彼の夢は、沖縄の銭湯に富士山の絵を描くことだった。
沖縄には銭湯自体が極端に少なく、富士山の絵が描かれているものは一つもないと聞いたからだった。
しかし、そんな彼の夢もかなわぬままに終わってしまった。
仕事で乞われて、銭湯から銭湯へ旅を続ける彼には、夢を実現する手立てなど、あるはずもなかったからだ。
けれど、それで良かったのかもしれないと、私は思う。
遠く富士山を望むこの丘で、五月の風にただ吹かれている彼の墓石に臨んで、頑固者の父のペンキに汚れた作業着姿を思い出しながらただ何故もなく私はそう思ったのだ。



「だから?」

遠くから見るだけの山
この国の一番だといわれても
だからなんだというのだろう
雪に覆われて
ゴミに覆われて
やまがいなくなったら
何ができるだろう
やまがいるから
何ができるだろう
私にはいまのところ何の影響も及ぼしていない
ただのこの国の一番高いだけの山



 自ら欲し不治の病を患った男の体は不死の様にて、干枯かびた腕を振り上げ振り下ろしただ黙々と、ただ黙々と手に握った石を火口に打ち突け続ける。



 かぐや姫が月へ帰る際、餞別に帝に渡したのが不死の秘薬。帝がその薬を焼き葬ったのが不死山、つまりはそれがこの富士山だという。愛する姫のいない地で、不死の命を持つ意味を見失った彼は一人、緩やかな死を選んだ。つまり、彼は聞かなかったのだ、その贈り物にこめられたかぐや姫のメッセージを。不死の身になり、いつの日か月へ辿り着く道を開いて、わが身の元へ来て欲しいという彼女の言葉を。あるいは彼はその意味を察したのかもしれない。けれども彼は帝。己の身は自分一人の物ではない。臣民のものだ。ゆえに気ままに地を離れることはできぬと。それならば、その中間の選択をすることもできたはず。永遠の命を持ってまず人の一生分は民のために働き、その後文字通り『お隠れに』なって、月を目指せばいい。それでは政務が手につかず中途半端になるとでも思ったか。いや、やはり彼の目は塞がれていたのだ。悲しみの雲によって。悲しみはどんな賢者も赤子同然にしてしまう。赤子は運命に簡単に玩ばれ、右にも左にも運ばれるままだ。
それじゃ、あたしはどう? あたしは、悲しみに曇らされて分別を失ったりはしない。自分の運命ぐらい、自分で切り開いて見せる。とりあえず、この広大な樹海に、あたしの愛を土足と冷笑で踏みにじった、この憎い男の死体を埋めてから。



 桜の木の下には死体が埋まっている。
 あの家の下にも死体が埋まっている。
 あの娘の腹にも死体が埋まっている。
 春日部の街にも死体が埋まっている。
 富士山の下にも死体が埋まっている。
 富士山の中にも死体が埋まっている。
 富士山の上には天国が広がっている。



イマリタツコ(仮称)からの相談

いきなりこのような相談をお送りすることをまずお詫びいたします。この事について、だれに、どのように相談してよいのか、私自身よくわかりません。とてもプライベートな内容ですし、なにより恥ずかしいのです。そちらにとって見当違いな内容でしたら、無視して、すぐ忘れてください。
しかし、私は困っています。これだけは確かです。

一昨日、あの暑くて寝苦しい夜です。私は胸の辺りに違和感を感じて夜中に目を覚ましました。
どうにも胸が重いのです。私は鏡に映った姿に驚きました。胸が、乳房が富士山になっていたのです。
裾からすーっと頂上に伸びるラインはに富士山としても、胸としても理想的な形に思いました。頂上付近の雪が丁度、乳輪のように見えました。

あなたもご存知とは思いますが、私は胸があるほうではありません。確かに、もう少し欲しいと思ったことがないと言えば嘘になります。そういったマッサージなどもした事がありますし、食事に気を遣った時期もありました。
しかし、いきなり日本一になることは望んでいませんでした。

重ね重ね、いきなりこのような相談することをお詫びいたします。しかし、私は困っています。



 地に落ちた月光が家の小さな庭を優しく照らしている。
夜空に空いた黄金湖は眼球より丸く、暗闇で輝る瞳孔のように黒夜の中で一段と美しく光を蓄えている。
この完璧といえる光景に——いや、一つ望むることがあるとすれば、——それは富士。
饅頭のような月の下に絢爛と聳える富士を一つ。あとは何もいらない。

 無いならつくろうと庭の土を集めた。まもなく庭に小さな山ができた。
庭の土はなくなったのでそばにあった団子を乗せた。まだまだ木にも届かない。
ばれないように少しずつ近くの山から土を拝借。ちょっと離れて二つを臨むが月と富士には程遠い。
街のビルディングからコンクリートをもぎ取って山の上にぺたぺた乗せる。ついでに鉄工も頂こう。格好良くなってきた。
ゴミを拾ってそれも積んだ。においがするので鼻栓を買った。
富士山まであと少し。
いろんな人から愛を失敬。箱に入れて山に撒いた。
消しゴムのカス。失敗したCD-R。キューピーのマヨネーズ。髪の毛。
髪は周りに落ちて樹海を作った。山はどんどん高くなっていく。
世界中の海老。売れない作家。。。
もう積むものがない。
私は自分を土に混ぜると山のてっぺんに放り投げた。

饅頭のような月の下に絢爛と聳える富士が一つ。それだけでいい。



17才の時、富士に登った。学校を休んで、観光シーズンを避けて一人で登った。
頂上に着いたのは真夜中だった。朝を待つつもりでいた。日本一の頂でたった一人で夜を過ごすのは、おそろしく素敵だ。そう思いながらしゃがみ込み、近すぎる夜空を眺めていると
「あーん」
としわがれた声が聞こえた。
「あーん」
また声がする。私は懐中電灯を片手に声のする方へ向かった。
「あの、何しているんですか?」
「おや! 見つかってしまったねぇ」
こちらに振り向いた顔はしわくちゃに笑っていた。こんなに腰の曲がった老婆が、どうやって富士山頂まで登ってきたのだろう。
「食いしん坊なのよ、この子は」
老婆は、火口に人参を投げ込んだ。
「富士山が、食いしん坊……」
「そうだよ、ほかに誰がいる?」
と言いながら、今度はじゃがいもを投げている。
「ぼくも、なにかあげてもいいですか」
「あぁ、いいとも。喜ぶよ」
私はポケットに入れてあったチョコレートを一粒、火口に向けて投げた。
富士山が言った「おいしい」という声は、四十年経った今も鮮明に覚えている。



 彼は頑としてけれども迷う事がない。この国の頂に在って、常に悠々と裾を見下ろすばかり。たしなむ化粧も嫌みなく、美しいと却ってうっとりの眼差しを注がれる。やれやれ、迷うはむしろ下々か。彼の魔性に前後不覚か。何とはなしムカっ腹立ったのが、そもそもの発端さ。
 企みを胸に、踏み入り、ケム吐く。なにしろ彼を見ていて思う。構えすぎだ、ちったぁハジケろ。本当は青いんだろ。エクスプロージョン! ウタわせてやる、フーヂークーチーマウンテン。
 足下にて密かに展開中。点火? そう、裾からね。細工に手間はかからない。足があれば足りるってなもん、たららん、ピクニック気分、で仕掛けをパッパ、ロクヨンブギ。違った、ハチロク四十八歩ごとに弾を仕込んで登る。ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ。
 酸欠でハイ。
 雲のウエー。
 仕上げはダイビング。
(死にタッタカタ

 あとは時を待つ。果たして彼も誰も皆、わなわな青ざめ震えるだろう。いつ? さあ、それは言えない。

 一つだけ教えよう。事の合図は、サヨウナラと雉が鳴く。それまでせいぜい見てろ。つまり、これがテロリズムってなこったらららんらったった)



 日本人の祖先については諸説あるが、真実はおっぱい星からきた宇宙人なのであった。
 彼らは地球に降り立つや、失意のどん底に突き落とされた。その場で膝を折り、涙はらはら、地面に染みをつくってしまうほどに。
 心がポッキリと音をたてたのもむべなるかな。安住の地を求めて辿りついたのに、緑の星にはおっぱいが存在しなかったのだ。
 だが、彼らのおっぱいスピリットには、不屈の精神が宿っていた。おっぱい製造機ともいうべき、ミラクル装置を造ったのである。
 装置からのびる砲身が地面にむいた。シビビビビと、不思議光線が照射される。命中した箇所が隆起し、あれよあれよと、見上げるほどのおっぱいが完成した。
 ぷるるんと震えた副作用によって、でっかいトカゲが絶滅したが、随喜の涙を流すおっぱい星人にとって、そんなことは些事だった。
 あれから何万年たったのか。異星人たちは、みずからの出自を忘れてしまった。巨大おっぱいも、外装保持機構の不具合でスリープ状態となり、基礎部分がむき出しとなった。
 たったいま、霊峰富士がぷるるんおっぱいと化したのは、だから、長い長い眠りから覚めただけなのだった。



世間に嫌気がさして部屋に飾った某バーチャルアイドルの水着ポスターの中に引きこもった。ビキニ姿がまぶしかったが平面なので見えない。かわりに自分の部屋が平面に見える。こりゃ面白いと横に動くと自宅の居間。壁の花瓶の絵に移ったに違いない。商店街の壁画に公民館前の掲示板目線と続いた後、ちゃぽりかぽーん。こもった響き。裸美女?裸少女の群れがべべんと目の前に。おっと委員長の姿も。真正面じゃふくよかさが分からんともがいているとばしゃーん!
「きゃああああ」
ぱしーんと振り向いた先に雄々しい姿。心も晴れ晴れ。



ふじさん、といわれるときあたしは妙で奇妙なこだわりを持っていた。ふじとは誰なのだと。
さんというからには、その前に人の名前が来るはずである。とすれば、ふじは人の名前であるはずだ。
ちょっと勉強して、それが富士という山の名だと聞いてもあたしは信じられなかった。
ふじやまという読み方があるではないかと。
これを悩んでいるうちに、あたしの周囲は色々大変なことになってきた。
なんかあたしが目の前を通り過ぎても空つぽの目で見られるようになってきた。
あたしは悲しくて泣いた。泪を拭いて、霞む目でふじという人を探しに出かけようと決めた。
そっと家を出た。



あの山は、人を喰らう。そう過去から呼ぶ声が在る。あの山の周りに広がる緑には白い骨がごろごろと転がっているのもそのせいだという。どこからともなく人々は現れ、まるで彼方に広がる青い、あの山を望みながらいつ帰還できるともしれぬ山の奥へと入っていく。そうして、山に喰われるのだ。あの山は人々の魔を吸い取り、自らの魔としているのだ。だから我々は、いつもあの山に心の奥のほうを蝕まれている。もうその時点で精神の奥底を喰われているのだ。最近では、なんと嘆かわしいことか、あの山に魅せられたのはこの島に閉じ込められ、生贄となるべくして留まった我々のみならず、わざわざ安全圏のはずの他国から喰われにやってくるものどももいる始末。ましてや、この山を世界の遺産などにしようという言語道断の輩もぽつぽつと出始めた。それはどんな手段であろうと阻止せねばならない。断じて。そのため我々はこの山を抑えるが為、ここに人の力の象徴である、合成物、廃棄物を置くのだ。それはこの山の怒りを我々の力で静めるのではなく、鎮めることを目的としている。だから—— 何が悪い?